第1章 年〜年

富士電機:シーメンスとの合弁による富士電機製造の設立と現金不足

1923年〜現物出資の合弁会社、川崎工場への借入依存

1923年8月、古河電気工業とドイツ・シーメンス社の資本・技術提携により富士電機製造株式会社が設立された。資本金1,000万円のうちシーメンスは300万円を引き受けたが、払い込みは機械器具の現物100万円と技術報償金200万円で振り替えられ、現金は入らなかった。"富士"の社名は"古河(富)""シーメンス(士)"に由来する合弁の象徴で、日立・三菱電機・明電舎に出遅れていた古河財閥が、第一次世界大戦敗戦後のドイツ経済インフレ下で技術輸出を模索するシーメンスと条件を合わせた形となる。後発の富士電機にとって、シーメンスからの現物出資は技術供与と同時に現金不足という構造を会社に埋め込むものとなり、発足直後の資金繰りを強く縛った。

  • 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1923年8月 古河電気工業とドイツ・シーメンスの資本・技術提携により富士電機製造株式会社を設立
    • [2]設立時資本金1,000万円・シーメンス出資比率30%(出資300万円)
    • [3]日立・三菱電機・明電舎の先発に対し古河財閥は重電後発で、シーメンスは第一次大戦後ドイツの技術輸出を模索する立場

1925年4月、川崎工場が投資額578万円・敷地4.8万坪で稼働を開始した。それまでの間、富士電機製造はシーメンス製品の輸入・販売や同社が日本に持っていた貯蔵品の引き継ぎ販売で事業をつないだ。設立時資本金の過半を超える投資だったが、シーメンスからの現金払込がないため、資金は金融機関からの借入で賄われた。工場長にはシーメンスから派遣された外国人が就任し、製作第一号品の配電盤に始まり発電機・電動機・変圧器・扇風機・探照灯・量水計などを電力会社向けに量産する体制が組まれた。しかし日立・三菱電機・明電舎の先発企業が握る市場で、後発参入の富士電機は販売に苦戦し、1928年度の1,034万円をピークに1931年度まで3期連続の減収となる。借入金利負担と固定資産償却が利益を圧迫する構造が定着し、創業期の収益回復の道筋は見えないまま昭和恐慌期に入った。

  • 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1925年4月 川崎工場が稼働を開始し重電機の製造を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]工場建屋完成までの間はシーメンス製品の輸入・販売と、同社が日本に所有していた貯蔵品の継承販売で営業をつないだ
    • [6]川崎工場の製作第一号品は配電盤で、以後 電動機・変圧器・発電機へと製造機種を広げた
参考文献[1]-[6]
  • 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1923年8月 古河電気工業とドイツ・シーメンスの資本・技術提携により富士電機製造株式会社を設立
    • [2]設立時資本金1,000万円・シーメンス出資比率30%(出資300万円)
    • [3]日立・三菱電機・明電舎の先発に対し古河財閥は重電後発で、シーメンスは第一次大戦後ドイツの技術輸出を模索する立場
    • [4]1925年4月 川崎工場が稼働を開始し重電機の製造を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [5]工場建屋完成までの間はシーメンス製品の輸入・販売と、同社が日本に所有していた貯蔵品の継承販売で営業をつないだ
    • [6]川崎工場の製作第一号品は配電盤で、以後 電動機・変圧器・発電機へと製造機種を広げた

1931年〜9期中7期赤字と人員削減205名

1931年、富士電機は全従業員の16%にあたる205名を削減し、残る社員には昇給停止と手当減額を実施した。名取和作社長は経営不振の原因について、設立時のシーメンス現金出資が実現しなかったことと、川崎工場新設の借入依存を挙げている。「最初の株金払込がわずか250万円で、そのうちシーメンスの分は現金の払込がなく、工場建設が始まってからも株金払込は思うように取れなかったので、全て銀行からの借入金で賄った。また固定資産の償却も所定通り行ったから、それとこれとあわせるとほぼ赤字に匹敵することがわかった」(名取和作)。名取社長は同年4月に引責辞任し、二代目社長に吉村萬治郎氏が就任して創業以来の赤字経営の打開に着手する。製品コスト低下の対策と景気回復が重なり、わずか2年半で繰越赤字を全額補填して黒字へ転換、1935年4月決算では年6分の初配当を実施した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]1931年4月の名取社長辞任を受け、二代目社長に吉村萬治郎が就任して赤字経営の打開に着手
    • [8]製品コスト低下策と景気回復で約2年半で繰越赤字を全額補填し黒字転換、1935年4月決算で年6分の初配当を実施

