第2章 年〜年

SUBARU:4WD「レオーネ」による四輪駆動への集中

東北電力の試作依頼から北米のレオーネ4WDへ

1969年〜排気量競争への追随とSOAが開いた対米輸出

排気量を上乗せして車名を変える

1969年3月、富士重工業はスバル1000のエンジンの排気量を1100ccへ引き上げた。このとき車名もスバルFF-1に変わった。FFはフロントエンジン・フロントドライブ方式の略で、1という数字には国産の量産FF乗用車として先陣を切った自負を込めている。この頃の小型大衆車は、1000ccを主流として競争が始まった市場だった。カローラは発売当初から1100ccを載せ、「プラス100cc」の宣伝で勢力を伸ばしていた。サニー1000も1200ccへ移り、排気量の上乗せを競い合う様相が強まった。翌1970年7月には、1300ccで80馬力のスバルFF-1 1300Gを投入した。売上高は1970年3月期に976億円、1971年3月期に1168億円と伸びたが、水平対向エンジンと前輪駆動という構造の独自性は、排気量という一本の物差しで測られる市場では買い手に届きにくかった。

  • 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)
    • [1]1969年3月にスバル1000を1100ccへボアアップし、名称をスバルFF-1へ変更した
    • [2]「FF」はフロントエンジン・フロントドライブ方式を象徴し、数字の「1」は国内の量産FF乗用車としての先駆であることを示した
    • [3]1000ccを主流に始まった小型大衆車の競争は、カローラが当初から1100ccを積み「プラス100cc」の宣伝とともに勢力を強めた
    • [4]サニー1000の1200cc化をはじめ、各銘柄が排気量アップ競争の様相を呈した
    • [5]1970年7月にスバルFF-1 1300Gを発売し、1300ccエンジンは80馬力だった
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [6]売上高は1970年3月期976億円、1971年3月期1168億円(単体)
現地法人と専用船で対米輸出を組む

北米の販売は、1968年に設立した現地法人SOA(Subaru of America, Inc.)が受け持った。SOAは前年から輸入販売を始めたスバル360が振るわず、その不振をFF-1で挽回すべく小型車へ力を注いだ。小型車の輸出そのものは1967年、スバル1000を136台沖縄へ送ったのが幕開けだった。3年間で約40カ国に達した輸出先のうち、最大の実績はアメリカ向けで、1969年にはFF-1を5310台出荷している。東南アジアへの出荷も、翌年にはタイ462台、香港386台を数えていた。1970年は自動車専用船「明高丸」を優先使用契約で確保して輸送の手当てをし、同年の対米小型車輸出は倍の9047台に増えて、小型車の輸出全体のうち70%近くを占めた。台数の伸びを支えたのは、1969年2月から稼働していた群馬製作所矢島工場だった。

  • 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)
    • [7]アメリカの販売は1968年に設立した現地法人SOA(Subaru of America, Inc.)が受け持った
    • [8]SOAは前年から輸入販売を始めたスバル360の販売不振をFF-1で挽回すべく、スバル小型車の輸入販売に力を注いだ
    • [9]1967年にスバル1000を136台沖縄へ輸出したのが小型車輸出の幕開けだった
    • [10]1968年にタイ462台・香港386台など東南アジア向けが拡大し、小型車輸出市場は3年間で約40カ国に広がった
    • [11]1969年にスバルFF-1を5310台アメリカ向けに出荷し、当時最大の輸出となった
    • [12]1970年に自動車専用船「明高丸」を優先使用契約して輸送力を確保した
    • [13]1970年の対米小型車輸出は9047台と倍増し、小型車総輸出の70%弱を占めた
  • 株式会社SUBARU 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1969年2月に群馬製作所矢島工場が稼働した
新経済政策で輸出の前提を失う

1971年8月、アメリカの新経済政策が発表され、富士重工業の輸出環境は悪化した。対米輸出は前年に小型車総輸出の70%弱を占めており、輸出の比重が高まったところへ制度の変更が当たった。売上高は1971年3月期の1168億円から1972年3月期には1103億円へ減り、経常利益も29億円から17億円へ低下した。国内では軽自動車の競争が続き、1972年7月には軽乗用車スバルレックスを発売している。規模で先行する各社と同じ物差しで測られる限り、輸出でも国内でも上位との差は縮まらなかった。

