第2章 年〜年

富士フイルム:国産カラーフィルムの完成と富士ゼロックスの設立

1950年〜国産初の総天然色映画フィルムと、一般向けのフジカラー

1951年3月、松竹の「カルメン故郷に帰る」が公開され、国産初の総天然色の長編劇映画となった。撮影には、春木栄社長が率いる富士写真フイルムの外型反転方式のカラーフィルムが使われた。国もカラーの国産化を後押しし、通商産業省は1950年2月に現像処理の工業化試験の補助金550万円を交付した。1951年5月には「天然色写真」が法人税を免除する重要物産に指定された。ただし当時のフィルムは感度が低く、黒白の撮影より約3倍の照明を要した。足柄工場は乳剤を一層ずつ計5回塗る工程で、長編劇映画に必要な量のフィルムを製造した。映画用を先に仕上げたのは、映画会社という大口の需要先で量産と現像の経験を積めるためだったとみられる。

  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)2章「総合写真感光材料メーカーへの発展」
    • [1]1951年3月、松竹「カルメン故郷に帰る」が国産初の総天然色劇映画として完成し、3月21日に一般公開された
    • [3]同映画は富士写真フイルムの外型反転カラーフィルムを使って製作された
    • [4]1950年2月、通商産業省が映画用天然色写真フィルム現像処理の工業化試験補助金として550万円を交付した
    • [5]1951年5月、「天然色写真」が法人税免除の重要物産に指定された
    • [6]外型反転カラーフィルムは感度が低く、黒白映画の撮影より約3倍の照明を要した
    • [7]外型反転カラーフィルムは乳剤を一層ずつ計5回塗る必要があり、足柄工場が長編劇映画用の必要量を製造した
  • 『株式会社年鑑』1952年版「富士寫眞フイルム」
    • [2]1951年時点の社長は春木榮

1958年10月、富士写真フイルムは一般用の「フジカラーネガティブフィルム」とプリント用の「フジカラーペーパー」を発売した。外型反転方式はポジからポジへ焼き付けるため現像が複雑で、多くのプリントを要する映画には不向きだった。国内の映画製作では、1953年からネガ・ポジ方式のイーストマンカラーが使われ始めた。富士写真フイルムは1954年以降に外型反転の映画用フィルムの製造を中止し、内型方式の開発に集中した。一般用の35mm判20枚撮りは現像料込み650円で、感度はASA32だった。同年11月には子会社の富士天然色写真が東京・調布に現像所を新設し、カラープリントの受注を始めた。1961年に小型カメラの需要が拡大し、1962年のカラーネガの販売は前年の2倍になった。

  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)2章「総合写真感光材料メーカーへの発展」
    • [8]1958年10月、一般写真用の「フジカラーネガティブフィルム」とプリント用の「フジカラーペーパー」を発売した
    • [9]外型反転カラーフィルムはポジ・ポジ方式で現像処理が複雑で日数もかかり、多数のプリントを要する映画用には適さなかった
    • [10]ネガ・ポジ方式のイーストマンカラーが1953年から日本のカラー映画製作に採り入れられた
    • [11]1954年以降、映画用外型反転カラーフィルムの製造を中止し、内型カラーネガ・ポジフィルムの開発に全力をあげた
    • [12]35mm判20枚撮の標準小売価格は現像料込みで650円、感度はASA32
    • [13]1958年11月、調布に建設した現像所を富士天然色写真の東京現像所として発足させ、カラーネガの現像とカラープリントの製作を始めた
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [14]1961年のキヤノネット発売を機に小型カメラブームが起き、カラーネガは1962年に前年の2倍の売れ行きとなった

1954年12月、富士写真フイルムは予算15億7,000万円の第一次不燃性フィルム製造設備を完成させた。それまでの映画用フィルムはセルロイドをベースに使い、映画館の火災の原因となっていた。輸出先の国でも、燃えやすいフィルムを使った映画の輸入を規制する動きが強まった。富士写真フイルムは1949年5月、大日本セルロイドに原料のセルローストリアセテートの製造研究を依頼した。1952年12月にはTACベースの量産技術を確立し、通商産業省の補助金850万円と日本開発銀行の融資が投資を支えた。1958年5月までに、すべての製品のベースがTACに切り替わった。売上高は1950年の23億円から1954年に87億円へ増加した。1954年度の映画フィルムの国内生産に占める割合は96%に達した。

