第2章 年〜年

キユーピー:東証二部上場と中島董商店の販売網継承による自社販売化

1957年〜原価低減を徹底し、マヨネーズでコスト優位を確立

キユーピーの帳簿において、1950年代頃には交際費という科目が無く、取引先を料理屋やバーへ招くことも、景品つき販売や問屋の温泉招待も一切なく、販売店との関係性ではなく、製品の価格と品質で勝負する道を選択した。中島董一郎氏は『ムダなカネは一文もつかわない。そんなカネがあれば、その分だけ値下げする』と言い切り、削減した販売費をそのまま価格へ還元。戦後から高度経済成長期に値上げしたのは原油が高騰した3度だけと言われ、残る20数回はすべて値下げにより、マヨネーズに新規参入する競合に対抗した。浮いた原資は特約店への販売促進の謝礼金に充てることで還元している。下げ幅が最も大きかったのは1950年から1952年で、標準品70グラムは110円から55円へと値下げ。株式配当は3割に止め、予定を超えた利益は年1億円ほどのリベートとして代理店へ戻すことで、販売促進への投資とした。これだけの値下げを重ねた一方で、1966年の年商は137億円を達成し、従業員は1700人の大企業へと成長した。

  • 50人の経営者(1966年)
    • [1]キユーピーには交際費が無い
    • [2]取引先を料理屋やバーに招待せず景品つき販売も問屋の温泉招待も行わない
    • [3]中島董一郎は「ムダなカネは一文もつかわない。そんなカネがあれば、その分だけ値下げする」と語った
    • [5]特約店には決算の利益を販売促進の謝礼金として還元した
    • [6]昭和25年から27年にかけて標準品70グラムは110円から55円へ半値になった
    • [8]1966年時点の資本金は3億円、年商137億円、従業員1700人である
  • 新日本経済 1959年4月号
    • [4]戦後に値上げしたのは原油の値上りによる3度だけで値下げは20数回に及んだ
    • [7]配当は3割に止め予定以上の利益を年1億円程度のリベートとして代理店に還元した

販売制作においても、キユーピーは代理店を国分や明治屋のような一流食品問屋に絞り、一度取引を開いた先は他社がどれほど有利な条件を出しても替えないことで、大口顧客に対して義理を通した。需要見合いの生産に徹する方針を取り、原料の棉実油は底値と見極めた時に大量輸することで原価低減を実現。食品工業界では菊正宗・キッコーマン・キリンビール・キユーピーが"四鬼"と呼ばれ、その由来は代金回収の厳しさにあったという。1959年の年産は28億円で、年々4割から5割の増産を続けていた。同年の資本金は、生産会社のキユーピーが5000万円、販売会社の中島董商店が100万円で、両社の規模は50倍に開いており、中島氏が関与した食品企業はキユーピーが主力となり、缶詰→ジャム→マヨネーズへの業態転換を果たした。キユーピーと関連のある企業群としては、伊丹マヨネーズ、アオハタ缶詰といった姉妹会社が揃った。マヨネーズ一本で45年をかけて育てたこの販売網には、後年に味の素が参入した時点でもつけ込む隙は無かったと評されている。

