第1章 年〜年

豊田自動織機:G型自動織機の量産とトヨタ自動車工業の分離独立

1926年〜受注残5,643台を引き継いだ織機専業会社の設立

豊田佐吉氏は1890年に木製人力織機の特許を取得し、以後30年余りを織機の発明に費やした。共同出資で設立した会社から繰り返し身を退く挫折を経て、1918年に独立資本で豊田紡織を設立し、自前の試験工場を持った。長男の豊田喜一郎氏を技術部門に迎え、1924年に無停止杼換式のG型自動織機を実用化している。設立の準備は豊田紡織の日置工場における織機の製作から始まった。1926年11月、佐吉氏は豊田紡織の子会社として愛知県碧海郡刈谷町に資本金100万円で株式会社豊田自動織機製作所を設立し、初代社長には女婿の豊田利三郎氏が就任した。

  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第一章 草創期
    • [1]1890年 豊田佐吉氏が木製人力織機の特許を取得
    • [2]1918年 独立資本で豊田紡織を設立
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第一章第四節 自動織機の発明
    • [3]1924年 無停止杼換式のG型自動織機を実用化
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第一節 会社の設立
    • [4]設立の準備は豊田紡織の日置工場における織機の製作から始まった
    • [7]初代社長は佐吉氏の女婿 豊田利三郎氏
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]設立時の資本金 100万円
  • 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [6]1926年11月 豊田紡織の子会社として愛知県刈谷町に豊田自動織機製作所を設立

創立時の株主は法人2名と個人14名の計16名で、豊田紡織が総株数20,000株のうち12,300株を持ち、資本金の6割を出したうえで日置鉄工場からの受注残1,632台を引き継がせた。刈谷には清水組の請負で二期に分けて工場を建て、月産300台の織機工場が動き始めている。受注は創立年の下期に4,090台、翌期に2,062台と積み上がり、創業1年に満たない時点で受注残は5,643台、月産300台なら1年半分に達した。1928年からの不況に際しては幹部会で紡績機械の製作開始を決め、1933年12月には豊田利三郎氏が社長を兼ねる中央紡織の4万2,000錘増設について、精紡機100台を含む紡機一切を初のプラントとして受注した。

  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第一節 会社の設立
    • [8]創立時の株主は法人2名・個人14名の計16名、総株数20,000株。豊田紡織が12,300株で資本金の6割を出資
    • [10]刈谷に清水組の請負で二期に分けて工場を建設し、月産300台の織機工場が本格稼働
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第三節 自動織機の製造と販売
    • [9]1926年11月 日置鉄工場から受注残1,632台を引き継いだ
    • [11]創立年下期に4,090台、翌期に2,062台を受注し、第二期末の受注残は5,643台
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第五節 紡績機械の製造と販売
    • [12]1928年からの不況対策として幹部会で紡績機械の製作開始を決定
    • [13]1933年12月 中央紡織の4万2,000錘増設について精紡機100台ほか紡機一切を受注(当社初のプラント受注)

自動織機は1台600円を超え、当時200余円にすぎない普通織機に比べて高く、導入に慎重な織物工場も多かった。そこで会社は、織機そのものを買えない中小の織物業者に向けて、経糸切断停止装置だけを約30円で単独販売した。この装置を普通織機に取り付けると、女工一人あたりの持ち台数はおよそ3倍に増えた。国内9カ所の試験場と31校には、自動織機を無償または原価で提供した。1934年7月には岸和田紡績大垣工場向けに小幅精紡機138台・61,824錘の製造へ入り、広幅であれば5万9,000錘の工場に約3,000錘多く据え付けられる企画を世界で初めて通している。織機と紡機の二事業で不況に処する方針は、1930年の年頭に豊田利三郎氏が社内へ示していた『織機製作にして不況に会せば、紡機製作にて補うつもりであります。……織機と紡機、此の二つの事業に全力を尽し、困難の時代に処して行きたい考えであります』。

