第1章 年〜年

アドバンテスト:タケダ理研工業の設立とコンピュータ計測事業の失敗

1954年〜逓信省の研究所を出た技術者が選んだ計測器ニッチ戦略

1954年12月、武田郁夫氏は電子計測器専門メーカーとして資本金50万円のタケダ理研工業株式会社を愛知県豊橋市に設立した。武田氏は1945年に日本大学理工学部電気工学科を出て逓信省電気研究所に入り、1948年に電電公社電気通信研究所へ移ったのち1950年に研究所を離れており、創業は31歳のときだった。創業期のタケダ理研が採った戦略は独特で、日立や三菱といった電機大手が目を向けない電子計測器のニッチな市場で技術を掘り下げる選択をし、武田氏は後に商売が下手だったから技術を武器にするしかなかったと自らの経営方針を振り返っている。代替品の存在しない独自製品を価格競争と無縁の高値で販売し、零細企業ながら高い利益率を確保するビジネスモデルは、やがて米GE社の副社長が直接訪ねてくるほどの技術評価を獲得した。

  • アドバンテスト 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1954年12月、電子計測器専門メーカーとして資本金50万円でタケダ理研工業株式会社を愛知県豊橋市に設立
  • 日経ビジネス(1983年5月30日)
    • [2]武田郁夫氏は1923年4月6日生まれ・愛知県出身。1945年9月日本大学理工学部電気工学科卒、同年10月逓信省電気研究所(現・電総研)勤務、1948年電電公社電気通信研究所へ転籍、1950年同研究所退職、1954年タケダ理研工業を創立し社長に
    • [3]「測定器という大企業があまり目を向けない分野で、技術を掘り下げてユニークな商品を生み出し、コストに関係なく高い値段で販売できました」「商売が下手であったために技術を武器にするしかなかったことが、むしろ幸いした」「零細企業なのに米国GE社の副社長が訪れて来たり、通産省から多額の補助金をいただいたりしました」
    • [4]「測定器という大企業があまり目を向けない分野で、技術を掘り下げてユニークな商品を生み出し、コストに関係なく高い値段で販売できました」「商売が下手であったために技術を武器にするしかなかったことが、むしろ幸いした」「零細企業なのに米国GE社の副社長が訪れて来たり、通産省から多額の補助金をいただいたりしました」
    • [5]「測定器という大企業があまり目を向けない分野で、技術を掘り下げてユニークな商品を生み出し、コストに関係なく高い値段で販売できました」「商売が下手であったために技術を武器にするしかなかったことが、むしろ幸いした」「零細企業なのに米国GE社の副社長が訪れて来たり、通産省から多額の補助金をいただいたりしました」

1秒間に9桁の周波数を測れる周波数カウンタを1962年に出すと、この製品は高い評価を受けた。それに先立ち、タケダ理研は1957年2月に本店を東京都板橋区へ移し、1959年4月には本部機構と工場を練馬区旭町に新築して移ることで、生産と販売を一体で動かせる体制を整えていた。1967年から68年にかけて武田氏はコンピュータ計測事業部を立ち上げ、「測定とは人間にとっての科学情報の認識である」という考え方と「単品からシステムへ」という社内標語を掲げて、コンピュータ計測システムの開発に本腰で資金を投じた。実用に足る国産ミニコンピュータはまだなく、輸入の道も閉ざされていた。そこで同社は業界の有志に呼びかけ、通産省の支援を得て日本ミニコン(現在の日本データゼネラル)を設立し、発足時の人員のうち9割を自社の技術者でまかなった。

  • 情報通信ジャーナル(1997年)「続・テレコムインタビュー 情報通信と私(81) 株式会社アドバンテスト代表取締役社長 大浦溥氏」
    • [6]「1962年には、1秒間に9桁の周波数を測定できる周波数カウンタを世に出し、高く評価されたのです」(大浦溥社長)
  • アドバンテスト 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1957年2月、本店を東京都板橋区に移転
    • [8]1959年4月、本部機構ならびに工場を東京都練馬区旭町に新築移転
  • 日経ビジネス(1983年5月30日)
    • [9]「コンピューター計測事業部を発足させ……42〜43年頃から“単品よサヨウナラ、システムよコンニチワ作戦”を展開、コンピューター計測システムの開発投資を本格化」「業界有志を募って、通産省の後立てで日本ミニコン(現在の日本データゼネラル)を創業……スタート時の構成人員は90%がタケダ理研の送った技術者たち」
    • [10]「コンピューター計測事業部を発足させ……42〜43年頃から“単品よサヨウナラ、システムよコンニチワ作戦”を展開、コンピューター計測システムの開発投資を本格化」「業界有志を募って、通産省の後立てで日本ミニコン(現在の日本データゼネラル)を創業……スタート時の構成人員は90%がタケダ理研の送った技術者たち」

技術で押し切る経営は、資金を出す側との対話を欠いたまま進んだ。武田氏はメインバンクの第一勧業銀行に経営を見る人材の派遣を求めたが、最初の出向者は在庫管理の失敗を強く叱責されたことで二年の任期を終えると銀行へ戻ってしまう。次に迎え入れた銀行退職者のT常務にいたっては、メーカーの原価計算さえできなかったと武田氏自身が述懐する人物だった。原価計算という製造業の基本すら社内に根づかないまま開発投資だけが積み上がる体質が固まっていったが、代替品のないニッチ製品で稼ぐビジネスモデルが通用するうちは、経営管理の空白が決定的な問題として表面化することはなかった。

