第1章 年〜年

東急不動産ホールディングス:前身田園都市の設立と東急不動産の発足

1918年〜荏原の地主が渋沢栄一氏に託した田園都市と、洗足・多摩川台の分譲

東急不動産の起点は、1918年9月2日に創立した田園都市株式会社である。発端は1915年3月、東京府荏原郡の地主有志が仲介者の畑弥右衛門氏と王子飛鳥山の渋沢栄一氏を訪ね、郡一円の開発の実施を頼んだことにある。当時は第1次世界大戦による商工業の拡大で東京市へ人口が集まり、住宅難が起きていた。市からあふれた人口は荏原郡などの隣接町村へ移り、財政の乏しい町村は無秩序な市街化を見守るほかなかった。実業界を引退していた渋沢栄一氏は欧米視察を通じて田園都市の必要を痛感しており、全面的な協力を約束。会社は渋沢栄一氏・中野武営氏らが唱えた理想的な住宅地の構想を基に、資本金50万円・1万株で発足した。

  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「1章 街づくりのはじまり」
    • [1]1915年3月に荏原郡の地主有志が畑弥右衛門と渋沢栄一を訪ね開発を依頼し、1918年9月2日に田園都市(株)が資本金50万円・1万株で創立した。背景は大戦期の東京の人口集中と住宅難
    • [2]1915年3月に荏原郡の地主有志が畑弥右衛門と渋沢栄一を訪ね開発を依頼し、1918年9月2日に田園都市(株)が資本金50万円・1万株で創立した。背景は大戦期の東京の人口集中と住宅難
    • [3]1915年3月に荏原郡の地主有志が畑弥右衛門と渋沢栄一を訪ね開発を依頼し、1918年9月2日に田園都市(株)が資本金50万円・1万株で創立した。背景は大戦期の東京の人口集中と住宅難
    • [4]1915年3月に荏原郡の地主有志が畑弥右衛門と渋沢栄一を訪ね開発を依頼し、1918年9月2日に田園都市(株)が資本金50万円・1万株で創立した。背景は大戦期の東京の人口集中と住宅難
    • [5]1915年3月に荏原郡の地主有志が畑弥右衛門と渋沢栄一を訪ね開発を依頼し、1918年9月2日に田園都市(株)が資本金50万円・1万株で創立した。背景は大戦期の東京の人口集中と住宅難
    • [6]1915年3月に荏原郡の地主有志が畑弥右衛門と渋沢栄一を訪ね開発を依頼し、1918年9月2日に田園都市(株)が資本金50万円・1万株で創立した。背景は大戦期の東京の人口集中と住宅難
  • 東急不動産(社史要約・年表)
    • [7]田園都市(株)は渋沢栄一・中野武営らの理想的住宅地開発の構想を基に1918年に設立された

目黒蒲田電鉄の創立は1922年9月2日で、田園都市(株)が鉄道部門を分けて設けた会社にあたる。発端は1920年3月の戦後恐慌で、出資した日本橋クラブの面々が本業の立て直しに追われ、鉄道建設は後回しになった。第一生命が持株を引き受け、社長の矢野恒太氏が相談役として経営に加わった。しかし矢野恒太氏は48万坪の社有地の使い道を定められず、関西の箕面有馬電車で住宅地経営を成功させた小林一三氏に助言を求めた。小林一三氏は決めた施策を実行できる人物として、武蔵電気鉄道常務の五島慶太氏を推した。新会社は資本金350万円・7万株で、うち6万8,000株の引受け手は田園都市(株)である。専務の五島慶太氏は1923年3月に目黒・多摩川間、同年11月に多摩川・蒲田間を開通させた。

  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「1章 街づくりのはじまり」
    • [8]1920年の戦後恐慌で鉄道建設が停滞し、第一生命の矢野恒太が経営参画、小林一三の推薦で五島慶太が加わり、1922年9月2日に目黒蒲田電鉄を資本金350万円・7万株(6万8,000株を田園都市が引受)で創立
    • [9]1920年の戦後恐慌で鉄道建設が停滞し、第一生命の矢野恒太が経営参画、小林一三の推薦で五島慶太が加わり、1922年9月2日に目黒蒲田電鉄を資本金350万円・7万株(6万8,000株を田園都市が引受)で創立
    • [10]1920年の戦後恐慌で鉄道建設が停滞し、第一生命の矢野恒太が経営参画、小林一三の推薦で五島慶太が加わり、1922年9月2日に目黒蒲田電鉄を資本金350万円・7万株(6万8,000株を田園都市が引受)で創立
    • [11]1920年の戦後恐慌で鉄道建設が停滞し、第一生命の矢野恒太が経営参画、小林一三の推薦で五島慶太が加わり、1922年9月2日に目黒蒲田電鉄を資本金350万円・7万株(6万8,000株を田園都市が引受)で創立
    • [12]1920年の戦後恐慌で鉄道建設が停滞し、第一生命の矢野恒太が経営参画、小林一三の推薦で五島慶太が加わり、1922年9月2日に目黒蒲田電鉄を資本金350万円・7万株(6万8,000株を田園都市が引受)で創立
    • [13]1920年の戦後恐慌で鉄道建設が停滞し、第一生命の矢野恒太が経営参画、小林一三の推薦で五島慶太が加わり、1922年9月2日に目黒蒲田電鉄を資本金350万円・7万株(6万8,000株を田園都市が引受)で創立
  • 会社銀行八十年史(1955)「東京急行電鉄」
    • [14]目黒蒲田電鉄は専務に五島慶太が就任し、1923年3月に目黒・多摩川間、同年11月に多摩川・蒲田間を開通

