第1章 年〜年

東宝:小林一三氏の東京宝塚劇場と東宝映画合併による東宝の発足

1932年〜丸ノ内で創立した東京宝塚劇場と、日比谷に並べた劇場街

1932年8月、小林一三氏は丸ノ内の中央電気倶楽部で株式会社東京宝塚劇場の創立総会を開催し、初代社長に就任した。資本金は170万円で、宝塚歌劇の東京公演を常設の舞台で打つことが設立の狙いだった。宝塚少女歌劇は1928年から歌舞伎座や新橋演舞場で東京公演を重ねたが、一等の観覧料は4円50銭と3円に上っていた。他人の劇場を借りる限り、料金を思うように下げられなかった。小林一三氏は日比谷公園前の東電の所有地1,200坪を取得し、3,000人規模の劇場なら一等2円・二等1円・三等50銭でも採算が合うと見込んだ。設立趣意書には『東京に大劇場を作って、安く、面白く、家庭本位に、清い、朗らかな演劇をご覧に入れたい』という一文を掲げた。料金を決める主導権を得るには、劇場を自社で所有するほかなかったのだろう。

  • 東宝三十年史(1963)「東宝株式会社々史」
    • [1]1932年8月に中央電気倶楽部で創立総会、小林一三が初代社長。目的は東京宝塚劇場の建設と大劇場による国民劇の育成。歌舞伎座4円50銭・新橋演舞場3円の観覧料は高すぎた。東電所有地1
    • [3]1932年8月に中央電気倶楽部で創立総会、小林一三が初代社長。目的は東京宝塚劇場の建設と大劇場による国民劇の育成。歌舞伎座4円50銭・新橋演舞場3円の観覧料は高すぎた。東電所有地1
    • [4]1932年8月に中央電気倶楽部で創立総会、小林一三が初代社長。目的は東京宝塚劇場の建設と大劇場による国民劇の育成。歌舞伎座4円50銭・新橋演舞場3円の観覧料は高すぎた。東電所有地1
    • [5]1932年8月に中央電気倶楽部で創立総会、小林一三が初代社長。目的は東京宝塚劇場の建設と大劇場による国民劇の育成。歌舞伎座4円50銭・新橋演舞場3円の観覧料は高すぎた。東電所有地1
    • [6]1932年8月に中央電気倶楽部で創立総会、小林一三が初代社長。目的は東京宝塚劇場の建設と大劇場による国民劇の育成。歌舞伎座4円50銭・新橋演舞場3円の観覧料は高すぎた。東電所有地1
  • 会社銀行八十年史(1955)「東宝」
    • [2]1932年8月12日、小林一三が宝塚歌劇の東京公演を企図して資本金170万円で東京宝塚劇場を設立

東京宝塚劇場は1933年12月29日に竣工し、1934年1月の正月興行で宝塚月組の公演で開場した。続いて日比谷映画劇場が1934年2月1日に洋画2本立てで開場し、入場料は等級を設けない50銭均一だった。パラマウントとは『生活の設計』ほか10本を4月から独占封切りする契約を結び、松竹の洋画チェーンSYに対抗できる番組を確保した。1935年には有楽座も開場して、帝国劇場と邦楽座しかなかった丸の内に、日劇・東宝・日比谷映画が並ぶ娯楽街ができた。浅草・新宿の興行街を押さえ、東京の娯楽の支出を一手に集めていた松竹にとって、丸の内の東宝は正面からの挑戦者となった。低料金の均一制を差別化要因に、松竹の劇場が手薄な丸の内で客を集める狙いだったとみられる。

  • 東宝三十年史(1963)「東宝株式会社々史」
    • [7]1933年12月29日東京宝塚劇場竣工、正月興行に宝塚月組。日比谷映画劇場は1934年2月1日開場、等級なし50銭均一。パラマウントと『生活の設計』ほか10本の独占封切契約でSY系に対抗
    • [8]1933年12月29日東京宝塚劇場竣工、正月興行に宝塚月組。日比谷映画劇場は1934年2月1日開場、等級なし50銭均一。パラマウントと『生活の設計』ほか10本の独占封切契約でSY系に対抗
    • [9]1933年12月29日東京宝塚劇場竣工、正月興行に宝塚月組。日比谷映画劇場は1934年2月1日開場、等級なし50銭均一。パラマウントと『生活の設計』ほか10本の独占封切契約でSY系に対抗
  • 実業の世界 1935年8月11日号
    • [10]1934年元旦の東京宝塚劇場完成で東宝と松竹の東京での興行の対立が始まり、丸の内に日劇・東宝・日比谷映画・有楽座が並び松竹の脅威となった
    • [11]1934年元旦の東京宝塚劇場完成で東宝と松竹の東京での興行の対立が始まり、丸の内に日劇・東宝・日比谷映画・有楽座が並び松竹の脅威となった