  • 日経ビジネス(1983年5月30日)
    • [11]「経営をみる人を派遣してもらいました。メインバンク第一勧業銀行とのパイプ役です。最初の人は有能な人でした……その人が在庫管理で失敗した時、きつくしかりました。2年の出向期間を終えて、その人は『ついていく自信がなくなった』と銀行へ戻って行きました」
    • [12]「メインバンクから退職した人をもらいました。Tさんという人です……この人はメーカーの原価計算さえ出来なかったのです」
    • [13]「武田時代のタケダ理研は経営管理の大切さが軽視されていた」(記事本文の解説)
参考文献[1]-[13]
  • アドバンテスト 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1954年12月、電子計測器専門メーカーとして資本金50万円でタケダ理研工業株式会社を愛知県豊橋市に設立
    • [7]1957年2月、本店を東京都板橋区に移転
    • [8]1959年4月、本部機構ならびに工場を東京都練馬区旭町に新築移転
  • 日経ビジネス(1983年5月30日)
    • [2]武田郁夫氏は1923年4月6日生まれ・愛知県出身。1945年9月日本大学理工学部電気工学科卒、同年10月逓信省電気研究所(現・電総研)勤務、1948年電電公社電気通信研究所へ転籍、1950年同研究所退職、1954年タケダ理研工業を創立し社長に
    • [3]「測定器という大企業があまり目を向けない分野で、技術を掘り下げてユニークな商品を生み出し、コストに関係なく高い値段で販売できました」「商売が下手であったために技術を武器にするしかなかったことが、むしろ幸いした」「零細企業なのに米国GE社の副社長が訪れて来たり、通産省から多額の補助金をいただいたりしました」
    • [4]「測定器という大企業があまり目を向けない分野で、技術を掘り下げてユニークな商品を生み出し、コストに関係なく高い値段で販売できました」「商売が下手であったために技術を武器にするしかなかったことが、むしろ幸いした」「零細企業なのに米国GE社の副社長が訪れて来たり、通産省から多額の補助金をいただいたりしました」
    • [5]「測定器という大企業があまり目を向けない分野で、技術を掘り下げてユニークな商品を生み出し、コストに関係なく高い値段で販売できました」「商売が下手であったために技術を武器にするしかなかったことが、むしろ幸いした」「零細企業なのに米国GE社の副社長が訪れて来たり、通産省から多額の補助金をいただいたりしました」
    • [9]「コンピューター計測事業部を発足させ……42〜43年頃から“単品よサヨウナラ、システムよコンニチワ作戦”を展開、コンピューター計測システムの開発投資を本格化」「業界有志を募って、通産省の後立てで日本ミニコン(現在の日本データゼネラル)を創業……スタート時の構成人員は90%がタケダ理研の送った技術者たち」
    • [10]「コンピューター計測事業部を発足させ……42〜43年頃から“単品よサヨウナラ、システムよコンニチワ作戦”を展開、コンピューター計測システムの開発投資を本格化」「業界有志を募って、通産省の後立てで日本ミニコン(現在の日本データゼネラル)を創業……スタート時の構成人員は90%がタケダ理研の送った技術者たち」
    • [11]「経営をみる人を派遣してもらいました。メインバンク第一勧業銀行とのパイプ役です。最初の人は有能な人でした……その人が在庫管理で失敗した時、きつくしかりました。2年の出向期間を終えて、その人は『ついていく自信がなくなった』と銀行へ戻って行きました」
    • [12]「メインバンクから退職した人をもらいました。Tさんという人です……この人はメーカーの原価計算さえ出来なかったのです」
    • [13]「武田時代のタケダ理研は経営管理の大切さが軽視されていた」(記事本文の解説)
  • 情報通信ジャーナル(1997年)「続・テレコムインタビュー 情報通信と私(81) 株式会社アドバンテスト代表取締役社長 大浦溥氏」
    • [6]「1962年には、1秒間に9桁の周波数を測定できる周波数カウンタを世に出し、高く評価されたのです」(大浦溥社長)

1968年〜補助金と半導体メーカの要求が引き出した国産初のICテスト・システム

集積回路の国内生産は1967年に300万個、翌1968年には1,900万個へと跳ね上がったが、国内で最初の試作は1961年の電気試験所によるもので、工業化の段階に入ったのは1966年のことだった。研究開発にも生産にも使う半導体製造設備は大半を米国から買い入れており、試験装置でも国産で目を引くものはなかった。タケダ理研は1968年、通商産業省から昭和43年度重要技術研究開発費補助金を受け、日本電子工業振興協会・岩崎通信機と組んで集積回路の試験装置の開発を始めた。当時の同社はコンピュータ計測システムや輸入商品の扱いにも事業を広げたことで設備・人員・借入金がいっせいに増え、本業の電子計測器を除けば採算に乗らない状態にあり、輸入品が占める市場に次の狙いを定めた判断は、この採算悪化と表裏をなしていた。

  • アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)2章 システム計測への展開
    • [14]国内の集積回路の開発は1961年に電気試験所が試作品を完成したのが最初で、工業化は1966年から。国内生産は1967年に300万個、1968年に1,900万個へ急増。当時の半導体製造設備はほとんどが米国からの輸入品で、国産のICテスト・システムに良いものが無かった
    • [15]国内の集積回路の開発は1961年に電気試験所が試作品を完成したのが最初で、工業化は1966年から。国内生産は1967年に300万個、1968年に1,900万個へ急増。当時の半導体製造設備はほとんどが米国からの輸入品で、国産のICテスト・システムに良いものが無かった
    • [16]1968年、通商産業省の昭和43年度重要技術研究開発費補助金の交付を受け、日本電子工業振興協会ならびに岩崎通信機株式会社との共同研究により、ダイナミック・パラメトリック試験・ダイナミック・ファンクショナル試験を中心とした試験システムの開発に着手
  • 証券 35(3)(408)(1983年3月)
    • [17]昭和40年代の中盤から、ミニコンピュータにより電子計測器を制御するコンピュータ計測システム、IC・LSIテストシステム、外国メーカーとの提携による輸入商品の取扱いなどへ事業を拡大。これに伴い設備・人員・借入金などが増大し、固定費負担が増加するなかで、従来からの電子計測器事業以外は採算が取れない状態が続いた

