日商岩井:39人が拠出した18万5000円での日商設立と岩井産業への改称
1928年〜融資を止めた銀行が筆頭株主になった再出発
鈴木商店の破綻時、本社の社員は海外駐在員を含めて約1000人いた。大部分は数か月のうちに神戸製鋼所・帝国人造絹糸・国際汽船などへ移り、数十人が再起を期して残った。台湾銀行や横浜正金銀行といった大口債権者は、金子直吉氏の復帰と"鈴木"の名による再建に反対していた。そこで残った社員は、鈴木商店の直系子会社で永井幸太郎氏が専務として実権を掌握していた日本商業を改組する形をとった。1928年2月8日、日商株式会社が創立総会を開き、資本金100万円で発足した。社長は台湾銀行の元副頭取である下坂藤太郎氏、常務は高畑誠一氏と永井幸太郎氏、社員は総勢39人であった。
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- [1]鈴木商店の破綻時の本社社員は海外駐在員を含め約1000人であった
- [2]大部分は神戸製鋼所・帝国人造絹糸・国際汽船などへ移り数十人が残留した
- [3]大口債権者が金子直吉氏の復帰と鈴木の名による再建に反対した
- 会社銀行八十年史(1955年)「日商」
- [4]鈴木商店直系の日本商業を改組する形で設立した
- [5]1928年2月8日に日商株式会社が資本金100万円で創立した
- 私の履歴書 経済人17「西川政一」(日本経済新聞社、1981年)
- [6]社長は下坂藤太郎氏、常務は高畑誠一氏と永井幸太郎氏、社員は39人であった
81万5000円は下坂藤太郎氏と各務謙吉氏の出資、および旧日本商業が台湾銀行・第六十五銀行・横浜正金銀行に負っていた債務の出資金への振替であり、鈴木商店から残った39人が自ら拠出したのは18万5000円にすぎなかった。出資額が最大だったのは台湾銀行の46万500円である。融資を打ち切って鈴木商店を倒した銀行が、その後継会社の筆頭株主になっていた。設立の時点で、台湾銀行は鈴木商店向けに当時の金で4億円近い貸出を抱えていた。日商が台湾銀行の持株を買い戻して独り立ちするのは、設立から4年を経た1932年のことである。
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- [7]資本金100万円のうち81万5000円は下坂氏・各務氏の出資と旧日本商業債務の振替であった
- [8]鈴木商店から残った39人の拠出額は18万5000円であった
- [9]出資額が最大だったのは台湾銀行の46万500円であった
- [10]台湾銀行が最大の出資者として後継会社の筆頭株主となった
- [11]台湾銀行の鈴木商店向け貸出は当時の金で4億円近くに達していた
- [12]1932年に台湾銀行の持株を買い戻して独立した
社長を引き受けた下坂藤太郎氏は、出社しない、したがって給料も受け取らない、盆暮れに灘の生一本を薦かぶりで一樽送ってもらえればよい、という条件を出した。1941年に亡くなるまでこの約束は守られた。日商が引き継いだ商権のうち大きかったのは、ボンベイに残った多賀二夫氏が確保したインド・タタ社の銑鉄について日本・香港・中国大陸の一手販売権と、ニューヨークに残った社員が結んだリッチフィールド石油の輸入代理店契約であった。設立を報じたある新聞は、三年ももてば上出来だと書いた。社内が掲げた標語は『スモール、スロウ・バット・ステディ』である。
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- [13]下坂藤太郎氏は出社せず給料も受け取らない条件で社長を引き受けた
- [15]インド・タタ社銑鉄の日本・香港・中国大陸一手販売権を多賀二夫氏が確保した
- [16]ニューヨーク残留の社員がリッチフィールド石油の輸入代理店契約を結んだ
- [17]設立を報じた新聞は三年もてば上出来だと書いた
- [18]設立時の標語は「スモール、スロウ・バット・ステディ」であった
- 私の履歴書 経済人17「西川政一」(日本経済新聞社、1981年)
- [14]下坂氏は1941年に亡くなるまでこの条件を守った
参考文献[1]-[18]
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- [1]鈴木商店の破綻時の本社社員は海外駐在員を含め約1000人であった
