荏原製作所:戦災後の上場と荏原インフィルコによる水処理事業への進出
1945年〜羽田の戦災と川崎への生産移管、東京証券取引所に上場した荏原
1945年4月、陸海軍の管理工場だった羽田の本社工場は集中爆撃を受け、ほぼ機能を止めた。同じ月に荏原は、川崎工場をポンプと送風機を専門に作る工場へ切り替えていた。戦災を免れた川崎には羽田から本社事務と諸設備が移され、終戦後の生産はここを拠点に動き出した。終戦後の休業はわずか4日で、5日目にはポンプの生産を再開したという。一方で畠山一清社長は1965年の手記で、同業他社が工場を閉じる混乱期にも一日も操業を止めなかったと振り返った。羽田の復旧には時間がかかり、本社が羽田へ戻ったのは10年後の1954年だった。
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [1]1945年4月、陸海軍管理工場の羽田本社工場が集中爆撃を受けほぼ機能停止
- [3]戦災を免れた川崎工場へ羽田の本社事務・諸設備を一時移転
- [5]畠山一清の回想: 終戦の混乱期にも工場を1日も休まず平和産業向け風水力機械の製造を開始
- [6]1954年、10年ぶりに羽田工場が復活し本社を羽田へ戻す
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [2]1945年4月、川崎工場をポンプ・送風機の専門工場に転換
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [4]終戦後4日休み、5日目にポンプ生産を再開
終戦を境に、荏原は軍の管理工場から平和産業向けの風水力機械メーカーへ品目を切り替えた。畠山一清社長は、炭鉱の復旧、電力の増強、食糧増産、水道の増設のいずれにもポンプが要るとみて、復興需要に照準を定めた。大口の一つは農林省で、食糧不足への対策として発注された1,000台のポンプのうち6割を荏原が引き受けたという。同じ時期には電気製塩装置にも注文が集まった。1953年時点の主な取引先には、農林省と日本専売公社が並んだ。塩を専売する公社が顧客に並んだのは、製塩装置が農業用ポンプに次ぐ戦後の収益源になっていたためとみられる。
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [7]終戦後ただちに平和産業向け風水力機械の製造を開始
- [8]畠山一清の認識: 炭鉱復旧・電力増強・食糧増産・水道増設にポンプが不可欠
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [9]食糧不足対策で農林省が発注したポンプ1,000台の6割を荏原が受注
- [10]戦後、電気製塩装置が人気を集めた
- 株式会社年鑑 1953年版「荏原製作所」
- [11]主な取引先: 農林省・日本専売公社・東洋キヤリア工業
終戦時に2,000万円だった資本金を、荏原は1948年10月の再建整備計画で株主割当により5,000万円へ増やした。同じ時期に新旧勘定を併合し、戦後処理のための特別経理会社の指定も解除された。こうして戦時の債務整理を終えた荏原は、1949年5月16日に東京証券取引所へ株式を上場した。資本金は1951年10月に1億円、1952年3月に無償増資で2億円、1954年11月に4億円と倍々で積み上がった。1955年初めに羽田工場の拡充が一段落すると、羽田を大型ポンプ専用に、川崎を中小型の量産工場に振り分けた。上場による株主からの資金調達が、この二工場の分業に要る設備資金を支えたのだろう。
- 株式会社年鑑 1953年版「荏原製作所」
- [12]1948年10月、再建整備計画により株主割当1対1.5で資本金5,000万円に増資(終戦時2,000万円)
- [13]新旧勘定併合、特別経理会社解除
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「荏原製作所」
- [14]上場開始 1949年5月16日 東京
- [15]資本異動: 1951年10月1億円、1952年3月2億円(無償1:1)、1954年11月4億円
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [16]1955年初頭、羽田工場の拡充整備が一段落し大型ポンプ専用に、川崎工場を中・小型の量産工場とする
参考文献[1]-[16]
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [1]1945年4月、陸海軍管理工場の羽田本社工場が集中爆撃を受けほぼ機能停止
- [3]戦災を免れた川崎工場へ羽田の本社事務・諸設備を一時移転
- [5]畠山一清の回想: 終戦の混乱期にも工場を1日も休まず平和産業向け風水力機械の製造を開始
- [6]1954年、10年ぶりに羽田工場が復活し本社を羽田へ戻す
- [7]終戦後ただちに平和産業向け風水力機械の製造を開始
- [8]畠山一清の認識: 炭鉱復旧・電力増強・食糧増産・水道増設にポンプが不可欠
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [2]1945年4月、川崎工場をポンプ・送風機の専門工場に転換
- [16]1955年初頭、羽田工場の拡充整備が一段落し大型ポンプ専用に、川崎工場を中・小型の量産工場とする
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [4]終戦後4日休み、5日目にポンプ生産を再開
- [9]食糧不足対策で農林省が発注したポンプ1,000台の6割を荏原が受注
- [10]戦後、電気製塩装置が人気を集めた
