山崎製パン:飯島藤十郎の山崎製パン所開業と東証上場
1948年〜市川の委託加工で始めた山崎製パン所と、敷島製パンに倣った1割マージンの卸売
飯島藤十郎氏は1948年3月9日、千葉県市川市国府台に委託加工の店として山崎製パン所を開業した。元手は、1947年のキャサリン台風の後に集めた濡れわらを農家へ渡し、現金ではなく小麦で受け取った30俵余りである。飯島藤十郎氏は当時、開拓地の農業組合の理事として、組合が農林省斡旋の設備で営む東台パンの委託加工にも関わっていた。店は12坪の土地に弾薬庫の古材を移して建てたもので、窯は天板8枚を入れる1基である。1927年から2年半勤めた新宿の中村屋で、創業者の相馬愛蔵氏が説いた良い品を安く売る方針を学び、飯島藤十郎氏はこれを開業の心構えに据えた。統制下で配給の粉を預かって焼く委託加工なら、手持ちの小麦と小さな窯だけで商売を始められたとみられる。
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [1]1948年3月9日、市川市国府台で山崎製パン所(委託加工所)開業。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。東台農業実行組合の理事として東台パンの委託加工に関与。中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした
- [2]1948年3月9日、市川市国府台で山崎製パン所(委託加工所)開業。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。東台農業実行組合の理事として東台パンの委託加工に関与。中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした
- [3]1948年3月9日、市川市国府台で山崎製パン所(委託加工所)開業。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。東台農業実行組合の理事として東台パンの委託加工に関与。中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした
- [5]1948年3月9日、市川市国府台で山崎製パン所(委託加工所)開業。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。東台農業実行組合の理事として東台パンの委託加工に関与。中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした
- 野田経済 1963年8月5日号 明石達夫・飯島藤十郎
- [4]12坪の工場を弾薬庫の古材で建て、8枚入る窯で開始
1948年6月21日、飯島藤十郎氏は兄弟を発起人として資本金100万円の山崎製パン株式会社を設立し、社長に就任した。粉と引き換えにその場で温かいパンを渡すと看板に掲げると、店の前には国府台駅の近くまで3列の行列ができた。即時の引き換えが客を呼んだのは、預かった粉を3、4日後にパンで返すのが当時の同業の常だったためである。製品は委託加工のコッペパンから、あんパン・ジャムパン・クリームパンへ広がった。1949年に和菓子部、1950年に洋菓子部を設け、品目を増やした。1949年9月に京成八幡駅前、同年11月に真間へ直営店を開設。1951年1月にパンの配給がフリークーポン制に移ると、客は粉を持ち込む店を選べるようになり、評判のある店へ需要が集まった。
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [6]1948年6月21日、資本金100万円で山崎製パン株式会社設立、社長飯島藤十郎。「粉と引き換えに温かいパン」の看板で行列。コッペパンからあんパン等へ拡大。1949年9月八幡、11月真間に直営店。1951年1月フリークーポン制で委託加工店を選べるように
- [7]1948年6月21日、資本金100万円で山崎製パン株式会社設立、社長飯島藤十郎。「粉と引き換えに温かいパン」の看板で行列。コッペパンからあんパン等へ拡大。1949年9月八幡、11月真間に直営店。1951年1月フリークーポン制で委託加工店を選べるように
- [9]1948年6月21日、資本金100万円で山崎製パン株式会社設立、社長飯島藤十郎。「粉と引き換えに温かいパン」の看板で行列。コッペパンからあんパン等へ拡大。1949年9月八幡、11月真間に直営店。1951年1月フリークーポン制で委託加工店を選べるように
- [11]1948年6月21日、資本金100万円で山崎製パン株式会社設立、社長飯島藤十郎。「粉と引き換えに温かいパン」の看板で行列。コッペパンからあんパン等へ拡大。1949年9月八幡、11月真間に直営店。1951年1月フリークーポン制で委託加工店を選べるように
- [12]1948年6月21日、資本金100万円で山崎製パン株式会社設立、社長飯島藤十郎。「粉と引き換えに温かいパン」の看板で行列。コッペパンからあんパン等へ拡大。1949年9月八幡、11月真間に直営店。1951年1月フリークーポン制で委託加工店を選べるように
- 野田経済 1963年8月5日号 明石達夫・飯島藤十郎
- [8]粉と引替えにいつでも温かいパンを渡す看板が当たり門前市をなした
- 証券 14(9)(160) 1962年(新規上場会社紹介)
