飯島藤十郎
経歴1948〜1976年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1948年主要役職の状況(推定含む目安)1976年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 山崎製パン | 1948 | 設立 取締役社長 | ||
| 1976 | 社長 退任 |
社長就任までの出自
出自
飯島藤十郎氏は1910年11月7日、東京府北多摩郡三鷹村で半農半商の家の長男として生まれた。中学2年で学業を断ち、新宿中村屋で約2年半働いた。その後は豊島師範の二部に進んで小学校の教壇に立ち、1936年に中等教員の検定試験に合格し、1938年からは東京府立航空工業学校で体育を教えた。1944年夏に市川市国府台の高射砲隊教育隊へ配属されて終戦を迎え、教職へは戻らず、旧練兵場跡の開拓地に入植した。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1948年6月21日、兄弟を発起人とし資本金100万円で山崎製パンを設立し、取締役社長に就任した。前任のいない初代の社長である。1969年6月には病気のため、経営の実務を副社長だった弟の飯島一郎氏へ事実上委ねた。1976年3月、監査役が飯島藤十郎氏に競業避止義務と忠実義務の違反があるとする限定意見を付け、続く臨時取締役会で代表取締役を解かれた。1979年には長男の飯島延浩氏が社長に就任した。
創業ストーリー
創業ストーリー
飯島藤十郎氏が商いの手本としたのは、若い時期に2年半勤めた新宿中村屋で、創業者の相馬愛蔵氏が説いた良い品を安く売る方針である。教員として働いたのち、戦後は国府台の開拓地で農業組合の理事を務め、組合が農林省の斡旋した設備で営む東台パンの委託加工に関わった。教職には戻らず独立して商売をしたいという考えが強まり、36歳でパン屋を始めると決めた。
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [15]中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした。東台農業実行組合の理事として、農林省斡旋の設備で営む東台パンの委託加工に関与。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。粉と引き換えに温かいパンの看板で国府台駅近くまで3列の行列。1948年6月21日株式会社設立。1951年敷島製パンで盛田秀平社長からマージン引き下げの経緯を聞き、1割マージンの卸売へ転換。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、手形期限1カ月の取引に。1954年7月市川第二工場着工。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の杉並工場投資に社内反対、住友銀行・富士銀行から各2億円。1966年大阪進出に社内は資金難と関東の食品会社の関西での成功例なしで危惧
- [16]中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした。東台農業実行組合の理事として、農林省斡旋の設備で営む東台パンの委託加工に関与。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。粉と引き換えに温かいパンの看板で国府台駅近くまで3列の行列。1948年6月21日株式会社設立。1951年敷島製パンで盛田秀平社長からマージン引き下げの経緯を聞き、1割マージンの卸売へ転換。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、手形期限1カ月の取引に。1954年7月市川第二工場着工。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の杉並工場投資に社内反対、住友銀行・富士銀行から各2億円。1966年大阪進出に社内は資金難と関東の食品会社の関西での成功例なしで危惧
- [17]終戦後は再び教壇に立とうとは思わず商売をやりたいと考えた。藤十郎36歳のとき小麦を元手にパン屋をやると決意。組合理事として東台パンの仕事に携わっていたため飯島名義では開業許可がもらえず、夫と死別した妹裕代の嫁ぎ先の姓「山崎」を付けた。昭和23年3月9日開業、藤十郎と妻の希和子、妹の裕代に雇い入れた若者2人で始め、2週間ほどで弟の一郎らが加わった
- [18]終戦後は再び教壇に立とうとは思わず商売をやりたいと考えた。藤十郎36歳のとき小麦を元手にパン屋をやると決意。組合理事として東台パンの仕事に携わっていたため飯島名義では開業許可がもらえず、夫と死別した妹裕代の嫁ぎ先の姓「山崎」を付けた。昭和23年3月9日開業、藤十郎と妻の希和子、妹の裕代に雇い入れた若者2人で始め、2週間ほどで弟の一郎らが加わった
元手は、1947年のキャサリン台風のあとに農家から集めた濡れわらと引き換えた小麦30俵余りである。組合の理事として東台パンに携わっていたため本人の名義では営業の許可が下りず、店には夫を亡くした妹の嫁ぎ先の姓である山崎を付けた。店は12坪の土地に弾薬庫の古材を移して建て、窯は天板8枚入りの1基にとどまった。1948年3月9日、飯島藤十郎氏は妻と妹、パンづくりの経験がある若者2人とともに委託加工の店を開業し、2週間ほどで弟の飯島一郎氏も加わった。
