アサヒグループHD:朝日麦酒の発足と国内ビールシェア3位
大日本麦酒の業務用販路の継承によるキリンへの地位逆転
1949年〜四工場と二つのブランドで始まった朝日麦酒
1949年9月、大日本麦酒が過度経済力集中排除法の適用を受けて二社に分割され、その一方の受け皿として資本金1億円の朝日麦酒が発足した。生産設備として吾妻橋・吹田・西宮・博多の四工場を、主要ブランドとしてアサヒビールと三ツ矢サイダーを継承し、初代社長には山本為三郎氏が就任した。当初の生産能力は四工場合わせてビール約52万石・清涼飲料63万函。ただし四工場のうち吹田・西宮・博多の三つは西日本にあり、分割で活動地盤が西日本に偏ったうえ、消費の主戦場が料飲店から一般家庭へ移る需要構造の変化にも対応できなかった。工場の立地からみて関西が発祥である以上、主製品であるビールの販売地域も西へ偏っており、分離を機にようやく全国へ広げる段階にあった。
- アサヒグループHD 有価証券報告書【沿革】
- [1]1949年9月 大日本麦酒が過度経済力集中排除法で二社に分割
- [3]継承した生産設備 吾妻橋・吹田・西宮・博多の四工場
- [4]継承した主要ブランド アサヒビールと三ツ矢サイダー
- 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968年)
- [2]分割で発足した朝日麦酒の資本金 1億円
- [5]朝日麦酒の初代社長 山本為三郎
- [6]発足時の生産能力 ビール約52万石・清涼飲料63万函
- 高井紘一朗・大川洋史・岡倉徹「アサヒビール「太鼓判システム」の開発」赤門マネジメント・レビュー5巻6号(2006年6月)
- [7]分割による活動地盤の西日本偏重と、料飲店から一般家庭への主戦場移行への未対応
- 『会社銀行八十年史』第2篇 日本会社史「朝日麦酒」(1955年)
- [8]関西発祥の立地によるビール販売地域の西日本偏在と、分離を機とした全国への拡大
発足した朝日麦酒がまず着手したのは、戦時中ほとんど行われなかった設備の改修と、新設の並行であった。博多と業平に飲料水工場を、西宮に麦芽工場を建て、その固定資金と増加運転資金を相次ぐ増資でまかなった。資本金は1950年11月の2億4,000万円、1951年11月の7億2,000万円、1953年7月の14億6,000万円と積み上がり、1955年初めの生産能力はビール年産105万石・清涼飲料700万函、分離設立当時の51万5,000石・210万函に対して二倍から三倍以上へ向上した。1951年11月には米国ジェネラル・フーヅとバヤリース・オレンヂジュース、クリフォード・ウィルキンソン・タンサン鉱泉とウィルキンソン・タンサンについて国内一手販売契約を結び、自社の販売網へ他社の商品を載せている。
- 『会社銀行八十年史』第2篇 日本会社史「朝日麦酒」(1955年)
- [9]戦時中に行われなかった設備改修と新設の並行実施
- [10]新設した博多・業平の飲料水工場と西宮の麦芽工場
- [12]1955年初の生産能力 ビール年産105万石・清涼飲料700万函(分離設立時は51万5,000石・210万函)
- [13]1951年11月 ジェネラル・フーヅとバヤリース・オレンヂジュース、ウィルキンソン・タンサン鉱泉とウィルキンソン・タンサンの国内一手販売契約
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「朝日麦酒」
- [11]資本金の推移 1950年11月2億4,000万円・1951年11月7億2,000万円・1953年7月14億6,000万円
1957年に出た特製ビール・アサヒゴールドは"技術のアサヒ"の評判を押し上げた。この製品は、戦後の日本でビールの品質を本格的に改良していく最初の一歩に位置づけられる。1958年には国内で初めて缶入りのビールを売り出し、新たな需要を掘り起こしにかかった。1964年のアサヒスタイニーは、家庭での飲用という新しい需要を切り開いた。1965年には屋外醗酵貯酒タンクを自社の力だけで開発して据え付け、品質の安定と製造原価の引き下げに役立てた。このタンクは日本・アメリカ・ベルギーで特許を得たうえ、西ドイツの醸造機械メーカーであるチーマンと特許の実施許諾契約を結ぶに至り、国内初の技術輸出となった。いずれも創立以来積み重ねた技術革新の成果であり、朝日麦酒はこうして新製品を次々に市場へ出していった。酒類の品目を拡大する一手として、1954年8月にはニッカウヰスキーへ資本参加している。
