ダイキン:経常赤字23億円と需要変動を分散する多角化
オステンド進出から電子・フッ素化学への資源分散
1971年〜ダイキンヨーロッパ設立と国内空調の需要収縮
この時期にはルームエアコンの市場が広がっており、1972年の業界は前年の100万台を20%以上上回る135万台を確実とみて、カラーテレビに続く有力な商品と見なしていた。本格的な量産の担い手は1970年11月に動き出した滋賀製作所であり、1972年11月には空調機器の販売会社を東京と大阪に1社ずつ設け、その後も同じ形の子会社を各地に広げた。販売店を開拓したのは地元で採用した固有社員と営業に携わったことのない出向者で、始めのうちは難儀が続き、経費も累積損失も膨らんだが、1978年には販売会社の売上が空調売上の31%に達した。売上高は1971年11月期の565億円から1974年11月期の903億円へ伸びた。
- 読売新聞(1972年6月16日)
- [1]1972年のルームエアコン市場は前年100万台を20%以上上回る135万台が確実と業界が見込み、ポスト・カラーテレビの有力商品と位置づけられた
- ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
- [2]1970年11月 滋賀製作所を新設(ルームエアコンの本格的量産を開始)
- [3]1972年11月 東京・大阪に空調機器販売会社を各1社設立、その後各地に同様の子会社を設立
- 『(ダイキン・社史)』(1995年)
- [4]地元出身の固有社員と営業未経験の出向者が担った販売店開拓は当初苦労の連続で経費と累積損失の増大に苦しんだが、1978年には販売会社の売上が空調売上の31%に達した
- [5]地元出身の固有社員と営業未経験の出向者が担った販売店開拓は当初苦労の連続で経費と累積損失の増大に苦しんだが、1978年には販売会社の売上が空調売上の31%に達した
- 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
- [6]売上高は1971年11月期565億円、1974年11月期903億円
1972年3月、ダイキン工業はベルギー王国のオステンドに、ヨーロッパの製造・販売拠点としてダイキンヨーロッパエヌブイを設立した。この地を選んだ理由は3つあり、英国のEC加盟によってベルギーが欧州の交通と輸送の中核になるという判断、小国ながら政情が安定し英国やイタリアのような山猫ストに悩まされずに済むという見通し、そしてベルギー政府の積極的な外資導入政策であった。登録税と地方税の全額免除、固定資産税の5年間免税、設備資金8300万ベルギー・フランへの利子補給による実質金利年1%といった恩典を、坂田逸郎社長はそのまま活用したとしている。当面の経営目標は、完全ノックダウンによる市場の拡張から、部品と材料の現地調達、そして現地での設計・製造・販売へと進む三段階に置かれた。
- ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
- [7]1972年3月 ベルギー王国にヨーロッパの製造・販売拠点として「ダイキンヨーロッパエヌブイ」を設立
- 日経ビジネス 1974年10月14日号
- [8]進出地にベルギーを選んだ理由は、英国のEC加盟による欧州の交通・輸送ネットワークの中核化、政情の安定と山猫ストの回避、ベルギー政府の積極的な外資導入政策の3点
- [9]登録税・地方税の全額免除、固定資産税の5年間免税、設備資金8300万ベルギー・フランへの利子補給による実質金利年1%などの外資優遇の恩典を活用した
- [10]当面の経営目標は、第一段階が完全ノックダウンによる市場の拡張、第二段階が部品・材料の現地調達、第三段階が現地での設計・製造・販売
1975年11月期、売上高は前期の903億円から734億円へ落ち、経常損益は23億1000万円の赤字に転じた。石油危機の後の需要収縮が、季節に振られる商品を抱えた空調メーカーを直撃した形である。同社が取った手は3つで、1976年度の大卒・高卒採用の全面中止、1975年秋に管理職を含む約250人強を販売会社へ出向させること、そして8月に産業空調部門の約800人を対象とする10日間の一時帰休であった。人員整理は行わなかった。山田稔社長は後年、1940年代の終わりに3年続けて人員整理をやった経験をこう振り返っている『昭和20年代に3年続けて整理をやったら、むなしくなってね。法廷闘争で勝ったとかスポーツみたいなつもりでやってたんだけど、後は空虚で。すっかりこりました』。赤字は翌1976年11月期も9億9000万円続き、経常黒字への復帰は1977年11月期の3億5000万円まで待つことになった。
- 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
- [11]1975年11月期 売上高734億円・経常損益-23.1億円、1976年11月期 経常損益-9.9億円、1977年11月期 経常利益3.5億円