  • 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)
    • [15]1971年8月のアメリカの新経済政策により輸出環境が悪化した
    • [16]1970年の対米小型車輸出は小型車総輸出の70%弱を占めた
    • [18]1972年7月15日に軽乗用車スバルレックスを発売した
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [17]売上高は1971年3月期1168億円から1972年3月期1103億円へ、経常利益は29億円から17億円へ減少(単体)
参考文献[1]-[18]
  • 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)
    • [1]1969年3月にスバル1000を1100ccへボアアップし、名称をスバルFF-1へ変更した
    • [2]「FF」はフロントエンジン・フロントドライブ方式を象徴し、数字の「1」は国内の量産FF乗用車としての先駆であることを示した
    • [3]1000ccを主流に始まった小型大衆車の競争は、カローラが当初から1100ccを積み「プラス100cc」の宣伝とともに勢力を強めた
    • [4]サニー1000の1200cc化をはじめ、各銘柄が排気量アップ競争の様相を呈した
    • [5]1970年7月にスバルFF-1 1300Gを発売し、1300ccエンジンは80馬力だった
    • [7]アメリカの販売は1968年に設立した現地法人SOA(Subaru of America, Inc.)が受け持った
    • [8]SOAは前年から輸入販売を始めたスバル360の販売不振をFF-1で挽回すべく、スバル小型車の輸入販売に力を注いだ
    • [9]1967年にスバル1000を136台沖縄へ輸出したのが小型車輸出の幕開けだった
    • [10]1968年にタイ462台・香港386台など東南アジア向けが拡大し、小型車輸出市場は3年間で約40カ国に広がった
    • [11]1969年にスバルFF-1を5310台アメリカ向けに出荷し、当時最大の輸出となった
    • [12]1970年に自動車専用船「明高丸」を優先使用契約して輸送力を確保した
    • [13]1970年の対米小型車輸出は9047台と倍増し、小型車総輸出の70%弱を占めた
    • [15]1971年8月のアメリカの新経済政策により輸出環境が悪化した
    • [16]1970年の対米小型車輸出は小型車総輸出の70%弱を占めた
    • [18]1972年7月15日に軽乗用車スバルレックスを発売した
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [6]売上高は1970年3月期976億円、1971年3月期1168億円(単体)
  • 株式会社SUBARU 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1969年2月に群馬製作所矢島工場が稼働した
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [17]売上高は1971年3月期1168億円から1972年3月期1103億円へ、経常利益は29億円から17億円へ減少(単体)

1972年〜東北電力の依頼から始まったレオーネ4WDの商品化

顧客の試作依頼から四輪駆動を開発する

四輪駆動車の開発は1968年、ディーラーの宮城スバル自動車と共同で始まった。きっかけは、宮城スバルの大口需要先である東北電力配電部から寄せられた、スバル1000バンを四輪駆動にできないかという試作依頼だった。富士重工業は急きょ試作へ着手し、スバル1000バンのミッションに穴をあけ、プロペラシャフトを車内の床上へ通して1台の試作車をつくった。性能は上々で、技術本部に4WDプロジェクトチームが置かれた。1970年には本格的な開発へ入り、スバル1300Gバンをもとに20台を試作している。前輪駆動車の車体中央に縦置きされた水平対向エンジンは、四輪駆動化に最適の動力機構だった。この構造と四輪駆動の組み合わせは、のちに富士重工業の独特の技術として知られるようになる。

  • 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)
    • [19]4WD車の開発は1968年にディーラーの宮城スバル自動車と共同で始まった
    • [20]宮城スバルの大口需要先である東北電力配電部からの「スバル1000バン」4WD化の試作依頼がきっかけとなった
    • [21]スバル1000バンのミッションに穴をあけ、プロペラシャフトを車内床上に通して4WDプロトタイプを1台つくった
    • [22]試作車の性能は上々で、技術本部に4WDプロジェクトチームが発足した
    • [23]1970年に本格的な開発へ入り、スバル1300Gバンをベースに20台の4WDを試作した
    • [24]FFバンの車体中央に配置された縦置きの水平対向エンジンは4WD化に最適の動力機構だった
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [25]富士重工業の技術重視の伝統は、四輪駆動・水平対向エンジンという独特の技術として開花した
販売不振の3年を寄贈と試乗で埋める

