富士電機:富士電機への改称と自販機国内シェア首位
1977年〜石油危機後の重電停滞と、収益源の入れ替え
富士電機工事の起こりは、1923年10月に東京市で創業した合資会社高千穂商会にある。富士電機が1944年12月に全株式を取得してグループの一員とし、以後は親会社のプラント電気工事を柱に業容を広げた。重電の受注が細る局面で、いち早く受注先の組み替えに動いたのはこの系列の工事会社であった。1973年から1974年にかけての石油危機で富士電機からの発注が落ち込むと、同社は戦略を二つ立てた。親会社の外に顧客を広げること、そして富士電機と手を組んで公共事業を取りにいくことである。なかでも上水道プラントに取り組んで同分野のシェアを高め、その後に下水道プラントへ出た。完成工事高の構成を1995年3月期でみると、水処理・環境35.3%、産業25.8%、建築・建築付帯21.0%、エネルギー17.9%であった。
- 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(子安英次)
- [1]富士電機工事は1923年10月に合資会社高千穂商会として東京市で創業し、1944年12月に富士電機が全株式を取得してグループ入り。以後は同社のプラント電気工事を主体に発展
- [2]1973-74年の石油危機で富士電機の受注が低迷したため、富士電機以外からの受注を増やすことと、富士電機と協力して公共事業関係の受注に注力することの二つを戦略に据えた
- [3]上水道プラントに注力してシェアを上げ、続いて下水道プラントへも進出して受注を増やした
- [4]1995年3月期の事業別完成工事高構成比は水処理・環境35.3%、産業25.8%、建築・建築付帯21.0%、エネルギー17.9%
1981年6月、阿部栄夫氏が社長に就いた。阿部氏は1939年に東京大学工学部電気工学科を卒業して富士電機製造に入社し、川崎工場長を務めたのち常務、専務、副社長と進んで社長に就いた。技術者出身の社長は同社で二人目である。就任にあたり阿部氏が掲げたのは利益率の引き上げで、業績が持ち直しても同業他社に対する差は埋まらないと見ていた。そのうえで、少なくとも4〜5%の水準まで経常段階の利益率を高めたいと語った『経常利益率をせめて4〜5%にもっていきたい』。収益性が低いから研究開発に十分な資金を回せず、研究開発が細るから収益性も上がらない、という悪循環を阿部氏は認識していた。経営の進め方としては、自ら細部を詰めて指示を出すよりも、施策の中身を固める作業を部下に任せた。水処理関係の営業が電機と計測に分かれていたのを一本化したときも、強行せずに1年間話をし続け、人手が足りなくなる局面を待って統合させている。
- 日経ビジネス 1981年7月13日号
- [5]1981年6月29日 阿部栄夫が大戸福重前社長の後を受けて社長に就任
- [6]阿部栄夫は1939年3月に東京大学工学部電気工学科を卒業して富士電機製造へ入社、1965年川崎工場長・常務・専務・副社長を経て社長に就任。同社として二人目の技術畑出身社長
- [7]阿部社長は就任時に「業績が回復したといっても同業他社と比べると格差はまだある。経常利益率をせめて4〜5%にもっていきたい」と述べた
- [8]利益率が低いためリスク回避型の研究開発投資しか実施できず、結局悪循環に陥っていたという認識
- 日経ビジネス 1989年7月31日号(阿部栄夫)
- [9]阿部は細かく決めて進めるやり方を改め、案を具体化するのは下の者に任せるようにした
- [10]水処理関係の営業が電機と計測に分かれていたのを一本化する際、強行せず1年間説得を続け、人手不足の局面で技術部隊を電機から回す条件として統合させた
1984年9月、商号から「製造」が外れ、富士電機株式会社となった。この時点の収益構造は、創業期に背負った重電一本の姿からすでに離れている。1985年3月期の単体売上高3,812億円に対し、重電機は1,333億円で35%、汎用電機が1,262億円で33%、計測器が614億円で16%、自動販売機を含む特機が601億円で16%を占めた。同期の経常利益は103億円、当期純利益は67億円である。阿部社長が掲げた4〜5%という経常利益率の目標は、重電の比重が3分の1まで下がってなお届いていなかった。
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [11]1984年9月 商号を「富士電機株式会社」に変更
- 会社年鑑 1986年版(富士電機 1985年3月期・単体)
- [12]1985年3月期(単体)の部門別売上高は重電機1,333億円35%・汎用電機1,262億円33%・計測器614億円16%・自販機特機601億円16%
- [13]1985年3月期(単体)の売上高3,812億円・経常利益103億円・当期純利益67億円
参考文献[1]-[13]
- 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(子安英次)
- [1]富士電機工事は1923年10月に合資会社高千穂商会として東京市で創業し、1944年12月に富士電機が全株式を取得してグループ入り。以後は同社のプラント電気工事を主体に発展