1933年4月には電話部を設置して通信機器に進出したが、戦時下に通信省の指定工場となった関係で1935年6月に通信機部門を分離し、富士通信機製造株式会社(現富士通)を設立した。満州事変後の電源開発需要に対応してドイツのJ・M・フォイト社と技術提携し、1936年から水車の製造を始めている。1942年から1944年にかけて松本・吹上・豊田・三重の各工場が相次いで立ち上がり、戦時増産の拠点が揃う。このうち松本工場は後にパワー半導体の主力工場となり、三重工場は戦後の家電と自動販売機の拠点に変わった。戦時期の工場網は財閥解体と戦後復興を経ても富士電機の生産基盤として残り、半導体・自販機という新規事業の受け皿として後年まで残った。合弁という出自で得た技術蓄積が、戦後の事業多角化の足場となる。

  • 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [9]1933年4月 通信機部門に進出(製造を開始)
    • [10]1935年6月 通信機部門を分離し富士通信機製造株式会社(現富士通)を設立
    • [12]1942-1944年に松本(1942/10)・吹上(1943/3)・豊田(1943/5)・三重(1944/6)の各工場が立ち上がる
    • [13]松本工場は後にパワー半導体主力工場、三重工場は戦後の家電・自動販売機拠点となる
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [11]満州事変後の電源開発需要に対応してドイツのJ・M・フォイト社と技術提携し、1936年から水車の製造を開始
参考文献[7]-[13]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]1931年4月の名取社長辞任を受け、二代目社長に吉村萬治郎が就任して赤字経営の打開に着手
    • [8]製品コスト低下策と景気回復で約2年半で繰越赤字を全額補填し黒字転換、1935年4月決算で年6分の初配当を実施
    • [11]満州事変後の電源開発需要に対応してドイツのJ・M・フォイト社と技術提携し、1936年から水車の製造を開始
  • 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [9]1933年4月 通信機部門に進出(製造を開始)
    • [10]1935年6月 通信機部門を分離し富士通信機製造株式会社(現富士通)を設立
    • [12]1942-1944年に松本(1942/10)・吹上(1943/3)・豊田(1943/5)・三重(1944/6)の各工場が立ち上がる
    • [13]松本工場は後にパワー半導体主力工場、三重工場は戦後の家電・自動販売機拠点となる

1945年〜中断した技術提携の復活と、量産品という第二の脚

途切れた提携を結び直して重電需要を取る

戦後の重電需要を獲得する足場は、戦時下で途切れた技術提携を結び直すことだった。1952年、富士電機製造は中断していたドイツのJ・M・フォイト社との契約を復活させて水車の製造を再開し、同じ年にシーメンス社との提携も火力タービンの新規契約を加えて戦前以上に密接なものへ戻した。折しも鉄鋼業では1956年度からの第2次合理化計画に6,500億円が投じられ、高炉・転炉・圧延設備の新増設に伴って電気設備の需要が増大していた。1957年には日本鋼管川崎製鉄所へ継目なし鋼管製造用の電気設備を納め、翌1958年には川崎製鉄千葉製鉄所へ同社として最初のストリップミル電気設備を納入した。1957年度に202億円だった売上高は1962年度に591億円と3倍近くへ伸び、創業以来の最高を記録する。

  • 富士電機社史 1957-1973(富士電機製造, 1974年)
    • [14]1952年 戦時下に中断していたJ.M.フォイト社との契約を復活させ水車製造を再開
    • [15]1952年の提携復活後、シーメンス社との関係は火力タービンの新規契約を加えて戦前以上に密接になった
    • [16]鉄鋼業の第2次合理化計画(1956-1960年度)で6,500億円が投入され、高炉・転炉・圧延設備の新増設に伴い電気設備の需要が増大
    • [17]1957年に日本鋼管川崎製鉄所へ継目なし鋼管製造用電気設備、1958年に川崎製鉄千葉製鉄所へ同社最初のストリップミル電気設備を納入
    • [18]1957年度売上高202億円が1962年度に591億円と3倍近くへ伸び、創業以来の最高を記録
地方工場を量産品の柱に組み替える

