日本マクドナルド:藤田商店・米マクドナルド折半出資の設立と売上高1000億円突破
藤田商店が主導した直営出店から外食首位へ
1969年〜飲食業の資本自由化と藤田商店が掌握した合弁の主導権
藤田田氏は東京大学法学部を卒業した1951年に輸入雑貨商の藤田商店を設立し、婦人物アクセサリーなど高級雑貨の輸入を本業としていた。渡米を重ねて米国人の食生活を見るうちに、ハンバーガーこそスピード時代に合った食べ物だと見定めたのは1960年代の半ばである。当時の日本には外食産業という言葉すらなく、藤田氏は高速自動車道路の延伸によるハイウェー時代の到来を外食の出発点とみて機を待った。1969年8月には、全米2500店・年商1200億円のフライドチキン最大手が日本でも数百店に育つ余地があると報じられていた。飲食業の資本が100%自由化されたのは同年2月で、レストラン外資は1970年から1971年にかけて相次いで上陸した。参入の時期を決めたのは藤田氏の着眼ではなく制度の開放だった。
- 日経ビジネス 1972年12月11日号
- [1]藤田田氏は1951年に東京大学法学部を卒業すると同時に藤田商店を設立し、婦人物アクセサリーなど高級雑貨の輸入を主な業務とした
- [2]藤田田氏は藤田商店社長として渡米を重ね、記事掲載の7〜8年前にあたる1960年代半ばにハンバーガーへ着目した
- [3]高速自動車道路の建設によるハイウェー時代の到来を、藤田田氏は外食産業の出発点とみた
- 読売新聞 1969年8月7日
- [4]米フライドチキン最大手は全米2500店・前年度売上高1200億円で、日本でも将来は数百店のチェーンに成長する可能性があると報じられた
- 週刊東洋経済 1975年8月7日号
- [5]飲食業の資本は1969年2月に100%自由化され、ハンバーガー・フライドチキン・ドーナツのレストラン外資が1970年から1971年にかけて相次いで日本へ進出した
日本マクドナルドは1971年5月1日、資本金3億2400万円で東京都港区に設立された。出資比率は米マクドナルド社が50%、藤田商店と第一屋製パンが各25%で、日本側の持ち分は2社に分かれていた。製パン会社はほどなく外れ、1975年には藤田商店と米本社が50%ずつを持つ合弁に改まっている。藤田氏は、どちらか一方が過半を握れば投票で決着がついてしまい本当の協力関係は確立できないとして、折半こそ望ましいと語った。日常の経営は一切日本側に委ねられ、米側は常駐役員を置かず、広告や資材の担当者をその都度派遣した。米国流をそのまま持ち込むなら100%出資で進出すればよく、合弁にしたのは日本の特殊事情に合わせるためだと藤田氏は説明している。
- 有価証券報告書 沿革
- [6]日本マクドナルド株式会社は1971年5月1日に東京都港区で設立された
- 日経ビジネス 1972年12月11日号
- [7]1972年12月時点の出資比率は米マクドナルド社50%、藤田商店25%、第一屋製パン25%であった
- 日経ビジネス 1975年6月9日号
- [8]1975年6月時点では米マクドナルド社と藤田商店が50%ずつを出資する合弁となっていた
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [9]藤田田氏は、一方が過半数を握ると本当の協力関係を確立しにくいとして、合弁では折半出資が最も望ましいと述べた
- [10]日常の経営は全面的に日本側に任され、米側本社は常駐役員を置かず、広告や資材の部門へ都度アドバイザーを派遣した
- [11]藤田田氏は、米国流をそのまま持ち込むなら100%出資で進出すればよく、日本側の出資者を置く以上は日本の特殊事情に合わせた経営をすると述べた
第1号店は1971年7月20日、銀座三越の1階に開いた。米国のマクドナルドは郊外から出発して成功していた。藤田氏は舶来品を国民に最も知られやすい場所で売るべきだと考え、文化の中心である東京の銀座を選んだ。新たに用地を求めても適地は乏しく地価も高いため、百貨店やビルのひさしを借りる軒端作戦を採り、繁華街の望む場所へ入り込んだ。三越の側にも、若者向けの店を併設して客を引き入れ、店の印象を若くする利点があった。この年の出店は銀座と京都の藤井大丸の2店にとどまり、5月から12月までの売上高は2億円である。手づかみで立ち食いする光景は、昼下がりの銀座通りの名物になった。
- 週刊東洋経済 1975年8月7日号
- [12]日本マクドナルドの第1号店は1971年7月20日に銀座三越へ開店した
- [18]手軽さと目新しさが若者の人気を集め、昼下がりの銀座通りが手づかみ・立ち食いの場として話題になった
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [13]米国のマクドナルドは郊外から出店を始めて成功した
