日商岩井:三度の合併による総合商社化と日商岩井の発足
1956年〜三井系商社を引き受けて拡大した商権
日商は鈴木商店から引き継いだ商権に、合併で新しい商品構成を足した。1941年の桜井商店に続き、1954年に信興棉花を吸収合併した。1956年には白洋貿易との合併が調印された。吸収の年は資料によって1955年から1957年まで割れる。白洋貿易は三井物産解体時の社長であった宮崎清氏が世界屈指の穀物商であるブンゲ商会と組んで設立した三井系の商社で、食糧と繊維に強い地盤を持っていた。旧鈴木商店と三井物産の間には長年の対抗意識があり、日商の社内には拒絶反応が出て一度は断った。第一銀行の再三の要請を受けて合併に踏み切った。金属と機械に比重の高かった日商との合併で総合商社としての体制が一段と整った、と企業の歴史 明治百年(1968年)は記す。
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- [1]日商は合併により商品構成を広げた
- [2]1941年の桜井商店に続き1954年に信興棉花を吸収合併した
- [4]白洋貿易の吸収年は私の履歴書 西川政一が1955年、企業の歴史 明治百年が1956年調印、私の履歴書 高畑誠一が1957年とし資料間で割れる
- [5]白洋貿易は三井物産解体時の社長宮崎清氏がブンゲ商会と組んで設立した三井系商社であった
- [7]旧鈴木商店と三井物産の対抗意識から日商社内に拒絶反応が出て一度断った
- 私の履歴書 経済人17「西川政一」(日本経済新聞社、1981年)
- [3]白洋貿易との合併は1956年に調印された(吸収年は資料により1955〜1957年で割れる)
- [8]第一銀行の再三の要請を受けて白洋貿易との合併に踏み切った
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- [6]白洋貿易は食糧と繊維に強い地盤を持っていた
- [9]企業の歴史 明治百年は合併で総合商社としての体制が一段と整ったと記す
商権の幅は原子力と航空機にも及んだ。1956年、原子力基本法の施行を機に、日商をはじめ古河・川崎・神戸製鋼の各系列14社が第一原子力産業グループを結成した。1959年には日本原子力発電が同グループの推す英国GEC社と契約を締結し、日本で最初の原子力発電所の建設が始まった。日商は輸入重量物の輸送と保険の分野を担い、海外メーカーの紹介・提携にも関わった。同じ1959年に米ボーイング社の日本総代理店となり、以後727型・737型・747型を国内の航空会社へ納めた。1962年にはLPGを1万6000トン輸入した。液化ガスの取扱実績は、1968年の時点で業界第1位となっている。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- [10]商権は原子力と航空機にも及んだ
- [11]1956年の原子力基本法施行を機に日商など14社が第一原子力産業グループを結成した
- [12]1959年に日本原子力発電が同グループの推す英国GEC社と契約し日本初の原子力発電所建設が始まった
- [13]日商は輸入重量物の輸送と保険の分野を担当した
- [14]1959年に米ボーイング社の日本総代理店となり727型・737型・747型を国内航空会社へ納入した
- [15]1962年にLPGを1万6000トン輸入した
- [16]1962年にLPGを1万6000トン輸入し、1968年時点の液化ガス取扱実績は業界第1位であった
1958年秋、落合豊一社長が在職のまま亡くなり、西川政一氏が後を継いだ。日商の創立から30年の年であった。1960年に資本金を35億円へ増やし、取扱高は初めて半期1000億円を超えたが、大手商社のなかでの順位はなお第7位である。1961年には業界に先んじて本社機能の大半を東京へ移した。1963年に資本金を70億円としても順位は変わらず、三井・三菱との差は開くばかりだった。西川氏は後年、規模がすべてではないとしながらも、高度成長期を生き抜くには規模の追求も経営戦略のひとつだったと書き残している。
- 私の履歴書 経済人17「西川政一」(日本経済新聞社、1981年)
- [17]1958年秋に落合豊一社長が在職中に死去し西川政一氏が社長に就任した
- [18]西川氏の社長就任は日商創立30周年の年であった
- [19]1960年に資本金35億円へ増資し取扱高が半期1000億円を超えたが順位は第7位であった
- [20]1961年に本社機能の大半を東京へ移転した
- 私の商社昭和史(1987年)8章「四〇年不況と大型合併」
- [21]1963年に資本金70億円としても取扱規模は第7位のままであった
- [22]西川氏は高度成長期を生き抜くには規模の追求も経営戦略の一つだったと書き残した
参考文献[1]-[22]
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- [1]日商は合併により商品構成を広げた
- [2]1941年の桜井商店に続き1954年に信興棉花を吸収合併した
- [4]白洋貿易の吸収年は私の履歴書 西川政一が1955年、企業の歴史 明治百年が1956年調印、私の履歴書 高畑誠一が1957年とし資料間で割れる
- [5]白洋貿易は三井物産解体時の社長宮崎清氏がブンゲ商会と組んで設立した三井系商社であった
- [7]旧鈴木商店と三井物産の対抗意識から日商社内に拒絶反応が出て一度断った
- 私の履歴書 経済人17「西川政一」(日本経済新聞社、1981年)
- [3]白洋貿易との合併は1956年に調印された(吸収年は資料により1955〜1957年で割れる)
- [8]第一銀行の再三の要請を受けて白洋貿易との合併に踏み切った
- [17]1958年秋に落合豊一社長が在職中に死去し西川政一氏が社長に就任した
- [18]西川氏の社長就任は日商創立30周年の年であった