- [10]1949年に和菓子部、1950年に洋菓子部を設置
1951年7月、飯島藤十郎氏は弟の飯島一郎氏と名古屋の第2回全国製パン技術者大会に出て、敷島製パンの工場で製パン工程の機械化を初めて目にした。二人は同じ日に工場を再訪し、社長の盛田秀平氏から、販売店のマージンを3割程度から1割に下げ、その分を原価に充当して品質を上げた経緯を聞いた。飯島藤十郎氏は、直営店と委託加工では出店の資金が蓄積しにくいと考え、直営店主義を改めて1割マージンの卸売に移った。千葉県の同業者の会合で同じ方式を提案して反対されると山崎製パン単独で実行し、応募20数店から7店ほどを委託取次店に選んだ。1952年6月の決算の売上高は1億2200万円で、前期の226%にあたる。1961年6月期には卸売が売上の81.5%を占め、取引先は1,298店に拡大した。
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [13]1951年7月名古屋の第2回全国製パン技術者大会に参加、敷島製パンで機械化を見学し盛田秀平社長からマージンを3割程度から1割に下げた経緯を聞く。直営店主義から1割マージンの卸売へ転換、同業者に反対され単独実行、20数店応募から7店を委託取次店に。1952年6月決算売上高1億2200万円(前期比226%)
- [14]1951年7月名古屋の第2回全国製パン技術者大会に参加、敷島製パンで機械化を見学し盛田秀平社長からマージンを3割程度から1割に下げた経緯を聞く。直営店主義から1割マージンの卸売へ転換、同業者に反対され単独実行、20数店応募から7店を委託取次店に。1952年6月決算売上高1億2200万円(前期比226%)
- [15]1951年7月名古屋の第2回全国製パン技術者大会に参加、敷島製パンで機械化を見学し盛田秀平社長からマージンを3割程度から1割に下げた経緯を聞く。直営店主義から1割マージンの卸売へ転換、同業者に反対され単独実行、20数店応募から7店を委託取次店に。1952年6月決算売上高1億2200万円(前期比226%)
- [16]1951年7月名古屋の第2回全国製パン技術者大会に参加、敷島製パンで機械化を見学し盛田秀平社長からマージンを3割程度から1割に下げた経緯を聞く。直営店主義から1割マージンの卸売へ転換、同業者に反対され単独実行、20数店応募から7店を委託取次店に。1952年6月決算売上高1億2200万円(前期比226%)
- [17]1951年7月名古屋の第2回全国製パン技術者大会に参加、敷島製パンで機械化を見学し盛田秀平社長からマージンを3割程度から1割に下げた経緯を聞く。直営店主義から1割マージンの卸売へ転換、同業者に反対され単独実行、20数店応募から7店を委託取次店に。1952年6月決算売上高1億2200万円(前期比226%)
- 証券 14(9)(160) 1962年(新規上場会社紹介)
- [18]1961年6月期の売上構成は直営売店18.5%・卸売(1,298店)81.5%
参考文献[1]-[18]
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [1]1948年3月9日、市川市国府台で山崎製パン所(委託加工所)開業。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。東台農業実行組合の理事として東台パンの委託加工に関与。中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした
- [2]1948年3月9日、市川市国府台で山崎製パン所(委託加工所)開業。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。東台農業実行組合の理事として東台パンの委託加工に関与。中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした
- [3]1948年3月9日、市川市国府台で山崎製パン所(委託加工所)開業。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。東台農業実行組合の理事として東台パンの委託加工に関与。中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした
- [5]1948年3月9日、市川市国府台で山崎製パン所(委託加工所)開業。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。東台農業実行組合の理事として東台パンの委託加工に関与。中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした
- [6]1948年6月21日、資本金100万円で山崎製パン株式会社設立、社長飯島藤十郎。「粉と引き換えに温かいパン」の看板で行列。コッペパンからあんパン等へ拡大。1949年9月八幡、11月真間に直営店。1951年1月フリークーポン制で委託加工店を選べるように
- [7]1948年6月21日、資本金100万円で山崎製パン株式会社設立、社長飯島藤十郎。「粉と引き換えに温かいパン」の看板で行列。コッペパンからあんパン等へ拡大。1949年9月八幡、11月真間に直営店。1951年1月フリークーポン制で委託加工店を選べるように