- [14]藤田田氏は、舶来品は国民が最も知りやすい場所で売る必要があるとして、文化の中心である東京の銀座を第1号店の地に選んだと述べた
- 日経ビジネス 1972年12月11日号
- [15]新規の店舗用地は適地が乏しく地価も高いため、藤田田氏は百貨店やビルのひさしを借りる立地方式を採った
- [16]銀座三越にとっては、若者向けのハンバーガー店の併設が集客と若い客層への印象づけに役立った
- 野田経済 1984年4月号
- [17]1971年の出店は銀座三越1階と京都藤井大丸1階の2店で、同年の売上高は2億円であった
参考文献[1]-[18]
- 日経ビジネス 1972年12月11日号
- [1]藤田田氏は1951年に東京大学法学部を卒業すると同時に藤田商店を設立し、婦人物アクセサリーなど高級雑貨の輸入を主な業務とした
- [2]藤田田氏は藤田商店社長として渡米を重ね、記事掲載の7〜8年前にあたる1960年代半ばにハンバーガーへ着目した
- [3]高速自動車道路の建設によるハイウェー時代の到来を、藤田田氏は外食産業の出発点とみた
- [7]1972年12月時点の出資比率は米マクドナルド社50%、藤田商店25%、第一屋製パン25%であった
- [15]新規の店舗用地は適地が乏しく地価も高いため、藤田田氏は百貨店やビルのひさしを借りる立地方式を採った
- [16]銀座三越にとっては、若者向けのハンバーガー店の併設が集客と若い客層への印象づけに役立った
- 読売新聞 1969年8月7日
- [4]米フライドチキン最大手は全米2500店・前年度売上高1200億円で、日本でも将来は数百店のチェーンに成長する可能性があると報じられた
- 週刊東洋経済 1975年8月7日号
- [5]飲食業の資本は1969年2月に100%自由化され、ハンバーガー・フライドチキン・ドーナツのレストラン外資が1970年から1971年にかけて相次いで日本へ進出した
- [12]日本マクドナルドの第1号店は1971年7月20日に銀座三越へ開店した
- [18]手軽さと目新しさが若者の人気を集め、昼下がりの銀座通りが手づかみ・立ち食いの場として話題になった
- 有価証券報告書 沿革
- [6]日本マクドナルド株式会社は1971年5月1日に東京都港区で設立された
- 日経ビジネス 1975年6月9日号
- [8]1975年6月時点では米マクドナルド社と藤田商店が50%ずつを出資する合弁となっていた
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [9]藤田田氏は、一方が過半数を握ると本当の協力関係を確立しにくいとして、合弁では折半出資が最も望ましいと述べた
- [10]日常の経営は全面的に日本側に任され、米側本社は常駐役員を置かず、広告や資材の部門へ都度アドバイザーを派遣した
- [11]藤田田氏は、米国流をそのまま持ち込むなら100%出資で進出すればよく、日本側の出資者を置く以上は日本の特殊事情に合わせた経営をすると述べた
- [13]米国のマクドナルドは郊外から出店を始めて成功した
- [14]藤田田氏は、舶来品は国民が最も知りやすい場所で売る必要があるとして、文化の中心である東京の銀座を第1号店の地に選んだと述べた
- 野田経済 1984年4月号
- [17]1971年の出店は銀座三越1階と京都藤井大丸1階の2店で、同年の売上高は2億円であった
1972年〜2万5000項目のマニュアルと直営で組んだ店舗運営
藤田氏が米本社から受け取った最大の資産は、商標ではなく2万5000項目に及ぶマニュアルだった。店舗運営を基本とする人材教育のため、1971年6月にハンバーガー大学を開校した。新入社員は商品の製造方法から労務や在庫の管理までをマニュアルに沿って学んだ。1977年末の正社員は約600人、平均年齢は26歳で、最年少の店長は24歳である。入社2年ほどで店長となり、100人前後のパートタイマーを使って年商1億円を超える店を任された。すし屋の職人が10年かけて覚えることに時間がかかるのは日本にマニュアルが無いからだと、藤田氏はみていた。藤田氏は自社の経営を、経験と勘によるレストラン業とは別のものだと位置づけ、次のように語っている『従来のレストラン経営は経験とカンによるもので、マクドナルドは選び抜いた単品メニューを科学的システムによって経営していく技術革新だ』。
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [19]日本マクドナルドは米国本社が開発した2万5000項目に及ぶマニュアルをそのまま受け継いだ
- [21]新入社員はハンバーガー大学で、商品の製造方法から店舗運営に必要な労務・在庫の管理までをマニュアルに沿って学んだ