  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「富士写真フイルム」
    • [15]1952年に総額15億7千万円の予算で第一次不燃性フィルム製造設備の建設に着手し、1954年12月に完成して映画フィルムの不燃性化を実現した
    • [21]総売上高は1950年の23億円から1954年に87億円に達した
    • [22]1954年度の全国生産高に占める割合は映画フィルム96%、レントゲンフィルム64%、一般フィルム61%、印画紙41%
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)2章「総合写真感光材料メーカーへの発展」
    • [16]映画用フィルムのベースはセルロースナイトレートを主原料とするセルロイドで発火しやすく、フィルムに起因する映画館の火災事故が相次いだ
    • [17]映画の輸出先の国で、燃焼性の大きいフィルムを使った映画の輸入規制の動きが高まった
    • [18]1949年5月、大日本セルロイドに主原料のセルローストリアセテートフレークスの製造研究を依頼した
    • [19]1951年8月に通商産業省が工業化試験補助金850万円を交付し、1952年に日本開発銀行の融資が認められ、1952年12月にTACベースの量産化技術を確立した
    • [20]1954年末の映画用ポジフィルムを皮切りに切り換え、1958年5月までにすべてのフィルムベースをTACベースに切り換えた
参考文献[1]-[22]
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)2章「総合写真感光材料メーカーへの発展」
    • [1]1951年3月、松竹「カルメン故郷に帰る」が国産初の総天然色劇映画として完成し、3月21日に一般公開された
    • [3]同映画は富士写真フイルムの外型反転カラーフィルムを使って製作された
    • [4]1950年2月、通商産業省が映画用天然色写真フィルム現像処理の工業化試験補助金として550万円を交付した
    • [5]1951年5月、「天然色写真」が法人税免除の重要物産に指定された
    • [6]外型反転カラーフィルムは感度が低く、黒白映画の撮影より約3倍の照明を要した
    • [7]外型反転カラーフィルムは乳剤を一層ずつ計5回塗る必要があり、足柄工場が長編劇映画用の必要量を製造した
    • [8]1958年10月、一般写真用の「フジカラーネガティブフィルム」とプリント用の「フジカラーペーパー」を発売した
    • [9]外型反転カラーフィルムはポジ・ポジ方式で現像処理が複雑で日数もかかり、多数のプリントを要する映画用には適さなかった
    • [10]ネガ・ポジ方式のイーストマンカラーが1953年から日本のカラー映画製作に採り入れられた
    • [11]1954年以降、映画用外型反転カラーフィルムの製造を中止し、内型カラーネガ・ポジフィルムの開発に全力をあげた
    • [12]35mm判20枚撮の標準小売価格は現像料込みで650円、感度はASA32
    • [13]1958年11月、調布に建設した現像所を富士天然色写真の東京現像所として発足させ、カラーネガの現像とカラープリントの製作を始めた
    • [16]映画用フィルムのベースはセルロースナイトレートを主原料とするセルロイドで発火しやすく、フィルムに起因する映画館の火災事故が相次いだ
    • [17]映画の輸出先の国で、燃焼性の大きいフィルムを使った映画の輸入規制の動きが高まった
    • [18]1949年5月、大日本セルロイドに主原料のセルローストリアセテートフレークスの製造研究を依頼した
    • [19]1951年8月に通商産業省が工業化試験補助金850万円を交付し、1952年に日本開発銀行の融資が認められ、1952年12月にTACベースの量産化技術を確立した
    • [20]1954年末の映画用ポジフィルムを皮切りに切り換え、1958年5月までにすべてのフィルムベースをTACベースに切り換えた
  • 『株式会社年鑑』1952年版「富士寫眞フイルム」
    • [2]1951年時点の社長は春木榮
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [14]1961年のキヤノネット発売を機に小型カメラブームが起き、カラーネガは1962年に前年の2倍の売れ行きとなった
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「富士写真フイルム」
    • [15]1952年に総額15億7千万円の予算で第一次不燃性フィルム製造設備の建設に着手し、1954年12月に完成して映画フィルムの不燃性化を実現した
    • [21]総売上高は1950年の23億円から1954年に87億円に達した
    • [22]1954年度の全国生産高に占める割合は映画フィルム96%、レントゲンフィルム64%、一般フィルム61%、印画紙41%

