荏原製作所:井口在屋の渦巻ポンプ理論と荏原製作所の設立
1905年〜井口在屋氏の渦巻ポンプ理論と、日暮里のゐのくち式機械事務所
東京帝国大学教授の井口在屋氏は1905年(明治38年)、渦巻ポンプに関する学理を論文にまとめて発表した。渦巻ポンプを扱うまとまった論文としては世界で最初のものとされ、国内外で高い評価を受けた。英国の工業誌Engineeringは、約300ページの論文を欧米でもこの種の理論の標準になりうると論評した。井口在屋氏は理論の検証に口径180ミリの実験用タービンポンプを芝浦製作所で試作し、揚程39.5メートル・平均効率69%を得た。当時の国内のポンプは外国品の模倣が大半で、揚水できれば成功とされる水準だった。この学理が、形をなぞるだけだったポンプ製作に、計算で性能を詰める設計の道を開いたと考えられる。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [1]井口在屋の論文「渦巻きポンプ及びタービンポンプに関する学理」は明治38年発表
- [2]井口論文はまとまった論文として世界最初のもので高く評価された
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [3]英国誌Engineeringが1905年の井口教授の約300ページの遠心ポンプ論文を欧米の理論の標準たるべきものと評した
- [4]井口は実験用の180ミリのタービンポンプを芝浦製作所で試作し、揚程130フィート(39.5メートル)・平均効率69%を得た
- [5]当時一般のポンプは外国の模倣品で、水が揚がれば成功とされる技術水準だった
1910年(明治43年)秋、畠山一清氏は勤め先の鈴木鉄工所が倒産して職をなくしていた。師である井口在屋氏の勧めを受け、技師長として移った先が国友製作所だった。井口在屋氏はこの会社に、自らの論文の成果を形にした渦巻ポンプの製造を委ねていた。規模が小さい会社だけに、畠山一清氏は入社を一度は迷ったと伝わる。国友は井口在屋氏の設計による渦巻ポンプを作り続けたが、明治末に経営が行き詰まって閉鎖された。畠山一清氏の入社からおよそ2年後の倒産で、井口式ポンプの製作は担い手を失った。資本の乏しい1社に製造を委ねたままでは、学理の評価が高くても量産と販売の基盤は育たなかったのだろう。
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [6]鈴木鉄工所がつぶれた後、畠山は明治43年秋に井口の勧めで技師長として国友製作所に入社した
- [7]鈴木鉄工所がつぶれた後、畠山は明治43年秋に井口の勧めで技師長として国友製作所に入社した
- [8]井口教授は渦巻ポンプ理論の企業化のため国友製作所という小さな会社に製造を任せていた
- [9]畠山は国友製作所の規模を理由に入社をためらった
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [10]国友鉄工所は井口の設計による渦巻ポンプを製作していたが明治末に経営破綻し閉鎖された
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [11]井口博士の勧めで勤めた会社も倒産し、そこで作っていたゐのくちポンプを新たに企業化することになった
国友の倒産後、畠山一清氏は井口在屋氏の承諾を得て、1912年(大正元年)11月にゐのくち式機械事務所を開設した。井口在屋氏が主幹、30歳の畠山一清氏が所長に就任し、国友時代の技師5、6人が加わった。最初の拠点は京橋区東鍋町の貸し間で、工場を持たずに設計を請け、製作は外注に出した。茨城県の顧客が大型ポンプの前受金500円を置いていき、資金の乏しい事務所の滑り出しを支えたという。3年目に畠山一清氏は自己資金で日暮里に工場を持ち、従業員20名余り・機械9台で製作を始めた。日暮里を創設の地とする記録もあり、畠山一清氏はこのポンプの将来性に着目して独力で事務所を開設したとされる。
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [12]大正元年11月、井口の承諾を得てゐのくち式機械事務所を開いた
- [13]主幹に井口在屋、所長に畠山、国友時代の技師5、6人を連れて発足
- [14]事務所は京橋区東鍋町の工業雑誌社の2階を借り、設計を請けて製作は委託外注した
- [16]3年目に自己資金で日暮里に工場を持ち、従業員20名余・機械9台
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [15]茨城県の顧客が大型ポンプの前受金500円を置いていった
