壱番屋:カレー専門店への業態転換と「カレーハウスCoCo壱番屋」の開店
バッカスの副業カレーからCoCo壱番屋の全国展開へ
1974年〜喫茶店バッカスの出前から生まれた手づくりカレー
宗次徳二氏は、高校を出てから不動産と住宅の業界を渡り歩いたのち、二十代の半ばで客商売へ移った人物である。1967年3月に愛知県立小牧高校を卒業して不動産仲介の八洲開発に入り、20歳で宅地建物取引主任者の資格を取ると、1970年2月には大和ハウス工業へ移って住宅積立の営業に従事した。1973年10月に宅地建物取引業の県知事免許を受け、自宅の一階を事務所にして不動産仲介の岩倉沿線土地を個人で開いたが、朝十時に起きて客からの電話を待つだけの日々に苛立ちを覚えていた。日銭の入る商売をと妻の直美氏に相談して出た案が喫茶店で、1974年10月1日、名古屋市西区浮野町に17坪の店舗を借りてバッカスを開業した。開店初日に40席が埋まったのを見て、その日のうちに不動産業の廃業届を出している。
- 近代中小企業 1993年4月号 宗次徳二
- [1]宗次徳二は1948年10月14日生まれ。高校卒業後に不動産・住宅業界で勤務したのち、1974年10月に喫茶店を開業して飲食業へ転じた
- [2]1967年3月に愛知県立小牧高校を卒業し、翌日から不動産仲介の八洲開発名古屋支店に入社。20歳で宅地建物取引主任者の資格を取得し、1970年2月に大和ハウス工業名古屋支店へ転職した
- 東海総研 MANAGEMENT 1994年2月号「ひと・人・ヒト(9)株式会社壱番屋代表取締役 宗次徳二氏」
- [3]1973年10月に宅地建物取引業の愛知県知事免許を取得し、自宅一階を事務所として不動産仲介業「岩倉沿線土地」を個人創業した
- [5]喫茶店の開店初日に40席が満席となり、宗次徳二はその日のうちに不動産業の廃業届を出して飲食業に専念した
- 2020 AIM 2000年(第187号)「カレーハウス『CoCo壱番屋』のユニークなビジネス・デザイン創造」桑原聡子
- [4]1974年10月1日、名古屋市西区浮野町に17坪の喫茶店「バッカス」を開業した
喫茶店に飯物を置いたのは、出前を始めたためであった。宗次徳二氏は中古のスバル・サンバーを40万円で取得し、車体にコーヒー一杯でも出前しますと書いて、周辺の市営住宅や町工場へ配りに出た。売上を拡大するには飯物が要ると考え、仕入先の焙煎業者から缶詰とレトルトのカレーを取り寄せて試したが、二人ともこれは客に出せる味ではないと判断した。代わりに直美氏がスーパーで市販の家庭用ルーを棚にある7、8種類を買い込み、一品ずつ煮ては肉と野菜を足して自分の味に調合した。角の立った出来たてを一晩寝かせてから喫茶店へ運ぶようになると、当初は一日40食から50食だった注文が100食に達した。
- 近代中小企業 1993年4月号 宗次徳二
- [6]喫茶店で出前サービスを始めたことがライスメニュー導入の契機となり、ピラフとカレーライスをメニューに加えた
- [7]中古のスバル・サンバーを40万円で購入し、車体に「コーヒー一杯でも出前します」と書いて周辺の市営住宅・零細工場へ出前サービスを開始した
- [9]宗次直美がスーパーで市販の家庭用カレールーを7、8種類買い、一品ずつ煮込んで肉と野菜を加えながら自分たちの味に調合した
- 2020 AIM 2000年(第187号)「カレーハウス『CoCo壱番屋』のユニークなビジネス・デザイン創造」桑原聡子
- [8]仕入先の焙煎業者から缶詰・レトルトのカレーを取り寄せて試食したが、客に出せる味ではないと判断して採用しなかった
- [10]喫茶店の手づくりカレーは販売当初一日40食から50食だったが、のちに一日100食の注文がある人気メニューとなった
