第1章 年〜年

あおぞら銀行:日本不動産銀行の設立と日本債券信用銀行への改称

1909年〜閉鎖機関となった朝鮮銀行の国内資産を元手にした不動産銀行の設立

大陸の占領地に資産を寄せた発券銀行の閉鎖

日本不動産銀行の元手は、朝鮮の中央銀行だった朝鮮銀行の国内資産である。朝鮮銀行は1909年11月、第一銀行の韓国内14店を引き継ぐ韓国銀行として発足し、1911年8月の朝鮮銀行法で改称した。銀行券の発行と国庫事務を担いながら、1945年の閉鎖までに延べ109店を東アジアに置いた。日中戦争後は華北の軍費送金を中国連合準備銀行との預け合で賄い、預金に占める中国店の比率は1945年3月末に93%へ達した。資産の大半が占領地に偏った銀行は、敗戦と同時に存立の基盤を失う。1945年9月30日、内地の店舗は連合国最高司令官の命令で閉鎖され、10月20日に日本銀行が特殊清算人に任じられた。のちに新銀行を生むのは、国外の店を切り離して残った、この内地分の資産だけだった。

  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「朝鮮銀行の歴史」
    • [1]朝鮮銀行は1909年11月に第一銀行の韓国内14店を引き継ぎ韓国銀行として設立され、1911年8月の朝鮮銀行法で改称した。発券と国庫事務を担い、閉鎖までに延べ109店を展開した。預金に占める中国店の比率は1937年6月末12.8%から1945年3月末93%へ上昇した
    • [2]朝鮮銀行は1909年11月に第一銀行の韓国内14店を引き継ぎ韓国銀行として設立され、1911年8月の朝鮮銀行法で改称した。発券と国庫事務を担い、閉鎖までに延べ109店を展開した。預金に占める中国店の比率は1937年6月末12.8%から1945年3月末93%へ上昇した
    • [3]朝鮮銀行は1909年11月に第一銀行の韓国内14店を引き継ぎ韓国銀行として設立され、1911年8月の朝鮮銀行法で改称した。発券と国庫事務を担い、閉鎖までに延べ109店を展開した。預金に占める中国店の比率は1937年6月末12.8%から1945年3月末93%へ上昇した
    • [4]朝鮮銀行は1909年11月に第一銀行の韓国内14店を引き継ぎ韓国銀行として設立され、1911年8月の朝鮮銀行法で改称した。発券と国庫事務を担い、閉鎖までに延べ109店を展開した。預金に占める中国店の比率は1937年6月末12.8%から1945年3月末93%へ上昇した
    • [5]朝鮮銀行は1909年11月に第一銀行の韓国内14店を引き継ぎ韓国銀行として設立され、1911年8月の朝鮮銀行法で改称した。発券と国庫事務を担い、閉鎖までに延べ109店を展開した。預金に占める中国店の比率は1937年6月末12.8%から1945年3月末93%へ上昇した
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「内地店の閉鎖と特殊清算の開始」
    • [6]朝鮮銀行の内地店は1945年9月30日に閉鎖機関に指定され、同年10月20日に日本銀行が特殊清算人に任命された
清算の長期化と、税と納付金で削られた残余財産

清算は12年に及び、その間に株主の取り分を縛る措置が重なった。1950年12月に在外活動閉鎖機関へ指定されると、残余財産の処分が禁じられ、清算を終えても株主へ配ることができなくなった。処分の途が開いたのは1953年7月の閉鎖機関令の改正で、同年11月に元副総裁の星野喜代治氏が特殊清算人に就任した。残った資産は約67億円と算定されたが、保有国債54億円を時価85円で評価した結果の値である。発券銀行であった点を理由に納付金28億円が課され、清算所得税と営業税で19億円、地方税で3億円が差し引かれた。新銀行の元手に回せる額は、算定額の4分の1ほどの17億円まで縮んだ。資本の規模は、銀行を立てる側の構想ではなく、国庫と税が取った後の残りで決まったといえる。