田園都市(株)は1922年6月、洗足地区の約6万4,000坪を図面による予約販売で売り出した。代金は2割を契約金とし、残りを3〜10年の月賦か半年賦で払う方式をとり、同年12月には売れ残りが数区画にまで減った。続く多摩川台地区(現田園調布)は設備を整えてから売り出し、土地譲渡契約に建築規則を付けて用途・階数・煤煙を制限した。1923年9月1日の関東大震災では東京湾沿いの低地が大きな被害を受けた一方、丘陵にある洗足・多摩川台の被害は軽微にとどまった。震災後に住宅の郊外移転が相次ぎ、洗足と田園調布の分譲地は完売。多摩川台の第1回分譲は震災後の1923年10月とみられ、田園都市(株)はその後も毎期年1割の配当を続けた。

  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「1章 街づくりのはじまり」
    • [15]洗足は1922年6月に約6万4,000坪を割賦で予約販売、多摩川台は建築規則付きで分譲。震災で洗足・多摩川台の被害は軽微で、多摩川台第1回分譲は1923年10月と推定、配当は毎期年1割
    • [16]洗足は1922年6月に約6万4,000坪を割賦で予約販売、多摩川台は建築規則付きで分譲。震災で洗足・多摩川台の被害は軽微で、多摩川台第1回分譲は1923年10月と推定、配当は毎期年1割
    • [17]洗足は1922年6月に約6万4,000坪を割賦で予約販売、多摩川台は建築規則付きで分譲。震災で洗足・多摩川台の被害は軽微で、多摩川台第1回分譲は1923年10月と推定、配当は毎期年1割
    • [18]洗足は1922年6月に約6万4,000坪を割賦で予約販売、多摩川台は建築規則付きで分譲。震災で洗足・多摩川台の被害は軽微で、多摩川台第1回分譲は1923年10月と推定、配当は毎期年1割
    • [20]洗足は1922年6月に約6万4,000坪を割賦で予約販売、多摩川台は建築規則付きで分譲。震災で洗足・多摩川台の被害は軽微で、多摩川台第1回分譲は1923年10月と推定、配当は毎期年1割
  • 会社銀行八十年史(1955)「東京急行電鉄」
    • [19]1923年の大震災で住宅が郊外に移転し、洗足・田園調布の分譲地は売り尽くされた
参考文献[1]-[20]
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「1章 街づくりのはじまり」
    • [1]1915年3月に荏原郡の地主有志が畑弥右衛門と渋沢栄一を訪ね開発を依頼し、1918年9月2日に田園都市(株)が資本金50万円・1万株で創立した。背景は大戦期の東京の人口集中と住宅難
    • [2]1915年3月に荏原郡の地主有志が畑弥右衛門と渋沢栄一を訪ね開発を依頼し、1918年9月2日に田園都市(株)が資本金50万円・1万株で創立した。背景は大戦期の東京の人口集中と住宅難
    • [3]1915年3月に荏原郡の地主有志が畑弥右衛門と渋沢栄一を訪ね開発を依頼し、1918年9月2日に田園都市(株)が資本金50万円・1万株で創立した。背景は大戦期の東京の人口集中と住宅難
    • [4]1915年3月に荏原郡の地主有志が畑弥右衛門と渋沢栄一を訪ね開発を依頼し、1918年9月2日に田園都市(株)が資本金50万円・1万株で創立した。背景は大戦期の東京の人口集中と住宅難
    • [5]1915年3月に荏原郡の地主有志が畑弥右衛門と渋沢栄一を訪ね開発を依頼し、1918年9月2日に田園都市(株)が資本金50万円・1万株で創立した。背景は大戦期の東京の人口集中と住宅難
    • [6]1915年3月に荏原郡の地主有志が畑弥右衛門と渋沢栄一を訪ね開発を依頼し、1918年9月2日に田園都市(株)が資本金50万円・1万株で創立した。背景は大戦期の東京の人口集中と住宅難