- 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968年)
- [14]1957年 特製ビール・アサヒゴールド発売と「技術のアサヒ」
- [15]1958年 本邦初の缶入ビール発売
- [16]1964年 アサヒスタイニー発売による家庭需要の拡大
- [17]1965年 屋外醗酵貯酒タンクの独力開発・設置と品質安定化・製造原価低減
- [18]日本・アメリカ・ベルギーでの特許取得とチーマンへの特許実施許諾(本邦初の技術輸出)
- [19]創立以来の技術革新の成果としての新製品の連続発売
- アサヒグループHD 有価証券報告書【沿革】
- [20]1954年8月 ニッカウヰスキーへ資本参加
参考文献[1]-[20]
- アサヒグループHD 有価証券報告書【沿革】
- [1]1949年9月 大日本麦酒が過度経済力集中排除法で二社に分割
- [3]継承した生産設備 吾妻橋・吹田・西宮・博多の四工場
- [4]継承した主要ブランド アサヒビールと三ツ矢サイダー
- [20]1954年8月 ニッカウヰスキーへ資本参加
- 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968年)
- [2]分割で発足した朝日麦酒の資本金 1億円
- [5]朝日麦酒の初代社長 山本為三郎
- [6]発足時の生産能力 ビール約52万石・清涼飲料63万函
- [14]1957年 特製ビール・アサヒゴールド発売と「技術のアサヒ」
- [15]1958年 本邦初の缶入ビール発売
- [16]1964年 アサヒスタイニー発売による家庭需要の拡大
- [17]1965年 屋外醗酵貯酒タンクの独力開発・設置と品質安定化・製造原価低減
- [18]日本・アメリカ・ベルギーでの特許取得とチーマンへの特許実施許諾(本邦初の技術輸出)
- [19]創立以来の技術革新の成果としての新製品の連続発売
- [7]分割による活動地盤の西日本偏重と、料飲店から一般家庭への主戦場移行への未対応
- 『会社銀行八十年史』第2篇 日本会社史「朝日麦酒」(1955年)
- [8]関西発祥の立地によるビール販売地域の西日本偏在と、分離を機とした全国への拡大
- [9]戦時中に行われなかった設備改修と新設の並行実施
- [10]新設した博多・業平の飲料水工場と西宮の麦芽工場
- [12]1955年初の生産能力 ビール年産105万石・清涼飲料700万函(分離設立時は51万5,000石・210万函)
- [13]1951年11月 ジェネラル・フーヅとバヤリース・オレンヂジュース、ウィルキンソン・タンサン鉱泉とウィルキンソン・タンサンの国内一手販売契約
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「朝日麦酒」
- [11]資本金の推移 1950年11月2億4,000万円・1951年11月7億2,000万円・1953年7月14億6,000万円
1960年〜業務用に偏った販路と、家庭へ移った主戦場
朝日麦酒が旧大日本麦酒から受け継いだのは、設備と商標だけではなかった。分割時の1949年当時、ビールの需要は業務用が8割・家庭用が2割で、旧大日本麦酒の販売はその業務用に依っていた。料飲店を押さえることが市場を押さえることと同義だった時代の型であり、朝日麦酒とサッポロビールは業務用でしのぎを削った。これに対し、業務用へ入り込めずに苦しんだキリンビールは、家庭向けの小売へ営業を振り向けていた。ところが高度成長とともに需要の比率は反転し、のちには家庭用が8割・業務用が2割となる。消費の主戦場が料飲店から一般家庭へ移る構造の変化に、朝日麦酒は乗り遅れた。
- 中部財界 1987年 社長対談「アサヒビール樋口廣太郎社長に聞く――味とラベルで業界に先制パンチ!」
- [21]1949年当時のビール需要 業務用8・家庭用2の比率
- [22]旧大日本麦酒の業務用中心の販売体質
- [23]業務用市場での朝日麦酒とサッポロの競合
- [24]業務用に入れなかったキリンの家庭向け小売への注力
- [25]需要比率の反転 家庭用8・業務用2