- [2]1973-74年の石油危機で富士電機の受注が低迷したため、富士電機以外からの受注を増やすことと、富士電機と協力して公共事業関係の受注に注力することの二つを戦略に据えた
- [3]上水道プラントに注力してシェアを上げ、続いて下水道プラントへも進出して受注を増やした
- [4]1995年3月期の事業別完成工事高構成比は水処理・環境35.3%、産業25.8%、建築・建築付帯21.0%、エネルギー17.9%
- 日経ビジネス 1981年7月13日号
- [5]1981年6月29日 阿部栄夫が大戸福重前社長の後を受けて社長に就任
- [6]阿部栄夫は1939年3月に東京大学工学部電気工学科を卒業して富士電機製造へ入社、1965年川崎工場長・常務・専務・副社長を経て社長に就任。同社として二人目の技術畑出身社長
- [7]阿部社長は就任時に「業績が回復したといっても同業他社と比べると格差はまだある。経常利益率をせめて4〜5%にもっていきたい」と述べた
- [8]利益率が低いためリスク回避型の研究開発投資しか実施できず、結局悪循環に陥っていたという認識
- 日経ビジネス 1989年7月31日号(阿部栄夫)
- [9]阿部は細かく決めて進めるやり方を改め、案を具体化するのは下の者に任せるようにした
- [10]水処理関係の営業が電機と計測に分かれていたのを一本化する際、強行せず1年間説得を続け、人手不足の局面で技術部隊を電機から回す条件として統合させた
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [11]1984年9月 商号を「富士電機株式会社」に変更
- 会社年鑑 1986年版(富士電機 1985年3月期・単体)
- [12]1985年3月期(単体)の部門別売上高は重電機1,333億円35%・汎用電機1,262億円33%・計測器614億円16%・自販機特機601億円16%
- [13]1985年3月期(単体)の売上高3,812億円・経常利益103億円・当期純利益67億円
1986年〜受注生産の対極に置かれた自動販売機という商売
自動販売機を売る会社は、家電の販売会社から生まれている。富士電機冷機は1965年9月に富士電機の全額出資で東京富士電機家電として設立され、翌1966年10月に家庭電器事業部の本社管理業務と人員の移管を受けて富士電機家電となった。富士電機冷機の商号は1976年9月に付いたもので、このとき家庭電器・空調機器・設備工事の営業を新設の富士電機家電と富士電機総合設備へ移し、手元には伸びる商品だけを残した。自動販売機を売り出したのは、それより前の1969年9月である。機能を専門ごとに切り分けたことこそが今日までの成長を大きく支えた要因だと、自念淳社長はみていた『この専門化した機能分離が、当社が今日の状態にまで成長できた大きな要因になったと思っている』。国内の自販機市場では1973年から首位に立ち続け、1988年の時点でシェアは約40%を占めた。1969年以来の累計販売台数も約150万台を数えた。
- 証券アナリストジャーナル 1988年3月号(自念淳)
- [14]富士電機冷機は1965年9月に富士電機の全額出資で東京富士電機家電として設立され、1966年10月に家庭電器事業部の本社管理業務と人員の移管を受けて富士電機家電へ改組・改称
- [15]1969年9月に自動販売機の販売を開始し、1976年9月に商号を富士電機冷機へ変更して家庭電器・空調機器・設備工事の営業を新設の富士電機家電・富士電機総合設備へ譲渡
- [16]自念淳社長は専門化した機能分離が同社の成長の大きな要因になったと述べた
- [17]1973年以降 国内の自動販売機市場でトップシェアを維持し、1988年時点のシェアは約40%、1969年9月の販売開始から1988年1月末までの累計販売数は約150万台
富士電機冷機は代理店を挟まず利用者と直に取り引きし、仕様を顧客と直接すり合わせて機械を作った。重電の受注生産とも家電の系列販売とも異なるこの売り方では、無人の機械が壊れた瞬間に売上が止まるため、品質が劣れば安値をつけても顧客は選ばない。全国に自前のサービス網を張ったのはそれゆえで、こうした網を持つのは同社だけだと自念社長は語っている。売上高988億円(1987年3月期)の中身は、自動販売機627億円(63.5%)、自販機に詰める飲料や食品122億円(12.4%)、コインメカニズムなどの情報機器50億円(5.1%)であった。機械を売って終わりにせず、中身と金融と保守までを一続きに抱えたことが、後発でありながら首位を保つ装置になった。
- 証券アナリストジャーナル 1988年3月号(自念淳)
- [18]ユーザーと代理店を間に入れずに直接取引する方式を採り、仕様を顧客と直接打ち合わせながら製造した
- [19]自販機は無人稼働のため故障するとその時点から販売できなくなり、品質が良くなければ値段が安くても買ってもらえない
- [20]全国ネットの自社サービス網を持つのは同社だけで、1973年以来トップシェアを維持できている要因の一つ
- [21]1987年3月期の売上高988億円の内訳は自動販売機627億円63.5%・自販機用中身商品122億円12.4%・情報機器50億円5.1%