量産品を担ったのは、戦時中に建てた地方工場だった。吹上工場は1953年に戦後始めた農機具生産を打ち切り、柱上変圧器と電磁開閉器の器具工場として再出発する。電磁開閉器は当初こそ月産8,000台だったが、1959年初めに累計50万台、1960年12月に累計100万台へ達し、業界での地位も1957年ごろの2〜3位から1959年には占有率40%以上の首位へ移った。松本工場は1954年8月にセレン整流板の製造を始め、ラジオ・テレビ電源用の需要の80%以上を供給した。三重工場の小形電動機は終戦直後の月産2,000台から伸び、1960年12月26日に100万台目が完成している。受注ごとに設計する重電と違い、これらは仕込生産とルート販売で回る商売であり、景気の谷で重電の受注が引いたときに会社を支える第二の脚となった。

  • 富士電機社史 1957-1973(富士電機製造, 1974年)
    • [19]1953年 吹上工場が戦後始めた農機具生産を打ち切り、柱上変圧器と電磁開閉器を主体とする器具工場として再出発
    • [20]電磁開閉器は月産8,000台から1959年初に累計50万台・1960年12月に累計100万台へ達し、業界の地位は1957年ごろの2〜3位から1959年に占有率40%以上の首位へ
    • [21]松本工場は1954年8月にセレン整流板の製造を開始し、ラジオ・テレビ電源用需要の80%以上を供給
    • [22]三重工場の小形電動機は終戦直後の月産2,000台から伸び、1960年12月26日に100万台目が完成
参考文献[14]-[22]
  • 富士電機社史 1957-1973(富士電機製造, 1974年)
    • [14]1952年 戦時下に中断していたJ.M.フォイト社との契約を復活させ水車製造を再開
    • [15]1952年の提携復活後、シーメンス社との関係は火力タービンの新規契約を加えて戦前以上に密接になった
    • [16]鉄鋼業の第2次合理化計画(1956-1960年度)で6,500億円が投入され、高炉・転炉・圧延設備の新増設に伴い電気設備の需要が増大
    • [17]1957年に日本鋼管川崎製鉄所へ継目なし鋼管製造用電気設備、1958年に川崎製鉄千葉製鉄所へ同社最初のストリップミル電気設備を納入
    • [18]1957年度売上高202億円が1962年度に591億円と3倍近くへ伸び、創業以来の最高を記録
    • [19]1953年 吹上工場が戦後始めた農機具生産を打ち切り、柱上変圧器と電磁開閉器を主体とする器具工場として再出発
    • [20]電磁開閉器は月産8,000台から1959年初に累計50万台・1960年12月に累計100万台へ達し、業界の地位は1957年ごろの2〜3位から1959年に占有率40%以上の首位へ
    • [21]松本工場は1954年8月にセレン整流板の製造を開始し、ラジオ・テレビ電源用需要の80%以上を供給
    • [22]三重工場の小形電動機は終戦直後の月産2,000台から伸び、1960年12月26日に100万台目が完成

1963年〜家庭電器の失速と、富士通株を手放した再建

技術陣を欠いたまま家電へ踏み込む

撹拌式洗濯機を三重工場で造り始めたのが1953年、続いて1957年に冷蔵庫、1958年にルームクーラー、1959年2月にラジオとテレビを出しており、重電メーカーの家庭電器進出としては遅い出発だった。ラジオ・テレビは神戸工業のブラウン管と真空管、富士通のチューナ、八欧電機の組立てに頼る分業体制で、自社にエレクトロニクスの技術者集団がいなかったぶん出遅れは大きかった。需要が跳ね上がったのは1961年2月、社会党の江田書記長がジューサーを愛用していると週刊朝日が報じてからで、1963年3月には月産が10万台を上回った。ところが販売網やサービス体制を整えるには、重電の営業とはまるで違う配慮と見込み以上の資金を要し、家電部門の売上高は1962年9月期の90億円をピークに毎期減って、1964年9月期には71億円となった。