1960年〜ランク・ゼロックスとの合弁による富士ゼロックスと、富士宮工場の原紙内製

1962年2月、富士写真フイルムは英国のランク・ゼロックスとの折半出資で富士ゼロックスを設立した。ランク・ゼロックスは、米国ゼロックスが51%を出資する英国の会社だった。1960年6月に就任した小林節太郎社長は、多角化の方針を『まず隣接地を耕すべきだということである』と振り返った。富士写真フイルムが注目したのは、セレンを使う電子写真のゼログラフィーだった。1959年10月にランク・ゼロックスのトム・ロー社長が来日し、交渉が進んだ。製造は富士写真フイルムが担い、販売は合弁会社が受け持つ分担で合意した。契約には、ゼロックスが将来開発する商品化技術を追加交渉なしで供与する条項が入った。1971年10月期の富士ゼロックスの売上高は371億円、純利益は34億円だった。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [23]1962年2月20日に富士ゼロックスの創立総会を開き、資本出資比率は50対50とした
    • [25]小林節太郎は1960年6月に社長に就任し、銀塩写真部門に固執せず、写真やフィルムに関係のある隣接分野から多角化する方針を立てた
    • [26]多角化で最も注目したのは電子写真で、藤沢専務がセレンを使ったゼログラフィー技術に気付いた
    • [27]1959年10月、ランク・ゼロックス社のトム・ロー社長が来日し、交渉が急展開した
    • [28]製造は富士フイルムが担当し、製品の販売は富士とランクが出資した合弁会社にまかせることで合意した
    • [29]技術契約に、将来開発されるあらゆる商品化技術を追加の交渉なしに無制限に供与する条項が入った
  • 富士ゼロックス『ザ・ドキュメント・カンパニーをめざして』(ポケット社史, 1992年)
    • [24]ランク・ゼロックスは米国ゼロックスの51%出資の英国企業で、富士ゼロックスはその50%出資の外資系企業
  • 『証券調査』1972年「富士写真フイルム」
    • [30]富士ゼロックスの46/10期の売上高は371億円、純利益34億円

1963年10月、富士写真フイルムは静岡県富士宮市に富士宮工場を発足させ、バライタ紙とその原紙の製造に入った。バライタ紙は印画紙の支持体で、戦時中にその製造が三菱製紙へ一元化されていた。戦後は三菱製紙も印画紙の生産を始め、印画紙の販売競争が激しくなった。コストを下げるにも、自社の乳剤に合う印画紙を作るにも、主原料のバライタ紙を自ら製造する必要があった。候補地は富士宮と四国の吉野川流域に絞られ、足柄工場に近い富士宮を1961年秋に選んだ。春木栄会長は工場の条件に、温度の一定した清浄な空気と冷たい湧き水を挙げた。1964年4月にバライタ紙の製造工場が稼働し、印画紙を原紙から一貫して生産する体制が整った。

  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)3章「総合映像情報機材メーカーとしての展開」
    • [31]1963年10月、富士宮工場が正式に発足し、バライタ紙とその原紙の製造を開始した
    • [32]戦時経済体制のもとで印画紙の支持体としてのバライタ紙の製造は三菱製紙に一元化され、富士は写真用原紙の製造を断念した
    • [33]戦後、三菱製紙が印画紙の生産を開始し、市場の販売競争が激しくなった
    • [34]コスト引き下げには主原料のバライタ紙が問題で、特色ある印画紙には自社の写真乳剤に合うバライタ紙が必要だった
    • [35]候補地は静岡県富士宮と四国吉野川流域に絞られ、1961年秋に足柄工場に近い富士宮への進出を決定した
    • [37]1964年4月にバライタ紙製造工場が稼動し、印画紙の一貫生産を実現した
  • 『企業の現代史』(1963年)「躍動する多角化への道(富士フイルム)」
    • [36]春木栄会長は富士宮の工場について、温度の一定した清浄な空気と豊富で清浄な冷たい湧き水を立地の条件に挙げた

1965年12月、富士写真フイルムはニューヨークに販売会社Fuji Photo Film U.S.A.を設立した。翌1966年には西ドイツにも販売会社を置いた。小林節太郎社長は、製品の30%を輸出し、70%を国内の安定した市場で売る考えを持っていた。米国法人は設立から6年間、映画用フィルムや印刷用機材など業務用の販売に重点を置いた。買い手が専門家の業務用なら、品質と価格でコダックの製品に食い込めると判断した。1966年以降はコダックの製品と現像処理の互換性を持つカラーフィルムを順次商品化し、一般用の輸出に備えた。1972年時点で、米国の映画フィルムの市場の20%を富士写真フイルムが占めた。輸出比率は17%で、1975年に30%へ高める目標を掲げた。