  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「内地店の閉鎖と特殊清算の開始」
    • [7]1948年11月12日に閉鎖機関整理委員会が日本銀行から清算事務を引き継ぎ、1950年12月28日の大蔵省告示で朝鮮銀行は在外活動閉鎖機関に指定され、残余財産の処分ができなくなった。1953年7月に閉鎖機関令の改正案が国会を通過し、新会社設立の途が開かれた
    • [8]1948年11月12日に閉鎖機関整理委員会が日本銀行から清算事務を引き継ぎ、1950年12月28日の大蔵省告示で朝鮮銀行は在外活動閉鎖機関に指定され、残余財産の処分ができなくなった。1953年7月に閉鎖機関令の改正案が国会を通過し、新会社設立の途が開かれた
    • [9]1948年11月12日に閉鎖機関整理委員会が日本銀行から清算事務を引き継ぎ、1950年12月28日の大蔵省告示で朝鮮銀行は在外活動閉鎖機関に指定され、残余財産の処分ができなくなった。1953年7月に閉鎖機関令の改正案が国会を通過し、新会社設立の途が開かれた
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「新銀行の設立」
    • [10]1953年11月に星野喜代治元副総裁が特殊清算人に就任。所有国債54億円を85円で評価して残余財産を67億円と算出し、納付金28億円、清算所得税・営業税19億円、地方税付加税3億円を差し引いた17億円で新銀行を設立する見通しとなった
    • [11]1953年11月に星野喜代治元副総裁が特殊清算人に就任。所有国債54億円を85円で評価して残余財産を67億円と算出し、納付金28億円、清算所得税・営業税19億円、地方税付加税3億円を差し引いた17億円で新銀行を設立する見通しとなった
    • [12]1953年11月に星野喜代治元副総裁が特殊清算人に就任。所有国債54億円を85円で評価して残余財産を67億円と算出し、納付金28億円、清算所得税・営業税19億円、地方税付加税3億円を差し引いた17億円で新銀行を設立する見通しとなった
    • [13]1953年11月に星野喜代治元副総裁が特殊清算人に就任。所有国債54億円を85円で評価して残余財産を67億円と算出し、納付金28億円、清算所得税・営業税19億円、地方税付加税3億円を差し引いた17億円で新銀行を設立する見通しとなった
銀行新設を認めない行政と、中小企業向け長期金融という目的

17億円で何を営むかは、当初から不動産金融に定まっていたわけではない。1949年の旧職員と株主の陳情は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を得た不動産金融の銀行を代案に挙げた。1955年9月、星野氏は諮問委員会で不動産銀行案を示したが、大蔵省の金融制度調査室は採算面から無理と判断した。前年に大蔵大臣が銀行新設を当面認めない方針を示していた。局面を変えたのは、中小企業対策として不動産金融の銀行を求めた自由民主党の政調会である。1956年8月の最終案で、資本金10億円、債券で調達し中小企業へ長期で貸す業態が固まった。都市銀行からの22億5,000万円の借入と7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した。行政が認める目的を先に据えたことが、設立を通す条件だったとみられる。

  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「新銀行の設立」
    • [14]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
    • [15]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
    • [16]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
    • [17]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
    • [18]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
    • [19]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
    • [20]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
  • あおぞら銀行 有価証券報告書 第90期(2023年3月期)【沿革】
    • [21]1957年4月、長期信用銀行法に基づき日本不動産銀行として設立(資本金10億円)
参考文献[1]-[21]
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「朝鮮銀行の歴史」
    • [1]朝鮮銀行は1909年11月に第一銀行の韓国内14店を引き継ぎ韓国銀行として設立され、1911年8月の朝鮮銀行法で改称した。発券と国庫事務を担い、閉鎖までに延べ109店を展開した。預金に占める中国店の比率は1937年6月末12.8%から1945年3月末93%へ上昇した
    • [2]朝鮮銀行は1909年11月に第一銀行の韓国内14店を引き継ぎ韓国銀行として設立され、1911年8月の朝鮮銀行法で改称した。発券と国庫事務を担い、閉鎖までに延べ109店を展開した。預金に占める中国店の比率は1937年6月末12.8%から1945年3月末93%へ上昇した
    • [3]朝鮮銀行は1909年11月に第一銀行の韓国内14店を引き継ぎ韓国銀行として設立され、1911年8月の朝鮮銀行法で改称した。発券と国庫事務を担い、閉鎖までに延べ109店を展開した。預金に占める中国店の比率は1937年6月末12.8%から1945年3月末93%へ上昇した
    • [4]朝鮮銀行は1909年11月に第一銀行の韓国内14店を引き継ぎ韓国銀行として設立され、1911年8月の朝鮮銀行法で改称した。発券と国庫事務を担い、閉鎖までに延べ109店を展開した。預金に占める中国店の比率は1937年6月末12.8%から1945年3月末93%へ上昇した
    • [5]朝鮮銀行は1909年11月に第一銀行の韓国内14店を引き継ぎ韓国銀行として設立され、1911年8月の朝鮮銀行法で改称した。発券と国庫事務を担い、閉鎖までに延べ109店を展開した。預金に占める中国店の比率は1937年6月末12.8%から1945年3月末93%へ上昇した
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「内地店の閉鎖と特殊清算の開始」
    • [6]朝鮮銀行の内地店は1945年9月30日に閉鎖機関に指定され、同年10月20日に日本銀行が特殊清算人に任命された
    • [7]1948年11月12日に閉鎖機関整理委員会が日本銀行から清算事務を引き継ぎ、1950年12月28日の大蔵省告示で朝鮮銀行は在外活動閉鎖機関に指定され、残余財産の処分ができなくなった。1953年7月に閉鎖機関令の改正案が国会を通過し、新会社設立の途が開かれた
    • [8]1948年11月12日に閉鎖機関整理委員会が日本銀行から清算事務を引き継ぎ、1950年12月28日の大蔵省告示で朝鮮銀行は在外活動閉鎖機関に指定され、残余財産の処分ができなくなった。1953年7月に閉鎖機関令の改正案が国会を通過し、新会社設立の途が開かれた
    • [9]1948年11月12日に閉鎖機関整理委員会が日本銀行から清算事務を引き継ぎ、1950年12月28日の大蔵省告示で朝鮮銀行は在外活動閉鎖機関に指定され、残余財産の処分ができなくなった。1953年7月に閉鎖機関令の改正案が国会を通過し、新会社設立の途が開かれた
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「新銀行の設立」
    • [10]1953年11月に星野喜代治元副総裁が特殊清算人に就任。所有国債54億円を85円で評価して残余財産を67億円と算出し、納付金28億円、清算所得税・営業税19億円、地方税付加税3億円を差し引いた17億円で新銀行を設立する見通しとなった
    • [11]1953年11月に星野喜代治元副総裁が特殊清算人に就任。所有国債54億円を85円で評価して残余財産を67億円と算出し、納付金28億円、清算所得税・営業税19億円、地方税付加税3億円を差し引いた17億円で新銀行を設立する見通しとなった
    • [12]1953年11月に星野喜代治元副総裁が特殊清算人に就任。所有国債54億円を85円で評価して残余財産を67億円と算出し、納付金28億円、清算所得税・営業税19億円、地方税付加税3億円を差し引いた17億円で新銀行を設立する見通しとなった
    • [13]1953年11月に星野喜代治元副総裁が特殊清算人に就任。所有国債54億円を85円で評価して残余財産を67億円と算出し、納付金28億円、清算所得税・営業税19億円、地方税付加税3億円を差し引いた17億円で新銀行を設立する見通しとなった
    • [14]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
    • [15]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
    • [16]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
    • [17]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
    • [18]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
    • [19]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
    • [20]1949年9月の陳情書は貿易銀行を第一案とし、債券発行の特典を伴う不動産金融の銀行にも触れた。1955年9月27日に星野清算人が不動産銀行案を示したが、10月4日に金融制度調査室は設立は無理との見解を伝えた。1954年6月に大蔵大臣は銀行新設を原則認めない方針を示していた。自民党政調会で不動産金融専門の銀行設立が議題となり、1956年8月11日の最終案で資本金10億円・債券による資金調達・中小企業向け長期資金の貸付が定まった。都市銀行から22億5,000万円の借入、7億5,000万円の政府出資が決まり、1957年4月1日に開業した
  • あおぞら銀行 有価証券報告書 第90期(2023年3月期)【沿革】
    • [21]1957年4月、長期信用銀行法に基づき日本不動産銀行として設立(資本金10億円)

