第2章 年〜年

日立製作所:8500名削減の争議とGEとの技術提携

1945年〜戦災と集中排除令からの操業再開と、8500名の人員整理

敗戦の半年前にあたる1945年1月、日立は日立精機の川崎工場を譲り受けて生産力を増していた。資本金は前年8月に7億円へ達し、工場数は18を数えている。だが同年6月の戦災で木津川工場が全焼し、大爆撃によって大部分の工場が壊滅的な痛手を受けた。終戦後は木津川・尼崎の両工場を閉鎖し、残存工場をもって操業を再開する。供給先は採炭・食糧増産・運輸・電力といった重点産業で、国の復興開発事業へ多数の機械を送った。1947年4月には日之出商会を設けて計測器の販路を起こしている。創業以来積み上げた一貫生産の設備は残っており、納入先を軍需から復興需要へ替えることで操業を繋いだ。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [1]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受して生産力を増強。1944年8月に資本金7億円・工場数18に達したが、1945年6月の戦災で木津川工場が全焼。戦後は木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場をもって操業を再開、採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業に多数の機械を送り国の復興開発事業に貢献した
    • [2]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受して生産力を増強。1944年8月に資本金7億円・工場数18に達したが、1945年6月の戦災で木津川工場が全焼。戦後は木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場をもって操業を再開、採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業に多数の機械を送り国の復興開発事業に貢献した
    • [3]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受して生産力を増強。1944年8月に資本金7億円・工場数18に達したが、1945年6月の戦災で木津川工場が全焼。戦後は木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場をもって操業を再開、採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業に多数の機械を送り国の復興開発事業に貢献した
    • [5]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受して生産力を増強。1944年8月に資本金7億円・工場数18に達したが、1945年6月の戦災で木津川工場が全焼。戦後は木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場をもって操業を再開、採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業に多数の機械を送り国の復興開発事業に貢献した
    • [6]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受して生産力を増強。1944年8月に資本金7億円・工場数18に達したが、1945年6月の戦災で木津川工場が全焼。戦後は木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場をもって操業を再開、採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業に多数の機械を送り国の復興開発事業に貢献した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [4]1945年の大爆撃で大部分の工場が壊滅的な痛手を受けた
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1947年4月 ㈱日之出商会(現㈱日立ハイテク)設立

追い打ちをかけたのが、占領軍の過度経済力集中排除令である。日立は35工場のうち19工場を処分し、戦時中に広げた陣容を半分近くまで縮小した。残った工場では日立工場の電線部門を分離し、各工場の配置転換と整備拡充によって操業態勢を合理化して設備の近代化に努めている。1950年2月には輸送部門を日東運輸として分離した。1951年2月に新設した足立作業所は、翌1952年1月に日立重機として分離し、米軍用自動車部品を主とする特需受注へ当たらせる。日立重機はその後の情勢変化に伴い、1954年5月に解散している。1955年5月には日立家庭電器販売を設け、家庭向けの販路を別に立てた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]占領軍の過度経済力集中排除令により35工場のうち19工場を処分
    • [9]占領軍の過度経済力集中排除令により35工場のうち19工場を処分
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [10]日立工場の電線部門の分離、各工場の配置転換・整備拡充等による操業態勢の合理化および設備の近代化。1951年2月に足立作業所を新設し1952年1月にこれを分離して日立重機を創設、米軍用自動車部品を主とする特需受注に当たらせたが、同社は情勢変化に伴い1954年5月に解散した
    • [12]日立工場の電線部門の分離、各工場の配置転換・整備拡充等による操業態勢の合理化および設備の近代化。1951年2月に足立作業所を新設し1952年1月にこれを分離して日立重機を創設、米軍用自動車部品を主とする特需受注に当たらせたが、同社は情勢変化に伴い1954年5月に解散した
    • [13]日立工場の電線部門の分離、各工場の配置転換・整備拡充等による操業態勢の合理化および設備の近代化。1951年2月に足立作業所を新設し1952年1月にこれを分離して日立重機を創設、米軍用自動車部品を主とする特需受注に当たらせたが、同社は情勢変化に伴い1954年5月に解散した
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [11]1950年2月 日東運輸㈱(後の㈱日立物流)設立
    • [14]1955年5月 日立家庭電器販売㈱(後に㈱日立家電に商号変更)設立