- [9]1948年6月21日、資本金100万円で山崎製パン株式会社設立、社長飯島藤十郎。「粉と引き換えに温かいパン」の看板で行列。コッペパンからあんパン等へ拡大。1949年9月八幡、11月真間に直営店。1951年1月フリークーポン制で委託加工店を選べるように
- [11]1948年6月21日、資本金100万円で山崎製パン株式会社設立、社長飯島藤十郎。「粉と引き換えに温かいパン」の看板で行列。コッペパンからあんパン等へ拡大。1949年9月八幡、11月真間に直営店。1951年1月フリークーポン制で委託加工店を選べるように
- [12]1948年6月21日、資本金100万円で山崎製パン株式会社設立、社長飯島藤十郎。「粉と引き換えに温かいパン」の看板で行列。コッペパンからあんパン等へ拡大。1949年9月八幡、11月真間に直営店。1951年1月フリークーポン制で委託加工店を選べるように
- [13]1951年7月名古屋の第2回全国製パン技術者大会に参加、敷島製パンで機械化を見学し盛田秀平社長からマージンを3割程度から1割に下げた経緯を聞く。直営店主義から1割マージンの卸売へ転換、同業者に反対され単独実行、20数店応募から7店を委託取次店に。1952年6月決算売上高1億2200万円(前期比226%)
- [14]1951年7月名古屋の第2回全国製パン技術者大会に参加、敷島製パンで機械化を見学し盛田秀平社長からマージンを3割程度から1割に下げた経緯を聞く。直営店主義から1割マージンの卸売へ転換、同業者に反対され単独実行、20数店応募から7店を委託取次店に。1952年6月決算売上高1億2200万円(前期比226%)
- [15]1951年7月名古屋の第2回全国製パン技術者大会に参加、敷島製パンで機械化を見学し盛田秀平社長からマージンを3割程度から1割に下げた経緯を聞く。直営店主義から1割マージンの卸売へ転換、同業者に反対され単独実行、20数店応募から7店を委託取次店に。1952年6月決算売上高1億2200万円(前期比226%)
- [16]1951年7月名古屋の第2回全国製パン技術者大会に参加、敷島製パンで機械化を見学し盛田秀平社長からマージンを3割程度から1割に下げた経緯を聞く。直営店主義から1割マージンの卸売へ転換、同業者に反対され単独実行、20数店応募から7店を委託取次店に。1952年6月決算売上高1億2200万円(前期比226%)
- [17]1951年7月名古屋の第2回全国製パン技術者大会に参加、敷島製パンで機械化を見学し盛田秀平社長からマージンを3割程度から1割に下げた経緯を聞く。直営店主義から1割マージンの卸売へ転換、同業者に反対され単独実行、20数店応募から7店を委託取次店に。1952年6月決算売上高1億2200万円(前期比226%)
- 野田経済 1963年8月5日号 明石達夫・飯島藤十郎
- [4]12坪の工場を弾薬庫の古材で建て、8枚入る窯で開始
- [8]粉と引替えにいつでも温かいパンを渡す看板が当たり門前市をなした
- 証券 14(9)(160) 1962年(新規上場会社紹介)
- [10]1949年に和菓子部、1950年に洋菓子部を設置
- [18]1961年6月期の売上構成は直営売店18.5%・卸売(1,298店)81.5%
1953年〜日清製粉の後押しで建てた月産2万袋の工場と、東洋一の杉並工場からの東証上場
1953年には販売店が50店に達し、市川と両国の2工場の小麦粉消費は月7000袋を超えた。市川工場は増設を重ねて敷地100坪余りとなり、隣接地もなく生産能力の限界に達していた。飯島藤十郎氏は量産工場の建設を決めたものの、主要取引先数社は計画の規模を危ぶみ、資金援助に難色を示した。日清製粉の営業担当者が、2年で生産能力を約3倍の月産2万袋にする計画と、地元の製粉会社では良質の粉が不足している事情を知って供給を申し出たのは、1953年3月30日である。日清製粉と特約店の東亜実業との3社契約でそれまで現金だった原料代に手形期限1カ月の取引が始まった。1954年7月、富士銀行と千葉銀行の協力も得て江戸川沿いの650坪を取得し、着工したのが市川第二工場である。飯島藤十郎氏は1954年に米国製の製パン機械を工程の要所に絞って導入した。
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [19]1953年販売店50店、市川・両国で月7000袋超、市川工場は100坪余りで限界。取引先は資金援助に難色。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、東亜実業を加えた3社契約で手形期限1カ月に。1954年7月650坪を取得し市川第二工場着工
- [20]1953年販売店50店、市川・両国で月7000袋超、市川工場は100坪余りで限界。取引先は資金援助に難色。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、東亜実業を加えた3社契約で手形期限1カ月に。1954年7月650坪を取得し市川第二工場着工
- [21]1953年販売店50店、市川・両国で月7000袋超、市川工場は100坪余りで限界。取引先は資金援助に難色。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、東亜実業を加えた3社契約で手形期限1カ月に。1954年7月650坪を取得し市川第二工場着工