- [19]1960年に資本金35億円へ増資し取扱高が半期1000億円を超えたが順位は第7位であった
- [20]1961年に本社機能の大半を東京へ移転した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- [6]白洋貿易は食糧と繊維に強い地盤を持っていた
- [9]企業の歴史 明治百年は合併で総合商社としての体制が一段と整ったと記す
- [10]商権は原子力と航空機にも及んだ
- [11]1956年の原子力基本法施行を機に日商など14社が第一原子力産業グループを結成した
- [12]1959年に日本原子力発電が同グループの推す英国GEC社と契約し日本初の原子力発電所建設が始まった
- [13]日商は輸入重量物の輸送と保険の分野を担当した
- [14]1959年に米ボーイング社の日本総代理店となり727型・737型・747型を国内航空会社へ納入した
- [15]1962年にLPGを1万6000トン輸入した
- [16]1962年にLPGを1万6000トン輸入し、1968年時点の液化ガス取扱実績は業界第1位であった
- 私の商社昭和史(1987年)8章「四〇年不況と大型合併」
- [21]1963年に資本金70億円としても取扱規模は第7位のままであった
- [22]西川氏は高度成長期を生き抜くには規模の追求も経営戦略の一つだったと書き残した
1963年〜40年不況が呼び込んだ合併の連鎖
1963年末から日本の国際収支の赤字が広がり、1964年3月に公定歩合が引き上げられて金融引締めに転じた。1964年10月の東京オリンピックを見込んだ設備拡張の反動でもあった。引締めの影響は鉄鋼・化学・機械へ及び、収益性を無視した市場占有率の競争に走る企業も現れて、経営危機に陥る例が続出したのが40年不況である。1965年3月には山陽特殊製鋼が当時としては戦後最高の500億円近い負債を残して事実上倒産し、5月には山一證券が証券不況の直撃を受けて日銀特融でかろうじて危機を逃れた。
- 私の商社昭和史(1987年)8章「四〇年不況と大型合併」
- [23]1963年末から国際収支の赤字が拡大し1964年3月に公定歩合が引き上げられた
- [24]東京オリンピックを見込んだ設備拡張の反動でもあった
- [25]引締めの影響は鉄鋼・化学・機械に及び経営危機に陥る企業が続出した
- [26]一連の経営危機は40年不況と呼ばれた
- [27]1965年3月に山陽特殊製鋼が500億円近い負債を残して事実上倒産した
- [28]1965年5月に山一證券が日銀特融で危機を回避した
日商が他社との合併もいとわないとの方針を示したのは、1966年の定例幹部会"日商会議"の場である。背景には、国際競争力の強化を掲げた業界再編の続発があった。三重工が合併して三菱重工業が生まれ、東洋紡績は呉羽紡績と、日産自動車はプリンス自動車と一つになった。商社では三井物産が木下産商を吸収し、丸紅飯田は1966年6月に東通を合併、1967年には江商と兼松が合流した。江商は関西五綿に数えられた一社である。石油ショックのさなかには安宅産業も伊藤忠商事に吸収され、10大商社の数はさらに縮んだ。
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- [29]1966年の日商会議で他社との合併も辞さないという方針を打ち出した
- 私の商社昭和史(1987年)8章「四〇年不況と大型合併」
- [30]国際競争力強化を掲げた業界再編が相次いだ
- [31]三菱重工業の3社合併・東洋紡績と呉羽紡績の合併・日産自動車とプリンス自動車の合併が続いた
- [32]1966年6月に丸紅飯田が東通を合併し1967年に江商と兼松が合併した
- [33]石油ショック時に安宅産業が倒れ伊藤忠商事に吸収された
岩井産業は創業から100年を数える関西の商社であったが、取引先の倒産が続けて響いていた。1964年12月に会社更生手続の開始を申し立てたサンウエーブ工業は、1966年3月の更生計画認可にあたって日新製鋼・岩井産業・三井物産の3社を中心に再建が図られた。平松商店の倒産も重なった。経営の安定を期しがたくなった岩井産業について、主力銀行である三和銀行から西川氏へ合併の可能性を打診する話が持ち込まれた。合併は1968年4月27日の読売新聞一面四段抜きの『日商、岩井産業合併、業界第五位の商社に』で表に出、5月2日に大阪繊維輸出会館で両社社長が正式発表と仮調印を行った。
- 私の商社昭和史(1987年)8章「四〇年不況と大型合併」
- [34]岩井産業は創業100年を数える関西の商社であった
- [36]平松商店の倒産も重なった
- [37]主力銀行の三和銀行から西川氏へ合併の可能性の打診があった
- [38]1968年4月27日に読売新聞が一面四段抜きで合併を報じた
- [39]1968年5月2日に大阪繊維輸出会館で正式発表と仮調印を行った
- 証券 1990年3号
- [35]サンウエーブ工業は1964年12月に会社更生手続開始を申し立て1966年3月の更生計画認可で日新製鋼・岩井産業・三井物産が再建にあたった
参考文献[23]-[39]
- 私の商社昭和史(1987年)8章「四〇年不況と大型合併」
- [23]1963年末から国際収支の赤字が拡大し1964年3月に公定歩合が引き上げられた
- [24]東京オリンピックを見込んだ設備拡張の反動でもあった
- [25]引締めの影響は鉄鋼・化学・機械に及び経営危機に陥る企業が続出した
- [26]一連の経営危機は40年不況と呼ばれた
- [27]1965年3月に山陽特殊製鋼が500億円近い負債を残して事実上倒産した
- [28]1965年5月に山一證券が日銀特融で危機を回避した
- [30]国際競争力強化を掲げた業界再編が相次いだ
- [31]三菱重工業の3社合併・東洋紡績と呉羽紡績の合併・日産自動車とプリンス自動車の合併が続いた