- [22]1977年時点の正社員は約600人、平均年齢は26歳で、最年少の店長は24歳であった
- [23]入社約2年で店長となった社員が、100人前後のパートタイマーを使って年間売上高1億円を超える店舗を運営した
- [24]藤田田氏は、すし屋の職人が一人前になるのに10年を要するのは日本にマニュアルが無いためだと述べた
- 有価証券報告書 沿革
- [20]店舗運営を基本とする人材教育のため、1971年6月にハンバーガー大学を開校した
- 週刊東洋経済 1975年8月7日号
- [25]藤田田氏は、従来のレストラン経営が経験と勘によるものであるのに対し、マクドナルドは選び抜いた単品メニューを科学的システムで経営する技術革新だと説明した
米国のマクドナルドはフランチャイズ方式で全米に広がり、日本へ上陸したレストラン外資も同社を除けばほぼ当初からFC方式を採っていた。藤田氏は直営を選び、1977年末の127店のうちフランチャイズは2店にすぎない。理由として挙げたのは、国土が米国の一州ほどの広さしかなく、カラーテレビが全国へ普及しているため、全土を広告で覆う費用が小さいことだった。米国でFCが始まった20年前はテレビが白黒で、食料品を鮮やかな色で映すことができなかった。フランチャイズ第1号店は1976年2月に沖縄県浦添市へ開き、本格的なドライブスルーの第1号店が1977年10月の東京都杉並区へ続いた。
- 週刊東洋経済 1975年8月7日号
- [26]日本へ進出したレストラン外資は、日本マクドナルドを除いてほぼ当初からフランチャイズ方式を採用した
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [27]1977年時点の店舗数は127店で、うち直営が125店、フランチャイズは2店であった
- [28]藤田田氏は、日本は国土が狭くカラーテレビが全国に普及しているため広告で全土を覆う費用が小さく、直営方式を採れると説明した
- [29]米国で20年前にフランチャイズ方式が始まった当時はテレビが白黒で、食料品を鮮やかな色で映すことができなかった
- 有価証券報告書 沿革
- [30]フランチャイズ契約第1号店は1976年2月に沖縄県浦添市へ、本格的なドライブスルー方式の第1号店は1977年10月に東京都杉並区へ開店した
創業から支えてきた幹部5人は、非常勤の外国人取締役を除けば重役のいない当時の会社で、社長に次ぐ事実上の次席にあった。その5人が1975年3月に会社を去り、サンドイッチハウスを立ち上げた。チェーンをどう広げるかという根本の方針で、藤田氏と考えが食い違ったためである。批判の中身は2点あった。原料を牛肉に頼るハンバーガー一本では仕入れに限界が来ること、1店ごとの投資が重く地方では回収しにくいことである。1974年時点の店は49店で、すべてが直営だった。翌年には100店、売上高100億円に届くと見込まれていた。会社は成功の理由として、値段の安さと繁華街の堂々とした店構えの二つを挙げた。1975年の売上高は104億円に達し、懸念は当面の数字には表れなかった。
- 日経ビジネス 1975年6月9日号
- [31]当時の日本マクドナルドは非常勤の外国人取締役のほかに重役を置かず、社長の下が部長へ直結する組織で、退社した5人は事実上の次席だった
- [32]1975年3月、日本マクドナルドの創業以来の幹部5人が退社し、新会社サンドイッチハウスを設立した
- [33]元広報部長の佐藤昂氏は、チェーン展開の基本政策をめぐって藤田田氏との間に相当のずれがあったと述べた
- [34]退社した幹部の批判は、牛肉を主原料とするハンバーガーだけでは供給面で限界が来ることと、1店当たりの投資額が大きく市場規模の小さい地方では成り立たないことの2点であった
- [35]1974年実績の店舗数は49店ですべて直営で、1975年は100店・売上高100億円を見込んでいた
- [36]会社側は、牛肉を主体にした安いハンバーガーと繁華街の立派な店の二つが日本での成功の理由だと反論した
- 日本マクドナルド 長期損益系列(IEレビュー 30(3)(161))
- [37]日本マクドナルドの1975年の売上高は104億円であった
参考文献[19]-[37]
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [19]日本マクドナルドは米国本社が開発した2万5000項目に及ぶマニュアルをそのまま受け継いだ
- [21]新入社員はハンバーガー大学で、商品の製造方法から店舗運営に必要な労務・在庫の管理までをマニュアルに沿って学んだ
- [22]1977年時点の正社員は約600人、平均年齢は26歳で、最年少の店長は24歳であった
- [23]入社約2年で店長となった社員が、100人前後のパートタイマーを使って年間売上高1億円を超える店舗を運営した