- 株式会社年鑑 1953年版「荏原製作所」
- [11]主な取引先: 農林省・日本専売公社・東洋キヤリア工業
- [12]1948年10月、再建整備計画により株主割当1対1.5で資本金5,000万円に増資(終戦時2,000万円)
- [13]新旧勘定併合、特別経理会社解除
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「荏原製作所」
- [14]上場開始 1949年5月16日 東京
- [15]資本異動: 1951年10月1億円、1952年3月2億円(無償1:1)、1954年11月4億円
1956年〜Infilcoと組んだ荏原インフィルコと、酒井億尋氏への社長交代
荏原は1956年1月に米国のインフィルコ社と水処理装置の技術提携を結び、同年のうちに折半出資で荏原インフィルコを設けた。荏原は水処理装置と火力発電用高圧ポンプの2分野で海外との技術差を自覚しており、最初の提携相手にインフィルコ社を選んだ。畠山一清社長自身は外国との提携を好まなかったが、提携品と聞けば顧客が満足するという事情には抗えなかったと書き残している。そのため提携先は、自社よりはるかに進んだ技術か、国内に前例のない分野に絞ったという。1962年には荏原本体の水処理装置の販売実績が、4月期の647,505千円から10月期の1,105,579千円へ増えた。浄水場や下水処理場へポンプを納めてきた顧客に処理設備まで一括で出せるようになったことが、この伸びを支えたと推察される。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「荏原製作所」
- [17]1956年1月米国インフィルコ社と水処理装置で技術提携、同年折半出資で荏原インフィルコを設立
- [21]販売実績 水処理装置: 1962年4月期647,505千円、同10月期1,105,579千円
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [18]水処理装置と火力発電高圧ポンプで外国との較差を痛感し、まずインフィルコ社と提携。合弁の荏原インフィルコは1956年秋設立
- [20]提携は自社より格段に優れた技術か日本で未開拓の分野に限った
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [19]畠山一清は外国との技術提携を好まないが、顧客が外国提携品を喜ぶ事情があると記す
1962年、創業者の畠山一清氏は会長に退き、酒井億尋氏が社長に就任した。1894年に新潟で生まれた酒井億尋氏は、早稲田大学の商科を出て1920年に入社した事務系の経営者だった。畠山一清氏の甥にあたり、若いころは営業主任として販路の開拓を担ったという。同じ1962年、東京帝国大学工学部を出た技術者の松波直秀氏が専務に就任した。同年10月末の大株主名簿では、畠山一清氏個人の持株比率は5.0%にとどまり、筆頭は住友信託の16.4%だった。持株で経営を押さえられない創業者が、社内の営業畑と技術畑の二人に経営を託して継承の形を整えたと思われる。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「荏原製作所」
- [22]役員: 畠山一清 1962年会長、酒井億尋 1962年社長
- [23]酒井億尋: 1894年新潟生、1916年早大商卒、1920年入社、1924年取締役
- [25]松波直秀: 1926年東大工卒、1962年専務
- [26]大株主(1962年10月末): 住友信託東京支店16.4%、畠山一清5.0%
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [24]酒井億尋は畠山一清の甥で、営業主任として尽力
参考文献[17]-[26]
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「荏原製作所」
- [17]1956年1月米国インフィルコ社と水処理装置で技術提携、同年折半出資で荏原インフィルコを設立
- [21]販売実績 水処理装置: 1962年4月期647,505千円、同10月期1,105,579千円
- [22]役員: 畠山一清 1962年会長、酒井億尋 1962年社長
- [23]酒井億尋: 1894年新潟生、1916年早大商卒、1920年入社、1924年取締役
- [25]松波直秀: 1926年東大工卒、1962年専務
- [26]大株主(1962年10月末): 住友信託東京支店16.4%、畠山一清5.0%
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [18]水処理装置と火力発電高圧ポンプで外国との較差を痛感し、まずインフィルコ社と提携。合弁の荏原インフィルコは1956年秋設立
- [20]提携は自社より格段に優れた技術か日本で未開拓の分野に限った
- [24]酒井億尋は畠山一清の甥で、営業主任として尽力
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [19]畠山一清は外国との技術提携を好まないが、顧客が外国提携品を喜ぶ事情があると記す
1963年〜藤沢工場の標準ポンプ量産と、水と空気を掲げた公害防止機器