  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第三節 自動織機の製造と販売
    • [14]自動織機は1台600円超で、普通織機は200余円にすぎなかった
    • [15]経糸切断停止装置を約30円で単独販売した
    • [16]普通織機に経糸切断停止装置を付けると女工の持ち台数が3倍程度に増えた
    • [17]国内9カ所の試験場と31校へ自動織機を無償または原価で提供
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第五節 紡績機械の製造と販売
    • [18]1934年7月 岸和田紡績大垣工場向けに小幅精紡機138台・61,824錘の製造を開始。広幅より約3,000錘多く据え付けられる世界初の企画
    • [19]1930年の年頭の辞で豊田利三郎氏が織機と紡機の二事業で不況に処する方針を示した
参考文献[1]-[19]
    • [1]1890年 豊田佐吉氏が木製人力織機の特許を取得
    • [2]1918年 独立資本で豊田紡織を設立
    • [3]1924年 無停止杼換式のG型自動織機を実用化
    • [4]設立の準備は豊田紡織の日置工場における織機の製作から始まった
    • [7]初代社長は佐吉氏の女婿 豊田利三郎氏
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]設立時の資本金 100万円
  • 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [6]1926年11月 豊田紡織の子会社として愛知県刈谷町に豊田自動織機製作所を設立
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第一節 会社の設立
    • [8]創立時の株主は法人2名・個人14名の計16名、総株数20,000株。豊田紡織が12,300株で資本金の6割を出資
    • [10]刈谷に清水組の請負で二期に分けて工場を建設し、月産300台の織機工場が本格稼働
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第三節 自動織機の製造と販売
    • [9]1926年11月 日置鉄工場から受注残1,632台を引き継いだ
    • [11]創立年下期に4,090台、翌期に2,062台を受注し、第二期末の受注残は5,643台
    • [14]自動織機は1台600円超で、普通織機は200余円にすぎなかった
    • [15]経糸切断停止装置を約30円で単独販売した
    • [16]普通織機に経糸切断停止装置を付けると女工の持ち台数が3倍程度に増えた
    • [17]国内9カ所の試験場と31校へ自動織機を無償または原価で提供
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第五節 紡績機械の製造と販売
    • [12]1928年からの不況対策として幹部会で紡績機械の製作開始を決定
    • [13]1933年12月 中央紡織の4万2,000錘増設について精紡機100台ほか紡機一切を受注(当社初のプラント受注)
    • [18]1934年7月 岸和田紡績大垣工場向けに小幅精紡機138台・61,824錘の製造を開始。広幅より約3,000錘多く据え付けられる世界初の企画
    • [19]1930年の年頭の辞で豊田利三郎氏が織機と紡機の二事業で不況に処する方針を示した

1937年〜法令による祖業の製造停止から、軍需生産への全面転換へ

1929年、英国の紡織機械大手プラット・ブラザーズ社へ杼換式自動織機の外国特許実施権を約10万ポンドで譲渡した。その対価は佐吉氏が次の主題に据えた国産自動車事業の資金として留保されている。豊田喜一郎氏は1933年9月に社内へ自動車部を設け、車体の組立だけでなく特殊鋼と工作機械の製造まで自社で始めている。1936年に月産2,000台の量産許可を得たものの、工場建設に要する3,000万円は資本金600万円の織機会社の資金力を超えており、1937年8月、資本金1,200万円のトヨタ自動車工業株式会社として自動車部門を分離独立させた。

  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第四節 英国プラット社へ自動織機の特許権譲渡
    • [20]1929年 英プラット・ブラザーズ社へ杼換式自動織機の外国特許実施権を譲渡
    • [21]特許譲渡の対価が国産自動車事業の資金として留保された
  • 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1933年9月 社内に自動車部を新設
    • [25]1937年8月 自動車部をトヨタ自動車工業株式会社として分離独立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [23]自動車の国産化にあたり特殊鋼と工作機械の製造も自社で開始
    • [24]工場建設に要する3,000万円が資本金600万円の織機会社の資金力を超えていた