宗次夫妻は1975年に二号店の浮野亭を開業し、二店とも繁盛店に育てたが、そこで喫茶業の限界に突き当たった。忙しいわりに売上が伸びず、人手と利益の両面から喫茶店では多店舗化が難しいと宗次徳二氏は判断した。これに対してカレーは調理の手順が単純で省力化が利き、味噌や醤油と違って地域で好みが割れない商品でもあった。東京のカレー有名店や老舗を十数軒回って試食したうえで、香辛料の種類や本場仕込みを謳う店の味は作り手の自己満足だと退け、家庭の味で通すと決めている。牛丼と組み合わせる案も検討の末に取り下げ、屋号はカレーならココ一番やという関西弁から、CoCo壱番屋とした。
- 2020 AIM 2000年(第187号)「カレーハウス『CoCo壱番屋』のユニークなビジネス・デザイン創造」桑原聡子
- [11]1975年に喫茶店二号店「浮野亭」を開業し、一号店バッカスとあわせて二店とも繁盛店となった
- 流通とシステム 1992年冬季特大号(No.74)「3等立地でも繁昌するカレーハウス・チェーン」藤田英
- [12]宗次徳二は喫茶店について、忙しいわりに売上が伸びず、人手と利益の面から多店舗化が難しい業種だと判断した
- レポート 1992年新春号「ユニークな『ブルームシステム』を核に」宗次徳二
- [13]カレーは調理オペレーションが簡単でシステム化・省力化しやすく、味の好みが全国で共通している点が多店舗化に適していた
- 近代中小企業 1993年4月号 宗次徳二
- [14]宗次徳二は上京して東京のカレー有名店・繁盛店など十数軒を試食して回り、スパイスの種類や本場仕込みを謳う味は自己満足だと判断して、家庭的な味で通す方針を決めた
- [15]カレーと牛丼を組み合わせる案は取り下げてカレー専業とし、屋号は「カレーならココ一番や」という関西弁から「CoCo壱番屋」とした
参考文献[1]-[15]
- 近代中小企業 1993年4月号 宗次徳二
- [1]宗次徳二は1948年10月14日生まれ。高校卒業後に不動産・住宅業界で勤務したのち、1974年10月に喫茶店を開業して飲食業へ転じた
- [2]1967年3月に愛知県立小牧高校を卒業し、翌日から不動産仲介の八洲開発名古屋支店に入社。20歳で宅地建物取引主任者の資格を取得し、1970年2月に大和ハウス工業名古屋支店へ転職した
- [6]喫茶店で出前サービスを始めたことがライスメニュー導入の契機となり、ピラフとカレーライスをメニューに加えた
- [7]中古のスバル・サンバーを40万円で購入し、車体に「コーヒー一杯でも出前します」と書いて周辺の市営住宅・零細工場へ出前サービスを開始した
- [9]宗次直美がスーパーで市販の家庭用カレールーを7、8種類買い、一品ずつ煮込んで肉と野菜を加えながら自分たちの味に調合した
- [14]宗次徳二は上京して東京のカレー有名店・繁盛店など十数軒を試食して回り、スパイスの種類や本場仕込みを謳う味は自己満足だと判断して、家庭的な味で通す方針を決めた
- [15]カレーと牛丼を組み合わせる案は取り下げてカレー専業とし、屋号は「カレーならココ一番や」という関西弁から「CoCo壱番屋」とした
- 東海総研 MANAGEMENT 1994年2月号「ひと・人・ヒト(9)株式会社壱番屋代表取締役 宗次徳二氏」
- [3]1973年10月に宅地建物取引業の愛知県知事免許を取得し、自宅一階を事務所として不動産仲介業「岩倉沿線土地」を個人創業した
- [5]喫茶店の開店初日に40席が満席となり、宗次徳二はその日のうちに不動産業の廃業届を出して飲食業に専念した
- 2020 AIM 2000年(第187号)「カレーハウス『CoCo壱番屋』のユニークなビジネス・デザイン創造」桑原聡子
