豊田自動織機:S型エンジンとフォークリフトへの多角化
1952年〜勧告操短下でのS型エンジン受託と、メキシコ豊田の躓き
1952年2月に第一次の勧告操短が始まり、当初3カ月の予定は1953年5月まで1年2カ月続いた。朝鮮動乱のブームが反転したあと、会社の売上高は1955年まで減り続けている。1952年3月期に85億8,000万円あった売上は、1954年3月期には44億円まで減少した。1953年12月に受注したパキスタンのコヒノール向け77,120錘は大幅な採算割れが見込まれ、会社は1953年11月に労働組合へ能率給25%の引下げを申し入れ、1954年の昇給を中止している。同業の大阪機工・豊和工業・大阪機械が人員整理に踏み切るなか、当社は人員を整理せず、週五日制の暫定実施などで凌いだ。
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第一節 多角経営の芽生え
- [1]1952年2月に第一次勧告操短が始まり、当初3カ月の予定が1953年5月まで1年2カ月続いた
- [2]動乱ブームの反動で1955年まで売上高は減少の一途をたどった
- [4]1953年12月受注のパキスタン・コヒノール向け77,120錘は大幅な採算割れの見込みで、1953年11月に労組へ能率給25%引下げを要請し1954年の昇給を中止
- [5]大阪機工・豊和工業・大阪機械が人員整理を発表するなか、当社は人員整理を行わず週五日制の暫定実施などで凌いだ
- 会社年鑑
- [3]売上高は1952年3月期85億8,000万円、1954年3月期44億円
1952年12月、会社はトヨタ自動車工業が作っていたS型エンジンの製作を引き受けた。小型車トヨペットのエンジンが1,453ccのR型へ移り、995ccのS型の需要が激減したことが受託の背景にある。1953年3月に加工と組付のラインがトヨタ自工から移り、4月30日に当社製の第一号S型エンジンが完成した。組み立てる場所には買収した遊休設備をあてている。極東空軍立川基地の重車両修理用に、敷地約3万坪・建物約2,800坪の名機製作所大府工場を総額4,340万円で買い取ったものの、動乱の終結で特需の発注が止まり雑草の生えるに任せていた施設である。トヨタ自工の月産3,000台増産計画に合わせて特殊車のシャシー組付へ転用し、1953年8月24日に共和工場として開所した。
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第一節 多角経営の芽生え
- [6]1952年12月 トヨタ自工が行っていたS型エンジンの製作を引き受け生産を開始
- [8]1953年3月にトヨタ自工からS型の加工・組付ラインが移転し、4月30日に当社製第一号S型エンジンが完成
- [9]共和工場は極東空軍立川基地の重車両修理用に名機製作所大府工場(敷地約3万坪・建物約2,800坪・総額4,340万円)を買収した施設で、動乱終結により遊休化していた
- [10]1953年8月24日 共和工場開所。トヨタ自工の月産3,000台増産計画により特殊車シャシー組付へ転用した
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第六節 フォークリフト部門の成長
- [7]小型車トヨペットのエンジンが1,453ccのR型へ移行し995ccのS型の需要が激減した
1954年6月4日、会社はメキシコのイダルゴー州イロロ村にメキシコ豊田株式会社を設立した。資本金は5,000万ペソ、円貨で14億4,000万円にあたる。進出の前提はメキシコ政府が与えた恩典で、国税と地方税の10年免除、設備と原材料の輸入税免除に加え、紡織機の輸入禁止が約束されていた。ところが輸入禁止令は現地業界の反対運動によって公布から1カ月余りで廃止される。国内需要は年5万錘から6万錘にすぎず獲得できるのは4割が限度で、操業計画は狂った。紡織機部門からは1956年にメキシコ豊田と共和工場、豊田車両整備へ人員を転出させている。1957年には4月末に1,322名いた従業員を二度の整理で633名へ半減させ、1959年11月に株式を譲渡して経営を移した。
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第二節 メキシコ豊田株式会社
- [11]1954年6月4日 メキシコ・イダルゴー州イロロ村にメキシコ豊田株式会社を設立
- [12]メキシコ豊田の資本金は5,000万ペソ(円貨14億4,000万円)
- [13]メキシコ政府の恩典は国税・地方税10年免除、現物出資設備と原材料の輸入税免除、および紡織機の輸入禁止
- [14]紡織機輸入禁止令は業界の反対運動により公布後わずか1カ月余で廃止された
- [15]現地の国内需要は年5〜6万錘にすぎず獲得は4割が限度で、操業計画が狂った
- [17]1957年4月末に1,322名いた従業員を6月・9月の二度の整理で633名へ半減させた
- [18]1959年11月9日に株式譲渡・経営移譲協定へ調印し、11日に全面譲渡した
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第三節 業容の刷新
- [16]1956年に紡織機部門からメキシコ豊田・共和工場・豊田車両整備へ人員を転出させた