- [22]1953年販売店50店、市川・両国で月7000袋超、市川工場は100坪余りで限界。取引先は資金援助に難色。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、東亜実業を加えた3社契約で手形期限1カ月に。1954年7月650坪を取得し市川第二工場着工
- [23]1953年販売店50店、市川・両国で月7000袋超、市川工場は100坪余りで限界。取引先は資金援助に難色。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、東亜実業を加えた3社契約で手形期限1カ月に。1954年7月650坪を取得し市川第二工場着工
- [24]1953年販売店50店、市川・両国で月7000袋超、市川工場は100坪余りで限界。取引先は資金援助に難色。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、東亜実業を加えた3社契約で手形期限1カ月に。1954年7月650坪を取得し市川第二工場着工
- 野田経済 1963年8月5日号 明石達夫・飯島藤十郎
- [25]1954年に米国製機械を大事な工程に絞って導入
山崎製パンは1960年4月20日、東京都杉並区に敷地2000坪の杉並工場を稼働させた。飯島藤十郎氏が新工場の構想を示したのは1958年初頭で、1951年に設けた両国工場は7年で合理化の限界に達し、住宅街にあるため移転も避けられなかった。市川第二工場はすでにフル稼働で、販路は東京の中央線沿線に及び、販売店は400店を超えていたため、飯島藤十郎氏は東京市場の競合激化を見込んだ。社内では、1959年に資本金5400万円・売上高10億5000万円の会社が約4億円を投じるのは危険が大きいとして、時期尚早の反対が強かった。資金の出どころは、それまで取引のなかった住友銀行と富士銀行からの2億円ずつの融資である。飯島藤十郎氏は、杉並工場を徹底して合理化した大量生産の工場にする考えを示していた。
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [26]1958年初頭に構想、両国工場は1951年設置から7年で限界・住宅街。販売店400店超。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の投資に社内反対。住友銀行2億円・富士銀行2億円で調達。1959年10月12日地鎮祭、1960年4月20日稼働、敷地2000坪。市川第二から200店移管し拡売員を組織
- [27]1958年初頭に構想、両国工場は1951年設置から7年で限界・住宅街。販売店400店超。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の投資に社内反対。住友銀行2億円・富士銀行2億円で調達。1959年10月12日地鎮祭、1960年4月20日稼働、敷地2000坪。市川第二から200店移管し拡売員を組織
- [28]1958年初頭に構想、両国工場は1951年設置から7年で限界・住宅街。販売店400店超。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の投資に社内反対。住友銀行2億円・富士銀行2億円で調達。1959年10月12日地鎮祭、1960年4月20日稼働、敷地2000坪。市川第二から200店移管し拡売員を組織
- [29]1958年初頭に構想、両国工場は1951年設置から7年で限界・住宅街。販売店400店超。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の投資に社内反対。住友銀行2億円・富士銀行2億円で調達。1959年10月12日地鎮祭、1960年4月20日稼働、敷地2000坪。市川第二から200店移管し拡売員を組織
- [30]1958年初頭に構想、両国工場は1951年設置から7年で限界・住宅街。販売店400店超。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の投資に社内反対。住友銀行2億円・富士銀行2億円で調達。1959年10月12日地鎮祭、1960年4月20日稼働、敷地2000坪。市川第二から200店移管し拡売員を組織
- 野田経済 1963年8月5日号 明石達夫・飯島藤十郎
- [31]杉並工場は4億円かかり、徹底的に合理化した大量生産の工場にすると発言
山崎製パンは1962年7月21日、東京証券取引所市場第二部に上場した。上場に合わせて資本金1億800万円を株主割当で2億1600万円とし、2400万円の一般公募を加えて2億4000万円へ増資。杉並工場の建設後は既設工場の拡充だけで需要に対応しており、横浜・川崎地区と東京北部への新工場建設は急務である。同じ年には製パン大手が相次いで上場して資本調達力を強化し、米国の大手製パン会社の来日で外資進出への危機感も高まっていた。飯島藤十郎氏は、公開の動機は資金調達だけではないと述べ、公募株を親族や従業員に割り振る案を退けた。上場時の山崎製パンは日清製粉と特別契約を結び、都内と千葉県のパン用小麦粉の7%を消費していた。1962年6月期の売上高は3,430,627千円で、販売先は1,700店を数えた。
