第1章 年〜年

キユーピー:食品工業の設立とキユーピーマヨネーズの製造開始

1919年〜若菜商店の缶詰商から中島商店と食品工業の二社設立まで

キユーピーの創業者である中島董一郎氏は、缶詰の技術者として出発し、一代で国産マヨネーズの市場を創出し、さらに首位シェアを築いた人物である。缶詰会社の若菜商店を経て、1912年に農商務省の海外実業練習生として英米へ派遣され、およそ3年間に渡り現地に滞在。この間、第一次世界大戦に遭遇しつつも、備蓄食糧としての缶詰工業について、先進国である欧米に学んだ。帰国後に勤めた北洋商会では、技術的な難易度が高かった蟹の缶詰が作れるかどうかを巡り、のちに通商産業大臣となる高碕達之助氏と議論になっている。なお、食料品を選んだのは、品質の優劣が専門知識を介さず(すなわち美味しければ支持される)、顧客に伝わる製品特性に着眼したためであった。そこで、中島董一郎氏は悪い原料からよい製品は作れないという考えのもと、帰国後から数十年は原料の調達に時間を割いたという。技術ではなく原料を競争の場に選んだことが、キューピーにおけるマヨネーズ生産で、農家からの鶏卵調達を重視する事業特性になった。

  • 新日本経済 1959年4月号
    • [1]中島董一郎は一代にして一業を成した立志伝中の人物である
    • [2]中島董一郎は1907年に水産講習所を卒業して若菜商店に勤め1912年に農商務省の海外実業練習生として英米へ派遣された
    • [3]英米滞在中に第一次欧州大戦に遭遇し備蓄食糧としての缶詰工業を実地に体験した
    • [4]帰朝後に北洋商会へ勤め高碕達之助と蟹の缶詰の製造可否を論じた
  • 中島董一郎譜(1975年)
    • [5]絵画や彫刻は専門家でなければ値打ちが分からないが食べものは誰が食べてもうまいものはうまいと分かる
    • [6]食料品で悪い原料からいいものを作ろうとするのは手品のたぐいであり数十年をよい原料の入手に費やした

創業時の事業展開は2社に分かれており、キユーピー1社に集約されるまでの過程は、複雑な経緯を経ている。1918年には蟹缶詰と鮭缶詰を扱う中島商店を創業。翌1919年には東京都中野区で食品工業を設立し、それぞれ別会社として運営した。そして、中島商店が"食品工業"へ出資したことで、製造と販売が資本関係は同列だが、株式会社としては分離され、以後1972年までの半世紀にわたって製販分離が続いた。なお、戦前の食品工業を伸ばしたのはマヨネーズではなく缶詰であり、高級缶詰で知られたアヲハタ印にその時代の名が残存している。当時は東中野に本社工場を構える町工場型の中小企業にすぎず、中島董一郎氏も当初は非常勤役員にとどまり、代表就任は関東大震災の後で経営への関与は限定的であった。