参考文献[1]-[18]
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第一節 多角経営の芽生え
- [1]1952年2月に第一次勧告操短が始まり、当初3カ月の予定が1953年5月まで1年2カ月続いた
- [2]動乱ブームの反動で1955年まで売上高は減少の一途をたどった
- [4]1953年12月受注のパキスタン・コヒノール向け77,120錘は大幅な採算割れの見込みで、1953年11月に労組へ能率給25%引下げを要請し1954年の昇給を中止
- [5]大阪機工・豊和工業・大阪機械が人員整理を発表するなか、当社は人員整理を行わず週五日制の暫定実施などで凌いだ
- [6]1952年12月 トヨタ自工が行っていたS型エンジンの製作を引き受け生産を開始
- [8]1953年3月にトヨタ自工からS型の加工・組付ラインが移転し、4月30日に当社製第一号S型エンジンが完成
- [9]共和工場は極東空軍立川基地の重車両修理用に名機製作所大府工場(敷地約3万坪・建物約2,800坪・総額4,340万円)を買収した施設で、動乱終結により遊休化していた
- [10]1953年8月24日 共和工場開所。トヨタ自工の月産3,000台増産計画により特殊車シャシー組付へ転用した
- 会社年鑑
- [3]売上高は1952年3月期85億8,000万円、1954年3月期44億円
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第六節 フォークリフト部門の成長
- [7]小型車トヨペットのエンジンが1,453ccのR型へ移行し995ccのS型の需要が激減した
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第二節 メキシコ豊田株式会社
- [11]1954年6月4日 メキシコ・イダルゴー州イロロ村にメキシコ豊田株式会社を設立
- [12]メキシコ豊田の資本金は5,000万ペソ(円貨14億4,000万円)
- [13]メキシコ政府の恩典は国税・地方税10年免除、現物出資設備と原材料の輸入税免除、および紡織機の輸入禁止
- [14]紡織機輸入禁止令は業界の反対運動により公布後わずか1カ月余で廃止された
- [15]現地の国内需要は年5〜6万錘にすぎず獲得は4割が限度で、操業計画が狂った
- [17]1957年4月末に1,322名いた従業員を6月・9月の二度の整理で633名へ半減させた
- [18]1959年11月9日に株式譲渡・経営移譲協定へ調印し、11日に全面譲渡した
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第三節 業容の刷新
- [16]1956年に紡織機部門からメキシコ豊田・共和工場・豊田車両整備へ人員を転出させた
1956年〜紡織機売上の半減と、フォークリフト・耕うん機の立ち上げ
1956年、綿スフ紡績の設備は1,031万錘から1,198万錘へ167万錘増え、当社には1955年10月からの8カ月で65万錘の注文が集中した。いわゆる駆け込み増設で、需要は一時的なものだった。1956年9月に292台、10月に288台あった精紡機の生産は、11月に88台、12月には63台へ減少している。売上高は1957年3月期の56億9,213万1千円をピークとして49億円、41億円、37億円と毎期下がり、1959年3月期には35億4,607万3千円になった。メキシコ豊田と豊田車両整備の不振も重なり、会社は八方ふさがりの状態に陥った。一方で1957年4月にはトヨエースの好調でエンジンが月産2,000台を超え、ランドクルーザーの輸出増で同車の組立も月産400台以上へ伸びていた。
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第三節 業容の刷新
- [19]1956年の駆け込み増設で綿スフ紡績設備は1,031万錘から1,198万錘へ167万錘増加し、1955年10月からの8カ月で当社に65万錘の注文が集中した
- [20]精紡機の生産は1956年9月292台・10月288台から11月88台・12月63台へ著減した
- [22]メキシコ豊田と豊田車両整備の不振も重なり八方ふさがりの状態となった
- [23]1957年4月にトヨエース好調でエンジンが月産2,000台超、ランドクルーザーの輸出増で同車の組立が月産400台以上となった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
- [21]売上高は1957年3月期5,692,131千円、1958年3月期4,148,765千円、1959年3月期3,546,073千円
フォークリフトの研究は1953年に始まった。S型エンジンの需要が激減したことを受けた新製品開発の一つで、部品を自動車と共用でき、販売とサービスをトヨタ自動車販売の網に乗せられる点が後押しとなっている。1955年4月に最初の1トン車が完成し、トヨタ自工での3カ月余りの実用テストを経て、1956年3月からLA型として販売を始めた。1957年から1958年にかけて3トンと2トンの車種を加え、日本工業規格の1トンから3トンまで4車種を揃えている。1959年末にようやく月産60台に達し、同年下期に部門の採算が初めて黒字へ転じた。国内の占拠率は1956年の4.6%から1961年には32.5%へ上がり、産業車両の売上高は1962年9月期に10億6,643万2千円となった。