- [32]1966年6月に丸紅飯田が東通を合併し1967年に江商と兼松が合併した
- [33]石油ショック時に安宅産業が倒れ伊藤忠商事に吸収された
- [34]岩井産業は創業100年を数える関西の商社であった
- [36]平松商店の倒産も重なった
- [37]主力銀行の三和銀行から西川氏へ合併の可能性の打診があった
- [38]1968年4月27日に読売新聞が一面四段抜きで合併を報じた
- [39]1968年5月2日に大阪繊維輸出会館で正式発表と仮調印を行った
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- [29]1966年の日商会議で他社との合併も辞さないという方針を打ち出した
- 証券 1990年3号
- [35]サンウエーブ工業は1964年12月に会社更生手続開始を申し立て1966年3月の更生計画認可で日新製鋼・岩井産業・三井物産が再建にあたった
1968年〜業界第5位で始まった日商岩井の商品構成
1968年10月1日、39人で出発した日商の創立から40年にあたる年に、日商と岩井産業が合併して日商岩井が発足した。両社の単純合計でみた規模は年商約1兆2000億円で、業界第5位に位置した。商品構成は金属40%・物資25%・機械14%・繊維12%・食糧9%、取引別では国内51%・輸入29%・輸出16%・海外4%である。鉄鋼の取扱いは業界第3位となり、工業塩と木材はトップクラスに立った。国内店は約40店、海外店は約74店を数えた。合併の結果、10大商社と呼ばれる体制ができあがり、戦後2度目の商社再編はここで区切りがついた。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- [40]1968年10月1日に日商と岩井産業が合併し日商岩井が発足した
- [42]両社の単純合計の規模は年商約1兆2000億円で業界第5位であった
- [43]商品構成は金属40%・物資25%・機械14%・繊維12%・食糧9%であった
- [44]取引別構成は国内51%・輸入29%・輸出16%・海外4%であった
- [45]鉄鋼の取扱いは業界第3位、国内店約40店・海外店約74店であった
- 私の商社昭和史(1987年)8章「四〇年不況と大型合併」
- [41]合併は39人で出発した日商の創立から40年にあたる年であった
- [46]この合併で10大商社体制が成立し戦後2度目の商社再編が区切りを迎えた
同席した三井物産の役員がホロリとしたと、同書の著者は書き残している。その言葉とは、貿易商社会の会合を締めくくる際に岩井産業の岩井英夫社長が述べた、この集まりに顔を出すのはおそらく今回限りだろうという挨拶である。1968年秋、合併の動きが始まった直後に脳血栓で倒れた西川氏は約半年入院し、1969年秋に社長を辻良雄氏に譲って会長に就いた。日商岩井の半期取扱高が1兆円を超えたのは1972年で、資本金は154億円になっていた。発足時に6950人だった従業員は、10年後の1978年時点でも約7000人であった。
- 私の商社昭和史(1987年)8章「グループの中核として」
- [47]同席した三井物産の関係者はその挨拶にホロリとしたと書き残した
- [48]岩井英夫社長は貿易商社会の会合で最後の挨拶を述べた
- 私の履歴書 経済人17「西川政一」(日本経済新聞社、1981年)
- [49]1968年秋に西川氏が脳血栓で倒れ約半年入院した
- [50]1969年秋に西川氏は社長を辻良雄氏へ譲り会長へ退いた
- [51]1972年に半期取扱高が1兆円を超え資本金は154億円となった
- [53]1978年時点の従業員も約7000人で発足時とほぼ変わらなかった
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- [52]日商岩井の発足時の従業員は6950人であった
参考文献[40]-[53]
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- [40]1968年10月1日に日商と岩井産業が合併し日商岩井が発足した
- [42]両社の単純合計の規模は年商約1兆2000億円で業界第5位であった
- [43]商品構成は金属40%・物資25%・機械14%・繊維12%・食糧9%であった
- [44]取引別構成は国内51%・輸入29%・輸出16%・海外4%であった
- [45]鉄鋼の取扱いは業界第3位、国内店約40店・海外店約74店であった
- [52]日商岩井の発足時の従業員は6950人であった
- 私の商社昭和史(1987年)8章「四〇年不況と大型合併」
- [41]合併は39人で出発した日商の創立から40年にあたる年であった
- [46]この合併で10大商社体制が成立し戦後2度目の商社再編が区切りを迎えた
- 私の商社昭和史(1987年)8章「グループの中核として」
- [47]同席した三井物産の関係者はその挨拶にホロリとしたと書き残した
- [48]岩井英夫社長は貿易商社会の会合で最後の挨拶を述べた
- 私の履歴書 経済人17「西川政一」(日本経済新聞社、1981年)
- [49]1968年秋に西川氏が脳血栓で倒れ約半年入院した
- [50]1969年秋に西川氏は社長を辻良雄氏へ譲り会長へ退いた
- [51]1972年に半期取扱高が1兆円を超え資本金は154億円となった
- [53]1978年時点の従業員も約7000人で発足時とほぼ変わらなかった
1956年〜1982年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1956年09月期 | 単体 | 921 | n/a | n/a | 4 | n/a | n/a | n/a |
