アドバンテスト:富士通の救済出資によるICテスタへの集中
1976年〜再建の条件として受け入れた5社64%の資本参加と事業の切り捨て
1976年3月期、タケダ理研は当期損失12億7,700万円を計上し、債務超過に陥った。1974年度の売上高は目標を大きく下回って77億5,900万円にとどまり、経常損益は9,700万円の赤字となって、創業以来初めての赤字決算とともに無配へ転じていた。前年度の行田工場増築などの設備投資、多額の開発投資、在庫の増大に伴う資金負担の増加が重なって借入金は55億円まで膨らみ、売上高に対する金利負担率は8%に達している。資金繰りは行き詰まり、経営は危うい状態となった。昭和40年代の中盤から広げた事業が設備と人員と借入金を同時に押し上げ、電子計測器以外は採算が取れない状態が続いていたところへ、第一次オイルショックによる需要の低迷が重なった帰結だった。
- 証券 35(3)(408)(1983年3月)
- [1]第一次オイルショックによる需要低迷の影響を受けて業績不振に陥り、昭和51年3月期には当期損失12億7,700万円の計上を余儀なくされ、債務超過となった。昭和40年代の中盤からの事業拡大に伴い設備・人員・借入金などが増大し、固定費負担が増加するなかで、従来からの電子計測器事業以外は採算が取れない状態が続いていた
- [5]第一次オイルショックによる需要低迷の影響を受けて業績不振に陥り、昭和51年3月期には当期損失12億7,700万円の計上を余儀なくされ、債務超過となった。昭和40年代の中盤からの事業拡大に伴い設備・人員・借入金などが増大し、固定費負担が増加するなかで、従来からの電子計測器事業以外は採算が取れない状態が続いていた
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)3章 新しい体制で、新たなスタート
- [2]1974年度の売上げは目標を大きく下回り、売上高77億5,900万円(対前年度比9.4%増)、経常利益マイナス9,700万円、当期利益450万円という結果に終わり、創業以来初めての赤字決算で無配となった。前年度に実施された行田工場増築などの設備投資、多額な開発投資、在庫の増大に伴う資金負担増などのため、借入金が55億円までにふくれ上がり、売上高に対する金利負担率は8%にまで達し、資金繰りに行き詰まった
- [3]1974年度の売上げは目標を大きく下回り、売上高77億5,900万円(対前年度比9.4%増)、経常利益マイナス9,700万円、当期利益450万円という結果に終わり、創業以来初めての赤字決算で無配となった。前年度に実施された行田工場増築などの設備投資、多額な開発投資、在庫の増大に伴う資金負担増などのため、借入金が55億円までにふくれ上がり、売上高に対する金利負担率は8%にまで達し、資金繰りに行き詰まった
- [4]1974年度の売上げは目標を大きく下回り、売上高77億5,900万円(対前年度比9.4%増)、経常利益マイナス9,700万円、当期利益450万円という結果に終わり、創業以来初めての赤字決算で無配となった。前年度に実施された行田工場増築などの設備投資、多額な開発投資、在庫の増大に伴う資金負担増などのため、借入金が55億円までにふくれ上がり、売上高に対する金利負担率は8%にまで達し、資金繰りに行き詰まった
富士通、兼松江商、東京リース、日産火災海上保険、第一勧業銀行の5社が資本参加することは、1976年2月16日の臨時株主総会と取締役会で決まった。その下地は1975年9月ごろに固まっていた。第一勧業銀行ほかの取引銀行が資金面を全面的に支え、富士通が出資したうえで経営陣に人を送り込んで再建に当たるという骨子で、両社が協力に応じたのである。5社の持株比率は合わせて64%に達し、内訳は富士通28%、兼松江商18%、東京リース8%、日産火災海上保険5%、第一勧業銀行5%だった。同時に第一勧業銀行出身の十河和貞氏が専務取締役、富士通出身の万永昇氏が常務取締役、同じく富士通出身の海輪利正氏が非常勤取締役に就いた。上場時の大株主にも富士通28.00%、兼松江商10.80%が並び、創業者である武田郁夫氏の持分は5.68%まで下がっていた。
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)3章 新しい体制で、新たなスタート
- [6]1975年9月ころ、株式会社第一勧業銀行はじめ取引銀行が資金面での全面的な協力を行ない、富士通株式会社は再建のため資本参加し経営陣に人材を派遣するという骨子で協力が得られることとなった。1976年2月16日開催の臨時株主総会および取締役会において、富士通・兼松江商・東京リース・日産火災海上保険・第一勧業銀行5社の資本参加を決定。持ち株比率は富士通28%、兼松江商18%、東京リース8%、日産火災海上保険5%、第一勧業銀行5%で5社総計64%。十河和貞専務取締役(第一勧業銀行出身)、万永昇常務取締役(富士通出身)、海輪利正非常勤取締役(富士通出身)が就任
- [7]1975年9月ころ、株式会社第一勧業銀行はじめ取引銀行が資金面での全面的な協力を行ない、富士通株式会社は再建のため資本参加し経営陣に人材を派遣するという骨子で協力が得られることとなった。1976年2月16日開催の臨時株主総会および取締役会において、富士通・兼松江商・東京リース・日産火災海上保険・第一勧業銀行5社の資本参加を決定。持ち株比率は富士通28%、兼松江商18%、東京リース8%、日産火災海上保険5%、第一勧業銀行5%で5社総計64%。十河和貞専務取締役(第一勧業銀行出身)、万永昇常務取締役(富士通出身)、海輪利正非常勤取締役(富士通出身)が就任
- [8]1975年9月ころ、株式会社第一勧業銀行はじめ取引銀行が資金面での全面的な協力を行ない、富士通株式会社は再建のため資本参加し経営陣に人材を派遣するという骨子で協力が得られることとなった。1976年2月16日開催の臨時株主総会および取締役会において、富士通・兼松江商・東京リース・日産火災海上保険・第一勧業銀行5社の資本参加を決定。持ち株比率は富士通28%、兼松江商18%、東京リース8%、日産火災海上保険5%、第一勧業銀行5%で5社総計64%。十河和貞専務取締役(第一勧業銀行出身)、万永昇常務取締役(富士通出身)、海輪利正非常勤取締役(富士通出身)が就任
- [9]1975年9月ころ、株式会社第一勧業銀行はじめ取引銀行が資金面での全面的な協力を行ない、富士通株式会社は再建のため資本参加し経営陣に人材を派遣するという骨子で協力が得られることとなった。1976年2月16日開催の臨時株主総会および取締役会において、富士通・兼松江商・東京リース・日産火災海上保険・第一勧業銀行5社の資本参加を決定。持ち株比率は富士通28%、兼松江商18%、東京リース8%、日産火災海上保険5%、第一勧業銀行5%で5社総計64%。十河和貞専務取締役(第一勧業銀行出身)、万永昇常務取締役(富士通出身)、海輪利正非常勤取締役(富士通出身)が就任
- 証券 35(3)(408)(1983年3月)
- [10]上場時(昭和57年6月30日現在の発行済株式総数に対する割合)の大株主は富士通28.00%、兼松江商10.80%、株式会社埼玉電子研究所9.79%、東京リース8.00%、タケダ理研従業員持株会6.09%、武田郁夫5.68%
再建策の第一に置かれたのは、在庫の圧縮を含む企業体質の改革だった。売上不振の続くデジタル計測器では、生産していた300機種のうち生産効率と生産量の少ない100機種の生産を打ち切っている。1977年2月には、デジタル・データ計測処理装置や動信号解析処理装置など、ソフトウエア費用の負担が大きいコンピュータ計測システムの製造と販売を中止し、納入済みのシステムの保守だけを引き続き担った。1975年10月には米国現地法人TRI Corp.を清算して代理店販売へ切り換え、1976年3月には日本ミニコンピュータの株式を譲渡して出資額を1億1,500万円・36%から1,000万円・3%へ減らした。北海道出張所と広島営業所も閉じている。撤退で生じた余剰人員は、将来が期待されたICテスト・システムのグループへ配置転換された。資本参加を受けた側が選んだのは、残す事業ではなく捨てる事業を先に決める順序だった。
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)3章 新しい体制で、新たなスタート
- [11]再建策の第1は在庫圧縮など企業体質の改革と強化で、デジタル計測器の生産機種300機種のうち生産効率・生産量の少ない100機種の生産打ち切りを決定。1977年2月、ソフトウエア費用負担の大きいコンピュータ計測システム(デジタル・データ計測処理装置、動信号解析処理装置など)の製造・販売を中止し、納入済システムのアフターサービスは継続。撤退で生じた余剰人員はICテスト・システムのグループ強化のため配置転換。1975年9月に北海道出張所を閉鎖、1976年7月に広島営業所を閉鎖して九州営業所に吸収。1975年10月に米国現地法人TRI Corp.を清算し代理店販売に切り換え。1976年3月、日本ミニコンピュータ株式会社の株式を譲渡し、出資額は1億1,500万円(36%)から1,000万円(3%)へ減少
- [12]再建策の第1は在庫圧縮など企業体質の改革と強化で、デジタル計測器の生産機種300機種のうち生産効率・生産量の少ない100機種の生産打ち切りを決定。1977年2月、ソフトウエア費用負担の大きいコンピュータ計測システム(デジタル・データ計測処理装置、動信号解析処理装置など)の製造・販売を中止し、納入済システムのアフターサービスは継続。撤退で生じた余剰人員はICテスト・システムのグループ強化のため配置転換。1975年9月に北海道出張所を閉鎖、1976年7月に広島営業所を閉鎖して九州営業所に吸収。1975年10月に米国現地法人TRI Corp.を清算し代理店販売に切り換え。1976年3月、日本ミニコンピュータ株式会社の株式を譲渡し、出資額は1億1,500万円(36%)から1,000万円(3%)へ減少
- [13]再建策の第1は在庫圧縮など企業体質の改革と強化で、デジタル計測器の生産機種300機種のうち生産効率・生産量の少ない100機種の生産打ち切りを決定。1977年2月、ソフトウエア費用負担の大きいコンピュータ計測システム(デジタル・データ計測処理装置、動信号解析処理装置など)の製造・販売を中止し、納入済システムのアフターサービスは継続。撤退で生じた余剰人員はICテスト・システムのグループ強化のため配置転換。1975年9月に北海道出張所を閉鎖、1976年7月に広島営業所を閉鎖して九州営業所に吸収。1975年10月に米国現地法人TRI Corp.を清算し代理店販売に切り換え。1976年3月、日本ミニコンピュータ株式会社の株式を譲渡し、出資額は1億1,500万円(36%)から1,000万円(3%)へ減少