半導体メーカにとって試験・検査は製造工程のうちでも最重要の部類に入る工程とされ、半導体製造設備への投資のおよそ2割を試験装置が占めるといわれていた。タケダ理研がこの分野で最初に売り出した集積回路の試験装置はSPAT-1で、直流試験技術を土台に、生産ラインでの検査と受け入れ時の検査に使う機種として作られ、1970年5月の新製品発表展示会で発売された。富士通の要求を受け、全ピンそれぞれに測定回路を備えたファンクション・テスタである。1971年11月の第14回計測工業展には、バイポーラ型のSSI・MSIを24ピンまで試験できる卓上型T-310/10を出品し、ファンクション・キーボードでプログラムを組める点が注目を浴びて、試験装置事業への同社の本格参入を業界に広く知らせた。補助金による開発では基本技術を蓄え技術者を育てることを主眼とし、顧客の求めに応える製品はそれとは別に立てる二本立てを取ったことで、機種の幅が広がった。

  • 証券 35(3)(408)(1983年3月)
    • [18]半導体メーカーでは製造工程の中で試験・検査工程が最も重要な工程の一つであり、半導体製造設備投資額のうち2割程度が試験装置であるといわれる
  • アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)2章 システム計測への展開
    • [19]直流試験技術をベースに生産ライン用・受け入れ検査用として設計されたICテスタSPAT-1を開発し、1970年5月の新製品発表展示会で出展・発売。1971年11月、24ピンまでのバイポーラ型SSI・MSIを試験できるICテスタT-310/10を第14回計測工業展に出品し、ファンクション・キーボードによるプログラミング方法が注目され、ICテスタへの本格参入を印象づけた
    • [21]直流試験技術をベースに生産ライン用・受け入れ検査用として設計されたICテスタSPAT-1を開発し、1970年5月の新製品発表展示会で出展・発売。1971年11月、24ピンまでのバイポーラ型SSI・MSIを試験できるICテスタT-310/10を第14回計測工業展に出品し、ファンクション・キーボードによるプログラミング方法が注目され、ICテスタへの本格参入を印象づけた
    • [22]直流試験技術をベースに生産ライン用・受け入れ検査用として設計されたICテスタSPAT-1を開発し、1970年5月の新製品発表展示会で出展・発売。1971年11月、24ピンまでのバイポーラ型SSI・MSIを試験できるICテスタT-310/10を第14回計測工業展に出品し、ファンクション・キーボードによるプログラミング方法が注目され、ICテスタへの本格参入を印象づけた
  • アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)4章 上場を達成、社名もアドバンテストに(座談会「ICテスト・システムで世界のトップに」)
    • [20]補助金を受けて開発したダイナミック・パラメトリック・テスタは基本技術の開発と技術者の育成に重点を置き、これと並行して富士通の要求に基づき全ピンに測定回路を持ったファンクション・テスタSPAT-1を開発し、1970年の新製品発表展示会に出品した
    • [23]補助金を受けて開発したダイナミック・パラメトリック・テスタは基本技術の開発と技術者の育成に重点を置き、これと並行して富士通の要求に基づき全ピンに測定回路を持ったファンクション・テスタSPAT-1を開発し、1970年の新製品発表展示会に出品した

1971年に電卓用LSIの国産化が可能となり、翌1972年にカラーテレビの駆動回路へ集積回路が使われ始めて、国内の生産は一気に拡大した。輸入に全面的に依存していた試験装置の国産化を望む声が高まり、機械振興協会は昭和45年度の新機械普及促進事業として集積回路試験装置の開発を採り上げた。タケダ理研は同協会の分科会委員長を務めた電子技術総合研究所の垂井康夫氏の指導を受け、国洋電機工業の協力を得て、これからの主流と見たnMOSデバイス向けに10メガヘルツのダイナミック・ファンクショナル試験ができるシステムを開発の目標に置いた。1971年9月に試作を終え、翌1972年3月まで日立製作所武蔵工場で試用されて、事業の計画が定めた機能と性能を満たすことが確かめられた。国の事業に載せ、業界団体の分科会と協力会社と大口の需要家を開発の工程へ組み込んだことが、一社の研究では届かない性能の的を定めた。

  • アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)2章 システム計測への展開
    • [24]1971年に電卓用LSIの国産化が可能となり、1972年にカラーテレビの駆動回路にICが使われ始めて国内生産が拡大。輸入に依存していたICテスト・システムの国産化を望む声が高まり、機械振興協会は昭和45年度新機械普及促進事業として「集積回路試験装置」の開発を採用。同協会集積回路試験装置分科会委員長・垂井康夫氏(電子技術総合研究所)の指導と国洋電機工業株式会社の協力を得て、nMOSデバイス測定用の高速(10MHz)ダイナミック・ファンクショナル試験システムの開発を目標とした。1971年9月に試作を完了し、1972年3月まで株式会社日立製作所武蔵工場において試用され、本事業の基本計画・実施計画に基づく機能・性能を完全に満足していることが確認された
    • [25]1971年に電卓用LSIの国産化が可能となり、1972年にカラーテレビの駆動回路にICが使われ始めて国内生産が拡大。輸入に依存していたICテスト・システムの国産化を望む声が高まり、機械振興協会は昭和45年度新機械普及促進事業として「集積回路試験装置」の開発を採用。同協会集積回路試験装置分科会委員長・垂井康夫氏(電子技術総合研究所)の指導と国洋電機工業株式会社の協力を得て、nMOSデバイス測定用の高速(10MHz)ダイナミック・ファンクショナル試験システムの開発を目標とした。1971年9月に試作を完了し、1972年3月まで株式会社日立製作所武蔵工場において試用され、本事業の基本計画・実施計画に基づく機能・性能を完全に満足していることが確認された
    • [27]1971年に電卓用LSIの国産化が可能となり、1972年にカラーテレビの駆動回路にICが使われ始めて国内生産が拡大。輸入に依存していたICテスト・システムの国産化を望む声が高まり、機械振興協会は昭和45年度新機械普及促進事業として「集積回路試験装置」の開発を採用。同協会集積回路試験装置分科会委員長・垂井康夫氏(電子技術総合研究所)の指導と国洋電機工業株式会社の協力を得て、nMOSデバイス測定用の高速(10MHz)ダイナミック・ファンクショナル試験システムの開発を目標とした。1971年9月に試作を完了し、1972年3月まで株式会社日立製作所武蔵工場において試用され、本事業の基本計画・実施計画に基づく機能・性能を完全に満足していることが確認された
    • [28]1971年に電卓用LSIの国産化が可能となり、1972年にカラーテレビの駆動回路にICが使われ始めて国内生産が拡大。輸入に依存していたICテスト・システムの国産化を望む声が高まり、機械振興協会は昭和45年度新機械普及促進事業として「集積回路試験装置」の開発を採用。同協会集積回路試験装置分科会委員長・垂井康夫氏(電子技術総合研究所)の指導と国洋電機工業株式会社の協力を得て、nMOSデバイス測定用の高速(10MHz)ダイナミック・ファンクショナル試験システムの開発を目標とした。1971年9月に試作を完了し、1972年3月まで株式会社日立製作所武蔵工場において試用され、本事業の基本計画・実施計画に基づく機能・性能を完全に満足していることが確認された
  • 証券 35(3)(408)(1983年3月)
    • [26]昭和47年に財団法人機械振興協会の補助を受け、国産初のLSIテストシステムを完成
参考文献[14]-[28]
  • アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)2章 システム計測への展開
    • [14]国内の集積回路の開発は1961年に電気試験所が試作品を完成したのが最初で、工業化は1966年から。国内生産は1967年に300万個、1968年に1,900万個へ急増。当時の半導体製造設備はほとんどが米国からの輸入品で、国産のICテスト・システムに良いものが無かった
    • [15]国内の集積回路の開発は1961年に電気試験所が試作品を完成したのが最初で、工業化は1966年から。国内生産は1967年に300万個、1968年に1,900万個へ急増。当時の半導体製造設備はほとんどが米国からの輸入品で、国産のICテスト・システムに良いものが無かった
    • [16]1968年、通商産業省の昭和43年度重要技術研究開発費補助金の交付を受け、日本電子工業振興協会ならびに岩崎通信機株式会社との共同研究により、ダイナミック・パラメトリック試験・ダイナミック・ファンクショナル試験を中心とした試験システムの開発に着手
    • [19]直流試験技術をベースに生産ライン用・受け入れ検査用として設計されたICテスタSPAT-1を開発し、1970年5月の新製品発表展示会で出展・発売。1971年11月、24ピンまでのバイポーラ型SSI・MSIを試験できるICテスタT-310/10を第14回計測工業展に出品し、ファンクション・キーボードによるプログラミング方法が注目され、ICテスタへの本格参入を印象づけた
    • [21]直流試験技術をベースに生産ライン用・受け入れ検査用として設計されたICテスタSPAT-1を開発し、1970年5月の新製品発表展示会で出展・発売。1971年11月、24ピンまでのバイポーラ型SSI・MSIを試験できるICテスタT-310/10を第14回計測工業展に出品し、ファンクション・キーボードによるプログラミング方法が注目され、ICテスタへの本格参入を印象づけた
    • [22]直流試験技術をベースに生産ライン用・受け入れ検査用として設計されたICテスタSPAT-1を開発し、1970年5月の新製品発表展示会で出展・発売。1971年11月、24ピンまでのバイポーラ型SSI・MSIを試験できるICテスタT-310/10を第14回計測工業展に出品し、ファンクション・キーボードによるプログラミング方法が注目され、ICテスタへの本格参入を印象づけた
    • [24]1971年に電卓用LSIの国産化が可能となり、1972年にカラーテレビの駆動回路にICが使われ始めて国内生産が拡大。輸入に依存していたICテスト・システムの国産化を望む声が高まり、機械振興協会は昭和45年度新機械普及促進事業として「集積回路試験装置」の開発を採用。同協会集積回路試験装置分科会委員長・垂井康夫氏(電子技術総合研究所)の指導と国洋電機工業株式会社の協力を得て、nMOSデバイス測定用の高速(10MHz)ダイナミック・ファンクショナル試験システムの開発を目標とした。1971年9月に試作を完了し、1972年3月まで株式会社日立製作所武蔵工場において試用され、本事業の基本計画・実施計画に基づく機能・性能を完全に満足していることが確認された
    • [25]1971年に電卓用LSIの国産化が可能となり、1972年にカラーテレビの駆動回路にICが使われ始めて国内生産が拡大。輸入に依存していたICテスト・システムの国産化を望む声が高まり、機械振興協会は昭和45年度新機械普及促進事業として「集積回路試験装置」の開発を採用。同協会集積回路試験装置分科会委員長・垂井康夫氏(電子技術総合研究所)の指導と国洋電機工業株式会社の協力を得て、nMOSデバイス測定用の高速(10MHz)ダイナミック・ファンクショナル試験システムの開発を目標とした。1971年9月に試作を完了し、1972年3月まで株式会社日立製作所武蔵工場において試用され、本事業の基本計画・実施計画に基づく機能・性能を完全に満足していることが確認された
    • [27]1971年に電卓用LSIの国産化が可能となり、1972年にカラーテレビの駆動回路にICが使われ始めて国内生産が拡大。輸入に依存していたICテスト・システムの国産化を望む声が高まり、機械振興協会は昭和45年度新機械普及促進事業として「集積回路試験装置」の開発を採用。同協会集積回路試験装置分科会委員長・垂井康夫氏(電子技術総合研究所)の指導と国洋電機工業株式会社の協力を得て、nMOSデバイス測定用の高速(10MHz)ダイナミック・ファンクショナル試験システムの開発を目標とした。1971年9月に試作を完了し、1972年3月まで株式会社日立製作所武蔵工場において試用され、本事業の基本計画・実施計画に基づく機能・性能を完全に満足していることが確認された
    • [28]1971年に電卓用LSIの国産化が可能となり、1972年にカラーテレビの駆動回路にICが使われ始めて国内生産が拡大。輸入に依存していたICテスト・システムの国産化を望む声が高まり、機械振興協会は昭和45年度新機械普及促進事業として「集積回路試験装置」の開発を採用。同協会集積回路試験装置分科会委員長・垂井康夫氏(電子技術総合研究所)の指導と国洋電機工業株式会社の協力を得て、nMOSデバイス測定用の高速(10MHz)ダイナミック・ファンクショナル試験システムの開発を目標とした。1971年9月に試作を完了し、1972年3月まで株式会社日立製作所武蔵工場において試用され、本事業の基本計画・実施計画に基づく機能・性能を完全に満足していることが確認された
  • 証券 35(3)(408)(1983年3月)
    • [17]昭和40年代の中盤から、ミニコンピュータにより電子計測器を制御するコンピュータ計測システム、IC・LSIテストシステム、外国メーカーとの提携による輸入商品の取扱いなどへ事業を拡大。これに伴い設備・人員・借入金などが増大し、固定費負担が増加するなかで、従来からの電子計測器事業以外は採算が取れない状態が続いた
    • [18]半導体メーカーでは製造工程の中で試験・検査工程が最も重要な工程の一つであり、半導体製造設備投資額のうち2割程度が試験装置であるといわれる
    • [26]昭和47年に財団法人機械振興協会の補助を受け、国産初のLSIテストシステムを完成
  • アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)4章 上場を達成、社名もアドバンテストに(座談会「ICテスト・システムで世界のトップに」)
    • [20]補助金を受けて開発したダイナミック・パラメトリック・テスタは基本技術の開発と技術者の育成に重点を置き、これと並行して富士通の要求に基づき全ピンに測定回路を持ったファンクション・テスタSPAT-1を開発し、1970年の新製品発表展示会に出品した
    • [23]補助金を受けて開発したダイナミック・パラメトリック・テスタは基本技術の開発と技術者の育成に重点を置き、これと並行して富士通の要求に基づき全ピンに測定回路を持ったファンクション・テスタSPAT-1を開発し、1970年の新製品発表展示会に出品した

