中島知久平
SUBARU・元中島飛行機製作所に改称し社長
社長就任1918年5月
生年月日—
学歴海軍機関学校
出自—
経歴1908〜1931年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1908年主要役職の状況(推定含む目安)1931年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 海軍 | 1908 | 機関少尉に任官 | ||
| 1913 | 横須賀海軍工廠造兵部 飛行機工場長 | ||||
| 1914 | 造兵監督官 | ||||
| 1916 | 海軍技術本部員 | ||||
| 1917 | 予備役編入 | ||||
| 中島飛行機 | 1917 | 飛行機研究所を創設し所長 | |||
| 1918 | 合資会社日本飛行機製作所 社長 | ||||
| 1919 | 中島飛行機製作所に改称し社長 | ||||
| 1931 | 所長の地位を中島喜代一氏に譲る |
社長就任までの出自
出自
1884年に群馬県尾島村で生まれ、1907年に海軍機関学校を卒業し、翌1908年に機関少尉に任官した。海軍大学選科で飛行機を学び、海軍航空術研究委員会の委員を経て横須賀海軍工廠造兵部の飛行機工場長に進み、1913年に海軍初の国産機となる水上機を完成させた。1914年に造兵監督官としてフランスへ出張したが、第1次世界大戦の勃発で呼び戻されて飛行機の生産を担い、1916年に海軍技術本部員となった。
社長に選ばれた経緯
抜擢
前任はいない。1916年10月に欧州視察の内命を受けた時点で退役して民間で飛行機の開発と生産に専念する決意を固め、健康状態を理由に休職願を提出した。1917年5月に郷里の尾島町で飛行機研究所を開設し、同年12月に予備役へ編入されると所長として事業に専念した。研究所は養蚕小屋を改築した建物で、所長1人から出発した。
在任中の主な施策
施策
1921年5月に弟の中島乙未平氏をフランスへ長期出張させ、6年にわたり航空技術と資材の導入に当たらせた。1922年にはブレゲー14型を手本に国内初の準金属製機B-6型を完成させた。1924年3月に東京府井荻町で東京工場の建設に着手し、5月にはフランスのローレン社から水冷450馬力発動機の製造権を取得した。1925年の緊縮予算で生産機械の70%が遊休化した際は、遊休設備で木工品を生産して不況期の稼働を補った。1930年6月には発動機「寿」が完成した。
創業ストーリー
創業ストーリー
参考文献3件
参考文献
- 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)「前史 中島知久平の登場」「飛行機研究所の設立」
- 『富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社社史編纂委員会編, 1984年)「知久平の政界進出と株式組織への改組」
- 『偉人中島知久平秘録 普及版』(上毛偉人伝記刊行会)国立国会図書館サーチの書誌(イジン ナカジマ チクヘイ ヒロク)
事実根拠:出所(SUBARU)