第1章 年〜年

日立製作所:日立鉱山での日立製作所の創業と株式会社としての独立

1910年〜鉱山の修理工場からの創業と、株式会社としての独立

当時の電気機械は需要が小さく、技術面でも資材面でも国内で造るのは至難と見られていた。一から十まで輸入に頼っていたその電気機械を日本人の手で造ることを悲願として、創業者の小平浪平氏は日立を興し、この事業の振興が国内の生業の発展に役立つと信じて苦心を重ねた。製造に取りかかったのは1908年、久原鉱業所日立鉱山の工作課長としてであり、翌1909年には5馬力の誘導電動機を3台仕上げた。1910年に130平方メートルの建屋と5名の工員で修理工場が動き出し、同じ年に新工場を建てて日立製作所の名を付け、変圧器や電動機、発電機といったひととおりの品目の製造に入った。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [1]電気機械は需要度が低く技術・資材面から国産化は相当な難事とされたが、小平浪平氏は当事業の振興こそ国内生業の発展に寄与できるとして苦心を重ね、1909年に5馬力誘導電動機3台を完成
    • [3]電気機械は需要度が低く技術・資材面から国産化は相当な難事とされたが、小平浪平氏は当事業の振興こそ国内生業の発展に寄与できるとして苦心を重ね、1909年に5馬力誘導電動機3台を完成
    • [4]電気機械は需要度が低く技術・資材面から国産化は相当な難事とされたが、小平浪平氏は当事業の振興こそ国内生業の発展に寄与できるとして苦心を重ね、1909年に5馬力誘導電動機3台を完成
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]小平浪平氏は一から十まで輸入に頼っていた電気機械をなんとか日本人自らの手で作りたいという念願を抱き、1908年に建物130平方メートル・工員5名の修理工場を設置。1910年には新工場を建設して日立製作所と名づけ、変圧器・電動機・発電機など一通りのものを造り始めた
    • [5]小平浪平氏は一から十まで輸入に頼っていた電気機械をなんとか日本人自らの手で作りたいという念願を抱き、1908年に建物130平方メートル・工員5名の修理工場を設置。1910年には新工場を建設して日立製作所と名づけ、変圧器・電動機・発電機など一通りのものを造り始めた
    • [6]小平浪平氏は一から十まで輸入に頼っていた電気機械をなんとか日本人自らの手で作りたいという念願を抱き、1908年に建物130平方メートル・工員5名の修理工場を設置。1910年には新工場を建設して日立製作所と名づけ、変圧器・電動機・発電機など一通りのものを造り始めた

1914年の第一次世界大戦で輸入が途絶えると注文が増え始め、産業の勃興による電力需要の急増も重なった。大戦下の注文増と電力需要の急増は、めざましい成長をもたらした。1918年には後の日立電線となる電線工場を建て、鋳物を依頼してきた佃島製作所を合併して一般産業機械へ進出する。合併した佃島製作所は亀戸工場となり、従来の工場は日立工場と改称された。2工場を抱えるまでになっても、久原房之助氏は電機部門を鉱山の付帯事業と位置づけていた。小平浪平氏は分離独立を主張し、1920年2月、両工場をもって久原鉱業から分離する。資本金1000万円の株式会社日立製作所として新発足した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [7]1914年の第一次欧州大戦勃発で輸入が途絶えて注文が増え始め、産業の勃興で電力需要が急増。1918年に電線工場(日立電線の前身)を建設し、鋳物を依頼してきた佃島製作所を合併して一般産業機械に進出。久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的で、小平浪平氏が分離独立を主張した
    • [8]1914年の第一次欧州大戦勃発で輸入が途絶えて注文が増え始め、産業の勃興で電力需要が急増。1918年に電線工場(日立電線の前身)を建設し、鋳物を依頼してきた佃島製作所を合併して一般産業機械に進出。久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的で、小平浪平氏が分離独立を主張した
    • [9]1914年の第一次欧州大戦勃発で輸入が途絶えて注文が増え始め、産業の勃興で電力需要が急増。1918年に電線工場(日立電線の前身)を建設し、鋳物を依頼してきた佃島製作所を合併して一般産業機械に進出。久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的で、小平浪平氏が分離独立を主張した
    • [11]1914年の第一次欧州大戦勃発で輸入が途絶えて注文が増え始め、産業の勃興で電力需要が急増。1918年に電線工場(日立電線の前身)を建設し、鋳物を依頼してきた佃島製作所を合併して一般産業機械に進出。久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的で、小平浪平氏が分離独立を主張した
    • [12]1914年の第一次欧州大戦勃発で輸入が途絶えて注文が増え始め、産業の勃興で電力需要が急増。1918年に電線工場(日立電線の前身)を建設し、鋳物を依頼してきた佃島製作所を合併して一般産業機械に進出。久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的で、小平浪平氏が分離独立を主張した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [10]1918年10月 佃島製作所を合併して亀戸工場とし従来の工場を日立工場と改称。1920年2月 これら2工場をもって久原鉱業から分離独立し、資本金1000万円の株式会社日立製作所として新発足
    • [13]1918年10月 佃島製作所を合併して亀戸工場とし従来の工場を日立工場と改称。1920年2月 これら2工場をもって久原鉱業から分離独立し、資本金1000万円の株式会社日立製作所として新発足
    • [14]1918年10月 佃島製作所を合併して亀戸工場とし従来の工場を日立工場と改称。1920年2月 これら2工場をもって久原鉱業から分離独立し、資本金1000万円の株式会社日立製作所として新発足