設備を絞ったのちに切ったのが人員であり、従業員4万4000名のうち約8500名が余剰と判断された。全国に17工場・4営業所を構える大所帯での人員整理は、東芝を上回る民間最大の規模となった。1950年の争議は3か月にわたって続き、労資が全面的にぶつかった。苦境を抜け出すきっかけは同年6月に始まった朝鮮動乱の特需で、その後も1956年の神武景気、1959年の岩戸景気が来るたびに同社の業績は大きく伸びた。整理のあとに残った設備と人員は、こうした景気の波を受け止める土台となった。のちに医療機器へつながる事業も、1949年5月の東日本繊維機械の設立で起こしている。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [15]従業員4万4000名のうち約8500名が余剰と判断された
    • [17]1950年に労資の天王山といわれた3カ月に及ぶ大争議。この苦境を救ったのが1950年の朝鮮動乱で、次いで1956年の神武景気、1959年の岩戸景気と続きそれにつれて同社も大飛躍を遂げた
    • [18]1950年に労資の天王山といわれた3カ月に及ぶ大争議。この苦境を救ったのが1950年の朝鮮動乱で、次いで1956年の神武景気、1959年の岩戸景気と続きそれにつれて同社も大飛躍を遂げた
    • [19]1950年に労資の天王山といわれた3カ月に及ぶ大争議。この苦境を救ったのが1950年の朝鮮動乱で、次いで1956年の神武景気、1959年の岩戸景気と続きそれにつれて同社も大飛躍を遂げた
  • 読売(1950年6月23日)
    • [16]全国17工場・4営業所の大所帯。東芝をしのぐ民間最大の大量整理
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [20]1949年5月 東日本繊維機械㈱(後に㈱日立メディコに商号変更)設立
参考文献[1]-[20]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [1]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受して生産力を増強。1944年8月に資本金7億円・工場数18に達したが、1945年6月の戦災で木津川工場が全焼。戦後は木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場をもって操業を再開、採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業に多数の機械を送り国の復興開発事業に貢献した
    • [2]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受して生産力を増強。1944年8月に資本金7億円・工場数18に達したが、1945年6月の戦災で木津川工場が全焼。戦後は木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場をもって操業を再開、採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業に多数の機械を送り国の復興開発事業に貢献した
    • [3]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受して生産力を増強。1944年8月に資本金7億円・工場数18に達したが、1945年6月の戦災で木津川工場が全焼。戦後は木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場をもって操業を再開、採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業に多数の機械を送り国の復興開発事業に貢献した
    • [5]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受して生産力を増強。1944年8月に資本金7億円・工場数18に達したが、1945年6月の戦災で木津川工場が全焼。戦後は木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場をもって操業を再開、採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業に多数の機械を送り国の復興開発事業に貢献した
    • [6]1945年1月 日立精機川崎工場を譲受して生産力を増強。1944年8月に資本金7億円・工場数18に達したが、1945年6月の戦災で木津川工場が全焼。戦後は木津川・尼崎両工場を閉鎖し残存工場をもって操業を再開、採炭・食糧増産・運輸・電力等の重点産業に多数の機械を送り国の復興開発事業に貢献した
    • [10]日立工場の電線部門の分離、各工場の配置転換・整備拡充等による操業態勢の合理化および設備の近代化。1951年2月に足立作業所を新設し1952年1月にこれを分離して日立重機を創設、米軍用自動車部品を主とする特需受注に当たらせたが、同社は情勢変化に伴い1954年5月に解散した
    • [12]日立工場の電線部門の分離、各工場の配置転換・整備拡充等による操業態勢の合理化および設備の近代化。1951年2月に足立作業所を新設し1952年1月にこれを分離して日立重機を創設、米軍用自動車部品を主とする特需受注に当たらせたが、同社は情勢変化に伴い1954年5月に解散した
    • [13]日立工場の電線部門の分離、各工場の配置転換・整備拡充等による操業態勢の合理化および設備の近代化。1951年2月に足立作業所を新設し1952年1月にこれを分離して日立重機を創設、米軍用自動車部品を主とする特需受注に当たらせたが、同社は情勢変化に伴い1954年5月に解散した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [4]1945年の大爆撃で大部分の工場が壊滅的な痛手を受けた
    • [8]占領軍の過度経済力集中排除令により35工場のうち19工場を処分
    • [9]占領軍の過度経済力集中排除令により35工場のうち19工場を処分
    • [15]従業員4万4000名のうち約8500名が余剰と判断された
    • [17]1950年に労資の天王山といわれた3カ月に及ぶ大争議。この苦境を救ったのが1950年の朝鮮動乱で、次いで1956年の神武景気、1959年の岩戸景気と続きそれにつれて同社も大飛躍を遂げた
    • [18]1950年に労資の天王山といわれた3カ月に及ぶ大争議。この苦境を救ったのが1950年の朝鮮動乱で、次いで1956年の神武景気、1959年の岩戸景気と続きそれにつれて同社も大飛躍を遂げた
    • [19]1950年に労資の天王山といわれた3カ月に及ぶ大争議。この苦境を救ったのが1950年の朝鮮動乱で、次いで1956年の神武景気、1959年の岩戸景気と続きそれにつれて同社も大飛躍を遂げた
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1947年4月 ㈱日之出商会(現㈱日立ハイテク)設立
    • [11]1950年2月 日東運輸㈱(後の㈱日立物流)設立
    • [14]1955年5月 日立家庭電器販売㈱(後に㈱日立家電に商号変更)設立
    • [20]1949年5月 東日本繊維機械㈱(後に㈱日立メディコに商号変更)設立
  • 読売(1950年6月23日)
    • [16]全国17工場・4営業所の大所帯。東芝をしのぐ民間最大の大量整理