  • 中島董商店公式サイト(沿革)
    • [7]中島商店は1918年に蟹缶詰と鮭缶詰の販売を開始した
    • [9]中島商店は1919年に食品工業の創業へ資本参加した
    • [10]製造は食品工業、販売は中島董商店が担い1972年まで分業した
  • キユーピー 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1919年11月に東京都中野区小滝町で食品工業を設立し各種ソースと加工食料品の製造を開始した
  • 新日本経済 1959年4月号
    • [11]高級缶詰で知られるアオハタ印は缶詰メーカーとして発展した時代の名残である
    • [12]戦前の食品工業は東中野に本社工場を持つ町工場型の中小企業にすぎなかった
  • 50人の経営者(1966年)
    • [13]中島董一郎は食品工業の設立時は役員として名を連ねるにとどまった
    • [14]中島董一郎は関東大震災の後に食品工業の責任者となった
参考文献[1]-[14]
  • 新日本経済 1959年4月号
    • [1]中島董一郎は一代にして一業を成した立志伝中の人物である
    • [2]中島董一郎は1907年に水産講習所を卒業して若菜商店に勤め1912年に農商務省の海外実業練習生として英米へ派遣された
    • [3]英米滞在中に第一次欧州大戦に遭遇し備蓄食糧としての缶詰工業を実地に体験した
    • [4]帰朝後に北洋商会へ勤め高碕達之助と蟹の缶詰の製造可否を論じた
    • [11]高級缶詰で知られるアオハタ印は缶詰メーカーとして発展した時代の名残である
    • [12]戦前の食品工業は東中野に本社工場を持つ町工場型の中小企業にすぎなかった
  • 中島董一郎譜(1975年)
    • [5]絵画や彫刻は専門家でなければ値打ちが分からないが食べものは誰が食べてもうまいものはうまいと分かる
    • [6]食料品で悪い原料からいいものを作ろうとするのは手品のたぐいであり数十年をよい原料の入手に費やした
  • 中島董商店公式サイト(沿革)
    • [7]中島商店は1918年に蟹缶詰と鮭缶詰の販売を開始した
    • [9]中島商店は1919年に食品工業の創業へ資本参加した
    • [10]製造は食品工業、販売は中島董商店が担い1972年まで分業した
  • キユーピー 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1919年11月に東京都中野区小滝町で食品工業を設立し各種ソースと加工食料品の製造を開始した
  • 50人の経営者(1966年)
    • [13]中島董一郎は食品工業の設立時は役員として名を連ねるにとどまった
    • [14]中島董一郎は関東大震災の後に食品工業の責任者となった

1925年〜関東大震災が変えた服装と、キユーピーマヨネーズ

英米で中島董一郎氏が見たのは、魚と野菜にマヨネーズを使う洋食の食卓であった。魚も野菜も多く食べる日本人の好みに合うと考えながら、帰国した時点では時期が早いと判断し、需要が立ち上がるまで事業の本格展開を待った。転機は1923年の関東大震災で、東京の女学生の服装について、防災時の動きやすさ観点からそれまでの長袖の着物にえび茶の袴から、震災の後にほとんど一斉に洋装へ変わったという。この変化に時機を見て、マヨネーズの製造へ参入を決断。すでに帰国から数えて10年、会社の設立からは6年が経っていた。卵と油を乳化させた調味料を工業的に量産したのは食品工業が最初で、日本で初めてのマヨネーズとして販売された。このため、市場が無い商品を作るのではなく、市場が立ち上がる時機まで構想を温め、時代の変化とともに参入する道を選択している。

  • 中島董一郎譜(1975年)
    • [15]洋行先の英国と米国でマヨネーズが魚と野菜に用いられているのを見た
    • [16]日本人も魚や野菜を多く食べるためマヨネーズは好みに合うと考えたが帰国時は時期が早いと判断して時節を待った
    • [17]大正12年の関東大震災の後に東京の女学生の服装が着物と袴からほとんど一斉に洋装へ変わった
    • [18]服装の変化を見て時機が来たと判断しマヨネーズ製造に踏み切った
  • キユーピー 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1925年3月にマヨネーズの製造を開始した
  • キユーピー公式サイト(沿革)
    • [20]1925年に日本で初めてマヨネーズを製造・販売した

販売面でもマヨネーズの普及にあたって、当時広く流行していたキユーピーの人形を用いた販売促進を実施した。もともとキユーピーという名称については、商品名にすでに利用していた旧知の高碕達之助氏(東洋製罐の創業者)と相談のうえ、中島董一郎氏はマヨネーズのブランドとして譲り受けた。権利関係の整理のうえ、キユーピーの商標も同じ1925年に使用を開始。製品の中身でも独自の設計を採り、卵黄を多く使ったレシピを採用。日本人向けに栄養価を高め、動物性蛋白質を多く摂らせる味付けとした。この配合はのちに国内市場の事実上の標準仕様となって日本人の味覚となり、競合が異なる味で参入してもシェアを確保できない構造を作り上げた。ただし発売当時の日本でマヨネーズはほとんど知られておらず、食卓に製品が描かれた絵画を広告へ用いるなどして需要を開拓している。販売を引き続き担ったのは、製造を委託した中島商店であった。震災後の社会情勢の変化を受け、販売戦略と製品仕様といったマヨネーズビジネスの原型を、震災からわずか2年で創り上げた。

