アサヒグループHD:住友銀行の経営支援とアサヒスーパードライの発売
村井勉の社風刷新からアサヒスーパードライの集中投入へ
1982年〜住友銀行から迎えた村井勉による社風の刷新
1982年3月、住友銀行副頭取の村井勉氏が朝日麦酒の社長に就いた。東京商科大学を1942年に卒業して住友銀行へ入行した。1976年には東洋工業へ副社長として送り込まれて立て直しを担い、1980年に専務で銀行へ復帰したのち副頭取に就いた。東洋工業は出向の立場だったが、今度は住友銀行を辞めての移籍であり、本人はこの会社で生涯を終える覚悟だと述べている。着任した時点のアサヒのシェアは10%を保てるかどうかの際どい線にあり、その1%はビールにして7,000万本分だった。村井氏がまず手を着けると言ったのは、設備や商品ではなく会社の気風の作り直しだった。同氏の見立てでは、ビール販売も預金集めも本質は同じで、目標を定めた後は地道に足を運んで売上を積むほかに道はなかった。
- 日経ビジネス 1982年6月28日号 新社長登場
- [1]1982年3月 住友銀行副頭取 村井勉が朝日麦酒社長に就任
- 日経ビジネス 1982年10月4日号 編集長インタビュー 村井勉氏
- [2]村井勉の経歴 1942年東京商科大学卒・住友銀行入行、1976年東洋工業副社長へ出向、1980年専務として復帰、1981年副頭取
- [3]住友銀行を退社しての転身と「骨を埋める覚悟」
- [4]就任時のシェアが10%割れの瀬戸際にあったこと
- [5]シェア1%がビール7,000万本に相当すること
- [6]村井勉の第一手 まず社風を作り変えること
- [7]村井勉の診断 ビールも預金も足腰を強くして歩いて稼ぐしかない
就任から4か月後の1982年7月、村井氏は経営理念を制定した。進むべき道を酒類・飲料・食品・薬品の四つの事業分野に絞り、消費者志向・品質志向・人間性尊重・労使協調・共存共栄・社会的責任の六項目からなる行動規範を文章にしている。前年に関西経済同友会の調査団長として訪米した際、ジョンソン・エンド・ジョンソンが経営理念を明文化し、10年に一度書き直しているのを見たことが下敷きになった。続く機構改革では、各支店に業務課を置いて地区ごとに企画を立てる体制へ改め、長期計画と予算・決算を受け持つ社長室を新設して経理部を財務部へ改めた。新商品の開発を統括する分野を機構へ組み込み、若手の登用を含む180名の異動を一度に行った。あわせてCIと品質管理の推進に着手し、四つの事業分野への展開を対外的にも公言している。
- 野田経済 1982年12月号 トップインタビュー 村井勉氏
- [8]1982年7月 経営理念の制定
- [9]酒類・飲料・食品・薬品の四事業分野への限定と、消費者志向ほか六項目の行動規範
- [10]前年の訪米で見たジョンソン・エンド・ジョンソンの経営理念の明文化と10年ごとの書き直し
- [11]機構改革 各支店への業務課設置・社長室の新設・経理部の財務部への改称
- [12]開発分野の新設と、若手登用を含む180名の異動
- 日経ビジネス 1982年10月4日号 編集長インタビュー 村井勉氏
- [13]CI・QCの推進と酒類・飲料・食品・薬品の4分野展開の公言
社風を変える具体策として村井氏が選んだのは教育であった。研修によって徹底して鍛え直すことが急がば回れで最も早いとして、東西に研修所を作るよう命じている。東洋工業で空いていた独身寮に3億円をかけて泊まり込みの研修所を作り、部課長クラスが土日に自発的に集まる状態を生んだ経験がその根拠であった。同時に村井氏は特約店を回り続けた。回り始めは各地で会社への不満をぶつけられたが、やがてこうしてほしいという要望へ変わったという。特約店のなかには、先代の山本為三郎社長から届いた手紙を神棚に飾っている店が残っていた。人事では課長クラスと直接話す機会を増やし、中間層の活性化を再建の要点に置いた。
