第3章 年〜年

富士フイルム:FCRの発売と日米フィルム紛争の勝訴

1980年〜大西實社長のX線画像診断FCRと、ロサンゼルス五輪の公式フィルム

1980年5月、専務の大西實氏が54歳で社長に就任した。1980年初めの銀の価格は、前年同期の5倍強に達していた。富士写真フイルムは年に約500トンの銀を使っており、単純計算で1250億円の負担増にあたった。さらに1979年4月の東京ラウンド妥結で、一般用カラーフィルムの関税は1983年4月から4%へ下がることになった。大西實社長は就任後すぐに中期経営計画「V-50」に着手し、1984年に売上高7000億円という目標を置いた。ただ計画の主眼は社員の意識改革にあり、大西實社長はその狙いを『従来と同じことをやればよいという保守的な“コレステロール”を取り除きたかった』と語った。銀の高騰と関税の引き下げが重なり、コダックの後を追うだけの経営を続ける余地は狭まったとみられる。

  • 日経ビジネス 1998年5月4日号
    • [1]大西實氏は取締役・常務・専務を経て1980年5月に54歳で社長に就任した
    • [4]1978年3月末に20%だった一般用カラーフィルムの関税率は、1979年4月の東京ラウンド妥結で1983年4月から4%に引き下げられることになった
  • 『80年代わが社の戦略』(1980年)「富士写真フイルム」
    • [2]1980年初めの銀価格は前年同期の5倍強に達し、経営への影響はオイル以上とされた
  • 日経ビジネス 1985年11月25日号
    • [3]当時の富士写の銀の年間消費量は約500トンで、銀の急騰は単純計算で1250億円の支出増にあたった
    • [5]社長就任直後の大西實は中期経営計画V-50に着手し、1984年の創業50周年に売上高7000億円を目指したが、本当の目的は社員の意識改革だった
    • [6]大西實社長は保守的な体質を取り除きたかったと語った

富士写真フイルムは1981年6月、ブリュッセルの国際医学放射線学会でX線画像診断システム「FCR」の開発を発表した。当時の国内では医療費の抑制が課題となり、X線フィルムの需要の伸びは止まっていた。開発陣は、エレクトロニクスと結び付けて銀の使用量を減らす方法を探っていた。FCRはフィルムの代わりにイメージングプレートでX線像を記録し、電気信号に変えてコンピューターで処理する仕組みだった。国内での販売は1983年7月に始めた。ただ1991年10月期のFCRの売上高は200億円にとどまり、医療機器の輸出比率は3割未満だった。このため富士写真フイルムは1992年2月、米ゼネラル・エレクトリック(GE)と技術提携し、FCRをOEM供給する契約を結んだ。

  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)5章「技術革新への挑戦」
    • [7]1981年6月、ブリュッセルの国際医学放射線学会(ICR)で富士コンピューテッドラジオグラフィー(FCR)の開発を発表した
    • [8]1980年代に入り医療費の増加抑制が課題となり、X線フィルムの需要の伸びも停滞した
    • [9]開発者はエレクトロニクス技術との結合と、銀の使用量を節約する方法を構想していた
    • [11]1983年7月にFCRの国内販売を開始した
  • 日経ビジネス 1985年11月25日号
    • [10]FCRはフィルムの代わりにイメージングプレートでX線画像を記録し、電気信号に変えてコンピューターで処理して画像をつくる
  • 日経ビジネス 1992年7月20日号
    • [12]FCRの売上高は1991年10月期で200億円、医療機器部門の輸出比率は3割未満だった
    • [13]1992年2月に米GEと技術提携し、FCRをOEM供給するとともに新製品を共同開発することにした

1981年12月、富士写真フイルムは1984年ロサンゼルス五輪の公式フィルムに採用された。組織委員会の条件をコダックが受け入れなかったため、ピーター・ユベロス委員長が富士写真フイルムに話を持ちかけた。富士写真フイルムは10日間で受諾を決め、直接費用は約10億円だったという。当時の米国市場では、コダックが90%以上のシェアを持っていた。大西實社長は1990年、『アメリカは我々の最大の競争相手であるコダック社の本拠地でもあるし、オリンピックの写真もそれまでずっとコダックが担当していました。』と語った。大西實会長も1998年に、当時の海外では富士の名がほとんど知られていなかったと振り返った。大会前の約半年、緑色の飛行船が全米を回り、米国でのシェアは4%から2ケタ近くへ上がった。