- [13]1975年11月期 売上高734億円・経常損益-23.1億円、1976年11月期 経常損益-9.9億円、1977年11月期 経常利益3.5億円
- 日経新聞(1975年7月12日)
- [12]1976年度大卒・高卒採用の全面中止、1975年秋に管理職を含む約250人強を販売会社へ出向、8月に産業空調部門の約800人を対象に10日間の一時帰休を実施
参考文献[1]-[13]
- 読売新聞(1972年6月16日)
- [1]1972年のルームエアコン市場は前年100万台を20%以上上回る135万台が確実と業界が見込み、ポスト・カラーテレビの有力商品と位置づけられた
- ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
- [2]1970年11月 滋賀製作所を新設(ルームエアコンの本格的量産を開始)
- [3]1972年11月 東京・大阪に空調機器販売会社を各1社設立、その後各地に同様の子会社を設立
- [7]1972年3月 ベルギー王国にヨーロッパの製造・販売拠点として「ダイキンヨーロッパエヌブイ」を設立
- 『(ダイキン・社史)』(1995年)
- [4]地元出身の固有社員と営業未経験の出向者が担った販売店開拓は当初苦労の連続で経費と累積損失の増大に苦しんだが、1978年には販売会社の売上が空調売上の31%に達した
- [5]地元出身の固有社員と営業未経験の出向者が担った販売店開拓は当初苦労の連続で経費と累積損失の増大に苦しんだが、1978年には販売会社の売上が空調売上の31%に達した
- 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
- [6]売上高は1971年11月期565億円、1974年11月期903億円
- [11]1975年11月期 売上高734億円・経常損益-23.1億円、1976年11月期 経常損益-9.9億円、1977年11月期 経常利益3.5億円
- [13]1975年11月期 売上高734億円・経常損益-23.1億円、1976年11月期 経常損益-9.9億円、1977年11月期 経常利益3.5億円
- 日経ビジネス 1974年10月14日号
- [8]進出地にベルギーを選んだ理由は、英国のEC加盟による欧州の交通・輸送ネットワークの中核化、政情の安定と山猫ストの回避、ベルギー政府の積極的な外資導入政策の3点
- [9]登録税・地方税の全額免除、固定資産税の5年間免税、設備資金8300万ベルギー・フランへの利子補給による実質金利年1%などの外資優遇の恩典を活用した
- [10]当面の経営目標は、第一段階が完全ノックダウンによる市場の拡張、第二段階が部品・材料の現地調達、第三段階が現地での設計・製造・販売
- 日経新聞(1975年7月12日)
- [12]1976年度大卒・高卒採用の全面中止、1975年秋に管理職を含む約250人強を販売会社へ出向、8月に産業空調部門の約800人を対象に10日間の一時帰休を実施
1978年〜余剰人員の営業転用と電子技術研究センターの新設
1978年4月、ダイキン工業は小型エアコンの販売力強化と社内の余剰人員の有効活用を狙い、国内営業網の整備拡充に一段と力を入れる方針を打ち出した。赤字の3年で抱えた余剰人員を、工場ではなく売り場へ動かす配置である。同じ年の9月には堺製作所に臨海工場を新設し、コンプレッサーの製造工場として稼動させた。コンプレッサーを内製する投資と、人を営業へ充てる配置が同時に進んだことになる。経常利益は1977年11月期の3億5000万円から1978年11月期に15億2000万円、1979年11月期には44億8000万円へ戻り、売上高も1978年11月期に1037億円と初めて1000億円を超えた。
- 日経産業新聞(1978年4月17日)
- [14]小型エアコンの販売力強化と社内の余剰人員の有効活用を図るため、国内営業網の整備拡充に一段と力を入れる
- ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
- [15]1978年9月 堺製作所臨海工場を新設(コンプレッサーの製造工場として稼動)
- 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
- [16]経常利益は1977年11月期3.5億円、1978年11月期15.2億円、1979年11月期44.8億円。売上高は1978年11月期1037億円