1937年8月に自動車と工作機械の部門を切り出し、1940年3月には製鋼部門を豊田製鋼として分離した。切り出す側に残った祖業は、同じ時期に法令で製造を止められた。1937年7月の日華事変の直前が受注の最盛期で、同年上期の受注残は約2,000万円とほぼ2年分に達し、その約47%を在華紡と華人紡が占めていた。事変後の解約は自動織機約14,000台・紡機約29万錘に及び、うち織機12,000台と紡機24万錘が中国向けであった。1938年2月、商工省は精紡機・力織機など15機種の新増設を許可制とし、同年4月と7月の鋳物・鋼製品の製造制限では当社の紡織機がいずれも禁制品に該当した。一部の輸出用を除いて、祖業の製造はできなくなった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [26]1937年8月に自動車・工作機械部門をトヨタ自動車工業として、1940年3月に製鋼部門を豊田製鋼として分離
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第四章第一節 紡織機の製造禁止と豊田紡の終焉
    • [27]1937年上期の受注残は約2,000万円でほぼ2年分。うち約47%が在華紡・華人紡からの注文
    • [28]日華事変による解約は自動織機約14,000台・紡機約29万錘。うち中国向けが織機12,000台・紡機24万錘
    • [29]1938年2月 商工省が精紡機・力織機など15機種の新増設を許可制とした
    • [30]1938年4月・7月の銑鉄鋳物および鋼製品の製造制限で当社の紡織機はいずれも禁制品に該当
    • [31]一部の輸出用を除き紡織機の製造は全く不可能になった

1941年7月の英米による対日資産凍結令で第三国向けの紡織機も積み出せなくなり、紡織機で会社を支える構想は潰えた。同じ年の春、石田退三氏が豊田紡織から赴任している。その石田氏は当時の工場を『ほとんど工場の中は、工員が油布で機械を掃除しているという姿で、一体なぜそういうことになっているか、次は何をやってよいか誰もわからん』と振り返った。従業員は約1,000人にすぎない。会社は1941年にピストンリング・ピストンピン・クラッチハウジング・フロントアクスルビームの自動車部品生産を始め、翌年にはマニホールドとクラッチディスクを加えた。ただし自動車部品の生産高は1941年下期の468万円を頂点として、資材不足から減少へ転じている。軍需のほうは1937年に名古屋工廠の求めで砲弾の製造に入り、1938年4月には軍需工業動員法による陸軍管理工場の指定を受けた。

  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第四章第一節 紡織機の製造禁止と豊田紡の終焉
    • [32]1941年7月 英米の対日資産凍結令で第三国向けの紡織機も積出不能となった
    • [33]1941年春に石田退三氏が豊田紡織から赴任した
    • [34]1941年当時の従業員は約1,000人
    • [35]1941年にピストンリング・ピストンピン・クラッチハウジング・フロントアクスルビームの生産を開始し、1942年にマニホールド・クラッチディスクを追加
    • [36]自動車部品の生産高は1941年下期の468万円を頂点に資材不足から減少へ転じた
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第四章第二節 軍需品の製造
    • [37]1937年に名古屋工廠の要求で砲弾の製造を開始し、1938年4月に軍需工業動員法による陸軍管理工場に指定

銃剣の製作は1939年4月に月産4,000丁から5,000丁で始まり、1943年に月産1万5,000丁を超え、1944年10月には従来の3倍余りにあたる月産5万丁へ達した。1942年12月の取締役会は、もと豊田紡織本社工場であった栄生工場の利用を決め、据え付けてあった紡機46,200錘と織機1,080台を撤去して、1943年5月から中島飛行機向けの航空機用摩擦鋼板の製作に充てている。軍需品の生産高は1937年下期の3万8千円から、1945年上期には1,734万8千円へ膨らんだ。母体であった豊田紡織は1942年2月に中央紡績として発足したのち、1943年6月に紡績を続けず、航空機部門を強化していたトヨタ自動車工業への合併を決め、同年11月3日に23年の歴史を閉じた。祖業の設備を外して軍需品を載せた工場と、紡績そのものをやめた母体とは、同じ判断の表と裏であった。

