SUBARU:中島飛行機から富士重工業への再編と「スバル360」
1917年〜航空機メーカー解体が生んだ自動車転身
中島知久平氏は『経済的に貧しいわが国の国防は、航空機中心にするべきであり、世界の航空情勢に追いつくには、民間航空機産業を興さなければならない』との考えから、民間による飛行機研究所として事業を興した。1917年5月、日本海軍の予備役中尉から退いた後、群馬県太田町に設けたのがその研究所である。1931年には株式会社中島飛行機製作所へ改組して規模を広げ、資本金も1937年3月に2000万円、1938年11月には5000万円へ増やした。1940年からは小泉製作所、三鷹研究所、大宮と宇都宮の両製作所を次々に建て、技術の水準でも生産の規模でも国内で屈指の航空機会社となり、終戦までに隼や疾風などの各種航空機2万4843機、発動機4万4695基を送り出した。
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書 第94期(2025年3月期)【沿革】
- [1]創業者は中島知久平
- [2]中島知久平が群馬県太田で航空機の研究所を創設(有報沿革=1917年12月、本文は退役を1917年5月とする)
- [3]1931年に株式会社へ改組し中島飛行機株式会社と改称
- 会社銀行八十年史(1955年)「富士重工業」
- [4]中島飛行機の資本金は1937年3月に2000万円、1938年11月に5000万円となった
- [5]1940年以降に小泉製作所・三鷹研究所・大宮製作所・宇都宮製作所を相次いで建設し、技術的水準および生産規模においてわが国最大の航空機会社の一つとなった
- [6]終戦時までに隼・鍾馗・疾風・月光等の陸上戦闘機をはじめ各種航空機2万4843機、発動機4万4695基を生産した
1945年8月の敗戦と同時に連合国軍最高司令官総司令部の指令で中島飛行機は富士産業株式会社へ改組され、航空機製造の全面禁止という占領政策の厳しい制約の下で事業転換を迫られた。1950年の企業再建整備法により富士産業は12社に解体され、日本最大級を誇った航空機メーカーは組織として一度解体された。分割された12社のうち富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輌、東京富士産業の5社が払込資本金5000万円を共同出資して1953年7月に富士重工業株式会社を設立して再結集し、1955年4月にはこれら5社を吸収合併して資本金8億3050万円へと規模を固めた。航空機メーカーの解体という占領政策の現実が、逆に自動車メーカーへの転身を促した帰結が、後のSUBARUのアイデンティティを規定した。
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書 第94期(2025年3月期)【沿革】
- [7]1945年8月の終戦にともない富士産業株式会社へ改称
- [8]富士産業の12社解体は企業再建整備法による第二会社化
- [9]1953年7月に旧富士産業系5社の共同出資で富士重工業を設立
- [10]再結集5社は富士工業・富士自動車工業・大宮富士工業・宇都宮車輌・東京富士産業(有報沿革と一致)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [11]富士重工業の設立時払込資本金は5000万円(1953年)
- [12]1955年4月に五社を吸収合併し資本金8億3050万円となった
五社が合同した1953年から1955年にかけての日本では、乗用車の国産化がなお課題として残っていた。1955年3月のダイヤモンドは、カメラや造船が世界水準に達したのに乗用車だけが一本立ちできず、国民が4割の保護関税を負担し続けていると論じ、当時の代表的な国産乗用車についても、旧来の設計を手直ししただけのもの、あるいは貨物車の車体に覆いをかぶせただけのものにすぎないと酷評した。国産乗用車への不満が公然と語られていた時期である。富士重工業も、日本の経済基調と産業構造が大きく変わるという見通しのもとで五社合同の機運が醸成されたと後年に整理しており、五社を吸収合併した後は航空機の生産と修理の再開だけでなく、民需生産への進出をあわせて掲げていた。
- ダイヤモンド 1955年3月21日号
- [13]1955年3月時点で乗用車だけが一本立ちできず、国民が4割の保護関税を負担し続けているとの不満が業界誌で語られた
- [14]当時の代表的な国産乗用車は旧設計の手直し、あるいはトラック車体の流用と酷評された
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [15]経済基調と産業構造の変化が予見されるなかで醸成された合同の機運により、五社の共同出資で富士重工業が設立された
- [16]1955年の五社吸収合併後、航空機の生産・修理を開始するとともに民需生産へ進出した
参考文献[1]-[16]
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書 第94期(2025年3月期)【沿革】
- [1]創業者は中島知久平
- [2]中島知久平が群馬県太田で航空機の研究所を創設(有報沿革=1917年12月、本文は退役を1917年5月とする)
- [3]1931年に株式会社へ改組し中島飛行機株式会社と改称
- [7]1945年8月の終戦にともない富士産業株式会社へ改称
- [8]富士産業の12社解体は企業再建整備法による第二会社化