1952年〜火力での立ち遅れと、RCA・GEとの技術援助契約

電源部門を率いた駒井健一郎氏は、火力発電で日立が技術的に遅れていたことを後年まで回想している。この遅れは復興需要を取り込むかたわらで抱えていたもので、火力の分野に限られ、研究の力全般が足りなかったわけではない。中央研究所と日立研究所を柱とする研究部門は、1942年4月の中央研究所の設置で強化されており、施設・人員ともに戦前の時点で世界の水準に並ぶと評価され、戦後はさらに厚みを増した。工業所有権は4,850余件を数え、そのなかには蒸気タービン、竪軸ペルトン水車、電子廻折装置、極超短波用電子管など重要な発明が少なからず含まれる。不足していたのは研究の力ではなく、大容量の火力を受注してきた経験の厚みであった。

  • 日本経済新聞(1981年1月)駒井健一郎「私の履歴書」
    • [21]駒井健一郎氏が火力の技術的立ち遅れを回想
    • [22]駒井健一郎氏が火力の技術的立ち遅れを回想
    • [27]駒井健一郎氏が火力の技術的立ち遅れを回想
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [23]中央・日立両研究所を中心とする研究部門は施設・スタッフとも戦前から世界的水準にあると目され戦後は一段と充実。工業所有権数は4,850余件にのぼり、蒸気タービン・竪軸ペルトン水車・電子廻折装置・極超短波用電子管等の重要な発明を相当数含む
    • [25]中央・日立両研究所を中心とする研究部門は施設・スタッフとも戦前から世界的水準にあると目され戦後は一段と充実。工業所有権数は4,850余件にのぼり、蒸気タービン・竪軸ペルトン水車・電子廻折装置・極超短波用電子管等の重要な発明を相当数含む
    • [26]中央・日立両研究所を中心とする研究部門は施設・スタッフとも戦前から世界的水準にあると目され戦後は一段と充実。工業所有権数は4,850余件にのぼり、蒸気タービン・竪軸ペルトン水車・電子廻折装置・極超短波用電子管等の重要な発明を相当数含む
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [24]1942年4月に中央研究所を設立し、わが国の代表的研究機関といわれる存在となった

それでも火力の差は自前の研究では埋まらず、日立は外部からの技術導入へ転じた。1952年2月、米国ラジオ・コーポレーションと受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管の技術援助契約を締結する。同年12月にはバブコック・ウイルコックス社とボイラで契約した。続いてインターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社と、蒸気タービンおよび発電機に関する技術援助契約を結んでいる。創業以来40年、外国技術を導入せずに来た方針をここで転換した。三年続けての契約で、放送・電力・電子管の三分野を一度に押さえている。戦後の電力設備投資が火力へ向かうなかで、受注に間に合わせる手立てはこれしかなかった。

  • 日本経済新聞(1981年1月)駒井健一郎「私の履歴書」
    • [28]駒井健一郎氏がGE提携の狙いを語る。創業以来の国産技術主義を撤回する判断だった
    • [32]駒井健一郎氏がGE提携の狙いを語る。創業以来の国産技術主義を撤回する判断だった
    • [34]駒井健一郎氏がGE提携の狙いを語る。創業以来の国産技術主義を撤回する判断だった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [29]1952年2月に米国ラジオ・コーポレーションと受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管の、同年12月にバブコック・ウイルコックス社とボイラの、またインターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社とは蒸気タービンおよび発電機等に関する技術援助契約をそれぞれ締結
    • [30]1952年2月に米国ラジオ・コーポレーションと受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管の、同年12月にバブコック・ウイルコックス社とボイラの、またインターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社とは蒸気タービンおよび発電機等に関する技術援助契約をそれぞれ締結
    • [31]1952年2月に米国ラジオ・コーポレーションと受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管の、同年12月にバブコック・ウイルコックス社とボイラの、またインターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社とは蒸気タービンおよび発電機等に関する技術援助契約をそれぞれ締結
    • [33]1952年2月に米国ラジオ・コーポレーションと受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管の、同年12月にバブコック・ウイルコックス社とボイラの、またインターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社とは蒸気タービンおよび発電機等に関する技術援助契約をそれぞれ締結