- 日経ビジネス 1982年10月4日号 編集長インタビュー 村井勉氏
- [14]教育を再建の決め手とする村井勉の判断
- [15]研修による鍛え直しを急がば回れとする研修所建設の指示
- [18]山本為三郎社長からの手紙を神棚に飾る特約店の存在
- [19]課長クラスとの直接対話による中間層の活性化
- 野田経済 1982年12月号 トップインタビュー 村井勉氏
- [16]東洋工業での独身寮への3億円投入による泊まり込み研修所の設置と部課長の自発的参加
- [17]全国行脚での不満から建設的意見への変化
参考文献[1]-[19]
- 日経ビジネス 1982年6月28日号 新社長登場
- [1]1982年3月 住友銀行副頭取 村井勉が朝日麦酒社長に就任
- 日経ビジネス 1982年10月4日号 編集長インタビュー 村井勉氏
- [2]村井勉の経歴 1942年東京商科大学卒・住友銀行入行、1976年東洋工業副社長へ出向、1980年専務として復帰、1981年副頭取
- [3]住友銀行を退社しての転身と「骨を埋める覚悟」
- [4]就任時のシェアが10%割れの瀬戸際にあったこと
- [5]シェア1%がビール7,000万本に相当すること
- [6]村井勉の第一手 まず社風を作り変えること
- [7]村井勉の診断 ビールも預金も足腰を強くして歩いて稼ぐしかない
- [13]CI・QCの推進と酒類・飲料・食品・薬品の4分野展開の公言
- [14]教育を再建の決め手とする村井勉の判断
- [15]研修による鍛え直しを急がば回れとする研修所建設の指示
- [18]山本為三郎社長からの手紙を神棚に飾る特約店の存在
- [19]課長クラスとの直接対話による中間層の活性化
- 野田経済 1982年12月号 トップインタビュー 村井勉氏
- [8]1982年7月 経営理念の制定
- [9]酒類・飲料・食品・薬品の四事業分野への限定と、消費者志向ほか六項目の行動規範
- [10]前年の訪米で見たジョンソン・エンド・ジョンソンの経営理念の明文化と10年ごとの書き直し
- [11]機構改革 各支店への業務課設置・社長室の新設・経理部の財務部への改称
- [12]開発分野の新設と、若手登用を含む180名の異動
- [16]東洋工業での独身寮への3億円投入による泊まり込み研修所の設置と部課長の自発的参加
- [17]全国行脚での不満から建設的意見への変化
1984年〜5,000人調査が変えた味の座標軸と、CIによる全面刷新
経営理念の次に来たのは、社内の運動と対外的な表示の作り替えであった。1984年1月、村井社長を推進本部長としてTQCの導入が宣言され、1985年10月にはCIの導入が宣言される。CI計画の主眼は、作り手の都合で良い品を作れば足りるという発想から、消費者の求める品を作る発想へ移ることにあった。下敷きは6年前に受けたまま社内で眠っていたマッキンゼーの診断で、村井氏がこれを読み返して経営の基本理念の基準に据えたもので、計画には全社員の公募で「ニューセンチュリー計画」という愛称がついた。とはいえ市場での後退は止まらず、1985年のシェアは9.6%と分割後の最低に落ちた。
- 高井紘一朗・大川洋史・岡倉徹「アサヒビール「太鼓判システム」の開発」赤門マネジメント・レビュー5巻6号(2006年6月)
- [20]1984年1月 TQC導入宣言(村井社長が推進本部長)
- [21]1985年10月 CI導入宣言
- [24]全社員から募ったCIの愛称「ニューセンチュリー計画」
- [25]1985年 分割後最低のシェア9.6%
- 中部財界 1987年 社長対談「アサヒビール樋口廣太郎社長に聞く――味とラベルで業界に先制パンチ!」
- [22]作り手中心から消費者志向への転換
- [23]6年前に受けたマッキンゼー診断の読み直しと経営基本理念の策定