  • 新日本経済 1959年4月号
    • [9]代理店を東京の国分・明治屋など一流に限って選んだ
    • [10]一度取引を開いたら他店の有利な条件の申出も断り取引先の地位を守った
    • [11]オーバープロダクションをしない方針を取った
    • [12]棉実油が底値と見極めると大胆に大量を輸入した
    • [13]代金回収の厳しさから菊正宗・キッコーマン・キリンビール・キユーピーが食品工業界の四鬼と呼ばれた
    • [14]1959年の年産は28億円で年々4割から5割の増産を行っていた
    • [15]キユーピーは資本金5000万円の生産会社、中島董商店は資本金100万円の販売会社である
    • [16]中島董商店・伊丹マヨネーズ・アオハタ缶詰などの姉妹会社を持つ
  • 実業往来 1970年5月号
    • [17]創業45年・マヨネーズ一本槍で育てた販売網に味の素のつけ込む隙は全く無かった
参考文献[1]-[17]
  • 50人の経営者(1966年)
    • [1]キユーピーには交際費が無い
    • [2]取引先を料理屋やバーに招待せず景品つき販売も問屋の温泉招待も行わない
    • [3]中島董一郎は「ムダなカネは一文もつかわない。そんなカネがあれば、その分だけ値下げする」と語った
    • [5]特約店には決算の利益を販売促進の謝礼金として還元した
    • [6]昭和25年から27年にかけて標準品70グラムは110円から55円へ半値になった
    • [8]1966年時点の資本金は3億円、年商137億円、従業員1700人である
  • 新日本経済 1959年4月号
    • [4]戦後に値上げしたのは原油の値上りによる3度だけで値下げは20数回に及んだ
    • [7]配当は3割に止め予定以上の利益を年1億円程度のリベートとして代理店に還元した
    • [9]代理店を東京の国分・明治屋など一流に限って選んだ
    • [10]一度取引を開いたら他店の有利な条件の申出も断り取引先の地位を守った
    • [11]オーバープロダクションをしない方針を取った
    • [12]棉実油が底値と見極めると大胆に大量を輸入した
    • [13]代金回収の厳しさから菊正宗・キッコーマン・キリンビール・キユーピーが食品工業界の四鬼と呼ばれた
    • [14]1959年の年産は28億円で年々4割から5割の増産を行っていた
    • [15]キユーピーは資本金5000万円の生産会社、中島董商店は資本金100万円の販売会社である
    • [16]中島董商店・伊丹マヨネーズ・アオハタ缶詰などの姉妹会社を持つ
  • 実業往来 1970年5月号
    • [17]創業45年・マヨネーズ一本槍で育てた販売網に味の素のつけ込む隙は全く無かった

1960年〜大手企業のマヨネーズ参入に対して、シェア1位を確保

1960年代前半、マヨネーズとフレンチドレッシングの需要は年率30%で伸びていた。戦後における食生活の洋風化を背景に、加速度的な需要増加が見込まれる成長市場と目された。マヨネーズの原材料は、サラダオイルと卵黄と酢を混ぜるだけのシンプルな加工食品であり、デパートの店頭で即席に作って売る例まであったという。このため、日本水産や大洋漁業といった水産大手が相次いで製造へ参入し、1959年には雪印乳業と味の素も生産を始めた。大手企業による算入によってマヨネーズ市場では競争が激化し、多くの専業メーカーが市場から退出する。一方でキユーピーの市場占有率は80%以上を保ち、明治屋の社長であった磯野長蔵氏は『とてもキユーピーとはコストが合わない』として製造を見送ったほどであったという。

  • 50人の経営者(1966年)
    • [18]1966年から数年さかのぼる時期に食生活の洋風化でマヨネーズ・フレンチドレッシングの需要が年率30%で伸びた
    • [21]日本水産・大洋漁業など水産大手が相次いでマヨネーズ製造に参入した
    • [23]業界は大混乱に陥り多くの専業メーカーが脱落した
    • [24]キユーピーの市場占有率は80%以上の寡占を保った
  • 新日本経済 1959年4月号
    • [19]食生活の欧米化により加速度的な需要増加が予想される成長産業とみなされた
    • [20]マヨネーズはサラダオイルと卵黄と酢を混ぜる単純な製品でデパートで即席に製造販売する例もあった
    • [22]1959年時点で雪印乳業・味の素などがマヨネーズの生産を始めていた
    • [25]明治屋社長の磯野長蔵は「とてもキユーピーとはコストが合わない」と述べた