独立の翌1921年2月、日立は日本汽船から笠戸造船所を譲り受けて笠戸工場を開設し、本格的な機関車製造を始めた。日立の電機、亀戸の機械、笠戸の車両という多角経営によって、会社の基礎はさらに固くなる。1926年には米国へ電気扇30台を初輸出するまでに技術が進んだ。輸出は1929年の南洋向けタンク車、1930年から1931年にかけてのソ連向け発電機・電動機・変圧器と活発になる。行き先は中国各地・インド・ビルマ・近東地域・アフリカ・南米にまで及んだ。国内では1935年5月に共成冷機工業へ資本参加し、冷凍機の分野にも入っている。外国資本にも外国技術にも依らずに始めた事業は、独立から10年ほどで輸出企業の形を得た。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [15]1921年 日本汽船㈱笠戸造船所を譲受けて本格的な機関車製造を開始。日立の電機、亀戸の機械、笠戸の車両と多角経営により同社の基礎はさらに強固なものとなった。輸出は1926年の米国向け電気扇30台を皮切りに、1929年の南洋へのタンク車、1930〜31年のソ連への発電機・電動機・変圧器と活発化
    • [17]1921年 日本汽船㈱笠戸造船所を譲受けて本格的な機関車製造を開始。日立の電機、亀戸の機械、笠戸の車両と多角経営により同社の基礎はさらに強固なものとなった。輸出は1926年の米国向け電気扇30台を皮切りに、1929年の南洋へのタンク車、1930〜31年のソ連への発電機・電動機・変圧器と活発化
    • [19]1921年 日本汽船㈱笠戸造船所を譲受けて本格的な機関車製造を開始。日立の電機、亀戸の機械、笠戸の車両と多角経営により同社の基礎はさらに強固なものとなった。輸出は1926年の米国向け電気扇30台を皮切りに、1929年の南洋へのタンク車、1930〜31年のソ連への発電機・電動機・変圧器と活発化
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [16]1921年2月 日本汽船の笠戸造船所を譲り受けて笠戸工場を開設
    • [18]1926年に米国へ電気扇30台を初輸出するほど技術の進歩をみた。以来輸出は逐年伸張し中国各地・インド・ビルマ・タイ・近東地域・アフリカ・豪州・南米・ソ連邦にまで及んだ
    • [20]1926年に米国へ電気扇30台を初輸出するほど技術の進歩をみた。以来輸出は逐年伸張し中国各地・インド・ビルマ・タイ・近東地域・アフリカ・豪州・南米・ソ連邦にまで及んだ
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [21]1935年5月 共成冷機工業㈱(後に日立プラント建設㈱に商号変更)に資本参加
参考文献[1]-[21]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [1]電気機械は需要度が低く技術・資材面から国産化は相当な難事とされたが、小平浪平氏は当事業の振興こそ国内生業の発展に寄与できるとして苦心を重ね、1909年に5馬力誘導電動機3台を完成
    • [3]電気機械は需要度が低く技術・資材面から国産化は相当な難事とされたが、小平浪平氏は当事業の振興こそ国内生業の発展に寄与できるとして苦心を重ね、1909年に5馬力誘導電動機3台を完成
    • [4]電気機械は需要度が低く技術・資材面から国産化は相当な難事とされたが、小平浪平氏は当事業の振興こそ国内生業の発展に寄与できるとして苦心を重ね、1909年に5馬力誘導電動機3台を完成
    • [10]1918年10月 佃島製作所を合併して亀戸工場とし従来の工場を日立工場と改称。1920年2月 これら2工場をもって久原鉱業から分離独立し、資本金1000万円の株式会社日立製作所として新発足
    • [13]1918年10月 佃島製作所を合併して亀戸工場とし従来の工場を日立工場と改称。1920年2月 これら2工場をもって久原鉱業から分離独立し、資本金1000万円の株式会社日立製作所として新発足
    • [14]1918年10月 佃島製作所を合併して亀戸工場とし従来の工場を日立工場と改称。1920年2月 これら2工場をもって久原鉱業から分離独立し、資本金1000万円の株式会社日立製作所として新発足
    • [16]1921年2月 日本汽船の笠戸造船所を譲り受けて笠戸工場を開設
    • [18]1926年に米国へ電気扇30台を初輸出するほど技術の進歩をみた。以来輸出は逐年伸張し中国各地・インド・ビルマ・タイ・近東地域・アフリカ・豪州・南米・ソ連邦にまで及んだ
    • [20]1926年に米国へ電気扇30台を初輸出するほど技術の進歩をみた。以来輸出は逐年伸張し中国各地・インド・ビルマ・タイ・近東地域・アフリカ・豪州・南米・ソ連邦にまで及んだ
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]小平浪平氏は一から十まで輸入に頼っていた電気機械をなんとか日本人自らの手で作りたいという念願を抱き、1908年に建物130平方メートル・工員5名の修理工場を設置。1910年には新工場を建設して日立製作所と名づけ、変圧器・電動機・発電機など一通りのものを造り始めた
    • [5]小平浪平氏は一から十まで輸入に頼っていた電気機械をなんとか日本人自らの手で作りたいという念願を抱き、1908年に建物130平方メートル・工員5名の修理工場を設置。1910年には新工場を建設して日立製作所と名づけ、変圧器・電動機・発電機など一通りのものを造り始めた
    • [6]小平浪平氏は一から十まで輸入に頼っていた電気機械をなんとか日本人自らの手で作りたいという念願を抱き、1908年に建物130平方メートル・工員5名の修理工場を設置。1910年には新工場を建設して日立製作所と名づけ、変圧器・電動機・発電機など一通りのものを造り始めた
    • [7]1914年の第一次欧州大戦勃発で輸入が途絶えて注文が増え始め、産業の勃興で電力需要が急増。1918年に電線工場(日立電線の前身)を建設し、鋳物を依頼してきた佃島製作所を合併して一般産業機械に進出。久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的で、小平浪平氏が分離独立を主張した
    • [8]1914年の第一次欧州大戦勃発で輸入が途絶えて注文が増え始め、産業の勃興で電力需要が急増。1918年に電線工場(日立電線の前身)を建設し、鋳物を依頼してきた佃島製作所を合併して一般産業機械に進出。久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的で、小平浪平氏が分離独立を主張した
    • [9]1914年の第一次欧州大戦勃発で輸入が途絶えて注文が増え始め、産業の勃興で電力需要が急増。1918年に電線工場(日立電線の前身)を建設し、鋳物を依頼してきた佃島製作所を合併して一般産業機械に進出。久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的で、小平浪平氏が分離独立を主張した
    • [11]1914年の第一次欧州大戦勃発で輸入が途絶えて注文が増え始め、産業の勃興で電力需要が急増。1918年に電線工場(日立電線の前身)を建設し、鋳物を依頼してきた佃島製作所を合併して一般産業機械に進出。久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的で、小平浪平氏が分離独立を主張した
    • [12]1914年の第一次欧州大戦勃発で輸入が途絶えて注文が増え始め、産業の勃興で電力需要が急増。1918年に電線工場(日立電線の前身)を建設し、鋳物を依頼してきた佃島製作所を合併して一般産業機械に進出。久原房之助氏は電機部門の多角化に消極的で、小平浪平氏が分離独立を主張した
    • [15]1921年 日本汽船㈱笠戸造船所を譲受けて本格的な機関車製造を開始。日立の電機、亀戸の機械、笠戸の車両と多角経営により同社の基礎はさらに強固なものとなった。輸出は1926年の米国向け電気扇30台を皮切りに、1929年の南洋へのタンク車、1930〜31年のソ連への発電機・電動機・変圧器と活発化
    • [17]1921年 日本汽船㈱笠戸造船所を譲受けて本格的な機関車製造を開始。日立の電機、亀戸の機械、笠戸の車両と多角経営により同社の基礎はさらに強固なものとなった。輸出は1926年の米国向け電気扇30台を皮切りに、1929年の南洋へのタンク車、1930〜31年のソ連への発電機・電動機・変圧器と活発化
    • [19]1921年 日本汽船㈱笠戸造船所を譲受けて本格的な機関車製造を開始。日立の電機、亀戸の機械、笠戸の車両と多角経営により同社の基礎はさらに強固なものとなった。輸出は1926年の米国向け電気扇30台を皮切りに、1929年の南洋へのタンク車、1930〜31年のソ連への発電機・電動機・変圧器と活発化
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
    • [21]1935年5月 共成冷機工業㈱(後に日立プラント建設㈱に商号変更)に資本参加