  • 富士電機社史 1957-1973(富士電機製造, 1974年)
    • [23]1953年に三重工場で撹拌式洗濯機の製造を開始、1957年に冷蔵庫、1958年にルームクーラー、1959年2月にラジオ・テレビを発売
    • [24]ラジオ・テレビの生産は神戸工業(ブラウン管・真空管・部品)・富士通(チューナ)・八欧電機(組立て)の協力によるもので、自社にエレクトロニクス技術陣を欠き立ち遅れが大きかった
    • [25]1961年2月に週刊朝日が社会党江田書記長のジューサー愛用を紹介して需要が急増し、1963年3月に月産10万台を超えた
    • [26]家電の販売には販売網対策・サービス対策など重電機部門の営業とは全く異なる配慮と予想以上の多額の資金投入を要した
    • [27]家電部門の売上は1962年9月期の90億円をピークに毎期漸減し、1964年9月期には71億円へ低下
系列の行き詰まりが無配を決定づける

1962年から受注が引き、会社は創業以来の危機に入った。受注高は1961年9月期の329億円を頂点に減少し、重電部門の受注は翌年度に前年比45%まで減少する。売上高と利益も1962年9月期の売上312億円・税引前利益20億円を頂点として低下した。追い打ちをかけたのが系列の東京発動機で、小形四輪車の攻勢を受けてオートバイの売行きが急激に鈍り、1964年2月に会社更生法の適用を申請した。1965年9月の更生計画認可に伴い、富士電機製造は約18億円を切り捨てざるをえなくなる。同期の決算で欠損を計上して無配とし、配当の復活には1968年3月期まで2年半を要した。経営陣も揺れ、1964年11月に金成増彦社長が退任して和田恒輔会長が77歳で社長へ復帰し、翌年5月に相田長平氏へ引き継いだ。

  • 富士電機社史 1957-1973(富士電機製造, 1974年)
    • [28]受注高は1961年9月期の329億円を頂点に減少し、重電部門の受注は同年度に前年比45%まで落ち込んだ
    • [29]売上高・利益は1962年9月期の売上高312億円・税引前利益20億円を頂点として低下
    • [30]系列の東京発動機は小形四輪車の攻勢でオートバイの売行きが急減し、1964年2月に会社更生法の適用を申請
    • [31]1965年9月の東京発動機の更生計画認可に伴い約18億円を切り捨て
    • [32]1965年9月期決算で欠損を計上して無配とし、配当復活は1968年3月期までの2年半を要した
    • [33]1964年11月に金成増彦社長が退任し和田恒輔会長が77歳で社長に復帰、1965年5月に相田長平へ交代
分身の株を売却して本体を残す

相田長平社長が打った再建策は、販売力の増強、財務と損益の改善、家電部門の損失圧縮の三つを軸に据えた。最も重かったのは金利で、1965年3月末の長短借入金と社債の残高は570億円、年間の支払金利は52億円に達していた。富士電機製造は発行株数の50%以上を保有していた富士通の株式を処分することを決め、富士通株の3分の1を自社が持ち古河グループ全体で2分の1以上を保つことを条件にシーメンス社とドイツ銀行の了解を取り付けて、1965年末の前後に売却した。借入金は1967年3月末に430億円と140億円減り、支払利子はピーク時の約2割減へ圧縮された。家電は1966年10月に営業部門を分離して富士電機家電を設立し、1968年3月期に黒字へ転じている。分身として設立した会社の株を手放してまで残したのは、重電と汎用機器を抱えた本体だった。