山田稔社長は、会社の技術水準はその社で最も高い技術を持つ人の水準で決まると考えていた。1979年6月、空調機器と油圧機器ではマイクロコンピューターを組み込んだ機種の開発を進めていたことから、部門ごとにばらばらだった研究開発の体制をひとつにまとめる方針が示されたが、肝心の電子技術者が集まらなかった。機械屋の下で手を貸すだけの役回りでは腕のある電子技術者は来ないと山田稔社長は見て、いずれ独立した電子部門を持つと先に決め、その決意を形にした電子技術の研究センターを滋賀工場に設けて看板とした。資金繰りに弱みを抱えて近づいてきたグラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業との提携を受け入れたのも先の考えによるもので、提携は相手の申し出で1年で終わったが、電子技術部門を起こす具体的なプロジェクトの出発点となり、その道の専門家を招き入れるきっかけにもなった。
- 日経産業新聞(1979年6月1日)
- [17]空調機器・油圧機器でマイクロコンピューターを採り入れた機種の開発が進んだため、各部門ごとの研究開発体制を一本化して効率化を図る
- 産業能率 1984年「社長の決断とリーダーシップ――ダイキン工業(株)社長 山田稔」
- [18]電子技術者を集めるため独立の電子部門を持つことを先に決め、滋賀工場に電子技術の研究センターを設けて看板に掲げた。グラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業と提携し、1年で終わったがこれを電子技術部門の起点とし専門家のスカウトにつなげた
- [19]電子技術者を集めるため独立の電子部門を持つことを先に決め、滋賀工場に電子技術の研究センターを設けて看板に掲げた。グラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業と提携し、1年で終わったがこれを電子技術部門の起点とし専門家のスカウトにつなげた
- [20]電子技術者を集めるため独立の電子部門を持つことを先に決め、滋賀工場に電子技術の研究センターを設けて看板に掲げた。グラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業と提携し、1年で終わったがこれを電子技術部門の起点とし専門家のスカウトにつなげた
冷夏に見舞われた1980年11月期、経常利益は前期の44億8000万円から14億8000万円に減った。業務用空調機が主力とはいえ、利益率が比較的高い家庭用エアコンも手がけていたため、夏の気温に収益が揺さぶられる体質だった。1980年のこのつまずきを機に、同社は機械・化学・電子の三分野を兼ね備え、天候に左右されにくい企業への転換を進めた。1982年11月にはCOMTECシリーズを出してコンピュータ・グラフィックス分野に参入した。続いて1983年4月に鹿島工場を新設してフルオロカーボンガスとフッ素樹脂を作り始め、1984年8月には超真空用ポンプのクライオキャプチャーを売り出して極低温・超真空の分野にも踏み込んだ。1983年11月期は猛暑に恵まれて経常利益56億1000万円と9年ぶりに最高益を更新し、1984年11月期には89億1000万円に達した。
- 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
- [21]経常利益は1979年11月期44.8億円、1980年11月期14.8億円、1984年11月期89.1億円
- [26]経常利益は1979年11月期44.8億円、1980年11月期14.8億円、1984年11月期89.1億円
- 日経新聞(1983年8月12日)
- [22]業務用空調機が主体だが家庭用エアコンは相対的に利益率が高く夏の気温次第で収益が左右されがちで、1983年11月期の経常利益は前期比40%強増の55億円と9年ぶりに過去最高益を更新する見通しとなった
- [25]業務用空調機が主体だが家庭用エアコンは相対的に利益率が高く夏の気温次第で収益が左右されがちで、1983年11月期の経常利益は前期比40%強増の55億円と9年ぶりに過去最高益を更新する見通しとなった
- 日経ビジネス 1986年9月29日号
- [23]1980年の冷夏による業績不振を契機に、機械と化学と電子を組み合わせた全天候型企業への転進を実現した
- ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
- [24]1982年11月 コンピュータ・グラフィックス分野に進出(COMTECシリーズを発売)、1983年4月 鹿島工場新設(フルオロカーボンガス・フッ素樹脂の製造工場として稼動)、1984年8月 極低温・超真空分野に進出(超真空用ポンプ「クライオキャプチャー」を発売)
参考文献[14]-[26]
- 日経産業新聞(1978年4月17日)
- [14]小型エアコンの販売力強化と社内の余剰人員の有効活用を図るため、国内営業網の整備拡充に一段と力を入れる
- ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
- [15]1978年9月 堺製作所臨海工場を新設(コンプレッサーの製造工場として稼動)