1928年〜昭和恐慌下の10万坪買収と、無経験の電解槽受注

昭和金融恐慌の翌年にあたり、財界の不振がはっきりしていた1928年に、日立は日立町と隣り合う常磐線助川駅の周辺で大規模な新工場の建設を計画した。助川町一帯の約10万坪を買い取ったのは翌1929年である。社内には東京で工場を営むほうが有利だとする声が根強くあったが、1923年の関東大震災で東京が被災したのに対して日立には被害がなく、これが移転論を退ける決め手になった。買収価格は坪3円から5円、総額40万から50万円で、日立・亀戸・笠戸の3工場を持つだけの当時の同社には重い負担だった。高台から北へ約10万坪を取り入れて建設用地を確保し、1930年4月には最初の製缶工場が完成している。

  • 週刊日本経済 1963年1月17日号
    • [22]1928年に日立海岸工場の建設を計画。1926年下半期から財界の不振は顕著となり1927年3月に昭和金融大恐慌が勃発したが、翌1929年に助川町1405番地一帯の土地約10万坪を買収
    • [23]1928年に日立海岸工場の建設を計画。1926年下半期から財界の不振は顕著となり1927年3月に昭和金融大恐慌が勃発したが、翌1929年に助川町1405番地一帯の土地約10万坪を買収
    • [24]1928年に日立海岸工場の建設を計画。1926年下半期から財界の不振は顕著となり1927年3月に昭和金融大恐慌が勃発したが、翌1929年に助川町1405番地一帯の土地約10万坪を買収
    • [25]小平浪平氏の回想。工場経営は東京がよいという説があったが、1923年の関東大震災で東京が被災し日立は無傷だったため東京移転は策の得たものでないという意見になった。当時の土地は坪3〜4円、高くて5〜6円で、総額40〜50万円は相当荷が重かった
    • [26]小平浪平氏の回想。工場経営は東京がよいという説があったが、1923年の関東大震災で東京が被災し日立は無傷だったため東京移転は策の得たものでないという意見になった。当時の土地は坪3〜4円、高くて5〜6円で、総額40〜50万円は相当荷が重かった
    • [27]小平浪平氏の回想。工場経営は東京がよいという説があったが、1923年の関東大震災で東京が被災し日立は無傷だったため東京移転は策の得たものでないという意見になった。当時の土地は坪3〜4円、高くて5〜6円で、総額40〜50万円は相当荷が重かった
    • [29]高台から北へ約10万坪を取り入れて工場の建設を確保。海岸工場は1930年4月に製缶工場が完成して直ちに生産を始めた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [28]1921年2月の笠戸工場開設から1937年5月の国産工業合併まで、日立の工場は日立・亀戸・笠戸の3つ