1962年10月期の荏原の販売実績は8,086,599千円で、このうちポンプは3,198,032千円と4割に達しなかった。同じ期に製塩・製糖装置は1,581,485千円となり、4月期の406,674千円から約4倍に伸びた。荏原は総額5億円を投じて、1964年4月の完成をめどに羽田と川崎の両工場で機械設備の更新を進めた。1964年版の会社総覧で24億円だった資本金は、同年11月の無償抱き合わせの倍額増資で48億円となった。その総覧は、冷凍機や水処理に加えて油圧機器と電機部門にも事業を拡大した荏原を総合機械メーカーと位置づけ、ポンプの輸出も盛んだと記した。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「荏原製作所」
- [27]販売実績 1962年10月期: 合計8,086,599千円、うちポンプ3,198,032千円
- [28]製塩製糖装置: 1962年4月期406,674千円、同10月期1,581,485千円
- [29]着手中の計画: 総額5億円で1964年4月完成予定の羽田・川崎両工場の設備機械合理化更新
- [31]概説: 冷凍機・水処理プラント・油圧機器に加え電機部門にも進出し総合機械メーカー体制。ポンプ輸出も活発
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [30]1964年11月、無償抱合せ倍額増資で資本金48億円(1964年版総覧の資本金は24億円)
荏原は1965年、藤沢に54万平方メートルの用地を取得し、小型ポンプと標準冷凍機を量産する工場を新設した。畠山一清会長は同年の手記で、総敷地17万坪にまず建坪5,000坪の工場を建て、小型ポンプと冷凍機の専門量産工場にすると記した。手作業に依存するポンプ工場が多かったなかで、藤沢工場はポンプを量産した最初の例とされた。翌1966年5月には、米キャリア社の設計による密閉式の軽量小型冷凍機の販売を始めた。1968年の企業史は、官公庁向けに強い地盤を持つポンプに民需の開拓策が加わったと評し、同年の売上高を340億円強と見込んだ。受注生産の大型品とは別に、標準品の量産で民間の設備需要を取り込む狙いがあったと考えられる。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [32]1965年、藤沢に54万平方メートルの土地を購入し小型ポンプ・標準冷凍機などの量産工場を新設
- [35]1966年5月、キャリア社設計の密閉式軽量小型冷凍機を発売
- [36]ポンプは官公庁向けに強い地盤、民需開拓策も奏効。1968年の売上高340億円強見込み(前年260億円)
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [33]藤沢市に総敷地17万坪、工場建坪5,000坪の小型ポンプ・冷凍機専門量産工場を建設中
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [34]1965年完成の藤沢工場はポンプ量産の最初の例とされる
1970年の時点で荏原は、海水淡水化装置や汚水・廃液の処理装置への参入方針を示していた。同年暮れに酒井億尋氏は会長へ退き、技術者の松波直秀氏が社長に就任した。1971年には6事業部制を敷く一方で、松波直秀社長は「『社風を変える気はない』」と繰り返していた。同年、荏原は二段式の新型電気集じん装置を山村硝子へ納め、苫小牧ケミカルからは日産1,200トンの硫酸プラントを約15億円で受注した。1972年の記事は、規制は厳しいのに決め手となる技術がまだ無く、手頃な価格の装置を先に出した企業が優位に立つ市場だと見立てた。荏原は水処理で荏原インフィルコの実績を持ち、1974年に年間売上高1,000億円、うち新規部門で100億円を目標に掲げた。
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [37]海水淡水化装置・汚水廃液処理装置・工業用ロボットへの進出を計画
- オール大衆 25(4) 1972年「≪未来をひらく企業≫水と空気を支配する荏原製作所」
- [38]1970年暮れ、松波直秀が酒井億尋(会長へ)のあとを受け社長に就任
- [39]1971年2月、6事業部制を採用。松波社長は社風を変える気はないと常々発言
- [40]1971年、新型電気集じん装置の1号機を山村硝子に納入。苫小牧ケミカルから日産1,200トンの硫酸プラントを約15億円で受注
- [41]公害防止機器は規制が厳しい一方で技術の決め手がなく、早く適正価格の製品を出した企業が優位とする見立て
- [42]荏原インフィルコによる水処理の実績。1974年に売上高1,000億円、うち新規部門100億円が目標
参考文献[27]-[42]
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「荏原製作所」
- [27]販売実績 1962年10月期: 合計8,086,599千円、うちポンプ3,198,032千円
- [28]製塩製糖装置: 1962年4月期406,674千円、同10月期1,581,485千円
- [29]着手中の計画: 総額5億円で1964年4月完成予定の羽田・川崎両工場の設備機械合理化更新
- [31]概説: 冷凍機・水処理プラント・油圧機器に加え電機部門にも進出し総合機械メーカー体制。ポンプ輸出も活発
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [30]1964年11月、無償抱合せ倍額増資で資本金48億円(1964年版総覧の資本金は24億円)
- [32]1965年、藤沢に54万平方メートルの土地を購入し小型ポンプ・標準冷凍機などの量産工場を新設
- [35]1966年5月、キャリア社設計の密閉式軽量小型冷凍機を発売
- [36]ポンプは官公庁向けに強い地盤、民需開拓策も奏効。1968年の売上高340億円強見込み(前年260億円)