- 高井紘一朗・大川洋史・岡倉徹「アサヒビール「太鼓判システム」の開発」赤門マネジメント・レビュー5巻6号(2006年6月)
- [26]料飲店から一般家庭への主戦場移行への未対応
1953年から1954年にかけて新工場の建設が計画されたのは、関東・東北の需要に応えるのに吾妻橋工場だけでは足りなくなると見込んだためである。分割で背負った西日本偏重を正す手として早くから検討されていたもので、東京都内の亀戸に年産20万石の工場を建てる案が内定し、1955年9月に主務当局の認可も得た。ただし実際に動き出したのは1962年5月の東京大森工場だった。翌1963年3月末には工場が吾妻橋・大森・吹田・西宮・博多の五つとなり、従業員は3,489人を数えた。この間に増資も重ね、1959年12月に28億円だった資本金は1962年11月には67億2,000万円に達した。ところが売上の伸びに利益は伴わず、売上高に対する税込利益の比率は1959年12月期の3.2%から1962年12月期の2.6%へ下がった。
- 『会社銀行八十年史』第2篇 日本会社史「朝日麦酒」(1955年)
- [27]関東・東北の需要への対応として亀戸に年産20万石の新工場を計画し1955年9月に認可
- アサヒグループHD 有価証券報告書【沿革】
- [28]1962年5月 東京大森工場完成
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「朝日麦酒」
- [29]1963年3月末 従業員3,489人・吾妻橋/大森/吹田/西宮/博多の五工場
- [30]資本金 1959年12月28億円・1962年11月67億2,000万円
- [31]売上高に対する税込利益の比率 1959年12月期3.2%・1962年12月期2.6%
ビールは特約店を経て小売店へ流れ、キリンはキリンの問屋、サッポロはサッポロの問屋、朝日麦酒は朝日麦酒の問屋という系列で売られていた。特約店との結びつきは属人的で、山本為三郎社長の手紙を1980年代に至るまで神棚に飾る店が残っていた。その系列に穴を開けたのが、ビール市場へ後から参入したサントリーであった。苦境に立ったサントリーに対し、大阪財界のかねての要望を受けた山本社長の判断で、朝日麦酒は自社の問屋へサントリー製品の取り扱いを開放した。当初は10分の1の扱いで始まったが、小売店はサントリーのウイスキーを仕入れるためにそのビールも置くようになる。朝日麦酒とサントリーのシェアを合わせてようやくサッポロに並ぶ状態となり、その間に伸びたのはキリンだけであった。
- 中部財界 1987年 社長対談「アサヒビール樋口廣太郎社長に聞く――味とラベルで業界に先制パンチ!」
- [32]ビール各社が自社系列の問屋を通じて販売する流通構造
- [34]大阪財界の要望を受けた山本社長の判断によるサントリーへの問屋開放
- [35]10分の1からの扱い開始と、ウイスキー仕入れを目的とした小売店のビール併売
- [36]朝日麦酒とサントリーの合計でサッポロ並みとなり、その間に伸びたのはキリンのみ
- 日経ビジネス 1982年10月4日号 編集長インタビュー 村井勉氏
- [33]山本為三郎社長からの手紙を神棚に飾る特約店の存在
参考文献[21]-[36]
- 中部財界 1987年 社長対談「アサヒビール樋口廣太郎社長に聞く――味とラベルで業界に先制パンチ!」
- [21]1949年当時のビール需要 業務用8・家庭用2の比率
- [22]旧大日本麦酒の業務用中心の販売体質
- [23]業務用市場での朝日麦酒とサッポロの競合
- [24]業務用に入れなかったキリンの家庭向け小売への注力
- [25]需要比率の反転 家庭用8・業務用2
- [32]ビール各社が自社系列の問屋を通じて販売する流通構造
- [34]大阪財界の要望を受けた山本社長の判断によるサントリーへの問屋開放
- [35]10分の1からの扱い開始と、ウイスキー仕入れを目的とした小売店のビール併売
- [36]朝日麦酒とサントリーの合計でサッポロ並みとなり、その間に伸びたのはキリンのみ
- [26]料飲店から一般家庭への主戦場移行への未対応
- 『会社銀行八十年史』第2篇 日本会社史「朝日麦酒」(1955年)
- [27]関東・東北の需要への対応として亀戸に年産20万石の新工場を計画し1955年9月に認可