日立が電解槽と回転変流機一式を受注したのは、用地を確保した1929年12月31日のことである。発注元の昭和肥料では、専務が日立なら任せられると全面的に信頼を置き、かねて申し入れていた。案件は1台6,000キロワットの回転変流機10台に変圧器と附属設備を加えた大がかりなものだったが、化学装置である電解槽を日立は手がけたことがなかった。工場が閑散で外に仕事のない時期ではあったが、失敗すれば電気界での信用まで失う仕事でもあった。溶接技術に不慣れでガスが洩れるなどの難儀を重ね、手直しの確信を得たのは受注を決めた同年12月末である。この電解槽は、外部の技術に頼らず自社技術で開発したものだった。並行して扇風機や柱上変圧器といった新分野の開発も相次いだ。

  • 週刊日本経済 1963年1月24日号
    • [30]1929年12月31日 昭和肥料から電解槽と1台6,000キロワットの回転変流機10台および変圧器・附属設備一切を受注。全く変わった化学装置で無経験のことであり、工場が閑散で外に仕事のない時ではあったが、失敗すれば電気界における信用まで失墜する非常な問題であった
    • [31]昭和肥料の専務から日立でやってくれるなら頼むと絶対の信頼をもって申し込まれ、早速その試作品に取り掛かった
    • [32]1929年12月31日 昭和肥料から電解槽と1台6,000キロワットの回転変流機10台および変圧器・附属設備一切を受注。全く変わった化学装置で無経験のことであり、工場が閑散で外に仕事のない時ではあったが、失敗すれば電気界における信用まで失墜する非常な問題であった
    • [33]1929年12月31日 昭和肥料から電解槽と1台6,000キロワットの回転変流機10台および変圧器・附属設備一切を受注。全く変わった化学装置で無経験のことであり、工場が閑散で外に仕事のない時ではあったが、失敗すれば電気界における信用まで失墜する非常な問題であった
    • [34]1929年12月31日 昭和肥料から電解槽と1台6,000キロワットの回転変流機10台および変圧器・附属設備一切を受注。全く変わった化学装置で無経験のことであり、工場が閑散で外に仕事のない時ではあったが、失敗すれば電気界における信用まで失墜する非常な問題であった
    • [35]この種の溶接技術が不慣れであったためガスが洩れるなどして苦心したが、1929年12月末に相当良好に手直しできる確信を得て12月31日に受注を決定した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [36]1929年 昭和肥料(現昭和電工)向けの電解槽を自社技術で開発。あわせて扇風機・柱上変圧器など新分野の開発が相次いだ
    • [37]1929年 昭和肥料(現昭和電工)向けの電解槽を自社技術で開発。あわせて扇風機・柱上変圧器など新分野の開発が相次いだ

日立はこの案件のために、100キロワット・10,000アンペアの直流試験機を自社で造った。経験のない仕事ではまず試験設備を用意するのが同社のやり方で、試作品ができるとすぐに実験し、その結果をもとに誤りを正し手を入れてから本製作に移った。1930年8月に送った4台の試作品には、現場の要望を受けて何度か改造を施した。電解槽2,500台と回転変流機10台の納入は1931年6月で、この仕事は昭和の経済危機を乗り切る足がかりになった。海岸工場では鋳物から精密器具までを外部に依存せず自給する体制が整いつつあった。工事が全部完成した1938年には、総建坪38,881坪に達している。