加えて、安価な米国製マヨネーズが築地の場外市場へ大量に出回り、レストランが争って仕入れたため、キユーピーの業務用大ビンは出荷が止まった時期もあった。ところが顧客が『マヨネーズの味が落ちた』と言い出し、最終的には『なぜキユーピーを使わないのか』という苦情が相次いだ。輸入品は1カ月で市場から退出しており、大手水産が参入した時も、市場ではキユーピーがシェアを大きく毀損すると予測されたという。しかし各社が作ったのはアメリカ直輸入型で、肉を多く食べる国に合わせた卵黄の少ない味であった。動物性蛋白質の摂取が少ない日本人には、卵黄を高配合した製品仕様が適合しており、戦前からキユーピーが培ってきた味付けが日本人に支持されていた。このため、マヨネーズから撤退した雪印食品も、敗因を『キユーピーとちがう新しい味をうち出したこと』に求めている。このため資本力を持つ国内外の大手企業であっても、すでにマヨネーズの味の普及を終えてコストダウンを徹底したキユーピーの牙城を崩せなかった。

  • 中島董一郎譜(1975年)
    • [26]安価なアメリカ直輸入マヨネーズが築地の場外市場に出回りレストランが争って仕入れたためキユーピーの業務用大ビンの出荷が止まった
    • [27]レストランの客がマヨネーズの味が落ちたと言い出しなぜキユーピーを使わないのかと難詰した
    • [28]輸入マヨネーズは約1カ月で市場から姿を消した
    • [29]大手水産が進出した時には誰の目にもキユーピーは壊滅的打撃を受け再起不能に陥ると思われた
    • [30]大手水産会社が作ったのはアメリカ直輸入型で肉を多く食べる国に合わせた卵黄の少ないマヨネーズであった
    • [31]動物性蛋白質の摂取が少ない日本人に合わせて卵黄を多く使う配合を採った
  • 実業往来 1970年5月号
    • [32]雪印食品はマヨネーズ進出の失敗の原因を「キユーピーと違う新しい味をうち出したこと」と語った
参考文献[18]-[32]
  • 50人の経営者(1966年)
    • [18]1966年から数年さかのぼる時期に食生活の洋風化でマヨネーズ・フレンチドレッシングの需要が年率30%で伸びた
    • [21]日本水産・大洋漁業など水産大手が相次いでマヨネーズ製造に参入した
    • [23]業界は大混乱に陥り多くの専業メーカーが脱落した
    • [24]キユーピーの市場占有率は80%以上の寡占を保った
  • 新日本経済 1959年4月号
    • [19]食生活の欧米化により加速度的な需要増加が予想される成長産業とみなされた
    • [20]マヨネーズはサラダオイルと卵黄と酢を混ぜる単純な製品でデパートで即席に製造販売する例もあった
    • [22]1959年時点で雪印乳業・味の素などがマヨネーズの生産を始めていた
    • [25]明治屋社長の磯野長蔵は「とてもキユーピーとはコストが合わない」と述べた
  • 中島董一郎譜(1975年)
    • [26]安価なアメリカ直輸入マヨネーズが築地の場外市場に出回りレストランが争って仕入れたためキユーピーの業務用大ビンの出荷が止まった
    • [27]レストランの客がマヨネーズの味が落ちたと言い出しなぜキユーピーを使わないのかと難詰した
    • [28]輸入マヨネーズは約1カ月で市場から姿を消した
    • [29]大手水産が進出した時には誰の目にもキユーピーは壊滅的打撃を受け再起不能に陥ると思われた
    • [30]大手水産会社が作ったのはアメリカ直輸入型で肉を多く食べる国に合わせた卵黄の少ないマヨネーズであった
    • [31]動物性蛋白質の摂取が少ない日本人に合わせて卵黄を多く使う配合を採った
  • 実業往来 1970年5月号
    • [32]雪印食品はマヨネーズ進出の失敗の原因を「キユーピーと違う新しい味をうち出したこと」と語った