- [24]1982年11月 コンピュータ・グラフィックス分野に進出(COMTECシリーズを発売)、1983年4月 鹿島工場新設(フルオロカーボンガス・フッ素樹脂の製造工場として稼動)、1984年8月 極低温・超真空分野に進出(超真空用ポンプ「クライオキャプチャー」を発売)
- 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
- [16]経常利益は1977年11月期3.5億円、1978年11月期15.2億円、1979年11月期44.8億円。売上高は1978年11月期1037億円
- [21]経常利益は1979年11月期44.8億円、1980年11月期14.8億円、1984年11月期89.1億円
- [26]経常利益は1979年11月期44.8億円、1980年11月期14.8億円、1984年11月期89.1億円
- 日経産業新聞(1979年6月1日)
- [17]空調機器・油圧機器でマイクロコンピューターを採り入れた機種の開発が進んだため、各部門ごとの研究開発体制を一本化して効率化を図る
- 産業能率 1984年「社長の決断とリーダーシップ――ダイキン工業(株)社長 山田稔」
- [18]電子技術者を集めるため独立の電子部門を持つことを先に決め、滋賀工場に電子技術の研究センターを設けて看板に掲げた。グラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業と提携し、1年で終わったがこれを電子技術部門の起点とし専門家のスカウトにつなげた
- [19]電子技術者を集めるため独立の電子部門を持つことを先に決め、滋賀工場に電子技術の研究センターを設けて看板に掲げた。グラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業と提携し、1年で終わったがこれを電子技術部門の起点とし専門家のスカウトにつなげた
- [20]電子技術者を集めるため独立の電子部門を持つことを先に決め、滋賀工場に電子技術の研究センターを設けて看板に掲げた。グラフィックディスプレイ専門のベンチャー企業と提携し、1年で終わったがこれを電子技術部門の起点とし専門家のスカウトにつなげた
- 日経新聞(1983年8月12日)
- [22]業務用空調機が主体だが家庭用エアコンは相対的に利益率が高く夏の気温次第で収益が左右されがちで、1983年11月期の経常利益は前期比40%強増の55億円と9年ぶりに過去最高益を更新する見通しとなった
- [25]業務用空調機が主体だが家庭用エアコンは相対的に利益率が高く夏の気温次第で収益が左右されがちで、1983年11月期の経常利益は前期比40%強増の55億円と9年ぶりに過去最高益を更新する見通しとなった
- 日経ビジネス 1986年9月29日号
- [23]1980年の冷夏による業績不振を契機に、機械と化学と電子を組み合わせた全天候型企業への転進を実現した
1985年〜タイ・米国への生産移転と多角化の行き詰まり
足元で全天候型への転進を支えたのは、残業制限の撤廃を含め、職場ごとの実情に応じて個別に取り入れた労務管理で、労使の合意も予想以上の早さで整った。その背景として、一族の枠にこだわらず、下から意見を積み上げて決める姿勢を貫いてきたことが組合の理解を得ていたとみられる。社員が出した案も、たいていはまず試させた。部下に任せられる判断や決断はできるだけ部下に委ねるという決裁の決まりもあった。後継者の選び方について、山田稔社長は『山田姓の社長は私で終わり。後継者はみんながそれと認める人を選ぶ』と語ったことがある。創業家出身の社長が自分の手で世襲を終わらせたことは、意思決定を人ではなく仕組みに預けるこの会社の姿勢を表す出来事でもあった。
- 日経ビジネス 1986年9月29日号
- [27]全天候型企業への転進の成功のカギの一つが、残業制限の撤廃など各職場の実情に応じた個別の労務管理の導入で、労使間の合意は予想以上にスムーズに進んだ
- [28]山田稔社長は「山田姓の社長は私で終わり。後継者はみんながそれと認める人を選ぶ」と述べ、社員のアイデアにはほとんどの場合「やってみろや」と実行を勧めた。同族へのこだわりを捨てボトムアップの意思決定を重視する姿勢が労組に理解された
- [29]山田稔社長は「山田姓の社長は私で終わり。後継者はみんながそれと認める人を選ぶ」と述べ、社員のアイデアにはほとんどの場合「やってみろや」と実行を勧めた。同族へのこだわりを捨てボトムアップの意思決定を重視する姿勢が労組に理解された
- 産業能率 1984年「社長の決断とリーダーシップ――ダイキン工業(株)社長 山田稔」
- [30]部下で判断でき決断できることはできるだけ部下にまかせ、その決断を支持する側に回るべきで、上司が細かいことまで相談を受けないと機嫌が悪いようでは人が育たない