- [2]大部分は神戸製鋼所・帝国人造絹糸・国際汽船などへ移り数十人が残留した
- [3]大口債権者が金子直吉氏の復帰と鈴木の名による再建に反対した
- [7]資本金100万円のうち81万5000円は下坂氏・各務氏の出資と旧日本商業債務の振替であった
- [8]鈴木商店から残った39人の拠出額は18万5000円であった
- [9]出資額が最大だったのは台湾銀行の46万500円であった
- [10]台湾銀行が最大の出資者として後継会社の筆頭株主となった
- [11]台湾銀行の鈴木商店向け貸出は当時の金で4億円近くに達していた
- [12]1932年に台湾銀行の持株を買い戻して独立した
- [13]下坂藤太郎氏は出社せず給料も受け取らない条件で社長を引き受けた
- [15]インド・タタ社銑鉄の日本・香港・中国大陸一手販売権を多賀二夫氏が確保した
- [16]ニューヨーク残留の社員がリッチフィールド石油の輸入代理店契約を結んだ
- [17]設立を報じた新聞は三年もてば上出来だと書いた
- [18]設立時の標語は「スモール、スロウ・バット・ステディ」であった
- 会社銀行八十年史(1955年)「日商」
- [4]鈴木商店直系の日本商業を改組する形で設立した
- [5]1928年2月8日に日商株式会社が資本金100万円で創立した
- 私の履歴書 経済人17「西川政一」(日本経済新聞社、1981年)
- [6]社長は下坂藤太郎氏、常務は高畑誠一氏と永井幸太郎氏、社員は39人であった
- [14]下坂氏は1941年に亡くなるまでこの条件を守った
1940年〜統制経済のもとで両社が改めた社名と品目
日商は事業の伸びにあわせて店を増やし、国内の主要都市に加え、ニューヨーク・ワシントン・ロンドン・ボンベイ・カルカッタ・上海・天津などにも支店と出張所を開設し、金属・機械・繊維・穀類・油脂・雑貨を扱った。1940年度の対世界貿易額は貿易商社のなかで第10位を占めた。中国方面では上海と天津を中心に20数か所の支店出張所を設けた。1941年3月に資本金を750万円とし、同じ年にエジプト綿を扱う桜井商店を吸収合併して綿花輸入商としての地位を確立した。太平洋戦争の前後には経営が製造工業へも伸び、1943年7月に日商産業へ商号を変更した。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日商」
- [19]日商は事業の発展にあわせて支店出張所を増やした
- [20]ニューヨーク・ワシントン・ロンドン・ボンベイ・カルカッタ・上海・天津などに支店出張所を置いた
- [21]1940年度の対世界貿易額は貿易商社中第10位であった
- [22]中国方面では上海・天津を中心に20数か所の支店出張所を設けた
- [23]1941年3月に資本金を750万円とした
- [25]1943年7月に日商産業へ商号を変更した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- [24]1941年にエジプト綿の桜井商店を吸収合併した
岩井商店も同じ時期に扱う品目を重くしていった。1929年にシドニー、1932年にメルボルンへ駐在員を送って日本向け羊毛の買付を本格化させ、日本専売局へ納めるためアフリカ英領ソマリランドや中国などから原塩の大量輸入を始めた。1934年には日本製鉄の原料としてフィリピンのカランバガヤン鉄鉱石を輸入し、ミンドロ島のスマギー木材を引き継いでラワン材の対日輸入にも入った。1935年12月に岩井雄二郎氏が社長へ就任した。1937年の日華事変で統制経済に組み込まれ、1941年の開戦でロンドン・ニューヨーク両支店を閉じ、傍系会社との関係も次第に断たれた。1943年6月、岩井商店は岩井産業へ商号を変更した。
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- [26]岩井商店は羊毛・原塩・鉄鉱石など重量品へ取扱を移した
- [27]1929年にシドニー、1932年にメルボルンへ駐在員を派遣し日本向け羊毛の買付を本格化した
- [28]日本専売局納入のためソマリランドや中国から原塩を大量輸入した
- [29]1934年に日本製鉄の原料としてカランバガヤン鉄鉱石の輸入を始めた
- [30]1935年12月に岩井雄二郎氏が社長に就任した
- [31]1941年の開戦でロンドン・ニューヨーク両支店を閉鎖した