  • 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第125期(2021年3月期)【沿革】
    • [38]1965年12月、米国ニューヨーク州にFuji Photo Film U.S.A.を設立した
    • [39]1966年にドイツにも販売会社を設立した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [40]小林節太郎は当初から製品の30%を輸出し、70%は国内に安定した市場を持つという考えでいた
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [41]米国富士写真フイルムは設立後6年間、映画用フィルムや印刷用機材など業務用商品の販売に力を注ぎ、アマチュア用フィルムの販売には事実上手を出さなかった
    • [42]業務用商品は売り手も買い手も専門家で、品質・価格・サービスで競争できればコダック相手でも食い込む余地があると見た
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)4章「ワールドエンタープライズを目指して」
    • [43]1966年以降、コダック社の製品と処理の互換性をもつカラーフィルムを逐次商品化し、本格的輸出が可能となった
  • 『証券調査』1972年「富士写真フイルム」
    • [44]1972年時点で米国の映画フィルムで20%のシェアを占めていた
    • [45]売上高に占める輸出の割合を現在の17%から1975年(昭和50年)に30%に高める目標を立てた
参考文献[23]-[45]
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [23]1962年2月20日に富士ゼロックスの創立総会を開き、資本出資比率は50対50とした
    • [25]小林節太郎は1960年6月に社長に就任し、銀塩写真部門に固執せず、写真やフィルムに関係のある隣接分野から多角化する方針を立てた
    • [26]多角化で最も注目したのは電子写真で、藤沢専務がセレンを使ったゼログラフィー技術に気付いた
    • [27]1959年10月、ランク・ゼロックス社のトム・ロー社長が来日し、交渉が急展開した
    • [28]製造は富士フイルムが担当し、製品の販売は富士とランクが出資した合弁会社にまかせることで合意した
    • [29]技術契約に、将来開発されるあらゆる商品化技術を追加の交渉なしに無制限に供与する条項が入った
    • [40]小林節太郎は当初から製品の30%を輸出し、70%は国内に安定した市場を持つという考えでいた
  • 富士ゼロックス『ザ・ドキュメント・カンパニーをめざして』(ポケット社史, 1992年)
    • [24]ランク・ゼロックスは米国ゼロックスの51%出資の英国企業で、富士ゼロックスはその50%出資の外資系企業
  • 『証券調査』1972年「富士写真フイルム」
    • [30]富士ゼロックスの46/10期の売上高は371億円、純利益34億円
    • [44]1972年時点で米国の映画フィルムで20%のシェアを占めていた
    • [45]売上高に占める輸出の割合を現在の17%から1975年(昭和50年)に30%に高める目標を立てた
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)3章「総合映像情報機材メーカーとしての展開」
    • [31]1963年10月、富士宮工場が正式に発足し、バライタ紙とその原紙の製造を開始した
    • [32]戦時経済体制のもとで印画紙の支持体としてのバライタ紙の製造は三菱製紙に一元化され、富士は写真用原紙の製造を断念した
    • [33]戦後、三菱製紙が印画紙の生産を開始し、市場の販売競争が激しくなった
    • [34]コスト引き下げには主原料のバライタ紙が問題で、特色ある印画紙には自社の写真乳剤に合うバライタ紙が必要だった
    • [35]候補地は静岡県富士宮と四国吉野川流域に絞られ、1961年秋に足柄工場に近い富士宮への進出を決定した
    • [37]1964年4月にバライタ紙製造工場が稼動し、印画紙の一貫生産を実現した
  • 『企業の現代史』(1963年)「躍動する多角化への道(富士フイルム)」
    • [36]春木栄会長は富士宮の工場について、温度の一定した清浄な空気と豊富で清浄な冷たい湧き水を立地の条件に挙げた
  • 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第125期(2021年3月期)【沿革】
    • [38]1965年12月、米国ニューヨーク州にFuji Photo Film U.S.A.を設立した
    • [39]1966年にドイツにも販売会社を設立した
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
    • [41]米国富士写真フイルムは設立後6年間、映画用フィルムや印刷用機材など業務用商品の販売に力を注ぎ、アマチュア用フィルムの販売には事実上手を出さなかった
    • [42]業務用商品は売り手も買い手も専門家で、品質・価格・サービスで競争できればコダック相手でも食い込む余地があると見た
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)4章「ワールドエンタープライズを目指して」
    • [43]1966年以降、コダック社の製品と処理の互換性をもつカラーフィルムを逐次商品化し、本格的輸出が可能となった