輸出で伸ばした欧州の次に置かれたのは、現地で作る拠点だった。1990年2月、タイ王国に空調機器の生産子会社としてダイキンインダストリーズ(タイランド)リミテッドを設立し、翌1991年1月にはアメリカ合衆国へフッ素化学製品の製造販売子会社のダイキンアメリカインクを置いた。空調は東南アジアで作り、フッ素化学は北米で売るという、分野ごとに地理を割り当てる配置である。ベルギーで踏んだ現地化の三段階を、今度は事業の性格に合わせて国ごとに分ける配置へ広げたことになる。売上高は1989年3月期の2759億円から1991年3月期の3440億円へ、当期純利益も102億円から145億円へ伸び、国内の空調に集まっていた収益源は地理と分野の両方で分散した状態に達した。
- ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
- [31]1990年2月 タイ王国に空調機器の生産子会社「ダイキンインダストリーズ(タイランド)リミテッド」を設立、1991年1月 アメリカ合衆国にフッ素化学製品の製造販売子会社「ダイキンアメリカインク」を設立
- 会社四季報(ダイキン工業)
- [32]売上高は1989年3月期2759億円・1991年3月期3440億円、当期純利益は1989年3月期102億円・1991年3月期145億円
1991年3月期の売上高3440億円・当期純利益145億円を頂点として、業績は下り坂へ入った。1992年3月期は売上高を3681億円へ伸ばしながら純利益は129億円へ減り、1993年3月期には売上高3420億円・純利益54億6000万円と、2年で利益が3分の1近くまで減っている。分散させたはずの事業は、景気の後退局面では揃って沈んだ。主力の空調は精彩を欠き、フッ素化学もフロン規制で転換期にあるという評価が、1994年に社長が交代する時点で外から下されている。1975年の赤字を人員整理なしで凌ぎ、余った人を営業へ充て、電子と化学へ分野を広げてきた20年の設計は、ここで一度立ち止まることになった。需要の振れを分野の数で埋める組み立ては、振れが同時に来る局面では効かなかった。
- 会社四季報(ダイキン工業)
- [33]1991年3月期の売上高3440億円・当期純利益145億円
- [34]売上高は1992年3月期3681億円・1993年3月期3420億円、当期純利益は1992年3月期129億円・1993年3月期54.6億円
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- [35]主力の空調事業が精彩を欠き、フッ素化学もフロン規制で転換期にあると評された(1994年10月の社長交代時点)
参考文献[27]-[35]
- 日経ビジネス 1986年9月29日号
- [27]全天候型企業への転進の成功のカギの一つが、残業制限の撤廃など各職場の実情に応じた個別の労務管理の導入で、労使間の合意は予想以上にスムーズに進んだ
- [28]山田稔社長は「山田姓の社長は私で終わり。後継者はみんながそれと認める人を選ぶ」と述べ、社員のアイデアにはほとんどの場合「やってみろや」と実行を勧めた。同族へのこだわりを捨てボトムアップの意思決定を重視する姿勢が労組に理解された
- [29]山田稔社長は「山田姓の社長は私で終わり。後継者はみんながそれと認める人を選ぶ」と述べ、社員のアイデアにはほとんどの場合「やってみろや」と実行を勧めた。同族へのこだわりを捨てボトムアップの意思決定を重視する姿勢が労組に理解された
- 産業能率 1984年「社長の決断とリーダーシップ――ダイキン工業(株)社長 山田稔」
- [30]部下で判断でき決断できることはできるだけ部下にまかせ、その決断を支持する側に回るべきで、上司が細かいことまで相談を受けないと機嫌が悪いようでは人が育たない
- ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
- [31]1990年2月 タイ王国に空調機器の生産子会社「ダイキンインダストリーズ(タイランド)リミテッド」を設立、1991年1月 アメリカ合衆国にフッ素化学製品の製造販売子会社「ダイキンアメリカインク」を設立
- 会社四季報(ダイキン工業)
- [32]売上高は1989年3月期2759億円・1991年3月期3440億円、当期純利益は1989年3月期102億円・1991年3月期145億円
- [33]1991年3月期の売上高3440億円・当期純利益145億円
- [34]売上高は1992年3月期3681億円・1993年3月期3420億円、当期純利益は1992年3月期129億円・1993年3月期54.6億円
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- [35]主力の空調事業が精彩を欠き、フッ素化学もフロン規制で転換期にあると評された(1994年10月の社長交代時点)
筆者考察