1972年〜オイルショックが露わにした開発投資先行の体質と創業者の退場

1972年、タケダ理研は通産省と機械振興協会の補助金により、4年の研究を経て国産初のLSIテストシステム「T320」を製品化した。半導体試験装置そのものの開発着手は1970年で、1972年には世界に先がけて10メガヘルツで試験できるテストシステムを商品化したと後年の社長は語っている。電卓やカラーテレビに使われるICの検査需要を取り込み、計測器メーカーから半導体検査装置メーカーへの転換の足がかりを得たものの、1973年のオイルショックをきっかけに日本の半導体産業全体の設備投資が冷え込んだ。1975年3月期には売上高80億円弱に対して約1億円という創業以来初の赤字を計上し、手形割引を含む借入金は50億円を超え、売上高に対する金利負担率は5%近くに達していた。

  • 証券アナリストジャーナル 21(3)(1983年3月)(佐々木甫)
    • [29]「47年、通産省と機械振興協会の補助金により国産初のLSIテスト・システム(通称はICテスター)を製品化」(佐々木甫社長講演)
  • 情報通信ジャーナル(1997年)「続・テレコムインタビュー 情報通信と私(81) 株式会社アドバンテスト代表取締役社長 大浦溥氏」
    • [30]「当社が半導体試験装置を開発したのは1970年のことで、72年には世界に先がけて10メガヘルツで試験ができるテスト・システムを商品化しました」(大浦溥社長)
  • アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)2章 システム計測への展開
    • [31]1971年に電卓用LSIの国産化が可能となり、1972年にカラーテレビの駆動回路にICが使用されはじめて、国内の集積回路生産が一気に拡大した
  • 証券 35(3)(408)(1983年3月)
    • [32]第一次オイルショックによる需要低迷の影響を受けて業績不振に陥った
  • 日経ビジネス(1983年5月30日)
    • [33]「オイルショック後の50年3月期決算で、タケダ理研は約1億円の赤字になりました。創業以来初めての赤字です。売り上げが80億円弱に対して、手形割引を含めた借金は50億円を超えていました。売り上げに対する金利負担率は5%近くになっていました」

第一次石油ショックの影響で需要は低迷し、業績は悪化した。赤字が避けられないと見えた1975年1月、タケダ理研は不況対策を決めている。同年4月入社予定の新規採用者28名を半年間の自宅待機とし、その間は基準内賃金の6割を支払う。デジタル計測事業本部を対象に1月から3月まで月2日の一時帰休を実施し、不振の同本部からコンピュータ計測事業本部と営業本部へ40名を配置転換したうえで、30名を関連会社の日本ミニコンピュータへ出向させた。毎年全社を挙げて催していた2泊3日のスキー旅行も取りやめている。年度に入るとデジタル計測器はわずかに上向いたが、前期に比較的好調だったコンピュータ計測関係が前年同期比で3割から4割の減少となり、価格の高いシステム商品が敬遠された。1975年5月、デジタル計測事業本部を行田工場へ移して行田第2工場を閉鎖した。