- [14]再建策の第1は在庫圧縮など企業体質の改革と強化で、デジタル計測器の生産機種300機種のうち生産効率・生産量の少ない100機種の生産打ち切りを決定。1977年2月、ソフトウエア費用負担の大きいコンピュータ計測システム(デジタル・データ計測処理装置、動信号解析処理装置など)の製造・販売を中止し、納入済システムのアフターサービスは継続。撤退で生じた余剰人員はICテスト・システムのグループ強化のため配置転換。1975年9月に北海道出張所を閉鎖、1976年7月に広島営業所を閉鎖して九州営業所に吸収。1975年10月に米国現地法人TRI Corp.を清算し代理店販売に切り換え。1976年3月、日本ミニコンピュータ株式会社の株式を譲渡し、出資額は1億1,500万円(36%)から1,000万円(3%)へ減少
- [15]再建策の第1は在庫圧縮など企業体質の改革と強化で、デジタル計測器の生産機種300機種のうち生産効率・生産量の少ない100機種の生産打ち切りを決定。1977年2月、ソフトウエア費用負担の大きいコンピュータ計測システム(デジタル・データ計測処理装置、動信号解析処理装置など)の製造・販売を中止し、納入済システムのアフターサービスは継続。撤退で生じた余剰人員はICテスト・システムのグループ強化のため配置転換。1975年9月に北海道出張所を閉鎖、1976年7月に広島営業所を閉鎖して九州営業所に吸収。1975年10月に米国現地法人TRI Corp.を清算し代理店販売に切り換え。1976年3月、日本ミニコンピュータ株式会社の株式を譲渡し、出資額は1億1,500万円(36%)から1,000万円(3%)へ減少
- [16]再建策の第1は在庫圧縮など企業体質の改革と強化で、デジタル計測器の生産機種300機種のうち生産効率・生産量の少ない100機種の生産打ち切りを決定。1977年2月、ソフトウエア費用負担の大きいコンピュータ計測システム(デジタル・データ計測処理装置、動信号解析処理装置など)の製造・販売を中止し、納入済システムのアフターサービスは継続。撤退で生じた余剰人員はICテスト・システムのグループ強化のため配置転換。1975年9月に北海道出張所を閉鎖、1976年7月に広島営業所を閉鎖して九州営業所に吸収。1975年10月に米国現地法人TRI Corp.を清算し代理店販売に切り換え。1976年3月、日本ミニコンピュータ株式会社の株式を譲渡し、出資額は1億1,500万円(36%)から1,000万円(3%)へ減少
- 証券 35(3)(408)(1983年3月)
- [17]従来からの取引先である富士通株式会社・株式会社第一勧業銀行などから資本参加を受け、経営陣も交代し、一部事業の縮小など経営体質の改善・合理化が行われた
参考文献[1]-[17]
- 証券 35(3)(408)(1983年3月)
- [1]第一次オイルショックによる需要低迷の影響を受けて業績不振に陥り、昭和51年3月期には当期損失12億7,700万円の計上を余儀なくされ、債務超過となった。昭和40年代の中盤からの事業拡大に伴い設備・人員・借入金などが増大し、固定費負担が増加するなかで、従来からの電子計測器事業以外は採算が取れない状態が続いていた
- [5]第一次オイルショックによる需要低迷の影響を受けて業績不振に陥り、昭和51年3月期には当期損失12億7,700万円の計上を余儀なくされ、債務超過となった。昭和40年代の中盤からの事業拡大に伴い設備・人員・借入金などが増大し、固定費負担が増加するなかで、従来からの電子計測器事業以外は採算が取れない状態が続いていた
- [10]上場時(昭和57年6月30日現在の発行済株式総数に対する割合)の大株主は富士通28.00%、兼松江商10.80%、株式会社埼玉電子研究所9.79%、東京リース8.00%、タケダ理研従業員持株会6.09%、武田郁夫5.68%
- [17]従来からの取引先である富士通株式会社・株式会社第一勧業銀行などから資本参加を受け、経営陣も交代し、一部事業の縮小など経営体質の改善・合理化が行われた
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)3章 新しい体制で、新たなスタート
- [2]1974年度の売上げは目標を大きく下回り、売上高77億5,900万円(対前年度比9.4%増)、経常利益マイナス9,700万円、当期利益450万円という結果に終わり、創業以来初めての赤字決算で無配となった。前年度に実施された行田工場増築などの設備投資、多額な開発投資、在庫の増大に伴う資金負担増などのため、借入金が55億円までにふくれ上がり、売上高に対する金利負担率は8%にまで達し、資金繰りに行き詰まった
- [3]1974年度の売上げは目標を大きく下回り、売上高77億5,900万円(対前年度比9.4%増)、経常利益マイナス9,700万円、当期利益450万円という結果に終わり、創業以来初めての赤字決算で無配となった。前年度に実施された行田工場増築などの設備投資、多額な開発投資、在庫の増大に伴う資金負担増などのため、借入金が55億円までにふくれ上がり、売上高に対する金利負担率は8%にまで達し、資金繰りに行き詰まった
- [4]1974年度の売上げは目標を大きく下回り、売上高77億5,900万円(対前年度比9.4%増)、経常利益マイナス9,700万円、当期利益450万円という結果に終わり、創業以来初めての赤字決算で無配となった。前年度に実施された行田工場増築などの設備投資、多額な開発投資、在庫の増大に伴う資金負担増などのため、借入金が55億円までにふくれ上がり、売上高に対する金利負担率は8%にまで達し、資金繰りに行き詰まった
- [6]1975年9月ころ、株式会社第一勧業銀行はじめ取引銀行が資金面での全面的な協力を行ない、富士通株式会社は再建のため資本参加し経営陣に人材を派遣するという骨子で協力が得られることとなった。1976年2月16日開催の臨時株主総会および取締役会において、富士通・兼松江商・東京リース・日産火災海上保険・第一勧業銀行5社の資本参加を決定。持ち株比率は富士通28%、兼松江商18%、東京リース8%、日産火災海上保険5%、第一勧業銀行5%で5社総計64%。十河和貞専務取締役(第一勧業銀行出身)、万永昇常務取締役(富士通出身)、海輪利正非常勤取締役(富士通出身)が就任
- [7]1975年9月ころ、株式会社第一勧業銀行はじめ取引銀行が資金面での全面的な協力を行ない、富士通株式会社は再建のため資本参加し経営陣に人材を派遣するという骨子で協力が得られることとなった。1976年2月16日開催の臨時株主総会および取締役会において、富士通・兼松江商・東京リース・日産火災海上保険・第一勧業銀行5社の資本参加を決定。持ち株比率は富士通28%、兼松江商18%、東京リース8%、日産火災海上保険5%、第一勧業銀行5%で5社総計64%。十河和貞専務取締役(第一勧業銀行出身)、万永昇常務取締役(富士通出身)、海輪利正非常勤取締役(富士通出身)が就任
- [8]1975年9月ころ、株式会社第一勧業銀行はじめ取引銀行が資金面での全面的な協力を行ない、富士通株式会社は再建のため資本参加し経営陣に人材を派遣するという骨子で協力が得られることとなった。1976年2月16日開催の臨時株主総会および取締役会において、富士通・兼松江商・東京リース・日産火災海上保険・第一勧業銀行5社の資本参加を決定。持ち株比率は富士通28%、兼松江商18%、東京リース8%、日産火災海上保険5%、第一勧業銀行5%で5社総計64%。十河和貞専務取締役(第一勧業銀行出身)、万永昇常務取締役(富士通出身)、海輪利正非常勤取締役(富士通出身)が就任
- [9]1975年9月ころ、株式会社第一勧業銀行はじめ取引銀行が資金面での全面的な協力を行ない、富士通株式会社は再建のため資本参加し経営陣に人材を派遣するという骨子で協力が得られることとなった。1976年2月16日開催の臨時株主総会および取締役会において、富士通・兼松江商・東京リース・日産火災海上保険・第一勧業銀行5社の資本参加を決定。持ち株比率は富士通28%、兼松江商18%、東京リース8%、日産火災海上保険5%、第一勧業銀行5%で5社総計64%。十河和貞専務取締役(第一勧業銀行出身)、万永昇常務取締役(富士通出身)、海輪利正非常勤取締役(富士通出身)が就任
- [11]再建策の第1は在庫圧縮など企業体質の改革と強化で、デジタル計測器の生産機種300機種のうち生産効率・生産量の少ない100機種の生産打ち切りを決定。1977年2月、ソフトウエア費用負担の大きいコンピュータ計測システム(デジタル・データ計測処理装置、動信号解析処理装置など)の製造・販売を中止し、納入済システムのアフターサービスは継続。撤退で生じた余剰人員はICテスト・システムのグループ強化のため配置転換。1975年9月に北海道出張所を閉鎖、1976年7月に広島営業所を閉鎖して九州営業所に吸収。1975年10月に米国現地法人TRI Corp.を清算し代理店販売に切り換え。1976年3月、日本ミニコンピュータ株式会社の株式を譲渡し、出資額は1億1,500万円(36%)から1,000万円(3%)へ減少
- [12]再建策の第1は在庫圧縮など企業体質の改革と強化で、デジタル計測器の生産機種300機種のうち生産効率・生産量の少ない100機種の生産打ち切りを決定。1977年2月、ソフトウエア費用負担の大きいコンピュータ計測システム(デジタル・データ計測処理装置、動信号解析処理装置など)の製造・販売を中止し、納入済システムのアフターサービスは継続。撤退で生じた余剰人員はICテスト・システムのグループ強化のため配置転換。1975年9月に北海道出張所を閉鎖、1976年7月に広島営業所を閉鎖して九州営業所に吸収。1975年10月に米国現地法人TRI Corp.を清算し代理店販売に切り換え。1976年3月、日本ミニコンピュータ株式会社の株式を譲渡し、出資額は1億1,500万円(36%)から1,000万円(3%)へ減少
- [13]再建策の第1は在庫圧縮など企業体質の改革と強化で、デジタル計測器の生産機種300機種のうち生産効率・生産量の少ない100機種の生産打ち切りを決定。1977年2月、ソフトウエア費用負担の大きいコンピュータ計測システム(デジタル・データ計測処理装置、動信号解析処理装置など)の製造・販売を中止し、納入済システムのアフターサービスは継続。撤退で生じた余剰人員はICテスト・システムのグループ強化のため配置転換。1975年9月に北海道出張所を閉鎖、1976年7月に広島営業所を閉鎖して九州営業所に吸収。1975年10月に米国現地法人TRI Corp.を清算し代理店販売に切り換え。1976年3月、日本ミニコンピュータ株式会社の株式を譲渡し、出資額は1億1,500万円(36%)から1,000万円(3%)へ減少