- [9]1953年7月に旧富士産業系5社の共同出資で富士重工業を設立
- [10]再結集5社は富士工業・富士自動車工業・大宮富士工業・宇都宮車輌・東京富士産業(有報沿革と一致)
- 会社銀行八十年史(1955年)「富士重工業」
- [4]中島飛行機の資本金は1937年3月に2000万円、1938年11月に5000万円となった
- [5]1940年以降に小泉製作所・三鷹研究所・大宮製作所・宇都宮製作所を相次いで建設し、技術的水準および生産規模においてわが国最大の航空機会社の一つとなった
- [6]終戦時までに隼・鍾馗・疾風・月光等の陸上戦闘機をはじめ各種航空機2万4843機、発動機4万4695基を生産した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [11]富士重工業の設立時払込資本金は5000万円(1953年)
- [12]1955年4月に五社を吸収合併し資本金8億3050万円となった
- [15]経済基調と産業構造の変化が予見されるなかで醸成された合同の機運により、五社の共同出資で富士重工業が設立された
- [16]1955年の五社吸収合併後、航空機の生産・修理を開始するとともに民需生産へ進出した
- ダイヤモンド 1955年3月21日号
- [13]1955年3月時点で乗用車だけが一本立ちできず、国民が4割の保護関税を負担し続けているとの不満が業界誌で語られた
- [14]当時の代表的な国産乗用車は旧設計の手直し、あるいはトラック車体の流用と酷評された
1958年〜「国民車」スバル360から水平対向エンジンの小型車へ
1958年5月、富士重工業は軽自動車"スバル360"を市場投入した。開発を率いたのは、中島飛行機で偵察機「彩雲」を設計した百瀬晋六氏であり、独自のモノコックボディ構造と後部エンジン駆動方式という当時先進的な技術パッケージを開発した。同時期、業界誌は『カメラも造船も世界水準に達したというのに、乗用車だけがまだ一本立ちできない』『ダットサンはエンジン、シャシー共に、20年前の骨董品ボディーを若干お茶を濁したという代物』と既存乗用車への不満を表明し、国民車待望論が高まっていた。"てんとう虫"の愛称で親しまれたスバル360は10年以上にわたって生産が続き、1961年には『当社は1958年に系四輪乗用車へ進出、スバル360を発売した。これが、最近急速に売上げを増大して、当社の業績向上に寄与している』と評価された。量産拠点となった群馬製作所は、戦後に接収され米軍キャンプとして使われていた旧中島飛行機の太田製作所の払い下げを1960年10月に受け、設備を改装して開設したものである。航空機時代の生産基盤が、そのままスバルの増産設備として再利用された。
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書【沿革】
- [17]1958年に富士重工業が軽自動車スバル360を発売
- 『技術開発の昭和史』(森谷正規, 1986年)3章 4スバル三六〇
- [18]百瀬晋六は東京帝国大学航空学科を1941年に卒業し、中島飛行機で偵察機「彩雲」の設計を担当した後、富士重工業で乗用車開発を率いた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [19]群馬製作所の前身は戦後接収され米軍キャンプとして使われた旧中島飛行機の太田製作所(群馬県太田市)
- [20]1960年10月に旧中島飛行機太田製作所(戦後接収・米軍キャンプとして使用)の払い下げを受け群馬製作所を開設
1960年代後半には自動車業界の過剰設備問題が深刻化し、1965年のダイヤモンドは『需要急増の予想された1959年〜1960年に、各社は大増設を計画、つぎつぎに新工場を建設した』『消滅する会社はどこなのか?』と再編の機運を伝えた。富士重工業は1966年発売の初代スバル1000で、水平対向エンジンと前輪駆動を組み合わせた。ただし販売網では新しい系列を起こさず、スバル360の特約店へ上級車を供給するワンチャネル政策を採った。新チャネル増設の資金を負担する実力が、当時はまだ備わっていなかったためである。資本自由化を前にした1968年10月、富士重工業は日産自動車との業務提携を締結した。仲介したのは日本興業銀行で、興銀の中山素平会長、日産の川又克二社長、富士重工業の横田信夫社長の三者が、日産グループの一員として生きる方針で合意している。当時のダイヤモンドは『F自身、とても単独では生き残れないメーカーである』『1対1の対等合併など夢物語になる』と観測していた。
- 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)
- [21]スバル1000は水平対向エンジンと前輪駆動を組み合わせた小型車だった
- [22]スバル1000は新チャネルを創設せず、スバル360特約店へ上級商品を供給するワンチャネル政策を採った
- [23]ワンチャネル政策を採った理由の一つは、新チャネル増設の巨大な資金を負担する実力が備わっていなかったことにある
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書【沿革】
- [24]1968年10月に日産自動車と業務提携を締結
- 日経ビジネス 1991年10月7日号
- [25]1968年、日本興業銀行の仲介で中山素平興銀会長・川又克二日産社長・横田信夫富士重工業社長の三者が、日産グループの一員として生きる方針で合意した