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第六節 フォークリフト部門の成長
- [24]1953年にフォークリフトの研究へ着手した
- [25]参入の後押しは部品を自動車と共用できることと、販売・サービスをトヨタ自販網に乗せられることであった
- [26]1955年4月に最初の1トン車が完成し、トヨタ自工で3カ月余の実用テストを経て1956年3月からLA型として販売を開始
- [27]1957年6月に3トンのLE型、同年12月に3トンのLD型、1958年5月に2トンのLR型を出し、JIS規格の1〜3トン4車種を完成した
- [28]1959年末に月産60台へ届き、同年下期に同部門の採算が初めて黒字へ転換した
- [29]フォークリフトの国内占拠率は1956年4.6%、1961年32.5%
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
- [30]産業車両の売上高は1962年9月期1,066,432千円
農業機械への参入は1954年12月、農用トラクターの研究から始まった。北海道には4年間で外国製トラクターが200余台しか入らず、価格とサービスに難点があって廉価な国産機が求められていた。1956年5月に試作車3台を仕上げたものの、商品化には時期尚早と判断して実用化を見送り、耕うん機の開発へ切り替えている。1955年9月には価格を10万円以下とする基本構想を決めた。しかし1958年9月に市販した最初の耕うん機KC型は30万円前後で、当時の一般的な5馬力兼用型の16万円前後に対して高く、販売は低調に終わる。出荷は1960年の1,325台から1962年には1万2,000台を超えたが、農機の売上高は1962年9月期で7億3,069万5千円にとどまった。
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第五節 農業機械の製造と販売
- [31]1954年12月 農用トラクターの研究に着手した
- [32]北海道には4年間で外国製トラクターが200余台しか導入されず、価格・サービスに難点があり廉価な国産機が渇望されていた
- [33]1956年5月に試作車3台が完成したが、商品化には時期尚早と判断して実用化を見送り耕うん機の開発へ転換した
- [34]1955年9月 耕うん機について価格10万円以下を目標とする基本構想を決定
- [35]1958年9月に市販した最初の耕うん機KC型は価格30万円前後。当時の一般耕うん機は5馬力兼用型で16万円前後であり、販売成績は低調だった
- [36]当社耕うん機の出荷は1960年1,325台、1961年7,800台、1962年に1万2,000台超
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
- [37]農機の売上高は1962年9月期730,695千円
参考文献[19]-[37]
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第三節 業容の刷新
- [19]1956年の駆け込み増設で綿スフ紡績設備は1,031万錘から1,198万錘へ167万錘増加し、1955年10月からの8カ月で当社に65万錘の注文が集中した
- [20]精紡機の生産は1956年9月292台・10月288台から11月88台・12月63台へ著減した
- [22]メキシコ豊田と豊田車両整備の不振も重なり八方ふさがりの状態となった
- [23]1957年4月にトヨエース好調でエンジンが月産2,000台超、ランドクルーザーの輸出増で同車の組立が月産400台以上となった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
- [21]売上高は1957年3月期5,692,131千円、1958年3月期4,148,765千円、1959年3月期3,546,073千円
- [30]産業車両の売上高は1962年9月期1,066,432千円
- [37]農機の売上高は1962年9月期730,695千円
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第六節 フォークリフト部門の成長
- [24]1953年にフォークリフトの研究へ着手した
- [25]参入の後押しは部品を自動車と共用できることと、販売・サービスをトヨタ自販網に乗せられることであった
- [26]1955年4月に最初の1トン車が完成し、トヨタ自工で3カ月余の実用テストを経て1956年3月からLA型として販売を開始
- [27]1957年6月に3トンのLE型、同年12月に3トンのLD型、1958年5月に2トンのLR型を出し、JIS規格の1〜3トン4車種を完成した
- [28]1959年末に月産60台へ届き、同年下期に同部門の採算が初めて黒字へ転換した
- [29]フォークリフトの国内占拠率は1956年4.6%、1961年32.5%