- [32]1943年6月に岩井商店は岩井産業へ商号を変更した
統制のもとで、日商は上海支店から製造分野へ踏み込み、大中華造紙廠・黄浦鉄廠・無錫醸造廠・大興油廠・浦東軋花廠・大昌織布廠などに資本参加し、あるいは自ら設立した。呉淞クリークの戦闘で破壊されたまま放置されていた大中華造紙廠は、軍関係や特務機関からの情報を手がかりに復興され、1940年7月24日付で興亜院華中連絡部から企業許可を受けた。許可書は、操業について関係陸海軍当局の指示命令に従うこと、製品の販売方法について同部の指示に従うことを命じていた。株式会社の組織は認められず、日商が60万円を出す匿名組合として経営した。貿易が杜絶して自給自足の体制が強まるほど、工場を持つことは資金の調達でも原料の手当てでも有利に働いた。岩井産業も1942年7月にカルカッタの千田商会と組み、イラワジ河の港湾施設・ゴム園・ヒマ栽培事業・ペイント工場・伸鉄ドラム缶工場を南方で経営した。
- 日商四十年の歩み(日商岩井、1968年)第4章 戦時体制へ
- [33]日商上海支店は大中華造紙廠・黄浦鉄廠・無錫醸造廠・大興油廠・浦東軋花廠・大昌織布廠などへ資本参加ないし自ら設立した
- [34]大中華造紙廠は呉淞クリークの戦闘で破壊され放置されていたものを復興し1940年7月24日付で興亜院華中連絡部から企業許可を受けた
- [35]許可書は操業につき関係陸海軍当局の指示命令に従うこと、製品の販売方法につき同部の指示に従うことを命じていた
- [36]株式会社組織は認められず日商が60万円を出す匿名組合の形で経営した
- [37]貿易が杜絶し自給自足体制が強まるにつれ工場を持つことは資金調達や原料手当ての面で有利に働いた
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- [38]岩井産業は1942年7月にカルカッタの千田商会と共同しイラワジ河港湾施設・ゴム園・ヒマ栽培事業・ペイント工場・伸鉄ドラム缶工場を南方で経営した
参考文献[19]-[38]
- 会社銀行八十年史(1955年)「日商」
- [19]日商は事業の発展にあわせて支店出張所を増やした
- [20]ニューヨーク・ワシントン・ロンドン・ボンベイ・カルカッタ・上海・天津などに支店出張所を置いた
- [21]1940年度の対世界貿易額は貿易商社中第10位であった
- [22]中国方面では上海・天津を中心に20数か所の支店出張所を設けた
- [23]1941年3月に資本金を750万円とした
- [25]1943年7月に日商産業へ商号を変更した
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- [24]1941年にエジプト綿の桜井商店を吸収合併した
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- [26]岩井商店は羊毛・原塩・鉄鉱石など重量品へ取扱を移した
- [27]1929年にシドニー、1932年にメルボルンへ駐在員を派遣し日本向け羊毛の買付を本格化した
- [28]日本専売局納入のためソマリランドや中国から原塩を大量輸入した
- [29]1934年に日本製鉄の原料としてカランバガヤン鉄鉱石の輸入を始めた
- [30]1935年12月に岩井雄二郎氏が社長に就任した
- [31]1941年の開戦でロンドン・ニューヨーク両支店を閉鎖した
- [32]1943年6月に岩井商店は岩井産業へ商号を変更した
- [38]岩井産業は1942年7月にカルカッタの千田商会と共同しイラワジ河港湾施設・ゴム園・ヒマ栽培事業・ペイント工場・伸鉄ドラム缶工場を南方で経営した
- 日商四十年の歩み(日商岩井、1968年)第4章 戦時体制へ
- [33]日商上海支店は大中華造紙廠・黄浦鉄廠・無錫醸造廠・大興油廠・浦東軋花廠・大昌織布廠などへ資本参加ないし自ら設立した
- [34]大中華造紙廠は呉淞クリークの戦闘で破壊され放置されていたものを復興し1940年7月24日付で興亜院華中連絡部から企業許可を受けた
- [35]許可書は操業につき関係陸海軍当局の指示命令に従うこと、製品の販売方法につき同部の指示に従うことを命じていた
- [36]株式会社組織は認められず日商が60万円を出す匿名組合の形で経営した
- [37]貿易が杜絶し自給自足体制が強まるにつれ工場を持つことは資金調達や原料手当ての面で有利に働いた