| 1957年09月期 | 単体 | 1,425 | +54.8% | n/a | 6 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年09月期 | 単体 | 1,208 | ▲15.3% | n/a | 5 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年09月期 | 単体 | 1,301 | +7.7% | n/a | 7 | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 534 | ▲58.9% | n/a | 4 | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 1,639 | +206.9% | n/a | 10 | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 2,468 | +50.6% | 18 | 11 | 7 | 0.3% | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 2,381 | ▲3.5% | 23 | 10 | 7 | 0.3% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 3,653 | +53.4% | n/a | n/a | 11 | 0.3% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 4,519 | +23.7% | n/a | n/a | 11 | 0.3% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 4,883 | +8.1% | n/a | n/a | 11 | 0.2% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 5,957 | +22.0% | n/a | n/a | 12 | 0.2% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 7,047 | +18.3% | n/a | n/a | 14 | 0.2% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 10,082 | +43.1% | n/a | n/a | 16 | 0.2% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 15,084 | +49.6% | n/a | n/a | 22 | 0.1% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 17,618 | +16.8% | n/a | 50 | 26 | 0.1% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 18,181 | +3.2% | n/a | 34 | 19 | 0.1% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 22,539 | +24.0% | n/a | 106 | 35 | 0.2% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 33,841 | +50.1% | n/a | 125 | 57 | 0.2% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 40,050 | +18.4% | n/a | 109 | 57 | 0.1% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 39,598 | ▲1.1% | n/a | 90 | 43 | 0.1% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 45,270 | +14.3% | n/a | 111 | 44 | 0.1% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 42,834 | ▲5.4% | n/a | 35 | 23 | 0.1% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 41,772 | ▲2.5% | 174 | 93 | 29 | 0.1% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 57,697 | +38.1% | n/a | 100 | 43 | 0.1% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 65,847 | +14.1% | n/a | 132 | 1 | 0.0% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 74,321 | +12.9% | n/a | 115 | 56 | 0.1% | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算、会社年鑑
出典・参考
6件
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- 証券 1990年3号
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- 私の履歴書 経済人17「西川政一」(日本経済新聞社、1981年)
- 私の商社昭和史(1987年)8章「四〇年不況と大型合併」
- 私の商社昭和史(1987年)8章「グループの中核として」