東急ハンズの設立と、不動産デベロッパーによる異業種小売への参入

「不動産屋の素人商法」はなぜ当たったか——東急不動産は余暇時代の小売にどう賭けたか

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時期 1976年8月
意思決定者 東急不動産 松尾英男・東急ハンズ社長
論点 余暇時代を見据えた異業種小売への多角化
概要
1976年8月、東急不動産は住関連・DIY用品を扱う大型専門店として東急ハンズを設立し、不動産デベロッパーが小売という異業種へ踏み込んだ。売れ筋に絞らず客の選択にまかせる「素人商法」と、一芸に秀でた専門職を売り場に据えるコンサルティング販売で、百貨店・スーパー商法の逆を張った経営判断であった。
背景
石油危機後、余暇時間の増加とともに人々の関心は個人のライフスタイルへ移った。東急不動産はこの変化を時代の趨勢とみて、住宅供給に偏った事業を分散する一環として住関連小売へ参入した。渋谷に抱えていた不整形で立地の悪いビルの使い道を模索するなかで、DIYの大型専門店という発想が生まれた。
内容
全くの素人集団から始め、DIY・ホビー・クラフトまで約30万点をそろえ、取引先1000社を社員が足で発掘した。中途採用した「技能社員」など一芸のプロを売り場に置き、客に売り方を教えるのではなく客の選択にまかせた。藤沢・二子玉川の両店を実験台に、1978年開店の渋谷店で業態を確立した。
含意
素人商法は当たり、渋谷店の完成を機に急成長した。粗利益率40%・ロス率0.7%という多品種少量販売の収益モデルを築いたが、店舗網の拡大とともに手作りの店づくりとチェーン経営の両立が課題になった。多角化の象徴だったハンズは、2022年に東急不動産ホールディングスがカインズへ譲渡し、半世紀の実験に幕を引いた。
筆者の見解

素人が主役の店という賭け

この判断の核心は、不動産という本業から遠く離れた小売に、しかも玄人の効率を捨てた素人商法で挑んだ点にある。売れ筋に絞らず客の選択にまかせるという発想は、生産性で競う小売の常識からみれば非効率そのものだった。だが、余暇と趣味に個人が時間と金を使い始めた時代に、一芸のプロが並ぶ売り場と探す楽しさは確かな支持を得た。渋谷の使い道に困ったビルから生まれた業態が、後にグループの流通事業へと育ったことを思えば、立地の不利を発想の自由で埋めた賭けであったとみることができる。

もっとも、素人商法の強さは、そのまま拡大の難しさでもあった。人のセンスに依存する売り場は、店舗数が増えるほど標準化しにくく、手作りの魅力とチェーン経営の効率は容易には両立しない。多品種少量で高い粗利を稼ぐモデルは、在庫と人件費の重さと背中合わせであった。結局ハンズは半世紀を経て東急不動産ホールディングスの手を離れ、資本効率を軸に事業を選別する再構築のなかで譲渡された。始まりと終いの両方が、余暇時代への多角化とその後の選択と集中という、デベロッパーの二つの時代を映しているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

余暇時代への転換と、住宅偏重からの分散

1971年のニクソンショックから列島改造ブーム、1973年の第一次石油危機までの環境激変は、郊外住宅地と商業ビルを抱える東急不動産の経営を直撃した。地価と建設資材の急騰で進行中の開発の採算が一斉に揺らぎ、同社は不採算部門の見直しと事業バランスの健全化に入った。折しも余暇時間の増加は時代の趨勢とみられ、人々の関心は個人のライフスタイルへ移りつつあった。会社史はこの変化に応えるため「住関連およびDIY用品販売の東急ハンズを1976年に設立した」と記し、住宅供給に偏った事業を分散する動きと記している[1]

渋谷の不整形ビルとDIYへの転回

ハンズの構想は、渋谷に抱えた一棟のビルの使い道から生まれた。東急不動産は1972年にこの土地をとりあえずビル用地として買ったが、土地の形は不整形で、渋谷の中心部からも外れて立地条件が悪かった。オフィスビルやビジネスホテル、ショッピングセンターといった構想が次々と消えたのち、松尾英男社長の「おもしろい発想はないか」との一声でDIY路線に落ち着いた。先に開いた藤沢店と二子玉川店は米国の郊外型DIY店を手本にした試行で、渋谷店を開くための実験店舗でもあった。売場面積は藤沢1,089平方メートル、二子玉川630平方メートルに対し、渋谷は4,550平方メートルと格段に広かった[2]

決断

百貨店商法の逆を張る

東急ハンズが選んだのは、百貨店・スーパー商法の逆を張る素人商法であった。売れ筋に絞らず、流行を押しつけず、客の選択にまかせる。売り場では販売員が対話しながら売るコンサルティング販売を前面に出し、入店客の多さより一人ひとりへの対応を重んじた。松尾英男社長は「理屈であれこれ考えるより、やってみないとわからないと自由にやらせた。しかし個性をはっきりと打ち出させた」と語る。生産性と合理性を追う既存の小売業からみれば非常識な店づくりであったが、個人の趣味嗜好が多様化する時代の消費者に受け入れられた[3]

一芸のプロと、足で集めた品ぞろえ

逆張りを支えたのが、人と品ぞろえであった。ハンズは住生活に関連する道具と材料を、生産性を無視して幅広くそろえ、渋谷店の全商品店数は約30万点に達した。取引先は1,000社にのぼり、「一流の問屋はない。社員が足で稼いで発掘して集めた」と担当役員は語る。売り場には中途採用した専門職を据え、採用条件は「ホビーの世界で一芸に秀で、コンサルティングセールスのできる人」だった。日曜大工・オーディオ・彫金・レザークラフトのプロが脱サラで応募し、売り場の商品構成から仕入れ、販売までを任された。少量でも売る売り方は、量がまとまらなければ扱わない問屋との違いを際立たせた[4]

結果

急成長と、確立した収益モデル

素人商法は当たった。1976年末以来の歩みは順調ばかりではなく、1981年9月期にようやく黒字へ転換したときも7億5,000万円の創業赤字が残っていた。だが徐々に商品回転率が上がり、仕入れのコツもつかんで粗利益率は年々改善した。1980年代を通じて出店を重ね、多品種少量販売で儲けるノウハウを固めていった。1995年時点では粗利益率40%・ロス率0.7%という水準に達し、売上高営業利益率3.4%は百貨店を大きく上回った。伊勢丹や松屋など全国34の百貨店がつくる共同仕入れ組織がハンズの販売手法を学ぼうとするほど、その商法は注目を集めた[5]

成長は新たな課題も連れてきた。1994年3月期に東急ハンズは創業以来初めての減収減益を経験し、相次ぐ新規出店で経営負担が増した。1995年3月期の負債総額は292億円にのぼり、うち200億円強が借入金であった。手作りの店づくりとチェーン店としての経営基盤という相反する条件をどう折り合わせるかが、全国展開を目指すハンズの課題として残った。その後も業態の立て直しは続き、多角化の象徴だったハンズは、2022年に東急不動産ホールディングスがホームセンター大手のカインズへ譲渡し、抜本的再構築の一環として整理された。1976年に始まった異業種小売の実験は、ここで一つの区切りを迎えた[6]

出典・参考