1957年〜債券の消化と中小企業比率に縛られた出発から上場と行名変更まで

債券を購入してもらわなければ貸せない仕組み

日本不動産銀行は預金ではなく債券で資金を調達し、それを中小企業に長く貸す銀行として設計された。開業は1957年4月1日で、本店は千代田区九段にある日本銀行の分館を借用した。第1回の利付債は同年11月に出し、期間5年、利率7%、額面1万円に対する発行価額は9,775円だった。割引債は11ヵ月遅れの1958年10月に出た。債券の買い手は都市銀行から信用金庫まで全国の金融機関に依存するほかなく、販売網の弱さが資金量の上限を決めた。貸出の側では、中小企業等への貸出を総額の70%以上に保つ方針が課された。1961年度末までに代理貸付の契約先は233に広がり、自前の店舗の少なさを他の金融機関の窓口で補った。資金の入口と出口の双方が、設立の経緯から来る条件に縛られていた。

  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「創業――当行の誕生」
    • [22]1957年4月1日に日本銀行九段分館の建物を借りた本店で営業を開始。1957年11月に第1回利付日本不動産債券(期間5年、利率年7%、発行価額9,775円)を発行し、全国の金融機関に消化を求めた。割引債は1958年10月に発行した
    • [23]1957年4月1日に日本銀行九段分館の建物を借りた本店で営業を開始。1957年11月に第1回利付日本不動産債券(期間5年、利率年7%、発行価額9,775円)を発行し、全国の金融機関に消化を求めた。割引債は1958年10月に発行した
    • [24]1957年4月1日に日本銀行九段分館の建物を借りた本店で営業を開始。1957年11月に第1回利付日本不動産債券(期間5年、利率年7%、発行価額9,775円)を発行し、全国の金融機関に消化を求めた。割引債は1958年10月に発行した
    • [25]1957年4月1日に日本銀行九段分館の建物を借りた本店で営業を開始。1957年11月に第1回利付日本不動産債券(期間5年、利率年7%、発行価額9,775円)を発行し、全国の金融機関に消化を求めた。割引債は1958年10月に発行した
    • [26]1957年4月1日に日本銀行九段分館の建物を借りた本店で営業を開始。1957年11月に第1回利付日本不動産債券(期間5年、利率年7%、発行価額9,775円)を発行し、全国の金融機関に消化を求めた。割引債は1958年10月に発行した
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「業礎の確立(昭和32~36年度)」
    • [27]第2期期初の当面の融資取扱方針で、中小企業等への貸出比率を総貸出の70%以上とした。代理店数は1961年度末に都市銀行3、地方銀行64、相互銀行53、信用金庫113の計233となった
    • [28]第2期期初の当面の融資取扱方針で、中小企業等への貸出比率を総貸出の70%以上とした。代理店数は1961年度末に都市銀行3、地方銀行64、相互銀行53、信用金庫113の計233となった
資金量3,000億円と都市銀行の扱い、株式上場