GEとの提携では東芝が先行しており、日立は後追いの立場にあった。それでも火力タービンの大容量化と需要増を見込んだGEが、複数のライセンシーを容認する。導入した技術は自前の研究と噛み合い、研究部門の技術向上に資した。外から買った設計を、戦前から世界水準にあった設備と人員が受け止めた。1966年2月には世界の技術革新に即応して機械研究所を新設し、独創的国産技術開発の精神そのものは保たれている。創業以来の旗を降ろした代償は小さくなく、1959年には重電部門で東芝を追い抜いたと業界に認知される。経営の根幹を貫いてきた独創的国産技術開発の精神は、この時期に一度だけ曲げられた。

  • 日本経済新聞(1981年1月)駒井健一郎「私の履歴書」
    • [35]GE提携は東芝が先行しており日立は後追いの立場。火力タービンの大容量化と需要増を見込みGEが複数ライセンシーを容認
    • [36]GE提携は東芝が先行しており日立は後追いの立場。火力タービンの大容量化と需要増を見込みGEが複数ライセンシーを容認
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [37]技術援助契約により研究部門の技術向上に資した
    • [38]技術援助契約により研究部門の技術向上に資した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [39]1966年に世界の技術革新に即応して機械研究所を新設。経営の根幹を貫いてきたのは独創的国産技術開発の精神である
  • マネジメント(1959年6月)
    • [40]1959年に重電部門で東芝を追い抜いたと業界で認知
参考文献[21]-[40]
  • 日本経済新聞(1981年1月)駒井健一郎「私の履歴書」
    • [21]駒井健一郎氏が火力の技術的立ち遅れを回想
    • [22]駒井健一郎氏が火力の技術的立ち遅れを回想
    • [27]駒井健一郎氏が火力の技術的立ち遅れを回想
    • [28]駒井健一郎氏がGE提携の狙いを語る。創業以来の国産技術主義を撤回する判断だった
    • [32]駒井健一郎氏がGE提携の狙いを語る。創業以来の国産技術主義を撤回する判断だった
    • [34]駒井健一郎氏がGE提携の狙いを語る。創業以来の国産技術主義を撤回する判断だった
    • [35]GE提携は東芝が先行しており日立は後追いの立場。火力タービンの大容量化と需要増を見込みGEが複数ライセンシーを容認
    • [36]GE提携は東芝が先行しており日立は後追いの立場。火力タービンの大容量化と需要増を見込みGEが複数ライセンシーを容認
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [23]中央・日立両研究所を中心とする研究部門は施設・スタッフとも戦前から世界的水準にあると目され戦後は一段と充実。工業所有権数は4,850余件にのぼり、蒸気タービン・竪軸ペルトン水車・電子廻折装置・極超短波用電子管等の重要な発明を相当数含む
    • [25]中央・日立両研究所を中心とする研究部門は施設・スタッフとも戦前から世界的水準にあると目され戦後は一段と充実。工業所有権数は4,850余件にのぼり、蒸気タービン・竪軸ペルトン水車・電子廻折装置・極超短波用電子管等の重要な発明を相当数含む
    • [26]中央・日立両研究所を中心とする研究部門は施設・スタッフとも戦前から世界的水準にあると目され戦後は一段と充実。工業所有権数は4,850余件にのぼり、蒸気タービン・竪軸ペルトン水車・電子廻折装置・極超短波用電子管等の重要な発明を相当数含む
    • [29]1952年2月に米国ラジオ・コーポレーションと受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管の、同年12月にバブコック・ウイルコックス社とボイラの、またインターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社とは蒸気タービンおよび発電機等に関する技術援助契約をそれぞれ締結
    • [30]1952年2月に米国ラジオ・コーポレーションと受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管の、同年12月にバブコック・ウイルコックス社とボイラの、またインターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社とは蒸気タービンおよび発電機等に関する技術援助契約をそれぞれ締結
    • [31]1952年2月に米国ラジオ・コーポレーションと受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管の、同年12月にバブコック・ウイルコックス社とボイラの、またインターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社とは蒸気タービンおよび発電機等に関する技術援助契約をそれぞれ締結
    • [33]1952年2月に米国ラジオ・コーポレーションと受信管・送信管・陰極線管・テレビジョン受像機・電子管の、同年12月にバブコック・ウイルコックス社とボイラの、またインターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社とは蒸気タービンおよび発電機等に関する技術援助契約をそれぞれ締結
    • [37]技術援助契約により研究部門の技術向上に資した
    • [38]技術援助契約により研究部門の技術向上に資した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [24]1942年4月に中央研究所を設立し、わが国の代表的研究機関といわれる存在となった
    • [39]1966年に世界の技術革新に即応して機械研究所を新設。経営の根幹を貫いてきたのは独創的国産技術開発の精神である
  • マネジメント(1959年6月)
    • [40]1959年に重電部門で東芝を追い抜いたと業界で認知