  • 証券アナリストジャーナル 21(3)(1983年3月)(佐々木甫)
    • [34]「このあと起きた第1次石油ショックの影響により、当社の業績は悪化した」(佐々木甫社長講演)
  • アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)3章 新しい体制で、新たなスタート
    • [35]1975年1月に不況対策を実施。1975年4月入社予定の新規採用者28名を半年間自宅待機(期間中は基準内賃金の60%を支払う)、デジタル計測事業本部を対象に1975年1〜3月の3か月間、月2日の一時帰休、デジタル計測事業本部からコンピュータ計測事業本部および営業本部へ40名を配置転換、30名を関連会社日本ミニコンピュータ株式会社へ出向、毎年実施していた2泊3日のスキー旅行を中止。1975年度に入るとデジタル計測器は多少上向いたが、前期比較的好調だったコンピュータ計測関係が前年同期30〜40%減となり、設備投資引き締めの中で価格の高いシステム商品が敬遠された。1975年5月、デジタル計測事業本部を行田工場に移転させ、行田第2工場を閉鎖
    • [36]1975年1月に不況対策を実施。1975年4月入社予定の新規採用者28名を半年間自宅待機(期間中は基準内賃金の60%を支払う)、デジタル計測事業本部を対象に1975年1〜3月の3か月間、月2日の一時帰休、デジタル計測事業本部からコンピュータ計測事業本部および営業本部へ40名を配置転換、30名を関連会社日本ミニコンピュータ株式会社へ出向、毎年実施していた2泊3日のスキー旅行を中止。1975年度に入るとデジタル計測器は多少上向いたが、前期比較的好調だったコンピュータ計測関係が前年同期30〜40%減となり、設備投資引き締めの中で価格の高いシステム商品が敬遠された。1975年5月、デジタル計測事業本部を行田工場に移転させ、行田第2工場を閉鎖
    • [37]1975年1月に不況対策を実施。1975年4月入社予定の新規採用者28名を半年間自宅待機(期間中は基準内賃金の60%を支払う)、デジタル計測事業本部を対象に1975年1〜3月の3か月間、月2日の一時帰休、デジタル計測事業本部からコンピュータ計測事業本部および営業本部へ40名を配置転換、30名を関連会社日本ミニコンピュータ株式会社へ出向、毎年実施していた2泊3日のスキー旅行を中止。1975年度に入るとデジタル計測器は多少上向いたが、前期比較的好調だったコンピュータ計測関係が前年同期30〜40%減となり、設備投資引き締めの中で価格の高いシステム商品が敬遠された。1975年5月、デジタル計測事業本部を行田工場に移転させ、行田第2工場を閉鎖
    • [38]1975年1月に不況対策を実施。1975年4月入社予定の新規採用者28名を半年間自宅待機(期間中は基準内賃金の60%を支払う)、デジタル計測事業本部を対象に1975年1〜3月の3か月間、月2日の一時帰休、デジタル計測事業本部からコンピュータ計測事業本部および営業本部へ40名を配置転換、30名を関連会社日本ミニコンピュータ株式会社へ出向、毎年実施していた2泊3日のスキー旅行を中止。1975年度に入るとデジタル計測器は多少上向いたが、前期比較的好調だったコンピュータ計測関係が前年同期30〜40%減となり、設備投資引き締めの中で価格の高いシステム商品が敬遠された。1975年5月、デジタル計測事業本部を行田工場に移転させ、行田第2工場を閉鎖
    • [39]1975年1月に不況対策を実施。1975年4月入社予定の新規採用者28名を半年間自宅待機(期間中は基準内賃金の60%を支払う)、デジタル計測事業本部を対象に1975年1〜3月の3か月間、月2日の一時帰休、デジタル計測事業本部からコンピュータ計測事業本部および営業本部へ40名を配置転換、30名を関連会社日本ミニコンピュータ株式会社へ出向、毎年実施していた2泊3日のスキー旅行を中止。1975年度に入るとデジタル計測器は多少上向いたが、前期比較的好調だったコンピュータ計測関係が前年同期30〜40%減となり、設備投資引き締めの中で価格の高いシステム商品が敬遠された。1975年5月、デジタル計測事業本部を行田工場に移転させ、行田第2工場を閉鎖
    • [40]1975年1月に不況対策を実施。1975年4月入社予定の新規採用者28名を半年間自宅待機(期間中は基準内賃金の60%を支払う)、デジタル計測事業本部を対象に1975年1〜3月の3か月間、月2日の一時帰休、デジタル計測事業本部からコンピュータ計測事業本部および営業本部へ40名を配置転換、30名を関連会社日本ミニコンピュータ株式会社へ出向、毎年実施していた2泊3日のスキー旅行を中止。1975年度に入るとデジタル計測器は多少上向いたが、前期比較的好調だったコンピュータ計測関係が前年同期30〜40%減となり、設備投資引き締めの中で価格の高いシステム商品が敬遠された。1975年5月、デジタル計測事業本部を行田工場に移転させ、行田第2工場を閉鎖