  • 日経ビジネス 1985年11月25日号
    • [14]1981年12月にロス五輪の公式フィルムに採用された(富士写真フイルム小史)
    • [15]コダックが組織委員会の条件をのまず、ユベロス委員長が富士写に持ちかけた
    • [16]富士写はわずか10日間でオファーをのむ決断をし、直接費用だけで約10億円といわれた
    • [17]米国ではコダックのシェアが90%以上を占めていた
    • [20]大会に先立つ約半年間、緑色の飛行船が全米でキャンペーンし、米国でのシェアを4%から2ケタ近くまで上昇させた
  • 日化協月報 1990年11月号「クローズアップ 社長インタビュー 大西實」
    • [18]大西實社長は、米国はコダックの本拠地で五輪の写真もそれまでコダックが担当しており、オフィシャル・スポンサーの権利獲得は冒険に思われたと語った
  • 日経ビジネス 1998年5月4日号
    • [19]大西實会長によれば、海外戦略に着手した当時の海外では富士は「Fuji Who?」と言われる存在だった
参考文献[1]-[20]
  • 日経ビジネス 1998年5月4日号
    • [1]大西實氏は取締役・常務・専務を経て1980年5月に54歳で社長に就任した
    • [4]1978年3月末に20%だった一般用カラーフィルムの関税率は、1979年4月の東京ラウンド妥結で1983年4月から4%に引き下げられることになった
    • [19]大西實会長によれば、海外戦略に着手した当時の海外では富士は「Fuji Who?」と言われる存在だった
  • 『80年代わが社の戦略』(1980年)「富士写真フイルム」
    • [2]1980年初めの銀価格は前年同期の5倍強に達し、経営への影響はオイル以上とされた
  • 日経ビジネス 1985年11月25日号
    • [3]当時の富士写の銀の年間消費量は約500トンで、銀の急騰は単純計算で1250億円の支出増にあたった
    • [5]社長就任直後の大西實は中期経営計画V-50に着手し、1984年の創業50周年に売上高7000億円を目指したが、本当の目的は社員の意識改革だった
    • [6]大西實社長は保守的な体質を取り除きたかったと語った
    • [10]FCRはフィルムの代わりにイメージングプレートでX線画像を記録し、電気信号に変えてコンピューターで処理して画像をつくる
    • [14]1981年12月にロス五輪の公式フィルムに採用された(富士写真フイルム小史)
    • [15]コダックが組織委員会の条件をのまず、ユベロス委員長が富士写に持ちかけた
    • [16]富士写はわずか10日間でオファーをのむ決断をし、直接費用だけで約10億円といわれた
    • [17]米国ではコダックのシェアが90%以上を占めていた
    • [20]大会に先立つ約半年間、緑色の飛行船が全米でキャンペーンし、米国でのシェアを4%から2ケタ近くまで上昇させた
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)5章「技術革新への挑戦」
    • [7]1981年6月、ブリュッセルの国際医学放射線学会(ICR)で富士コンピューテッドラジオグラフィー(FCR)の開発を発表した
    • [8]1980年代に入り医療費の増加抑制が課題となり、X線フィルムの需要の伸びも停滞した
    • [9]開発者はエレクトロニクス技術との結合と、銀の使用量を節約する方法を構想していた
    • [11]1983年7月にFCRの国内販売を開始した
  • 日経ビジネス 1992年7月20日号
    • [12]FCRの売上高は1991年10月期で200億円、医療機器部門の輸出比率は3割未満だった
    • [13]1992年2月に米GEと技術提携し、FCRをOEM供給するとともに新製品を共同開発することにした
  • 日化協月報 1990年11月号「クローズアップ 社長インタビュー 大西實」
    • [18]大西實社長は、米国はコダックの本拠地で五輪の写真もそれまでコダックが担当しており、オフィシャル・スポンサーの権利獲得は冒険に思われたと語った