    • [8]1920年の戦後恐慌で鉄道建設が停滞し、第一生命の矢野恒太が経営参画、小林一三の推薦で五島慶太が加わり、1922年9月2日に目黒蒲田電鉄を資本金350万円・7万株(6万8,000株を田園都市が引受)で創立
    • [9]1920年の戦後恐慌で鉄道建設が停滞し、第一生命の矢野恒太が経営参画、小林一三の推薦で五島慶太が加わり、1922年9月2日に目黒蒲田電鉄を資本金350万円・7万株(6万8,000株を田園都市が引受)で創立
    • [10]1920年の戦後恐慌で鉄道建設が停滞し、第一生命の矢野恒太が経営参画、小林一三の推薦で五島慶太が加わり、1922年9月2日に目黒蒲田電鉄を資本金350万円・7万株(6万8,000株を田園都市が引受)で創立
    • [11]1920年の戦後恐慌で鉄道建設が停滞し、第一生命の矢野恒太が経営参画、小林一三の推薦で五島慶太が加わり、1922年9月2日に目黒蒲田電鉄を資本金350万円・7万株(6万8,000株を田園都市が引受)で創立
    • [12]1920年の戦後恐慌で鉄道建設が停滞し、第一生命の矢野恒太が経営参画、小林一三の推薦で五島慶太が加わり、1922年9月2日に目黒蒲田電鉄を資本金350万円・7万株(6万8,000株を田園都市が引受)で創立
    • [13]1920年の戦後恐慌で鉄道建設が停滞し、第一生命の矢野恒太が経営参画、小林一三の推薦で五島慶太が加わり、1922年9月2日に目黒蒲田電鉄を資本金350万円・7万株(6万8,000株を田園都市が引受)で創立
    • [15]洗足は1922年6月に約6万4,000坪を割賦で予約販売、多摩川台は建築規則付きで分譲。震災で洗足・多摩川台の被害は軽微で、多摩川台第1回分譲は1923年10月と推定、配当は毎期年1割
    • [16]洗足は1922年6月に約6万4,000坪を割賦で予約販売、多摩川台は建築規則付きで分譲。震災で洗足・多摩川台の被害は軽微で、多摩川台第1回分譲は1923年10月と推定、配当は毎期年1割
    • [17]洗足は1922年6月に約6万4,000坪を割賦で予約販売、多摩川台は建築規則付きで分譲。震災で洗足・多摩川台の被害は軽微で、多摩川台第1回分譲は1923年10月と推定、配当は毎期年1割
    • [18]洗足は1922年6月に約6万4,000坪を割賦で予約販売、多摩川台は建築規則付きで分譲。震災で洗足・多摩川台の被害は軽微で、多摩川台第1回分譲は1923年10月と推定、配当は毎期年1割
    • [20]洗足は1922年6月に約6万4,000坪を割賦で予約販売、多摩川台は建築規則付きで分譲。震災で洗足・多摩川台の被害は軽微で、多摩川台第1回分譲は1923年10月と推定、配当は毎期年1割
  • 東急不動産(社史要約・年表)
    • [7]田園都市(株)は渋沢栄一・中野武営らの理想的住宅地開発の構想を基に1918年に設立された
  • 会社銀行八十年史(1955)「東京急行電鉄」
    • [14]目黒蒲田電鉄は専務に五島慶太が就任し、1923年3月に目黒・多摩川間、同年11月に多摩川・蒲田間を開通
    • [19]1923年の大震災で住宅が郊外に移転し、洗足・田園調布の分譲地は売り尽くされた

1924年〜目黒蒲田電鉄に吸収された田園都市業と、大東急から離れた4社

田園都市(株)は1928年5月5日に目黒蒲田電鉄と合併し、解散した。1926年5月末時点で、田園都市(株)が両電鉄へ投じた資金は400万円に達し、資本金の80%にあたる。洗足・大岡山・多摩川台では買収地の67%にあたる32万1,000坪を売り終え、残る土地も2〜3年で売り切る見通しだった。会社は当初の目的を達し、大きな設備投資も不要になったとして、事業地は目黒蒲田電鉄が沿線開発として継ぐほうが得策と判断した。目黒蒲田電鉄は定款に住宅地の経営と土地家屋の賃貸・売買を加え、田園都市部を設けて事業を受け入れた。合併を機に五島慶太氏が目蒲・東横両電鉄の専務取締役となった。住宅地が主で鉄道が従という関係は、この合併を境に逆転した。