味を変えるかどうかを決めたのは、社内の技術者ではなく消費者であった。消費者は、それまでビールの味の基準とされてきた苦みではなく、コクとキレという二つの軸で味を選んでいた。これを示したのは5,000人に今の味を変えるべきかを尋ねた詳細な調査で、84%が変えた方がよいと回答し、ビールの飲まれ方を決めるのはイメージや雰囲気だという業界の通念も否定された。酵母は中央研究所の酵母バンクにある数百種類から約30種類に絞り込み、試験醸造と試飲を重ねた末に登録番号508の酵母が残った。ラベルも、レイモンド・ローウィ氏が手がけた従来の意匠を改めた。世界の食品会社で味を変えて成功した例はないという。そのなかでの変更であった。
- ポケット社史「初めての味、最高の品質で快進撃(アサヒビール)」(1990年8月)
- [26]苦みに代わるコクとキレという味の評価軸の発見
- [28]「ビールはイメージや雰囲気で飲まれている」という通念の否定
- [29]数百種類の酵母から約30種類への絞り込みと、登録番号508酵母の選択
- 中部財界 1987年 社長対談「アサヒビール樋口廣太郎社長に聞く――味とラベルで業界に先制パンチ!」
- [27]5,000人への味の変更可否の調査と、84%が変更を支持
- [30]レイモンド・ローウィによる従来ラベルからの変更
- [31]食品会社が味を変えて成功した例が世界にないこと
1986年2月、新しいロゴとともに味とラベルを一新した「アサヒ生ビール」が売り出された。発売に先立って営業部門は前年末から既存商品の在庫を絞ったが、店頭の古い商品を全部なくすことはできなかった。そこで同年1月に顧問として入り3月に社長となる樋口廣太郎氏の指示で、発売当日に店頭の古いビールを値引きせずに買い上げて廃棄した。業界で初めての措置であり、これを見た酒販店が新製品をまとめて仕入れる動きにつながる。並行して「百万人大試飲キャンペーン」を展開し、アサヒを扱っていない小売店にも見本を送って営業担当が一軒ずつ訪ね歩いた。1986年のビール部門の売上高は前年比12%増と業界平均の3.9%増を大きく上回り、シェアは10.2%へ戻した。
- 高井紘一朗・大川洋史・岡倉徹「アサヒビール「太鼓判システム」の開発」赤門マネジメント・レビュー5巻6号(2006年6月)
- [32]1986年2月 新ロゴと「アサヒ生ビール」(通称コクキレビール)の発売
- [39]コクキレビールによるシェア下落の歯止めと1986年10.2%への回復
- ポケット社史「初めての味、最高の品質で快進撃(アサヒビール)」(1990年8月)
- [33]発売前年末からの既存商品の在庫圧縮と、店頭在庫を完全には解消できなかったこと
- [36]回収措置を受けた酒販店による新製品の仕入れ拡大
- [37]「百万人大試飲キャンペーン」と、未取扱店への見本送付・戸別訪問
- 日経ビジネス 1986年6月23日号 新社長登場
- [34]1986年1月に顧問、同年3月に社長となった樋口廣太郎
- 日経ビジネス 1988年2月15日号 編集長インタビュー 樋口廣太郎氏
- [35]古いビールを値引きせず買い上げ廃棄する業界初の措置
- 日経ビジネス 1987年7月20日号
- [38]1986年のビール部門売上高 前年比12%増(業界平均3.9%増)
参考文献[20]-[39]
- [20]1984年1月 TQC導入宣言(村井社長が推進本部長)
- [21]1985年10月 CI導入宣言
- [24]全社員から募ったCIの愛称「ニューセンチュリー計画」
- [25]1985年 分割後最低のシェア9.6%
- [32]1986年2月 新ロゴと「アサヒ生ビール」(通称コクキレビール)の発売
- [39]コクキレビールによるシェア下落の歯止めと1986年10.2%への回復
- 中部財界 1987年 社長対談「アサヒビール樋口廣太郎社長に聞く――味とラベルで業界に先制パンチ!」
- [22]作り手中心から消費者志向への転換
- [23]6年前に受けたマッキンゼー診断の読み直しと経営基本理念の策定