1988年2月1日、富士電機冷機は東証二部へ上場した。増資を経た資本金は52億円強、従業員は同年1月末で722人だった。翌1989年9月には東証一部へ指定替えとなる。親会社のほうは重電の比重をさらに落とす絵を描いており、1991年7月、中尾武社長と中里良彦副社長が中心になって、当時6,387億円だった売上高を2001年に1兆7,000億円とする長期計画「ニュービジョン21」をまとめた。1992年6月に社長へ就いた中里氏は主力の重電部門を一貫して歩いた技術者で、『重電に頼らない体制を作りたい』と述べた『重電に頼らない体制を作りたい』。同年3月期の連結売上高は9,093億円、当期純利益は167億円だった。
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [22]1988年2月1日 富士電機冷機が東証第2部へ上場
- [24]1989年9月 富士電機冷機が東証一部へ指定替え
- 証券アナリストジャーナル 1988年3月号(自念淳)
- [23]上場に伴う増資後の資本金は52億円強、従業員数は1988年1月末現在722人
- 日経ビジネス 1992年6月29日号
- [25]1991年7月、中尾武社長と中里良彦副社長が中心となり、当時6,387億円の売上高を2001年に1兆7,000億円とする長期計画「ニュービジョン21」を策定
- [26]1992年6月26日に社長就任した中里良彦は理系出身で、主力の重電部門を一貫して歩いた
- 富士電機 会社年鑑(連結業績)
- [27]1992年3月期の連結売上高9,093億円・当期純利益167億円
参考文献[14]-[27]
- 証券アナリストジャーナル 1988年3月号(自念淳)
- [14]富士電機冷機は1965年9月に富士電機の全額出資で東京富士電機家電として設立され、1966年10月に家庭電器事業部の本社管理業務と人員の移管を受けて富士電機家電へ改組・改称
- [15]1969年9月に自動販売機の販売を開始し、1976年9月に商号を富士電機冷機へ変更して家庭電器・空調機器・設備工事の営業を新設の富士電機家電・富士電機総合設備へ譲渡
- [16]自念淳社長は専門化した機能分離が同社の成長の大きな要因になったと述べた
- [17]1973年以降 国内の自動販売機市場でトップシェアを維持し、1988年時点のシェアは約40%、1969年9月の販売開始から1988年1月末までの累計販売数は約150万台
- [18]ユーザーと代理店を間に入れずに直接取引する方式を採り、仕様を顧客と直接打ち合わせながら製造した
- [19]自販機は無人稼働のため故障するとその時点から販売できなくなり、品質が良くなければ値段が安くても買ってもらえない
- [20]全国ネットの自社サービス網を持つのは同社だけで、1973年以来トップシェアを維持できている要因の一つ
- [21]1987年3月期の売上高988億円の内訳は自動販売機627億円63.5%・自販機用中身商品122億円12.4%・情報機器50億円5.1%
- [23]上場に伴う増資後の資本金は52億円強、従業員数は1988年1月末現在722人
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [22]1988年2月1日 富士電機冷機が東証第2部へ上場
- [24]1989年9月 富士電機冷機が東証一部へ指定替え
- 日経ビジネス 1992年6月29日号
- [25]1991年7月、中尾武社長と中里良彦副社長が中心となり、当時6,387億円の売上高を2001年に1兆7,000億円とする長期計画「ニュービジョン21」を策定
- [26]1992年6月26日に社長就任した中里良彦は理系出身で、主力の重電部門を一貫して歩いた
- 富士電機 会社年鑑(連結業績)
- [27]1992年3月期の連結売上高9,093億円・当期純利益167億円
1993年〜総合電機の同時失速と、カンパニー制への移行
1996年2月23日、富士電機工事が東証二部へ株式を上場した。1988年の富士電機冷機に続く、グループ二社目の独立上場である。上場時点の同社は公共事業への依存を高めており、上水道の普及率が90%を超えた日本で、塩素滅菌による水の味を嫌う声を背景にオゾン殺菌が5年ほど前から認可され、更新需要の時代に入ったことが追い風となっていた。一方、かつて産業分野の中心だった鉄鋼プラントの設備工事は低迷し、製紙プラントや半導体プラントへ注力先を移していた。半導体工場では土地を除く投資の6割が生産設備に向かうため、生産設備のノウハウをどれだけ持つかで受注の可否が決まる市場だった。
- 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(子安英次)
- [28]1996年2月23日 富士電機工事が東証二部へ株式を上場
- [30]上水道普及率が90%を超える一方、塩素滅菌で味が落ちる問題からオゾン殺菌が5年ほど前に認可され、リニューアルの時代に入ったことが同社にプラスとなった
- [31]産業分野は鉄鋼プラント設備工事が中心だったが低迷し、製紙プラントや半導体プラントへ注力先を移した