  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「2章 沿線開発のための土地業」
    • [21]田園都市(株)は両電鉄へ400万円(資本金の80%)を投資し買収地の67%を売却済み。目的達成・投資不要・沿線開発に資するとして1928年5月5日に目黒蒲田電鉄と合併し、同電鉄は田園都市部を設けた
    • [22]田園都市(株)は両電鉄へ400万円(資本金の80%)を投資し買収地の67%を売却済み。目的達成・投資不要・沿線開発に資するとして1928年5月5日に目黒蒲田電鉄と合併し、同電鉄は田園都市部を設けた
    • [23]田園都市(株)は両電鉄へ400万円(資本金の80%)を投資し買収地の67%を売却済み。目的達成・投資不要・沿線開発に資するとして1928年5月5日に目黒蒲田電鉄と合併し、同電鉄は田園都市部を設けた
    • [24]田園都市(株)は両電鉄へ400万円(資本金の80%)を投資し買収地の67%を売却済み。目的達成・投資不要・沿線開発に資するとして1928年5月5日に目黒蒲田電鉄と合併し、同電鉄は田園都市部を設けた
    • [25]田園都市(株)は両電鉄へ400万円(資本金の80%)を投資し買収地の67%を売却済み。目的達成・投資不要・沿線開発に資するとして1928年5月5日に目黒蒲田電鉄と合併し、同電鉄は田園都市部を設けた
    • [27]田園都市(株)は両電鉄へ400万円(資本金の80%)を投資し買収地の67%を売却済み。目的達成・投資不要・沿線開発に資するとして1928年5月5日に目黒蒲田電鉄と合併し、同電鉄は田園都市部を設けた
  • 会社銀行八十年史(1955)「東京急行電鉄」
    • [26]1928年5月の合併を機に五島慶太が目蒲・東横両社の専務取締役となった

目黒蒲田電鉄は1939年10月に東京横浜電鉄を吸収合併し、商号を東京横浜電鉄に改めた。両社は1924年の提携以来、本社や職制を共通にしており、戦時の統制で営業が抑えられるなか、経営の一本化による経費の節約を迫られた。同じ10月に地代家賃統制令、1940年11月に宅地建物等価格統制令が公布され、分譲価格は許可制となった。分譲の利益は最高1割3分に抑えられ、許可を待った1941年上期の田園都市業の営業利益は19万6,000円に減少した。1942年5月には社長の五島慶太氏のもとで京浜電鉄・小田急電鉄を合併し、東京急行電鉄へ改称。分譲の売上金額は1942年下期の171万168円を頂点に、1944年下期には43万7,124円まで減少した。

  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「2章 沿線開発のための土地業」
    • [28]1939年10月に目蒲が東横を合併し東京横浜電鉄へ改称。地代家賃統制令・宅地建物等価格統制令で分譲価格が許可制となり、1941年上期の田園都市業営業利益は19万6,000円。売上金額は1942年下期171万168円から1944年下期43万7,124円へ減少
    • [29]1939年10月に目蒲が東横を合併し東京横浜電鉄へ改称。地代家賃統制令・宅地建物等価格統制令で分譲価格が許可制となり、1941年上期の田園都市業営業利益は19万6,000円。売上金額は1942年下期171万168円から1944年下期43万7,124円へ減少
    • [30]1939年10月に目蒲が東横を合併し東京横浜電鉄へ改称。地代家賃統制令・宅地建物等価格統制令で分譲価格が許可制となり、1941年上期の田園都市業営業利益は19万6,000円。売上金額は1942年下期171万168円から1944年下期43万7,124円へ減少
    • [31]1939年10月に目蒲が東横を合併し東京横浜電鉄へ改称。地代家賃統制令・宅地建物等価格統制令で分譲価格が許可制となり、1941年上期の田園都市業営業利益は19万6,000円。売上金額は1942年下期171万168円から1944年下期43万7,124円へ減少
    • [33]1939年10月に目蒲が東横を合併し東京横浜電鉄へ改称。地代家賃統制令・宅地建物等価格統制令で分譲価格が許可制となり、1941年上期の田園都市業営業利益は19万6,000円。売上金額は1942年下期171万168円から1944年下期43万7,124円へ減少
  • 会社銀行八十年史(1955)「東京急行電鉄」
    • [32]1942年5月に小田急電鉄・京浜電鉄を合併して東京急行電鉄に商号変更