高度成長の資金需要が、この制約の内側でも規模を押し上げた。貸出残高は初年度末の81億8,500万円から1961年度末に1,210億9,600万円となり、14.8倍に伸びた。重荷だった中小企業比率の扱いは、1963年春に大蔵省との間で一応の合意を得た。1964年7月に外国為替業務を始め、翌8月に資金量が3,000億円に達すると、東京銀行協会で都市銀行として扱われることになった。同年9月に東京証券取引所へ上場し、1966年2月に第一部へ移り、1970年2月には大阪証券取引所にも上場した。資金量は1966年度末に6,303億円へ達した。上場で得たのは資金よりも、債券の買い手に示せる信用の裏付けだったと推察される。

  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「業礎の確立(昭和32~36年度)」
    • [29]貸出残高は創業初年度末の81億8,500万円から1961年度末に1,210億9,600万円(14.8倍)
    • [30]貸出残高は創業初年度末の81億8,500万円から1961年度末に1,210億9,600万円(14.8倍)
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「経営基盤の強化(昭和37~41年度)」
    • [31]1963年春に中小企業比率問題で当局と合意。1964年7月に乙種外国為替銀行の認可を得て外国業務を開始。同年8月に資金量3,000億円に達し東京銀行協会理事会で都市銀行として承認された。1964年9月に上場し、1966年2月に第一部へ昇格、1970年2月に大阪証券取引所市場第一部に上場。資金量は1966年度末に6,303億円
    • [32]1963年春に中小企業比率問題で当局と合意。1964年7月に乙種外国為替銀行の認可を得て外国業務を開始。同年8月に資金量3,000億円に達し東京銀行協会理事会で都市銀行として承認された。1964年9月に上場し、1966年2月に第一部へ昇格、1970年2月に大阪証券取引所市場第一部に上場。資金量は1966年度末に6,303億円
    • [34]1963年春に中小企業比率問題で当局と合意。1964年7月に乙種外国為替銀行の認可を得て外国業務を開始。同年8月に資金量3,000億円に達し東京銀行協会理事会で都市銀行として承認された。1964年9月に上場し、1966年2月に第一部へ昇格、1970年2月に大阪証券取引所市場第一部に上場。資金量は1966年度末に6,303億円
    • [36]1963年春に中小企業比率問題で当局と合意。1964年7月に乙種外国為替銀行の認可を得て外国業務を開始。同年8月に資金量3,000億円に達し東京銀行協会理事会で都市銀行として承認された。1964年9月に上場し、1966年2月に第一部へ昇格、1970年2月に大阪証券取引所市場第一部に上場。資金量は1966年度末に6,303億円
  • あおぞら銀行 有価証券報告書 第90期(2023年3月期)【沿革】
    • [33]1964年7月に外国為替業務開始、同年9月に東京証券取引所へ上場、1970年2月に大阪証券取引所へ上場
    • [35]1964年7月に外国為替業務開始、同年9月に東京証券取引所へ上場、1970年2月に大阪証券取引所へ上場
取引先を大企業へ拡大した長期経営計画と行名の変更

1970年6月、勝田龍夫頭取は7ヵ年の長期経営計画を立て、量の拡大を主眼とした従来の計画と目標の立て方を改めた。取引先は中小・中堅企業から大企業へ広がり、不動産金融は建設・不動産・私鉄の3業種を重点に置いた。海外では1974年4月にロンドンへ初の支店を開設し、資金量は1974年度末に2兆8,852億円となった。業務の幅が広がると、不動産銀行という名前が実態から離れた。英文名のThe Nippon Fudosan Bankは海外で意味が伝わらず、頴川史郎副頭取は不動産と説明しても通じない不便を挙げている。1977年10月、債券による調達と長期の信用供与を表す日本債券信用銀行へ行名を改めた。設立の由来を名前から外したことは、中小企業向け不動産金融という出発点からの離脱を内外に示す意味を持った。