  • 中島董一郎譜(1975年)
    • [21]当時流行していたキユーピーの人形の名を東洋製罐の仕事をしていた高碕達之助が商品名に使っていた
    • [22]高碕達之助と相談してキユーピーの名をマヨネーズのブランドとして譲り受けた
  • キユーピー公式サイト(沿革)
    • [23]1925年にキユーピーの商標を使用開始した
  • キユーピー公式サイト(キユーピーの歩みと未来)
    • [24]卵黄タイプで栄養価の高いキユーピーマヨネーズを発売した
    • [26]発売当時マヨネーズは日本でほとんど知られておらず製品を描いた絵画を広告に使うなど普及へ工夫を重ねた
  • 50人の経営者(1966年)
    • [25]卵黄を多く使う味は動物性蛋白質を多く摂らせたいという考えから生まれ日本人の味になった
  • 中島董商店公式サイト(沿革)
    • [27]中島商店は1925年から食品工業へ製造委託したマヨネーズの販売に着手した
参考文献[15]-[27]
  • 中島董一郎譜(1975年)
    • [15]洋行先の英国と米国でマヨネーズが魚と野菜に用いられているのを見た
    • [16]日本人も魚や野菜を多く食べるためマヨネーズは好みに合うと考えたが帰国時は時期が早いと判断して時節を待った
    • [17]大正12年の関東大震災の後に東京の女学生の服装が着物と袴からほとんど一斉に洋装へ変わった
    • [18]服装の変化を見て時機が来たと判断しマヨネーズ製造に踏み切った
    • [21]当時流行していたキユーピーの人形の名を東洋製罐の仕事をしていた高碕達之助が商品名に使っていた
    • [22]高碕達之助と相談してキユーピーの名をマヨネーズのブランドとして譲り受けた
  • キユーピー 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1925年3月にマヨネーズの製造を開始した
  • キユーピー公式サイト(沿革)
    • [20]1925年に日本で初めてマヨネーズを製造・販売した
    • [23]1925年にキユーピーの商標を使用開始した
  • キユーピー公式サイト(キユーピーの歩みと未来)
    • [24]卵黄タイプで栄養価の高いキユーピーマヨネーズを発売した
    • [26]発売当時マヨネーズは日本でほとんど知られておらず製品を描いた絵画を広告に使うなど普及へ工夫を重ねた
  • 50人の経営者(1966年)
    • [25]卵黄を多く使う味は動物性蛋白質を多く摂らせたいという考えから生まれ日本人の味になった
  • 中島董商店公式サイト(沿革)
    • [27]中島商店は1925年から食品工業へ製造委託したマヨネーズの販売に着手した

1943年〜広島県忠海に発したアヲハタと、製造中止をはさんだ東京工場での再建

缶詰で培った殺菌と充填の技術は、果実の加工食品に応用されあ。旗道園を置いたのは瀬戸内の柑橘産地で、原料の産地へ工場を置く調達の作り方は、後年の鶏卵にも引き継がれており、技術的にはマヨネーズと果実缶詰の間には連続性が存在した。1932年に中島董一郎氏は広島県忠海に旗道園を全額出資で設立し、同じ年にアヲハタママレードを発売。英国滞在中に見たケンブリッジとオックスフォードのボートレースが、ブランド名アヲハタの由来であり、両校が掲げた青一色の校旗からとっている。この結果、中島董一郎氏が英国で口にした缶詰とマヨネーズという2つの食品が、7年間の事業構想を経て、国産の加工食品として食卓に並ぶ下地が揃った。なお、戦前に企業化してから、高度経済成長期において、需要が前年を下回った年は一度も無いという。アヲハタ缶詰はのちに別会社となり、広島の工場で生産を続けた。中島董一郎氏によるマヨネーズ・缶詰・ジャムという三つの事業系列は、戦前までに出揃った。