- [14]再建策の第1は在庫圧縮など企業体質の改革と強化で、デジタル計測器の生産機種300機種のうち生産効率・生産量の少ない100機種の生産打ち切りを決定。1977年2月、ソフトウエア費用負担の大きいコンピュータ計測システム(デジタル・データ計測処理装置、動信号解析処理装置など)の製造・販売を中止し、納入済システムのアフターサービスは継続。撤退で生じた余剰人員はICテスト・システムのグループ強化のため配置転換。1975年9月に北海道出張所を閉鎖、1976年7月に広島営業所を閉鎖して九州営業所に吸収。1975年10月に米国現地法人TRI Corp.を清算し代理店販売に切り換え。1976年3月、日本ミニコンピュータ株式会社の株式を譲渡し、出資額は1億1,500万円(36%)から1,000万円(3%)へ減少
- [15]再建策の第1は在庫圧縮など企業体質の改革と強化で、デジタル計測器の生産機種300機種のうち生産効率・生産量の少ない100機種の生産打ち切りを決定。1977年2月、ソフトウエア費用負担の大きいコンピュータ計測システム(デジタル・データ計測処理装置、動信号解析処理装置など)の製造・販売を中止し、納入済システムのアフターサービスは継続。撤退で生じた余剰人員はICテスト・システムのグループ強化のため配置転換。1975年9月に北海道出張所を閉鎖、1976年7月に広島営業所を閉鎖して九州営業所に吸収。1975年10月に米国現地法人TRI Corp.を清算し代理店販売に切り換え。1976年3月、日本ミニコンピュータ株式会社の株式を譲渡し、出資額は1億1,500万円(36%)から1,000万円(3%)へ減少
- [16]再建策の第1は在庫圧縮など企業体質の改革と強化で、デジタル計測器の生産機種300機種のうち生産効率・生産量の少ない100機種の生産打ち切りを決定。1977年2月、ソフトウエア費用負担の大きいコンピュータ計測システム(デジタル・データ計測処理装置、動信号解析処理装置など)の製造・販売を中止し、納入済システムのアフターサービスは継続。撤退で生じた余剰人員はICテスト・システムのグループ強化のため配置転換。1975年9月に北海道出張所を閉鎖、1976年7月に広島営業所を閉鎖して九州営業所に吸収。1975年10月に米国現地法人TRI Corp.を清算し代理店販売に切り換え。1976年3月、日本ミニコンピュータ株式会社の株式を譲渡し、出資額は1億1,500万円(36%)から1,000万円(3%)へ減少
1977年〜100メガヘルツの先行開発と原価意識の植え付けが導いた東証二部上場
1979年、タケダ理研は電電公社武蔵野電気通信研究所の指導を受け、世界最高性能の100メガヘルツ超LSIテスト・システムを開発して製品化した。試験速度で最上位の機種を先に作り、その設計をもとに40メガヘルツ、20メガヘルツへ降ろしていく順序が採られている。1980年10月には、64キロビット・256キロビットのDRAMや高速SRAMの量産ライン用として40メガヘルツのメモリ・テスト・システムT-3331を発売した。当時のメモリ試験装置の市場では10メガヘルツから20メガヘルツが主流で、これを上回る速度の登場は競合各社へ大きな衝撃を与えた。同年11月には20メガヘルツのT-310/31Eを出し、三つの速度帯の機種が揃った。半導体試験装置の売上は1979年度に約63億円と前年度比75%増で伸び、会社全体の売上高は120億2,700万円に達した。
- 証券アナリストジャーナル 21(3)(1983年3月)(佐々木甫)
- [18]「54年には電電公社武蔵野電気通信研究所の指導を受け、世界最高性能の100MHz超LSIテスト・システムを開発、製品化した。これが現在、当社の技術の基礎になっている」(佐々木甫社長講演)
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)3章 新しい体制で、新たなスタート
- [19]1980年10月、40MHzメモリ・テスト・システムT-3331を発売。64kビット・256kビットDRAMや高速SRAMの量産ライン用・品質評価用に開発され、1979年発売の100MHzメモリ・テスト・システムのアーキテクチャおよびプログラムを採用。当時の市場では10〜20MHzが主流で、40MHz機の出現が競合各社に与えたインパクトは大きかった。1980年11月には20MHzメモリ・テスト・システムT-310/31Eを発売し、20MHz・40MHz・100MHzの機種が揃った。1979年度は売上高100億円突破を達成し、売上高120億2,700万円(前年度比46%増)、半導体試験装置部門の売上高は約63億円(前年度比75%増)
- [20]1980年10月、40MHzメモリ・テスト・システムT-3331を発売。64kビット・256kビットDRAMや高速SRAMの量産ライン用・品質評価用に開発され、1979年発売の100MHzメモリ・テスト・システムのアーキテクチャおよびプログラムを採用。当時の市場では10〜20MHzが主流で、40MHz機の出現が競合各社に与えたインパクトは大きかった。1980年11月には20MHzメモリ・テスト・システムT-310/31Eを発売し、20MHz・40MHz・100MHzの機種が揃った。1979年度は売上高100億円突破を達成し、売上高120億2,700万円(前年度比46%増)、半導体試験装置部門の売上高は約63億円(前年度比75%増)
- [21]1980年10月、40MHzメモリ・テスト・システムT-3331を発売。64kビット・256kビットDRAMや高速SRAMの量産ライン用・品質評価用に開発され、1979年発売の100MHzメモリ・テスト・システムのアーキテクチャおよびプログラムを採用。当時の市場では10〜20MHzが主流で、40MHz機の出現が競合各社に与えたインパクトは大きかった。1980年11月には20MHzメモリ・テスト・システムT-310/31Eを発売し、20MHz・40MHz・100MHzの機種が揃った。1979年度は売上高100億円突破を達成し、売上高120億2,700万円(前年度比46%増)、半導体試験装置部門の売上高は約63億円(前年度比75%増)
- [22]1980年10月、40MHzメモリ・テスト・システムT-3331を発売。64kビット・256kビットDRAMや高速SRAMの量産ライン用・品質評価用に開発され、1979年発売の100MHzメモリ・テスト・システムのアーキテクチャおよびプログラムを採用。当時の市場では10〜20MHzが主流で、40MHz機の出現が競合各社に与えたインパクトは大きかった。1980年11月には20MHzメモリ・テスト・システムT-310/31Eを発売し、20MHz・40MHz・100MHzの機種が揃った。1979年度は売上高100億円突破を達成し、売上高120億2,700万円(前年度比46%増)、半導体試験装置部門の売上高は約63億円(前年度比75%増)
- [23]1980年10月、40MHzメモリ・テスト・システムT-3331を発売。64kビット・256kビットDRAMや高速SRAMの量産ライン用・品質評価用に開発され、1979年発売の100MHzメモリ・テスト・システムのアーキテクチャおよびプログラムを採用。当時の市場では10〜20MHzが主流で、40MHz機の出現が競合各社に与えたインパクトは大きかった。1980年11月には20MHzメモリ・テスト・システムT-310/31Eを発売し、20MHz・40MHz・100MHzの機種が揃った。1979年度は売上高100億円突破を達成し、売上高120億2,700万円(前年度比46%増)、半導体試験装置部門の売上高は約63億円(前年度比75%増)
1976年4月、生産本部長の万永昇常務のもとで、CD作戦・L(1/2)3作戦・PAT1/H作戦の3大作戦が展開された。CD作戦は、それまで社内に希薄だった製造原価の意識を高めて生産性を上げる呼びかけである。L(1/2)3作戦は生産工程のロスを初年度に半分、2年目に4分の1へ減らす目標を置き、PAT1/H作戦は年間1人1件以上の特許取得を求めた。翌年には信頼性の向上をねらうHR作戦が加わって4大作戦となる。成果としては検査部QA課の設立による品質保証思想の確立、原価プロジェクトの発足とその原価管理課への発展、実装試作室の発足が挙げられている。1979年8月に始めたVE提案制度は、初年度283件だった提案が1980年度に711件、1983年度には1,241件へ伸びた。原価計算のできる人材すらいなかった会社が、全社運動という形で原価を数える習慣を入れた。
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)3章 新しい体制で、新たなスタート
- [24]1976年4月、生産本部(本部長・万永昇常務)が①CD(コストダウン)作戦②L(1/2)3(ロス半減)作戦③PAT1/H(パテント1人1件)作戦の3大作戦を展開。CD作戦は従来希薄であった製造原価意識を高め生産性を向上させる呼び掛け、L(1/2)3作戦は生産工程のロスを初年度1/2・2年目1/4にする目標、PAT1/H作戦は年間1人1件以上の特許取得運動。翌年にHR(High Reliability)作戦が加わり「4大作戦」へ拡大。成果として検査部QA課の設立によるシステムQA思想の確立、CE部の設立、原価プロジェクトの発足(のちの原価管理課)、実装試作室の発足。1979年8月にVE提案制度をスタートし、提案件数は1979年度283件、1980年度711件、1983年度1,241件
- [25]1976年4月、生産本部(本部長・万永昇常務)が①CD(コストダウン)作戦②L(1/2)3(ロス半減)作戦③PAT1/H(パテント1人1件)作戦の3大作戦を展開。CD作戦は従来希薄であった製造原価意識を高め生産性を向上させる呼び掛け、L(1/2)3作戦は生産工程のロスを初年度1/2・2年目1/4にする目標、PAT1/H作戦は年間1人1件以上の特許取得運動。翌年にHR(High Reliability)作戦が加わり「4大作戦」へ拡大。成果として検査部QA課の設立によるシステムQA思想の確立、CE部の設立、原価プロジェクトの発足(のちの原価管理課)、実装試作室の発足。1979年8月にVE提案制度をスタートし、提案件数は1979年度283件、1980年度711件、1983年度1,241件
- [26]1976年4月、生産本部(本部長・万永昇常務)が①CD(コストダウン)作戦②L(1/2)3(ロス半減)作戦③PAT1/H(パテント1人1件)作戦の3大作戦を展開。CD作戦は従来希薄であった製造原価意識を高め生産性を向上させる呼び掛け、L(1/2)3作戦は生産工程のロスを初年度1/2・2年目1/4にする目標、PAT1/H作戦は年間1人1件以上の特許取得運動。翌年にHR(High Reliability)作戦が加わり「4大作戦」へ拡大。成果として検査部QA課の設立によるシステムQA思想の確立、CE部の設立、原価プロジェクトの発足(のちの原価管理課)、実装試作室の発足。1979年8月にVE提案制度をスタートし、提案件数は1979年度283件、1980年度711件、1983年度1,241件