  • 週刊日本経済 1963年1月24日号
    • [38]慣れない無経験の仕事をする時、先ず試験設備を完備してその製作にかかることは本社の特色。試験用として100キロワット・10,000アンペアの直流試験機を特に製作し、試作品ができれば直ちに実験して誤りを防ぎ改良を加えてのち本製作にかかる方法をとった
    • [39]慣れない無経験の仕事をする時、先ず試験設備を完備してその製作にかかることは本社の特色。試験用として100キロワット・10,000アンペアの直流試験機を特に製作し、試作品ができれば直ちに実験して誤りを防ぎ改良を加えてのち本製作にかかる方法をとった
    • [40]慣れない無経験の仕事をする時、先ず試験設備を完備してその製作にかかることは本社の特色。試験用として100キロワット・10,000アンペアの直流試験機を特に製作し、試作品ができれば直ちに実験して誤りを防ぎ改良を加えてのち本製作にかかる方法をとった
    • [41]1930年8月に4台の試作品を作って10月に送り届け、現場員の要求によって数回改造を反復。1931年6月に電解槽2,500台と回転変流機10台を納め、この事業によって昭和の経済危機を突破することができた
    • [42]1930年8月に4台の試作品を作って10月に送り届け、現場員の要求によって数回改造を反復。1931年6月に電解槽2,500台と回転変流機10台を納め、この事業によって昭和の経済危機を突破することができた
  • 週刊日本経済 1963年1月17日号
    • [43]新工場では鋳物・製缶にいたるまで外部に依存せず自給しうるようになり、精密器具や高電圧の試験設備まで十分に備わった
    • [44]諸工場が順次増設され、全部の工事が完成した1938年には総建坪38,881坪となった
参考文献[22]-[44]
  • 週刊日本経済 1963年1月17日号
    • [22]1928年に日立海岸工場の建設を計画。1926年下半期から財界の不振は顕著となり1927年3月に昭和金融大恐慌が勃発したが、翌1929年に助川町1405番地一帯の土地約10万坪を買収
    • [23]1928年に日立海岸工場の建設を計画。1926年下半期から財界の不振は顕著となり1927年3月に昭和金融大恐慌が勃発したが、翌1929年に助川町1405番地一帯の土地約10万坪を買収
    • [24]1928年に日立海岸工場の建設を計画。1926年下半期から財界の不振は顕著となり1927年3月に昭和金融大恐慌が勃発したが、翌1929年に助川町1405番地一帯の土地約10万坪を買収
    • [25]小平浪平氏の回想。工場経営は東京がよいという説があったが、1923年の関東大震災で東京が被災し日立は無傷だったため東京移転は策の得たものでないという意見になった。当時の土地は坪3〜4円、高くて5〜6円で、総額40〜50万円は相当荷が重かった
    • [26]小平浪平氏の回想。工場経営は東京がよいという説があったが、1923年の関東大震災で東京が被災し日立は無傷だったため東京移転は策の得たものでないという意見になった。当時の土地は坪3〜4円、高くて5〜6円で、総額40〜50万円は相当荷が重かった
    • [27]小平浪平氏の回想。工場経営は東京がよいという説があったが、1923年の関東大震災で東京が被災し日立は無傷だったため東京移転は策の得たものでないという意見になった。当時の土地は坪3〜4円、高くて5〜6円で、総額40〜50万円は相当荷が重かった
    • [29]高台から北へ約10万坪を取り入れて工場の建設を確保。海岸工場は1930年4月に製缶工場が完成して直ちに生産を始めた
    • [43]新工場では鋳物・製缶にいたるまで外部に依存せず自給しうるようになり、精密器具や高電圧の試験設備まで十分に備わった
    • [44]諸工場が順次増設され、全部の工事が完成した1938年には総建坪38,881坪となった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [28]1921年2月の笠戸工場開設から1937年5月の国産工業合併まで、日立の工場は日立・亀戸・笠戸の3つ
  • 週刊日本経済 1963年1月24日号
    • [30]1929年12月31日 昭和肥料から電解槽と1台6,000キロワットの回転変流機10台および変圧器・附属設備一切を受注。全く変わった化学装置で無経験のことであり、工場が閑散で外に仕事のない時ではあったが、失敗すれば電気界における信用まで失墜する非常な問題であった
    • [31]昭和肥料の専務から日立でやってくれるなら頼むと絶対の信頼をもって申し込まれ、早速その試作品に取り掛かった
    • [32]1929年12月31日 昭和肥料から電解槽と1台6,000キロワットの回転変流機10台および変圧器・附属設備一切を受注。全く変わった化学装置で無経験のことであり、工場が閑散で外に仕事のない時ではあったが、失敗すれば電気界における信用まで失墜する非常な問題であった
    • [33]1929年12月31日 昭和肥料から電解槽と1台6,000キロワットの回転変流機10台および変圧器・附属設備一切を受注。全く変わった化学装置で無経験のことであり、工場が閑散で外に仕事のない時ではあったが、失敗すれば電気界における信用まで失墜する非常な問題であった
    • [34]1929年12月31日 昭和肥料から電解槽と1台6,000キロワットの回転変流機10台および変圧器・附属設備一切を受注。全く変わった化学装置で無経験のことであり、工場が閑散で外に仕事のない時ではあったが、失敗すれば電気界における信用まで失墜する非常な問題であった
    • [35]この種の溶接技術が不慣れであったためガスが洩れるなどして苦心したが、1929年12月末に相当良好に手直しできる確信を得て12月31日に受注を決定した
    • [38]慣れない無経験の仕事をする時、先ず試験設備を完備してその製作にかかることは本社の特色。試験用として100キロワット・10,000アンペアの直流試験機を特に製作し、試作品ができれば直ちに実験して誤りを防ぎ改良を加えてのち本製作にかかる方法をとった
    • [39]慣れない無経験の仕事をする時、先ず試験設備を完備してその製作にかかることは本社の特色。試験用として100キロワット・10,000アンペアの直流試験機を特に製作し、試作品ができれば直ちに実験して誤りを防ぎ改良を加えてのち本製作にかかる方法をとった
    • [40]慣れない無経験の仕事をする時、先ず試験設備を完備してその製作にかかることは本社の特色。試験用として100キロワット・10,000アンペアの直流試験機を特に製作し、試作品ができれば直ちに実験して誤りを防ぎ改良を加えてのち本製作にかかる方法をとった
    • [41]1930年8月に4台の試作品を作って10月に送り届け、現場員の要求によって数回改造を反復。1931年6月に電解槽2,500台と回転変流機10台を納め、この事業によって昭和の経済危機を突破することができた
    • [42]1930年8月に4台の試作品を作って10月に送り届け、現場員の要求によって数回改造を反復。1931年6月に電解槽2,500台と回転変流機10台を納め、この事業によって昭和の経済危機を突破することができた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [36]1929年 昭和肥料(現昭和電工)向けの電解槽を自社技術で開発。あわせて扇風機・柱上変圧器など新分野の開発が相次いだ
    • [37]1929年 昭和肥料(現昭和電工)向けの電解槽を自社技術で開発。あわせて扇風機・柱上変圧器など新分野の開発が相次いだ