1967年頃から積み上げた累積30億円超の研究開発投資は、武田氏の目には研究開発型企業の含み資産と映っていたが、銀行にはそう見えなかった。1974年秋に初赤字の見通しが立つと武田氏は救済先を探し、親戚だった豊田工機の富田環社長を介してトヨタ自工副社長の豊田章一郎氏に会い、同じく親戚の岩月達夫日本電装会長に頼んで富士通へ話を通してもらった。だが救済の道筋がつくのと前後して、当時92%の株式を握るオーナーだった武田氏は1975年6月に社長を退任して会長へ回る。この交代はメインバンクによる乗っ取りではなく、乗っ取りに見せかけてカモフラージュされた社内クーデターであり、首謀者は銀行出身のT常務だった——武田氏自身が明らかにした経緯である。武田氏は1978年8月に会長職からも退任した。株式の9割を持つ者が経営から外れるという形で、技術だけで押し切る経営は終わった。

  • 日経ビジネス(1983年5月30日)
    • [41]「タケダ理研は42〜43年頃から、10年後のための研究開発投資を積極的に行い、累積投資は30億円を超えていました……コンピューター計測事業部は健全な赤字部門だと思っていました」
    • [42]「49年秋に創業以来初の赤字になる見通しになってから、いろいろな人にタケダ理研救済をお願いしました……親戚だった豊田工機の富田環社長(当時)を通じてトヨタ自工副社長だった豊田章一郎さんにお会いしました。やはり親戚の岩月達夫日本電装会長(当時)に相談し、日本電装と共同事業をしている富士通に救済を頼んでもらいました」
    • [43]武田郁夫氏は1975年6月にタケダ理研工業の会長へ退き、1978年8月に退任(記事添付の略歴)
    • [44]「当時92%の株を持つオーナーだった私は、『メイン銀行乗っ取り』とカモフラージュされたクーデターによってタケダ理研を追われたのです」「私が追い出されたのはメインバンクの乗っ取りなどのせいではなく、社内のクーデターのためだった」「Tさんという人です。この人がクーデターの首謀者になったのです」
    • [45]武田郁夫氏は1975年6月にタケダ理研工業の会長へ退き、1978年8月に退任(記事添付の略歴)
参考文献[29]-[45]
  • 証券アナリストジャーナル 21(3)(1983年3月)(佐々木甫)
    • [29]「47年、通産省と機械振興協会の補助金により国産初のLSIテスト・システム(通称はICテスター)を製品化」(佐々木甫社長講演)
    • [34]「このあと起きた第1次石油ショックの影響により、当社の業績は悪化した」(佐々木甫社長講演)
  • 情報通信ジャーナル(1997年)「続・テレコムインタビュー 情報通信と私(81) 株式会社アドバンテスト代表取締役社長 大浦溥氏」
    • [30]「当社が半導体試験装置を開発したのは1970年のことで、72年には世界に先がけて10メガヘルツで試験ができるテスト・システムを商品化しました」(大浦溥社長)
  • アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)2章 システム計測への展開
    • [31]1971年に電卓用LSIの国産化が可能となり、1972年にカラーテレビの駆動回路にICが使用されはじめて、国内の集積回路生産が一気に拡大した
  • 証券 35(3)(408)(1983年3月)
    • [32]第一次オイルショックによる需要低迷の影響を受けて業績不振に陥った
  • 日経ビジネス(1983年5月30日)
    • [33]「オイルショック後の50年3月期決算で、タケダ理研は約1億円の赤字になりました。創業以来初めての赤字です。売り上げが80億円弱に対して、手形割引を含めた借金は50億円を超えていました。売り上げに対する金利負担率は5%近くになっていました」
    • [41]「タケダ理研は42〜43年頃から、10年後のための研究開発投資を積極的に行い、累積投資は30億円を超えていました……コンピューター計測事業部は健全な赤字部門だと思っていました」
    • [42]「49年秋に創業以来初の赤字になる見通しになってから、いろいろな人にタケダ理研救済をお願いしました……親戚だった豊田工機の富田環社長(当時)を通じてトヨタ自工副社長だった豊田章一郎さんにお会いしました。やはり親戚の岩月達夫日本電装会長(当時)に相談し、日本電装と共同事業をしている富士通に救済を頼んでもらいました」
    • [43]武田郁夫氏は1975年6月にタケダ理研工業の会長へ退き、1978年8月に退任(記事添付の略歴)
    • [44]「当時92%の株を持つオーナーだった私は、『メイン銀行乗っ取り』とカモフラージュされたクーデターによってタケダ理研を追われたのです」「私が追い出されたのはメインバンクの乗っ取りなどのせいではなく、社内のクーデターのためだった」「Tさんという人です。この人がクーデターの首謀者になったのです」
    • [45]武田郁夫氏は1975年6月にタケダ理研工業の会長へ退き、1978年8月に退任(記事添付の略歴)
  • アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)3章 新しい体制で、新たなスタート
    • [35]1975年1月に不況対策を実施。1975年4月入社予定の新規採用者28名を半年間自宅待機(期間中は基準内賃金の60%を支払う)、デジタル計測事業本部を対象に1975年1〜3月の3か月間、月2日の一時帰休、デジタル計測事業本部からコンピュータ計測事業本部および営業本部へ40名を配置転換、30名を関連会社日本ミニコンピュータ株式会社へ出向、毎年実施していた2泊3日のスキー旅行を中止。1975年度に入るとデジタル計測器は多少上向いたが、前期比較的好調だったコンピュータ計測関係が前年同期30〜40%減となり、設備投資引き締めの中で価格の高いシステム商品が敬遠された。1975年5月、デジタル計測事業本部を行田工場に移転させ、行田第2工場を閉鎖
    • [36]1975年1月に不況対策を実施。1975年4月入社予定の新規採用者28名を半年間自宅待機(期間中は基準内賃金の60%を支払う)、デジタル計測事業本部を対象に1975年1〜3月の3か月間、月2日の一時帰休、デジタル計測事業本部からコンピュータ計測事業本部および営業本部へ40名を配置転換、30名を関連会社日本ミニコンピュータ株式会社へ出向、毎年実施していた2泊3日のスキー旅行を中止。1975年度に入るとデジタル計測器は多少上向いたが、前期比較的好調だったコンピュータ計測関係が前年同期30〜40%減となり、設備投資引き締めの中で価格の高いシステム商品が敬遠された。1975年5月、デジタル計測事業本部を行田工場に移転させ、行田第2工場を閉鎖
    • [37]1975年1月に不況対策を実施。1975年4月入社予定の新規採用者28名を半年間自宅待機(期間中は基準内賃金の60%を支払う)、デジタル計測事業本部を対象に1975年1〜3月の3か月間、月2日の一時帰休、デジタル計測事業本部からコンピュータ計測事業本部および営業本部へ40名を配置転換、30名を関連会社日本ミニコンピュータ株式会社へ出向、毎年実施していた2泊3日のスキー旅行を中止。1975年度に入るとデジタル計測器は多少上向いたが、前期比較的好調だったコンピュータ計測関係が前年同期30〜40%減となり、設備投資引き締めの中で価格の高いシステム商品が敬遠された。1975年5月、デジタル計測事業本部を行田工場に移転させ、行田第2工場を閉鎖
    • [38]1975年1月に不況対策を実施。1975年4月入社予定の新規採用者28名を半年間自宅待機(期間中は基準内賃金の60%を支払う)、デジタル計測事業本部を対象に1975年1〜3月の3か月間、月2日の一時帰休、デジタル計測事業本部からコンピュータ計測事業本部および営業本部へ40名を配置転換、30名を関連会社日本ミニコンピュータ株式会社へ出向、毎年実施していた2泊3日のスキー旅行を中止。1975年度に入るとデジタル計測器は多少上向いたが、前期比較的好調だったコンピュータ計測関係が前年同期30〜40%減となり、設備投資引き締めの中で価格の高いシステム商品が敬遠された。1975年5月、デジタル計測事業本部を行田工場に移転させ、行田第2工場を閉鎖
    • [39]1975年1月に不況対策を実施。1975年4月入社予定の新規採用者28名を半年間自宅待機(期間中は基準内賃金の60%を支払う)、デジタル計測事業本部を対象に1975年1〜3月の3か月間、月2日の一時帰休、デジタル計測事業本部からコンピュータ計測事業本部および営業本部へ40名を配置転換、30名を関連会社日本ミニコンピュータ株式会社へ出向、毎年実施していた2泊3日のスキー旅行を中止。1975年度に入るとデジタル計測器は多少上向いたが、前期比較的好調だったコンピュータ計測関係が前年同期30〜40%減となり、設備投資引き締めの中で価格の高いシステム商品が敬遠された。1975年5月、デジタル計測事業本部を行田工場に移転させ、行田第2工場を閉鎖
    • [40]1975年1月に不況対策を実施。1975年4月入社予定の新規採用者28名を半年間自宅待機(期間中は基準内賃金の60%を支払う)、デジタル計測事業本部を対象に1975年1〜3月の3か月間、月2日の一時帰休、デジタル計測事業本部からコンピュータ計測事業本部および営業本部へ40名を配置転換、30名を関連会社日本ミニコンピュータ株式会社へ出向、毎年実施していた2泊3日のスキー旅行を中止。1975年度に入るとデジタル計測器は多少上向いたが、前期比較的好調だったコンピュータ計測関係が前年同期30〜40%減となり、設備投資引き締めの中で価格の高いシステム商品が敬遠された。1975年5月、デジタル計測事業本部を行田工場に移転させ、行田第2工場を閉鎖