1968年〜味の素とキユーピーによる2強体制の確立

1968年、味の素がマヨネーズ市場へ新規参入した。2年でシェア25%を確保し、85%を占めていたキユーピーは75%へ後退した。先発の日本水産に至っては10%から5%へ半減するなど、3位以下はシェアを実質的に失い、キユーピーと味の素の2社による寡占市場が形成された。味の素は年間36億円の広告宣伝費を投じた一方、キユーピーはその10分の1しか投じなかった。テレビCMの訴求先も味の名門から母親へ、さらに子供へと移り、販路でも味の素食品を設立するなど、大規模な投資を実施している。80名の販売促進員が東京の小売店6000軒を回り、問屋を通さず直接卸すことで、キユーピーとの差別化を図った。一方、キユーピーは問屋と小売店へ競合品を扱わない排他的な取引を求めたという。味の素にシェアを侵食された1970年7月、厳しい競争環境の中で、キユーピーは東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。

  • 実業往来 1970年5月号
    • [33]1968年に味の素がマヨネーズ市場へ参入した
    • [34]味の素は進出2年でシェア25%を確保した
    • [35]キユーピーのシェアは85%から75%に落ちた
    • [36]日本水産のシェアは10%から半分の5%に落ちた
    • [37]味の素の広告宣伝費は年間36億円でキユーピーはその10分の1程度であった
    • [38]味の素は「アッというまに食べちゃった」のCMで子供への訴求を始めた
    • [39]味の素食品を設立し80名の販売促進員が東京の小売店6000軒へ問屋を通さず直接卸した
    • [40]キユーピーは問屋・小売店に味の素製品をできるだけ扱わないよう指示した
  • キユーピー 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1970年7月に東証第二部へ上場した

1970年前後において、キユーピーと味の素におけるマヨネーズの違いは、原材料の構成にあった。キユーピーのマヨネーズは100グラムに卵1個が入り、鶏卵の購入額は年間80億円に達した。対する味の素の製品に入る卵は3分の1個で、その差を乳化剤と着色剤が補填することで差別化を図った。ところが農林省のJAS規格はマヨネーズに乳化剤と着色剤を一切認めず、味の素は発売2年を経てもJASマークを取得できなかった。1970年7月から食品添加物の表示が始まり、添加物を使わない製品であることを前面に出す方針を、味の素以外の各社が立てた。味の素は米国のコーンプロダクツ社と技術提携し、甘味を加えて舌ざわりを整えた製品を設計している。対するキユーピーの卵黄含有量はおよそ20%で、酸味の強さは殺菌に使う食酢の量に由来する。この結果、キユーピーと味の素のマヨネーズは、原材料と味が異なるものとして消費者に認識され、消費者の好みの割合によって(キユーピーが推定7〜8割のシェアを確保。残りが味の素がシェアを確保と推定)、2社によるシェアが固定化された。

  • 実業往来 1970年5月号
    • [42]キユーピーはマヨネーズ100グラムに卵1個を使い年間80億円の鶏卵を購入していた
    • [43]味の素のマヨネーズには卵が3分の1個しか入らず乳化剤と着色剤を使用していた
    • [44]JAS規格はマヨネーズへの乳化剤・着色剤を一切認めない
    • [45]味の素は発売2年を経てもJASマークを取得できなかった
    • [46]1970年7月から食品添加物の表示が始まり味の素以外の業者は添加物を使わない製品であることを宣伝する方針を立てた
    • [47]味の素は米国のコーンプロダクツ社と技術提携し甘味を加えて舌ざわりをよくした
  • 養鶏之日本 1971年5月号
    • [48]キユーピーのマヨネーズは卵黄含有量が約20%で殺菌のために使う食酢が多く酸味が強い