- [24]藤田田氏は、すし屋の職人が一人前になるのに10年を要するのは日本にマニュアルが無いためだと述べた
- [27]1977年時点の店舗数は127店で、うち直営が125店、フランチャイズは2店であった
- [28]藤田田氏は、日本は国土が狭くカラーテレビが全国に普及しているため広告で全土を覆う費用が小さく、直営方式を採れると説明した
- [29]米国で20年前にフランチャイズ方式が始まった当時はテレビが白黒で、食料品を鮮やかな色で映すことができなかった
- 有価証券報告書 沿革
- [20]店舗運営を基本とする人材教育のため、1971年6月にハンバーガー大学を開校した
- [30]フランチャイズ契約第1号店は1976年2月に沖縄県浦添市へ、本格的なドライブスルー方式の第1号店は1977年10月に東京都杉並区へ開店した
- 週刊東洋経済 1975年8月7日号
- [25]藤田田氏は、従来のレストラン経営が経験と勘によるものであるのに対し、マクドナルドは選び抜いた単品メニューを科学的システムで経営する技術革新だと説明した
- [26]日本へ進出したレストラン外資は、日本マクドナルドを除いてほぼ当初からフランチャイズ方式を採用した
- 日経ビジネス 1975年6月9日号
- [31]当時の日本マクドナルドは非常勤の外国人取締役のほかに重役を置かず、社長の下が部長へ直結する組織で、退社した5人は事実上の次席だった
- [32]1975年3月、日本マクドナルドの創業以来の幹部5人が退社し、新会社サンドイッチハウスを設立した
- [33]元広報部長の佐藤昂氏は、チェーン展開の基本政策をめぐって藤田田氏との間に相当のずれがあったと述べた
- [34]退社した幹部の批判は、牛肉を主原料とするハンバーガーだけでは供給面で限界が来ることと、1店当たりの投資額が大きく市場規模の小さい地方では成り立たないことの2点であった
- [35]1974年実績の店舗数は49店ですべて直営で、1975年は100店・売上高100億円を見込んでいた
- [36]会社側は、牛肉を主体にした安いハンバーガーと繁華街の立派な店の二つが日本での成功の理由だと反論した
- 日本マクドナルド 長期損益系列(IEレビュー 30(3)(161))
- [37]日本マクドナルドの1975年の売上高は104億円であった
1978年〜価格据え置きと新商品が押し上げた外食売上高1位
牛肉の輸入が自由化されて仕入れ値が下がれば、その分はハンバーガーの値下げに回すというのが藤田氏の方針だった。価格そのものは、1978年初めまで3年間動かしていない。米国のマクドナルドは15年間も据え置いてきた。年50%前後の増収を続けられれば値上げは要らないと藤田氏は読んでいた。企業として形が整うのは年商1000億円からだというのが同氏の考えだった。そこで掲げた長期計画は、1981年に400店、売上高1050億円という内容である。売上高は1977年の225億円から1979年に400億円、1981年に604億円へと増えたが、1981年の目標には届いていない。値上げをしない制約を自ら課したことが、出店の速度を経営の生命線へ変えた。
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [38]藤田田氏は、牛肉の輸入が自由化されて安くなればハンバーガーの値段も下げると述べた
- [39]日本マクドナルドは1978年1月の時点で3年間にわたり価格を据え置いていた
- [40]米国マクドナルドは15年間値段を据え置いており、藤田田氏は年間50%程度の売上増を維持すれば値上げせずに済むと述べた
- [41]藤田田氏は、企業として体裁を整えるには年商1000億円が必要だとし、1979年に500億円、1981年に400店・売上高1050億円とする長期計画を示した
- 日本マクドナルド 長期損益系列(IEレビュー 30(3)(161))
- [42]日本マクドナルドの売上高は1977年225億円、1979年400億円、1981年604億円であった
1980年に開いた八王子店は子会社の藤田商店が手がけたプールを併設し、スイミングスクールの進級者にはハンバーガー券を配った。食堂単独なら月商1500万円のところ、前月は2500万円を売り上げたという。大阪と横浜にも同種の店を、札幌ではテニスコートとの併設を計画した。人材の引き留めにも対策を講じ、1979年11月には社員フランチャイズ制度を発足させて第1号店を埼玉県東松山市へ開いた。勤続10年以上の社員へ会社が開業資金を援助して独立させる仕組みで、1984年までに24人が利用している。創業時に採用した新卒20人のうち19人が在籍していることを、藤田氏は自らの誇りとした。