1955年〜16工場3000種への拡張と、電子顕微鏡での輸出転換

技術導入を経た生産部門は、16工場と3分工場を基盤とする規模へ育った。水車・タービン・発電機・送配電機器の強電部門、通信機器と電子工業の弱電部門を持つ。さらに産業機械・車輌・電線・伸銅・化学製品・鉄鋼の諸部門にわたり、製品は合計3,000種、従業員は2万8,000人に達した。1956年11月には日立機電工業を設けて、機械電気工事の受け皿も分けている。1957年の国分、1959年の横浜、1961年の那珂と勝田、1962年の神奈川、1963年の習志野と工場の新設が続く。1954年度の製品総売上高は490億円で、資本金は同年10月に66億円となった。神武景気と岩戸景気が、この拡張を後ろから押している。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [41]生産部門は16工場および3分工場を基盤として、水車・タービン・発電機・変電並びに送配電機器等の強電部門、通信機器並びに電子工業の弱電部門、さらに産業機械・車輌・電線・伸銅および化学製品・鉄鋼の諸部門にわたり製品は合計3,000種、従業員2万8,000人。1954年度に490億円の製品総売上高をあげ、資本金は1954年10月に66億円となった
    • [42]生産部門は16工場および3分工場を基盤として、水車・タービン・発電機・変電並びに送配電機器等の強電部門、通信機器並びに電子工業の弱電部門、さらに産業機械・車輌・電線・伸銅および化学製品・鉄鋼の諸部門にわたり製品は合計3,000種、従業員2万8,000人。1954年度に490億円の製品総売上高をあげ、資本金は1954年10月に66億円となった
    • [43]生産部門は16工場および3分工場を基盤として、水車・タービン・発電機・変電並びに送配電機器等の強電部門、通信機器並びに電子工業の弱電部門、さらに産業機械・車輌・電線・伸銅および化学製品・鉄鋼の諸部門にわたり製品は合計3,000種、従業員2万8,000人。1954年度に490億円の製品総売上高をあげ、資本金は1954年10月に66億円となった
    • [46]生産部門は16工場および3分工場を基盤として、水車・タービン・発電機・変電並びに送配電機器等の強電部門、通信機器並びに電子工業の弱電部門、さらに産業機械・車輌・電線・伸銅および化学製品・鉄鋼の諸部門にわたり製品は合計3,000種、従業員2万8,000人。1954年度に490億円の製品総売上高をあげ、資本金は1954年10月に66億円となった
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [44]1956年11月 日立機電工業㈱設立
    • [45]1957年6月 国分工場、1959年2月 横浜工場、1961年2月 那珂工場・同年8月 勝田工場、1962年8月 神奈川工場、1963年2月 習志野工場を新設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [47]1956年の神武景気、1959年の岩戸景気と続き、それにつれて同社も大飛躍を遂げた