1972年9月、スバルレオーネ4WDバンを79万8000円で発売した。当面は月販200台の計画だったが、買い手は積雪地や山間地の業務用と特殊用途が中心で、1975年ごろまで月販100台に満たない状態が続いた。それでも1975年1月には、115万円のスバルレオーネ4WDセダンを追加する。レバー操作だけで前輪駆動から四輪駆動へ切り替わる全天候型で、四輪駆動の乗用車は日本で初めて、世界でも唯一だった。1976年1月からは地方新聞社と提携し、新聞社が地元へレオーネ4WDを寄贈する販売促進を始め、各地で小規模な試乗会を繰り返した。この時期に売上高は1975年3月期の1700億円から1976年3月期の2004億円へ伸びている。

  • 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)
    • [26]1972年9月にスバルレオーネ4WDバンを79万8000円で発売した
    • [27]当面は月販200台計画で始めたが、積雪・山間地の業務用や特殊用途が中心で1975年ごろまで月販100台に満たなかった
    • [28]1975年1月にスバルレオーネ4WDセダンを115万円で発売した
    • [29]レバー操作だけでFFから4WDへ切り替わる全天候タイプの乗用車で、4WD乗用車は日本初・世界でも唯一だった
    • [30]1976年1月から地方新聞社とのタイアップで4WD車寄贈作戦を始め、各地で小規模の4WD特別試乗会を反復実施した
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [31]売上高は1975年3月期1700億円、1976年3月期2004億円(単体)
米国の多用途市場へ四輪駆動を振り向ける

四輪駆動車の輸出は1974年5月に始まった。スバル4WDステーションワゴンはアメリカで好評を博し、ネバダ州警察の救難隊が専用車に採用するなど、機能が多目的に使われて輸出台数は急速に伸びた。1977年10月には対米輸出用の多用途車ブラット(BRAT)を発売し、経済的なレジャービークルとしてアメリカに独自の市場を開いた。翌1978年にはオーストラリアで同じ四輪駆動車がブランビーの名で売り出され、同年には輸出車の約半数を四輪駆動が占めた。群馬製作所矢島工場の生産は1978年9月に月産6000台から8000台へ、1979年には月産1万台へ拡大する。売上高は1978年3月期に3079億円、経常利益は95億円へ伸びた。

  • 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)
    • [32]1974年5月に4WDの輸出を開始した
    • [33]スバル4WDステーションワゴンは輸出先アメリカで好評を博し、ネバダ州警察の救難隊専用車に使用されるなど輸出台数が急速に伸長した
    • [34]1977年10月に対米輸出用4WD車ブラット(BRAT)を発売し、経済的なレジャービークルとしてアメリカで独自の市場を開拓した
    • [35]1978年にオーストラリアでこの4WDが「Brumby」として発売され、同年スバルの輸出車の約半数を4WDが占めた
    • [36]1978年9月に群馬製作所矢島工場の生産を月産6000台から8000台へ拡大し、1979年には月産1万台となった
  • 会社年鑑
    • [37]売上高は1978年3月期3079億円、経常利益95億円(単体)
参考文献[19]-[37]
  • 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)
    • [19]4WD車の開発は1968年にディーラーの宮城スバル自動車と共同で始まった
    • [20]宮城スバルの大口需要先である東北電力配電部からの「スバル1000バン」4WD化の試作依頼がきっかけとなった
    • [21]スバル1000バンのミッションに穴をあけ、プロペラシャフトを車内床上に通して4WDプロトタイプを1台つくった
    • [22]試作車の性能は上々で、技術本部に4WDプロジェクトチームが発足した
    • [23]1970年に本格的な開発へ入り、スバル1300Gバンをベースに20台の4WDを試作した
    • [24]FFバンの車体中央に配置された縦置きの水平対向エンジンは4WD化に最適の動力機構だった
    • [26]1972年9月にスバルレオーネ4WDバンを79万8000円で発売した
    • [27]当面は月販200台計画で始めたが、積雪・山間地の業務用や特殊用途が中心で1975年ごろまで月販100台に満たなかった
    • [28]1975年1月にスバルレオーネ4WDセダンを115万円で発売した
    • [29]レバー操作だけでFFから4WDへ切り替わる全天候タイプの乗用車で、4WD乗用車は日本初・世界でも唯一だった
    • [30]1976年1月から地方新聞社とのタイアップで4WD車寄贈作戦を始め、各地で小規模の4WD特別試乗会を反復実施した
    • [32]1974年5月に4WDの輸出を開始した
    • [33]スバル4WDステーションワゴンは輸出先アメリカで好評を博し、ネバダ州警察の救難隊専用車に使用されるなど輸出台数が急速に伸長した
    • [34]1977年10月に対米輸出用4WD車ブラット(BRAT)を発売し、経済的なレジャービークルとしてアメリカで独自の市場を開拓した
    • [35]1978年にオーストラリアでこの4WDが「Brumby」として発売され、同年スバルの輸出車の約半数を4WDが占めた
    • [36]1978年9月に群馬製作所矢島工場の生産を月産6000台から8000台へ拡大し、1979年には月産1万台となった
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [25]富士重工業の技術重視の伝統は、四輪駆動・水平対向エンジンという独特の技術として開花した
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [31]売上高は1975年3月期1700億円、1976年3月期2004億円(単体)
  • 会社年鑑
    • [37]売上高は1978年3月期3079億円、経常利益95億円(単体)