  • 新日本経済 1959年4月号
    • [28]戦前の食品工業はマヨネーズの啓蒙時代であり専ら缶詰メーカーとして発展した
    • [35]アオハタは別会社となり広島工場で生産している
  • アヲハタ公式サイト(アヲハタのあゆみ)
    • [29]旗道園は広島県忠海に設立された
    • [30]1932年に中島董一郎が出資して旗道園を設立しアヲハタママレードを発売した
    • [31]アヲハタの名は英国のボートレースに由来する
    • [32]ケンブリッジとオックスフォードの両校は青一色の校旗を掲げていた
  • 日本食糧新聞(2019年6月26日)
    • [33]中島董一郎は英米でマヨネーズとオレンジママレードに出会った
  • 50人の経営者(1966年)
    • [34]戦前に企業化してから需要が前年より減ったことはない

事業の拡大を止めたのは需要ではなく、戦時下における原料調達の困難であった。太平洋戦争の下で卵の調達が途絶し、1943年にマヨネーズの製造を中止。中断は5年に及んだが、この間も投機的な取引を行わず、設備の保全と再開準備へ資源を集中した。終戦により卵の統制が解けた1948年に生産を再開すると、進駐軍向けのOMMCの発注を足掛りに、統制の解けた油と旺盛な民需が重なり事業成長の条件が揃った。そこで、1951年に東京工場の新設を決断。のちの調布市にあたる土地で、この地が長く本社と主力工場を置く場所となり、首都圏向けにマヨネーズを供給する拠点となった。本社調布工場はオートメーションを備えた設備として拡充された。なお、戦前の設備を復旧せず新設の工場で再開したのは、戦後の需要を戦前より大きく見込んだためと推定される。

  • 50人の経営者(1966年)
    • [36]戦時中から5年間は原料の卵が手に入らずマヨネーズの生産を中止した
    • [38]生産中止の期間もヤマッケを出さずひたすら工場再開の基礎固めをした
  • キユーピー公式サイト(沿革)
    • [37]1943年に太平洋戦争による原料の入手難でマヨネーズの製造を中止した
  • 新日本経済 1959年4月号
    • [39]戦後の成長は進駐軍用のOMMCの発注を足掛りとし油の統制解除後の特需と民需に支えられた
    • [41]戦後の旺盛な需要に応えて本社調布工場を大規模に拡充し近代的なオートメーションシステムを備えた
  • キユーピー 有価証券報告書【沿革】
    • [40]1951年10月に東京都北多摩郡神代村へ東京工場を新設し現在の調布市にあたるこの地へ1960年2月に本社を移した

1957年9月、食品工業は商号をキユーピーへ変更した。生産の拠点は戦前から東西に分かれており、1938年3月には兵庫県伊丹市に稲野工場を新設し、マヨネーズとフルーツ缶詰の製造を始めていた。戦後の再開を担った東京工場と合わせ、関西と首都圏の二拠点で供給する体制が整っている。一方、キユーピーの商標そのものは1925年の発売時から使い続けたものであり、社名はブランドに後から合わせた形になる。改称から2年後の1959年には、マヨネーズといえばキユーピー、キユーピーといえばマヨネーズと連想されるほど製品名が需要家に浸透し、市場で独占的な地位を占めるに至った。缶詰商として出発した会社が、扱う品目ではなく主力製品のブランドを社名に据えたことで、マヨネーズ専業としての輪郭が定まった。