輸出も戦後に実績を伸ばし、外貨獲得の役割を担った。インド向けの大型蒸気機関車、アルゼンチン向けの水力発電設備、台湾向けのタービンと発電機が代表的な品目である。行き先はブラジル・ビルマ・英国とほとんど各地域に及んだ。輸出は総売上高の約2割を占め、外貨獲得に大きな役割を果たした。内需も電源開発・鉄道・電信電話・鉄鋼・鉱山の発展に伴って逐年上昇している。1954年下期には電源開発向けに156,000KVA三相変圧器2台などを受注し、世界にほとんど類をみない規模の設備となる。1959年10月には米国にHitachi New Yorkを設立し、現地に足場を置いた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [48]輸出は戦後、インド向け大型蒸気機関車・アルゼンチン向け水力発電設備・台湾向けタービンおよび発電機はじめブラジル・ビルマ・英国等ほとんど各地域にわたって実績が上昇し総売上高の約2割を占めた。内需も電源開発・鉄道・電信電話・鉄鋼・鉱山その他一般産業の発展に伴って逐年上昇。1954年下期には電源開発納156,000KVA三相変圧器2台および287,500VA超高圧遮断器等約50台を受注し、世界に殆んど類をみない大規模なものであった
    • [49]輸出は戦後、インド向け大型蒸気機関車・アルゼンチン向け水力発電設備・台湾向けタービンおよび発電機はじめブラジル・ビルマ・英国等ほとんど各地域にわたって実績が上昇し総売上高の約2割を占めた。内需も電源開発・鉄道・電信電話・鉄鋼・鉱山その他一般産業の発展に伴って逐年上昇。1954年下期には電源開発納156,000KVA三相変圧器2台および287,500VA超高圧遮断器等約50台を受注し、世界に殆んど類をみない大規模なものであった
    • [50]輸出は戦後、インド向け大型蒸気機関車・アルゼンチン向け水力発電設備・台湾向けタービンおよび発電機はじめブラジル・ビルマ・英国等ほとんど各地域にわたって実績が上昇し総売上高の約2割を占めた。内需も電源開発・鉄道・電信電話・鉄鋼・鉱山その他一般産業の発展に伴って逐年上昇。1954年下期には電源開発納156,000KVA三相変圧器2台および287,500VA超高圧遮断器等約50台を受注し、世界に殆んど類をみない大規模なものであった
    • [51]輸出は戦後、インド向け大型蒸気機関車・アルゼンチン向け水力発電設備・台湾向けタービンおよび発電機はじめブラジル・ビルマ・英国等ほとんど各地域にわたって実績が上昇し総売上高の約2割を占めた。内需も電源開発・鉄道・電信電話・鉄鋼・鉱山その他一般産業の発展に伴って逐年上昇。1954年下期には電源開発納156,000KVA三相変圧器2台および287,500VA超高圧遮断器等約50台を受注し、世界に殆んど類をみない大規模なものであった
    • [52]輸出は戦後、インド向け大型蒸気機関車・アルゼンチン向け水力発電設備・台湾向けタービンおよび発電機はじめブラジル・ビルマ・英国等ほとんど各地域にわたって実績が上昇し総売上高の約2割を占めた。内需も電源開発・鉄道・電信電話・鉄鋼・鉱山その他一般産業の発展に伴って逐年上昇。1954年下期には電源開発納156,000KVA三相変圧器2台および287,500VA超高圧遮断器等約50台を受注し、世界に殆んど類をみない大規模なものであった
    • [53]輸出は戦後、インド向け大型蒸気機関車・アルゼンチン向け水力発電設備・台湾向けタービンおよび発電機はじめブラジル・ビルマ・英国等ほとんど各地域にわたって実績が上昇し総売上高の約2割を占めた。内需も電源開発・鉄道・電信電話・鉄鋼・鉱山その他一般産業の発展に伴って逐年上昇。1954年下期には電源開発納156,000KVA三相変圧器2台および287,500VA超高圧遮断器等約50台を受注し、世界に殆んど類をみない大規模なものであった
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [54]1959年10月 Hitachi New York, Ltd.(現Hitachi America, Ltd.)設立

買った技術が重電の足場を作る一方、自前で育てた分野では日立が輸出する側へ回った。電子顕微鏡の開発は1939年、東京帝国大学の瀬藤象二教授を委員長とする日本学術振興会第37小委員会に始まる。大学と電気試験所に加え、日立・東芝・日本電気・島津製作所の研究者が共同で取り組んだ。戦後は日立が旧帝大系大学の一号機をすべて受注し、日本電気と東芝は脱落する。1955年には米国への輸出を始め、買う側から売る側へ立場を変えた。1960年代後半には日立と日本電子で世界需要の半分を占めるに至り、アメリカへの輸出が伸びた結果、RCAは競争優位を失って撤退する。この間、1956年10月には日立金属工業と日立電線を分離独立させ、1961年にはマクセル電気工業へ資本参加した。1963年4月には日立化成工業も分離独立させている。