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [32]1962年7月21日大和證券・山一證券を幹事に東証二部上場。資本金1億800万円を1対1割当で2億1600万円、2400万円公募で2億4000万円。杉並以後は既設工場拡充のみで新工場が急務。同年製パン大手が相次ぎ上場、外資進出の危機感
- [33]1962年7月21日大和證券・山一證券を幹事に東証二部上場。資本金1億800万円を1対1割当で2億1600万円、2400万円公募で2億4000万円。杉並以後は既設工場拡充のみで新工場が急務。同年製パン大手が相次ぎ上場、外資進出の危機感
- [34]1962年7月21日大和證券・山一證券を幹事に東証二部上場。資本金1億800万円を1対1割当で2億1600万円、2400万円公募で2億4000万円。杉並以後は既設工場拡充のみで新工場が急務。同年製パン大手が相次ぎ上場、外資進出の危機感
- [35]1962年7月21日大和證券・山一證券を幹事に東証二部上場。資本金1億800万円を1対1割当で2億1600万円、2400万円公募で2億4000万円。杉並以後は既設工場拡充のみで新工場が急務。同年製パン大手が相次ぎ上場、外資進出の危機感
- 野田経済 1963年8月5日号 明石達夫・飯島藤十郎
- [36]公開の動機は資金調達だけではないと発言、公募株を弟たちの案どおり従業員に分けることに反対
- 証券 14(9)(160) 1962年(新規上場会社紹介)
- [37]日清製粉と特別契約、都内・千葉県のパン用小麦粉月60万袋のうち6.7万袋(7%)を使用
- 株式会社年鑑 1963年版「山崎製パン」
- [38]1962年6月期(自36.7至37.6)売上高3,430,627千円、販売1,700店、従業員1,649人
参考文献[19]-[38]
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [19]1953年販売店50店、市川・両国で月7000袋超、市川工場は100坪余りで限界。取引先は資金援助に難色。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、東亜実業を加えた3社契約で手形期限1カ月に。1954年7月650坪を取得し市川第二工場着工
- [20]1953年販売店50店、市川・両国で月7000袋超、市川工場は100坪余りで限界。取引先は資金援助に難色。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、東亜実業を加えた3社契約で手形期限1カ月に。1954年7月650坪を取得し市川第二工場着工
- [21]1953年販売店50店、市川・両国で月7000袋超、市川工場は100坪余りで限界。取引先は資金援助に難色。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、東亜実業を加えた3社契約で手形期限1カ月に。1954年7月650坪を取得し市川第二工場着工
- [22]1953年販売店50店、市川・両国で月7000袋超、市川工場は100坪余りで限界。取引先は資金援助に難色。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、東亜実業を加えた3社契約で手形期限1カ月に。1954年7月650坪を取得し市川第二工場着工
- [23]1953年販売店50店、市川・両国で月7000袋超、市川工場は100坪余りで限界。取引先は資金援助に難色。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、東亜実業を加えた3社契約で手形期限1カ月に。1954年7月650坪を取得し市川第二工場着工
- [24]1953年販売店50店、市川・両国で月7000袋超、市川工場は100坪余りで限界。取引先は資金援助に難色。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、東亜実業を加えた3社契約で手形期限1カ月に。1954年7月650坪を取得し市川第二工場着工
- [26]1958年初頭に構想、両国工場は1951年設置から7年で限界・住宅街。販売店400店超。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の投資に社内反対。住友銀行2億円・富士銀行2億円で調達。1959年10月12日地鎮祭、1960年4月20日稼働、敷地2000坪。市川第二から200店移管し拡売員を組織
- [27]1958年初頭に構想、両国工場は1951年設置から7年で限界・住宅街。販売店400店超。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の投資に社内反対。住友銀行2億円・富士銀行2億円で調達。1959年10月12日地鎮祭、1960年4月20日稼働、敷地2000坪。市川第二から200店移管し拡売員を組織
- [28]1958年初頭に構想、両国工場は1951年設置から7年で限界・住宅街。販売店400店超。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の投資に社内反対。住友銀行2億円・富士銀行2億円で調達。1959年10月12日地鎮祭、1960年4月20日稼働、敷地2000坪。市川第二から200店移管し拡売員を組織