  • 富士電機社史 1957-1973(富士電機製造, 1974年)
    • [34]相田社長の再建策は、販売力増強による増収増益、金利負担軽減など財務・損益面の改善、家電部門の損失減少の三つを柱とした
    • [35]1965年3月末の長期・短期借入金および社債残高は570億円、年間支払金利は52億円
    • [36]富士通株を発行株数の50%以上保有していたが、富士通全株式の3分の1を自社が保有し古河グループ各社で合計2分の1以上を保持することを条件にシーメンス社・ドイツ銀行の了解を得て1965年末前後に一部処分
    • [37]借入金残高は1967年3月末に430億円となり140億円減少、支払利子はピーク時の約2割減へ圧縮
    • [38]1966年10月に家電関係の営業機能を分離して富士電機家電を設立し、家電部門は1968年3月期に黒字転換
参考文献[23]-[38]
  • 富士電機社史 1957-1973(富士電機製造, 1974年)
    • [23]1953年に三重工場で撹拌式洗濯機の製造を開始、1957年に冷蔵庫、1958年にルームクーラー、1959年2月にラジオ・テレビを発売
    • [24]ラジオ・テレビの生産は神戸工業(ブラウン管・真空管・部品)・富士通(チューナ)・八欧電機(組立て)の協力によるもので、自社にエレクトロニクス技術陣を欠き立ち遅れが大きかった
    • [25]1961年2月に週刊朝日が社会党江田書記長のジューサー愛用を紹介して需要が急増し、1963年3月に月産10万台を超えた
    • [26]家電の販売には販売網対策・サービス対策など重電機部門の営業とは全く異なる配慮と予想以上の多額の資金投入を要した
    • [27]家電部門の売上は1962年9月期の90億円をピークに毎期漸減し、1964年9月期には71億円へ低下
    • [28]受注高は1961年9月期の329億円を頂点に減少し、重電部門の受注は同年度に前年比45%まで落ち込んだ
    • [29]売上高・利益は1962年9月期の売上高312億円・税引前利益20億円を頂点として低下
    • [30]系列の東京発動機は小形四輪車の攻勢でオートバイの売行きが急減し、1964年2月に会社更生法の適用を申請
    • [31]1965年9月の東京発動機の更生計画認可に伴い約18億円を切り捨て
    • [32]1965年9月期決算で欠損を計上して無配とし、配当復活は1968年3月期までの2年半を要した
    • [33]1964年11月に金成増彦社長が退任し和田恒輔会長が77歳で社長に復帰、1965年5月に相田長平へ交代
    • [34]相田社長の再建策は、販売力増強による増収増益、金利負担軽減など財務・損益面の改善、家電部門の損失減少の三つを柱とした
    • [35]1965年3月末の長期・短期借入金および社債残高は570億円、年間支払金利は52億円
    • [36]富士通株を発行株数の50%以上保有していたが、富士通全株式の3分の1を自社が保有し古河グループ各社で合計2分の1以上を保持することを条件にシーメンス社・ドイツ銀行の了解を得て1965年末前後に一部処分
    • [37]借入金残高は1967年3月末に430億円となり140億円減少、支払利子はピーク時の約2割減へ圧縮
    • [38]1966年10月に家電関係の営業機能を分離して富士電機家電を設立し、家電部門は1968年3月期に黒字転換

筆者考察

シーメンスとの合弁で富士電機製造が受け取ったのは技術であって、資金ではなかった。300万円の出資は機械の現物と技術報償金で振り替えられ、1925年に稼働した川崎工場の578万円は借入で建っている。以後この会社の決算を左右したのは製品の優劣よりも金利と償却であり、9期中7期の赤字も、1965年の無配も、同じ場所から出ている。1965年に手放したのは、通信機部門を切り離して生んだ富士通の株式だった。資本を持たずに技術だけを持った会社が、自力で稼ぐ体になるまでに何を差し出したかが、この50年の中身である。

量産品が会社を支える構造は、初めから狙って作られたものではない。戦時増産のために建てた松本・吹上・三重の工場は、戦後にセレン整流器と電磁開閉器と小形電動機の工場になり、電磁開閉器は1959年に占有率40%以上の首位へ立った。受注ごとに設計する重電が景気に振られるあいだ、これらは仕込生産とルート販売で回り続ける。一方、同じ三重工場から出た洗濯機と冷蔵庫は先発の大手に届かず、1962年を境に売上を落とした。同じ工場で同じように量産しても、売り方の違いが結果を分けている。

1923年〜1976年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 540 n/a n/a 5 0.9% n/a
1968年03月期 単体 652 +20.7% n/a 14 2.1% n/a
1969年03月期 単体 866 +32.8% n/a 20 2.3% n/a
1970年03月期 単体 1,034 +19.4% n/a 25 2.4% n/a
1971年03月期 単体 1,243 +20.2% 63 33 2.7% n/a
1972年03月期 単体 1,264 +1.7% 35 25 2.0% n/a
1973年03月期 単体 1,312 +3.8% 37 29 2.2% n/a
1974年03月期 単体 1,688 +28.7% 43 32 1.9% n/a
1975年03月期 単体 1,913 +13.3% 22 19 1.0% n/a
1976年03月期 単体 1,848 ▲3.4% ▲21 0 0.0% n/a

出所:会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑

出典・参考

3件
出典・参考
  • 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
  • 富士電機社史 1957-1973(富士電機製造, 1974年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)

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