ENEOS HD:有限責任日本石油会社の創立と越後の油田開発
1888年〜尼瀬の海面鉱区を拓いた内藤久寛氏・山口権三郎氏と、有限責任日本石油会社
有限責任日本石油会社は1888年5月10日、新潟県三島郡寺泊村の聖徳寺で創立総会を催し、同日に新潟県庁へ開業届を提出して発足した。設立の議は同年2月18日に長岡で開かれた殖産協会の懇談会で山口権三郎氏が提起し、経営の実務は内藤久寛氏に託された。創立趣意書の草稿は内藤久寛氏の手になり、小資本の山師が中途で廃業するので採油が伸びないと述べたうえで、『県下ニテモ猶米国産ヲ購求スルニ至ル遺憾ナラズヤ』と嘆いた。発起人21名のうち16名は地主かその出身で、18名が殖産協会の会員である。創立総会は資本金を10万円から15万円へ改め、理事5名が互選して常務理事に内藤久寛氏を就けた。内藤久寛氏と山口権三郎氏は、投機とみなされていた石油の採掘を、地元の資産家が出資する会社組織へ移そうとしたのだろう。
- 日本石油百年史(1988)序章〜2章
- [1]1888年5月10日、寺泊村聖徳寺で創立総会、同日開業届を新潟県庁に提出し有限責任日本石油会社が設立
- [2]1888年2月18日の殖産協会懇談会(長岡)で山口権三郎が石油会社設立を提起、経営実務は内藤久寛に委ねられた
- [4]発起人21名中16名が地主またはその出身、18名が殖産協会会員
- [5]創立総会で資本金を10万円から15万円に改正、理事5名の互選で内藤久寛が常務理事
- 企業の現代史 1962「石油時代をリードする(日本石油)」
- [3]創立趣意書(内藤久寛草稿)は山師的経営による中途廃業を挙げ、県下でも米国産油を購入している現状を遺憾とした
1888年当時の尼瀬の陸上は手掘りの井戸で埋まり、出願できる空き鉱区は残っていなかった。内藤久寛氏は油脈が海中へ続くとみて、公有海面を借区し、埋め立てて掘る構想を立てた。尼瀬町民の反対には新潟県の仲介を得て交換約定書を結び、出油高の2.5%を地元に渡す条件で決着した。1888年7月から翌年3月までに開いた13坑のうち10坑が出油し、採油量は1,570石と、見込みの600石を大きく上回る結果。理事の山口権三郎氏が1889年に米国の油田を視察すると、理事会は1万円を超える綱式削井機械の購入を決めた。米国から輸入した綱索式の機械で海底油田を掘り、日本石油は1891年に多量の出油を得た。
- 日本石油百年史(1988)序章〜2章
- [6]創立当時の尼瀬の陸地は石油ブームで掘り尽くされ新規出願の余地がなかった
- [7]内藤久寛は陸上の油脈が海中に続くと確信し、公有海面を借区・埋立てて掘削する構想を立てた
- [8]地元の反対に県が仲介し、交換約定書で出油高の100分の2.5を地元へ渡すと約定
- [9]1888年7月〜1889年3月に13坑を開坑し10坑で1,570石を採油(見込みは5坑600石)
- [10]山口権三郎が1889年に米国油田を視察、1890年4月の理事会でピアス綱式削井機械一式(1万円超)の購入を決議
- 会社銀行八十年史 1955「日本石油」
- [11]米国の綱索式鑿井機械を輸入し尼瀬の海底油田を掘鑿、明治24年に多量の出油に成功
日本石油の創立時の目的は、石油の採掘と精製の両方である。1888年9月に始めた原油の販売では、1石6.68円の発売価格が11月下旬に9.45円へ上がり、翌年2月初旬には5.68円まで下がった。1889年2月17日の理事会は経営の安定を目的に、尼瀬の海面600坪を埋め立てて製油場を建てると決めた。装置は同年10月21日の暴風波で壊れ、復旧に2,800円を要したのち、製油場の完成は1890年12月となった。比重計と硫酸・苛性ソーダを用いる洋式の製法で灯油を精製し、日本石油は「蝙蝠印石油」の名で売り出した。原油相場の振れに左右されない収益を、製品の付加価値で得ようとした判断とみられる。
- 会社銀行八十年史 1955「日本石油」
- [12]1888年5月、石油採掘・石油精製を目的として資本金15万円で創立
- 日本石油百年史(1988)序章〜2章
- [13]原油販売は1888年9月初旬開始、発売時6.68円/石、11月下旬9.45円/石、翌年2月初旬5.68円/石