1985年〜写ルンですと国内シェア7割、米サウスカロライナの現地生産

1985年のカラーフィルムの国内シェアは、富士写真フイルムが70%強、小西六写真工業が20%弱、コダックが10%強だった。コダックは1970年まで、輸入数量制限と最高40%の関税に阻まれていた。その間に富士写真フイルムが築いた系列現像所の数は、1990年時点で日本コダックの4倍に達した。1986年7月、富士写真フイルムはレンズ付きフィルム「写ルンです」を発売した。撮影後は本体ごと写真店に出せば現像されるため、既存の現像網をそのまま使えた。使い捨てカメラの市場は1986年の100万本から1990年には3200万本の見込みへ拡大し、カラーフィルムの数量の1割を占めた。1989年7月に日本コダックが「パノラマ」でシェア10%を得ると、富士写真フイルムは1990年4月に同じ機能の商品を出して対抗した。

  • 日経ビジネス 1985年11月25日号
    • [21]カラーフィルムの国内シェアは富士写が70%強、小西六写真工業が20%弱、コダックが10%強だった
  • 日経ビジネス 1990年8月13日号
    • [22]コダックは1970年まで続いた輸入数量制限や最高40%の関税で日本での販売を制約された
    • [23]富士写は系列現像所数で日本コダックの4倍、セールスマン数でおよそ10倍を持っていた
    • [26]使い捨てカメラの市場は1986年の100万本から1990年に3200万本に達する見込みで、カラーフィルムに占める割合は数量で1割だった
    • [27]日本コダックは1989年7月発売の「パノラマ」でシェアを10%まで上げ、富士写は同機能の「写ルンですパノラミック」を1990年4月28日に発売した
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号
    • [24]1986年7月に使い捨てカメラ「写ルンです」が発売された(会社側の呼称はレンズ付きフィルム)
    • [25]撮り終わればカメラ本体ごと現像所に戻る仕組みだった

富士写真フイルムは1982年8月、オランダにFuji Photo Film B.V.を設立した。鈴木順太郎専務は、消費地の近くで安く作ることが進出の理由だったと説明した。日本から輸出すると受注から納品まで2カ月かかったが、現地生産では1週間程度に縮んだ。1983年の操業時は印画紙の裁断と包装だけで、1985年に乳剤の塗布工程を加えた。大西實社長は、1986年からの円高を大きな打撃だったと振り返った。円高の定着を受けて1986年にフィルム生産の追加を決め、1988年12月にカラーネガフィルムの生産を始めた。1988年7月には米国サウスカロライナ州にFuji Photo Film, Inc.を設立した。米国の工場は1997年末までに、原材料からの一貫生産に移行した。

  • 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第129期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]1982年8月、Fuji Photo Film B.V.をオランダに設立した
    • [34]1988年7月、Fuji Photo Film, Inc.を米国サウスカロライナ州に設立した
  • 日経ビジネス 1989年4月10日号
    • [29]鈴木順太郎専務は、消費地に近いところでコスト的にも有利に生産するために現地生産に踏み切ったと説明した
    • [30]日本から輸出すると受注から納品まで2カ月かかるが、現地生産なら1週間程度に短縮できた
    • [31]1983年の操業開始時は日本で加工を済ませた印画紙の裁断・包装だけで、1985年に乳剤塗布工程を加えた
    • [33]フィルム生産は当初計画になく、1986年に円高の定着も理由に追加を決め、1988年12月にカラーネガフィルムの生産を始めた
  • 日化協月報 1990年11月号「クローズアップ 社長インタビュー 大西實」
    • [32]大西實社長は1986年から始まった円高を非常に大きな打撃だったと語った
  • 日経ビジネス 1998年5月4日号
    • [35]サウスカロライナ州の工場で1995〜96年に印画紙とカラーフィルムの加工を始め、1997年末までに原材料から製品まで一貫生産する体制を整えた