- [4]1974年10月1日、名古屋市西区浮野町に17坪の喫茶店「バッカス」を開業した
- [8]仕入先の焙煎業者から缶詰・レトルトのカレーを取り寄せて試食したが、客に出せる味ではないと判断して採用しなかった
- [10]喫茶店の手づくりカレーは販売当初一日40食から50食だったが、のちに一日100食の注文がある人気メニューとなった
- [11]1975年に喫茶店二号店「浮野亭」を開業し、一号店バッカスとあわせて二店とも繁盛店となった
- 流通とシステム 1992年冬季特大号(No.74)「3等立地でも繁昌するカレーハウス・チェーン」藤田英
- [12]宗次徳二は喫茶店について、忙しいわりに売上が伸びず、人手と利益の面から多店舗化が難しい業種だと判断した
- レポート 1992年新春号「ユニークな『ブルームシステム』を核に」宗次徳二
- [13]カレーは調理オペレーションが簡単でシステム化・省力化しやすく、味の好みが全国で共通している点が多店舗化に適していた
1978年〜3等立地の1号店と、日商6万5,000円という出店条件
カレーハウスCoCo壱番屋の1号店は、1978年1月17日、名古屋市の西隣にあたる西春日井郡西枇杷島町に開いた。物件はスナックになるはずだった手付流れの店で、間口一間・12.5坪、カウンター20席、横と裏は田んぼという立地であった。市場調査はしておらず、二軒の喫茶店に近いという理由だけで借りている。開業資金900万円は全額を金融機関からの借入で賄った。当時の郊外にカレーだけの専門店はまだ無く、喫茶店の三号店を出すよりこちらが面白いと宗次徳二氏は考えていた。日商6万円を目標に、折込チラシを打って開けた初日は14万円、二日目も14万円を売り上げ、宗次夫妻は立地の不利を覆したと喜んだ。
- 近代中小企業 1993年4月号 宗次徳二
- [16]1978年1月17日、名古屋市外の西春日井郡西枇杷島町末広町にカレーハウスCoCo壱番屋1号店を開業した
- [17]1号店はスナックになるはずだった手付流れの店舗で、間口一間・12.5坪・カウンター20席、店の横と裏は田んぼという立地だった
- [19]1号店の開業資金900万円は全額を金融機関からの借入で調達した
- [21]日商6万円を目標とした1号店は、折込チラシの効果もあって開店初日に14万円、二日目も14万円を売り上げた
- 2020 AIM 2000年(第187号)「カレーハウス『CoCo壱番屋』のユニークなビジネス・デザイン創造」桑原聡子
- [18]1号店の出店に際して市場調査は行わず、経営していた喫茶店二店に近いという理由で物件を借りた
- 東海総研 MANAGEMENT 1994年2月号「ひと・人・ヒト(9)株式会社壱番屋代表取締役 宗次徳二氏」
- [20]宗次徳二は、喫茶店の忙しいわりに売上が伸びない性格と、当時の郊外にカレーだけの専門店が存在しなかったことを理由に、喫茶店の三号店ではなくカレー専門店を出すことを選んだ
ところが三日目から客足が絶えた。調理の素人が二日間の混雑をさばききれず、カツは黒く焦げ、ライスは途中で尽きて喫茶店から運ばせるという有様で、その二日間に生まれた不満が口コミで広がっていた。外食用のフライヤーの存在も知らず家庭用の鍋で揚げていたと直美氏は振り返っており、忙しさがそのまま品質の低下に直結していた。日商は2万円前後へ落ち、悪い日は客14、15人で7,000円という水準であった。宗次夫妻は喫茶店を閉めた午後八時過ぎに1号店へ回り、夫婦客を装って席に座り、次の客が来るまで居続けるサクラを週に二、三度続けた。開店から10か月後の12月に日商は6万円近くまで戻り、開業からちょうど一年で目標の6万5,000円を達成した。
- 近代中小企業 1993年4月号 宗次徳二