- [14]1889年2月17日の理事会で経営安定化のため海面600坪を埋め立て製油場建設を決定
- [15]1889年10月21日の暴風波で装置破壊、復旧費2,800円、1890年12月に尼瀬製油場完成
- [16]比重計・硫酸・苛性ソーダを用いる洋式製油法を採用し、蝙蝠印石油を発売
参考文献[1]-[16]
- 日本石油百年史(1988)序章〜2章
- [1]1888年5月10日、寺泊村聖徳寺で創立総会、同日開業届を新潟県庁に提出し有限責任日本石油会社が設立
- [2]1888年2月18日の殖産協会懇談会(長岡)で山口権三郎が石油会社設立を提起、経営実務は内藤久寛に委ねられた
- [4]発起人21名中16名が地主またはその出身、18名が殖産協会会員
- [5]創立総会で資本金を10万円から15万円に改正、理事5名の互選で内藤久寛が常務理事
- [6]創立当時の尼瀬の陸地は石油ブームで掘り尽くされ新規出願の余地がなかった
- [7]内藤久寛は陸上の油脈が海中に続くと確信し、公有海面を借区・埋立てて掘削する構想を立てた
- [8]地元の反対に県が仲介し、交換約定書で出油高の100分の2.5を地元へ渡すと約定
- [9]1888年7月〜1889年3月に13坑を開坑し10坑で1,570石を採油(見込みは5坑600石)
- [10]山口権三郎が1889年に米国油田を視察、1890年4月の理事会でピアス綱式削井機械一式(1万円超)の購入を決議
- [13]原油販売は1888年9月初旬開始、発売時6.68円/石、11月下旬9.45円/石、翌年2月初旬5.68円/石
- [14]1889年2月17日の理事会で経営安定化のため海面600坪を埋め立て製油場建設を決定
- [15]1889年10月21日の暴風波で装置破壊、復旧費2,800円、1890年12月に尼瀬製油場完成
- [16]比重計・硫酸・苛性ソーダを用いる洋式製油法を採用し、蝙蝠印石油を発売
- 企業の現代史 1962「石油時代をリードする(日本石油)」
- [3]創立趣意書(内藤久寛草稿)は山師的経営による中途廃業を挙げ、県下でも米国産油を購入している現状を遺憾とした
- 会社銀行八十年史 1955「日本石油」
- [11]米国の綱索式鑿井機械を輸入し尼瀬の海底油田を掘鑿、明治24年に多量の出油に成功
- [12]1888年5月、石油採掘・石油精製を目的として資本金15万円で創立
1893年〜30万円への倍額増資で西山・新津・東山へ出た日本石油と、柏崎製油所
長岡の東に広がる東山油田では、1890年から1892年にかけて長岡石油・北越石油・太平石油などの会社が相次いで設立された。1893年に太平石油3号井が加津保沢で大噴油すると、東山へ進出する会社や組合がさらに増えた。紡績工場を閉じて1890年に石油事業へ転じた山田又七氏は、1892年6月に資本金1万5,000円の会社を長岡で興した。この会社は1893年3月に宝田石油株式会社となり、手掘の2井だけで14カ月に5,698石の産出。宝田石油は1907年までに124の会社・組合を合併し、日本石油と業界を二分した。小規模な採掘者の合同で規模を得た宝田石油と、機械掘の技術で先行した日本石油とでは、成長の経路が異なっていたと思われる。
- 日本石油百年史(1988)序章〜2章
- [17]東山油田で1890〜1892年に長岡石油・北越石油・太平石油などが続々設立
- [18]1893年、太平石油3号井が加津保沢で東山油田空前の大噴油、進出する会社・組合が急増
- [19]山田又七は紡績工場を1886年に閉鎖し1890年から石油事業、1892年6月に資本金1万5,000円の新会社を長岡に設立
- [20]1893年3月に宝田石油株式会社、開業から14カ月に手掘2井で5,698石を産出
- 会社銀行八十年史 1955「日本石油」
- [21]宝田石油は創立(明治26年)以来40年までに124の会社・組合を合併し、日・宝対立時代となった