日本映画劇場の日本劇場は1933年12月に開場したが、興行が振るわず1934年7月に日活と合併の仮契約を結んだ。この合併が不調に終わると、東京宝塚劇場は1934年12月30日、翌年1月から3年間日劇の経営を管掌する契約を交わした。1935年3月14日に始めた直営では、大劇場の日劇も50銭均一で開放。パラマウント・フォックスに加えてワーナーや東和商事とも封切契約を結び、SYと対立できる興行網を築いた。1935年12月1日には日本映画劇場を吸収合併し、資本金は倍額増資後の340万円に100万円が加わった。同じ年に横浜・京都・名古屋の宝塚劇場を開場し、1937年までに大都市のチェーンをほぼ揃えた。日劇の経営から撤退すれば松竹か日活の手に渡るおそれがあり、客席の確保を急いだと推察される。

  • 東宝三十年史(1963)「東宝株式会社々史」
    • [12]日劇は1933年12月開場後に不振、1934年7月日活と合併仮契約が不調。1934年12月30日に1935年1月から3年間の経営管掌契約。3月14日から直営、50銭均一。ワーナー・東和商事とも封切契約しSY系と対立。1935年12月1日日本映画劇場を吸収合併、資本金340万円に100万円増加
    • [13]日劇は1933年12月開場後に不振、1934年7月日活と合併仮契約が不調。1934年12月30日に1935年1月から3年間の経営管掌契約。3月14日から直営、50銭均一。ワーナー・東和商事とも封切契約しSY系と対立。1935年12月1日日本映画劇場を吸収合併、資本金340万円に100万円増加
    • [14]日劇は1933年12月開場後に不振、1934年7月日活と合併仮契約が不調。1934年12月30日に1935年1月から3年間の経営管掌契約。3月14日から直営、50銭均一。ワーナー・東和商事とも封切契約しSY系と対立。1935年12月1日日本映画劇場を吸収合併、資本金340万円に100万円増加
    • [15]日劇は1933年12月開場後に不振、1934年7月日活と合併仮契約が不調。1934年12月30日に1935年1月から3年間の経営管掌契約。3月14日から直営、50銭均一。ワーナー・東和商事とも封切契約しSY系と対立。1935年12月1日日本映画劇場を吸収合併、資本金340万円に100万円増加
    • [16]日劇は1933年12月開場後に不振、1934年7月日活と合併仮契約が不調。1934年12月30日に1935年1月から3年間の経営管掌契約。3月14日から直営、50銭均一。ワーナー・東和商事とも封切契約しSY系と対立。1935年12月1日日本映画劇場を吸収合併、資本金340万円に100万円増加
  • 会社銀行八十年史(1955)「東宝」
    • [17]日比谷映画劇場・有楽座を建設し日劇・帝劇を合併、横浜・名古屋・京都の宝塚劇場などを開場して1937年に大都市の東宝チェーンをほぼ完了
参考文献[1]-[17]
  • 東宝三十年史(1963)「東宝株式会社々史」
    • [1]1932年8月に中央電気倶楽部で創立総会、小林一三が初代社長。目的は東京宝塚劇場の建設と大劇場による国民劇の育成。歌舞伎座4円50銭・新橋演舞場3円の観覧料は高すぎた。東電所有地1
    • [3]1932年8月に中央電気倶楽部で創立総会、小林一三が初代社長。目的は東京宝塚劇場の建設と大劇場による国民劇の育成。歌舞伎座4円50銭・新橋演舞場3円の観覧料は高すぎた。東電所有地1
    • [4]1932年8月に中央電気倶楽部で創立総会、小林一三が初代社長。目的は東京宝塚劇場の建設と大劇場による国民劇の育成。歌舞伎座4円50銭・新橋演舞場3円の観覧料は高すぎた。東電所有地1