- [22]1号店は開店二日間の大入りのあと、平常営業に入った三日目から客足が落ちて閑散とした
- [23]開店二日間は調理が追いつかず、カツが黒く焦げ、ライスが途中で切れて喫茶店から運ばせるなどの不手際が続き、その対応の悪さが後の客足に響いた
- [25]開業後の1号店は日商2万円程度の日が続き、悪い日は来客14、15人・売上7,000円前後にとどまった
- [26]宗次夫妻は喫茶店の閉店後に1号店へ行き、夫婦客を装って客席に座り、次の客が来るまで居続けるサクラを週に二、三度続けた
- 2020 AIM 2000年(第187号)「カレーハウス『CoCo壱番屋』のユニークなビジネス・デザイン創造」桑原聡子
- [24]宗次直美は開業当初について、外食業が使う専用のフライヤーの存在を知らず家庭用の鍋で揚げていたため、カツやエビフライがうまく揚がらなかったと述べている
- Franchise age 1992年1月号「売上高45カ月連続2ケタ成長を続ける国内最大のカレー専門店チェーン」廣澤勝
- [27]1号店の日商は開店10か月後の12月に6万円近くまで回復し、開業からちょうど1年後に目標の6万5,000円へ達した
宗次徳二氏は開業前から、25日営業で日商6万5,000円を確実に超えたら2号店を出すと決めていた。条件を満たした1979年3月、愛知県一宮市の繊維団地に12坪の一宮森本店を、翌4月には稲沢桜木店を出店した。二号店も月商200万円を売り上げている。同年夏には繁盛していた喫茶店二店を人に譲り、高く付いた売却代金で愛知県尾西市に80坪の土地を取得している。そこに1979年12月、チェーン本部と小さなセントラルキッチンを構えた。もっともこのときの目標は尾張地方で10店であり、全国チェーンの構想はまだ持っていない。数字を先に決めて自分を縛る出店の作法は、この時期に固まったとみられる。
- 流通とシステム 1992年冬季特大号(No.74)「3等立地でも繁昌するカレーハウス・チェーン」藤田英
- [28]宗次徳二は1号店の開業前から、25日営業で日商6万5,000円を確実に超えるようになったら2号店を出すと決めていた
- [33]チェーン本部の開設時点で掲げていた多店舗化の目標は愛知県尾張地方に10店舗であった
- 近代中小企業 1993年4月号 宗次徳二
- [29]1979年3月に愛知県一宮市の繊維団地へ12坪の一宮森本店を2号店として開き、翌4月に稲沢桜木店を3号店として開業した
- 2020 AIM 2000年(第187号)「カレーハウス『CoCo壱番屋』のユニークなビジネス・デザイン創造」桑原聡子
- [30]2号店の一宮森本店も1号店と同じく月商200万円を達成した
- [31]1979年夏に繁盛していた喫茶店二店を譲渡し、その売却代金で愛知県尾西市に80坪の土地を購入した
- 壱番屋 有価証券報告書【沿革】
- [32]1979年12月、愛知県尾西市にチェーン本部とセントラルキッチンを開設した
参考文献[16]-[33]
- 近代中小企業 1993年4月号 宗次徳二
- [16]1978年1月17日、名古屋市外の西春日井郡西枇杷島町末広町にカレーハウスCoCo壱番屋1号店を開業した
- [17]1号店はスナックになるはずだった手付流れの店舗で、間口一間・12.5坪・カウンター20席、店の横と裏は田んぼという立地だった
- [19]1号店の開業資金900万円は全額を金融機関からの借入で調達した
- [21]日商6万円を目標とした1号店は、折込チラシの効果もあって開店初日に14万円、二日目も14万円を売り上げた
- [22]1号店は開店二日間の大入りのあと、平常営業に入った三日目から客足が落ちて閑散とした