- [29]1958年初頭に構想、両国工場は1951年設置から7年で限界・住宅街。販売店400店超。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の投資に社内反対。住友銀行2億円・富士銀行2億円で調達。1959年10月12日地鎮祭、1960年4月20日稼働、敷地2000坪。市川第二から200店移管し拡売員を組織
- [30]1958年初頭に構想、両国工場は1951年設置から7年で限界・住宅街。販売店400店超。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の投資に社内反対。住友銀行2億円・富士銀行2億円で調達。1959年10月12日地鎮祭、1960年4月20日稼働、敷地2000坪。市川第二から200店移管し拡売員を組織
- [32]1962年7月21日大和證券・山一證券を幹事に東証二部上場。資本金1億800万円を1対1割当で2億1600万円、2400万円公募で2億4000万円。杉並以後は既設工場拡充のみで新工場が急務。同年製パン大手が相次ぎ上場、外資進出の危機感
- [33]1962年7月21日大和證券・山一證券を幹事に東証二部上場。資本金1億800万円を1対1割当で2億1600万円、2400万円公募で2億4000万円。杉並以後は既設工場拡充のみで新工場が急務。同年製パン大手が相次ぎ上場、外資進出の危機感
- [34]1962年7月21日大和證券・山一證券を幹事に東証二部上場。資本金1億800万円を1対1割当で2億1600万円、2400万円公募で2億4000万円。杉並以後は既設工場拡充のみで新工場が急務。同年製パン大手が相次ぎ上場、外資進出の危機感
- [35]1962年7月21日大和證券・山一證券を幹事に東証二部上場。資本金1億800万円を1対1割当で2億1600万円、2400万円公募で2億4000万円。杉並以後は既設工場拡充のみで新工場が急務。同年製パン大手が相次ぎ上場、外資進出の危機感
- 野田経済 1963年8月5日号 明石達夫・飯島藤十郎
- [25]1954年に米国製機械を大事な工程に絞って導入
- [31]杉並工場は4億円かかり、徹底的に合理化した大量生産の工場にすると発言
- [36]公開の動機は資金調達だけではないと発言、公募株を弟たちの案どおり従業員に分けることに反対
- 証券 14(9)(160) 1962年(新規上場会社紹介)
- [37]日清製粉と特別契約、都内・千葉県のパン用小麦粉月60万袋のうち6.7万袋(7%)を使用
- 株式会社年鑑 1963年版「山崎製パン」
- [38]1962年6月期(自36.7至37.6)売上高3,430,627千円、販売1,700店、従業員1,649人
1963年〜品質第一を掲げた経営基本方針と、大阪進出・スーパーヤマザキ・千葉工場
飯島藤十郎氏は1963年10月1日、神田の中央大学会館に幹部社員約200名を集め、2カ条の綱領と6項目の具体方針からなる経営基本方針を発表した。制定の理由は、総工費が20億円を大きく超える見込みとなった武蔵野工場の建設を、全社の結束で完遂する体制づくりである。その準備として1963年正月から幹部800名を御殿場の合宿研修に送り、係長150名にも研修を広げた。1962年1月に掲げた経営目標3カ条だけでは、拡大の局面の拠り所として不十分と判断した。方針の下敷きは、J・E・ウォルターズの著書「基礎経営学」が紹介する米国企業の方針。飯島藤十郎氏は月に何度も御殿場で社員と走り、仕事を通じて人を育てると語っていた。同じ1963年には、1959年に系列下に収めた株式会社山崎製パン横浜工場を吸収合併した。
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [39]1963年10月1日中央大学会館で幹部約200名に経営基本方針(綱領2カ条・具体方針6項目)発表。武蔵野工場建設(総工費20億円超)完遂のための体制強化。1963年正月から幹部800名の御殿場合宿研修。1962年1月の経営目標三カ条では不十分。ウォルターズ『基礎経営学』を参考。1963年横浜工場を吸収合併(年表)
- [40]1963年10月1日中央大学会館で幹部約200名に経営基本方針(綱領2カ条・具体方針6項目)発表。武蔵野工場建設(総工費20億円超)完遂のための体制強化。1963年正月から幹部800名の御殿場合宿研修。1962年1月の経営目標三カ条では不十分。ウォルターズ『基礎経営学』を参考。1963年横浜工場を吸収合併(年表)
- [41]1963年10月1日中央大学会館で幹部約200名に経営基本方針(綱領2カ条・具体方針6項目)発表。武蔵野工場建設(総工費20億円超)完遂のための体制強化。1963年正月から幹部800名の御殿場合宿研修。1962年1月の経営目標三カ条では不十分。ウォルターズ『基礎経営学』を参考。1963年横浜工場を吸収合併(年表)
- [42]1963年10月1日中央大学会館で幹部約200名に経営基本方針(綱領2カ条・具体方針6項目)発表。武蔵野工場建設(総工費20億円超)完遂のための体制強化。1963年正月から幹部800名の御殿場合宿研修。1962年1月の経営目標三カ条では不十分。ウォルターズ『基礎経営学』を参考。1963年横浜工場を吸収合併(年表)