1968年〜カラーフィルムの輸入自由化と、コダックより先に出したASA400のF-II 400

1968年12月、通商産業省はカラーフィルムの輸入を全面的に自由化する方針を固めた。米国が輸入制限の廃止を強く迫っており、通産省はカラーフィルムを対米交渉の材料に充てる考えだった。自由化は映画用35ミリが1969年4月、一般用カラーロールフィルムが1971年1月の順に実施された。一般用カラーロールフィルムの関税率は1964年4月に30%から40%へ上がり、1971年4月に26%へ下がった。小林節太郎社長は1960年の就任時から、『世界は一つの市場であり、国内国外の差はなくなる』と社員に説いていた。ただ小林節太郎社長は、生産規模が格段に大きいコダックとは量産効果で比べものにならないと見ていた。小林節太郎社長は政府や外資審議会に対し、自由化の時期を遅らせるよう説明を重ねた。

  • 読売新聞(1968年12月4日)
    • [46]通産省はカラーフィルムの輸入を全面的に自由化する意向を固め、映画用を年内、8mm・16mm・一般カメラ用を翌年度から段階的に自由化するとした
    • [47]米国はカラーフィルムの輸入制限の廃止を強硬に迫っており、通産省はカラーフィルムを話し合いの材料に使う方針だった
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [48]製品の輸入自由化は44年4月に映画用35ミリカラーフィルム、46年1月に一般カラーロールフィルムの順で実施された
    • [49]一般的なカラー・ロールフィルムの関税率は39年4月に30%から40%へ、46年4月に26%へ変更された
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [50]小林節太郎は1960年6月の社長就任にあたり、外国品との自由競争に備えた国際競争力の増強を全社員に訴えた
    • [51]生産規模が格段に大きいコダック社とは量産効果が比較にならないと小林節太郎は見ていた
    • [52]小林節太郎は自由化の時期が遅くなるよう、政府当局や外資審議会に業界の立場を繰り返し説明した

1971年6月、一般用カラーフィルムの輸入自由化を終えた段階で、小林節太郎氏は会長となり、平田九州男氏が社長に就任した。平田九州男社長は1973年に、『コダックの本格的参入までにはあと2~3年時間が欲しい』と述べた。設備投資は1967年度の年間60億円から、1971年度には300億円に増えた。投資の狙いは、生産規模の拡大とコストの引き下げだった。販売では約150店の現像所を系列に収め、コダック系の20店を上回った。四つの総代理店から全国の二次問屋に至る販売網も整えていた。1972年時点で一般用フィルムの国内シェアは約70%で、小西六写真工業が約20%、コダックが約10%だった。20枚撮りカラーフィルムの小売価格は、コダックの480円に対し420円だった。

  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [53]1971年6月、輸入自由化が果たされた段階で、小林節太郎は富士写真フイルムの社長の椅子を平田九州男に譲り会長となった
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [54]平田九州男社長は、コダックの本格参入を前に困難な時期を迎えつつあるとみていた
    • [58]四つの総代理店を通じて全国の二次問屋にまで販売ルートを確立した
  • 『証券調査』1972年「富士写真フイルム」
    • [55]設備投資額は42年度の年間60億円から43年度130億円、45年度200億円、46年度300億円にのぼった
    • [56]大規模投資の成果は規模の拡大、生産の合理化、コストダウン、技術水準の向上として表れ始めた
    • [57]ラボ(現像所)の拡充が進み、全国で約150店を系列化し、コダック系の20店を上回った
    • [59]一般用フィルムの国内シェアは富士が約70%、小西六写真工業が約20%、イーストマン・コダックが約10%
    • [60]20枚撮り一般カラーフィルムの小売標準価格はコダックが日本国内480円、富士製品は420円

1976年9月、富士写真フイルムは西ドイツのフォトキナで、世界初のASA400の一般用カラーネガ「フジカラーF-II 400」を発表した。開発は、コダックが超高感度フィルムの研究を始めたとの情報を受けて着手し、2年余りで完成した。小林節太郎会長は開発陣に、『特殊目的だけのフィルムでは困る』と指示していた。アマチュアの撮影の約4分の1は室内で、ストロボなしで室内を写せる感度としてASA400を目標に置いた。35mm判は1976年10月に発売した。1977年2月には36枚撮りを標準小売価格950円で加えた。1976年度の輸出額は前年度比35.6%増の546億円となった。1976年10月期の決算は、単独でも連結でも1株当たり利益が過去最高となった。ただし世界のシェアは、コダックの75%に対し11%にとどまった。