スバル360は発売から数年で会社の形を変えた。社内の主力が、もともとのスクーター部門から軽四輪部門へ移り始めたのはこの時期である。1961年初めには、軽四輪乗用車に参入したことで売上が急に伸び、それが業績を押し上げるようになっていた。群馬製作所の新たな量産設備が完成し、プレス工場の増強も含めて増産が可能になったため、1961年のうちに月産4000台を達成する見込みも立った。1963年末の同社は旧中島飛行機時代の飛行機技術を軸に機械の総合メーカーを目指し、飛行機、スバル、スクーター、バス、車両、農業機械と製品を多角化していたが、そのなかで参入してからわずか5年で主力製品となったのが軽四輪のスバルだった。
- 経済展望 1961年3月1日号
- [26]従来の主力部門であったスクーターから軽四輪部門へ主力が移行しつつあった
- [27]1958年の軽四輪乗用車への進出とスバル360の発売が売上を急増させ、業績向上に寄与した
- [28]群馬製作所の新量産設備完成により増産が可能となり、1961年中に月産4000台へ達する見通しだった
- 週刊野田経済 1963年12月号「国民のための国民の車を走らせる」
- [29]旧中島飛行機時代の飛行機技術を中心に、飛行機・スバル・スクーター・バス・車両・農業機械へ広がる多角経営で機械の総合メーカーを目指していた
- [30]進出からわずか5年で軽四輪のスバルが中心製品になった
参考文献[17]-[30]
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書【沿革】
- [17]1958年に富士重工業が軽自動車スバル360を発売
- [24]1968年10月に日産自動車と業務提携を締結
- 『技術開発の昭和史』(森谷正規, 1986年)3章 4スバル三六〇
- [18]百瀬晋六は東京帝国大学航空学科を1941年に卒業し、中島飛行機で偵察機「彩雲」の設計を担当した後、富士重工業で乗用車開発を率いた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [19]群馬製作所の前身は戦後接収され米軍キャンプとして使われた旧中島飛行機の太田製作所(群馬県太田市)
- [20]1960年10月に旧中島飛行機太田製作所(戦後接収・米軍キャンプとして使用)の払い下げを受け群馬製作所を開設
- 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)
- [21]スバル1000は水平対向エンジンと前輪駆動を組み合わせた小型車だった
- [22]スバル1000は新チャネルを創設せず、スバル360特約店へ上級商品を供給するワンチャネル政策を採った
- [23]ワンチャネル政策を採った理由の一つは、新チャネル増設の巨大な資金を負担する実力が備わっていなかったことにある
- 日経ビジネス 1991年10月7日号
- [25]1968年、日本興業銀行の仲介で中山素平興銀会長・川又克二日産社長・横田信夫富士重工業社長の三者が、日産グループの一員として生きる方針で合意した
- 経済展望 1961年3月1日号
- [26]従来の主力部門であったスクーターから軽四輪部門へ主力が移行しつつあった
- [27]1958年の軽四輪乗用車への進出とスバル360の発売が売上を急増させ、業績向上に寄与した
- [28]群馬製作所の新量産設備完成により増産が可能となり、1961年中に月産4000台へ達する見通しだった
- 週刊野田経済 1963年12月号「国民のための国民の車を走らせる」
- [29]旧中島飛行機時代の飛行機技術を中心に、飛行機・スバル・スクーター・バス・車両・農業機械へ広がる多角経営で機械の総合メーカーを目指していた
- [30]進出からわずか5年で軽四輪のスバルが中心製品になった
1965年〜乱売戦と過剰設備、資本自由化前夜の淘汰論
軽四輪の量産が安定した一方で、自動車業界の全体は過剰な生産能力を抱えていた。1965年に本格化した乱売戦の原因はすべてメーカーにあり、需要の急増が見込まれた1959年から1960年にかけて各社がいっせいに大増設を計画した結果であった。トヨタの元町、日産の追浜、いすゞの藤沢、プリンスの村山、東洋工業の組立工場、ダイハツの池田第二といった当時の新工場は、いずれもこの時期の産物だった。設備が先に立ち上がり、需要が追いつかないまま値引き競争へなだれ込んだ。富士重工業の増産もまた、この過剰能力の時代のただ中で進んだ。
- ダイヤモンド 1965年4月26日号
- [31]1965年に本格化した乱売戦の原因は、1959〜1960年の需要急増予想を受けた各社の大増設計画にあった
- [32]トヨタ元町・日産追浜・いすゞ藤沢・プリンス村山・東洋工業の組立工場・ダイハツ池田第二は、いずれも1959〜1960年の増設計画の産物
プリンスは1964年に8万5104台を生産し、その52%を乗用車が占めていた。生産の半分超が乗用車という会社は、当時この1社に限られていた。同じ記事は、それならどこが消えるのかという問いにも真っ向から答えている。見立てによれば、プリンスは乗用車の行方が会社の行方にそのままつながるが、他社は他の車種も兼ねて手がけ、他業界と比べて蓄えも厚いので、短い間に姿を消すことはないという。航空機、鉄道車両、バス車体、産業機械を抱える富士重工業は、この見方に照らせば守りの利く側に立っていた。もっとも1968年5月のダイヤモンドは、前年に軽四輪でトップに立った同社が早くも5位へ後退したと伝えており、多角経営の厚みが自動車そのものの競争を免除するわけではなかった。