1931年〜国産工業の合併による一貫生産と、提携を持たない輸出

1931年9月の満州事変と同年12月の金輸出再禁止で景気が回復すると、電気事業の復調が注文の激増となって表れた。不況期に着工した海岸工場と、亀戸・笠戸両工場の設備拡張が、この需要に応じる準備になっていた。会社の利益は大きく増えたが、日立は配当金をなるべく制限し、利益の大部分を設備の改善と減価償却へ充てる。資本金は1933年12月に2,000万円、1935年8月には2,500万円を増資して4,500万円となった。1938年1月には木津川工場の分工場として桑名工場を設けている。製作技術の進歩も重なって製作品は躍進的に発展した。1934年3月には日立研究所を設け、製品の質量の向上と新製品の増加を図っている。

  • 週刊日本経済 1963年1月24日号
    • [45]1931年9月の満州事変と同年12月の金輸出再禁止で景気は急に回復し、電気事業も盛んになって日立製作所への注文品が激増。海岸工場の建設に着手し亀戸・笠戸両工場でも設備を拡張して需要に応ずる準備が整っていた。利益は増したが堅実な営業方針に基づき配当金はなるべく制限して、利益金の大きな部分を設備の改善と減価償却にあてた
    • [46]1931年9月の満州事変と同年12月の金輸出再禁止で景気は急に回復し、電気事業も盛んになって日立製作所への注文品が激増。海岸工場の建設に着手し亀戸・笠戸両工場でも設備を拡張して需要に応ずる準備が整っていた。利益は増したが堅実な営業方針に基づき配当金はなるべく制限して、利益金の大きな部分を設備の改善と減価償却にあてた
    • [47]1931年9月の満州事変と同年12月の金輸出再禁止で景気は急に回復し、電気事業も盛んになって日立製作所への注文品が激増。海岸工場の建設に着手し亀戸・笠戸両工場でも設備を拡張して需要に応ずる準備が整っていた。利益は増したが堅実な営業方針に基づき配当金はなるべく制限して、利益金の大きな部分を設備の改善と減価償却にあてた
    • [48]1933年12月に資本金2,000万円、1935年8月に2,500万円増資して4,500万円
    • [50]1931年9月の満州事変と同年12月の金輸出再禁止で景気は急に回復し、電気事業も盛んになって日立製作所への注文品が激増。海岸工場の建設に着手し亀戸・笠戸両工場でも設備を拡張して需要に応ずる準備が整っていた。利益は増したが堅実な営業方針に基づき配当金はなるべく制限して、利益金の大きな部分を設備の改善と減価償却にあてた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [49]1938年1月 木津川工場の分工場として桑名工場を設置
    • [51]1934年3月 日立研究所を設けて製品の質量向上と新製品の増加を図る

1937年5月、日立は資本金を倍額の9,000万円へ増資し、同時に国産工業を吸収合併した。相手は鮎川義介氏が率いる7工場と冶金研究所を持ち、従業員4,000名を擁する会社である。戸畑・若松・木津川・深川・安来・戸塚・尼崎の7工場が加わり、資本金は1億1,790万円となった。合併した各工場は直ちに日立式へ改称され、戸畑では機械・仕上の両工場を、木津川の桑名分工場では鋳造・熔解・焼鈍の各工場を増設する。設備の大改造を経た各工場は面目を一新し、多角経営の妙味を発揮するに至った。これにより特殊鋼部門へ進出し、原材料から完成品までの一貫生産態勢が確立する。1938年9月の亀有、1939年4月の多賀、1940年9月の水戸と、新工場の建設も相次いだ。

  • 週刊日本経済 1963年1月24日号
    • [52]1937年5月に倍額の9,000万円へ増資、同時に国産工業株式会社を吸収合併して7工場・1研究所・4分工場が傘下に加わり資本金は1億1,790万円となった
    • [54]1937年5月に倍額の9,000万円へ増資、同時に国産工業株式会社を吸収合併して7工場・1研究所・4分工場が傘下に加わり資本金は1億1,790万円となった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [53]1937年に鮎川義介氏の率いる国産工業(7工場と冶金研究所を有し従業員4,000名)を合併して特殊鋼部門に進出。1943年の理研真空工業合併による茂原工場で真空管・電球の製造を開始し、重電・軽電にわたる全領域に一貫体制を確立
    • [57]1937年に鮎川義介氏の率いる国産工業(7工場と冶金研究所を有し従業員4,000名)を合併して特殊鋼部門に進出。1943年の理研真空工業合併による茂原工場で真空管・電球の製造を開始し、重電・軽電にわたる全領域に一貫体制を確立
  • 週刊日本経済 1963年1月31日号
    • [55]合併により国産工業の各工場を日立式に改称し、戸畑工場は機械・仕上両工場を増設、木津川工場の桑名分工場内に鋳造・熔解・焼鈍各工場を増設するなど設備に大改造を加えたため、合併各工場は面目を一新して多角経営の妙味を発揮するにいたった
    • [56]合併により国産工業の各工場を日立式に改称し、戸畑工場は機械・仕上両工場を増設、木津川工場の桑名分工場内に鋳造・熔解・焼鈍各工場を増設するなど設備に大改造を加えたため、合併各工場は面目を一新して多角経営の妙味を発揮するにいたった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [58]1938年9月 亀有工場、1939年4月 多賀工場、1940年9月 水戸工場を相次いで新設