1980年〜リッターカー最後発の差別化と興銀主導の量産志向

最後発の市場へ四輪駆動と無段変速機で入る

1980年、富士重工業はリッターカー市場への参入を決めた。排気量1000ccクラスの乗用車では日本のメーカーのなかで最後発であり、他社との差別化を第一に考えざるを得なかった。出した結論は、得意とする四輪駆動と、電子制御電磁クラッチ式の自動無段変速機ECVTを載せることだった。無段変速機の要はオランダの変速機メーカー、バン・ドールネス・トランスミッシ(VDT)の特許にあり、1981年に共同開発を始めた。同じころVDTと組んでいたフォードとフィアットを措いて最も早く実用化できたのは、電磁クラッチの技術蓄積があり、変速機部門の設計者を1か月VDTへ送り込んだからだった。売上高は1980年3月期に4089億円へ達していた。

  • 日経ビジネス 1987年3月2日号
    • [38]1980年にリッターカー市場への参入を決定した
    • [39]リッターカー市場では日本メーカーの中で最後発であり、他社との差別化を第一に考えた
    • [40]差別化の結論は、得意技術である4WDと自動無段変速機ECVT(電子制御電磁クラッチ式)の採用だった
    • [41]1981年にオランダの変速機メーカーVDT(バン・ドールネス・トランスミッシ)とジャスティ用ECVTの共同開発へ乗り出した
    • [42]同時期にVDTと共同開発を進めていたフォード・フィアットより早く実用化できた理由は、電磁クラッチの技術蓄積と、設計者を1か月VDTへ派遣してノウハウを学んだことにある
  • 会社年鑑
    • [43]売上高は1980年3月期4089億円(単体)
ベルトの供給に発売を3年待つ

1984年1月の段階で同社は同年半ばの発売を公表し、運輸省の型式承認も取得していた。それでもジャスティECVTの発売が予告より3年遅れたのは、量産体制が安定を欠くことを理由に、VDTが計画の見直しを求めてきたからである。研究開発を本業とするVDTには、量産の経験も、品質を管理する技術もなかった。富士重工業側はベルトの内製も考えたが、VDTが自社での生産を譲らず実現しなかった。同社にできたのは、生産技術と品質管理を担う人員を送り込み、その知見を移すことにとどまった。当面、VDTの生産能力は月産500本で、ジャスティECVTも月産500台が上限だった。1985年6月に社長に就任した田島敏弘氏は、1987年1月19日の発表会で『本当に、永い春でした』と何度も口にした。

  • 日経ビジネス 1987年3月2日号
    • [44]1984年にECVTの技術を確立し、発表と運輸省の型式承認取得を済ませていた
    • [45]ジャスティECVTは1984年1月に同年半ばの発売を発表しながら、実際の発売は1987年1月となった
    • [46]VDTから「生産が安定しないので見直したい」という申し入れがあった
    • [47]VDTは研究開発が主体のベンチャー企業で、量産経験も品質管理の技術も持たなかった
    • [48]富士重工業はベルトの自社生産も検討したが、VDTが自社生産にこだわったため実現しなかった
    • [49]富士重工業は生産技術・品質管理部門の技術者を派遣してノウハウを教える援助を行った
    • [50]VDTの生産能力は当面月産500本程度で、ジャスティECVTの月産台数も500台に限られた
    • [51]1987年1月19日に都内のホテルでスバルジャスティECVTの発表会が開かれた
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [52]田島敏弘氏は日本興業銀行副頭取から1983年に富士重工業副社長として入り、1985年6月に社長へ就任した
独自技術を持ちながら量産型の経営を目指す