- [23]開店二日間は調理が追いつかず、カツが黒く焦げ、ライスが途中で切れて喫茶店から運ばせるなどの不手際が続き、その対応の悪さが後の客足に響いた
- [25]開業後の1号店は日商2万円程度の日が続き、悪い日は来客14、15人・売上7,000円前後にとどまった
- [26]宗次夫妻は喫茶店の閉店後に1号店へ行き、夫婦客を装って客席に座り、次の客が来るまで居続けるサクラを週に二、三度続けた
- [29]1979年3月に愛知県一宮市の繊維団地へ12坪の一宮森本店を2号店として開き、翌4月に稲沢桜木店を3号店として開業した
- 2020 AIM 2000年(第187号)「カレーハウス『CoCo壱番屋』のユニークなビジネス・デザイン創造」桑原聡子
- [18]1号店の出店に際して市場調査は行わず、経営していた喫茶店二店に近いという理由で物件を借りた
- [24]宗次直美は開業当初について、外食業が使う専用のフライヤーの存在を知らず家庭用の鍋で揚げていたため、カツやエビフライがうまく揚がらなかったと述べている
- [30]2号店の一宮森本店も1号店と同じく月商200万円を達成した
- [31]1979年夏に繁盛していた喫茶店二店を譲渡し、その売却代金で愛知県尾西市に80坪の土地を購入した
- 東海総研 MANAGEMENT 1994年2月号「ひと・人・ヒト(9)株式会社壱番屋代表取締役 宗次徳二氏」
- [20]宗次徳二は、喫茶店の忙しいわりに売上が伸びない性格と、当時の郊外にカレーだけの専門店が存在しなかったことを理由に、喫茶店の三号店ではなくカレー専門店を出すことを選んだ
- Franchise age 1992年1月号「売上高45カ月連続2ケタ成長を続ける国内最大のカレー専門店チェーン」廣澤勝
- [27]1号店の日商は開店10か月後の12月に6万円近くまで回復し、開業からちょうど1年後に目標の6万5,000円へ達した
- 流通とシステム 1992年冬季特大号(No.74)「3等立地でも繁昌するカレーハウス・チェーン」藤田英
- [28]宗次徳二は1号店の開業前から、25日営業で日商6万5,000円を確実に超えるようになったら2号店を出すと決めていた
- [33]チェーン本部の開設時点で掲げていた多店舗化の目標は愛知県尾張地方に10店舗であった
- 壱番屋 有価証券報告書【沿革】
- [32]1979年12月、愛知県尾西市にチェーン本部とセントラルキッチンを開設した
1980年〜ロイヤルティを取らない加盟と、社員のれん分けのブルームシステム
壱番屋は1980年1月、直営4店舗の実績を基にフランチャイズ方式の導入を決め、同年4月に加盟1号店の稲沢国府宮店を出店した。壱番屋の加盟条件で目を引くのはロイヤルティを取らないことで、本部の収益は加盟金と、米・生鮮野菜・ビールを除く全商品資材の供給から立てた。カレーソースは大手食品メーカーに特別に調合させたポークとビーフの二系統を軸に置き、セントラルキッチンで仕上げて店では温めて盛るだけにした。調理の技能を要さず少人数で回せるため、人件費も材料と光熱費のロスも抑えられる。1992年時点の原価率は39%、償却前利益率は30%から35%で、カレー専門のフランチャイズでは上位の水準にあった。
- 流通とシステム 1992年冬季特大号(No.74)「3等立地でも繁昌するカレーハウス・チェーン」藤田英
- [34]1980年1月に直営4店舗の実績を基にフランチャイズシステムの導入を決定し、同年4月にフランチャイズ加盟第1号店として愛知県稲沢市に国府宮店を開業した
- [35]壱番屋のフランチャイズ契約は加盟金200万円以上・保証金は加盟金の50%相当額で、ロイヤルティを徴収せず、米・新鮮野菜・ビールを除く全商品資材を本部から供給する条件だった