- [43]1963年10月1日中央大学会館で幹部約200名に経営基本方針(綱領2カ条・具体方針6項目)発表。武蔵野工場建設(総工費20億円超)完遂のための体制強化。1963年正月から幹部800名の御殿場合宿研修。1962年1月の経営目標三カ条では不十分。ウォルターズ『基礎経営学』を参考。1963年横浜工場を吸収合併(年表)
- [45]1963年10月1日中央大学会館で幹部約200名に経営基本方針(綱領2カ条・具体方針6項目)発表。武蔵野工場建設(総工費20億円超)完遂のための体制強化。1963年正月から幹部800名の御殿場合宿研修。1962年1月の経営目標三カ条では不十分。ウォルターズ『基礎経営学』を参考。1963年横浜工場を吸収合併(年表)
- 野田経済 1963年8月5日号 明石達夫・飯島藤十郎
- [44]御殿場で社員と1万m走、月に何回も。仕事を通じて人間をつくると発言
山崎製パンは1966年6月1日、株式会社山崎製パン大阪工場を発足させた。当時は関東に6工場を持ち、全国展開の最初の一歩をいつどこで踏み出すかが飯島藤十郎氏の最大の課題である。大阪はメーカーが少なく需要を喚起する余地がある一方、名古屋の大手2社が周辺に工場を完成させており、進出の時機を逃せない状況にあった。社内には資金繰りの苦しさと、関東の食品会社が関西で成功した例がないことへの危惧が強かった。飯島藤十郎氏は工場の完成を待たず、関東から製品を運んで先に販売網をつくる順序を選んだ。地元業界の抵抗に対しては別会社を立て、10億円を投入して工場と販売網を整えた。構想の起点は、1956年の初の欧米視察で描いたナショナルブランドにある。同じ1966年の11月に東証、12月に大証の市場第一部へ上場した。
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [46]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- [47]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- [48]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- [49]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- [50]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- [52]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- [53]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- オール大衆 1969年「シリーズ・現代の成功者 パンの需要を創り出した 飯島藤十郎」
- [51]大阪の抵抗に対し別会社にして10億円を投入し工場と販売網をつくった
山崎製パンは1967年に株式会社スーパーヤマザキを設立し、食品を中心とするスーパーの展開を始めた。同じ年の3月に名古屋工場を稼働させ、11月には新潟のチューリップ食品を系列化して新潟工場とした。1968年1月の千葉工場の千葉食品コンビナートへの建設移転では、ビスケットとクラッカーの量産設備も入った。飯島藤十郎氏は全国展開と並行して、製菓部門を中心に多角化を進めた。1969年の時点で、パン食の需要は2、3年前から横ばいで、原料の小麦粉は政府の間接的な管理下にあって加工マージンが低い。山崎製パンは卸を通さず工場から店頭へ届ける直販ルートを持ち、自社ブランドの食品を広く扱う方針である。パンの伸びが限られるなか、自前の売り場と菓子の品目で直販ルートの取扱いを厚くする狙いがあったと思われる。
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [54]1967年株式会社スーパーヤマザキ設立、3月名古屋工場稼働、11月新潟工場。1968年1月千葉食品コンビナートに千葉工場建設移転、ビスケット・クラッカー設備導入。製菓部門中心に多角化
- [55]1967年株式会社スーパーヤマザキ設立、3月名古屋工場稼働、11月新潟工場。1968年1月千葉食品コンビナートに千葉工場建設移転、ビスケット・クラッカー設備導入。製菓部門中心に多角化
- [56]1967年株式会社スーパーヤマザキ設立、3月名古屋工場稼働、11月新潟工場。1968年1月千葉食品コンビナートに千葉工場建設移転、ビスケット・クラッカー設備導入。製菓部門中心に多角化
- [57]1967年株式会社スーパーヤマザキ設立、3月名古屋工場稼働、11月新潟工場。1968年1月千葉食品コンビナートに千葉工場建設移転、ビスケット・クラッカー設備導入。製菓部門中心に多角化
- オール大衆 1969年「シリーズ・現代の成功者 パンの需要を創り出した 飯島藤十郎」
- [58]パン食は2、3年前から横ばい、小麦粉は政府の間接支配で加工マージン低い、総合食品メーカーへ脱皮中、卸を通さない直販ルートで自社ブランド品を扱う方針
- [59]パン食は2、3年前から横ばい、小麦粉は政府の間接支配で加工マージン低い、総合食品メーカーへ脱皮中、卸を通さない直販ルートで自社ブランド品を扱う方針
参考文献[39]-[59]
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [39]1963年10月1日中央大学会館で幹部約200名に経営基本方針(綱領2カ条・具体方針6項目)発表。武蔵野工場建設(総工費20億円超)完遂のための体制強化。1963年正月から幹部800名の御殿場合宿研修。1962年1月の経営目標三カ条では不十分。ウォルターズ『基礎経営学』を参考。1963年横浜工場を吸収合併(年表)