- [32]半導体工場では土地を除いた投資の約6割が生産設備、約4割が建物で、生産設備のノウハウの有無で受注の可否が決まる
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [29]富士電機グループの株式上場は1988年2月の富士電機冷機に次いで富士電機工事が2社目
1990年代の後半、総合電機として広げた事業が同時に弱った。1992年3月期に9,093億円あった連結売上高は1999年3月期に8,520億円へ縮み、同期は173億円の連結最終赤字となった。1991年に掲げた2001年1兆7,000億円という目標に対し、売上高はその半分にも届いていない。産業向けでは鉄鋼プラントの工事が低迷し、代わりに伸びたのは公共事業と半導体関連だった。創業期に合弁として抱えた借入依存を1960年代の再建で解き、汎用機器と自販機で稼ぐ形を作ってなお、景気に振られる受注生産の重電を抱え続ける構造は残っていた。
- 富士電機 会社年鑑(連結業績)
- [33]連結売上高は1992年3月期の9,093億円から1999年3月期に8,520億円へ減少
- [34]1999年3月期の連結当期純損益は173億円の赤字
- 日経ビジネス 1992年6月29日号
- [35]1991年7月の長期計画「ニュービジョン21」は2001年の売上高1兆7,000億円を目標としていた
- 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(子安英次)
- [36]産業分野では鉄鋼プラント設備工事が低迷し、公共事業関係の依存率が年々高まり、半導体プラントなどへ注力先が移った
1999年4月、富士電機は社内カンパニー制を導入した。電機システム、機器制御、電子、民生機器の4カンパニーへ事業を分け、それぞれに損益の責任を負わせる形である。事業ごとに採算を切る発想そのものは新しくない。不況下の1963年8月、富士電機製造は重電と軽電の2事業部制を敷き、翌1964年9月には電機・計測・商品の3事業部へ改組して、事業部ごとに利益の責任を負わせている。異なるのは区分の単位で、製品の種類ではなく商売の性格によって、受注生産の重電システム、量産の機器、電子デバイス、自販機を含む民生機器が並べ直された。この組み替えは、4年後の2003年10月に4事業を分社して純粋持株会社へ移る布石となる。
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [37]1999年4月 社内カンパニー制を導入
- [38]社内カンパニー制の区分は電機システム・機器制御・電子・民生機器の4カンパニー
- [40]2003年10月に電機システム・機器制御・電子などの事業を会社分割で分社し、商号を富士電機ホールディングスへ変更して純粋持株会社へ移行
- 富士電機社史 1957-1973(富士電機製造, 1974年)
- [39]1963年8月に重電・軽電の二事業部制を実施し、1964年9月に電機・計測・商品の三事業部へ改組して分権と利益責任の体制を固めた
参考文献[28]-[40]
- 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(子安英次)
- [28]1996年2月23日 富士電機工事が東証二部へ株式を上場
- [30]上水道普及率が90%を超える一方、塩素滅菌で味が落ちる問題からオゾン殺菌が5年ほど前に認可され、リニューアルの時代に入ったことが同社にプラスとなった
- [31]産業分野は鉄鋼プラント設備工事が中心だったが低迷し、製紙プラントや半導体プラントへ注力先を移した
- [32]半導体工場では土地を除いた投資の約6割が生産設備、約4割が建物で、生産設備のノウハウの有無で受注の可否が決まる
- [36]産業分野では鉄鋼プラント設備工事が低迷し、公共事業関係の依存率が年々高まり、半導体プラントなどへ注力先が移った
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- [29]富士電機グループの株式上場は1988年2月の富士電機冷機に次いで富士電機工事が2社目
- [37]1999年4月 社内カンパニー制を導入
- [38]社内カンパニー制の区分は電機システム・機器制御・電子・民生機器の4カンパニー
- [40]2003年10月に電機システム・機器制御・電子などの事業を会社分割で分社し、商号を富士電機ホールディングスへ変更して純粋持株会社へ移行
- 富士電機 会社年鑑(連結業績)
- [33]連結売上高は1992年3月期の9,093億円から1999年3月期に8,520億円へ減少
- [34]1999年3月期の連結当期純損益は173億円の赤字
- 日経ビジネス 1992年6月29日号
- [35]1991年7月の長期計画「ニュービジョン21」は2001年の売上高1兆7,000億円を目標としていた
- 富士電機社史 1957-1973(富士電機製造, 1974年)
- [39]1963年8月に重電・軽電の二事業部制を実施し、1964年9月に電機・計測・商品の三事業部へ改組して分権と利益責任の体制を固めた