  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
    • [55]戦後、日立が旧帝大系大学の電子顕微鏡一号機をすべて受注し日本電気・東芝は脱落
    • [56]1939年 東京帝国大学の瀬藤象二教授を委員長とする日本学術振興会第37小委員会が発足し、大学・電気試験所に加え日立・東芝・日本電気・島津製作所の研究者が共同で電子顕微鏡を開発
    • [57]1939年 東京帝国大学の瀬藤象二教授を委員長とする日本学術振興会第37小委員会が発足し、大学・電気試験所に加え日立・東芝・日本電気・島津製作所の研究者が共同で電子顕微鏡を開発
    • [58]戦後、日立が旧帝大系大学の電子顕微鏡一号機をすべて受注し日本電気・東芝は脱落
    • [59]1955年に日立が電子顕微鏡を米国へ輸出。1960年代後半に日立と日本電子で世界需要の半分を占め、アメリカへの輸出が伸びてRCAは勝てる希望を失い撤退
    • [60]1955年に日立が電子顕微鏡を米国へ輸出。1960年代後半に日立と日本電子で世界需要の半分を占め、アメリカへの輸出が伸びてRCAは勝てる希望を失い撤退
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [61]1956年10月 日立金属工業㈱・日立電線㈱を分離独立、1961年 マクセル電気工業㈱に資本参加、1963年4月 日立化成工業㈱を分離独立
    • [62]1956年10月 日立金属工業㈱・日立電線㈱を分離独立、1961年 マクセル電気工業㈱に資本参加、1963年4月 日立化成工業㈱を分離独立
参考文献[41]-[62]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [41]生産部門は16工場および3分工場を基盤として、水車・タービン・発電機・変電並びに送配電機器等の強電部門、通信機器並びに電子工業の弱電部門、さらに産業機械・車輌・電線・伸銅および化学製品・鉄鋼の諸部門にわたり製品は合計3,000種、従業員2万8,000人。1954年度に490億円の製品総売上高をあげ、資本金は1954年10月に66億円となった
    • [42]生産部門は16工場および3分工場を基盤として、水車・タービン・発電機・変電並びに送配電機器等の強電部門、通信機器並びに電子工業の弱電部門、さらに産業機械・車輌・電線・伸銅および化学製品・鉄鋼の諸部門にわたり製品は合計3,000種、従業員2万8,000人。1954年度に490億円の製品総売上高をあげ、資本金は1954年10月に66億円となった
    • [43]生産部門は16工場および3分工場を基盤として、水車・タービン・発電機・変電並びに送配電機器等の強電部門、通信機器並びに電子工業の弱電部門、さらに産業機械・車輌・電線・伸銅および化学製品・鉄鋼の諸部門にわたり製品は合計3,000種、従業員2万8,000人。1954年度に490億円の製品総売上高をあげ、資本金は1954年10月に66億円となった
    • [46]生産部門は16工場および3分工場を基盤として、水車・タービン・発電機・変電並びに送配電機器等の強電部門、通信機器並びに電子工業の弱電部門、さらに産業機械・車輌・電線・伸銅および化学製品・鉄鋼の諸部門にわたり製品は合計3,000種、従業員2万8,000人。1954年度に490億円の製品総売上高をあげ、資本金は1954年10月に66億円となった
    • [48]輸出は戦後、インド向け大型蒸気機関車・アルゼンチン向け水力発電設備・台湾向けタービンおよび発電機はじめブラジル・ビルマ・英国等ほとんど各地域にわたって実績が上昇し総売上高の約2割を占めた。内需も電源開発・鉄道・電信電話・鉄鋼・鉱山その他一般産業の発展に伴って逐年上昇。1954年下期には電源開発納156,000KVA三相変圧器2台および287,500VA超高圧遮断器等約50台を受注し、世界に殆んど類をみない大規模なものであった
    • [49]輸出は戦後、インド向け大型蒸気機関車・アルゼンチン向け水力発電設備・台湾向けタービンおよび発電機はじめブラジル・ビルマ・英国等ほとんど各地域にわたって実績が上昇し総売上高の約2割を占めた。内需も電源開発・鉄道・電信電話・鉄鋼・鉱山その他一般産業の発展に伴って逐年上昇。1954年下期には電源開発納156,000KVA三相変圧器2台および287,500VA超高圧遮断器等約50台を受注し、世界に殆んど類をみない大規模なものであった
    • [50]輸出は戦後、インド向け大型蒸気機関車・アルゼンチン向け水力発電設備・台湾向けタービンおよび発電機はじめブラジル・ビルマ・英国等ほとんど各地域にわたって実績が上昇し総売上高の約2割を占めた。内需も電源開発・鉄道・電信電話・鉄鋼・鉱山その他一般産業の発展に伴って逐年上昇。1954年下期には電源開発納156,000KVA三相変圧器2台および287,500VA超高圧遮断器等約50台を受注し、世界に殆んど類をみない大規模なものであった
    • [51]輸出は戦後、インド向け大型蒸気機関車・アルゼンチン向け水力発電設備・台湾向けタービンおよび発電機はじめブラジル・ビルマ・英国等ほとんど各地域にわたって実績が上昇し総売上高の約2割を占めた。内需も電源開発・鉄道・電信電話・鉄鋼・鉱山その他一般産業の発展に伴って逐年上昇。1954年下期には電源開発納156,000KVA三相変圧器2台および287,500VA超高圧遮断器等約50台を受注し、世界に殆んど類をみない大規模なものであった
    • [52]輸出は戦後、インド向け大型蒸気機関車・アルゼンチン向け水力発電設備・台湾向けタービンおよび発電機はじめブラジル・ビルマ・英国等ほとんど各地域にわたって実績が上昇し総売上高の約2割を占めた。内需も電源開発・鉄道・電信電話・鉄鋼・鉱山その他一般産業の発展に伴って逐年上昇。1954年下期には電源開発納156,000KVA三相変圧器2台および287,500VA超高圧遮断器等約50台を受注し、世界に殆んど類をみない大規模なものであった
    • [53]輸出は戦後、インド向け大型蒸気機関車・アルゼンチン向け水力発電設備・台湾向けタービンおよび発電機はじめブラジル・ビルマ・英国等ほとんど各地域にわたって実績が上昇し総売上高の約2割を占めた。内需も電源開発・鉄道・電信電話・鉄鋼・鉱山その他一般産業の発展に伴って逐年上昇。1954年下期には電源開発納156,000KVA三相変圧器2台および287,500VA超高圧遮断器等約50台を受注し、世界に殆んど類をみない大規模なものであった
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [44]1956年11月 日立機電工業㈱設立
    • [45]1957年6月 国分工場、1959年2月 横浜工場、1961年2月 那珂工場・同年8月 勝田工場、1962年8月 神奈川工場、1963年2月 習志野工場を新設
    • [54]1959年10月 Hitachi New York, Ltd.(現Hitachi America, Ltd.)設立
    • [61]1956年10月 日立金属工業㈱・日立電線㈱を分離独立、1961年 マクセル電気工業㈱に資本参加、1963年4月 日立化成工業㈱を分離独立
    • [62]1956年10月 日立金属工業㈱・日立電線㈱を分離独立、1961年 マクセル電気工業㈱に資本参加、1963年4月 日立化成工業㈱を分離独立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [47]1956年の神武景気、1959年の岩戸景気と続き、それにつれて同社も大飛躍を遂げた
  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
    • [55]戦後、日立が旧帝大系大学の電子顕微鏡一号機をすべて受注し日本電気・東芝は脱落
    • [56]1939年 東京帝国大学の瀬藤象二教授を委員長とする日本学術振興会第37小委員会が発足し、大学・電気試験所に加え日立・東芝・日本電気・島津製作所の研究者が共同で電子顕微鏡を開発
    • [57]1939年 東京帝国大学の瀬藤象二教授を委員長とする日本学術振興会第37小委員会が発足し、大学・電気試験所に加え日立・東芝・日本電気・島津製作所の研究者が共同で電子顕微鏡を開発
    • [58]戦後、日立が旧帝大系大学の電子顕微鏡一号機をすべて受注し日本電気・東芝は脱落
    • [59]1955年に日立が電子顕微鏡を米国へ輸出。1960年代後半に日立と日本電子で世界需要の半分を占め、アメリカへの輸出が伸びてRCAは勝てる希望を失い撤退
    • [60]1955年に日立が電子顕微鏡を米国へ輸出。1960年代後半に日立と日本電子で世界需要の半分を占め、アメリカへの輸出が伸びてRCAは勝てる希望を失い撤退