- [27]5,000人への味の変更可否の調査と、84%が変更を支持
- [30]レイモンド・ローウィによる従来ラベルからの変更
- [31]食品会社が味を変えて成功した例が世界にないこと
- ポケット社史「初めての味、最高の品質で快進撃(アサヒビール)」(1990年8月)
- [26]苦みに代わるコクとキレという味の評価軸の発見
- [28]「ビールはイメージや雰囲気で飲まれている」という通念の否定
- [29]数百種類の酵母から約30種類への絞り込みと、登録番号508酵母の選択
- [33]発売前年末からの既存商品の在庫圧縮と、店頭在庫を完全には解消できなかったこと
- [36]回収措置を受けた酒販店による新製品の仕入れ拡大
- [37]「百万人大試飲キャンペーン」と、未取扱店への見本送付・戸別訪問
- 日経ビジネス 1986年6月23日号 新社長登場
- [34]1986年1月に顧問、同年3月に社長となった樋口廣太郎
- 日経ビジネス 1988年2月15日号 編集長インタビュー 樋口廣太郎氏
- [35]古いビールを値引きせず買い上げ廃棄する業界初の措置
- 日経ビジネス 1987年7月20日号
- [38]1986年のビール部門売上高 前年比12%増(業界平均3.9%増)
1987年〜スーパードライへの傾斜生産と供給の逼迫
1987年3月、辛口の生ビール「アサヒスーパードライ」が発売された。免許制の寡占のもとで4社の味は似通い、目隠しで飲めば銘柄を当てられないというのが樋口氏の見立てで、中身で差をつけるほかないとして12種類の試作ビールを消費者に試飲させていた。シェアが10%を割れば、10軒のうち5〜6軒の店頭から商品が消える。1986年の社長就任時、東京都内でアサヒを扱う店は47%にとどまっていた。もっとも樋口氏自身は当初この新商品に否定的で、担当部長二人が粘って製品化にこぎつけている。年間の販売計画は100万箱であったが、6月末の時点で既に300万箱を売り、計画は800万箱へ引き上げられた。
- 日経ビジネス 1987年7月20日号
- [40]1987年3月 辛口の生ビール「アサヒスーパードライ」発売
- [45]年間計画100万箱に対し6月末に300万箱販売、計画を800万箱へ上方修正
- 日経ビジネス 1988年2月15日号 編集長インタビュー 樋口廣太郎氏
- [41]免許制の寡占で4社の味が似通う状況と、12種類の試作ビールによる消費者試飲
- [42]シェア10%割れで10軒のうち5〜6軒の店頭から商品が消えること
- [43]1986年の樋口社長就任時 東京都内のアサヒ取扱店47%
- 中部財界 1987年 社長対談「アサヒビール樋口廣太郎社長に聞く――味とラベルで業界に先制パンチ!」
- [44]社長の否定的な当初判断と、担当部長二人の粘りによる製品化
急な需要の振れを受け止めたのは物流部門であった。オンライン網に加え、北海道を除く全国5ブロックに物流主管支店を置き、管内の支店の注文をまとめて管轄地域の工場へ発注する形をとる。各支店が個別に強気の注文を出して在庫が偏る事態を防ぐためである。スーパードライでは首都圏の伸びが突出したため、本社物流部は東京工場を同製品の製造に専念させ、ほかのビールをブロック外の工場から運んだ。1985年に始めた鮮度管理では、一定期間を過ぎた製品を販売せず、工場での在庫期間を最長3日とした。全国650人の営業担当を補うため主婦を中心に300人を雇い、店頭で古い商品を前へ出す作業と自動販売機への補充を担わせている。設備投資も一変し、年に1,000万円程度だった工場の予算は億単位となり、設備能力はコクキレビールのときの3倍になった。
- 日経ビジネス 1987年7月20日号
- [46]全国5ブロックの物流主管支店制度による注文の集約と工場への発注
- [47]支店ごとの強気の発注による在庫の偏りを防ぐ目的