東京急行電鉄は1948年6月までに再編成を終え、東横百貨店・京王帝都電鉄・小田急電鉄・京浜急行電鉄が分離した。再編成の発端は、独占禁止法と過度経済力集中排除法の制定を機に旧3社出身の幹部が強めた独立運動にさかのぼる。存続した東急電鉄の田園都市業に残ったのは、売れ残りの分譲地3万1,545坪と箱根などの未造成地11万2,025坪である。1947年8月に公職追放の指定を受けた五島慶太氏は、1951年8月6日に解除され、1952年5月6日に代表取締役会長へ復帰した。復帰した五島慶太氏は、かつての田園都市業を『東急の田園都市業か,田園都市業の東急か』と評されたほどの事業だと訓示し、立て直しを求めた。1952年下期の田園都市業は5,296万円の営業利益を計上した。

  • 会社銀行八十年史(1955)「東京急行電鉄」
    • [34]1948年5月に東横百貨店、6月に京王帝都・小田急・京浜急行を設立し5会社に再編成
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「3章 戦後の復興と土地業」
    • [35]独占禁止法・集中排除法を契機に旧3社系の独立運動が強まり再編成へ。存続した東急電鉄の田園都市業には売残り分譲地3万1,545坪と未造成地11万2,025坪が残った
    • [36]独占禁止法・集中排除法を契機に旧3社系の独立運動が強まり再編成へ。存続した東急電鉄の田園都市業には売残り分譲地3万1,545坪と未造成地11万2,025坪が残った
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「1章 東急不動産の創立」
    • [37]五島慶太は1951年8月6日に追放解除、1952年5月6日に代表取締役会長に復帰。訓辞で田園都市業の復元を求め、1952年下期の田園都市業営業利益は5,296万円
    • [38]五島慶太は1951年8月6日に追放解除、1952年5月6日に代表取締役会長に復帰。訓辞で田園都市業の復元を求め、1952年下期の田園都市業営業利益は5,296万円
    • [39]五島慶太は1951年8月6日に追放解除、1952年5月6日に代表取締役会長に復帰。訓辞で田園都市業の復元を求め、1952年下期の田園都市業営業利益は5,296万円
参考文献[21]-[39]
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「2章 沿線開発のための土地業」
    • [21]田園都市(株)は両電鉄へ400万円(資本金の80%)を投資し買収地の67%を売却済み。目的達成・投資不要・沿線開発に資するとして1928年5月5日に目黒蒲田電鉄と合併し、同電鉄は田園都市部を設けた
    • [22]田園都市(株)は両電鉄へ400万円(資本金の80%)を投資し買収地の67%を売却済み。目的達成・投資不要・沿線開発に資するとして1928年5月5日に目黒蒲田電鉄と合併し、同電鉄は田園都市部を設けた
    • [23]田園都市(株)は両電鉄へ400万円(資本金の80%)を投資し買収地の67%を売却済み。目的達成・投資不要・沿線開発に資するとして1928年5月5日に目黒蒲田電鉄と合併し、同電鉄は田園都市部を設けた
    • [24]田園都市(株)は両電鉄へ400万円(資本金の80%)を投資し買収地の67%を売却済み。目的達成・投資不要・沿線開発に資するとして1928年5月5日に目黒蒲田電鉄と合併し、同電鉄は田園都市部を設けた
    • [25]田園都市(株)は両電鉄へ400万円(資本金の80%)を投資し買収地の67%を売却済み。目的達成・投資不要・沿線開発に資するとして1928年5月5日に目黒蒲田電鉄と合併し、同電鉄は田園都市部を設けた
    • [27]田園都市(株)は両電鉄へ400万円(資本金の80%)を投資し買収地の67%を売却済み。目的達成・投資不要・沿線開発に資するとして1928年5月5日に目黒蒲田電鉄と合併し、同電鉄は田園都市部を設けた
    • [28]1939年10月に目蒲が東横を合併し東京横浜電鉄へ改称。地代家賃統制令・宅地建物等価格統制令で分譲価格が許可制となり、1941年上期の田園都市業営業利益は19万6,000円。売上金額は1942年下期171万168円から1944年下期43万7,124円へ減少
    • [29]1939年10月に目蒲が東横を合併し東京横浜電鉄へ改称。地代家賃統制令・宅地建物等価格統制令で分譲価格が許可制となり、1941年上期の田園都市業営業利益は19万6,000円。売上金額は1942年下期171万168円から1944年下期43万7,124円へ減少
    • [30]1939年10月に目蒲が東横を合併し東京横浜電鉄へ改称。地代家賃統制令・宅地建物等価格統制令で分譲価格が許可制となり、1941年上期の田園都市業営業利益は19万6,000円。売上金額は1942年下期171万168円から1944年下期43万7,124円へ減少
    • [31]1939年10月に目蒲が東横を合併し東京横浜電鉄へ改称。地代家賃統制令・宅地建物等価格統制令で分譲価格が許可制となり、1941年上期の田園都市業営業利益は19万6,000円。売上金額は1942年下期171万168円から1944年下期43万7,124円へ減少
    • [33]1939年10月に目蒲が東横を合併し東京横浜電鉄へ改称。地代家賃統制令・宅地建物等価格統制令で分譲価格が許可制となり、1941年上期の田園都市業営業利益は19万6,000円。売上金額は1942年下期171万168円から1944年下期43万7,124円へ減少
  • 会社銀行八十年史(1955)「東京急行電鉄」
    • [26]1928年5月の合併を機に五島慶太が目蒲・東横両社の専務取締役となった
    • [32]1942年5月に小田急電鉄・京浜電鉄を合併して東京急行電鉄に商号変更
    • [34]1948年5月に東横百貨店、6月に京王帝都・小田急・京浜急行を設立し5会社に再編成
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「3章 戦後の復興と土地業」
    • [35]独占禁止法・集中排除法を契機に旧3社系の独立運動が強まり再編成へ。存続した東急電鉄の田園都市業には売残り分譲地3万1,545坪と未造成地11万2,025坪が残った
    • [36]独占禁止法・集中排除法を契機に旧3社系の独立運動が強まり再編成へ。存続した東急電鉄の田園都市業には売残り分譲地3万1,545坪と未造成地11万2,025坪が残った
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「1章 東急不動産の創立」
    • [37]五島慶太は1951年8月6日に追放解除、1952年5月6日に代表取締役会長に復帰。訓辞で田園都市業の復元を求め、1952年下期の田園都市業営業利益は5,296万円
    • [38]五島慶太は1951年8月6日に追放解除、1952年5月6日に代表取締役会長に復帰。訓辞で田園都市業の復元を求め、1952年下期の田園都市業営業利益は5,296万円
    • [39]五島慶太は1951年8月6日に追放解除、1952年5月6日に代表取締役会長に復帰。訓辞で田園都市業の復元を求め、1952年下期の田園都市業営業利益は5,296万円