  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第四章第二節 軍需品の製造
    • [38]銃剣は1939年4月に月産4,000〜5,000丁で開始し、1943年に月産1万5,000丁超、1944年10月に月産5万丁を達成
    • [39]1942年12月の取締役会で栄生工場の利用を決定。紡機46,200錘と織機1,080台を撤去し1943年5月から中島飛行機向け航空機用摩擦鋼板を製作
    • [40]軍需品生産高は1937年下期の3万8千円から1945年上期の1,734万8千円へ増加
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第四章第一節 紡織機の製造禁止と豊田紡の終焉
    • [41]豊田紡織は1942年2月に中央紡績として発足し、1943年6月にトヨタ自動車工業への合併を決め同年11月3日に解散
参考文献[20]-[41]
    • [20]1929年 英プラット・ブラザーズ社へ杼換式自動織機の外国特許実施権を譲渡
    • [21]特許譲渡の対価が国産自動車事業の資金として留保された
  • 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1933年9月 社内に自動車部を新設
    • [25]1937年8月 自動車部をトヨタ自動車工業株式会社として分離独立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [23]自動車の国産化にあたり特殊鋼と工作機械の製造も自社で開始
    • [24]工場建設に要する3,000万円が資本金600万円の織機会社の資金力を超えていた
    • [26]1937年8月に自動車・工作機械部門をトヨタ自動車工業として、1940年3月に製鋼部門を豊田製鋼として分離
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第四章第一節 紡織機の製造禁止と豊田紡の終焉
    • [27]1937年上期の受注残は約2,000万円でほぼ2年分。うち約47%が在華紡・華人紡からの注文
    • [28]日華事変による解約は自動織機約14,000台・紡機約29万錘。うち中国向けが織機12,000台・紡機24万錘
    • [29]1938年2月 商工省が精紡機・力織機など15機種の新増設を許可制とした
    • [30]1938年4月・7月の銑鉄鋳物および鋼製品の製造制限で当社の紡織機はいずれも禁制品に該当
    • [31]一部の輸出用を除き紡織機の製造は全く不可能になった
    • [32]1941年7月 英米の対日資産凍結令で第三国向けの紡織機も積出不能となった
    • [33]1941年春に石田退三氏が豊田紡織から赴任した
    • [34]1941年当時の従業員は約1,000人
    • [35]1941年にピストンリング・ピストンピン・クラッチハウジング・フロントアクスルビームの生産を開始し、1942年にマニホールド・クラッチディスクを追加
    • [36]自動車部品の生産高は1941年下期の468万円を頂点に資材不足から減少へ転じた
    • [41]豊田紡織は1942年2月に中央紡績として発足し、1943年6月にトヨタ自動車工業への合併を決め同年11月3日に解散
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第四章第二節 軍需品の製造
    • [37]1937年に名古屋工廠の要求で砲弾の製造を開始し、1938年4月に軍需工業動員法による陸軍管理工場に指定
    • [38]銃剣は1939年4月に月産4,000〜5,000丁で開始し、1943年に月産1万5,000丁超、1944年10月に月産5万丁を達成
    • [39]1942年12月の取締役会で栄生工場の利用を決定。紡機46,200錘と織機1,080台を撤去し1943年5月から中島飛行機向け航空機用摩擦鋼板を製作
    • [40]軍需品生産高は1937年下期の3万8千円から1945年上期の1,734万8千円へ増加

1945年〜見返り輸出織機800台から月産紡機10万錘への復興

1945年12月8日、連合軍第六軍司令部の軍政第二三四号により、刈谷・大府・栄生の3工場で紡織機械・自動車部品・内燃機関・車両部品の生産が許可された。民需転換の許可と前後して、輸入食糧や綿花の支払いに充てる見返り輸出用の織機800台について生産命令が下りている。会社は兵器生産でミリ規格に揃えた刃工具と検具に合わせ、紡織機の図面自体をミリ表示へ書き換えることを決めた。戦後第一号の自動織機を1946年4月に組み立て、4月50台、5月100台、6月120台、7月300台、8月237台と積んで800台をほぼ仕上げている。仕向地が決まったのは1947年7月13日で、中華民国384台・印度224台・英国192台となり、戦後のわが国で最初の機械輸出となった。月産は1948年に自動織機450台と紡績機械1万3,000錘まで戻った。

  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第五章第一節 復興への第一歩
    • [42]1945年12月8日 連合軍第六軍司令部の軍政第二三四号により刈谷・大府・栄生の3工場で紡織機械・自動車部品・内燃機関・車両部品の生産が許可された
    • [43]民需転換許可と前後して見返り輸出用織機800台の生産命令が下りた。輸入食糧・綿花等の支払見返り物資であった
    • [44]兵器生産でミリ規格化した刃工具・検具に合わせ、紡織機の図面をミリ表示へ修正することを決めた
    • [45]1946年4月に戦後第一号の自動織機を組立。4月50台、5月100台、6月120台、7月300台、8月237台を完成
    • [46]1947年7月13日 見返り織機800台の仕向地が中華民国384台・印度224台・英国192台に確定。戦後わが国最初の機械輸出となった
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [47]1948年の月産は自動織機450台・紡績機械1万3千錘