    • [5]1932年8月に中央電気倶楽部で創立総会、小林一三が初代社長。目的は東京宝塚劇場の建設と大劇場による国民劇の育成。歌舞伎座4円50銭・新橋演舞場3円の観覧料は高すぎた。東電所有地1
    • [6]1932年8月に中央電気倶楽部で創立総会、小林一三が初代社長。目的は東京宝塚劇場の建設と大劇場による国民劇の育成。歌舞伎座4円50銭・新橋演舞場3円の観覧料は高すぎた。東電所有地1
    • [7]1933年12月29日東京宝塚劇場竣工、正月興行に宝塚月組。日比谷映画劇場は1934年2月1日開場、等級なし50銭均一。パラマウントと『生活の設計』ほか10本の独占封切契約でSY系に対抗
    • [8]1933年12月29日東京宝塚劇場竣工、正月興行に宝塚月組。日比谷映画劇場は1934年2月1日開場、等級なし50銭均一。パラマウントと『生活の設計』ほか10本の独占封切契約でSY系に対抗
    • [9]1933年12月29日東京宝塚劇場竣工、正月興行に宝塚月組。日比谷映画劇場は1934年2月1日開場、等級なし50銭均一。パラマウントと『生活の設計』ほか10本の独占封切契約でSY系に対抗
    • [12]日劇は1933年12月開場後に不振、1934年7月日活と合併仮契約が不調。1934年12月30日に1935年1月から3年間の経営管掌契約。3月14日から直営、50銭均一。ワーナー・東和商事とも封切契約しSY系と対立。1935年12月1日日本映画劇場を吸収合併、資本金340万円に100万円増加
    • [13]日劇は1933年12月開場後に不振、1934年7月日活と合併仮契約が不調。1934年12月30日に1935年1月から3年間の経営管掌契約。3月14日から直営、50銭均一。ワーナー・東和商事とも封切契約しSY系と対立。1935年12月1日日本映画劇場を吸収合併、資本金340万円に100万円増加
    • [14]日劇は1933年12月開場後に不振、1934年7月日活と合併仮契約が不調。1934年12月30日に1935年1月から3年間の経営管掌契約。3月14日から直営、50銭均一。ワーナー・東和商事とも封切契約しSY系と対立。1935年12月1日日本映画劇場を吸収合併、資本金340万円に100万円増加
    • [15]日劇は1933年12月開場後に不振、1934年7月日活と合併仮契約が不調。1934年12月30日に1935年1月から3年間の経営管掌契約。3月14日から直営、50銭均一。ワーナー・東和商事とも封切契約しSY系と対立。1935年12月1日日本映画劇場を吸収合併、資本金340万円に100万円増加
    • [16]日劇は1933年12月開場後に不振、1934年7月日活と合併仮契約が不調。1934年12月30日に1935年1月から3年間の経営管掌契約。3月14日から直営、50銭均一。ワーナー・東和商事とも封切契約しSY系と対立。1935年12月1日日本映画劇場を吸収合併、資本金340万円に100万円増加
  • 会社銀行八十年史(1955)「東宝」
    • [2]1932年8月12日、小林一三が宝塚歌劇の東京公演を企図して資本金170万円で東京宝塚劇場を設立
    • [17]日比谷映画劇場・有楽座を建設し日劇・帝劇を合併、横浜・名古屋・京都の宝塚劇場などを開場して1937年に大都市の東宝チェーンをほぼ完了
  • 実業の世界 1935年8月11日号
    • [10]1934年元旦の東京宝塚劇場完成で東宝と松竹の東京での興行の対立が始まり、丸の内に日劇・東宝・日比谷映画・有楽座が並び松竹の脅威となった
    • [11]1934年元旦の東京宝塚劇場完成で東宝と松竹の東京での興行の対立が始まり、丸の内に日劇・東宝・日比谷映画・有楽座が並び松竹の脅威となった