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [33]藤沢市に総敷地17万坪、工場建坪5,000坪の小型ポンプ・冷凍機専門量産工場を建設中
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [34]1965年完成の藤沢工場はポンプ量産の最初の例とされる
- [37]海水淡水化装置・汚水廃液処理装置・工業用ロボットへの進出を計画
- オール大衆 25(4) 1972年「≪未来をひらく企業≫水と空気を支配する荏原製作所」
- [38]1970年暮れ、松波直秀が酒井億尋(会長へ)のあとを受け社長に就任
- [39]1971年2月、6事業部制を採用。松波社長は社風を変える気はないと常々発言
- [40]1971年、新型電気集じん装置の1号機を山村硝子に納入。苫小牧ケミカルから日産1,200トンの硫酸プラントを約15億円で受注
- [41]公害防止機器は規制が厳しい一方で技術の決め手がなく、早く適正価格の製品を出した企業が優位とする見立て
- [42]荏原インフィルコによる水処理の実績。1974年に売上高1,000億円、うち新規部門100億円が目標
1945年〜1974年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年04月期 | 単体 | 27 | n/a | 1 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年04月期 | 単体 | 29 | +7.4% | 2 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年04月期 | 単体 | 33 | +13.8% | 3 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年04月期 | 単体 | 31 | ▲6.1% | 3 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年04月期 | 単体 | 44 | +41.9% | 4 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年04月期 | 単体 | 62 | +40.9% | 6 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年04月期 | 単体 | 79 | +27.4% | 7 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年04月期 | 単体 | 87 | +10.1% | 11 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年04月期 | 単体 | 110 | +26.4% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年04月期 | 単体 | 141 | +28.2% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年04月期 | 単体 | 166 | +17.7% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年04月期 | 単体 | 179 | +7.8% | n/a | n/a | 9 | 5.2% | n/a |
| 1965年04月期 | 単体 | 211 | +17.9% | n/a | n/a | 10 | 4.8% | n/a |
| 1966年04月期 | 単体 | 244 | +15.6% | 22 | n/a | 11 | 4.8% | n/a |
| 1967年04月期 | 単体 | 245 | +0.4% | n/a | n/a | 13 | 5.3% | n/a |
| 1968年04月期 | 単体 | 299 | +22.0% | n/a | n/a | 15 | 5.0% | n/a |
| 1969年04月期 | 単体 | 385 | +28.8% | n/a | n/a | 21 | 5.5% | n/a |
| 1970年04月期 | 単体 | 454 | +17.9% | n/a | n/a | 26 | 5.7% | n/a |
| 1971年04月期 | 単体 | 547 | +20.5% | n/a | 41 | 26 | 4.8% | n/a |
| 1972年04月期 | 単体 | 601 | +9.9% | n/a | 47 | 25 | 4.2% | n/a |
| 1973年04月期 | 単体 | 691 | +15.0% | n/a | 55 | 29 | 4.2% | n/a |
| 1974年04月期 | 単体 | 832 | +20.4% | n/a | 55 | 29 | 3.5% | n/a |
出所:上場会社総覧(昭和31年版)半期合算、上場会社総覧(昭和31年版、昭和34年版)半期合算、上場会社総覧(昭和34年版)半期合算、上場会社総覧(昭和36年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑
出典・参考
6件
- 株式会社年鑑 1953年版「荏原製作所」
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「荏原製作所」
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- オール大衆 25(4) 1972年「≪未来をひらく企業≫水と空気を支配する荏原製作所」