- [48]東京工場をスーパードライ製造に全力投入し他のビールはブロック外工場から輸送
- [49]1985年導入のフレッシュローテーションと工場在庫期間の最長3日
- [50]営業担当650人と、主婦中心のパート300人による店頭の先入れ後出し・自販機補充
- ポケット社史「初めての味、最高の品質で快進撃(アサヒビール)」(1990年8月)
- [51]工場の設備投資が年1,000万円程度から億単位へ拡大し設備能力がコクキレビール時の3倍に
1988年、5割増産の体制で臨んだにもかかわらず、スーパードライは各地で品切れとなった。連休前から営業所には問い合わせの電話が鳴り続け、予定していた店頭試飲会は中止される。6月には樋口氏の名前で全国の酒販店と問屋へ詫び状が配られ、同じ内容の広告が新聞にも載った。6月下旬にはラガービールの製造中止を発表してスーパードライへの傾斜生産をさらに進めたが、品不足は解消しなかった。単体の売上高は1986年12月期の2,593億円から1988年12月期の5,448億円へ膨らみ、シェアは1987年の12.9%から1988年の20.6%へ上がっている。作れば売れる状態は、売る仕組みを作り直してきた6年の末に訪れたのだろう。
- ポケット社史「初めての味、最高の品質で快進撃(アサヒビール)」(1990年8月)
- [52]1988年 5割増産にもかかわらずスーパードライが品切れ
- [53]営業所への問い合わせ殺到と店頭試飲会の中止
- [54]1988年6月 樋口社長名の詫び状の配布と新聞へのおわび広告掲載
- [55]1988年6月下旬 ラガービールの製造中止発表とスーパードライへの傾斜生産
- アサヒビール 社史『Asahi100』(単体業績)
- [56]単体売上高 1986年12月期2,593億円・1988年12月期5,448億円
- 日経ビジネス 1990年6月18日号 特集
- [57]シェア 1987年12.9%・1988年20.6%
参考文献[40]-[57]
- 日経ビジネス 1987年7月20日号
- [40]1987年3月 辛口の生ビール「アサヒスーパードライ」発売
- [45]年間計画100万箱に対し6月末に300万箱販売、計画を800万箱へ上方修正
- [46]全国5ブロックの物流主管支店制度による注文の集約と工場への発注
- [47]支店ごとの強気の発注による在庫の偏りを防ぐ目的
- [48]東京工場をスーパードライ製造に全力投入し他のビールはブロック外工場から輸送
- [49]1985年導入のフレッシュローテーションと工場在庫期間の最長3日
- [50]営業担当650人と、主婦中心のパート300人による店頭の先入れ後出し・自販機補充
- 日経ビジネス 1988年2月15日号 編集長インタビュー 樋口廣太郎氏
- [41]免許制の寡占で4社の味が似通う状況と、12種類の試作ビールによる消費者試飲
- [42]シェア10%割れで10軒のうち5〜6軒の店頭から商品が消えること
- [43]1986年の樋口社長就任時 東京都内のアサヒ取扱店47%
- 中部財界 1987年 社長対談「アサヒビール樋口廣太郎社長に聞く――味とラベルで業界に先制パンチ!」
- [44]社長の否定的な当初判断と、担当部長二人の粘りによる製品化
- ポケット社史「初めての味、最高の品質で快進撃(アサヒビール)」(1990年8月)
- [51]工場の設備投資が年1,000万円程度から億単位へ拡大し設備能力がコクキレビール時の3倍に
- [52]1988年 5割増産にもかかわらずスーパードライが品切れ
- [53]営業所への問い合わせ殺到と店頭試飲会の中止
- [54]1988年6月 樋口社長名の詫び状の配布と新聞へのおわび広告掲載
- [55]1988年6月下旬 ラガービールの製造中止発表とスーパードライへの傾斜生産
- アサヒビール 社史『Asahi100』(単体業績)