- [27]1976年4月、生産本部(本部長・万永昇常務)が①CD(コストダウン)作戦②L(1/2)3(ロス半減)作戦③PAT1/H(パテント1人1件)作戦の3大作戦を展開。CD作戦は従来希薄であった製造原価意識を高め生産性を向上させる呼び掛け、L(1/2)3作戦は生産工程のロスを初年度1/2・2年目1/4にする目標、PAT1/H作戦は年間1人1件以上の特許取得運動。翌年にHR(High Reliability)作戦が加わり「4大作戦」へ拡大。成果として検査部QA課の設立によるシステムQA思想の確立、CE部の設立、原価プロジェクトの発足(のちの原価管理課)、実装試作室の発足。1979年8月にVE提案制度をスタートし、提案件数は1979年度283件、1980年度711件、1983年度1,241件
- [28]1976年4月、生産本部(本部長・万永昇常務)が①CD(コストダウン)作戦②L(1/2)3(ロス半減)作戦③PAT1/H(パテント1人1件)作戦の3大作戦を展開。CD作戦は従来希薄であった製造原価意識を高め生産性を向上させる呼び掛け、L(1/2)3作戦は生産工程のロスを初年度1/2・2年目1/4にする目標、PAT1/H作戦は年間1人1件以上の特許取得運動。翌年にHR(High Reliability)作戦が加わり「4大作戦」へ拡大。成果として検査部QA課の設立によるシステムQA思想の確立、CE部の設立、原価プロジェクトの発足(のちの原価管理課)、実装試作室の発足。1979年8月にVE提案制度をスタートし、提案件数は1979年度283件、1980年度711件、1983年度1,241件
- [29]1976年4月、生産本部(本部長・万永昇常務)が①CD(コストダウン)作戦②L(1/2)3(ロス半減)作戦③PAT1/H(パテント1人1件)作戦の3大作戦を展開。CD作戦は従来希薄であった製造原価意識を高め生産性を向上させる呼び掛け、L(1/2)3作戦は生産工程のロスを初年度1/2・2年目1/4にする目標、PAT1/H作戦は年間1人1件以上の特許取得運動。翌年にHR(High Reliability)作戦が加わり「4大作戦」へ拡大。成果として検査部QA課の設立によるシステムQA思想の確立、CE部の設立、原価プロジェクトの発足(のちの原価管理課)、実装試作室の発足。1979年8月にVE提案制度をスタートし、提案件数は1979年度283件、1980年度711件、1983年度1,241件
- 日経ビジネス(1983年5月30日)
- [30]「メインバンクから退職した人をもらいました。Tさんという人です……この人はメーカーの原価計算さえ出来なかったのです」
行田工場では新館の建設が続いていた。カスタムLSIの自給も課題として控えていたため、その費用は株式市場から調達するほかないと判断された。海輪利正社長が1982年の株式上場という方針を打ち出したのは、1980年1月11日発行の社内報に載せた年頭あいさつである。同年3月には十河和貞副社長が委員長を務める上場準備推進委員会が発足し、主幹事証券会社に日本勧業角丸証券を選んだ。資本金・業績・利益配当の面では適格要件をすでに満たしていたので、準備の中身は社内体制を整えることと申請書類を作ることに集中した。1982年7月に東京証券取引所へ上場を申請し、1983年2月9日、市場第二部へ新規上場した。公募価格2,750円に対して初日はストップ高の3,150円の買い気配で終わり、初値がついたのは8日目の2月18日、6,350円だった。300万株の時価発行増資で調達した約82億円は、設備投資に15億円、借入金の返済に15億円、残りを運転資金へ充てている。
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)3章 新しい体制で、新たなスタート
- [31]海輪社長は1980年1月11日発行の「タケダニュース」新年号で「1982年には株式上場を」と方針を示し、行田工場新館の建設やカスタムLSIの自給の問題などの費用を株式市場に求めるためと説明。1980年3月、上場準備推進委員会(委員長・十河和貞副社長)を設置。資本金の額・業績・利益配当は既に適格要件を十分に満たしていたため、作業は社内体制の整備と上場申請書類の作成が中心。主幹事証券会社には日本勧業角丸証券株式会社を選定。1982年7月、東京証券取引所に上場申請を行ない受理された
- [32]海輪社長は1980年1月11日発行の「タケダニュース」新年号で「1982年には株式上場を」と方針を示し、行田工場新館の建設やカスタムLSIの自給の問題などの費用を株式市場に求めるためと説明。1980年3月、上場準備推進委員会(委員長・十河和貞副社長)を設置。資本金の額・業績・利益配当は既に適格要件を十分に満たしていたため、作業は社内体制の整備と上場申請書類の作成が中心。主幹事証券会社には日本勧業角丸証券株式会社を選定。1982年7月、東京証券取引所に上場申請を行ない受理された
- [33]海輪社長は1980年1月11日発行の「タケダニュース」新年号で「1982年には株式上場を」と方針を示し、行田工場新館の建設やカスタムLSIの自給の問題などの費用を株式市場に求めるためと説明。1980年3月、上場準備推進委員会(委員長・十河和貞副社長)を設置。資本金の額・業績・利益配当は既に適格要件を十分に満たしていたため、作業は社内体制の整備と上場申請書類の作成が中心。主幹事証券会社には日本勧業角丸証券株式会社を選定。1982年7月、東京証券取引所に上場申請を行ない受理された
- [34]海輪社長は1980年1月11日発行の「タケダニュース」新年号で「1982年には株式上場を」と方針を示し、行田工場新館の建設やカスタムLSIの自給の問題などの費用を株式市場に求めるためと説明。1980年3月、上場準備推進委員会(委員長・十河和貞副社長)を設置。資本金の額・業績・利益配当は既に適格要件を十分に満たしていたため、作業は社内体制の整備と上場申請書類の作成が中心。主幹事証券会社には日本勧業角丸証券株式会社を選定。1982年7月、東京証券取引所に上場申請を行ない受理された
- 証券 35(3)(408)(1983年3月)
- [35]タケダ理研工業株式会社は昭和58年2月9日に東京証券取引所市場第二部へ新規上場(所属部・業種・銘柄コードは市場第二部・電気機器・6857)
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)4章 上場を達成、社名もアドバンテストに
- [36]1983年2月9日に東京証券取引所市場第二部へ新規上場。公募価格2,750円に対しストップ高の3,150円の買い気配で終わり、株式公開以来8日目の2月18日に株価6,350円で初めて売買が成立。同時に発行価格1株当たり2,750円で300万株の時価発行増資を実施し、新資本金は46億2,500万円。調達された約82億円は設備投資資金に15億円、借入金の返済に15億円、残額を運転資金に充当
- [37]1983年2月9日に東京証券取引所市場第二部へ新規上場。公募価格2,750円に対しストップ高の3,150円の買い気配で終わり、株式公開以来8日目の2月18日に株価6,350円で初めて売買が成立。同時に発行価格1株当たり2,750円で300万株の時価発行増資を実施し、新資本金は46億2,500万円。調達された約82億円は設備投資資金に15億円、借入金の返済に15億円、残額を運転資金に充当
参考文献[18]-[37]
- 証券アナリストジャーナル 21(3)(1983年3月)(佐々木甫)
- [18]「54年には電電公社武蔵野電気通信研究所の指導を受け、世界最高性能の100MHz超LSIテスト・システムを開発、製品化した。これが現在、当社の技術の基礎になっている」(佐々木甫社長講演)
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)3章 新しい体制で、新たなスタート
- [19]1980年10月、40MHzメモリ・テスト・システムT-3331を発売。64kビット・256kビットDRAMや高速SRAMの量産ライン用・品質評価用に開発され、1979年発売の100MHzメモリ・テスト・システムのアーキテクチャおよびプログラムを採用。当時の市場では10〜20MHzが主流で、40MHz機の出現が競合各社に与えたインパクトは大きかった。1980年11月には20MHzメモリ・テスト・システムT-310/31Eを発売し、20MHz・40MHz・100MHzの機種が揃った。1979年度は売上高100億円突破を達成し、売上高120億2,700万円(前年度比46%増)、半導体試験装置部門の売上高は約63億円(前年度比75%増)
- [20]1980年10月、40MHzメモリ・テスト・システムT-3331を発売。64kビット・256kビットDRAMや高速SRAMの量産ライン用・品質評価用に開発され、1979年発売の100MHzメモリ・テスト・システムのアーキテクチャおよびプログラムを採用。当時の市場では10〜20MHzが主流で、40MHz機の出現が競合各社に与えたインパクトは大きかった。1980年11月には20MHzメモリ・テスト・システムT-310/31Eを発売し、20MHz・40MHz・100MHzの機種が揃った。1979年度は売上高100億円突破を達成し、売上高120億2,700万円(前年度比46%増)、半導体試験装置部門の売上高は約63億円(前年度比75%増)
- [21]1980年10月、40MHzメモリ・テスト・システムT-3331を発売。64kビット・256kビットDRAMや高速SRAMの量産ライン用・品質評価用に開発され、1979年発売の100MHzメモリ・テスト・システムのアーキテクチャおよびプログラムを採用。当時の市場では10〜20MHzが主流で、40MHz機の出現が競合各社に与えたインパクトは大きかった。1980年11月には20MHzメモリ・テスト・システムT-310/31Eを発売し、20MHz・40MHz・100MHzの機種が揃った。1979年度は売上高100億円突破を達成し、売上高120億2,700万円(前年度比46%増)、半導体試験装置部門の売上高は約63億円(前年度比75%増)
- [22]1980年10月、40MHzメモリ・テスト・システムT-3331を発売。64kビット・256kビットDRAMや高速SRAMの量産ライン用・品質評価用に開発され、1979年発売の100MHzメモリ・テスト・システムのアーキテクチャおよびプログラムを採用。当時の市場では10〜20MHzが主流で、40MHz機の出現が競合各社に与えたインパクトは大きかった。1980年11月には20MHzメモリ・テスト・システムT-310/31Eを発売し、20MHz・40MHz・100MHzの機種が揃った。1979年度は売上高100億円突破を達成し、売上高120億2,700万円(前年度比46%増)、半導体試験装置部門の売上高は約63億円(前年度比75%増)