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [17]畠山はポンプの将来性に着目し、大正元年に独力でゐのくち式機械事務所を日暮里に創設した
参考文献[1]-[17]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [1]井口在屋の論文「渦巻きポンプ及びタービンポンプに関する学理」は明治38年発表
- [2]井口論文はまとまった論文として世界最初のもので高く評価された
- [10]国友鉄工所は井口の設計による渦巻ポンプを製作していたが明治末に経営破綻し閉鎖された
- [17]畠山はポンプの将来性に着目し、大正元年に独力でゐのくち式機械事務所を日暮里に創設した
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [3]英国誌Engineeringが1905年の井口教授の約300ページの遠心ポンプ論文を欧米の理論の標準たるべきものと評した
- [4]井口は実験用の180ミリのタービンポンプを芝浦製作所で試作し、揚程130フィート(39.5メートル)・平均効率69%を得た
- [5]当時一般のポンプは外国の模倣品で、水が揚がれば成功とされる技術水準だった
- [6]鈴木鉄工所がつぶれた後、畠山は明治43年秋に井口の勧めで技師長として国友製作所に入社した
- [7]鈴木鉄工所がつぶれた後、畠山は明治43年秋に井口の勧めで技師長として国友製作所に入社した
- [8]井口教授は渦巻ポンプ理論の企業化のため国友製作所という小さな会社に製造を任せていた
- [9]畠山は国友製作所の規模を理由に入社をためらった
- [12]大正元年11月、井口の承諾を得てゐのくち式機械事務所を開いた
- [13]主幹に井口在屋、所長に畠山、国友時代の技師5、6人を連れて発足
- [14]事務所は京橋区東鍋町の工業雑誌社の2階を借り、設計を請けて製作は委託外注した
- [16]3年目に自己資金で日暮里に工場を持ち、従業員20名余・機械9台
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [11]井口博士の勧めで勤めた会社も倒産し、そこで作っていたゐのくちポンプを新たに企業化することになった
- [15]茨城県の顧客が大型ポンプの前受金500円を置いていった
1912年〜浅草田原町ポンプ場の受注と、荏原郡に設けた荏原製作所
東京市は浅草田原町のポンプ場と三河島汚水処理場向けに、当時として記録的な大きさの渦巻ポンプ計15台を、ゐのくち式機械事務所に発注した。内訳は浅草向けの口径1,140ミリが6台、三河島向けが9台だった。受注の年は大正8年(1919年)とする記録があり、大正4、5年とする記録もあって一つに定まらない。日暮里工場は整った工作機械を持たず、従業員20名余りが手ヤスリと手ボールで仕上げて納めた。この実績で事務所は技術と資金の両面で力を蓄え、水道分野で輸入品のスイス・ズルツァー製ポンプと競う足場を得た。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [18]浅草田原町のポンプ場と三河島汚水処理場で渦巻ポンプ計15台を受注、当時として記録的な大型ポンプ
- [20]受注は大正8年
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [19]浅草向けは口径1,140ミリの渦巻ポンプ6台、三河島向けは9台
- [22]工作機械を持たず手ヤスリ・手ボールで製作した
- [23]大型ポンプの成功で経済的・技術的な力を得、のちに水道界からズルツァーポンプを駆逐する遠因となった
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [21]浅草田町のポンプ場・三河島汚水処理場の大型ポンプ受注は大正4、5年
1920年(大正9年)5月20日、事務所は資本金300万円の株式会社荏原製作所に改組された。社名はゐのくちの名を外し、会社の所在地の地名を冠した。畠山一清氏は前年の1919年4月、近代的な工場の範を求めて米英仏スイスを視察していた。改組後は西品川に敷地8,000坪・建坪350坪の大崎工場を構え、機械37台・従業員46名で事務所の業務を引き継いだ。設立の時期は第一次世界大戦後の反動不況と重なり、続く関東大震災や昭和初頭の恐慌の下で経営には苦心が続いた。手作業で大型ポンプを仕上げた経験から、設備を備えた工場とそれを賄う資本を一度に整える必要を感じたと推察される。
- 株式会社年鑑 1953年版「荏原製作所」
- [24]設立は大正9年5月20日
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [25]会社の所在地を冠して荏原製作所を設立した