  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「長期経営計画の着実な推進」
    • [37]1970年6月に長期経営計画(7ヵ年)を策定し、量的拡大中心の計画と性格を分けた。取引先を中小・中堅企業から大企業へ広げ、不動産金融は建設業・不動産業・私鉄業を重点三業種とした。1971年10月にニューヨーク駐在員事務所、1974年4月にロンドン支店を開設。資金量は1966年度末6,303億円から1974年度末2兆8,852億円(4.6倍)
    • [38]1970年6月に長期経営計画(7ヵ年)を策定し、量的拡大中心の計画と性格を分けた。取引先を中小・中堅企業から大企業へ広げ、不動産金融は建設業・不動産業・私鉄業を重点三業種とした。1971年10月にニューヨーク駐在員事務所、1974年4月にロンドン支店を開設。資金量は1966年度末6,303億円から1974年度末2兆8,852億円(4.6倍)
    • [39]1970年6月に長期経営計画(7ヵ年)を策定し、量的拡大中心の計画と性格を分けた。取引先を中小・中堅企業から大企業へ広げ、不動産金融は建設業・不動産業・私鉄業を重点三業種とした。1971年10月にニューヨーク駐在員事務所、1974年4月にロンドン支店を開設。資金量は1966年度末6,303億円から1974年度末2兆8,852億円(4.6倍)
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「効率経営の推進」
    • [40]日本不動産銀行の名称は業務の実態にそぐわず、英文呼称は海外で理解されにくかったため、創立20周年を機に行名を変更した。新行名は債券による資金調達と長期の信用供与を表し、1977年6月の株主総会の決定を経て同年10月から使用した
    • [41]日本不動産銀行の名称は業務の実態にそぐわず、英文呼称は海外で理解されにくかったため、創立20周年を機に行名を変更した。新行名は債券による資金調達と長期の信用供与を表し、1977年6月の株主総会の決定を経て同年10月から使用した
    • [43]日本不動産銀行の名称は業務の実態にそぐわず、英文呼称は海外で理解されにくかったため、創立20周年を機に行名を変更した。新行名は債券による資金調達と長期の信用供与を表し、1977年6月の株主総会の決定を経て同年10月から使用した
  • 経営コンサルタント 1977年「経営対談 不銀創立20周年」
    • [42]頴川史郎副頭取は、海外で行名をリアル・エステイトと説明しても通じないことや、不動産という枠に収まらない銀行になりつつあることを語った
  • あおぞら銀行 有価証券報告書 第90期(2023年3月期)【沿革】
    • [44]1977年10月、行名を日本債券信用銀行に変更
参考文献[22]-[44]
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「創業――当行の誕生」
    • [22]1957年4月1日に日本銀行九段分館の建物を借りた本店で営業を開始。1957年11月に第1回利付日本不動産債券(期間5年、利率年7%、発行価額9,775円)を発行し、全国の金融機関に消化を求めた。割引債は1958年10月に発行した
    • [23]1957年4月1日に日本銀行九段分館の建物を借りた本店で営業を開始。1957年11月に第1回利付日本不動産債券(期間5年、利率年7%、発行価額9,775円)を発行し、全国の金融機関に消化を求めた。割引債は1958年10月に発行した
    • [24]1957年4月1日に日本銀行九段分館の建物を借りた本店で営業を開始。1957年11月に第1回利付日本不動産債券(期間5年、利率年7%、発行価額9,775円)を発行し、全国の金融機関に消化を求めた。割引債は1958年10月に発行した
    • [25]1957年4月1日に日本銀行九段分館の建物を借りた本店で営業を開始。1957年11月に第1回利付日本不動産債券(期間5年、利率年7%、発行価額9,775円)を発行し、全国の金融機関に消化を求めた。割引債は1958年10月に発行した
    • [26]1957年4月1日に日本銀行九段分館の建物を借りた本店で営業を開始。1957年11月に第1回利付日本不動産債券(期間5年、利率年7%、発行価額9,775円)を発行し、全国の金融機関に消化を求めた。割引債は1958年10月に発行した
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「業礎の確立(昭和32~36年度)」
    • [27]第2期期初の当面の融資取扱方針で、中小企業等への貸出比率を総貸出の70%以上とした。代理店数は1961年度末に都市銀行3、地方銀行64、相互銀行53、信用金庫113の計233となった
    • [28]第2期期初の当面の融資取扱方針で、中小企業等への貸出比率を総貸出の70%以上とした。代理店数は1961年度末に都市銀行3、地方銀行64、相互銀行53、信用金庫113の計233となった