- [23]1980年10月、40MHzメモリ・テスト・システムT-3331を発売。64kビット・256kビットDRAMや高速SRAMの量産ライン用・品質評価用に開発され、1979年発売の100MHzメモリ・テスト・システムのアーキテクチャおよびプログラムを採用。当時の市場では10〜20MHzが主流で、40MHz機の出現が競合各社に与えたインパクトは大きかった。1980年11月には20MHzメモリ・テスト・システムT-310/31Eを発売し、20MHz・40MHz・100MHzの機種が揃った。1979年度は売上高100億円突破を達成し、売上高120億2,700万円(前年度比46%増)、半導体試験装置部門の売上高は約63億円(前年度比75%増)
- [24]1976年4月、生産本部(本部長・万永昇常務)が①CD(コストダウン)作戦②L(1/2)3(ロス半減)作戦③PAT1/H(パテント1人1件)作戦の3大作戦を展開。CD作戦は従来希薄であった製造原価意識を高め生産性を向上させる呼び掛け、L(1/2)3作戦は生産工程のロスを初年度1/2・2年目1/4にする目標、PAT1/H作戦は年間1人1件以上の特許取得運動。翌年にHR(High Reliability)作戦が加わり「4大作戦」へ拡大。成果として検査部QA課の設立によるシステムQA思想の確立、CE部の設立、原価プロジェクトの発足(のちの原価管理課)、実装試作室の発足。1979年8月にVE提案制度をスタートし、提案件数は1979年度283件、1980年度711件、1983年度1,241件
- [25]1976年4月、生産本部(本部長・万永昇常務)が①CD(コストダウン)作戦②L(1/2)3(ロス半減)作戦③PAT1/H(パテント1人1件)作戦の3大作戦を展開。CD作戦は従来希薄であった製造原価意識を高め生産性を向上させる呼び掛け、L(1/2)3作戦は生産工程のロスを初年度1/2・2年目1/4にする目標、PAT1/H作戦は年間1人1件以上の特許取得運動。翌年にHR(High Reliability)作戦が加わり「4大作戦」へ拡大。成果として検査部QA課の設立によるシステムQA思想の確立、CE部の設立、原価プロジェクトの発足(のちの原価管理課)、実装試作室の発足。1979年8月にVE提案制度をスタートし、提案件数は1979年度283件、1980年度711件、1983年度1,241件
- [26]1976年4月、生産本部(本部長・万永昇常務)が①CD(コストダウン)作戦②L(1/2)3(ロス半減)作戦③PAT1/H(パテント1人1件)作戦の3大作戦を展開。CD作戦は従来希薄であった製造原価意識を高め生産性を向上させる呼び掛け、L(1/2)3作戦は生産工程のロスを初年度1/2・2年目1/4にする目標、PAT1/H作戦は年間1人1件以上の特許取得運動。翌年にHR(High Reliability)作戦が加わり「4大作戦」へ拡大。成果として検査部QA課の設立によるシステムQA思想の確立、CE部の設立、原価プロジェクトの発足(のちの原価管理課)、実装試作室の発足。1979年8月にVE提案制度をスタートし、提案件数は1979年度283件、1980年度711件、1983年度1,241件
- [27]1976年4月、生産本部(本部長・万永昇常務)が①CD(コストダウン)作戦②L(1/2)3(ロス半減)作戦③PAT1/H(パテント1人1件)作戦の3大作戦を展開。CD作戦は従来希薄であった製造原価意識を高め生産性を向上させる呼び掛け、L(1/2)3作戦は生産工程のロスを初年度1/2・2年目1/4にする目標、PAT1/H作戦は年間1人1件以上の特許取得運動。翌年にHR(High Reliability)作戦が加わり「4大作戦」へ拡大。成果として検査部QA課の設立によるシステムQA思想の確立、CE部の設立、原価プロジェクトの発足(のちの原価管理課)、実装試作室の発足。1979年8月にVE提案制度をスタートし、提案件数は1979年度283件、1980年度711件、1983年度1,241件
- [28]1976年4月、生産本部(本部長・万永昇常務)が①CD(コストダウン)作戦②L(1/2)3(ロス半減)作戦③PAT1/H(パテント1人1件)作戦の3大作戦を展開。CD作戦は従来希薄であった製造原価意識を高め生産性を向上させる呼び掛け、L(1/2)3作戦は生産工程のロスを初年度1/2・2年目1/4にする目標、PAT1/H作戦は年間1人1件以上の特許取得運動。翌年にHR(High Reliability)作戦が加わり「4大作戦」へ拡大。成果として検査部QA課の設立によるシステムQA思想の確立、CE部の設立、原価プロジェクトの発足(のちの原価管理課)、実装試作室の発足。1979年8月にVE提案制度をスタートし、提案件数は1979年度283件、1980年度711件、1983年度1,241件
- [29]1976年4月、生産本部(本部長・万永昇常務)が①CD(コストダウン)作戦②L(1/2)3(ロス半減)作戦③PAT1/H(パテント1人1件)作戦の3大作戦を展開。CD作戦は従来希薄であった製造原価意識を高め生産性を向上させる呼び掛け、L(1/2)3作戦は生産工程のロスを初年度1/2・2年目1/4にする目標、PAT1/H作戦は年間1人1件以上の特許取得運動。翌年にHR(High Reliability)作戦が加わり「4大作戦」へ拡大。成果として検査部QA課の設立によるシステムQA思想の確立、CE部の設立、原価プロジェクトの発足(のちの原価管理課)、実装試作室の発足。1979年8月にVE提案制度をスタートし、提案件数は1979年度283件、1980年度711件、1983年度1,241件
- [31]海輪社長は1980年1月11日発行の「タケダニュース」新年号で「1982年には株式上場を」と方針を示し、行田工場新館の建設やカスタムLSIの自給の問題などの費用を株式市場に求めるためと説明。1980年3月、上場準備推進委員会(委員長・十河和貞副社長)を設置。資本金の額・業績・利益配当は既に適格要件を十分に満たしていたため、作業は社内体制の整備と上場申請書類の作成が中心。主幹事証券会社には日本勧業角丸証券株式会社を選定。1982年7月、東京証券取引所に上場申請を行ない受理された
- [32]海輪社長は1980年1月11日発行の「タケダニュース」新年号で「1982年には株式上場を」と方針を示し、行田工場新館の建設やカスタムLSIの自給の問題などの費用を株式市場に求めるためと説明。1980年3月、上場準備推進委員会(委員長・十河和貞副社長)を設置。資本金の額・業績・利益配当は既に適格要件を十分に満たしていたため、作業は社内体制の整備と上場申請書類の作成が中心。主幹事証券会社には日本勧業角丸証券株式会社を選定。1982年7月、東京証券取引所に上場申請を行ない受理された
- [33]海輪社長は1980年1月11日発行の「タケダニュース」新年号で「1982年には株式上場を」と方針を示し、行田工場新館の建設やカスタムLSIの自給の問題などの費用を株式市場に求めるためと説明。1980年3月、上場準備推進委員会(委員長・十河和貞副社長)を設置。資本金の額・業績・利益配当は既に適格要件を十分に満たしていたため、作業は社内体制の整備と上場申請書類の作成が中心。主幹事証券会社には日本勧業角丸証券株式会社を選定。1982年7月、東京証券取引所に上場申請を行ない受理された
- [34]海輪社長は1980年1月11日発行の「タケダニュース」新年号で「1982年には株式上場を」と方針を示し、行田工場新館の建設やカスタムLSIの自給の問題などの費用を株式市場に求めるためと説明。1980年3月、上場準備推進委員会(委員長・十河和貞副社長)を設置。資本金の額・業績・利益配当は既に適格要件を十分に満たしていたため、作業は社内体制の整備と上場申請書類の作成が中心。主幹事証券会社には日本勧業角丸証券株式会社を選定。1982年7月、東京証券取引所に上場申請を行ない受理された
- 日経ビジネス(1983年5月30日)
- [30]「メインバンクから退職した人をもらいました。Tさんという人です……この人はメーカーの原価計算さえ出来なかったのです」
- 証券 35(3)(408)(1983年3月)
- [35]タケダ理研工業株式会社は昭和58年2月9日に東京証券取引所市場第二部へ新規上場(所属部・業種・銘柄コードは市場第二部・電気機器・6857)
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)4章 上場を達成、社名もアドバンテストに
- [36]1983年2月9日に東京証券取引所市場第二部へ新規上場。公募価格2,750円に対しストップ高の3,150円の買い気配で終わり、株式公開以来8日目の2月18日に株価6,350円で初めて売買が成立。同時に発行価格1株当たり2,750円で300万株の時価発行増資を実施し、新資本金は46億2,500万円。調達された約82億円は設備投資資金に15億円、借入金の返済に15億円、残額を運転資金に充当
- [37]1983年2月9日に東京証券取引所市場第二部へ新規上場。公募価格2,750円に対しストップ高の3,150円の買い気配で終わり、株式公開以来8日目の2月18日に株価6,350円で初めて売買が成立。同時に発行価格1株当たり2,750円で300万株の時価発行増資を実施し、新資本金は46億2,500万円。調達された約82億円は設備投資資金に15億円、借入金の返済に15億円、残額を運転資金に充当
1984年〜生産集約から円高下の現地生産へ、ブランド名を社名に据えた改称
1984年4月、群馬県邑楽郡邑楽町の鞍掛第2工業団地に群馬工場が完成した。敷地面積88,500平方メートル、総床面積33,000平方メートルの平屋建てで、有価証券報告書の沿革は同年5月の新設として記録している。搬送設備にはエアパレットを導入した。最大約2.8トンまでの装置を載せたまま圧縮空気で床から約7ミリ浮かせ、荷重のおよそ1000分の1の力で動かせる装置で、これによって生産タクトに合わせた流れ生産が成り立った。従来は架台の組み立てからケーブリング、試験、エージング、出荷検査、解体までを同じ場所で行なう方式で、作業効率が著しく悪かった。群馬工場へ生産部門をすべて集約し、行田工場は製品開発を中心とする開発・技術センタへ衣替えしている。着工から落成までの工期は6か月だった。
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)4章 上場を達成、社名もアドバンテストに