富士ゼロックスは、英ランク・ゼロックスと富士写真フイルムが折半出資する合弁会社だった。1962年の発足時の契約で、アジアの営業地域は日本と旧英領以外の国に限られた。シンガポール・マレーシア・オーストラリア・ニュージーランドは、ランク・ゼロックスの担当だった。米ゼロックスは高速の大型機に開発を絞り、利益率の低い普及機には参入しない方針を続けた。普及機に需要が集まる東南アジアをそのままにすれば、キヤノンやリコーに市場を明け渡すおそれがあった。小林陽太郎社長の任期中の1990年11月、富士ゼロックスは4カ国の営業権をランク・ゼロックスから取得した。1991年3月にはシンガポールに統括会社を設け、同年10月には卓上型プリンターを欧米で販売する合弁会社を米国に設立した。

  • 日経ビジネス 1993年1月25日号
    • [36]富士ゼロックスは米ゼロックスの英国子会社ランク・ゼロックスと富士写真フイルムの折半出資会社だった
    • [38]シンガポール、マレーシア、オーストラリア、ニュージーランドの旧英領4カ国はランク・ゼロックスが担当していた
    • [39]米ゼロックスは60年代から大型機に製品開発を絞り、利益率の低い普及機に進出しない方針を守ってきた
    • [40]普及機に需要が集中する東南アジアをランク・ゼロックスが担当していては、市場をキヤノンやリコーに明け渡すことになるとされた
    • [42]1991年3月にシンガポールに富士ゼロックス・アジア・パシフィックを設立し、同年10月に欧米で卓上型LBPを売るゼロックス・インターナショナル・パートナーズを米国に設立した
  • 富士ゼロックス『ザ・ドキュメント・カンパニーをめざして』(ポケット社史, 1992年)
    • [37]富士ゼロックスの発足時、アジア地域の営業エリアは契約上、日本とアジアの旧英領以外の国に限定された
    • [41]1990年11月にランク・ゼロックスから4カ国の営業権を買収した。小林陽太郎氏は1978年から1992年1月まで富士ゼロックス社長を務めた
参考文献[21]-[42]
  • 日経ビジネス 1985年11月25日号
    • [21]カラーフィルムの国内シェアは富士写が70%強、小西六写真工業が20%弱、コダックが10%強だった
  • 日経ビジネス 1990年8月13日号
    • [22]コダックは1970年まで続いた輸入数量制限や最高40%の関税で日本での販売を制約された
    • [23]富士写は系列現像所数で日本コダックの4倍、セールスマン数でおよそ10倍を持っていた
    • [26]使い捨てカメラの市場は1986年の100万本から1990年に3200万本に達する見込みで、カラーフィルムに占める割合は数量で1割だった
    • [27]日本コダックは1989年7月発売の「パノラマ」でシェアを10%まで上げ、富士写は同機能の「写ルンですパノラミック」を1990年4月28日に発売した
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号
    • [24]1986年7月に使い捨てカメラ「写ルンです」が発売された(会社側の呼称はレンズ付きフィルム)
    • [25]撮り終わればカメラ本体ごと現像所に戻る仕組みだった
  • 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第129期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]1982年8月、Fuji Photo Film B.V.をオランダに設立した
    • [34]1988年7月、Fuji Photo Film, Inc.を米国サウスカロライナ州に設立した
  • 日経ビジネス 1989年4月10日号
    • [29]鈴木順太郎専務は、消費地に近いところでコスト的にも有利に生産するために現地生産に踏み切ったと説明した
    • [30]日本から輸出すると受注から納品まで2カ月かかるが、現地生産なら1週間程度に短縮できた
    • [31]1983年の操業開始時は日本で加工を済ませた印画紙の裁断・包装だけで、1985年に乳剤塗布工程を加えた
    • [33]フィルム生産は当初計画になく、1986年に円高の定着も理由に追加を決め、1988年12月にカラーネガフィルムの生産を始めた
  • 日化協月報 1990年11月号「クローズアップ 社長インタビュー 大西實」
    • [32]大西實社長は1986年から始まった円高を非常に大きな打撃だったと語った
  • 日経ビジネス 1998年5月4日号
    • [35]サウスカロライナ州の工場で1995〜96年に印画紙とカラーフィルムの加工を始め、1997年末までに原材料から製品まで一貫生産する体制を整えた
  • 日経ビジネス 1993年1月25日号
    • [36]富士ゼロックスは米ゼロックスの英国子会社ランク・ゼロックスと富士写真フイルムの折半出資会社だった
    • [38]シンガポール、マレーシア、オーストラリア、ニュージーランドの旧英領4カ国はランク・ゼロックスが担当していた
    • [39]米ゼロックスは60年代から大型機に製品開発を絞り、利益率の低い普及機に進出しない方針を守ってきた
    • [40]普及機に需要が集中する東南アジアをランク・ゼロックスが担当していては、市場をキヤノンやリコーに明け渡すことになるとされた
    • [42]1991年3月にシンガポールに富士ゼロックス・アジア・パシフィックを設立し、同年10月に欧米で卓上型LBPを売るゼロックス・インターナショナル・パートナーズを米国に設立した
  • 富士ゼロックス『ザ・ドキュメント・カンパニーをめざして』(ポケット社史, 1992年)
    • [37]富士ゼロックスの発足時、アジア地域の営業エリアは契約上、日本とアジアの旧英領以外の国に限定された
    • [41]1990年11月にランク・ゼロックスから4カ国の営業権を買収した。小林陽太郎氏は1978年から1992年1月まで富士ゼロックス社長を務めた