- [37]セントラルキッチン方式により材料のロスと光熱費が削減され、店舗側は調理技術を要さず少人数で営業できるため人件費が低く抑えられた
- [38]1992年時点のCoCo壱番屋の原価率は39%、償却前利益率は30%から35%で、カレー専門のフランチャイズでは上位の利益率だった
- 2020 AIM 2000年(第187号)「カレーハウス『CoCo壱番屋』のユニークなビジネス・デザイン創造」桑原聡子
- [36]フランチャイズ展開にあたり味の均質化のため大手食品メーカーに特別に調合させたポークベースとビーフベースのカレールーを作らせ、セントラルキッチンで製造したカレーソースを店舗では温めて提供する方式とした
壱番屋は加盟者が二人になった時点で、一般募集をいったん止めている。同じ時期に出した直営7号店が、人を入れ替えても売上が上がらず6か月で閉店し、これが創業以来ただ一つの不採算による撤退店となった。出店立地の選択を誤ったと宗次徳二氏は述べ、以後は焦らずに物件を選ぶ方針へ改めた。加盟対象は個人に限り、企業の多角化や兼業を目的とする申し込みは断った。サラリーマン店長では客を満足させる運営はできないという判断からで、宗次徳二氏は加盟契約までに自ら5回以上面接して人物を確かめている。募集対象を個人に限ったことでチェーン化の歩みは遅れたが、1992年の時点で加盟店とのトラブルは皆無であった。
- 流通とシステム 1992年冬季特大号(No.74)「3等立地でも繁昌するカレーハウス・チェーン」藤田英
- [39]壱番屋は加盟者が2人になった時点でフランチャイズの一般募集を一時中止した
- [43]宗次徳二はサラリーマン店長では客を満足させる運営はできないとして加盟契約までに自ら5回以上面接し、企業を加盟させていれば今の数倍の速度でチェーン化が進んでいただろうと述べた
- 2020 AIM 2000年(第187号)「カレーハウス『CoCo壱番屋』のユニークなビジネス・デザイン創造」桑原聡子
- [40]フランチャイズ展開と並行して出した直営7号店は、人員配置などのテコ入れをしても売上が上がらず6か月で閉店し、CoCo壱番屋で不採算のため撤退した唯一の店舗となった
- [41]宗次徳二は7号店の閉店を出店立地選択のミスだったとし、以後は不採算店を出さないため焦らずによい店舗を出店する方針に改めた
- Franchise age 1992年1月号「売上高45カ月連続2ケタ成長を続ける国内最大のカレー専門店チェーン」廣澤勝
- [42]壱番屋は加盟者を個人に限定し、企業の多角化や個人事業者の兼業を目的とする加盟申し込みは一切断っていた
- [44]加盟店の利益を第一に考える運営方針のもと、1992年時点で壱番屋と加盟店とのトラブルは皆無であった
愛知・岐阜・三重なら勤続5年、ほかの地区なら2年に加え、店長を3か月以上務め、経営を任せられると本部が判断した社員には、独立の道が開かれた。この社員向けののれん分け制度はブルームシステムと名づけられ、一般募集に代わる制度として1981年1月に始まった。加盟金は正規の1割にとどめ、開業資金は最低240万円を無利息・無担保で貸した。制度による1号店として一宮富士店が1981年3月に開き、以後の出店は主にこの仕組みによった。店数は1988年12月に100店、1992年11月末に203店となり、直営51、一般加盟43、のれん分け108という構成だった。当時の直営店社員120名は全員が2年から4年半のうちの独立を希望しており、1994年5月末には全47都道府県への出店を終えている。出店の速度を決めていたのは加盟希望者の数ではなく、独立に耐える社員が育つ速度だった。
- 流通とシステム 1992年冬季特大号(No.74)「3等立地でも繁昌するカレーハウス・チェーン」藤田英