- アサヒグループHD 有価証券報告書【沿革】
- [28]1962年5月 東京大森工場完成
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「朝日麦酒」
- [29]1963年3月末 従業員3,489人・吾妻橋/大森/吹田/西宮/博多の五工場
- [30]資本金 1959年12月28億円・1962年11月67億2,000万円
- [31]売上高に対する税込利益の比率 1959年12月期3.2%・1962年12月期2.6%
- 日経ビジネス 1982年10月4日号 編集長インタビュー 村井勉氏
- [33]山本為三郎社長からの手紙を神棚に飾る特約店の存在
1966年〜四位争いまで落ちた市場での地位
生産設備はその後も増え続けたが、市場での地位はそれと逆の方向へ動いていった。1966年12月には飲料専用の柏工場が稼働したものの、生産能力の増強に販売数量が追いつかず、キリンビールとの差は開く一方であった。国内ビール市場の出荷量シェアは、1949年のアサヒ36.1%・キリン25.3%から1963年にはアサヒ24.3%・キリン46.5%へ入れ替わり、同年はサッポロの26.3%も下回って業界3位に落ちた。低落はその後も止まらず、1983年のアサヒは10.2%、キリンは61.3%であった。分割から1985年までに日本のビール消費は約35倍に膨らんだ一方、朝日麦酒の販売量は9倍にとどまった。
- アサヒグループHD 有価証券報告書【沿革】
- [37]1966年12月 柏工場(飲料専用工場)完成
- 『純生の挑戦』(二宮, 1968)
- [38]1949年の出荷量シェア アサヒ36.1%・キリン25.3%
- [39]1963年の出荷量シェア アサヒ24.3%・キリン46.5%
- [40]1963年 サッポロ26.3%を下回り業界3位
- 『洋酒・ビール 比較日本の会社』(海藤, 1985)
- [41]1983年の出荷量シェア アサヒ10.2%・キリン61.3%
- 高井紘一朗・大川洋史・岡倉徹「アサヒビール「太鼓判システム」の開発」赤門マネジメント・レビュー5巻6号(2006年6月)
- [42]1949年から1985年にビール消費 約35倍に対し朝日麦酒の販売量 9倍
ビール以外の柱を作る試みは、発足の直後から続いていた。1951年に一手販売を引き受けたバヤリース・オレンヂジュースとウィルキンソン・タンサンは自社の販売網に載り、清涼飲料では業界第1位の地位を得た。1954年に資本参加したニッカウヰスキーは持株比率65.0%の関係会社となり、ほかに大日本ビタミン製薬・新日本硝子・朝日運送を全額出資で抱えた。それでも1964年時点の販売比率はビール91%・清涼飲料9%、輸出は販売高の8%程度にとどまり、収益の源はビール部門にあった。柱を増やしても、ビール市場での地位が下がればそのまま会社の業績に響く構造は動かなかった。
- 『会社銀行八十年史』第2篇 日本会社史「朝日麦酒」(1955年)
- [43]バヤリース・オレンヂジュースとウィルキンソン・タンサンの自社販売網での市販開始
- [48]収益源がビール部門にあること
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「朝日麦酒」
- [44]清涼飲料での業界第1位
- [45]ニッカウヰスキーの持株比率65.0%と、大日本ビタミン製薬・新日本硝子・朝日運送の全額出資
- [46]1964年時点の販売比率 ビール91%・清涼飲料9%
- [47]販売高の8%程度の輸出
巻き返しの土台として先に手が付いたのは、情報の流れであった。1977年、本社と20の支店、7つの工場をオンラインで結び、荷動きから生産と販売の状況をつかめる仕組みを整えた。需給の調整をより早く正確に行うためで、ビール業界のなかでは早い着手であった。一方で原価の側は動かせなかった。国内の農家保護を目的に国産の麦とホップの購入が義務づけられており、その割合は業界で朝日麦酒が最も高く、国産麦は輸入麦の6倍、ホップは2.5倍の値段であった。市場での地位は3位とされたが、実際にはサントリーとどちらが4位になるかという水準まで落ちていた。仕組みを整えても、売れる商品がなければ在庫は動かない。
- 日経ビジネス 1987年7月20日号