1953年〜城西南新都市構想から独立した東急不動産と、東急住宅5万戸建設計画

東急電鉄は1953年12月17日、不動産部門を分けて東急不動産を設立した。資本金3億円の全額が東急電鉄の出資で、会長は五島慶太氏、社長は東急電鉄副社長の五島昇氏である。当時の住宅難は終戦直後と大差なく、宅地の供給は大半を民間が担っていた。一方、東急沿線はほぼ開発を終え、未開発の農地は東横線の綱島・大倉山付近に残る程度だった。鉄道は公共事業であり、その会社が沿線外で兼業を営むことは不見識とみなされたため、地域開発の専業会社が必要になった。同じ1953年1月、五島慶太氏は城西南地区開発趣意書を発表し、東京の人口集中への対策として衛星都市の建設を唱えていた。東急不動産は東急沿線以外の開発を担う会社として発足した。

  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「1章 東急不動産の創立」
    • [40]1953年12月17日に東急不動産設立。資本金3億円全額東急電鉄出資、会長五島慶太・社長五島昇。沿線の未開発地が乏しく、鉄道会社が沿線外で兼業するのは不見識とされたため専業会社とした
    • [41]1953年12月17日に東急不動産設立。資本金3億円全額東急電鉄出資、会長五島慶太・社長五島昇。沿線の未開発地が乏しく、鉄道会社が沿線外で兼業するのは不見識とされたため専業会社とした
    • [42]1953年12月17日に東急不動産設立。資本金3億円全額東急電鉄出資、会長五島慶太・社長五島昇。沿線の未開発地が乏しく、鉄道会社が沿線外で兼業するのは不見識とされたため専業会社とした
    • [43]1953年12月17日に東急不動産設立。資本金3億円全額東急電鉄出資、会長五島慶太・社長五島昇。沿線の未開発地が乏しく、鉄道会社が沿線外で兼業するのは不見識とされたため専業会社とした
    • [44]1953年12月17日に東急不動産設立。資本金3億円全額東急電鉄出資、会長五島慶太・社長五島昇。沿線の未開発地が乏しく、鉄道会社が沿線外で兼業するのは不見識とされたため専業会社とした
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「3章 戦後の復興と土地業」
    • [45]五島慶太は1953年1月に城西南地区開発趣意書を発表し衛星都市建設を提唱
  • 東急不動産(社史要約・年表)
    • [46]東急不動産は東急沿線以外の開発を担うため1953年に分離独立した