1937年〜PCLなど4社を統合した東宝映画と、帝国劇場の合併で692万円となった資本金

東京宝塚劇場系の映画劇場がPCLとJOの作品の主な上映先となり、劇場チェーンの拡大とともに3社の関係は深まった。1936年6月30日には3社の共同出資で東宝映画配給を設け、両社の配給部門を移した。既存の映画会社が東宝ブロックへの圧迫を強めるなか、1937年の臨時資金調整法も合併の追い風だった。合併案には写真化学研究所の相談役だった小林一三氏も全面的な支持を与えた。東宝映画は1937年8月に創立され、9月10日に写真化学研究所・PCL映画製作所・東宝映画配給・JOスタヂオの4社を合併して資本金450万円の会社となった。社長に植村泰二氏が就任し、写真化学研究所とPCLは東京撮影所、JOは京都撮影所に改められた。製作の一本化で、劇場網に番組を切らさず流す体制が整ったとみられる。

  • 東宝三十年史(1963)「東宝株式会社々史」
    • [18]PCL・JO作品は東京宝塚劇場傘下の劇場で上映。1936年6月30日3社共同出資で東宝映画配給設立。既成会社の圧迫、1937年の臨時資金調整法が合併を促し相談役小林一三が支持。1937年8月創立、9月10日に4社合併で資本金450万円、社長植村泰二
    • [19]PCL・JO作品は東京宝塚劇場傘下の劇場で上映。1936年6月30日3社共同出資で東宝映画配給設立。既成会社の圧迫、1937年の臨時資金調整法が合併を促し相談役小林一三が支持。1937年8月創立、9月10日に4社合併で資本金450万円、社長植村泰二
    • [20]PCL・JO作品は東京宝塚劇場傘下の劇場で上映。1936年6月30日3社共同出資で東宝映画配給設立。既成会社の圧迫、1937年の臨時資金調整法が合併を促し相談役小林一三が支持。1937年8月創立、9月10日に4社合併で資本金450万円、社長植村泰二
    • [21]PCL・JO作品は東京宝塚劇場傘下の劇場で上映。1936年6月30日3社共同出資で東宝映画配給設立。既成会社の圧迫、1937年の臨時資金調整法が合併を促し相談役小林一三が支持。1937年8月創立、9月10日に4社合併で資本金450万円、社長植村泰二
    • [22]PCL・JO作品は東京宝塚劇場傘下の劇場で上映。1936年6月30日3社共同出資で東宝映画配給設立。既成会社の圧迫、1937年の臨時資金調整法が合併を促し相談役小林一三が支持。1937年8月創立、9月10日に4社合併で資本金450万円、社長植村泰二
  • 東宝三十年史(1963)「東宝映画三十年の歩み」
    • [23]1937年9月10日東宝映画設立、写真化学研究所とPCLを東京撮影所、JOスタヂオを京都撮影所と改称

1937年12月1日、東京宝塚劇場は帝国劇場株式会社を吸収合併し、資本金は207万円増えて692万円となった。帝劇は1911年3月に開場した近代設備の劇場で、明治末から内外の芸術家を招いてきた舞台である。関東大震災で類焼し、昭和初年からの不況で業績が低下したのち、1930年1月から10年契約で松竹の直営に入った。松竹は1931年末に演劇興行をやめ、帝劇を外国映画の封切館に転じた。小林一三氏はこの劇場を演劇の場に戻すことをめざした。日比谷・有楽町では日比谷映画劇場と有楽座の建設に日劇と帝劇の合併が加わり、一大娯楽街ができあがった。小林一三氏はこの年の5月に第一線から退任しており、帝劇の合併は劇場網づくりの総仕上げと位置づけられる。