1945年〜1968年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 490 n/a 27 5.7% n/a
1956年03月期 単体 572 +16.7% 27 4.8% n/a
1957年03月期 単体 763 +33.4% 44 5.8% n/a
1958年03月期 単体 1,117 +46.4% 73 6.6% n/a
1959年03月期 単体 1,223 +9.5% 95 7.8% n/a
1960年03月期 単体 1,628 +33.1% 130 8.0% n/a
1961年03月期 単体 2,248 +38.1% 182 8.1% n/a
1962年03月期 単体 2,907 +29.3% 231 7.9% n/a
1963年03月期 単体 3,112 +7.1% 246 7.9% n/a
1964年03月期 単体 2,966 ▲4.7% 193 6.5% n/a
1965年03月期 単体 3,055 +3.0% 139 4.5% n/a
1966年03月期 単体 2,854 ▲6.6% 98 3.5% n/a
1967年03月期 単体 3,215 +12.6% 110 3.4% n/a
1968年03月期 単体 4,154 +29.2% 142 3.4% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

7件
出典・参考
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 日本経済新聞(1981年1月)駒井健一郎「私の履歴書」
  • 技術開発の昭和史(森谷正規著, 日本経済新聞社, 1986)
  • 読売(1950年6月23日)
  • マネジメント(1959年6月)

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