1995年〜コダックの301条提訴とWTOでの勝訴、宗雪雅幸社長のデジタル投資

1995年5月、コダックは日本のフィルム市場が閉鎖的だとして米通商代表部(USTR)に提訴した。反論の指揮を執ったのは、担当役員の宗雪雅幸専務だった。富士写真フイルムはコダック側の資料を原典まで当たり、約2カ月後の7月末に反論書を提出した。反論を世界に届けるため、ホームページの開設も計画から半年前倒しした。社長就任後の1996年、宗雪雅幸社長は日本コダックの前身も長瀬産業という特約店だったと指摘した。フィルムの関税も、日本はゼロに下げたが、米国は3.7%のままだった。宗雪雅幸社長はさらに、米国でコダックが70%以上を占めることを挙げ、『日本市場は鏡に映った米国市場なのです。』と述べた。

  • 日経ビジネス 1998年5月4日号
    • [43]1995年5月、コダックが「日本のフィルム市場は閉鎖的」として米通商代表部(USTR)に提訴した
  • 日経ビジネス 1997年11月17日号
    • [44]1995年のコダックの301条提訴では、宗雪雅幸氏が担当役員として自ら指揮を執った
  • 日経ビジネス 1996年9月16日号
    • [45]1995年5月の申請から7月末の反論書提出までの約2カ月間、コダック側の資料をすべて原典に当たった
    • [46]事実を世界に伝えるため、ホームページ開設を計画より半年前倒しした
    • [47]宗雪雅幸社長は、日本コダックももともとはコダックが特約店の長瀬産業に出資して販売部門を独立させたものだと指摘した
    • [48]日本は東京・ウルグアイ両ラウンドを通じてフィルムの関税を3.7%からゼロにしたが、米国は3.7%のままだった
    • [49]宗雪雅幸社長は、米国ではコダックが70%以上のシェアを握っているとして、日本市場は鏡に映った米国市場だと述べた

1996年6月13日、USTRは301条による制裁を見送り、世界貿易機関(WTO)に日本を提訴すると発表した。同じ6月、宗雪雅幸専務が社長に昇格し、大西實社長は会長に就任した。コダックとの論争を率いた実績が、昇格の決め手になったという。宗雪雅幸社長によれば、WTOでの争点は富士写真フイルムの取引から、大店法など日本政府の政策へ移った。1997年12月6日早朝、大西實会長に日本側の勝訴が伝えられた。大西實会長は勝訴を祝う姿勢を示さず、社内向けの報告会も開かなかった。それでも大西實会長は、コダックとの距離を『コダックは世界の写真市場の巨人。肩を並べるなんてとても。背中がようやく見えたというところでしょう』と語った。