  • キユーピー 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1957年9月に商号を食品工業からキユーピーへ変更した
    • [43]1938年3月に兵庫県伊丹市へ稲野工場を新設しマヨネーズとフルーツ缶詰の製造を開始した
    • [44]1951年10月に東京都北多摩郡神代村へ東京工場を新設しマヨネーズの製造を開始した
  • キユーピー公式サイト(沿革)
    • [45]1925年にキユーピーの商標を使用開始した
  • 新日本経済 1959年4月号
    • [46]マヨネーズといえばキユーピー、キユーピーといえばマヨネーズと連想されるほど大衆に馴染まれ市場に独占的地位を占めた
参考文献[28]-[46]
  • 新日本経済 1959年4月号
    • [28]戦前の食品工業はマヨネーズの啓蒙時代であり専ら缶詰メーカーとして発展した
    • [35]アオハタは別会社となり広島工場で生産している
    • [39]戦後の成長は進駐軍用のOMMCの発注を足掛りとし油の統制解除後の特需と民需に支えられた
    • [41]戦後の旺盛な需要に応えて本社調布工場を大規模に拡充し近代的なオートメーションシステムを備えた
    • [46]マヨネーズといえばキユーピー、キユーピーといえばマヨネーズと連想されるほど大衆に馴染まれ市場に独占的地位を占めた
  • アヲハタ公式サイト(アヲハタのあゆみ)
    • [29]旗道園は広島県忠海に設立された
    • [30]1932年に中島董一郎が出資して旗道園を設立しアヲハタママレードを発売した
    • [31]アヲハタの名は英国のボートレースに由来する
    • [32]ケンブリッジとオックスフォードの両校は青一色の校旗を掲げていた
  • 日本食糧新聞(2019年6月26日)
    • [33]中島董一郎は英米でマヨネーズとオレンジママレードに出会った
  • 50人の経営者(1966年)
    • [34]戦前に企業化してから需要が前年より減ったことはない
    • [36]戦時中から5年間は原料の卵が手に入らずマヨネーズの生産を中止した
    • [38]生産中止の期間もヤマッケを出さずひたすら工場再開の基礎固めをした
  • キユーピー公式サイト(沿革)
    • [37]1943年に太平洋戦争による原料の入手難でマヨネーズの製造を中止した
    • [45]1925年にキユーピーの商標を使用開始した
  • キユーピー 有価証券報告書【沿革】
    • [40]1951年10月に東京都北多摩郡神代村へ東京工場を新設し現在の調布市にあたるこの地へ1960年2月に本社を移した
    • [42]1957年9月に商号を食品工業からキユーピーへ変更した
    • [43]1938年3月に兵庫県伊丹市へ稲野工場を新設しマヨネーズとフルーツ缶詰の製造を開始した
    • [44]1951年10月に東京都北多摩郡神代村へ東京工場を新設しマヨネーズの製造を開始した

筆者考察

キユーピーの出発点にあるのは、作れるかどうかではなく、いつ出すかという判断であった。中島董一郎氏は1912年に農商務省の海外実業練習生として英米へ渡り、魚と野菜にマヨネーズを使う食卓を見ている。日本人も魚と野菜を多く食べる以上は好みに合うと踏みながら、帰国した時点では時期が早いとして作らなかった。動いたのは1923年の関東大震災の後、東京の女学生の服装が着物と袴からほとんど一斉に洋装へ替わったのを見た時である。構想から発売まで10年、会社の設立からも6年が経っていた。市場の無いところへ商品を置いて啓蒙する道ではなく、生活が変わる兆しを需要の先行指標として読み、そこへ合わせて参入する道を選んだのである。

もう一つの軸は原料であった。中島董一郎氏は悪い原料からよい製品は作れないという考えのもと、帰国後の数十年を原料の入手に費やしている。柑橘の産地である広島県忠海に旗道園を置いてアヲハタママレードを出したのは、産地へ工場を寄せる調達の作り方であり、後年に鶏卵で繰り返す形の原型になった。裏を返せば、原料が断たれた時にこの調達は成り立たない。1943年に卵の調達が途絶えるとマヨネーズの製造は5年間中止され、その間、投機的な取引には動かず、設備の保全と再開準備へ資源が向けられた。1948年の再開から東京工場の新設まで3年、商号を食品工業からキユーピーへ改めるまで9年。缶詰商として出発した会社が、主力製品の名を社名に引き上げるのに38年を要した。

出典・参考

9件
出典・参考
  • キユーピー 有価証券報告書【沿革】
  • キユーピー公式サイト(キユーピーの歩みと未来)
  • アヲハタ公式サイト(アヲハタのあゆみ)
  • 新日本経済 1959年4月号
  • 日本食糧新聞(2019年6月26日)
  • 50人の経営者(1966年)
  • 中島董一郎譜(1975年)
  • 中島董商店公式サイト(沿革)
  • キユーピー公式サイト(沿革)

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