    • [29]貸出残高は創業初年度末の81億8,500万円から1961年度末に1,210億9,600万円(14.8倍)
    • [30]貸出残高は創業初年度末の81億8,500万円から1961年度末に1,210億9,600万円(14.8倍)
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「経営基盤の強化(昭和37~41年度)」
    • [31]1963年春に中小企業比率問題で当局と合意。1964年7月に乙種外国為替銀行の認可を得て外国業務を開始。同年8月に資金量3,000億円に達し東京銀行協会理事会で都市銀行として承認された。1964年9月に上場し、1966年2月に第一部へ昇格、1970年2月に大阪証券取引所市場第一部に上場。資金量は1966年度末に6,303億円
    • [32]1963年春に中小企業比率問題で当局と合意。1964年7月に乙種外国為替銀行の認可を得て外国業務を開始。同年8月に資金量3,000億円に達し東京銀行協会理事会で都市銀行として承認された。1964年9月に上場し、1966年2月に第一部へ昇格、1970年2月に大阪証券取引所市場第一部に上場。資金量は1966年度末に6,303億円
    • [34]1963年春に中小企業比率問題で当局と合意。1964年7月に乙種外国為替銀行の認可を得て外国業務を開始。同年8月に資金量3,000億円に達し東京銀行協会理事会で都市銀行として承認された。1964年9月に上場し、1966年2月に第一部へ昇格、1970年2月に大阪証券取引所市場第一部に上場。資金量は1966年度末に6,303億円
    • [36]1963年春に中小企業比率問題で当局と合意。1964年7月に乙種外国為替銀行の認可を得て外国業務を開始。同年8月に資金量3,000億円に達し東京銀行協会理事会で都市銀行として承認された。1964年9月に上場し、1966年2月に第一部へ昇格、1970年2月に大阪証券取引所市場第一部に上場。資金量は1966年度末に6,303億円
  • あおぞら銀行 有価証券報告書 第90期(2023年3月期)【沿革】
    • [33]1964年7月に外国為替業務開始、同年9月に東京証券取引所へ上場、1970年2月に大阪証券取引所へ上場
    • [35]1964年7月に外国為替業務開始、同年9月に東京証券取引所へ上場、1970年2月に大阪証券取引所へ上場
    • [44]1977年10月、行名を日本債券信用銀行に変更
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「長期経営計画の着実な推進」
    • [37]1970年6月に長期経営計画(7ヵ年)を策定し、量的拡大中心の計画と性格を分けた。取引先を中小・中堅企業から大企業へ広げ、不動産金融は建設業・不動産業・私鉄業を重点三業種とした。1971年10月にニューヨーク駐在員事務所、1974年4月にロンドン支店を開設。資金量は1966年度末6,303億円から1974年度末2兆8,852億円(4.6倍)
    • [38]1970年6月に長期経営計画(7ヵ年)を策定し、量的拡大中心の計画と性格を分けた。取引先を中小・中堅企業から大企業へ広げ、不動産金融は建設業・不動産業・私鉄業を重点三業種とした。1971年10月にニューヨーク駐在員事務所、1974年4月にロンドン支店を開設。資金量は1966年度末6,303億円から1974年度末2兆8,852億円(4.6倍)
    • [39]1970年6月に長期経営計画(7ヵ年)を策定し、量的拡大中心の計画と性格を分けた。取引先を中小・中堅企業から大企業へ広げ、不動産金融は建設業・不動産業・私鉄業を重点三業種とした。1971年10月にニューヨーク駐在員事務所、1974年4月にロンドン支店を開設。資金量は1966年度末6,303億円から1974年度末2兆8,852億円(4.6倍)
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「効率経営の推進」
    • [40]日本不動産銀行の名称は業務の実態にそぐわず、英文呼称は海外で理解されにくかったため、創立20周年を機に行名を変更した。新行名は債券による資金調達と長期の信用供与を表し、1977年6月の株主総会の決定を経て同年10月から使用した
    • [41]日本不動産銀行の名称は業務の実態にそぐわず、英文呼称は海外で理解されにくかったため、創立20周年を機に行名を変更した。新行名は債券による資金調達と長期の信用供与を表し、1977年6月の株主総会の決定を経て同年10月から使用した
    • [43]日本不動産銀行の名称は業務の実態にそぐわず、英文呼称は海外で理解されにくかったため、創立20周年を機に行名を変更した。新行名は債券による資金調達と長期の信用供与を表し、1977年6月の株主総会の決定を経て同年10月から使用した
  • 経営コンサルタント 1977年「経営対談 不銀創立20周年」
    • [42]頴川史郎副頭取は、海外で行名をリアル・エステイトと説明しても通じないことや、不動産という枠に収まらない銀行になりつつあることを語った