東急不動産の営業開始は1954年1月1日で、東急電鉄の田園都市業・砂利業・遊園業・広告業を継承しての出発である。沿線外への進出を急ぎ、1954年7月に神奈川県座間町から8万6,000坪を取得し、町施行の区画整理を全面受託して開発した。1955年3月に始めた座間の分譲では、約5カ月で売出し分の約60%にあたる112区画が売れた。1955年5月4日には東急電鉄とともに東急住宅5万戸建設計画を決定した。同年1月に鳩山内閣が住宅建設10カ年計画を掲げ、建設の約60%を民間の自力建設に委ねたことが背景にある。計画を軸に、東急不動産は沿線外への進出や建売住宅、中高層アパートの建設を進めた。住宅政策への協力を掲げれば、用地と資金を得やすいという計算もあったのだろう。

  • 証券 (6)(85) 1956年
    • [47]1954年1月1日に東急電鉄の田園都市業・砂利業・遊園業・広告業を継承して営業開始
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「2章 自立への道」
    • [48]1954年7月8日に座間町から8万6,000坪を取得し1955年3月から分譲(5カ月で112区画)。1955年5月4日に東急住宅5万戸建設計画を決定。鳩山内閣の住宅建設10カ年計画が民間自力建設に約60%を委ねた
    • [49]1954年7月8日に座間町から8万6,000坪を取得し1955年3月から分譲(5カ月で112区画)。1955年5月4日に東急住宅5万戸建設計画を決定。鳩山内閣の住宅建設10カ年計画が民間自力建設に約60%を委ねた
    • [50]1954年7月8日に座間町から8万6,000坪を取得し1955年3月から分譲(5カ月で112区画)。1955年5月4日に東急住宅5万戸建設計画を決定。鳩山内閣の住宅建設10カ年計画が民間自力建設に約60%を委ねた
    • [51]1954年7月8日に座間町から8万6,000坪を取得し1955年3月から分譲(5カ月で112区画)。1955年5月4日に東急住宅5万戸建設計画を決定。鳩山内閣の住宅建設10カ年計画が民間自力建設に約60%を委ねた
    • [52]1954年7月8日に座間町から8万6,000坪を取得し1955年3月から分譲(5カ月で112区画)。1955年5月4日に東急住宅5万戸建設計画を決定。鳩山内閣の住宅建設10カ年計画が民間自力建設に約60%を委ねた

東急不動産が賃貸アパート業に参入した起点は、1955年5月1日に営業を始めた代官山東急アパートにある。同社は当初この建物を日本人向けに計画したが、金融引締めによる不況で需要が見込めなくなり、在日外国人向けの高級賃貸へ用途を改めた。75戸の建物は総工費約2億3,000万円で、開業1カ月後には満室となった。株式は1954年5月10日に東急電鉄の株主へ約44万株を公開し、同年11月10日に店頭売買が始まった。15%の安定配当を続けて資格を満たし、1956年4月25日に東京証券取引所へ上場した。上場時の資本金は3億1,000万円で、筆頭株主は17万6,214株を持つ東京急行電鉄である。1957年10月1日にはビル・アパート業の資金を確保するため、初の倍額増資で資本金を6億2,000万円とした。