- [38]1984年4月、群馬県邑楽郡邑楽町の鞍掛第2工業団地に群馬工場を建設。敷地面積88,500m2、建物は総床面積33,000m2の平屋建て。徹底的にFA化を図り、ICテスト・システムの生産方式には搬送設備としてエアパレットを導入して生産タクトに合わせた流れ生産を実現。エアパレットは最大重量約2.8トンまでのシステムを乗せたまま圧縮空気で約7mm浮上させ、荷重の約1/1000の力で移動させる装置。従来は架台組み立てからケーブリング、試験、エージング、出荷検査、解体までのすべての工程を同じ場所で行なう方式で作業効率が悪かった。群馬工場に生産部門をすべて集約し、行田工場は製品開発を中心とする「開発・技術センタ」に衣がえした。1983年6月に土地の分譲を受け、同年11月に着工、1984年4月に落成(工期6か月)
- [40]1984年4月、群馬県邑楽郡邑楽町の鞍掛第2工業団地に群馬工場を建設。敷地面積88,500m2、建物は総床面積33,000m2の平屋建て。徹底的にFA化を図り、ICテスト・システムの生産方式には搬送設備としてエアパレットを導入して生産タクトに合わせた流れ生産を実現。エアパレットは最大重量約2.8トンまでのシステムを乗せたまま圧縮空気で約7mm浮上させ、荷重の約1/1000の力で移動させる装置。従来は架台組み立てからケーブリング、試験、エージング、出荷検査、解体までのすべての工程を同じ場所で行なう方式で作業効率が悪かった。群馬工場に生産部門をすべて集約し、行田工場は製品開発を中心とする「開発・技術センタ」に衣がえした。1983年6月に土地の分譲を受け、同年11月に着工、1984年4月に落成(工期6か月)
- [41]1984年4月、群馬県邑楽郡邑楽町の鞍掛第2工業団地に群馬工場を建設。敷地面積88,500m2、建物は総床面積33,000m2の平屋建て。徹底的にFA化を図り、ICテスト・システムの生産方式には搬送設備としてエアパレットを導入して生産タクトに合わせた流れ生産を実現。エアパレットは最大重量約2.8トンまでのシステムを乗せたまま圧縮空気で約7mm浮上させ、荷重の約1/1000の力で移動させる装置。従来は架台組み立てからケーブリング、試験、エージング、出荷検査、解体までのすべての工程を同じ場所で行なう方式で作業効率が悪かった。群馬工場に生産部門をすべて集約し、行田工場は製品開発を中心とする「開発・技術センタ」に衣がえした。1983年6月に土地の分譲を受け、同年11月に着工、1984年4月に落成(工期6か月)
- [42]1984年4月、群馬県邑楽郡邑楽町の鞍掛第2工業団地に群馬工場を建設。敷地面積88,500m2、建物は総床面積33,000m2の平屋建て。徹底的にFA化を図り、ICテスト・システムの生産方式には搬送設備としてエアパレットを導入して生産タクトに合わせた流れ生産を実現。エアパレットは最大重量約2.8トンまでのシステムを乗せたまま圧縮空気で約7mm浮上させ、荷重の約1/1000の力で移動させる装置。従来は架台組み立てからケーブリング、試験、エージング、出荷検査、解体までのすべての工程を同じ場所で行なう方式で作業効率が悪かった。群馬工場に生産部門をすべて集約し、行田工場は製品開発を中心とする「開発・技術センタ」に衣がえした。1983年6月に土地の分譲を受け、同年11月に着工、1984年4月に落成(工期6か月)
- [43]1984年4月、群馬県邑楽郡邑楽町の鞍掛第2工業団地に群馬工場を建設。敷地面積88,500m2、建物は総床面積33,000m2の平屋建て。徹底的にFA化を図り、ICテスト・システムの生産方式には搬送設備としてエアパレットを導入して生産タクトに合わせた流れ生産を実現。エアパレットは最大重量約2.8トンまでのシステムを乗せたまま圧縮空気で約7mm浮上させ、荷重の約1/1000の力で移動させる装置。従来は架台組み立てからケーブリング、試験、エージング、出荷検査、解体までのすべての工程を同じ場所で行なう方式で作業効率が悪かった。群馬工場に生産部門をすべて集約し、行田工場は製品開発を中心とする「開発・技術センタ」に衣がえした。1983年6月に土地の分譲を受け、同年11月に着工、1984年4月に落成(工期6か月)
- [44]1984年4月、群馬県邑楽郡邑楽町の鞍掛第2工業団地に群馬工場を建設。敷地面積88,500m2、建物は総床面積33,000m2の平屋建て。徹底的にFA化を図り、ICテスト・システムの生産方式には搬送設備としてエアパレットを導入して生産タクトに合わせた流れ生産を実現。エアパレットは最大重量約2.8トンまでのシステムを乗せたまま圧縮空気で約7mm浮上させ、荷重の約1/1000の力で移動させる装置。従来は架台組み立てからケーブリング、試験、エージング、出荷検査、解体までのすべての工程を同じ場所で行なう方式で作業効率が悪かった。群馬工場に生産部門をすべて集約し、行田工場は製品開発を中心とする「開発・技術センタ」に衣がえした。1983年6月に土地の分譲を受け、同年11月に着工、1984年4月に落成(工期6か月)
- アドバンテスト 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- [39]1984年5月、群馬工場を新設
1985年10月1日、タケダ理研工業は社名を株式会社アドバンテストへ変更した。創業以来使ってきた社名を簡明で先進的な名へ改めて企業イメージを一新するねらいで、新社名にはICテスト・システムの製品ブランド名として国内外に浸透していた名称をそのまま採っている。同年9月2日には東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、二部上場から2年7か月という速さだった。1979年に100メガヘルツ機を出した時点の同社の占有率は7.8%で、フェアチャイルド・カメラ・アンド・インストゥルメント(35.4%)とテラダイン(19.4%)を大きく下回る3位だった。それが1985年には、米国の調査会社プライム・データの調べで世界のICテスト・システム市場の23.3%を握って第1位となり、2位のシュルンベルジェ・テクノロジーズ(17.0%)、3位のテラダイン(13.3%)を上回った。同じ期間に半導体試験装置の売上高は1979年の約63億円から1985年の約514億円となり、8.2倍に拡大している。
- アドバンテスト 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- [45]1985年10月、商号をアドバンテストに変更
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)4章 上場を達成、社名もアドバンテストに
- [46]1985年10月1日、社名を「株式会社アドバンテスト」に変更。創業以来永年使用してきた「タケダ理研工業株式会社」を簡明でより先進的な社名に変更し企業イメージを一新することをねらいとし、新社名は従来よりICテスト・システムの製品ブランド名として国内外に浸透していた「アドバンテスト ADVANTEST」を採用した。1985年1月に市場第一部昇格準備委員会を設置し、同年6月20日に東京証券取引所へ諸資料を提出、約2か月の審査を経て同年9月2日に市場第一部へ指定替え。市場第二部への上場から2年7か月
- [47]1985年10月1日、社名を「株式会社アドバンテスト」に変更。創業以来永年使用してきた「タケダ理研工業株式会社」を簡明でより先進的な社名に変更し企業イメージを一新することをねらいとし、新社名は従来よりICテスト・システムの製品ブランド名として国内外に浸透していた「アドバンテスト ADVANTEST」を採用した。1985年1月に市場第一部昇格準備委員会を設置し、同年6月20日に東京証券取引所へ諸資料を提出、約2か月の審査を経て同年9月2日に市場第一部へ指定替え。市場第二部への上場から2年7か月
- [48]米国の調査会社プライム・データ社の調査によると、1985年の世界のICテスト・システム市場における同社の市場占有率は23.3%で第1位。第2位はSchlumberger Technologies(米)17.0%、第3位はTeradyne Inc.(米)13.3%。1979年(100MHz超LSIテスト・システム発売の年)は同社7.8%で、Fairchild Camera & Instrument Corp.(米)35.4%、Teradyne Inc. 19.4%に次ぐ第3位だった。半導体試験装置の売上高は1979年の約63億円から1985年の約514億円まで8.2倍の成長
- [49]米国の調査会社プライム・データ社の調査によると、1985年の世界のICテスト・システム市場における同社の市場占有率は23.3%で第1位。第2位はSchlumberger Technologies(米)17.0%、第3位はTeradyne Inc.(米)13.3%。1979年(100MHz超LSIテスト・システム発売の年)は同社7.8%で、Fairchild Camera & Instrument Corp.(米)35.4%、Teradyne Inc. 19.4%に次ぐ第3位だった。半導体試験装置の売上高は1979年の約63億円から1985年の約514億円まで8.2倍の成長
- [50]米国の調査会社プライム・データ社の調査によると、1985年の世界のICテスト・システム市場における同社の市場占有率は23.3%で第1位。第2位はSchlumberger Technologies(米)17.0%、第3位はTeradyne Inc.(米)13.3%。1979年(100MHz超LSIテスト・システム発売の年)は同社7.8%で、Fairchild Camera & Instrument Corp.(米)35.4%、Teradyne Inc. 19.4%に次ぐ第3位だった。半導体試験装置の売上高は1979年の約63億円から1985年の約514億円まで8.2倍の成長
- [51]米国の調査会社プライム・データ社の調査によると、1985年の世界のICテスト・システム市場における同社の市場占有率は23.3%で第1位。第2位はSchlumberger Technologies(米)17.0%、第3位はTeradyne Inc.(米)13.3%。1979年(100MHz超LSIテスト・システム発売の年)は同社7.8%で、Fairchild Camera & Instrument Corp.(米)35.4%、Teradyne Inc. 19.4%に次ぐ第3位だった。半導体試験装置の売上高は1979年の約63億円から1985年の約514億円まで8.2倍の成長