- 日経ビジネス 1980年3月10日号
- [43]1980年開店の八王子店は子会社の藤田商店が手がけたプールを併設し、スイミングスクールの進級者へハンバーガー券を配った
- [44]八王子店は食堂単独なら月商1500万円のところ、前月は2500万円を売り上げた
- [45]日本マクドナルドは大阪と横浜にもプール併設店を、札幌ではテニスコートとの併設を計画していた
- 有価証券報告書 沿革
- [46]1979年11月に社員フランチャイズ制度を発足させ、第1号店を埼玉県東松山市へ開店した
- 日経ビジネス 1984年10月29日号
- [47]勤続10年以上の社員へ会社が開業資金を援助して店主として独立させる社員ライセンス制度により、1984年時点で24人が独立した
- [48]創業時に採用した新卒社員20人のうち19人が1984年時点で在籍していた
1982年12月、直営とフランチャイズを合わせた売上高702億円で、国内の外食産業の首位に立った。1983年度は売上高846億5500万円、経常利益66億4600万円で、395店のうち赤字の店は1店だけである。1984年2月3日には、米国で5年かけて開発した骨なしのチキンナゲットを全国一斉に売り出し、将来は全売上高の2割を占めると見込んだ。同年度の計画は455店・売上高1014億2000万円で、外食産業では前人未踏の1000億円に挑むと藤田氏は語った。1984年12月、売上高は計画どおり1000億円を超え、外食産業で初めてその水準に達した。競合を問われた藤田氏は、ハンバーガー2位とされる企業を競争相手とみなさなかった『競走が、ウチには全然ありませんからね。ロッテリアが、ハンバーガー第2位なんていうが、全然問題じゃありませんよ』。
- 有価証券報告書 沿革
- [49]1982年12月、直営店とフランチャイズ店の合計売上高702億円で国内の外食産業において売上高1位となった
- [53]1984年12月、外食産業で初めて売上高1000億円を突破した
- 野田経済 1984年4月号
- [50]1983年度の売上高は846億5500万円、経常利益は66億4600万円で、店舗数395店のうち赤字店は1店だった
- [51]1984年2月3日、米国で5年ほど開発を進めた骨なしのチキンナゲットを全国一斉に発売し、将来は全売上高の20%を占めると見込んだ
- [52]1984年度は店舗455店、売上高1014億2000万円、経常利益80億2000万円を計画し、外食産業で前人未踏の1000億円企業を目指すとした
- 日経ビジネス 1984年10月29日号
- [54]藤田田氏は、ハンバーガー業界2位とされるロッテリアを自社の競争相手とはみなさないと述べた
参考文献[38]-[54]
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [38]藤田田氏は、牛肉の輸入が自由化されて安くなればハンバーガーの値段も下げると述べた
- [39]日本マクドナルドは1978年1月の時点で3年間にわたり価格を据え置いていた
- [40]米国マクドナルドは15年間値段を据え置いており、藤田田氏は年間50%程度の売上増を維持すれば値上げせずに済むと述べた
- [41]藤田田氏は、企業として体裁を整えるには年商1000億円が必要だとし、1979年に500億円、1981年に400店・売上高1050億円とする長期計画を示した
- 日本マクドナルド 長期損益系列(IEレビュー 30(3)(161))
- [42]日本マクドナルドの売上高は1977年225億円、1979年400億円、1981年604億円であった
- 日経ビジネス 1980年3月10日号
- [43]1980年開店の八王子店は子会社の藤田商店が手がけたプールを併設し、スイミングスクールの進級者へハンバーガー券を配った
- [44]八王子店は食堂単独なら月商1500万円のところ、前月は2500万円を売り上げた
- [45]日本マクドナルドは大阪と横浜にもプール併設店を、札幌ではテニスコートとの併設を計画していた
- 有価証券報告書 沿革
- [46]1979年11月に社員フランチャイズ制度を発足させ、第1号店を埼玉県東松山市へ開店した
- [49]1982年12月、直営店とフランチャイズ店の合計売上高702億円で国内の外食産業において売上高1位となった
- [53]1984年12月、外食産業で初めて売上高1000億円を突破した
- 日経ビジネス 1984年10月29日号
- [47]勤続10年以上の社員へ会社が開業資金を援助して店主として独立させる社員ライセンス制度により、1984年時点で24人が独立した
- [48]創業時に採用した新卒社員20人のうち19人が1984年時点で在籍していた