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第五節 農業機械の製造と販売
- [31]1954年12月 農用トラクターの研究に着手した
- [32]北海道には4年間で外国製トラクターが200余台しか導入されず、価格・サービスに難点があり廉価な国産機が渇望されていた
- [33]1956年5月に試作車3台が完成したが、商品化には時期尚早と判断して実用化を見送り耕うん機の開発へ転換した
- [34]1955年9月 耕うん機について価格10万円以下を目標とする基本構想を決定
- [35]1958年9月に市販した最初の耕うん機KC型は価格30万円前後。当時の一般耕うん機は5馬力兼用型で16万円前後であり、販売成績は低調だった
- [36]当社耕うん機の出荷は1960年1,325台、1961年7,800台、1962年に1万2,000台超
1960年〜事業部制による毎期100億円の事業規模と、APA特需51,273台の喪失
1960年、会社は紡織機・車両・フォークリフト・農業機械の4つを単位とする事業部制を敷き、事業本部会議を置いた。1958年下期に35億円まで低下していた売上は1960年下期に100億円を超え、以後は毎期ほぼ100億円を確保している。1960年9月期の売上高は88億5,288万7千円、1961年3月期は101億8,499万7千円であった。支えたのは戦後最大の設備投資で、1958年から1962年にかけて大府と共和のエンジン鋳造加工に約30億円、刈谷のエンジン部品鋳造と紡織機加工の合理化に約10億円を投じた。1961年には職務給を導入している。資本金も1959年の12億円から1961年7月には32億円へ増えた。
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第三節 業容の刷新
- [38]1960年 紡織機・車両・フォークリフト・農業機械を単位とする事業部制と事業本部会議を設置
- [39]1958年下期に35億円まで低下した売上は1960年下期に100億円を超え、以後毎期ほぼ100億円を確保した
- [41]1958年から1962年にかけ大府・共和のエンジン鋳造加工に約30億円、刈谷のエンジン部品鋳造と紡織機加工の合理化に約10億円を投じた
- [42]1961年に職務給を導入した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
- [40]売上高は1960年9月期8,852,887千円、1961年3月期10,184,997千円
- [43]資本金は1959年12億円、1961年7月32億円
1958年、在日米国陸軍調達本部が東南アジア向けの援助物資として発注したAPA特需では、第一次の4,621台をトヨタ自工が落札し、組立と受検調整を当社が担った。会社は共和工場に第三機械工場2,304坪を新築し、約2億円を投じている。1959年9月26日の伊勢湾台風では、名古屋港で船積みを待っていた第一次特需車459台が高潮で冠水し、整備に4カ月を費やした。第二次分は1960年1月から1963年5月までの約3年半で46,652台を生産し、APAの合計は51,273台に達している。1962年、米国のドル危機とバイアメリカン政策によって第三次の受注はなく、毎期20億円ずつ数年続いた特需生産を一挙に失った。石田退三社長は1958年7月の賞与金授与式で、この受注の意味を語っている『私はこのたびのAPAの受注に当たりましても、将来紡織機がなくなるであろうことを予想し、挙母の仕事ではなく、自動織機の仕事にもなるのだという考えで、今までの利益を投げ出しても、今度は是非これを受注する覚悟で……やっと受注することができた』。
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第四節 車両部門の充実
- [44]1958年のAPA特需で第一次4,621台をトヨタ自工が落札し、組立・受検調整を当社が担当した
- [45]共和工場に第三機械工場2,304坪を新築し約2億円を投資した
- [46]1959年9月26日の伊勢湾台風で名古屋港に船積み待機中の第一次特需車459台が高潮で冠水し、整備に4カ月を費やした
- [47]第二次分は1960年1月から1963年5月までの約3年半で46,652台を生産し、APA合計は51,273台
- [48]1962年 米国のドル危機とバイアメリカン政策により第三次の受注はなく、毎期20億円ずつ数年続いた特需生産を一挙に失った
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第三節 業容の刷新
- [49]1958年7月の賞与金授与式で石田退三社長がAPA受注の意味について述べた
祖業の側では1964年6月に繊維工業設備等臨時措置法が成立し、1965年末までに130万錘の廃棄が進んだ。1966年9月20日には、1967年からの5年で過剰紡機300万錘を廃棄し、残る985万錘に416億円を投じる構造改善案が答申されている。一方フォークリフトは1966年1月から9月に3,313台を生産して国内占拠率を34.7%まで上げ、輸出も同じ期間に327台へ伸ばした。農業機械だけは、月産3,000台の専門工場計画を業界不況で中止したため量産による原価低減を得られず、価格面の劣位が続いた。売上高は1960年3月期の112億7,000万円から1969年3月期には463億円になり、1969年11月に石田退三氏が会長へ退任し、権田健次氏が社長に就任した。多角化は三つ走らせて二つが残り、会社の規模のほうが先に大きくなった。