- [26]大正8年4月、近代的工場をつくるため米・英・仏・スイスを視察した
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [27]大正9年に資本金300万円の株式組織とし、西品川に敷地8,000坪・建坪350坪の工場、機械37台・従業員46名でゐのくち式機械事務所の業務を引き継いだ
- [28]会社創立の当時は第一次大戦後の反動期で、関東大震災・昭和初頭の世界恐慌と打撃が続き経営に苦心した
参考文献[18]-[28]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [18]浅草田原町のポンプ場と三河島汚水処理場で渦巻ポンプ計15台を受注、当時として記録的な大型ポンプ
- [20]受注は大正8年
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [19]浅草向けは口径1,140ミリの渦巻ポンプ6台、三河島向けは9台
- [22]工作機械を持たず手ヤスリ・手ボールで製作した
- [23]大型ポンプの成功で経済的・技術的な力を得、のちに水道界からズルツァーポンプを駆逐する遠因となった
- [27]大正9年に資本金300万円の株式組織とし、西品川に敷地8,000坪・建坪350坪の工場、機械37台・従業員46名でゐのくち式機械事務所の業務を引き継いだ
- [28]会社創立の当時は第一次大戦後の反動期で、関東大震災・昭和初頭の世界恐慌と打撃が続き経営に苦心した
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [21]浅草田町のポンプ場・三河島汚水処理場の大型ポンプ受注は大正4、5年
- [25]会社の所在地を冠して荏原製作所を設立した
- [26]大正8年4月、近代的工場をつくるため米・英・仏・スイスを視察した
- 株式会社年鑑 1953年版「荏原製作所」
- [24]設立は大正9年5月20日
1924年〜羽田工場への移転と、富山・満州へ展開した軍需の工場
昭和初期、国内のポンプ需要は旺盛で、荏原製作所は国内シェアの6割強を握っていた。大崎工場では混流羽根車を新たに作り、軸流ポンプや大型冷凍機、急速濾過機へ品目を広げた。震災後の淀橋浄水場での能力試験では、ズルツァー製と同等の性能を3分の1の価格で示した。1934年(昭和9年)、畠山一清氏は大崎の3工場に加えて第4工場の建設を計画し、この年に社長に就任した。1936年10月には資本金を1,000万円に増やして羽田工場の建設に着手し、1938年4月に移転を終えた。大崎での増設を重ねても需要の伸びに追いつかず、敷地の広い羽田へ生産を集めたとみられる。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [29]昭和初期、ポンプ需要は旺盛で同社は国内シェアの6割強を押さえていた
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [30]大崎工場時代に混流羽根車を新たにつくり、軸流ポンプ・大型冷凍機・急速濾過機などを製作した
- [33]昭和11年10月に1,000万円へ増資して羽田工場の建設に着手、13年4月に移転完了
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [31]震災後の淀橋浄水場での各社の能力試験で、荏原はスイス・ズルツァー製品と同等の性能を3分の1の価格で示した
- [32]昭和9年に大崎の3工場に加え第4工場建設を計画し、畠山はこのとき初めて社長に就任した
荏原製作所が1924年に試作した軸流ポンプは、1932年(昭和7年)ごろから日本海軍に採用され、戦艦から水雷艇まで納入された。1940年9月には資本金を2,000万円に増やし、工作機械事業法に基づく川崎工場を建てて1941年12月に竪旋盤の製造を始めた。羽田の本社工場は陸海軍の管理工場となり、送風機・大型空気圧縮機・戦時標準船用の蒸気エンジンを多く作った。艦船用ポンプや航空機用燃料ポンプなど、兵器部品の量産も担った。軍の協力工場として、満州荏原製作所を設けるまで規模を広げたという。海軍との取引で積んだ実績が、管理工場への組み込みを早めた面もあったと思われる。
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [34]大正13年に試作した軸流ポンプは昭和7年ごろから日本海軍で採用され、戦艦用の毎時1万トンから水雷艇用の300トンまで納入した
- [38]戦時中は軍の協力工場として富山新工場や満州荏原製作所を設け規模が膨らんだ