  • 東宝三十年史(1963)「東宝株式会社々史」
    • [24]1937年12月1日帝国劇場を吸収合併、資本金207万円増の692万円。帝劇は1911年3月開場、震災で類焼、不況で業績低下し1930年1月から10年契約で松竹直営、松竹は1931年末に演劇を抛棄し洋画封切館に。小林一三が本来の姿に戻そうとした
    • [25]1937年12月1日帝国劇場を吸収合併、資本金207万円増の692万円。帝劇は1911年3月開場、震災で類焼、不況で業績低下し1930年1月から10年契約で松竹直営、松竹は1931年末に演劇を抛棄し洋画封切館に。小林一三が本来の姿に戻そうとした
    • [26]1937年12月1日帝国劇場を吸収合併、資本金207万円増の692万円。帝劇は1911年3月開場、震災で類焼、不況で業績低下し1930年1月から10年契約で松竹直営、松竹は1931年末に演劇を抛棄し洋画封切館に。小林一三が本来の姿に戻そうとした
    • [27]1937年12月1日帝国劇場を吸収合併、資本金207万円増の692万円。帝劇は1911年3月開場、震災で類焼、不況で業績低下し1930年1月から10年契約で松竹直営、松竹は1931年末に演劇を抛棄し洋画封切館に。小林一三が本来の姿に戻そうとした
    • [28]1937年12月1日帝国劇場を吸収合併、資本金207万円増の692万円。帝劇は1911年3月開場、震災で類焼、不況で業績低下し1930年1月から10年契約で松竹直営、松竹は1931年末に演劇を抛棄し洋画封切館に。小林一三が本来の姿に戻そうとした
  • 会社銀行八十年史(1955)「東宝」
    • [29]日比谷映画劇場・有楽座建設と日劇・帝劇合併で有楽町に一大アミューズメントセンターを確立。小林一三は1937年5月第一線から引退
参考文献[18]-[29]
  • 東宝三十年史(1963)「東宝株式会社々史」
    • [18]PCL・JO作品は東京宝塚劇場傘下の劇場で上映。1936年6月30日3社共同出資で東宝映画配給設立。既成会社の圧迫、1937年の臨時資金調整法が合併を促し相談役小林一三が支持。1937年8月創立、9月10日に4社合併で資本金450万円、社長植村泰二
    • [19]PCL・JO作品は東京宝塚劇場傘下の劇場で上映。1936年6月30日3社共同出資で東宝映画配給設立。既成会社の圧迫、1937年の臨時資金調整法が合併を促し相談役小林一三が支持。1937年8月創立、9月10日に4社合併で資本金450万円、社長植村泰二
    • [20]PCL・JO作品は東京宝塚劇場傘下の劇場で上映。1936年6月30日3社共同出資で東宝映画配給設立。既成会社の圧迫、1937年の臨時資金調整法が合併を促し相談役小林一三が支持。1937年8月創立、9月10日に4社合併で資本金450万円、社長植村泰二
    • [21]PCL・JO作品は東京宝塚劇場傘下の劇場で上映。1936年6月30日3社共同出資で東宝映画配給設立。既成会社の圧迫、1937年の臨時資金調整法が合併を促し相談役小林一三が支持。1937年8月創立、9月10日に4社合併で資本金450万円、社長植村泰二
    • [22]PCL・JO作品は東京宝塚劇場傘下の劇場で上映。1936年6月30日3社共同出資で東宝映画配給設立。既成会社の圧迫、1937年の臨時資金調整法が合併を促し相談役小林一三が支持。1937年8月創立、9月10日に4社合併で資本金450万円、社長植村泰二
    • [24]1937年12月1日帝国劇場を吸収合併、資本金207万円増の692万円。帝劇は1911年3月開場、震災で類焼、不況で業績低下し1930年1月から10年契約で松竹直営、松竹は1931年末に演劇を抛棄し洋画封切館に。小林一三が本来の姿に戻そうとした
    • [25]1937年12月1日帝国劇場を吸収合併、資本金207万円増の692万円。帝劇は1911年3月開場、震災で類焼、不況で業績低下し1930年1月から10年契約で松竹直営、松竹は1931年末に演劇を抛棄し洋画封切館に。小林一三が本来の姿に戻そうとした
    • [26]1937年12月1日帝国劇場を吸収合併、資本金207万円増の692万円。帝劇は1911年3月開場、震災で類焼、不況で業績低下し1930年1月から10年契約で松竹直営、松竹は1931年末に演劇を抛棄し洋画封切館に。小林一三が本来の姿に戻そうとした
    • [27]1937年12月1日帝国劇場を吸収合併、資本金207万円増の692万円。帝劇は1911年3月開場、震災で類焼、不況で業績低下し1930年1月から10年契約で松竹直営、松竹は1931年末に演劇を抛棄し洋画封切館に。小林一三が本来の姿に戻そうとした
    • [28]1937年12月1日帝国劇場を吸収合併、資本金207万円増の692万円。帝劇は1911年3月開場、震災で類焼、不況で業績低下し1930年1月から10年契約で松竹直営、松竹は1931年末に演劇を抛棄し洋画封切館に。小林一三が本来の姿に戻そうとした
  • 東宝三十年史(1963)「東宝映画三十年の歩み」
    • [23]1937年9月10日東宝映画設立、写真化学研究所とPCLを東京撮影所、JOスタヂオを京都撮影所と改称
  • 会社銀行八十年史(1955)「東宝」
    • [29]日比谷映画劇場・有楽座建設と日劇・帝劇合併で有楽町に一大アミューズメントセンターを確立。小林一三は1937年5月第一線から引退