田島敏弘氏は日本興業銀行の副頭取から1983年に富士重工業の副社長へ入り、1985年6月に社長へ就任した。興銀との関係は1968年の日産グループ入りの合意にさかのぼり、日産との関係が疎遠になるにつれて、事実上は興銀が経営の主導権を握っていた。その下で進んだのは、自らの体力を忘れて量産型の「ミニトヨタ」を目指す路線である。車種の拡充はコスト増を招き、部品の共有比率はトヨタ自動車の60〜70%に対して20%程度にとどまった。1987年3月にはいすゞ自動車との合弁で北米の現地生産会社を設立し、1989年9月から生産を始めた。四輪駆動で開いた特定用途の市場と、規模で追う経営とは、この時期には別の方向を向いていた。

  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [53]田島敏弘氏は日本興業銀行副頭取から1983年に富士重工業副社長として入り、1985年6月に社長へ就任した
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [54]1968年の日産グループ入りの合意後、日産との関係が疎遠になるにつれて事実上は日本興業銀行が経営の主導権を握った
    • [55]興銀主導の経営は、自らの体力を忘れて量産型の「ミニトヨタ」を目指す路線だった
    • [56]トヨタ自動車が異なる車種間で部品の60〜70%を共有したのに対し、富士重工業の部品共有比率は汎用品中心の20%程度にとどまった
    • [58]米国工場スバル・いすゞ・オートモーティブ(SIA)は1989年9月から生産を開始した
  • 株式会社SUBARU 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1987年3月にいすゞ自動車との合弁で北米の現地生産会社(SIA)を設立した
参考文献[38]-[58]
  • 日経ビジネス 1987年3月2日号
    • [38]1980年にリッターカー市場への参入を決定した
    • [39]リッターカー市場では日本メーカーの中で最後発であり、他社との差別化を第一に考えた
    • [40]差別化の結論は、得意技術である4WDと自動無段変速機ECVT(電子制御電磁クラッチ式)の採用だった
    • [41]1981年にオランダの変速機メーカーVDT(バン・ドールネス・トランスミッシ)とジャスティ用ECVTの共同開発へ乗り出した
    • [42]同時期にVDTと共同開発を進めていたフォード・フィアットより早く実用化できた理由は、電磁クラッチの技術蓄積と、設計者を1か月VDTへ派遣してノウハウを学んだことにある
    • [44]1984年にECVTの技術を確立し、発表と運輸省の型式承認取得を済ませていた
    • [45]ジャスティECVTは1984年1月に同年半ばの発売を発表しながら、実際の発売は1987年1月となった
    • [46]VDTから「生産が安定しないので見直したい」という申し入れがあった
    • [47]VDTは研究開発が主体のベンチャー企業で、量産経験も品質管理の技術も持たなかった
    • [48]富士重工業はベルトの自社生産も検討したが、VDTが自社生産にこだわったため実現しなかった
    • [49]富士重工業は生産技術・品質管理部門の技術者を派遣してノウハウを教える援助を行った
    • [50]VDTの生産能力は当面月産500本程度で、ジャスティECVTの月産台数も500台に限られた
    • [51]1987年1月19日に都内のホテルでスバルジャスティECVTの発表会が開かれた
  • 会社年鑑
    • [43]売上高は1980年3月期4089億円(単体)
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
    • [52]田島敏弘氏は日本興業銀行副頭取から1983年に富士重工業副社長として入り、1985年6月に社長へ就任した
    • [53]田島敏弘氏は日本興業銀行副頭取から1983年に富士重工業副社長として入り、1985年6月に社長へ就任した
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号
    • [54]1968年の日産グループ入りの合意後、日産との関係が疎遠になるにつれて事実上は日本興業銀行が経営の主導権を握った
    • [55]興銀主導の経営は、自らの体力を忘れて量産型の「ミニトヨタ」を目指す路線だった
    • [56]トヨタ自動車が異なる車種間で部品の60〜70%を共有したのに対し、富士重工業の部品共有比率は汎用品中心の20%程度にとどまった
    • [58]米国工場スバル・いすゞ・オートモーティブ(SIA)は1989年9月から生産を開始した
  • 株式会社SUBARU 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1987年3月にいすゞ自動車との合弁で北米の現地生産会社(SIA)を設立した