筆者考察
重電で稼げない期間をどう渡るかが、この四半世紀の問いだった。石油危機で本体の受注が細ると、系列の工事会社は富士電機以外の客と公共事業へ受注先を移し、家電の販売会社は自動販売機の専業へ姿を変えている。1985年3月期に重電機が占めたのは単体売上の35%で、汎用電機がほぼ同じ33%を占めた。1984年に商号から製造の二文字が外れたのは、重電機を作る会社という名乗りが実態と合わなくなった時期と重なっている。
事業を切り分ける方式は、稼げているうちは自立を生み、稼げなくなると分割を生んだ。1988年に東証二部へ出た富士電機冷機は、自販機と中身と保守を一続きに抱えて国内シェア約40%を取り、1996年には富士電機工事が続く。一方で本体は、1991年に2001年の売上高1兆7,000億円を掲げながら、1999年3月期に連結173億円の最終赤字を出した。同じ年の4月に敷かれた4カンパニー制は、伸びる事業を切り出す仕組みではなく、弱った事業の採算を別々に見るための仕組みだった。
1977年〜2002年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1977年03月期 | 単体 | 2,071 | n/a | ▲10 | 9 | 0.4% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 2,160 | +4.3% | 29 | 17 | 0.8% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 2,407 | +11.4% | 54 | 28 | 1.2% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 2,594 | +7.8% | 62 | 38 | 1.5% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 2,953 | +13.8% | 85 | 41 | 1.4% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 3,302 | +11.8% | 88 | 47 | 1.4% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 3,422 | +3.6% | 89 | 45 | 1.3% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 3,548 | +3.7% | 84 | 43 | 1.2% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 3,812 | +7.4% | 103 | 67 | 1.8% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 連結 | 9,093 | n/a | n/a | 167 | 1.8% | n/a |
| 1993年03月期 | 連結 | 8,999 | ▲1.0% | n/a | 77 | 0.9% | n/a |
| 1994年03月期 | 連結 | 8,340 | ▲7.3% | n/a | 36 | 0.4% | n/a |
| 1995年03月期 | 連結 | 8,563 | +2.7% | n/a | 38 | 0.4% | n/a |
| 1996年03月期 | 連結 | 8,904 | +4.0% | n/a | 58 | 0.7% | n/a |
| 1997年03月期 | 連結 | 9,453 | +6.2% | n/a | 81 | 0.9% | n/a |
| 1998年03月期 | 連結 | 9,827 | +4.0% | n/a | 74 | 0.8% | n/a |
| 1999年03月期 | 連結 | 8,520 | ▲13.3% | n/a | ▲173 | ▲2.0% | n/a |
| 2000年03月期 | 連結 | 8,518 | ▲0.0% | n/a | ▲74 | ▲0.9% | n/a |
| 2001年03月期 | 連結 | 8,910 | +4.6% | n/a | 97 | 1.1% | n/a |
| 2002年03月期 | 連結 | 8,391 | ▲5.8% | n/a | ▲32 | ▲0.4% | n/a |
出所:会社年鑑、有価証券報告書
出典・参考
9件
- 富士電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
- 富士電機社史 1957-1973(富士電機製造, 1974年)
- 会社年鑑 1986年版(富士電機 1985年3月期・単体)
- 富士電機 会社年鑑(連結業績)
- 日経ビジネス 1981年7月13日号
- 証券アナリストジャーナル 1988年3月号(自念淳)
- 日経ビジネス 1989年7月31日号(阿部栄夫)
- 日経ビジネス 1992年6月29日号
- 証券アナリストジャーナル 1996年4月号(子安英次)