1943年〜東宝映画との合併で生まれた東宝株式会社と、戦後の争議と新東宝

1943年8月30日、東京宝塚劇場は株主総会で東宝映画との合併案を満場一致で可決し、12月10日に東宝株式会社が発足して、会長に渋沢秀雄氏、社長に大沢善夫氏が就任した。両社は創立時からの姉妹会社として映画と演劇で連絡を取り合ってきたが、別々の計算で営業する限り効果に限りがあった。同じ年、情報局は生フィルムの不足を理由に各社の製作を年20本に絞り、8月には18本へ減らした。合併契約書の冒頭には、時局下の国家の要請に応える文化機関となる趣旨を掲げた。資本金は1,142万円に増え、映画の製作・配給・興行を一社で手がける体制の成立。製作本数が絞られるなか、撮影所と劇場の損益を一つにまとめる意味は大きかったと思われる。

  • 東宝三十年史(1963)「東宝株式会社々史」
    • [30]1943年8月30日株主総会で合併案可決、12月10日東宝株式会社成立、会長渋沢秀雄・社長大沢善夫。独立した計算では目的を果たせない憾み。合併契約書冒頭に国家の要請に応える趣旨。情報局が1943年1月に年20本、8月に18本へ制限
    • [31]1943年8月30日株主総会で合併案可決、12月10日東宝株式会社成立、会長渋沢秀雄・社長大沢善夫。独立した計算では目的を果たせない憾み。合併契約書冒頭に国家の要請に応える趣旨。情報局が1943年1月に年20本、8月に18本へ制限
    • [32]1943年8月30日株主総会で合併案可決、12月10日東宝株式会社成立、会長渋沢秀雄・社長大沢善夫。独立した計算では目的を果たせない憾み。合併契約書冒頭に国家の要請に応える趣旨。情報局が1943年1月に年20本、8月に18本へ制限
    • [33]1943年8月30日株主総会で合併案可決、12月10日東宝株式会社成立、会長渋沢秀雄・社長大沢善夫。独立した計算では目的を果たせない憾み。合併契約書冒頭に国家の要請に応える趣旨。情報局が1943年1月に年20本、8月に18本へ制限
  • 会社銀行八十年史(1955)「東宝」
    • [34]1943年12月東宝映画を合併し東宝株式会社と改称、資本金1

敗戦直後の1945年8月27日、東宝は関東の日劇・帝劇・有楽座・東京宝塚劇場と関西の北野劇場で演劇の興行を再開すると決めた。東京宝塚劇場は9月18日の東宝芸能大会、帝劇は10月4日の尾上菊五郎一座、有楽座は11月3日の新国劇で幕を開け、いずれも満員が続いた。しかし12月24日、東京宝塚劇場は占領軍に接収され、1946年2月24日からアーニイ・パイル劇場として第8軍の専用劇場に変わった。映画でも総司令部が日本映画225本の上映を禁じ、東宝の作品は43本を数えた。占領軍は満洲事変以後の作品の大半の再上映を禁止し、新作の本数不足を旧作で埋める手立ても狭まった。創業の劇場を失ったまま、戦後の東宝は帝劇・日劇と新作映画で興行を立て直すほかなかったのだろう。