1946年2月10日、大府工場と栄生工場が賠償接収の対象として保全命令を受けたが、主力の刈谷工場は賠償指定を免れ、見返り織機800台の生産に支障は出なかった。1948年2月7日には過度経済力集中排除法の指定を受け、3工場をそれぞれ独立させたうえで社名も変えるよう企業再編成を命ぜられている。会社は3分割では成り立たない事情を持株会社整理委員会に説明し、保有有価証券の処分を条件として同年11月19日に指定を解除された。当時保有していたトヨタ自動車工業株は299,360株で、総株数の21.0%にあたる。労働の側では1947年6月3日から本社労組が無期限ストへ入り、石田退三副社長は二十余日の生産停止と声明した。争議のあと会社は1947年8月に標準時間による時間請負制度を採り、能率給の割合を賃金総額の8%から25%へ引き上げている。

  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第五章第二節 占領政策と当社への影響
    • [48]1946年2月10日 大府工場・栄生工場が賠償接収の対象として保全命令を受けたが、主力の刈谷工場は賠償指定を免れた
    • [49]1948年2月7日 過度経済力集中排除法の指定を受け、刈谷・大府・栄生の各工場の独立と社名変更を命ぜられた
    • [50]1948年11月19日 保有有価証券の処分を条件に集中排除法の指定を解除された
    • [51]当時保有していたトヨタ自動車工業株は299,360株で総株数の21.0%
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第五章第三節 労働組合の結成とストライキ
    • [52]1947年6月3日から本社労組が無期限ストへ突入し、石田退三副社長は二十余日の生産停止と声明した
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第五章第四節 創立二十五周年とその前後
    • [53]1947年8月 標準時間による時間請負制度を採用し、能率給の割合を賃金総額の8%から25%へ引き上げた

1950年11月6日、政府は臨時繊維機械設備制限規則を全面的に廃止し、戦中戦後を通じた紡織設備の統制が終わった。1950年4月からの1年間に会社が受けた紡機の受注は72万錘に達し、従来の月産1万5,000錘なら優に4年分にあたる仕事量を1年半余りで消化している。生産は1950年前半の月産精紡機45台・織機200台から、1951年3月に月産紡機6万錘・織機600台、同年9月には月産紡機10万錘の新記録へ届いた。支えたのは外注先の拡張で、約100社が340社へ増えている。従業員はブーム前の3,500人から、臨時工約1,000人を含む5,200人になった。売上高は1951年3月期の29億5,000万円から1952年3月期には85億8,000万円へ伸びた。祖業だけで世界の首位を占めたこの時期が、織機会社として立った最後の局面であった。