- [45]のれん分けの資格条件は愛知・岐阜・三重県内への出店で勤続5年以上、その他地区で2年以上、店長として3か月以上の経験を積み本部が経営者として適格と認めた場合とされ、加盟金は正規加盟金の10%、開業資金として無利息・無担保で最低240万円の融資が受けられた
- [47]のれん分けの資格条件は愛知・岐阜・三重県内への出店で勤続5年以上、その他地区で2年以上、店長として3か月以上の経験を積み本部が経営者として適格と認めた場合とされ、加盟金は正規加盟金の10%、開業資金として無利息・無担保で最低240万円の融資が受けられた
- [48]1981年3月、ブルームシステムの第1号店として愛知県一宮市に一宮富士店を開業した
- [49]1988年12月に100店舗を達成し、1992年11月末の203店舗の内訳は直営51店、一般フランチャイズ店43店、のれん分けフランチャイズ店108店だった
- 壱番屋 有価証券報告書【沿革】
- [46]1981年1月、社員のれん分け制度「ブルームシステム」を開始した
- 2020 AIM 2000年(第187号)「カレーハウス『CoCo壱番屋』のユニークなビジネス・デザイン創造」桑原聡子
- [50]直営店に勤務する社員120名は全員が2年から4年半のうちにのれん分けで独立したいとの希望を持っており、1994年5月末には全国47都道府県への出店を完了した
参考文献[34]-[50]
- 流通とシステム 1992年冬季特大号(No.74)「3等立地でも繁昌するカレーハウス・チェーン」藤田英
- [34]1980年1月に直営4店舗の実績を基にフランチャイズシステムの導入を決定し、同年4月にフランチャイズ加盟第1号店として愛知県稲沢市に国府宮店を開業した
- [35]壱番屋のフランチャイズ契約は加盟金200万円以上・保証金は加盟金の50%相当額で、ロイヤルティを徴収せず、米・新鮮野菜・ビールを除く全商品資材を本部から供給する条件だった
- [37]セントラルキッチン方式により材料のロスと光熱費が削減され、店舗側は調理技術を要さず少人数で営業できるため人件費が低く抑えられた
- [38]1992年時点のCoCo壱番屋の原価率は39%、償却前利益率は30%から35%で、カレー専門のフランチャイズでは上位の利益率だった
- [39]壱番屋は加盟者が2人になった時点でフランチャイズの一般募集を一時中止した
- [43]宗次徳二はサラリーマン店長では客を満足させる運営はできないとして加盟契約までに自ら5回以上面接し、企業を加盟させていれば今の数倍の速度でチェーン化が進んでいただろうと述べた
- [45]のれん分けの資格条件は愛知・岐阜・三重県内への出店で勤続5年以上、その他地区で2年以上、店長として3か月以上の経験を積み本部が経営者として適格と認めた場合とされ、加盟金は正規加盟金の10%、開業資金として無利息・無担保で最低240万円の融資が受けられた
- [47]のれん分けの資格条件は愛知・岐阜・三重県内への出店で勤続5年以上、その他地区で2年以上、店長として3か月以上の経験を積み本部が経営者として適格と認めた場合とされ、加盟金は正規加盟金の10%、開業資金として無利息・無担保で最低240万円の融資が受けられた
- [48]1981年3月、ブルームシステムの第1号店として愛知県一宮市に一宮富士店を開業した
- [49]1988年12月に100店舗を達成し、1992年11月末の203店舗の内訳は直営51店、一般フランチャイズ店43店、のれん分けフランチャイズ店108店だった
- 2020 AIM 2000年(第187号)「カレーハウス『CoCo壱番屋』のユニークなビジネス・デザイン創造」桑原聡子