  • 東宝三十年史(1963)「東宝株式会社々史」
    • [35]1945年8月27日に日劇・帝劇・有楽座・東京宝塚劇場・北野劇場で演劇再開の方針。東宝芸能大会9月18日、帝劇10月4日尾上菊五郎一座、有楽座11月3日新国劇。12月24日東京宝塚劇場接収、1946年2月24日からアーニイ・パイル劇場。総司令部が日本映画225作品(東宝43)を上映不許可
    • [36]1945年8月27日に日劇・帝劇・有楽座・東京宝塚劇場・北野劇場で演劇再開の方針。東宝芸能大会9月18日、帝劇10月4日尾上菊五郎一座、有楽座11月3日新国劇。12月24日東京宝塚劇場接収、1946年2月24日からアーニイ・パイル劇場。総司令部が日本映画225作品(東宝43)を上映不許可
    • [37]1945年8月27日に日劇・帝劇・有楽座・東京宝塚劇場・北野劇場で演劇再開の方針。東宝芸能大会9月18日、帝劇10月4日尾上菊五郎一座、有楽座11月3日新国劇。12月24日東京宝塚劇場接収、1946年2月24日からアーニイ・パイル劇場。総司令部が日本映画225作品(東宝43)を上映不許可
    • [38]1945年8月27日に日劇・帝劇・有楽座・東京宝塚劇場・北野劇場で演劇再開の方針。東宝芸能大会9月18日、帝劇10月4日尾上菊五郎一座、有楽座11月3日新国劇。12月24日東京宝塚劇場接収、1946年2月24日からアーニイ・パイル劇場。総司令部が日本映画225作品(東宝43)を上映不許可
  • 東宝三十年史(1963)「東宝映画三十年の歩み」
    • [39]占領軍が満洲事変以後の作品を検閲し大半の再上映を禁止、各社は製作本数不足から旧作を再上映

1946年3月、東宝の労働組合は短期間ながら経営管理に踏み切り、10月からは3カ月にわたる罷業に入った。12月に結んだ労働協約による、人事や企画・製作に組合の承認を要する経営協議会の設置。1947年春には社長の大沢善夫氏ら重役の大半が追放され、田辺加多丸氏が後任の社長となった。1947年2月からの1年で24本を計画した製作は13本にとどまり、1948年1月までの赤字は資本金4,000万円の倍額に達した。組合を脱退した人々のために、東宝は1947年3月、第二撮影所に子会社の新東宝映画製作所を発足させた。1947年12月には経営陣を一新し、渡辺銕蔵氏が社長、馬淵威雄氏が新設の労務担当重役に就任した。撮影所の主導権を取り戻す課題は、渡辺銕蔵氏の新体制に持ち越されたとみてよい。