日本石油は1894年4月、西山・新津・東山へ進出するための鉱区拡張と出張所の開設を決め、資本金を30万円へ倍額増資した。尼瀬の油田はすでに手狭で、1893年の加津保沢の大噴油が他地区への進出を後押ししたと社史は推定している。西山では1894年12月に宮川1号井を綱掘式の削井機で開坑し、軽質の原油を船で尼瀬の製油場へ送った。1895年10月に東山に設けた浦瀬出張所は、1897年度に機械掘11井などで3万8,000石を産出した。この量は尼瀬の最盛期を上回り、1895年から衰え始めた尼瀬の減産を補うに足る規模である。日本石油は1895年に新潟鉄工所を開設し、削井機械の自給を図った。
- 日本石油百年史(1988)序章〜2章
- [22]1894年4月、西山・新津・東山等への鉱区拡張、出張所開設、30万円への倍額増資を決定
- [23]尼瀬は手狭になり、1893年の東山・加津保沢の大噴油が他地区進出の刺激となったと推定
- [24]1894年12月16日に宮川1号井を綱掘式削井機で開坑、軽質原油を船便で尼瀬製油場へ輸送
- [25]1895年10月に浦瀬出張所開設、1897年度に機械掘11井ほかで3万8,000石産出
- [26]東山の産出は尼瀬の最盛期を上回り、1895年から衰退した尼瀬を補った
- 会社銀行八十年史 1955「日本石油」
- [27]明治28年に新潟鉄工所を開設して鑿井機械の自給を図った
社長の内藤久寛氏は1897年に米国とロシアを視察し、バクー油田の産油とスタンダード石油による製油所の統合を見た。帰国後に農商務省へ出した報告書は、産油の増大のほかに外油へ対抗する策はないとし、大製油所の設置と輸送の整備を提言した。1898年3月の総選挙への立候補を辞退した内藤久寛氏は、政治との関係を断って柏崎で製油所用地の調査に入った。日本石油は1899年に柏崎へ製油所を建設し、本社も同地へ移して東京に販売店を置いた。柏崎の第二製油所は日産400石の原油処理能力を持ち、1,000石以上への拡張の余地を見込んだ設備である。1899年8月の祝賀会には朝野の名士700名余と東京・大阪の新聞記者を招き、事業を広く紹介した。
- 日本石油百年史(1988)序章〜2章
- [28]内藤久寛は1897年に欧米・ロシアを視察、バクー油田とスタンダード石油の鉄道・製油所統合を研究
- [29]1898年3月刊の米露両国石油事業調査報告は産油増大以外に外油対抗策なしとし、大製油所設置・運送の便を提言
- [30]1898年3月の総選挙立候補を辞退し政治関係を断ち、柏崎で新製油所用地を調査
- [32]第二製油所の原油処理能力は400石/日、1,000石/日以上の拡張余地
- 会社銀行八十年史 1955「日本石油」
- [31]明治32年に柏崎に製油所を建設、本社も同地に移転し、東京に販売店を設置
- 企業の現代史 1962「石油時代をリードする(日本石油)」
- [33]柏崎移転時に朝野の名士700名を招き、東京・大阪の新聞記者を多数招いて石油事業を啓蒙
参考文献[17]-[33]
- 日本石油百年史(1988)序章〜2章
- [17]東山油田で1890〜1892年に長岡石油・北越石油・太平石油などが続々設立
- [18]1893年、太平石油3号井が加津保沢で東山油田空前の大噴油、進出する会社・組合が急増
- [19]山田又七は紡績工場を1886年に閉鎖し1890年から石油事業、1892年6月に資本金1万5,000円の新会社を長岡に設立
- [20]1893年3月に宝田石油株式会社、開業から14カ月に手掘2井で5,698石を産出
- [22]1894年4月、西山・新津・東山等への鉱区拡張、出張所開設、30万円への倍額増資を決定
- [23]尼瀬は手狭になり、1893年の東山・加津保沢の大噴油が他地区進出の刺激となったと推定
- [24]1894年12月16日に宮川1号井を綱掘式削井機で開坑、軽質原油を船便で尼瀬製油場へ輸送
- [25]1895年10月に浦瀬出張所開設、1897年度に機械掘11井ほかで3万8,000石産出
- [26]東山の産出は尼瀬の最盛期を上回り、1895年から衰退した尼瀬を補った
- [28]内藤久寛は1897年に欧米・ロシアを視察、バクー油田とスタンダード石油の鉄道・製油所統合を研究
- [29]1898年3月刊の米露両国石油事業調査報告は産油増大以外に外油対抗策なしとし、大製油所設置・運送の便を提言
