なぜ3行は単独での存続を選ばなかったのか。3行とも恐慌を生き延び、銀行法の資本金の下限にも掛からない銀行だった。整理される側ではない。それでも同じ大阪の地盤で同じ客を取り合えば、預金も貸出も金利の条件で競り合い、利ざやは縮小する。3行がそれぞれ単独で五大銀行に届かないことも明らかだった。三十四銀行の菊池恭三頭取が日本銀行に斡旋を頼んだのは、競争を続ける費用が合同の手間を上回ったからだろう。
もっとも、合同を形にしたのは3行ではなく日本銀行だった。斡旋は日本銀行の理事と調査役が担い、頭取の人選は日本銀行総裁が引き受け、初代頭取には斡旋役の中根貞彦氏が就任した。山口家と鴻池家の地位の調整に9か月を要したのは、両家が自ら譲り合える関係になかったことを示している。外から来た頭取だから、両家の上に立てたとも言える。その代わり、経営の中枢は日本銀行出身者が占めることになった。
結果は成功である。三和銀行は発足した月に預金残高10億円を超え、1934年末には預金総額10億2,500万円で首位に立った。優良資産だけを持ち寄る方針と、1934年の23支店・34出張所の廃止で、合同の重複は早い時期に整理された。頭取は3代続けて日本銀行の出身者だったが、新銀行は発足から1年で国内首位の預金を集めた。合同は、大阪の老舗3行を一つの大銀行として残すことに成功した判断だった。