- [56]単体売上高 1986年12月期2,593億円・1988年12月期5,448億円
- 日経ビジネス 1990年6月18日号 特集
- [57]シェア 1987年12.9%・1988年20.6%
筆者考察
アサヒビールの再建は、味を変える前に、誰の意見で味を決めるかを変えるところから始まった。1985年の調査で5,000人のうち84%が味の変更を支持したという事実よりも、技術者が選んだものを消費者に飲んでもらう順序を、消費者が選んだものを技術者が作る順序へ入れ替えた点が効いている。508酵母も、コクとキレという座標軸も、その入れ替えから出てきた答えであった。村井勉氏が1982年に社風の作り替えを第一手に置き、教育と研修所から始めたのは遠回りに見えるが、決める人を替えなければ順序は替わらない。6年前のマッキンゼーの診断が社内で眠っていたのも、読む人がいなかったからではなく、読んで動かす立場が定まっていなかったからだろう。
もう一つの条件は、売り切る仕組みが先にできていたことである。1977年に本社と20支店・7工場を回線で結び、1985年には工場の在庫を最長3日に抑える鮮度管理を入れ、物流部門に需給の調整を担わせていた。だからスーパードライの需要が年間計画の8倍へ膨らんだとき、東京工場を1製品へ寄せ、他のビールを別ブロックの工場から運ぶ判断が通った。1988年の品切れと詫び広告は失態ではあるが、シェア10%割れの瀬戸際で店頭から消えかけていた会社が、作っても足りない側へ回ったことの裏返しでもある。単体売上高が1986年12月期の2,593億円から1988年12月期の5,448億円へ2倍を超えて伸びたのは、味を変えたからというより、変えた味を切らさずに店頭へ届け続けられたからだろう。
- 単体の売上高。出所はアサヒビール 社史『Asahi100』。
1982年〜1988年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1982年12月期 | 単体 | 2,018 | n/a | 21 | 13 | 0.6% | n/a |
| 1983年12月期 | 単体 | 2,147 | +6.4% | 24 | 13 | 0.6% | n/a |
| 1984年12月期 | 単体 | 2,243 | +4.5% | 28 | 13 | 0.6% | n/a |
| 1985年12月期 | 単体 | 2,363 | +5.3% | n/a | 13 | 0.6% | n/a |
| 1986年12月期 | 単体 | 2,593 | +9.7% | n/a | 15 | 0.6% | n/a |
| 1987年12月期 | 単体 | 3,451 | +33.1% | n/a | 25 | 0.7% | n/a |
| 1988年12月期 | 単体 | 5,448 | +57.9% | n/a | 47 | 0.9% | アサヒビール飲料製造を設立(1988/10) |
出所:Asahi 100
出典・参考
11件
- アサヒビール 社史『Asahi100』(単体業績)
- ポケット社史「初めての味、最高の品質で快進撃(アサヒビール)」(1990年8月)
- 日経ビジネス 1982年6月28日号 新社長登場
- 日経ビジネス 1982年10月4日号 編集長インタビュー 村井勉氏
- 野田経済 1982年12月号 トップインタビュー 村井勉氏
- 日経ビジネス 1986年6月23日号 新社長登場
- 日経ビジネス 1987年7月20日号
- 日経ビジネス 1988年2月15日号 編集長インタビュー 樋口廣太郎氏
- 日経ビジネス 1990年6月18日号 特集
- 高井紘一朗・大川洋史・岡倉徹「アサヒビール「太鼓判システム」の開発」赤門マネジメント・レビュー5巻6号(2006年6月)
- 中部財界 1987年 社長対談「アサヒビール樋口廣太郎社長に聞く――味とラベルで業界に先制パンチ!」