筆者考察

技術だけで値段を決められる市場を選んだ会社は、その市場が止まったときに値段を決める相手を失う。武田郁夫氏が選んだのは、日立や三菱といった電機大手が目を向けない電子計測器のニッチだった。代替品の無い製品を高値で売る形は、零細企業に高い利益率をもたらし、米ゼネラル・エレクトリックの副社長が訪ねてくるほどの評価も連れてきた。だがその利益は、注文が続くあいだだけ成り立つ。1973年のオイルショックで半導体産業の設備投資が止まると、10年後を見込んで積んだ30億円を超える開発投資は、含み資産ではなく、返さなければならない借入金の裏づけとして数えられた。

原価計算のできる人間が社内にいないことは、好況のあいだは問題として現れない。値段を自分で決められる製品だけを売っていれば、原価を知らなくても利益は出るからである。メインバンクの第一勧業銀行から迎えた人材は定着せず、次に入った銀行出身の常務は製造業の原価計算ができなかったと武田氏自身が述べている。1975年6月、92%の株式を握るオーナーが社長の座を降りた。本人はこれを銀行による乗っ取りではなく、乗っ取りに見せかけた社内のクーデターだったと後に語っている。技術で立った会社が、技術以外の物差しを持たないまま21年を過ごした結末だった。

出典・参考

8件
出典・参考
  • アドバンテスト 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
  • アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)2章 システム計測への展開
  • アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)4章 上場を達成、社名もアドバンテストに(座談会「ICテスト・システムで世界のトップに」)
  • アドバンテスト40年のあゆみ 先端技術を先端で支える(1994年)3章 新しい体制で、新たなスタート
  • 日経ビジネス(1983年5月30日)
  • 証券アナリストジャーナル 21(3)(1983年3月)(佐々木甫)
  • 情報通信ジャーナル(1997年)「続・テレコムインタビュー 情報通信と私(81) 株式会社アドバンテスト代表取締役社長 大浦溥氏」
  • 証券 35(3)(408)(1983年3月)

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