外国技術を導入しなかったことは、輸出で優位に働いた。外国メーカーと提携した同業は、相手方が定める地域制限で輸出先を縛られる。日立にはその制限がなく、自由に世界のどこへも進出できた。ボイラーとタービンはヤーロー社とAEG社の協力を得て造られ、地域協定で輸出を縛られたが、その縛りは一定年限で切れるものだった。扇風機では事情が違い、他社は地域制限のために売り込めなかった。そのため1932年から1933年にかけて、インドなどの市場は日立がほぼ一手に握った。海外からの受注は発電設備にも及び、1939年にブラジルのマカブ発電所向け水力電機設備を取った。1943年11月には理研真空工業を吸収し、その拠点を茂原工場に改めた。真空管と電球が品目に加わったことで、重電から軽電までを一貫して手がける体制ができあがった。売上高は終戦直前の1944年に8億5,910万円まで伸びた。

  • 週刊日本経済 1963年2月7日号
    • [59]外国提携がなかったため自由自在に世界の何処へも進出できた。昭和7〜8年頃インドその他において扇風機が本社の独り舞台であったとき、他社は外国提携会社の地域制限によってこれに指を染めることができなかった。後にヤーロー社及びA・E・G社の協力を得たのでボイラー・タービンは地域協定によって輸出に制限を受けたが、それも一定年限だけであった
    • [60]外国提携がなかったため自由自在に世界の何処へも進出できた。昭和7〜8年頃インドその他において扇風機が本社の独り舞台であったとき、他社は外国提携会社の地域制限によってこれに指を染めることができなかった。後にヤーロー社及びA・E・G社の協力を得たのでボイラー・タービンは地域協定によって輸出に制限を受けたが、それも一定年限だけであった
    • [61]外国提携がなかったため自由自在に世界の何処へも進出できた。昭和7〜8年頃インドその他において扇風機が本社の独り舞台であったとき、他社は外国提携会社の地域制限によってこれに指を染めることができなかった。後にヤーロー社及びA・E・G社の協力を得たのでボイラー・タービンは地域協定によって輸出に制限を受けたが、それも一定年限だけであった
    • [62]外国提携がなかったため自由自在に世界の何処へも進出できた。昭和7〜8年頃インドその他において扇風機が本社の独り舞台であったとき、他社は外国提携会社の地域制限によってこれに指を染めることができなかった。後にヤーロー社及びA・E・G社の協力を得たのでボイラー・タービンは地域協定によって輸出に制限を受けたが、それも一定年限だけであった
    • [63]外国提携がなかったため自由自在に世界の何処へも進出できた。昭和7〜8年頃インドその他において扇風機が本社の独り舞台であったとき、他社は外国提携会社の地域制限によってこれに指を染めることができなかった。後にヤーロー社及びA・E・G社の協力を得たのでボイラー・タービンは地域協定によって輸出に制限を受けたが、それも一定年限だけであった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [64]1939年にブラジル・マカブ発電所の水力電機設備を受注し、出力3,300KWペルトン水車および容量3,750KW三相交流同期発電機各1台を納入して内外の注目をひいた
    • [65]1943年11月 理研真空工業を合併して茂原工場とし、製品に真空管および電球を加えた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [66]終戦直前の1944年には売上高8億5,910万円と、わが国屈指の大企業に成長
参考文献[45]-[66]
  • 週刊日本経済 1963年1月24日号
    • [45]1931年9月の満州事変と同年12月の金輸出再禁止で景気は急に回復し、電気事業も盛んになって日立製作所への注文品が激増。海岸工場の建設に着手し亀戸・笠戸両工場でも設備を拡張して需要に応ずる準備が整っていた。利益は増したが堅実な営業方針に基づき配当金はなるべく制限して、利益金の大きな部分を設備の改善と減価償却にあてた
    • [46]1931年9月の満州事変と同年12月の金輸出再禁止で景気は急に回復し、電気事業も盛んになって日立製作所への注文品が激増。海岸工場の建設に着手し亀戸・笠戸両工場でも設備を拡張して需要に応ずる準備が整っていた。利益は増したが堅実な営業方針に基づき配当金はなるべく制限して、利益金の大きな部分を設備の改善と減価償却にあてた
    • [47]1931年9月の満州事変と同年12月の金輸出再禁止で景気は急に回復し、電気事業も盛んになって日立製作所への注文品が激増。海岸工場の建設に着手し亀戸・笠戸両工場でも設備を拡張して需要に応ずる準備が整っていた。利益は増したが堅実な営業方針に基づき配当金はなるべく制限して、利益金の大きな部分を設備の改善と減価償却にあてた
    • [48]1933年12月に資本金2,000万円、1935年8月に2,500万円増資して4,500万円
    • [50]1931年9月の満州事変と同年12月の金輸出再禁止で景気は急に回復し、電気事業も盛んになって日立製作所への注文品が激増。海岸工場の建設に着手し亀戸・笠戸両工場でも設備を拡張して需要に応ずる準備が整っていた。利益は増したが堅実な営業方針に基づき配当金はなるべく制限して、利益金の大きな部分を設備の改善と減価償却にあてた