- [40]1963年10月1日中央大学会館で幹部約200名に経営基本方針(綱領2カ条・具体方針6項目)発表。武蔵野工場建設(総工費20億円超)完遂のための体制強化。1963年正月から幹部800名の御殿場合宿研修。1962年1月の経営目標三カ条では不十分。ウォルターズ『基礎経営学』を参考。1963年横浜工場を吸収合併(年表)
- [41]1963年10月1日中央大学会館で幹部約200名に経営基本方針(綱領2カ条・具体方針6項目)発表。武蔵野工場建設(総工費20億円超)完遂のための体制強化。1963年正月から幹部800名の御殿場合宿研修。1962年1月の経営目標三カ条では不十分。ウォルターズ『基礎経営学』を参考。1963年横浜工場を吸収合併(年表)
- [42]1963年10月1日中央大学会館で幹部約200名に経営基本方針(綱領2カ条・具体方針6項目)発表。武蔵野工場建設(総工費20億円超)完遂のための体制強化。1963年正月から幹部800名の御殿場合宿研修。1962年1月の経営目標三カ条では不十分。ウォルターズ『基礎経営学』を参考。1963年横浜工場を吸収合併(年表)
- [43]1963年10月1日中央大学会館で幹部約200名に経営基本方針(綱領2カ条・具体方針6項目)発表。武蔵野工場建設(総工費20億円超)完遂のための体制強化。1963年正月から幹部800名の御殿場合宿研修。1962年1月の経営目標三カ条では不十分。ウォルターズ『基礎経営学』を参考。1963年横浜工場を吸収合併(年表)
- [45]1963年10月1日中央大学会館で幹部約200名に経営基本方針(綱領2カ条・具体方針6項目)発表。武蔵野工場建設(総工費20億円超)完遂のための体制強化。1963年正月から幹部800名の御殿場合宿研修。1962年1月の経営目標三カ条では不十分。ウォルターズ『基礎経営学』を参考。1963年横浜工場を吸収合併(年表)
- [46]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- [47]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- [48]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- [49]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- [50]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- [52]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- [53]1966年5月31日先発隊4人が大阪へ、6月1日株式会社山崎製パン大阪工場。関東に6工場。大阪は需要喚起の余地、名古屋の二大メーカーが大阪周辺に工場。社内は資金難と成功例なしで危惧。工場稼働前に関東から輸送し販売網を先行。1956年初の欧米視察以来のナショナルブランド構想。1966年11月東証一部、12月大証一部
- [54]1967年株式会社スーパーヤマザキ設立、3月名古屋工場稼働、11月新潟工場。1968年1月千葉食品コンビナートに千葉工場建設移転、ビスケット・クラッカー設備導入。製菓部門中心に多角化
- [55]1967年株式会社スーパーヤマザキ設立、3月名古屋工場稼働、11月新潟工場。1968年1月千葉食品コンビナートに千葉工場建設移転、ビスケット・クラッカー設備導入。製菓部門中心に多角化
- [56]1967年株式会社スーパーヤマザキ設立、3月名古屋工場稼働、11月新潟工場。1968年1月千葉食品コンビナートに千葉工場建設移転、ビスケット・クラッカー設備導入。製菓部門中心に多角化
- [57]1967年株式会社スーパーヤマザキ設立、3月名古屋工場稼働、11月新潟工場。1968年1月千葉食品コンビナートに千葉工場建設移転、ビスケット・クラッカー設備導入。製菓部門中心に多角化
- 野田経済 1963年8月5日号 明石達夫・飯島藤十郎
- [44]御殿場で社員と1万m走、月に何回も。仕事を通じて人間をつくると発言
- オール大衆 1969年「シリーズ・現代の成功者 パンの需要を創り出した 飯島藤十郎」
- [51]大阪の抵抗に対し別会社にして10億円を投入し工場と販売網をつくった
- [58]パン食は2、3年前から横ばい、小麦粉は政府の間接支配で加工マージン低い、総合食品メーカーへ脱皮中、卸を通さない直販ルートで自社ブランド品を扱う方針
- [59]パン食は2、3年前から横ばい、小麦粉は政府の間接支配で加工マージン低い、総合食品メーカーへ脱皮中、卸を通さない直販ルートで自社ブランド品を扱う方針
出典・参考
5件
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- 株式会社年鑑 1963年版「山崎製パン」
- 証券 14(9)(160) 1962年(新規上場会社紹介)
- 野田経済 1963年8月5日号 明石達夫・飯島藤十郎
- オール大衆 1969年「シリーズ・現代の成功者 パンの需要を創り出した 飯島藤十郎」