多角化は事業を増やす話ではなく、沈む時期を互いにずらす話である。ダイキン工業の収益は夏の気温に握られていた。業務用空調機が主体でありながら、相対的に利益率の高い家庭用エアコンを抱えていたため、冷夏の1980年11月期には経常利益が前期の44億8000万円から14億8000万円へ低下し、猛暑の1983年11月期には56億1000万円と9年ぶりの最高益へ戻る。製品の構成は変わっていないのに、利益だけが3倍以上振れた。山田稔が機械と化学と電子を組み合わせた全天候型企業を掲げたのは、自社で動かせない気温という変数から、利益の形を引き剥がすためだった。
人を切らずに不況を越えた会社は、次の好況で余った人の置き場を探すことになる。1975年11月期に経常赤字23億1000万円を出したとき、ダイキン工業が取ったのは新卒採用の全面中止と約250人強の出向と約800人の一時帰休であって、人員整理ではなかった。3年後に営業網を広げた理由の半分は小型エアコンの販売力強化であり、もう半分は社内の余剰人員の有効活用である。電子技術者が集まらないと見るや、先に独立の電子部門を持つと決め、滋賀に研究センターという容れ物を建てたのも同じ順序だった。1984年に空調と電子とフッ素化学を並べた姿は、需要の分散であると同時に、人の行き場の設計でもあった。
- 棒はすべて単体。この時期の連結の開示は無い。
- 出所は会社年鑑1986年版。
- 1975年11月期は23億1000万円、1976年11月期は9億9000万円の経常損失で、0 を底に描くこの図には置いていない。
1971年〜1993年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1971年11月期 | 単体 | 565 | n/a | n/a | 18 | 3.2% | n/a |
| 1972年11月期 | 単体 | 565 | 0.0% | n/a | 11 | 2.0% | n/a |
| 1973年11月期 | 単体 | 747 | +32.2% | n/a | 16 | 2.2% | n/a |
| 1974年11月期 | 単体 | 903 | +20.9% | n/a | 15 | 1.7% | n/a |
| 1975年11月期 | 単体 | 734 | ▲18.7% | ▲23 | 7 | 1.0% | n/a |
| 1976年11月期 | 単体 | 886 | +20.7% | ▲9 | 10 | 1.2% | n/a |
| 1977年11月期 | 単体 | 957 | +8.0% | 3 | 7 | 0.8% | n/a |
| 1978年11月期 | 単体 | 1,037 | +8.4% | 15 | 17 | 1.6% | n/a |
| 1979年11月期 | 単体 | 1,165 | +12.3% | 44 | 34 | 3.0% | n/a |
| 1980年11月期 | 単体 | 1,271 | +9.1% | 14 | 16 | 1.3% | n/a |
| 1981年11月期 | 単体 | 1,345 | +5.8% | 21 | 16 | 1.2% | n/a |
| 1982年11月期 | 単体 | 1,425 | +5.9% | 39 | 28 | 2.0% | n/a |
| 1983年11月期 | 単体 | 1,621 | +13.8% | 56 | 22 | 1.4% | n/a |
| 1984年11月期 | 単体 | 1,896 | +17.0% | 89 | 37 | 2.0% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | 2,759 | n/a | n/a | 102 | 3.7% | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | 2,938 | +6.5% | n/a | 117 | 4.0% | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | 3,440 | +17.1% | n/a | 145 | 4.2% | n/a |
| 1992年03月期 | 単体 | 3,681 | +7.0% | n/a | 129 | 3.5% | n/a |
| 1993年03月期 | 単体 | 3,420 | ▲7.1% | n/a | 54 | 1.6% | n/a |
出所:会社年鑑、会社四季報
出典・参考
13件
- ダイキン工業 有価証券報告書 第122期(2025年3月期)【沿革】
- 『(ダイキン・社史)』(1995年)
- 株式会社年鑑(大阪金属工業・ダイキン工業)
- 日経ビジネス 1974年10月14日号
- 日経ビジネス 1986年9月29日号
- 日経ビジネス 1994年10月17日号
- 読売新聞(1972年6月16日)
- 日経新聞(1975年7月12日)
- 日経産業新聞(1978年4月17日)
- 日経産業新聞(1979年6月1日)
- 日経新聞(1983年8月12日)
- 産業能率 1984年「社長の決断とリーダーシップ――ダイキン工業(株)社長 山田稔」
- 会社四季報(ダイキン工業)