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [19]中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした。東台農業実行組合の理事として、農林省斡旋の設備で営む東台パンの委託加工に関与。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。粉と引き換えに温かいパンの看板で国府台駅近くまで3列の行列。1948年6月21日株式会社設立。1951年敷島製パンで盛田秀平社長からマージン引き下げの経緯を聞き、1割マージンの卸売へ転換。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、手形期限1カ月の取引に。1954年7月市川第二工場着工。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の杉並工場投資に社内反対、住友銀行・富士銀行から各2億円。1966年大阪進出に社内は資金難と関東の食品会社の関西での成功例なしで危惧
- [20]終戦後は再び教壇に立とうとは思わず商売をやりたいと考えた。藤十郎36歳のとき小麦を元手にパン屋をやると決意。組合理事として東台パンの仕事に携わっていたため飯島名義では開業許可がもらえず、夫と死別した妹裕代の嫁ぎ先の姓「山崎」を付けた。昭和23年3月9日開業、藤十郎と妻の希和子、妹の裕代に雇い入れた若者2人で始め、2週間ほどで弟の一郎らが加わった
- [22]終戦後は再び教壇に立とうとは思わず商売をやりたいと考えた。藤十郎36歳のとき小麦を元手にパン屋をやると決意。組合理事として東台パンの仕事に携わっていたため飯島名義では開業許可がもらえず、夫と死別した妹裕代の嫁ぎ先の姓「山崎」を付けた。昭和23年3月9日開業、藤十郎と妻の希和子、妹の裕代に雇い入れた若者2人で始め、2週間ほどで弟の一郎らが加わった
- 野田経済 1963年8月5日号 明石達夫・飯島藤十郎
- [21]12坪の工場を弾薬庫の古材で建て、天板8枚入る窯で開始。預けた粉は3、4日後にパンで返すのが当時の常で、粉と引替えにいつでも温かいパンを渡す看板が当たった。公開の動機は資金調達だけではないとし、公募株を従業員に分ける案に反対
配給の粉を預かって数日後にパンで返すのが同業の常であったなかで、粉と引き換えにその場で温かいパンを渡すと掲げたことが客を呼び、国府台駅の近くまで行列が延びた。同年6月には兄弟を発起人とする株式会社に改め、1951年には敷島製パンの工場で聞いた手法にならい、販売店のマージンを1割に抑える卸売へ移った。1953年に日清製粉が月産2万袋に見合う小麦粉の供給を申し出たことで手形による原料の仕入れが可能となり、1954年に市川第二工場の建設に着手した。
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [23]中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした。東台農業実行組合の理事として、農林省斡旋の設備で営む東台パンの委託加工に関与。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。粉と引き換えに温かいパンの看板で国府台駅近くまで3列の行列。1948年6月21日株式会社設立。1951年敷島製パンで盛田秀平社長からマージン引き下げの経緯を聞き、1割マージンの卸売へ転換。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、手形期限1カ月の取引に。1954年7月市川第二工場着工。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の杉並工場投資に社内反対、住友銀行・富士銀行から各2億円。1966年大阪進出に社内は資金難と関東の食品会社の関西での成功例なしで危惧
- [25]中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした。東台農業実行組合の理事として、農林省斡旋の設備で営む東台パンの委託加工に関与。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。粉と引き換えに温かいパンの看板で国府台駅近くまで3列の行列。1948年6月21日株式会社設立。1951年敷島製パンで盛田秀平社長からマージン引き下げの経緯を聞き、1割マージンの卸売へ転換。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、手形期限1カ月の取引に。1954年7月市川第二工場着工。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の杉並工場投資に社内反対、住友銀行・富士銀行から各2億円。1966年大阪進出に社内は資金難と関東の食品会社の関西での成功例なしで危惧
- [26]中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした。東台農業実行組合の理事として、農林省斡旋の設備で営む東台パンの委託加工に関与。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。粉と引き換えに温かいパンの看板で国府台駅近くまで3列の行列。1948年6月21日株式会社設立。1951年敷島製パンで盛田秀平社長からマージン引き下げの経緯を聞き、1割マージンの卸売へ転換。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、手形期限1カ月の取引に。1954年7月市川第二工場着工。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の杉並工場投資に社内反対、住友銀行・富士銀行から各2億円。1966年大阪進出に社内は資金難と関東の食品会社の関西での成功例なしで危惧
- 野田経済 1963年8月5日号 明石達夫・飯島藤十郎
- [24]12坪の工場を弾薬庫の古材で建て、天板8枚入る窯で開始。預けた粉は3、4日後にパンで返すのが当時の常で、粉と引替えにいつでも温かいパンを渡す看板が当たった。公開の動機は資金調達だけではないとし、公募株を従業員に分ける案に反対