1987年1月、円相場は戦後はじめて150円を突破した。翌1988年1月には121円まで上がり、新高値をつけている。これに先立ち、佐々木甫社長は1987年1月1日発行の社内報で、いかなる局面にも耐えうる経営の仕組みを備えたグローバル企業への転換を求めた。そのためには開発・財務・購買・販売の戦略をいずれも国際化せねばならない、というのが社長の主張である。アドバンテストが同業他社より先にICテスト・システムの現地生産を米国で始めたのは、その年の10月である。イリノイ州バッファローグローブに床面積約5,000平方メートルの工場を確保し、現地法人Advantest America へシステム生産部門を置いて、ノックダウン生産から着手している。1988年時点で米国・欧州・アジアに18か所の販売拠点を持ち、これらはAGNESと呼ぶネットワークで日本と結ばれ、販売情報・保守情報・経営情報・電子メール・経費管理をやりとりした。売りきりで済まない製品を輸出するには、保守と応用ソフトを現地で供給する体制が先に要る。
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)5章 グローバル企業への挑戦
- [52]1987年10月、同業他社に先駆けてICテスト・システムの米国における現地生産を開始。現地法人Advantest America, Inc.にSystem Production Division(SPD)を開設し、イリノイ州バッファローグルーブに床面積約5,000m2の工場を確保、当初はテスト・システム・ソフトウエア環境ADVANsite、メモリ・テスト・システムのノックダウン生産を行なった。1987年1月に戦後初めて150円を超えた円高は、1988年1月には121円の新高値を記録した
- [53]佐々木社長は1987年1月1日発行の「アドバンテスト・ニュース」第70号の年頭あいさつで「思い切って視点を変える必要がある。それはアドバンテストの企業としてのグローバル化である。どんな状況に対しても対処できる、全天候型経営システムを持つ『グローバル企業』へ変貌して行かなければならない。開発、財務、購買、販売の各戦略をグローバル化して行く必要がある」と述べた
- [54]1987年10月、同業他社に先駆けてICテスト・システムの米国における現地生産を開始。現地法人Advantest America, Inc.にSystem Production Division(SPD)を開設し、イリノイ州バッファローグルーブに床面積約5,000m2の工場を確保、当初はテスト・システム・ソフトウエア環境ADVANsite、メモリ・テスト・システムのノックダウン生産を行なった。1987年1月に戦後初めて150円を超えた円高は、1988年1月には121円の新高値を記録した
- [55]1987年10月、同業他社に先駆けてICテスト・システムの米国における現地生産を開始。現地法人Advantest America, Inc.にSystem Production Division(SPD)を開設し、イリノイ州バッファローグルーブに床面積約5,000m2の工場を確保、当初はテスト・システム・ソフトウエア環境ADVANsite、メモリ・テスト・システムのノックダウン生産を行なった。1987年1月に戦後初めて150円を超えた円高は、1988年1月には121円の新高値を記録した
- ヤノ・レポート(1988年12月7日)
- [56]アドバンテストは米国・欧州・アジアに18ヵ所の販売拠点を持ち、米国にはテスタの生産拠点とソフトウエアの開発・研究拠点も持つ。これらの拠点はグローバル・ネットワークAGNESで日本と結ばれ、販売情報、メンテナンス情報、経営情報、電子メール、経費管理などの情報交換を行なっている。半導体製造装置はサービス体制をつけた上での輸出が重要な製品で、現地法人・現地法人支店がいずれもサービス・ステーション機能を持つ
- [57]アドバンテストは米国・欧州・アジアに18ヵ所の販売拠点を持ち、米国にはテスタの生産拠点とソフトウエアの開発・研究拠点も持つ。これらの拠点はグローバル・ネットワークAGNESで日本と結ばれ、販売情報、メンテナンス情報、経営情報、電子メール、経費管理などの情報交換を行なっている。半導体製造装置はサービス体制をつけた上での輸出が重要な製品で、現地法人・現地法人支店がいずれもサービス・ステーション機能を持つ
参考文献[38]-[57]
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)4章 上場を達成、社名もアドバンテストに
- [38]1984年4月、群馬県邑楽郡邑楽町の鞍掛第2工業団地に群馬工場を建設。敷地面積88,500m2、建物は総床面積33,000m2の平屋建て。徹底的にFA化を図り、ICテスト・システムの生産方式には搬送設備としてエアパレットを導入して生産タクトに合わせた流れ生産を実現。エアパレットは最大重量約2.8トンまでのシステムを乗せたまま圧縮空気で約7mm浮上させ、荷重の約1/1000の力で移動させる装置。従来は架台組み立てからケーブリング、試験、エージング、出荷検査、解体までのすべての工程を同じ場所で行なう方式で作業効率が悪かった。群馬工場に生産部門をすべて集約し、行田工場は製品開発を中心とする「開発・技術センタ」に衣がえした。1983年6月に土地の分譲を受け、同年11月に着工、1984年4月に落成(工期6か月)
- [40]1984年4月、群馬県邑楽郡邑楽町の鞍掛第2工業団地に群馬工場を建設。敷地面積88,500m2、建物は総床面積33,000m2の平屋建て。徹底的にFA化を図り、ICテスト・システムの生産方式には搬送設備としてエアパレットを導入して生産タクトに合わせた流れ生産を実現。エアパレットは最大重量約2.8トンまでのシステムを乗せたまま圧縮空気で約7mm浮上させ、荷重の約1/1000の力で移動させる装置。従来は架台組み立てからケーブリング、試験、エージング、出荷検査、解体までのすべての工程を同じ場所で行なう方式で作業効率が悪かった。群馬工場に生産部門をすべて集約し、行田工場は製品開発を中心とする「開発・技術センタ」に衣がえした。1983年6月に土地の分譲を受け、同年11月に着工、1984年4月に落成(工期6か月)
- [41]1984年4月、群馬県邑楽郡邑楽町の鞍掛第2工業団地に群馬工場を建設。敷地面積88,500m2、建物は総床面積33,000m2の平屋建て。徹底的にFA化を図り、ICテスト・システムの生産方式には搬送設備としてエアパレットを導入して生産タクトに合わせた流れ生産を実現。エアパレットは最大重量約2.8トンまでのシステムを乗せたまま圧縮空気で約7mm浮上させ、荷重の約1/1000の力で移動させる装置。従来は架台組み立てからケーブリング、試験、エージング、出荷検査、解体までのすべての工程を同じ場所で行なう方式で作業効率が悪かった。群馬工場に生産部門をすべて集約し、行田工場は製品開発を中心とする「開発・技術センタ」に衣がえした。1983年6月に土地の分譲を受け、同年11月に着工、1984年4月に落成(工期6か月)
- [42]1984年4月、群馬県邑楽郡邑楽町の鞍掛第2工業団地に群馬工場を建設。敷地面積88,500m2、建物は総床面積33,000m2の平屋建て。徹底的にFA化を図り、ICテスト・システムの生産方式には搬送設備としてエアパレットを導入して生産タクトに合わせた流れ生産を実現。エアパレットは最大重量約2.8トンまでのシステムを乗せたまま圧縮空気で約7mm浮上させ、荷重の約1/1000の力で移動させる装置。従来は架台組み立てからケーブリング、試験、エージング、出荷検査、解体までのすべての工程を同じ場所で行なう方式で作業効率が悪かった。群馬工場に生産部門をすべて集約し、行田工場は製品開発を中心とする「開発・技術センタ」に衣がえした。1983年6月に土地の分譲を受け、同年11月に着工、1984年4月に落成(工期6か月)
- [43]1984年4月、群馬県邑楽郡邑楽町の鞍掛第2工業団地に群馬工場を建設。敷地面積88,500m2、建物は総床面積33,000m2の平屋建て。徹底的にFA化を図り、ICテスト・システムの生産方式には搬送設備としてエアパレットを導入して生産タクトに合わせた流れ生産を実現。エアパレットは最大重量約2.8トンまでのシステムを乗せたまま圧縮空気で約7mm浮上させ、荷重の約1/1000の力で移動させる装置。従来は架台組み立てからケーブリング、試験、エージング、出荷検査、解体までのすべての工程を同じ場所で行なう方式で作業効率が悪かった。群馬工場に生産部門をすべて集約し、行田工場は製品開発を中心とする「開発・技術センタ」に衣がえした。1983年6月に土地の分譲を受け、同年11月に着工、1984年4月に落成(工期6か月)
- [44]1984年4月、群馬県邑楽郡邑楽町の鞍掛第2工業団地に群馬工場を建設。敷地面積88,500m2、建物は総床面積33,000m2の平屋建て。徹底的にFA化を図り、ICテスト・システムの生産方式には搬送設備としてエアパレットを導入して生産タクトに合わせた流れ生産を実現。エアパレットは最大重量約2.8トンまでのシステムを乗せたまま圧縮空気で約7mm浮上させ、荷重の約1/1000の力で移動させる装置。従来は架台組み立てからケーブリング、試験、エージング、出荷検査、解体までのすべての工程を同じ場所で行なう方式で作業効率が悪かった。群馬工場に生産部門をすべて集約し、行田工場は製品開発を中心とする「開発・技術センタ」に衣がえした。1983年6月に土地の分譲を受け、同年11月に着工、1984年4月に落成(工期6か月)
- [46]1985年10月1日、社名を「株式会社アドバンテスト」に変更。創業以来永年使用してきた「タケダ理研工業株式会社」を簡明でより先進的な社名に変更し企業イメージを一新することをねらいとし、新社名は従来よりICテスト・システムの製品ブランド名として国内外に浸透していた「アドバンテスト ADVANTEST」を採用した。1985年1月に市場第一部昇格準備委員会を設置し、同年6月20日に東京証券取引所へ諸資料を提出、約2か月の審査を経て同年9月2日に市場第一部へ指定替え。市場第二部への上場から2年7か月
- [47]1985年10月1日、社名を「株式会社アドバンテスト」に変更。創業以来永年使用してきた「タケダ理研工業株式会社」を簡明でより先進的な社名に変更し企業イメージを一新することをねらいとし、新社名は従来よりICテスト・システムの製品ブランド名として国内外に浸透していた「アドバンテスト ADVANTEST」を採用した。1985年1月に市場第一部昇格準備委員会を設置し、同年6月20日に東京証券取引所へ諸資料を提出、約2か月の審査を経て同年9月2日に市場第一部へ指定替え。市場第二部への上場から2年7か月