  • 日経ビジネス 1996年9月16日号
    • [50]1996年6月13日、USTRはスーパー301条を適用せずにWTOへ提訴すると発表した
    • [52]論争を積極的に挑んだリーダーシップが宗雪雅幸氏の社長昇格の決め手になったと編集部はみた
    • [53]宗雪雅幸社長によれば、WTO提訴では富士写の名前は後ろに下がり、大店法など日本政府の市場政策が議論の対象に変わった
  • 日経ビジネス 1999年11月22日号
    • [51]1996年6月、米国は301条制裁発動を棚上げしてWTOへ提訴し、宗雪雅幸専務が社長に就任、大西前社長は会長になった
  • 日経ビジネス 1998年5月4日号
    • [54]1997年12月6日早朝、日米フィルム紛争に「勝利」したとの知らせが大西實会長のもとに届いた
    • [55]大西實会長は喜びをあらわにせず、社内向けの報告会も開かなかった
    • [56]大西實会長はコダックと肩を並べるどころか背中がようやく見えたところだと語った

1995年3月にカシオ計算機が6万5000円の「QV-10」を出して以降、デジタルカメラの出荷は1997年に100万台を超える勢いとなった。富士写真フイルムは1996年7月の「DS-7」で低価格機に参入し、同年のシェアは18%だった。だが高画素化の競争に遅れ、1997年には上位3社から外れた。国内のフィルムと印画紙の市場も、この頃には縮小に転じていた。宗雪雅幸社長は1997年、プリントの画質とコストでは従来の写真がデジタルを上回ると主張した。一方で1998年には、CCDなど主要部品を自社グループで作る方針に転じ、同年3月に「ファインピックス700」を出した。1999年3月、ファインピックスのシェアは約35%に達した。ただ1999年の時点で、収益源のフィルム・印画紙事業は伸びが止まっていた。

  • 日経ビジネス 1997年11月17日号
    • [57]1995年3月にカシオ計算機が定価6万5000円のQV-10を発売し、1997年のデジタルカメラ出荷台数は100万台を突破するのがほぼ確実となった
    • [58]富士写は1996年7月発売のDS-7で低価格帯のデジタルカメラ市場に参入し、1996年に18%のシェアを握った
    • [59]1997年に他社が81万画素以上の製品を出して高画素化競争が激しくなるなか、富士写はトップ3社から後退した
    • [60]利益の源泉となってきた国内のフィルム、印画紙市場が縮小してきた
    • [61]宗雪雅幸社長は、プリントに残す場合デジタルは従来の写真にかなわず、写真の価値は機能とコストで決まると述べた
  • 日経ビジネス 1999年11月22日号
    • [62]1998年にデジタルカメラの開発方針を技術自前主義に転換し、CCDなど主要部品を自社グループ内で供給して、1998年3月にファインピックス700を発売した
    • [63]ファインピックスシリーズのシェア合計は1999年3月に約35%を記録した
    • [64]収益の源だったフィルム・印画紙事業は1999年時点で頭打ちになっていた
参考文献[43]-[64]
  • 日経ビジネス 1998年5月4日号
    • [43]1995年5月、コダックが「日本のフィルム市場は閉鎖的」として米通商代表部(USTR)に提訴した
    • [54]1997年12月6日早朝、日米フィルム紛争に「勝利」したとの知らせが大西實会長のもとに届いた
    • [55]大西實会長は喜びをあらわにせず、社内向けの報告会も開かなかった
    • [56]大西實会長はコダックと肩を並べるどころか背中がようやく見えたところだと語った
  • 日経ビジネス 1997年11月17日号
    • [44]1995年のコダックの301条提訴では、宗雪雅幸氏が担当役員として自ら指揮を執った
    • [57]1995年3月にカシオ計算機が定価6万5000円のQV-10を発売し、1997年のデジタルカメラ出荷台数は100万台を突破するのがほぼ確実となった
    • [58]富士写は1996年7月発売のDS-7で低価格帯のデジタルカメラ市場に参入し、1996年に18%のシェアを握った
    • [59]1997年に他社が81万画素以上の製品を出して高画素化競争が激しくなるなか、富士写はトップ3社から後退した
    • [60]利益の源泉となってきた国内のフィルム、印画紙市場が縮小してきた
    • [61]宗雪雅幸社長は、プリントに残す場合デジタルは従来の写真にかなわず、写真の価値は機能とコストで決まると述べた
  • 日経ビジネス 1996年9月16日号
    • [45]1995年5月の申請から7月末の反論書提出までの約2カ月間、コダック側の資料をすべて原典に当たった
    • [46]事実を世界に伝えるため、ホームページ開設を計画より半年前倒しした
    • [47]宗雪雅幸社長は、日本コダックももともとはコダックが特約店の長瀬産業に出資して販売部門を独立させたものだと指摘した
    • [48]日本は東京・ウルグアイ両ラウンドを通じてフィルムの関税を3.7%からゼロにしたが、米国は3.7%のままだった
    • [49]宗雪雅幸社長は、米国ではコダックが70%以上のシェアを握っているとして、日本市場は鏡に映った米国市場だと述べた
    • [50]1996年6月13日、USTRはスーパー301条を適用せずにWTOへ提訴すると発表した
    • [52]論争を積極的に挑んだリーダーシップが宗雪雅幸氏の社長昇格の決め手になったと編集部はみた
    • [53]宗雪雅幸社長によれば、WTO提訴では富士写の名前は後ろに下がり、大店法など日本政府の市場政策が議論の対象に変わった
  • 日経ビジネス 1999年11月22日号
    • [51]1996年6月、米国は301条制裁発動を棚上げしてWTOへ提訴し、宗雪雅幸専務が社長に就任、大西前社長は会長になった
    • [62]1998年にデジタルカメラの開発方針を技術自前主義に転換し、CCDなど主要部品を自社グループ内で供給して、1998年3月にファインピックス700を発売した
    • [63]ファインピックスシリーズのシェア合計は1999年3月に約35%を記録した
    • [64]収益の源だったフィルム・印画紙事業は1999年時点で頭打ちになっていた