- ダイヤモンド 1965年4月26日号
- [33]1964年に生産台数の過半を乗用車が占めたのはプリンス1社のみで、生産85,104台のうち52%が乗用車だった
- [34]プリンス以外の各社は他車種との兼業と蓄積があり、短期間での消滅は予想されないと見られていた
- ダイヤモンド 1968年5月27日号
- [35]富士重工業は1967年に軽四輪でトップメーカーとなりながら、1968年時点では第5位へ後退していた
参考文献[31]-[35]
- ダイヤモンド 1965年4月26日号
- [31]1965年に本格化した乱売戦の原因は、1959〜1960年の需要急増予想を受けた各社の大増設計画にあった
- [32]トヨタ元町・日産追浜・いすゞ藤沢・プリンス村山・東洋工業の組立工場・ダイハツ池田第二は、いずれも1959〜1960年の増設計画の産物
- [33]1964年に生産台数の過半を乗用車が占めたのはプリンス1社のみで、生産85,104台のうち52%が乗用車だった
- [34]プリンス以外の各社は他車種との兼業と蓄積があり、短期間での消滅は予想されないと見られていた
- ダイヤモンド 1968年5月27日号
- [35]富士重工業は1967年に軽四輪でトップメーカーとなりながら、1968年時点では第5位へ後退していた
筆者考察
富士重工業は、自動車をやりたくて始まった会社ではない。中島知久平氏が1917年に群馬県太田で興したのは飛行機の研究所であり、最盛期には日本の航空機生産の機体で28%、発動機で31.3%を占めるまでに育っていた。それを解いたのは占領政策で、航空機の製造は全面的に禁じられ、1950年の企業再建整備法によって富士産業は12社に分かれた。1953年に富士重工業を作ったのは、その12社のうちの5社である。事業を選んだのではなく、事業を奪われた技術者の集団が、残った工場と人で何を作るかを探すところから始まった会社だった。
その答えが軽自動車になったのは、国産乗用車への不満が誰の目にも見えていたからである。1955年の業界誌は、カメラも造船も世界水準に達したのに乗用車だけが一本立ちできないと書き、当時の代表車を20年前の設計の手直しだと切り捨てた。1958年のスバル360は、その空席へ飛行機の設計者が入って埋めた製品だった。量産拠点となった群馬製作所も、米軍に接収されていた旧中島飛行機太田製作所の払い下げである。工場も人も技術も航空機のもので、変わったのは作る対象だけだった。進出から5年で、主力はスクーターから軽四輪へ移っている。
1917年〜1968年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 87 | n/a | n/a | 3 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 109 | +25.9% | n/a | 2 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 113 | +3.7% | n/a | 2 | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 133 | +17.3% | n/a | 3 | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 203 | +52.5% | n/a | 5 | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 269 | +32.4% | 12 | 9 | 5 | 2.0% | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 309 | +14.6% | 14 | 10 | 6 | 2.2% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 636 | n/a | n/a | n/a | 24 | 3.8% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 751 | +18.1% | n/a | n/a | 31 | 4.1% | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 半期合算、会社年鑑
出典・参考
12件
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書 第94期(2025年3月期)【沿革】
- 株式会社SUBARU 有価証券報告書【沿革】
- 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)
- 会社銀行八十年史(1955年)「富士重工業」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- ダイヤモンド 1955年3月21日号
- 週刊野田経済 1963年12月号「国民のための国民の車を走らせる」
- ダイヤモンド 1965年4月26日号
- ダイヤモンド 1968年5月27日号
- 日経ビジネス 1991年10月7日号
- 経済展望 1961年3月1日号
- 『技術開発の昭和史』(森谷正規, 1986年)3章 4スバル三六〇