なお、鶏卵を大量に利用するキユーピーは、原材料調達の面で取引構造を最適化している。仙川・伊丹・挙母・鳥栖の4工場で、毎年4月から7月に割卵。その量は年間およそ4万トン、国内の鶏卵生産量にして5%内外に達した。仕入れは3年単位の年間契約による定価買い入れと、その時の時価による直接購入を併用し、購入先の約60%は全販連関係であったという。直営の採卵養鶏場も持って鶏卵を自家生産し、割卵の一角を占める鳥栖工場は1964年2月の新設であった。コープ食品や伊丹鶏卵加工といった関係会社でも卵を割り、そこで出る卵白は製菓原料へ充てられた。マヨネーズの生産量は1970年に約12万トン、1971年は14万トン以上が見込まれた。キユーピーは全国各地で原料調達の調達体制を確立し、マヨネーズにおける参入障壁を確立した。

  • 養鶏之日本 1971年5月号
    • [49]仙川・伊丹・挙母・鳥栖の4工場で毎年4月から7月に割卵を行い年間約4万トンを割った
    • [50]マヨネーズ用の鶏卵需要は日本の鶏卵全生産量の5%内外にあたる
    • [51]鶏卵の手当は生産者との3年単位の年間契約による定価買い入れと時価による直接購入の二通りである
    • [52]鶏卵の購入先は全販連関係が全体の約60%を占めた
    • [53]直営の採卵養鶏場を経営し鶏卵を自家生産していた
    • [55]コープ食品・伊丹鶏卵加工など関係会社でも割卵を行い卵白は製菓原料に回した
    • [56]マヨネーズの生産量は1970年に約12万トン、1971年は14万トン以上が見込まれた
  • キユーピー 有価証券報告書【沿革】
    • [54]1964年2月に佐賀県鳥栖市へ鳥栖工場を新設した
参考文献[33]-[56]
  • 実業往来 1970年5月号
    • [33]1968年に味の素がマヨネーズ市場へ参入した
    • [34]味の素は進出2年でシェア25%を確保した
    • [35]キユーピーのシェアは85%から75%に落ちた
    • [36]日本水産のシェアは10%から半分の5%に落ちた
    • [37]味の素の広告宣伝費は年間36億円でキユーピーはその10分の1程度であった
    • [38]味の素は「アッというまに食べちゃった」のCMで子供への訴求を始めた
    • [39]味の素食品を設立し80名の販売促進員が東京の小売店6000軒へ問屋を通さず直接卸した
    • [40]キユーピーは問屋・小売店に味の素製品をできるだけ扱わないよう指示した
    • [42]キユーピーはマヨネーズ100グラムに卵1個を使い年間80億円の鶏卵を購入していた
    • [43]味の素のマヨネーズには卵が3分の1個しか入らず乳化剤と着色剤を使用していた
    • [44]JAS規格はマヨネーズへの乳化剤・着色剤を一切認めない
    • [45]味の素は発売2年を経てもJASマークを取得できなかった
    • [46]1970年7月から食品添加物の表示が始まり味の素以外の業者は添加物を使わない製品であることを宣伝する方針を立てた
    • [47]味の素は米国のコーンプロダクツ社と技術提携し甘味を加えて舌ざわりをよくした
  • キユーピー 有価証券報告書【沿革】
    • [41]1970年7月に東証第二部へ上場した
    • [54]1964年2月に佐賀県鳥栖市へ鳥栖工場を新設した
  • 養鶏之日本 1971年5月号
    • [48]キユーピーのマヨネーズは卵黄含有量が約20%で殺菌のために使う食酢が多く酸味が強い
    • [49]仙川・伊丹・挙母・鳥栖の4工場で毎年4月から7月に割卵を行い年間約4万トンを割った
    • [50]マヨネーズ用の鶏卵需要は日本の鶏卵全生産量の5%内外にあたる
    • [51]鶏卵の手当は生産者との3年単位の年間契約による定価買い入れと時価による直接購入の二通りである
    • [52]鶏卵の購入先は全販連関係が全体の約60%を占めた
    • [53]直営の採卵養鶏場を経営し鶏卵を自家生産していた
    • [55]コープ食品・伊丹鶏卵加工など関係会社でも割卵を行い卵白は製菓原料に回した
    • [56]マヨネーズの生産量は1970年に約12万トン、1971年は14万トン以上が見込まれた