- [49]1977年 本社と20支店・7工場のオンライン接続
- [50]需給調整の迅速化を目的とした業界内で早期の情報網整備
- 中部財界 1987年 社長対談「アサヒビール樋口廣太郎社長に聞く――味とラベルで業界に先制パンチ!」
- [51]国産麦・ホップの購入義務と、業界最大の使用割合・輸入麦の6倍/ホップ2.5倍の価格
- [52]3位とされながら実際はサントリーとの4位争いに至っていた市場地位
参考文献[37]-[52]
- アサヒグループHD 有価証券報告書【沿革】
- [37]1966年12月 柏工場(飲料専用工場)完成
- 『純生の挑戦』(二宮, 1968)
- [38]1949年の出荷量シェア アサヒ36.1%・キリン25.3%
- [39]1963年の出荷量シェア アサヒ24.3%・キリン46.5%
- [40]1963年 サッポロ26.3%を下回り業界3位
- 『洋酒・ビール 比較日本の会社』(海藤, 1985)
- [41]1983年の出荷量シェア アサヒ10.2%・キリン61.3%
- [42]1949年から1985年にビール消費 約35倍に対し朝日麦酒の販売量 9倍
- 『会社銀行八十年史』第2篇 日本会社史「朝日麦酒」(1955年)
- [43]バヤリース・オレンヂジュースとウィルキンソン・タンサンの自社販売網での市販開始
- [48]収益源がビール部門にあること
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「朝日麦酒」
- [44]清涼飲料での業界第1位
- [45]ニッカウヰスキーの持株比率65.0%と、大日本ビタミン製薬・新日本硝子・朝日運送の全額出資
- [46]1964年時点の販売比率 ビール91%・清涼飲料9%
- [47]販売高の8%程度の輸出
- 日経ビジネス 1987年7月20日号
- [49]1977年 本社と20支店・7工場のオンライン接続
- [50]需給調整の迅速化を目的とした業界内で早期の情報網整備
- 中部財界 1987年 社長対談「アサヒビール樋口廣太郎社長に聞く――味とラベルで業界に先制パンチ!」
- [51]国産麦・ホップの購入義務と、業界最大の使用割合・輸入麦の6倍/ホップ2.5倍の価格
- [52]3位とされながら実際はサントリーとの4位争いに至っていた市場地位
筆者考察
朝日麦酒が四半世紀かけて失ったのは、技術でも設備でもなく、売る相手だった。分割で受け継いだ販路は料飲店に厚く、1949年当時のビール需要は業務用が8割を占めていた。ところが消費の場は家庭へ移り、のちには家庭用が8割へ反転する。業務用に入り込めず家庭向けの小売へ回っていたキリンビールは、結果としてこの移動の先に立っていたことになる。1949年に36.1%だったアサヒの出荷量シェアが1963年に24.3%へ落ち、同じ年にキリンが46.5%へ伸びたのは、どちらの営業が優れていたかではなく、どちらが伸びる場所に網を張っていたかの差であった。料飲店を押さえれば市場を押さえられた時代の型が、そのまま残ったのである。
その間、会社は資本を積むことをやめていない。資本金は1949年の1億円から1962年の67億2,000万円まで九度の増資で膨らみ、工場は四つから五つになった。本邦初の缶ビールも、日本・アメリカ・ベルギーで特許となった屋外醗酵貯酒タンクも、この時期の産物である。それでも売上高に対する税込利益の比率は1959年12月期の3.2%から1962年12月期の2.6%へ下がった。増やした能力を売り切れないまま固定費だけが残る形である。清涼飲料で業界第1位を取り、ニッカウヰスキーを傘下に置いても、販売の91%がビールである以上、ビール市場での地位の低下はそのまま会社の姿になった。
- 各回の払込期日時点の資本金。出所はダイヤモンド会社産業総覧 1964年版【資本異動】。