  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「2章 自立への道」
    • [53]経営基盤強化のため賃貸アパート業へ進出。代官山東急アパートは不況で外国人向け高級賃貸に切替え、75戸・総工費約2億3,000万円で1955年5月1日開業、1カ月後に満室
    • [54]経営基盤強化のため賃貸アパート業へ進出。代官山東急アパートは不況で外国人向け高級賃貸に切替え、75戸・総工費約2億3,000万円で1955年5月1日開業、1カ月後に満室
    • [55]経営基盤強化のため賃貸アパート業へ進出。代官山東急アパートは不況で外国人向け高級賃貸に切替え、75戸・総工費約2億3,000万円で1955年5月1日開業、1カ月後に満室
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「1章 東急不動産の創立」
    • [56]1954年5月10日に約44万株を公開、11月10日店頭売買開始、1956年4月25日東証上場。1957年10月1日に有償倍額増資で資本金6億2,000万円
    • [57]1954年5月10日に約44万株を公開、11月10日店頭売買開始、1956年4月25日東証上場。1957年10月1日に有償倍額増資で資本金6億2,000万円
    • [59]1954年5月10日に約44万株を公開、11月10日店頭売買開始、1956年4月25日東証上場。1957年10月1日に有償倍額増資で資本金6億2,000万円
  • 証券 (6)(85) 1956年
    • [58]1956年4月25日新規上場。資本金3億1,000万円、筆頭株主は東京急行(176,214株)、社長五島昇
参考文献[40]-[59]
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「1章 東急不動産の創立」
    • [40]1953年12月17日に東急不動産設立。資本金3億円全額東急電鉄出資、会長五島慶太・社長五島昇。沿線の未開発地が乏しく、鉄道会社が沿線外で兼業するのは不見識とされたため専業会社とした
    • [41]1953年12月17日に東急不動産設立。資本金3億円全額東急電鉄出資、会長五島慶太・社長五島昇。沿線の未開発地が乏しく、鉄道会社が沿線外で兼業するのは不見識とされたため専業会社とした
    • [42]1953年12月17日に東急不動産設立。資本金3億円全額東急電鉄出資、会長五島慶太・社長五島昇。沿線の未開発地が乏しく、鉄道会社が沿線外で兼業するのは不見識とされたため専業会社とした
    • [43]1953年12月17日に東急不動産設立。資本金3億円全額東急電鉄出資、会長五島慶太・社長五島昇。沿線の未開発地が乏しく、鉄道会社が沿線外で兼業するのは不見識とされたため専業会社とした
    • [44]1953年12月17日に東急不動産設立。資本金3億円全額東急電鉄出資、会長五島慶太・社長五島昇。沿線の未開発地が乏しく、鉄道会社が沿線外で兼業するのは不見識とされたため専業会社とした
    • [56]1954年5月10日に約44万株を公開、11月10日店頭売買開始、1956年4月25日東証上場。1957年10月1日に有償倍額増資で資本金6億2,000万円
    • [57]1954年5月10日に約44万株を公開、11月10日店頭売買開始、1956年4月25日東証上場。1957年10月1日に有償倍額増資で資本金6億2,000万円
    • [59]1954年5月10日に約44万株を公開、11月10日店頭売買開始、1956年4月25日東証上場。1957年10月1日に有償倍額増資で資本金6億2,000万円
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「3章 戦後の復興と土地業」
    • [45]五島慶太は1953年1月に城西南地区開発趣意書を発表し衛星都市建設を提唱
  • 東急不動産(社史要約・年表)
    • [46]東急不動産は東急沿線以外の開発を担うため1953年に分離独立した
  • 証券 (6)(85) 1956年
    • [47]1954年1月1日に東急電鉄の田園都市業・砂利業・遊園業・広告業を継承して営業開始
    • [58]1956年4月25日新規上場。資本金3億1,000万円、筆頭株主は東京急行(176,214株)、社長五島昇
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「2章 自立への道」
    • [48]1954年7月8日に座間町から8万6,000坪を取得し1955年3月から分譲(5カ月で112区画)。1955年5月4日に東急住宅5万戸建設計画を決定。鳩山内閣の住宅建設10カ年計画が民間自力建設に約60%を委ねた
    • [49]1954年7月8日に座間町から8万6,000坪を取得し1955年3月から分譲(5カ月で112区画)。1955年5月4日に東急住宅5万戸建設計画を決定。鳩山内閣の住宅建設10カ年計画が民間自力建設に約60%を委ねた
    • [50]1954年7月8日に座間町から8万6,000坪を取得し1955年3月から分譲(5カ月で112区画)。1955年5月4日に東急住宅5万戸建設計画を決定。鳩山内閣の住宅建設10カ年計画が民間自力建設に約60%を委ねた
    • [51]1954年7月8日に座間町から8万6,000坪を取得し1955年3月から分譲(5カ月で112区画)。1955年5月4日に東急住宅5万戸建設計画を決定。鳩山内閣の住宅建設10カ年計画が民間自力建設に約60%を委ねた
    • [52]1954年7月8日に座間町から8万6,000坪を取得し1955年3月から分譲(5カ月で112区画)。1955年5月4日に東急住宅5万戸建設計画を決定。鳩山内閣の住宅建設10カ年計画が民間自力建設に約60%を委ねた
    • [53]経営基盤強化のため賃貸アパート業へ進出。代官山東急アパートは不況で外国人向け高級賃貸に切替え、75戸・総工費約2億3,000万円で1955年5月1日開業、1カ月後に満室
    • [54]経営基盤強化のため賃貸アパート業へ進出。代官山東急アパートは不況で外国人向け高級賃貸に切替え、75戸・総工費約2億3,000万円で1955年5月1日開業、1カ月後に満室
    • [55]経営基盤強化のため賃貸アパート業へ進出。代官山東急アパートは不況で外国人向け高級賃貸に切替え、75戸・総工費約2億3,000万円で1955年5月1日開業、1カ月後に満室

出典・参考

8件
出典・参考
  • 東急不動産(社史要約・年表)
  • 会社銀行八十年史(1955)「東京急行電鉄」
  • 証券 (6)(85) 1956年
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「1章 街づくりのはじまり」
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「2章 沿線開発のための土地業」
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「3章 戦後の復興と土地業」
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「1章 東急不動産の創立」
  • 街づくり五十年(東急不動産, 1973)「2章 自立への道」

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