大型工場の建設は、その後も社内の反対を押し切って続いた。1960年には、当時の売上高10億円余りの会社が約4億円を投じる杉並工場を、取引のなかった住友銀行と富士銀行からの借入で建てた。1962年7月の東京証券取引所市場第二部への上場では、公募株を親族や従業員に割り振る案を退けた。1966年には関東の食品会社に関西での成功例がないという社内の危惧をよそに大阪へ進出し、別会社に10億円を投じて工場と販売網を整えた。1970年10月には米ナビスコ社と日綿実業との合弁でヤマザキ・ナビスコを設け、パンの販売網に菓子の品目を加えた。
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- [27]中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした。東台農業実行組合の理事として、農林省斡旋の設備で営む東台パンの委託加工に関与。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。粉と引き換えに温かいパンの看板で国府台駅近くまで3列の行列。1948年6月21日株式会社設立。1951年敷島製パンで盛田秀平社長からマージン引き下げの経緯を聞き、1割マージンの卸売へ転換。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、手形期限1カ月の取引に。1954年7月市川第二工場着工。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の杉並工場投資に社内反対、住友銀行・富士銀行から各2億円。1966年大阪進出に社内は資金難と関東の食品会社の関西での成功例なしで危惧
- [28]中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした。東台農業実行組合の理事として、農林省斡旋の設備で営む東台パンの委託加工に関与。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。粉と引き換えに温かいパンの看板で国府台駅近くまで3列の行列。1948年6月21日株式会社設立。1951年敷島製パンで盛田秀平社長からマージン引き下げの経緯を聞き、1割マージンの卸売へ転換。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、手形期限1カ月の取引に。1954年7月市川第二工場着工。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の杉並工場投資に社内反対、住友銀行・富士銀行から各2億円。1966年大阪進出に社内は資金難と関東の食品会社の関西での成功例なしで危惧
- [31]中村屋で2年半修業し相馬愛蔵の「良い品を安く」を心構えとした。東台農業実行組合の理事として、農林省斡旋の設備で営む東台パンの委託加工に関与。元手はキャサリン台風後の濡れわらと交換した小麦30俵余り。粉と引き換えに温かいパンの看板で国府台駅近くまで3列の行列。1948年6月21日株式会社設立。1951年敷島製パンで盛田秀平社長からマージン引き下げの経緯を聞き、1割マージンの卸売へ転換。1953年3月30日日清製粉が月産2万袋計画への供給を申し出、手形期限1カ月の取引に。1954年7月市川第二工場着工。1959年資本金5400万円・売上高10億5000万円で約4億円の杉並工場投資に社内反対、住友銀行・富士銀行から各2億円。1966年大阪進出に社内は資金難と関東の食品会社の関西での成功例なしで危惧
- 野田経済 1963年8月5日号 明石達夫・飯島藤十郎
- [29]12坪の工場を弾薬庫の古材で建て、天板8枚入る窯で開始。預けた粉は3、4日後にパンで返すのが当時の常で、粉と引替えにいつでも温かいパンを渡す看板が当たった。公開の動機は資金調達だけではないとし、公募株を従業員に分ける案に反対
- 山崎製パン 有価証券報告書【沿革】
- [30]1962年7月 東京証券取引所市場第二部に株式を上場/1970年10月 ナビスコ社と日綿実業との合弁でヤマザキ・ナビスコを設立
- [33]1962年7月 東京証券取引所市場第二部に株式を上場/1970年10月 ナビスコ社と日綿実業との合弁でヤマザキ・ナビスコを設立
- オール大衆 1969年「シリーズ・現代の成功者 パンの需要を創り出した 飯島藤十郎」
- [32]大阪の抵抗に対し別会社にして10億円を投入し工場と販売網をつくった
1969年6月、飯島藤十郎氏は病のため経営の実務を弟の飯島一郎氏へ事実上委ねた。1976年に監査役の限定意見を機に兄弟の対立が表面化すると、臨時取締役会で代表取締役を解かれた。1979年に長男の飯島延浩氏が社長に就任し、創業家による経営は次の代へ引き継がれた。設備への先行投資を続けて販売網を広げる創業期の順序が、全国規模の製パン会社への道筋を決めたとみられる。
- 日経ビジネス 1977年4月11日号
- [34]昭和23年の会社設立から44年6月、病気で実質的に一郎副社長(当時)にバトンタッチ
- 日経ビジネス 1979年4月9日号
- [35]対立の表面化は51年3月、監査役の限定意見から。臨時取締役会で藤十郎氏は代表取締役を解任。のちに藤十郎氏の長男の延浩氏が社長に
- [36]対立の表面化は51年3月、監査役の限定意見から。臨時取締役会で藤十郎氏は代表取締役を解任。のちに藤十郎氏の長男の延浩氏が社長に
参考文献3件
参考文献
- 山崎製パン社史編纂委員会『ひとつぶの麦から 山崎製パン株式会社創業三十五周年記念誌』1984
- 日経ビジネス 1979年4月9日号「安齋隆 山崎製パン管理職組合委員長 お家騒動の渦中へ命がけの一石」
- 公益財団法人飯島藤十郎記念食品科学振興財団 公式サイト(英文名 Tojuro Iijima Foundation for Food Science and Technology)
事実根拠:出所(山崎製パン)