1949年〜1981年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年12月期 | 単体 | 508 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年12月期 | 単体 | 686 | +35.0% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年12月期 | 単体 | 728 | +6.1% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年12月期 | 単体 | 763 | +4.8% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年12月期 | 単体 | 939 | +23.1% | n/a | n/a | n/a | 北海道朝日麦酒を共同出資で設立(1964/04) |
| 1965年12月期 | 単体 | 891 | ▲5.1% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年12月期 | 単体 | 893 | +0.2% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年12月期 | 単体 | 1,007 | +12.8% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年12月期 | 単体 | 1,016 | +0.9% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年12月期 | 単体 | 1,065 | +4.8% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年12月期 | 単体 | 1,080 | +1.4% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年12月期 | 単体 | 1,022 | ▲5.4% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年12月期 | 単体 | 1,108 | +8.4% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年12月期 | 単体 | 1,247 | +12.5% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1974年12月期 | 単体 | 1,244 | ▲0.2% | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1975年12月期 | 単体 | 1,456 | +17.0% | 30 | 14 | 1.0% | n/a |
| 1976年12月期 | 単体 | 1,437 | ▲1.3% | 34 | 16 | 1.1% | n/a |
| 1977年12月期 | 単体 | 1,639 | +14.1% | 42 | 17 | 1.0% | n/a |
| 1978年12月期 | 単体 | 1,837 | +12.1% | 52 | 25 | 1.4% | n/a |
| 1979年12月期 | 単体 | 1,810 | ▲1.5% | 28 | 15 | 0.8% | n/a |
| 1980年12月期 | 単体 | 1,852 | +2.3% | 32 | 15 | 0.8% | n/a |
| 1981年12月期 | 単体 | 1,984 | +7.1% | 34 | 13 | 0.7% | n/a |
出所:Asahi 100
出典・参考
10件
- アサヒグループHD 有価証券報告書【沿革】
- 『会社銀行八十年史』第2篇 日本会社史「朝日麦酒」(1955年)
- 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968年)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「朝日麦酒」
- 日経ビジネス 1982年10月4日号 編集長インタビュー 村井勉氏
- 日経ビジネス 1987年7月20日号
- 高井紘一朗・大川洋史・岡倉徹「アサヒビール「太鼓判システム」の開発」赤門マネジメント・レビュー5巻6号(2006年6月)
- 『純生の挑戦』(二宮, 1968)
- 『洋酒・ビール 比較日本の会社』(海藤, 1985)
- 中部財界 1987年 社長対談「アサヒビール樋口廣太郎社長に聞く――味とラベルで業界に先制パンチ!」