- [30]1898年3月の総選挙立候補を辞退し政治関係を断ち、柏崎で新製油所用地を調査
- [32]第二製油所の原油処理能力は400石/日、1,000石/日以上の拡張余地
- 会社銀行八十年史 1955「日本石油」
- [21]宝田石油は創立(明治26年)以来40年までに124の会社・組合を合併し、日・宝対立時代となった
- [27]明治28年に新潟鉄工所を開設して鑿井機械の自給を図った
- [31]明治32年に柏崎に製油所を建設、本社も同地に移転し、東京に販売店を設置
- 企業の現代史 1962「石油時代をリードする(日本石油)」
- [33]柏崎移転時に朝野の名士700名を招き、東京・大阪の新聞記者を多数招いて石油事業を啓蒙
1907年〜スタンダード系のインターナショナル石油の買収と、日産8,000石の黒川5号井
1900年から日本で油田開発と精製を進めたスタンダード系のインターナショナル石油は、規模が日本の資源に見合わず操業7年で廃止に至った。1907年5月9日、内藤久寛社長のもとへインターナショナル石油の社長ジュリアス・コップマン氏が来訪し、在日事業を引き受けるよう求めた。5月19日の折衝で合意したのは、代価175万円による新潟県内の全財産の取得。取得した資産は鉱区34箇所・油井92坑・直江津製油所・油槽車21両などで、運用に要る社員も日本石油へ移った。北海道の事業も、1911年に日本石油が継承している。この時期に日本石油と宝田石油の資本金はそろって1,000万円に達し、両社が張り合う日・宝対立の時代が始まった。
- 企業の現代史 1962「石油時代をリードする(日本石油)」
- [34]インターナショナル石油は操業7年で廃止、規模が日本の資源事情に合わなかったことが原因とされる
- 日本石油百年史(1988)序章〜2章
- [35]1907年5月9日、NYスタンダード東洋総支配人でインター社長のコップマンが内藤を訪れ事業引受けを要請
- [36]1907年5月19日、175万円でインターナショナル石油の新潟県における全財産の買収を決定
- [37]譲受資産は鉱区34箇所、油井92坑、直江津製油所設備、油槽車21両など、社員も引継ぎ
- [38]1911年、北海道におけるインターナショナル石油の事業を継承
- 会社銀行八十年史 1955「日本石油」
- [39]インター新潟県事業財産の買収により日本石油・宝田石油はいずれも資本金1,000万円となり日・宝対立時代
国内の原油生産は1910年から減少に転じ、既存油田では浅い層をほぼ掘り尽くしていた。1912年12月、日本石油は米国へ技師3名を送り、ロータリー式掘削機を購入して米国人技師4名を雇った。秋田の黒川では地質技師の渡辺貞助氏の進言で800万坪の鉱区を設け、1913年の黒川油田の産油量は4万5,305石に達した。1914年5月26日にロータリー式で掘った黒川5号井が自噴し、秋田礦業所からは日産8,000石以上との打電があった。日本石油は土タンクを急造して原油を受け、5月29日に坑口制限装置を付けて噴油量を調節した。1914年、年産5,000石以上の油田で数えた日本石油の産油量は116万6,247石である。
- 日本石油百年史(1988)3章 第一次世界大戦前後の石油産業と日・宝合併
- [40]国内原油生産は1910年から減少、既存油田は300〜400間の浅層をほぼ掘り尽くした
- [41]1912年12月に技師3名を渡米させロータリー式掘削機を購入、米国人技師4名を雇用
- [42]渡辺貞助の進言で黒川一帯に800万坪の鉱区を設定、1913年の黒川油田産油量4万5,305石
- [44]土タンクを急造、5月29日に坑口制限装置を装着し噴油量を調節
- [45]年産5,000石以上の油田からの産油量が1914年に116万6,247石(1912年の総原油生産量は42万8,478石)
- 企業の現代史 1962「石油時代をリードする(日本石油)」
- [43]1914年5月26日、秋田礦業所から黒川第五号井が自噴し日産8,000石以上との電報