筆者考察

四輪駆動という商品は、富士重工業の技術者が机の上で構想したものではなく、雪のなかで電力設備を保守する現場からの注文で始まった。東北電力の配電部が宮城スバル自動車を通じて求めたのは、スバル1000バンを四輪駆動にできないかという一点であり、富士重工業はミッションに穴をあけ、プロペラシャフトを床上へ通すという乱暴な改造で試作車を組んだ。ここで効いたのが、小型車のために選んでいた水平対向エンジンの縦置きという配置である。前輪を駆動するために据えた機構が、そのまま後輪へ動力を伸ばすのに最も都合のよい形をしていた。差別化のために買い足した技術ではなく、すでに持っていた構造が別の用途で価値を持ち直した。

だからこの会社の強みは、市場を選ぶ力ではなく、選ばれた用途に応え続ける粘りにあった。レオーネ4WDは発売から3年近く月販100台に達せず、地方新聞社へ寄贈して走らせ、各地で小さな試乗会を重ねて買い手を一人ずつ増やすほかなかった。それが数として返ってきたのは国内ではなく、ネバダ州警察の救難隊が採用したアメリカで、1978年には輸出車の約半数を四輪駆動が占めるまでになる。ところが1980年代には反対の方向へ進んだ。日本興業銀行から来た経営陣が量産型の「ミニトヨタ」を掲げ、部品の共有比率が20%のまま車種を増やした。特定の用途で強い会社と、規模で競う会社とは、原価の作り方が違う。

売上高(単体) 1969年3月期〜1985年3月期(億円)

770 69.3 976 70.3 1,168 71.3 1,103 72.3 1,373 73.3 1,547 74.3 1,700 75.3 2,004 76.3 2,540 77.3 3,079 78.3 3,274 79.3 4,089 80.3 4,648 81.3 5,338 82.3 5,801 83.3 6,027 84.3 6,721 85.3

1969年〜1989年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1969年03月期 単体 770 n/a n/a 27 3.5% n/a
1970年03月期 単体 976 +26.8% n/a 22 2.3% n/a
1971年03月期 単体 1,168 +19.7% 29 21 1.8% n/a
1972年03月期 単体 1,103 ▲5.6% 17 13 1.2% n/a
1973年03月期 単体 1,373 +24.5% 26 15 1.1% n/a
1974年03月期 単体 1,547 +12.7% 19 14 0.9% n/a
1975年03月期 単体 1,700 +9.9% 14 11 0.6% n/a
1976年03月期 単体 2,004 +17.9% 31 13 0.6% n/a
1977年03月期 単体 2,540 +26.7% 80 28 1.1% n/a
1978年03月期 単体 3,079 +21.2% 95 47 1.5% n/a
1979年03月期 単体 3,274 +6.3% 91 47 1.4% n/a
1980年03月期 単体 4,089 +24.9% 175 54 1.3% n/a
1981年03月期 単体 4,648 +13.7% 179 113 2.4% n/a
1982年03月期 単体 5,338 +14.8% 293 122 2.3% n/a
1983年03月期 単体 5,801 +8.7% 343 143 2.5% 群馬製作所・大泉工場を稼働(1983/02)
1984年03月期 単体 6,027 +3.9% 284 152 2.5% n/a
1985年03月期 単体 6,721 +11.5% 301 149 2.2% n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a 輸出基地の東扇島物流センターが完成(1986/04)米国に研究開発会社スバル・リサーチ・アンド・デザインを設立(1986/10)
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

8件
出典・参考
  • 株式会社SUBARU 有価証券報告書【沿革】
  • 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)
  • 会社年鑑(1971年版)
  • 会社年鑑(1976年版)
  • 会社年鑑
  • 日経ビジネス 1985年9月30日号
  • 日経ビジネス 1987年3月2日号
  • 日経ビジネス 1991年10月7日号

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