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第七節 紡織機部門の業況
- [50]1964年6月 繊維工業設備等臨時措置法が成立し、1965年末までに130万錘の廃棄が進んだ
- [51]1966年9月20日の構造改善案の答申は、1967年からの5年で過剰紡機300万錘を廃棄し残る985万錘に416億円を投じるものであった
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第六節 フォークリフト部門の成長
- [52]フォークリフトは1966年1〜9月に3,313台を生産し占拠率34.7%、同期間の輸出は327台
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第五節 農業機械の製造と販売
- [53]耕うん機の月産3,000台構想の専門工場新設計画を業界不況により中止し、量産によるコストダウン効果を犠牲にして価格面で不利となった
- 会社年鑑
- [54]売上高は1960年3月期112億7,000万円、1969年3月期463億円
- 日本企業要覧 1971年版
- [55]石田退三氏は1969年11月に会長へ退き、権田健次氏が社長に就任した
参考文献[38]-[55]
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第三節 業容の刷新
- [38]1960年 紡織機・車両・フォークリフト・農業機械を単位とする事業部制と事業本部会議を設置
- [39]1958年下期に35億円まで低下した売上は1960年下期に100億円を超え、以後毎期ほぼ100億円を確保した
- [41]1958年から1962年にかけ大府・共和のエンジン鋳造加工に約30億円、刈谷のエンジン部品鋳造と紡織機加工の合理化に約10億円を投じた
- [42]1961年に職務給を導入した
- [49]1958年7月の賞与金授与式で石田退三社長がAPA受注の意味について述べた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
- [40]売上高は1960年9月期8,852,887千円、1961年3月期10,184,997千円
- [43]資本金は1959年12億円、1961年7月32億円
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第四節 車両部門の充実
- [44]1958年のAPA特需で第一次4,621台をトヨタ自工が落札し、組立・受検調整を当社が担当した
- [45]共和工場に第三機械工場2,304坪を新築し約2億円を投資した
- [46]1959年9月26日の伊勢湾台風で名古屋港に船積み待機中の第一次特需車459台が高潮で冠水し、整備に4カ月を費やした
- [47]第二次分は1960年1月から1963年5月までの約3年半で46,652台を生産し、APA合計は51,273台
- [48]1962年 米国のドル危機とバイアメリカン政策により第三次の受注はなく、毎期20億円ずつ数年続いた特需生産を一挙に失った
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第七節 紡織機部門の業況
- [50]1964年6月 繊維工業設備等臨時措置法が成立し、1965年末までに130万錘の廃棄が進んだ
- [51]1966年9月20日の構造改善案の答申は、1967年からの5年で過剰紡機300万錘を廃棄し残る985万錘に416億円を投じるものであった
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第六節 フォークリフト部門の成長
- [52]フォークリフトは1966年1〜9月に3,313台を生産し占拠率34.7%、同期間の輸出は327台
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第五節 農業機械の製造と販売
- [53]耕うん機の月産3,000台構想の専門工場新設計画を業界不況により中止し、量産によるコストダウン効果を犠牲にして価格面で不利となった
- 会社年鑑
- [54]売上高は1960年3月期112億7,000万円、1969年3月期463億円
- 日本企業要覧 1971年版
- [55]石田退三氏は1969年11月に会長へ退き、権田健次氏が社長に就任した
筆者考察
1952年から1955年まで、豊田自動織機の売上は落ち続けた。勧告操短で祖業の紡織機が止まり、同業の大阪機工や豊和工業が人員整理に踏み切るなかで、この会社が選んだのは人を減らすことではなく、人と設備の当て先を替えることだった。トヨタ自動車工業でトヨペットのエンジンがR型へ移り需要の消えたS型エンジンを引き受け、朝鮮動乱の終結で雑草に任せていた大府の買収工場を共和工場として開け、S型で余った技術をフォークリフトと耕うん機に充てる。どれも祖業から出た余りものを捨てずに行き先を探す動きで、新しい市場を先に見つけてから資源を集めたのではない。