1980年〜1999年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1980年10月期 単体 4,045 n/a 453 157 3.9% n/a
1981年10月期 単体 4,468 +10.4% 771 361 8.1% n/a
1982年10月期 単体 5,109 +14.4% 966 474 9.3% Fuji Photo Film B.V.をオランダに設立(1982/08)
1983年10月期 単体 5,450 +6.7% 934 491 9.0% n/a
1984年10月期 単体 5,663 +3.9% 957 450 8.0% n/a
1985年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a ドイツに記録メディアの生産法人Fuji Magnetic GmbHを設立(1987/03)
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年10月期 連結 11,423 n/a n/a 756 6.6% n/a
1993年10月期 連結 10,867 ▲4.9% n/a 609 5.6% n/a
1994年10月期 連結 10,667 ▲1.8% n/a 637 6.0% n/a
1995年03月期 連結 4,676 ▲56.2% n/a 272 5.8% n/a
1996年03月期 連結 10,849 +132.0% n/a 728 6.7% FUJIFILM Imaging Systems (Suzhou)を中国に設立(1995/10)
1997年03月期 連結 12,521 +15.4% n/a 853 6.8% n/a
1998年03月期 連結 13,316 +6.3% n/a 912 6.8% n/a
1999年03月期 連結 13,870 +4.2% n/a 747 5.4% n/a

出所:会社年鑑、有価証券報告書

出典・参考

15件
出典・参考
  • 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第129期(2025年3月期)【沿革】
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)5章「技術革新への挑戦」
  • 富士ゼロックス『ザ・ドキュメント・カンパニーをめざして』(ポケット社史, 1992年)
  • 日経ビジネス 1985年11月25日号
  • 日経ビジネス 1989年4月10日号
  • 日化協月報 1990年11月号「クローズアップ 社長インタビュー 大西實」
  • 日経ビジネス 1990年8月13日号
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号
  • 日経ビジネス 1992年7月20日号
  • 日経ビジネス 1993年1月25日号
  • 日経ビジネス 1996年9月16日号
  • 日経ビジネス 1997年11月17日号
  • 日経ビジネス 1998年5月4日号
  • 日経ビジネス 1999年11月22日号
  • 『80年代わが社の戦略』(1980年)「富士写真フイルム」

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