- [48]米国の調査会社プライム・データ社の調査によると、1985年の世界のICテスト・システム市場における同社の市場占有率は23.3%で第1位。第2位はSchlumberger Technologies(米)17.0%、第3位はTeradyne Inc.(米)13.3%。1979年(100MHz超LSIテスト・システム発売の年)は同社7.8%で、Fairchild Camera & Instrument Corp.(米)35.4%、Teradyne Inc. 19.4%に次ぐ第3位だった。半導体試験装置の売上高は1979年の約63億円から1985年の約514億円まで8.2倍の成長
- [49]米国の調査会社プライム・データ社の調査によると、1985年の世界のICテスト・システム市場における同社の市場占有率は23.3%で第1位。第2位はSchlumberger Technologies(米)17.0%、第3位はTeradyne Inc.(米)13.3%。1979年(100MHz超LSIテスト・システム発売の年)は同社7.8%で、Fairchild Camera & Instrument Corp.(米)35.4%、Teradyne Inc. 19.4%に次ぐ第3位だった。半導体試験装置の売上高は1979年の約63億円から1985年の約514億円まで8.2倍の成長
- [50]米国の調査会社プライム・データ社の調査によると、1985年の世界のICテスト・システム市場における同社の市場占有率は23.3%で第1位。第2位はSchlumberger Technologies(米)17.0%、第3位はTeradyne Inc.(米)13.3%。1979年(100MHz超LSIテスト・システム発売の年)は同社7.8%で、Fairchild Camera & Instrument Corp.(米)35.4%、Teradyne Inc. 19.4%に次ぐ第3位だった。半導体試験装置の売上高は1979年の約63億円から1985年の約514億円まで8.2倍の成長
- [51]米国の調査会社プライム・データ社の調査によると、1985年の世界のICテスト・システム市場における同社の市場占有率は23.3%で第1位。第2位はSchlumberger Technologies(米)17.0%、第3位はTeradyne Inc.(米)13.3%。1979年(100MHz超LSIテスト・システム発売の年)は同社7.8%で、Fairchild Camera & Instrument Corp.(米)35.4%、Teradyne Inc. 19.4%に次ぐ第3位だった。半導体試験装置の売上高は1979年の約63億円から1985年の約514億円まで8.2倍の成長
- アドバンテスト 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- [39]1984年5月、群馬工場を新設
- [45]1985年10月、商号をアドバンテストに変更
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)5章 グローバル企業への挑戦
- [52]1987年10月、同業他社に先駆けてICテスト・システムの米国における現地生産を開始。現地法人Advantest America, Inc.にSystem Production Division(SPD)を開設し、イリノイ州バッファローグルーブに床面積約5,000m2の工場を確保、当初はテスト・システム・ソフトウエア環境ADVANsite、メモリ・テスト・システムのノックダウン生産を行なった。1987年1月に戦後初めて150円を超えた円高は、1988年1月には121円の新高値を記録した
- [53]佐々木社長は1987年1月1日発行の「アドバンテスト・ニュース」第70号の年頭あいさつで「思い切って視点を変える必要がある。それはアドバンテストの企業としてのグローバル化である。どんな状況に対しても対処できる、全天候型経営システムを持つ『グローバル企業』へ変貌して行かなければならない。開発、財務、購買、販売の各戦略をグローバル化して行く必要がある」と述べた
- [54]1987年10月、同業他社に先駆けてICテスト・システムの米国における現地生産を開始。現地法人Advantest America, Inc.にSystem Production Division(SPD)を開設し、イリノイ州バッファローグルーブに床面積約5,000m2の工場を確保、当初はテスト・システム・ソフトウエア環境ADVANsite、メモリ・テスト・システムのノックダウン生産を行なった。1987年1月に戦後初めて150円を超えた円高は、1988年1月には121円の新高値を記録した
- [55]1987年10月、同業他社に先駆けてICテスト・システムの米国における現地生産を開始。現地法人Advantest America, Inc.にSystem Production Division(SPD)を開設し、イリノイ州バッファローグルーブに床面積約5,000m2の工場を確保、当初はテスト・システム・ソフトウエア環境ADVANsite、メモリ・テスト・システムのノックダウン生産を行なった。1987年1月に戦後初めて150円を超えた円高は、1988年1月には121円の新高値を記録した
- ヤノ・レポート(1988年12月7日)
- [56]アドバンテストは米国・欧州・アジアに18ヵ所の販売拠点を持ち、米国にはテスタの生産拠点とソフトウエアの開発・研究拠点も持つ。これらの拠点はグローバル・ネットワークAGNESで日本と結ばれ、販売情報、メンテナンス情報、経営情報、電子メール、経費管理などの情報交換を行なっている。半導体製造装置はサービス体制をつけた上での輸出が重要な製品で、現地法人・現地法人支店がいずれもサービス・ステーション機能を持つ
- [57]アドバンテストは米国・欧州・アジアに18ヵ所の販売拠点を持ち、米国にはテスタの生産拠点とソフトウエアの開発・研究拠点も持つ。これらの拠点はグローバル・ネットワークAGNESで日本と結ばれ、販売情報、メンテナンス情報、経営情報、電子メール、経費管理などの情報交換を行なっている。半導体製造装置はサービス体制をつけた上での輸出が重要な製品で、現地法人・現地法人支店がいずれもサービス・ステーション機能を持つ
筆者考察
救済出資は金を入れる行為ではなく、何をやめるかを他人に決めさせる行為である。1976年2月、富士通28%を筆頭に5社が64%の株式を握り、第一勧業銀行と富士通から役員が入った。そこから始まったのは、デジタル計測器300機種のうち100機種の生産打ち切り、コンピュータ計測システムの製造販売の中止、米国現地法人の清算、日本ミニコンピュータへの出資の36%から3%への引き下げだった。創業者が10年後のために積み上げた事業は、ほぼすべてが畳まれている。残ったのは、赤字の原因の一つでもあったICテスト・システムだった。
捨てた事業の人員が一つの製品群へ集まったことが、結果として集中を生んだ。1979年に電電公社の研究所の指導で世界最高性能の100メガヘルツ機を先に作り、その設計を40メガヘルツ、20メガヘルツへ降ろす順序を採ったため、最も需要の厚い40メガヘルツを他社より早く供給できた。世界シェアは1979年の7.8%・第3位から、1985年には23.3%・第1位へ移る。1985年10月、会社は製品のブランド名だったアドバンテストを社名に据えた。タケダの名を外したのは、創業者の会社であることをやめる手続きでもあった。
- 棒はすべて単体。
- 出所は1985年3月期までが会社年鑑、1986年3月期以降がヤノ・レポート(1988年12月7日)。
1976年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1976年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 77 | n/a | 3 | 5 | 7.1% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 75 | ▲2.5% | 5 | 5 | 7.3% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 83 | +10.2% | 5 | 2 | 2.8% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 120 | +44.2% | 13 | 5 | 4.6% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 176 | +46.7% | 27 | 12 | 7.0% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 209 | +18.8% | 25 | 14 | 6.9% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 273 | +30.6% | 43 | 20 | 7.4% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 392 | +43.6% | 77 | 38 | 9.8% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 647 | +65.1% | 170 | 77 | 12.0% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | 665 | +2.8% | n/a | 70 | 10.7% | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | 419 | ▲37.0% | n/a | 23 | 5.5% | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | 541 | +29.1% | n/a | 30 | 5.6% | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑、ヤノ、レポート
出典・参考
8件
- アドバンテスト 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)3章 新しい体制で、新たなスタート
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)4章 上場を達成、社名もアドバンテストに
- アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)5章 グローバル企業への挑戦
- 証券アナリストジャーナル 21(3)(1983年3月)(佐々木甫)
- 日経ビジネス(1983年5月30日)
- 証券 35(3)(408)(1983年3月)
- ヤノ・レポート(1988年12月7日)