三つの多角化のうち、自動車部品とフォークリフトは残り、農業機械は残らなかった。分けたのは技術ではなく量である。フォークリフトは部品を自動車と共用し、トヨタ自動車販売の販売網に乗って1961年に国内占拠率32.5%を確保した。耕うん機は価格10万円以下という構想から始まりながら、市販した最初のKC型が30万円前後になり、月産3,000台の専門工場計画を業界不況で止めたところで原価低減の道が閉じた。同じ社内で同じ時期に立ち上げた事業が、量を作れるかどうかだけで分かれている。1960年の事業部制は、その差を毎期100億円の売上のなかで誰の目にも見えるようにする仕掛けでもあった。
- 単独決算。1953年3月期から1956年3月期にかけては勧告操短で減少している。
- 出所は会社年鑑。
1952年〜1969年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1952年03月期 | 単体 | 85 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 50 | ▲41.4% | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 44 | ▲12.5% | n/a | n/a | 共和工場が操業開始(1953/08) |
| 1955年03月期 | 単体 | 51 | +17.3% | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 43 | ▲15.3% | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 111 | +155.6% | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 90 | ▲19.3% | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 72 | ▲20.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 112 | +56.3% | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 190 | +68.9% | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 210 | +10.4% | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 188 | ▲10.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 194 | +2.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 206 | +6.3% | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 190 | ▲7.9% | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 238 | +25.2% | 9 | 3.8% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 360 | +51.3% | 9 | 2.5% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 463 | +28.6% | 10 | 2.2% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
10件
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第一節 多角経営の芽生え
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第六節 フォークリフト部門の成長
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第二節 メキシコ豊田株式会社
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第三節 業容の刷新
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第五節 農業機械の製造と販売
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第四節 車両部門の充実
- 豊田自動織機製作所四十年史(豊田自動織機製作所, 1967)第六章第七節 紡織機部門の業況
- 会社年鑑
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
- 日本企業要覧 1971年版