1977年〜安定成長と金融自由化の中で不動産と金融周辺業へ傾いた貸出

大蔵省出身の頭取と、長期資金の担い手としての自己規定

行名を改めた翌年の1978年10月、安川七郎氏が第六代頭取に就任した。安川氏は大蔵省で国税庁長官まで務めた後、1977年8月に顧問として入行した。就任直後の取材で、変化の時代にこそ長期資金の需要が生まれるとし、多品種少量のサービスを銀行の役割に挙げた。第一次石油危機の後は新たな長期計画を立てず、短期の業務計画で運営を続けた。この間、公共債の大量発行で有価証券の残高が積み上がり、1982年度末に総資金量の19%を占めた。資金量は1974年度末の2兆8,851億円から1982年度末に7兆1,021億円となった。1977年の対談で頴川氏は、中堅企業中心を保ちつつ電力・鉄鋼など基幹産業との取引も広げると語った。貸出先の中心が曖昧なまま、規模だけが伸びた時期と思われる。

  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「効率経営の推進」
    • [45]1976年度末で長期経営計画を終え、その後は短期の業務計画に基づいて運営。1978年10月に安川七郎副頭取が第六代頭取に就任。有価証券は1982年度末に総資金量の19%に達した。資金量は1974年度末2兆8,851億円から1982年度末7兆1,021億円
    • [48]1976年度末で長期経営計画を終え、その後は短期の業務計画に基づいて運営。1978年10月に安川七郎副頭取が第六代頭取に就任。有価証券は1982年度末に総資金量の19%に達した。資金量は1974年度末2兆8,851億円から1982年度末7兆1,021億円
    • [49]1976年度末で長期経営計画を終え、その後は短期の業務計画に基づいて運営。1978年10月に安川七郎副頭取が第六代頭取に就任。有価証券は1982年度末に総資金量の19%に達した。資金量は1974年度末2兆8,851億円から1982年度末7兆1,021億円
    • [50]1976年度末で長期経営計画を終え、その後は短期の業務計画に基づいて運営。1978年10月に安川七郎副頭取が第六代頭取に就任。有価証券は1982年度末に総資金量の19%に達した。資金量は1974年度末2兆8,851億円から1982年度末7兆1,021億円
  • 日経ビジネス 1979年1月15日号
    • [46]安川七郎氏は国税庁長官を経て1975年7月に大蔵省を退官し、1977年8月に日本不動産銀行顧問、同年12月副頭取、1978年10月16日頭取に就任した。変化の時代こそ長期資金需要があり、少量多品種の感覚でサービスを提供するのが銀行の役割との考えを示した
    • [47]安川七郎氏は国税庁長官を経て1975年7月に大蔵省を退官し、1977年8月に日本不動産銀行顧問、同年12月副頭取、1978年10月16日頭取に就任した。変化の時代こそ長期資金需要があり、少量多品種の感覚でサービスを提供するのが銀行の役割との考えを示した
  • 経営コンサルタント 1977年「経営対談 不銀創立20周年」
    • [51]頴川史郎副頭取は中堅企業中心の方針を維持しつつ、電力・鉄鋼など基幹産業との取引も拡大するとした
製造業の資金需要が細るなかで増えた不動産業と金融周辺業への貸出

1982年度に長期経営計画PROJECT30が始まり、同年11月に頴川史郎氏が第七代頭取に就任した。自由化で大企業の銀行離れが進み、製造業の比率は1982年度末の23.6%から1986年度末に15.3%へ下がった。代わって伸びたのは不動産業と、ノンバンクや信販を含む金融・保険業である。1985〜86年度の貸出純増の相当部分を不動産業が占めた。1983年11月には、オフィスビルやホテル用地の高度利用に最長20年まで貸す不動産高度利用ローンを設けた。住宅ローンは本体で絞る一方、住宅金融専門会社向けの貸出は1986年度末に2,429億円、総貸出の3.5%に達した。資金量は同年度末に10兆7,954億円に達した。製造業に代わる貸出先を、担保の取りやすい不動産とその周辺に求めたことになる。

  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「金融新時代の当行の経営」
    • [52]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
    • [53]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
    • [54]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
    • [55]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
    • [56]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
    • [57]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
    • [58]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「効率経営の推進」
    • [59]資金量は1982年度末に7兆1,021億円
先行2行との規模の差と、生え抜き頭取による組織の立て直し

1987年に就任した松岡誠司頭取は、日本債券信用銀行で初めての生え抜きの頭取だった。それまでは生みの親とされる勝田龍夫氏が長く経営の頂点にあり、重要な情報を会長と担当役員が握る意思決定が続いたという。1990年3月期の業務純益は396億円で、日本興業銀行の43%、日本長期信用銀行の70%にとどまった。拠点数も内外25ヵ所と、興銀の37ヵ所、長銀の31ヵ所を下回った。32歳という行員の平均年齢は興銀・長銀の34歳を下回り、法人営業の経験の薄さが課題とされた。1990年5月には20億円を投じた営業情報交換システムを動かし、現場の案件情報を全店で共有させた。資金量が10兆円を超えた時点で、日本債券信用銀行の取引基盤は長信銀3行の中で最も狭いままだった。不動産関連へ傾いた貸出は、その差を埋める手段でもあったのだろう。