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [35]昭和15年9月に2,000万円へ増資し川崎工場の建設に着手、16年12月操業開始、工作機械事業法に基づき竪旋盤を製作
- [36]羽田本社工場は陸海軍の管理工場となり、送風機・大型空気圧縮機・戦時標準船用蒸気エンジンを製作した
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [37]戦時中は艦船用ポンプ・送風機・航空機用燃料ポンプなど兵器部品を量産した
1943年(昭和18年)3月、荏原製作所は朝日精機を買収して富山工場を開設し、疎開先を兼ねた小型ポンプの量産拠点とした。工場は富山市東新庄にあり、敷地1万5,000坪・建坪1,500坪、機械103台・従業員250名で動き出した。戦局が悪化した1945年2月には群馬県桐生市と長野県吉田にも疎開工場を開設し、一時は5工場に分散して生産した。桐生工場は特攻兵器を、長野工場は小型ポンプを作った。地方に散らした工場は戦後に役目を終え、1949年9月に桐生・長野・富山の3工場を閉じて川崎工場へ集約した。空襲を避けるための分散は、平時の生産には拠点が多すぎる配置だったとみられる。
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [39]昭和18年3月に富山工場を開設し小型ポンプ量産設備を稼働させた
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [40]疎開工場兼小型ポンプ製作工場として富山市東新庄の敷地1万5千坪・建坪1,500坪の朝日精機を買収し富山工場を開所、機械103台・従業員250名
- [41]昭和20年2月に群馬県桐生市と長野市外吉田町に疎開工場を開設し、一時は5工場に分散して生産した
- [43]昭和24年9月、桐生・長野・富山工場を閉鎖し川崎工場に集約
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [42]疎開工場の桐生工場は特攻兵器、長野工場は小型ポンプを生産した
参考文献[29]-[43]
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- [29]昭和初期、ポンプ需要は旺盛で同社は国内シェアの6割強を押さえていた
- [37]戦時中は艦船用ポンプ・送風機・航空機用燃料ポンプなど兵器部品を量産した
- [39]昭和18年3月に富山工場を開設し小型ポンプ量産設備を稼働させた
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- [30]大崎工場時代に混流羽根車を新たにつくり、軸流ポンプ・大型冷凍機・急速濾過機などを製作した
- [33]昭和11年10月に1,000万円へ増資して羽田工場の建設に着手、13年4月に移転完了
- [35]昭和15年9月に2,000万円へ増資し川崎工場の建設に着手、16年12月操業開始、工作機械事業法に基づき竪旋盤を製作
- [36]羽田本社工場は陸海軍の管理工場となり、送風機・大型空気圧縮機・戦時標準船用蒸気エンジンを製作した
- [40]疎開工場兼小型ポンプ製作工場として富山市東新庄の敷地1万5千坪・建坪1,500坪の朝日精機を買収し富山工場を開所、機械103台・従業員250名
- [41]昭和20年2月に群馬県桐生市と長野市外吉田町に疎開工場を開設し、一時は5工場に分散して生産した
- [43]昭和24年9月、桐生・長野・富山工場を閉鎖し川崎工場に集約
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [31]震災後の淀橋浄水場での各社の能力試験で、荏原はスイス・ズルツァー製品と同等の性能を3分の1の価格で示した
- [32]昭和9年に大崎の3工場に加え第4工場建設を計画し、畠山はこのとき初めて社長に就任した
- [34]大正13年に試作した軸流ポンプは昭和7年ごろから日本海軍で採用され、戦艦用の毎時1万トンから水雷艇用の300トンまで納入した
- [38]戦時中は軍の協力工場として富山新工場や満州荏原製作所を設け規模が膨らんだ
- [42]疎開工場の桐生工場は特攻兵器、長野工場は小型ポンプを生産した
出典・参考
4件
- 株式会社年鑑 1953年版「荏原製作所」
- 歴史をつくる人々 1965年「熱と誠(荏原製作所 畠山一清)」
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
- オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」