  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第五章第四節 創立二十五周年とその前後
    • [54]1950年11月6日 政府が臨時繊維機械設備制限規則を全面廃止し、戦中戦後の設備統制が終わった
    • [55]1950年4月からの1年間に紡機72万錘を受注。従来の月産1万5,000錘なら4年分の仕事量を1年半余りで消化した
    • [56]1950年前半の月産精紡機45台・織機200台から、1951年3月に月産紡機6万錘・織機600台、同年9月に月産紡機10万錘の新記録
    • [57]増産のため外注先は約100社から340社へ増えた
    • [58]従業員数はブーム到来前の3,500人から臨時工約1,000人を含む5,200人に達した
  • 会社年鑑
    • [59]売上高は1951年3月期29億5,000万円、1952年3月期85億8,000万円
参考文献[42]-[59]
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第五章第一節 復興への第一歩
    • [42]1945年12月8日 連合軍第六軍司令部の軍政第二三四号により刈谷・大府・栄生の3工場で紡織機械・自動車部品・内燃機関・車両部品の生産が許可された
    • [43]民需転換許可と前後して見返り輸出用織機800台の生産命令が下りた。輸入食糧・綿花等の支払見返り物資であった
    • [44]兵器生産でミリ規格化した刃工具・検具に合わせ、紡織機の図面をミリ表示へ修正することを決めた
    • [45]1946年4月に戦後第一号の自動織機を組立。4月50台、5月100台、6月120台、7月300台、8月237台を完成
    • [46]1947年7月13日 見返り織機800台の仕向地が中華民国384台・印度224台・英国192台に確定。戦後わが国最初の機械輸出となった
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [47]1948年の月産は自動織機450台・紡績機械1万3千錘
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第五章第二節 占領政策と当社への影響
    • [48]1946年2月10日 大府工場・栄生工場が賠償接収の対象として保全命令を受けたが、主力の刈谷工場は賠償指定を免れた
    • [49]1948年2月7日 過度経済力集中排除法の指定を受け、刈谷・大府・栄生の各工場の独立と社名変更を命ぜられた
    • [50]1948年11月19日 保有有価証券の処分を条件に集中排除法の指定を解除された
    • [51]当時保有していたトヨタ自動車工業株は299,360株で総株数の21.0%
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第五章第三節 労働組合の結成とストライキ
    • [52]1947年6月3日から本社労組が無期限ストへ突入し、石田退三副社長は二十余日の生産停止と声明した
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第五章第四節 創立二十五周年とその前後
    • [53]1947年8月 標準時間による時間請負制度を採用し、能率給の割合を賃金総額の8%から25%へ引き上げた
    • [54]1950年11月6日 政府が臨時繊維機械設備制限規則を全面廃止し、戦中戦後の設備統制が終わった
    • [55]1950年4月からの1年間に紡機72万錘を受注。従来の月産1万5,000錘なら4年分の仕事量を1年半余りで消化した
    • [56]1950年前半の月産精紡機45台・織機200台から、1951年3月に月産紡機6万錘・織機600台、同年9月に月産紡機10万錘の新記録
    • [57]増産のため外注先は約100社から340社へ増えた
    • [58]従業員数はブーム到来前の3,500人から臨時工約1,000人を含む5,200人に達した
  • 会社年鑑
    • [59]売上高は1951年3月期29億5,000万円、1952年3月期85億8,000万円

筆者考察

豊田佐吉氏が30年をかけて仕上げた自動織機は、発明としては仕上がっていたが、量産の責任を負う会社を持っていなかった。1926年に資本金100万円で刈谷に置かれた豊田自動織機製作所は、その責任だけを紡績本業から切り離して引き受ける会社だった。だから会社は、作った織機を売ることより先に、織機を作る力そのものを次の事業へ配った。英プラット社から受け取った10万ポンドは国産自動車の元手になり、自動車部門は1937年8月にトヨタ自動車工業として分離した。製鋼部門も1940年3月に豊田製鋼として離れている。祖業を守る会社ではなく、祖業で得た力を切り出して配る会社として、この期の豊田自動織機は動いていた。

切り出す側だった会社から、1938年、切り出す元手そのものが失われた。商工省令が紡織機を禁制品に落とし、母体の豊田紡織は紡績をやめてトヨタ自動車工業へ吸収された。残ったのは刈谷の設備と人だけで、会社はそこへ銃剣と航空機部品を載せた。載せるものを替えて工場を保たせるやり方は、敗戦を挟んでそのまま裏返る。1945年12月に見返り輸出用の織機800台を命じられると、ミリ規格へ直した図面で祖業に戻り、1951年9月には月産紡機10万錘に届いた。何を作るかは占領軍と法令が決め、会社が握っていたのは作る力のほうだった。この分かれ方が、次の20年で三つの多角化を同時に走らせる下地になる。

豊田自動織機製作所の売上高 1928年3月期〜1944年3月期(百万円)

22.1 1928 20.4 1932 94.1 1936 102 1940 202.3 1944
  • 単独決算。1944年3月期の売上の大半は軍需品と航空機部品が占める。
  • 出所は豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)の売上構成。

1926年〜1951年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 20 n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 29 +42.5% n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

16件
出典・参考
  • 豊田自動織機 有価証券報告書 第147期(2025年3月期)【沿革】
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第一章 草創期
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第一章第四節 自動織機の発明
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第一節 会社の設立
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第三節 自動織機の製造と販売
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第五節 紡績機械の製造と販売
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第二章第四節 英国プラット社へ自動織機の特許権譲渡
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第四章第一節 紡織機の製造禁止と豊田紡の終焉
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第四章第二節 軍需品の製造
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第五章第一節 復興への第一歩
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第五章第二節 占領政策と当社への影響
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第五章第三節 労働組合の結成とストライキ
  • 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第五章第四節 創立二十五周年とその前後
  • 会社銀行八十年史(1955年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 会社年鑑

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