  • 会社銀行八十年史(1955)「東宝」
    • [40]1946年3月組合が短期間の経営管理、同年10月から3カ月の罷業、1948年1月までに資本金4
  • 東宝三十年史(1963)「東宝株式会社々史」
    • [41]1946年12月の労働協約で経営協議会を設置し人事・企画製作に組合承認が必要に。1947年春大沢善夫ら重役追放、田辺加多丸が社長。24本計画が13本。1947年12月渡辺銕蔵が社長、馬淵威雄が労務担当重役
    • [42]1946年12月の労働協約で経営協議会を設置し人事・企画製作に組合承認が必要に。1947年春大沢善夫ら重役追放、田辺加多丸が社長。24本計画が13本。1947年12月渡辺銕蔵が社長、馬淵威雄が労務担当重役
    • [43]1946年12月の労働協約で経営協議会を設置し人事・企画製作に組合承認が必要に。1947年春大沢善夫ら重役追放、田辺加多丸が社長。24本計画が13本。1947年12月渡辺銕蔵が社長、馬淵威雄が労務担当重役
    • [45]1946年12月の労働協約で経営協議会を設置し人事・企画製作に組合承認が必要に。1947年春大沢善夫ら重役追放、田辺加多丸が社長。24本計画が13本。1947年12月渡辺銕蔵が社長、馬淵威雄が労務担当重役
  • 東宝三十年史(1963)「東宝映画三十年の歩み」
    • [44]第二次争議で生まれた反共組合のため第二撮影所を提供し新東宝映画製作所を作り1947年3月発足
参考文献[30]-[45]
  • 東宝三十年史(1963)「東宝株式会社々史」
    • [30]1943年8月30日株主総会で合併案可決、12月10日東宝株式会社成立、会長渋沢秀雄・社長大沢善夫。独立した計算では目的を果たせない憾み。合併契約書冒頭に国家の要請に応える趣旨。情報局が1943年1月に年20本、8月に18本へ制限
    • [31]1943年8月30日株主総会で合併案可決、12月10日東宝株式会社成立、会長渋沢秀雄・社長大沢善夫。独立した計算では目的を果たせない憾み。合併契約書冒頭に国家の要請に応える趣旨。情報局が1943年1月に年20本、8月に18本へ制限
    • [32]1943年8月30日株主総会で合併案可決、12月10日東宝株式会社成立、会長渋沢秀雄・社長大沢善夫。独立した計算では目的を果たせない憾み。合併契約書冒頭に国家の要請に応える趣旨。情報局が1943年1月に年20本、8月に18本へ制限
    • [33]1943年8月30日株主総会で合併案可決、12月10日東宝株式会社成立、会長渋沢秀雄・社長大沢善夫。独立した計算では目的を果たせない憾み。合併契約書冒頭に国家の要請に応える趣旨。情報局が1943年1月に年20本、8月に18本へ制限
    • [35]1945年8月27日に日劇・帝劇・有楽座・東京宝塚劇場・北野劇場で演劇再開の方針。東宝芸能大会9月18日、帝劇10月4日尾上菊五郎一座、有楽座11月3日新国劇。12月24日東京宝塚劇場接収、1946年2月24日からアーニイ・パイル劇場。総司令部が日本映画225作品(東宝43)を上映不許可
    • [36]1945年8月27日に日劇・帝劇・有楽座・東京宝塚劇場・北野劇場で演劇再開の方針。東宝芸能大会9月18日、帝劇10月4日尾上菊五郎一座、有楽座11月3日新国劇。12月24日東京宝塚劇場接収、1946年2月24日からアーニイ・パイル劇場。総司令部が日本映画225作品(東宝43)を上映不許可
    • [37]1945年8月27日に日劇・帝劇・有楽座・東京宝塚劇場・北野劇場で演劇再開の方針。東宝芸能大会9月18日、帝劇10月4日尾上菊五郎一座、有楽座11月3日新国劇。12月24日東京宝塚劇場接収、1946年2月24日からアーニイ・パイル劇場。総司令部が日本映画225作品(東宝43)を上映不許可
    • [38]1945年8月27日に日劇・帝劇・有楽座・東京宝塚劇場・北野劇場で演劇再開の方針。東宝芸能大会9月18日、帝劇10月4日尾上菊五郎一座、有楽座11月3日新国劇。12月24日東京宝塚劇場接収、1946年2月24日からアーニイ・パイル劇場。総司令部が日本映画225作品(東宝43)を上映不許可
    • [41]1946年12月の労働協約で経営協議会を設置し人事・企画製作に組合承認が必要に。1947年春大沢善夫ら重役追放、田辺加多丸が社長。24本計画が13本。1947年12月渡辺銕蔵が社長、馬淵威雄が労務担当重役
    • [42]1946年12月の労働協約で経営協議会を設置し人事・企画製作に組合承認が必要に。1947年春大沢善夫ら重役追放、田辺加多丸が社長。24本計画が13本。1947年12月渡辺銕蔵が社長、馬淵威雄が労務担当重役
    • [43]1946年12月の労働協約で経営協議会を設置し人事・企画製作に組合承認が必要に。1947年春大沢善夫ら重役追放、田辺加多丸が社長。24本計画が13本。1947年12月渡辺銕蔵が社長、馬淵威雄が労務担当重役
    • [45]1946年12月の労働協約で経営協議会を設置し人事・企画製作に組合承認が必要に。1947年春大沢善夫ら重役追放、田辺加多丸が社長。24本計画が13本。1947年12月渡辺銕蔵が社長、馬淵威雄が労務担当重役
  • 会社銀行八十年史(1955)「東宝」
    • [34]1943年12月東宝映画を合併し東宝株式会社と改称、資本金1
    • [40]1946年3月組合が短期間の経営管理、同年10月から3カ月の罷業、1948年1月までに資本金4
  • 東宝三十年史(1963)「東宝映画三十年の歩み」
    • [39]占領軍が満洲事変以後の作品を検閲し大半の再上映を禁止、各社は製作本数不足から旧作を再上映
    • [44]第二次争議で生まれた反共組合のため第二撮影所を提供し新東宝映画製作所を作り1947年3月発足

出典・参考

4件
出典・参考
  • 東宝三十年史(1963)「東宝株式会社々史」
  • 東宝三十年史(1963)「東宝映画三十年の歩み」
  • 会社銀行八十年史(1955)「東宝」
  • 実業の世界 1935年8月11日号

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