1955年〜在外資産を失ったあとの再建
敗戦により、日商は在外資産のすべてを失った。岩井産業も在外の支店・出張所43か所を閉じ、取引は一時国内に限られた。両社とも1947年の民間貿易再開で旧来の海外取引先との関係を復活させ、1949年末に民間貿易の制限が撤廃されると海外貿易は活況を取り戻した。日商は1948年3月に過度経済力集中排除法の適用を受けたが同年10月に解除され、同年12月の企業再建整備計画に基づいて、製造部門であった水飴・葡萄糖の製造と煉炭・石灰の製造の各工場を第二会社として分離した。これにともない1949年1月に日商の旧称へ復帰した。岩井産業は1948年8月に特別経理会社の指定を解かれ、同年11月に集中排除法の適用が解除された。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日商」
- [39]敗戦により日商は在外資産のすべてを喪失した
- [41]1947年の民間貿易再開と1949年末の制限撤廃で海外貿易が活況となった
- [42]1948年3月に日商が集中排除法の適用を受け同年10月に解除された
- [43]1948年12月の企業再建整備計画で水飴・葡萄糖と煉炭・石灰の工場を第二会社として分離した
- [44]1949年1月に日商産業から日商へ復称した
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- [40]岩井産業は在外の支店・出張所43か所を閉鎖した
- [45]岩井産業は1948年8月に特別経理会社の指定を解除され11月に集中排除法の適用も解除された
日商は1952年4月にニューヨークで現地法人ザ・ニッショウ・アメリカン・コーポレーションを設立し、対米活動の拠点とした。資本金は1949年1月の2000万円から、同年8月に5000万円、1951年4月に1億円、同年11月に2億円、1953年4月に4億円へと積み上がった。1955年8月25日、株式800万株が新規上場された。1954年9月期の総売上高は532億6203万円、当期純利益は6401万円で、支払利息が8億円に達していたことが利益を薄くしていた。同年9月末の大株主は中央毛織38万8800株、東京銀行32万4000株、神戸製鋼所29万7200株の順で、鈴木商店から分かれた製造会社が名を連ねていた。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日商」
- [46]1952年4月にニューヨークで現地法人ザ・ニッショウ・アメリカン・コーポレーションを設立した
- [47]資本金は1949年1月2000万円から1953年4月に4億円まで増加した
- 証券 1955年9月号
- [48]1955年8月25日に株式800万株が新規上場された
- [49]1954年9月期の総売上高は532億6203万円、当期純利益は6401万円であった
- [50]支払利息は8億円に達していた
- [51]1954年9月末の大株主は中央毛織38万8800株・東京銀行32万4000株・神戸製鋼所29万7200株であった
1955年3月期の半期総売上高は298億5900万円で、内訳は輸出69億8900万円、輸入100億3900万円、内地128億3200万円であり、輸出は前の期に比べて倍近く伸びた。全国の通関実績に対する比率でみると、この年の日商は輸出で1.4%、輸入で2.4%を占めていた。一方の岩井産業は、1955年6月に資本金を3億円とし、同年5月期の売上高は259億円であった。日商の会長には創立時からの最高首脳である高畑誠一氏が1943年5月以降就任しており、社長は米国太平洋岸の穀類取引を長く手がけた落合豊一氏が1954年11月に引き継いでいた。
- 会社銀行八十年史(1955年)「日商」
- [52]1955年3月期の半期総売上高は298億5900万円であった
- [53]内訳は輸出69億8900万円・輸入100億3900万円・内地128億3200万円であった
- [54]輸出は前期比で倍近く伸びた
- [57]高畑誠一氏は1943年5月以降会長、落合豊一氏は1954年11月に社長へ就任した
- 証券 1955年9月号
- [55]全国通関実績に対する日商の比率は輸出1.4%・輸入2.4%であった
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- [56]岩井産業は1955年6月に資本金3億円、1955年5月期の売上高は259億円であった