- [36]フランチャイズ展開にあたり味の均質化のため大手食品メーカーに特別に調合させたポークベースとビーフベースのカレールーを作らせ、セントラルキッチンで製造したカレーソースを店舗では温めて提供する方式とした
- [40]フランチャイズ展開と並行して出した直営7号店は、人員配置などのテコ入れをしても売上が上がらず6か月で閉店し、CoCo壱番屋で不採算のため撤退した唯一の店舗となった
- [41]宗次徳二は7号店の閉店を出店立地選択のミスだったとし、以後は不採算店を出さないため焦らずによい店舗を出店する方針に改めた
- [50]直営店に勤務する社員120名は全員が2年から4年半のうちにのれん分けで独立したいとの希望を持っており、1994年5月末には全国47都道府県への出店を完了した
- Franchise age 1992年1月号「売上高45カ月連続2ケタ成長を続ける国内最大のカレー専門店チェーン」廣澤勝
- [42]壱番屋は加盟者を個人に限定し、企業の多角化や個人事業者の兼業を目的とする加盟申し込みは一切断っていた
- [44]加盟店の利益を第一に考える運営方針のもと、1992年時点で壱番屋と加盟店とのトラブルは皆無であった
- 壱番屋 有価証券報告書【沿革】
- [46]1981年1月、社員のれん分け制度「ブルームシステム」を開始した
筆者考察
壱番屋の出店速度を決めていたのは、資金でも立地でもなく、店に立てる人の数であった。宗次徳二氏は加盟を個人に限り、企業の多角化も兼業も断り、契約に至るまで自ら5回以上面接している。サラリーマン店長では客を満足させられないという判断は、裏返せば、面接だけでは人の内面を見通せないという不安でもあった。実際、一般募集は加盟者が二人になった時点で止めている。外から集めるのをやめた以上、必要な人は内側で作るほかない。加盟希望者は、探して選ぶ対象から、年数をかけて育てる対象へ変わったのである。1981年1月に始めたブルームシステムは、のれん分けという古い言葉をまといながら、加盟者を自前で育てる装置として置かれたのだと思われる。
ロイヤルティを取らない設計も、同じ問題の裏側にある。のれん分けで独立する社員には加盟金を正規の1割に下げ、開業資金として無利息・無担保で最低240万円を貸した。本部の収益は、米と生鮮野菜とビールを除く全資材の供給から立てている。店が増えるほど供給も増えるのだから、本部が加盟店の利益を圧迫する動機は生じない。1992年の原価率39%、償却前利益率30%から35%という水準は、その設計が加盟店で成り立っていたことの傍証になる。ただし食材供給が収益の源である以上、味は本部が握り続けなければならない。セントラルキッチンでカレーソースを仕上げ、店では温めて盛るだけにした選択は、味の統一であると同時に収益源の防衛でもあった。
- 決算期は5月。年度末の値と、100店舗達成および1992年11月末の実数を並べた。
- 出所は流通とシステム 1992年冬季特大号(No.74)。100店舗の達成時期は壱番屋 有価証券報告書【沿革】。
出典・参考
7件
- 壱番屋 有価証券報告書【沿革】
- Franchise age 1992年1月号「売上高45カ月連続2ケタ成長を続ける国内最大のカレー専門店チェーン」廣澤勝
- 近代中小企業 1993年4月号 宗次徳二
- 東海総研 MANAGEMENT 1994年2月号「ひと・人・ヒト(9)株式会社壱番屋代表取締役 宗次徳二氏」
- 2020 AIM 2000年(第187号)「カレーハウス『CoCo壱番屋』のユニークなビジネス・デザイン創造」桑原聡子
- 流通とシステム 1992年冬季特大号(No.74)「3等立地でも繁昌するカレーハウス・チェーン」藤田英
- レポート 1992年新春号「ユニークな『ブルームシステム』を核に」宗次徳二