  • 日経ビジネス 1990年7月16日号
    • [60]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した
    • [61]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した
    • [62]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した
    • [63]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した
    • [64]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した
    • [65]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した
    • [66]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「金融新時代の当行の経営」
    • [67]資金量は1986年度末に10兆7,954億円となり、10兆円銀行の仲間入りをした
参考文献[45]-[67]
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「効率経営の推進」
    • [45]1976年度末で長期経営計画を終え、その後は短期の業務計画に基づいて運営。1978年10月に安川七郎副頭取が第六代頭取に就任。有価証券は1982年度末に総資金量の19%に達した。資金量は1974年度末2兆8,851億円から1982年度末7兆1,021億円
    • [48]1976年度末で長期経営計画を終え、その後は短期の業務計画に基づいて運営。1978年10月に安川七郎副頭取が第六代頭取に就任。有価証券は1982年度末に総資金量の19%に達した。資金量は1974年度末2兆8,851億円から1982年度末7兆1,021億円
    • [49]1976年度末で長期経営計画を終え、その後は短期の業務計画に基づいて運営。1978年10月に安川七郎副頭取が第六代頭取に就任。有価証券は1982年度末に総資金量の19%に達した。資金量は1974年度末2兆8,851億円から1982年度末7兆1,021億円
    • [50]1976年度末で長期経営計画を終え、その後は短期の業務計画に基づいて運営。1978年10月に安川七郎副頭取が第六代頭取に就任。有価証券は1982年度末に総資金量の19%に達した。資金量は1974年度末2兆8,851億円から1982年度末7兆1,021億円
    • [59]資金量は1982年度末に7兆1,021億円
  • 日経ビジネス 1979年1月15日号
    • [46]安川七郎氏は国税庁長官を経て1975年7月に大蔵省を退官し、1977年8月に日本不動産銀行顧問、同年12月副頭取、1978年10月16日頭取に就任した。変化の時代こそ長期資金需要があり、少量多品種の感覚でサービスを提供するのが銀行の役割との考えを示した
    • [47]安川七郎氏は国税庁長官を経て1975年7月に大蔵省を退官し、1977年8月に日本不動産銀行顧問、同年12月副頭取、1978年10月16日頭取に就任した。変化の時代こそ長期資金需要があり、少量多品種の感覚でサービスを提供するのが銀行の役割との考えを示した
  • 経営コンサルタント 1977年「経営対談 不銀創立20周年」
    • [51]頴川史郎副頭取は中堅企業中心の方針を維持しつつ、電力・鉄鋼など基幹産業との取引も拡大するとした
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「金融新時代の当行の経営」
    • [52]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
    • [53]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
    • [54]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
    • [55]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
    • [56]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
    • [57]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
    • [58]1982年度から長期経営計画PROJECT30を推進し、1982年11月に頴川史郎副頭取が第七代頭取に就任。製造業の貸出残高比率は1982年度末23.6%から1986年度末15.3%に低下し、不動産業、金融・保険業(ノンバンク・信販)の増加率が高く、1985〜86年度は不動産業が貸出純増の相当部分を占めた。1983年11月に不動産高度利用ローン(貸出期間最長20年)を制定。住宅金融専門会社への貸出は1986年度末2,429億円(総貸出の3.5%)。資金量は1982年度末7兆1,021億円から1986年度末10兆7,954億円
    • [67]資金量は1986年度末に10兆7,954億円となり、10兆円銀行の仲間入りをした
  • 日経ビジネス 1990年7月16日号
    • [60]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した
    • [61]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した
    • [62]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した
    • [63]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した
    • [64]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した
    • [65]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した
    • [66]1987年就任の松岡誠司頭取は同行初の生え抜き。勝田龍夫名誉会長が長年トップにあり、実力会長と担当役員の相対で意思決定していたと幹部が証言した。1990年3月期の業務純益は396億円で興銀の43%、長銀の70%。内外拠点は25ヵ所(興銀37、長銀31)。全行員の平均年齢32歳は都銀・長信銀で最も若く、興銀・長銀は34歳。1990年5月に投資額20億円の営業情報交換システム(WINS)を稼働した

1957年〜1993年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1957年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1972年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1973年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1974年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1975年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1976年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1977年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1978年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1979年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1980年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1981年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1982年03月期 単体 6,342 n/a 335 5.3% 166 n/a
1983年03月期 単体 6,507 +2.6% 329 5.1% 169 n/a
1984年03月期 単体 6,893 +5.9% 357 5.2% 170 n/a
1985年03月期 単体 8,417 +22.1% 408 4.8% 171 n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1993年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

13件
出典・参考
  • あおぞら銀行 有価証券報告書 第90期(2023年3月期)【沿革】
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「朝鮮銀行の歴史」
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「内地店の閉鎖と特殊清算の開始」
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「新銀行の設立」
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「創業――当行の誕生」
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「業礎の確立(昭和32~36年度)」
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「経営基盤の強化(昭和37~41年度)」
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「長期経営計画の着実な推進」
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「効率経営の推進」
  • 『日本債券信用銀行三十年史』(1993年)「金融新時代の当行の経営」
  • 日経ビジネス 1979年1月15日号
  • 日経ビジネス 1990年7月16日号
  • 経営コンサルタント 1977年「経営対談 不銀創立20周年」

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