- [54]藤田田氏は、ハンバーガー業界2位とされるロッテリアを自社の競争相手とはみなさないと述べた
- 野田経済 1984年4月号
- [50]1983年度の売上高は846億5500万円、経常利益は66億4600万円で、店舗数395店のうち赤字店は1店だった
- [51]1984年2月3日、米国で5年ほど開発を進めた骨なしのチキンナゲットを全国一斉に発売し、将来は全売上高の20%を占めると見込んだ
- [52]1984年度は店舗455店、売上高1014億2000万円、経常利益80億2000万円を計画し、外食産業で前人未踏の1000億円企業を目指すとした
筆者考察
藤田田氏が米国から持ち込んだ最大の資産は、ハンバーガーという商品ではなく、2万5000項目の手順書だった。外食の経験がない輸入雑貨商が4年でハンバーガーを日本に定着させられたのは、経験と勘で回していた飲食業を、誰が担っても同じ結果の出る作業へ置き換えたからである。入社2年の24歳が100人のパートタイマーを動かし、年商1億円の店を回す。すし屋の職人が10年かけて覚えることを2年で使える形にしたこの仕組みが、都市の一等地を次々に埋めていく速度を生んだ。マニュアルは教育の道具である前に、出店の速度を決める装置だった。商品を真似ることはできても、この速度までは真似られない。
ただし、その装置を日本の地面のどこへ据えるかは輸入できなかった。米国の郊外・自動車・フランチャイズを、銀座・徒歩・直営へ置き換える判断を支えたのは、折半出資という契約ではない。日常の経営が全面的に日本側へ委ねられ、米側が常駐役員すら置かなかったという運用である。50対50は経営権の均衡ではなく、不干渉の取り決めだった。その自由度は制度ではなく藤田氏個人に属しており、1975年に幹部5人が投資額と原料の偏りを理由に去ったとき、会社にその判断を引き取る第二の層はまだ育っていなかった。直営で通すか、投資を軽くして地方へ広げるか。この問いを正しく立てたのは去った側であり、残った側は答えを先へ送った。
1969年〜1984年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1969年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年12月期 | 単体 | 2 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年12月期 | 単体 | 15 | +650.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1973年12月期 | 単体 | 38 | +153.3% | n/a | n/a | n/a |
| 1974年12月期 | 単体 | 68 | +78.9% | n/a | n/a | n/a |
| 1975年12月期 | 単体 | 104 | +52.9% | n/a | n/a | n/a |
| 1976年12月期 | 単体 | 151 | +45.2% | n/a | n/a | n/a |
| 1977年12月期 | 単体 | 225 | +49.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1978年12月期 | 単体 | 317 | +40.9% | n/a | n/a | n/a |
| 1979年12月期 | 単体 | 400 | +26.2% | n/a | n/a | n/a |
| 1980年12月期 | 単体 | 500 | +25.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1981年12月期 | 単体 | 604 | +20.8% | n/a | n/a | n/a |
| 1982年12月期 | 単体 | 703 | +16.4% | n/a | n/a | n/a |
| 1983年12月期 | 単体 | 847 | +20.5% | n/a | n/a | n/a |
| 1984年12月期 | 単体 | 1,080 | +27.5% | n/a | n/a | n/a |
出所:IEレビュー30(3)
出典・参考
10件
- 有価証券報告書 沿革
- 日経ビジネス 1972年12月11日号
- 週刊東洋経済 1975年8月7日号
- 日経ビジネス 1975年6月9日号
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- 日経ビジネス 1980年3月10日号
- 野田経済 1984年4月号
- 日経ビジネス 1984年10月29日号
- 読売新聞 1969年8月7日
- 日本マクドナルド 長期損益系列(IEレビュー 30(3)(161))