筆者考察

値下げは競争の手段である前に、原価の作り方そのものであった。キユーピーの帳簿には交際費という科目が無く、取引先を料理屋やバーへ招くことも、景品つき販売も、問屋の温泉招待もしていない。浮いた費用は価格へ回り、1950年から1952年にかけて標準品70グラムは110円から55円へ半値になった。戦後に値上げしたのは原油が高騰した3度だけで、値下げは20数回に及んでいる。マヨネーズはサラダオイルと卵黄と酢を混ぜるだけの製品で、デパートの店頭で即席に作って売る例まであり、参入に技術の壁はほとんど無い。誰でも作れる製品を守る手立ては、参入した側の採算が合わない価格を先に作っておくことしかなかったのだろう。

もう一枚の防壁は味覚であった。卵黄を多く使う配合は動物性蛋白質を多く摂らせたいという考えから生まれ、やがて日本人の味として定着した。安価な米国製マヨネーズが大量に輸入された時期もあったが、1カ月ほどで市場から姿を消している。日本水産や大洋漁業といった水産大手が相次いで参入し、1959年には雪印乳業と味の素も生産を始め、多くの専業メーカーが退出したなかで、キユーピーの市場占有率は80%を割らなかった。代理店を国分や明治屋といった一流食品問屋に絞り、一度開いた取引を替えなかったことも、後発が棚を奪えない理由になった。年率30%で伸びる市場を、価格と味と販路の三方で先に押さえていたのである。

キユーピーの売上高(単体) 1965年〜1984年(億円)

134 1965 273 1970 829 1975 1,170 1980 1,384 1984
  • 各年11月期の単体売上高。
  • 出所は会社年鑑1976年版(1965年〜1974年)および会社年鑑1986年版(1975年〜1984年)。

1957年〜1985年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1957年11月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年11月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年11月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年11月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年11月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年11月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年11月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年11月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年11月期 単体 134 n/a 5 4.0% 2 n/a
1966年11月期 単体 165 +23.1% 5 3.4% 3 n/a
1967年11月期 単体 188 +13.9% 6 3.6% 3 n/a
1968年11月期 単体 218 +16.0% 12 5.7% 6 n/a
1969年11月期 単体 243 +11.5% 13 5.5% 7 n/a
1970年11月期 単体 273 +12.3% 13 4.9% 8 n/a
1971年11月期 単体 322 +17.9% 7 2.3% 5 n/a
1972年11月期 単体 365 +13.4% 8 2.2% 5 茨城県猿島郡五霞村に五霞工場を設置(1972/03)
1973年11月期 単体 470 +28.8% 7 1.5% 5 n/a
1974年11月期 単体 656 +39.6% 12 1.9% 5 n/a
1975年11月期 単体 829 +26.4% 19 2.4% 10 n/a
1976年11月期 単体 894 +7.8% 28 3.2% 14 n/a
1977年11月期 単体 1,002 +12.1% 32 3.2% 16 n/a
1978年11月期 単体 1,083 +8.1% 39 3.6% 18 n/a
1979年11月期 単体 1,071 ▲1.1% 43 4.1% 22 n/a
1980年11月期 単体 1,170 +9.2% 25 2.2% 12 n/a
1981年11月期 単体 1,266 +8.2% 26 2.1% 13 n/a
1982年11月期 単体 1,302 +2.8% 32 2.5% 18 n/a
1983年11月期 単体 1,325 +1.8% 43 3.2% 20 n/a
1984年11月期 単体 1,384 +4.5% 26 1.9% 16 n/a
1985年11月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑 1976年版、会社年鑑 1986年版

出典・参考

6件
出典・参考
  • キユーピー 有価証券報告書【沿革】
  • 新日本経済 1959年4月号
  • 実業往来 1970年5月号
  • 養鶏之日本 1971年5月号
  • 50人の経営者(1966年)
  • 中島董一郎譜(1975年)

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