日本石油は1914年7月20日の臨時株主総会で本社の東京移転を決め、8月3日に有楽町の三菱21号館で業務を始めた。背景には、産油地が秋田・北海道・台湾へ広がり、黒川5号井の成功で秋田の産油量が新潟を上回った事情がある。1912年には国内消費量の14〜15%を日本石油が生産し、機械油や重油の大口需要家や官庁との直接の折衝も増えていた。第一次世界大戦で外油2社が退潮し、内燃機関の普及で重油・揮発油・潤滑油の需要が伸びた。1918年12月期の純益は石油価格の高騰で518万円弱とほぼ倍増し、日本石油は翌年初めに自社ビル有楽館の建設計画を立てた。1920年1月には原油不足への対策として中央石油を買収した。
- 日本石油百年史(1988)3章 第一次世界大戦前後の石油産業と日・宝合併
- [46]1914年7月20日の臨時株主総会で東京移転を可決、8月3日に麹町区有楽町の三菱21号館で業務開始
- [47]産油地が秋田・北海道・台湾に拡大し、黒川5号井で秋田が新潟を上回る産油県に
- [48]1912年に国内消費量の14〜15%を生産、機械油・重油の大口需要家や官公庁との直接折衝が増加
- [50]1918年12月期純益518万円弱と前年同期のほぼ倍、1919年初めに自社ビル建設を計画
- [51]中央石油を1920年1月に原油不足対策の一環として買収
- 会社銀行八十年史 1955「日本石油」
- [49]大正3年の欧州大戦で外油2社が退潮、内燃機関の発達で重油・揮発油・潤滑油の需要が増大し本社を東京へ移転
参考文献[34]-[51]
- 企業の現代史 1962「石油時代をリードする(日本石油)」
- [34]インターナショナル石油は操業7年で廃止、規模が日本の資源事情に合わなかったことが原因とされる
- [43]1914年5月26日、秋田礦業所から黒川第五号井が自噴し日産8,000石以上との電報
- 日本石油百年史(1988)序章〜2章
- [35]1907年5月9日、NYスタンダード東洋総支配人でインター社長のコップマンが内藤を訪れ事業引受けを要請
- [36]1907年5月19日、175万円でインターナショナル石油の新潟県における全財産の買収を決定
- [37]譲受資産は鉱区34箇所、油井92坑、直江津製油所設備、油槽車21両など、社員も引継ぎ
- [38]1911年、北海道におけるインターナショナル石油の事業を継承
- 会社銀行八十年史 1955「日本石油」
- [39]インター新潟県事業財産の買収により日本石油・宝田石油はいずれも資本金1,000万円となり日・宝対立時代
- [49]大正3年の欧州大戦で外油2社が退潮、内燃機関の発達で重油・揮発油・潤滑油の需要が増大し本社を東京へ移転
- 日本石油百年史(1988)3章 第一次世界大戦前後の石油産業と日・宝合併
- [40]国内原油生産は1910年から減少、既存油田は300〜400間の浅層をほぼ掘り尽くした
- [41]1912年12月に技師3名を渡米させロータリー式掘削機を購入、米国人技師4名を雇用
- [42]渡辺貞助の進言で黒川一帯に800万坪の鉱区を設定、1913年の黒川油田産油量4万5,305石
- [44]土タンクを急造、5月29日に坑口制限装置を装着し噴油量を調節
- [45]年産5,000石以上の油田からの産油量が1914年に116万6,247石(1912年の総原油生産量は42万8,478石)
- [46]1914年7月20日の臨時株主総会で東京移転を可決、8月3日に麹町区有楽町の三菱21号館で業務開始
- [47]産油地が秋田・北海道・台湾に拡大し、黒川5号井で秋田が新潟を上回る産油県に
- [48]1912年に国内消費量の14〜15%を生産、機械油・重油の大口需要家や官公庁との直接折衝が増加
- [50]1918年12月期純益518万円弱と前年同期のほぼ倍、1919年初めに自社ビル建設を計画
- [51]中央石油を1920年1月に原油不足対策の一環として買収
出典・参考
4件
- 日本石油百年史(1988)序章〜2章
- 日本石油百年史(1988)3章 第一次世界大戦前後の石油産業と日・宝合併
- 会社銀行八十年史 1955「日本石油」
- 企業の現代史 1962「石油時代をリードする(日本石油)」