    • [52]1937年5月に倍額の9,000万円へ増資、同時に国産工業株式会社を吸収合併して7工場・1研究所・4分工場が傘下に加わり資本金は1億1,790万円となった
    • [54]1937年5月に倍額の9,000万円へ増資、同時に国産工業株式会社を吸収合併して7工場・1研究所・4分工場が傘下に加わり資本金は1億1,790万円となった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
    • [49]1938年1月 木津川工場の分工場として桑名工場を設置
    • [51]1934年3月 日立研究所を設けて製品の質量向上と新製品の増加を図る
    • [58]1938年9月 亀有工場、1939年4月 多賀工場、1940年9月 水戸工場を相次いで新設
    • [64]1939年にブラジル・マカブ発電所の水力電機設備を受注し、出力3,300KWペルトン水車および容量3,750KW三相交流同期発電機各1台を納入して内外の注目をひいた
    • [65]1943年11月 理研真空工業を合併して茂原工場とし、製品に真空管および電球を加えた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [53]1937年に鮎川義介氏の率いる国産工業(7工場と冶金研究所を有し従業員4,000名)を合併して特殊鋼部門に進出。1943年の理研真空工業合併による茂原工場で真空管・電球の製造を開始し、重電・軽電にわたる全領域に一貫体制を確立
    • [57]1937年に鮎川義介氏の率いる国産工業(7工場と冶金研究所を有し従業員4,000名)を合併して特殊鋼部門に進出。1943年の理研真空工業合併による茂原工場で真空管・電球の製造を開始し、重電・軽電にわたる全領域に一貫体制を確立
    • [66]終戦直前の1944年には売上高8億5,910万円と、わが国屈指の大企業に成長
  • 週刊日本経済 1963年1月31日号
    • [55]合併により国産工業の各工場を日立式に改称し、戸畑工場は機械・仕上両工場を増設、木津川工場の桑名分工場内に鋳造・熔解・焼鈍各工場を増設するなど設備に大改造を加えたため、合併各工場は面目を一新して多角経営の妙味を発揮するにいたった
    • [56]合併により国産工業の各工場を日立式に改称し、戸畑工場は機械・仕上両工場を増設、木津川工場の桑名分工場内に鋳造・熔解・焼鈍各工場を増設するなど設備に大改造を加えたため、合併各工場は面目を一新して多角経営の妙味を発揮するにいたった
  • 週刊日本経済 1963年2月7日号
    • [59]外国提携がなかったため自由自在に世界の何処へも進出できた。昭和7〜8年頃インドその他において扇風機が本社の独り舞台であったとき、他社は外国提携会社の地域制限によってこれに指を染めることができなかった。後にヤーロー社及びA・E・G社の協力を得たのでボイラー・タービンは地域協定によって輸出に制限を受けたが、それも一定年限だけであった
    • [60]外国提携がなかったため自由自在に世界の何処へも進出できた。昭和7〜8年頃インドその他において扇風機が本社の独り舞台であったとき、他社は外国提携会社の地域制限によってこれに指を染めることができなかった。後にヤーロー社及びA・E・G社の協力を得たのでボイラー・タービンは地域協定によって輸出に制限を受けたが、それも一定年限だけであった
    • [61]外国提携がなかったため自由自在に世界の何処へも進出できた。昭和7〜8年頃インドその他において扇風機が本社の独り舞台であったとき、他社は外国提携会社の地域制限によってこれに指を染めることができなかった。後にヤーロー社及びA・E・G社の協力を得たのでボイラー・タービンは地域協定によって輸出に制限を受けたが、それも一定年限だけであった
    • [62]外国提携がなかったため自由自在に世界の何処へも進出できた。昭和7〜8年頃インドその他において扇風機が本社の独り舞台であったとき、他社は外国提携会社の地域制限によってこれに指を染めることができなかった。後にヤーロー社及びA・E・G社の協力を得たのでボイラー・タービンは地域協定によって輸出に制限を受けたが、それも一定年限だけであった
    • [63]外国提携がなかったため自由自在に世界の何処へも進出できた。昭和7〜8年頃インドその他において扇風機が本社の独り舞台であったとき、他社は外国提携会社の地域制限によってこれに指を染めることができなかった。後にヤーロー社及びA・E・G社の協力を得たのでボイラー・タービンは地域協定によって輸出に制限を受けたが、それも一定年限だけであった

出典・参考

7件
出典・参考
  • 日立製作所 有価証券報告書 第156期(2025年3月期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日立製作所」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 週刊日本経済 1963年1月17日号
  • 週刊日本経済 1963年1月24日号
  • 週刊日本経済 1963年1月31日号
  • 週刊日本経済 1963年2月7日号

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