参考文献[39]-[57]
- 会社銀行八十年史(1955年)「日商」
- [39]敗戦により日商は在外資産のすべてを喪失した
- [41]1947年の民間貿易再開と1949年末の制限撤廃で海外貿易が活況となった
- [42]1948年3月に日商が集中排除法の適用を受け同年10月に解除された
- [43]1948年12月の企業再建整備計画で水飴・葡萄糖と煉炭・石灰の工場を第二会社として分離した
- [44]1949年1月に日商産業から日商へ復称した
- [46]1952年4月にニューヨークで現地法人ザ・ニッショウ・アメリカン・コーポレーションを設立した
- [47]資本金は1949年1月2000万円から1953年4月に4億円まで増加した
- [52]1955年3月期の半期総売上高は298億5900万円であった
- [53]内訳は輸出69億8900万円・輸入100億3900万円・内地128億3200万円であった
- [54]輸出は前期比で倍近く伸びた
- [57]高畑誠一氏は1943年5月以降会長、落合豊一氏は1954年11月に社長へ就任した
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- [40]岩井産業は在外の支店・出張所43か所を閉鎖した
- [45]岩井産業は1948年8月に特別経理会社の指定を解除され11月に集中排除法の適用も解除された
- [56]岩井産業は1955年6月に資本金3億円、1955年5月期の売上高は259億円であった
- 証券 1955年9月号
- [48]1955年8月25日に株式800万株が新規上場された
- [49]1954年9月期の総売上高は532億6203万円、当期純利益は6401万円であった
- [50]支払利息は8億円に達していた
- [51]1954年9月末の大株主は中央毛織38万8800株・東京銀行32万4000株・神戸製鋼所29万7200株であった
- [55]全国通関実績に対する日商の比率は輸出1.4%・輸入2.4%であった
筆者考察
1928年の日商が持って出たのは金ではなく、人と人の間に残った取引の約束であった。資本金100万円のうち鈴木商店から残った39人が拠出できたのは18万5000円にすぎず、最大の出資者は前年に融資を打ち切った台湾銀行である。それでもボンベイの多賀二夫が確保したタタ社銑鉄の一手販売権と、ニューヨークの社員が結んだリッチフィールド石油の代理店契約が、最初の商いを立たせた。金を出した側が筆頭株主に座る不均衡を、日商は1932年に持株を買い戻して解いている。三年もてば上出来と書かれた会社が四年で独り立ちできたのは、失わずに済んだものが取引先の側にあったからである。
取引先に預けた資産は、置き場所を選べなくなると一度に失われる。統制経済のもとで日商は上海に大中華造紙廠や黄浦鉄廠を抱え、岩井産業はイラワジ河の港湾施設やゴム園を南方で経営した。貿易が杜絶するほど工場を持つ側が有利になる逆転が、そこでは起きていた。しかし敗戦で在外資産はすべて消え、日商は海外に置いた店と在庫を失い、岩井産業は43か所の支店出張所を閉じる。残ったのは相手の側にある記憶で、1947年の民間貿易再開とともに旧来の取引先が戻ってきた。1955年の上場時に純利益6401万円に対して支払利息が8億円に達していたのは、資本より先に関係を取り戻した会社の順序を示している。
- 1928年2月の設立時の資本金は100万円。
- 出所は会社銀行八十年史(1955年)「日商」。
1928年〜1955年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年09月期 | 単体 | 605 | n/a | 7 | 2 | 0.4% | n/a |
出所:上場会社総覧 1956年版
出典・参考
7件
- 日商四十年の歩み(日商岩井、1968年)第4章 戦時体制へ
- 会社銀行八十年史(1955年)「日商」
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- 証券 1955年9月号
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- 私の履歴書 経済人17「西川政一」(日本経済新聞社、1981年)