  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)4章「ワールドエンタープライズを目指して」
    • [61]1976年9月、西ドイツ・ケルンの第14回フォトキナで、世界初の高感度一般用カラーネガフィルムASA400「フジカラーF-II 400」を発表した
    • [64]室内撮影はアマチュアの全撮影ショット数の約4分の1を占め、補助光なしで室内撮影できる感度としてASA400を目標に設定した
    • [67]1977年2月4日から「フジカラF-II400」の36枚撮りを標準小売価格950円で発売した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [62]超高感度カラーフィルムの開発はコダックが研究し始めたというニュースを受けて着手し、2年あまりで完成した
    • [63]小林節太郎は、従来のフィルムと同じように使用・現像できる一般用のフィルムでなければならないと指示していた
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)5章「技術革新への挑戦」
    • [65]1976年10月、フジカラーF-II400(35mm判)を発売した
  • 日経産業新聞(1977年2月1日)
    • [66]1977年2月4日から「フジカラF-II400」の36枚撮りを標準小売価格950円で発売した(35mm判の発売は1976年10月)
  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
    • [68]前期(1976年10月期)決算は史上最高の内容で、単独・連結とも1株当たり利益が過去最高だった
    • [69]世界のシェアはコダック75%、富士11%、アグファ8%(湯沢勝利常務)
参考文献[46]-[69]
  • 読売新聞(1968年12月4日)
    • [46]通産省はカラーフィルムの輸入を全面的に自由化する意向を固め、映画用を年内、8mm・16mm・一般カメラ用を翌年度から段階的に自由化するとした
    • [47]米国はカラーフィルムの輸入制限の廃止を強硬に迫っており、通産省はカラーフィルムを話し合いの材料に使う方針だった
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
    • [48]製品の輸入自由化は44年4月に映画用35ミリカラーフィルム、46年1月に一般カラーロールフィルムの順で実施された
    • [49]一般的なカラー・ロールフィルムの関税率は39年4月に30%から40%へ、46年4月に26%へ変更された
    • [54]平田九州男社長は、コダックの本格参入を前に困難な時期を迎えつつあるとみていた
    • [58]四つの総代理店を通じて全国の二次問屋にまで販売ルートを確立した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [50]小林節太郎は1960年6月の社長就任にあたり、外国品との自由競争に備えた国際競争力の増強を全社員に訴えた
    • [51]生産規模が格段に大きいコダック社とは量産効果が比較にならないと小林節太郎は見ていた
    • [52]小林節太郎は自由化の時期が遅くなるよう、政府当局や外資審議会に業界の立場を繰り返し説明した
    • [53]1971年6月、輸入自由化が果たされた段階で、小林節太郎は富士写真フイルムの社長の椅子を平田九州男に譲り会長となった
    • [62]超高感度カラーフィルムの開発はコダックが研究し始めたというニュースを受けて着手し、2年あまりで完成した
    • [63]小林節太郎は、従来のフィルムと同じように使用・現像できる一般用のフィルムでなければならないと指示していた
  • 『証券調査』1972年「富士写真フイルム」
    • [55]設備投資額は42年度の年間60億円から43年度130億円、45年度200億円、46年度300億円にのぼった
    • [56]大規模投資の成果は規模の拡大、生産の合理化、コストダウン、技術水準の向上として表れ始めた
    • [57]ラボ(現像所)の拡充が進み、全国で約150店を系列化し、コダック系の20店を上回った
    • [59]一般用フィルムの国内シェアは富士が約70%、小西六写真工業が約20%、イーストマン・コダックが約10%
    • [60]20枚撮り一般カラーフィルムの小売標準価格はコダックが日本国内480円、富士製品は420円
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)4章「ワールドエンタープライズを目指して」
    • [61]1976年9月、西ドイツ・ケルンの第14回フォトキナで、世界初の高感度一般用カラーネガフィルムASA400「フジカラーF-II 400」を発表した
    • [64]室内撮影はアマチュアの全撮影ショット数の約4分の1を占め、補助光なしで室内撮影できる感度としてASA400を目標に設定した
    • [67]1977年2月4日から「フジカラF-II400」の36枚撮りを標準小売価格950円で発売した
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)5章「技術革新への挑戦」
    • [65]1976年10月、フジカラーF-II400(35mm判)を発売した
  • 日経産業新聞(1977年2月1日)
    • [66]1977年2月4日から「フジカラF-II400」の36枚撮りを標準小売価格950円で発売した(35mm判の発売は1976年10月)
  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
    • [68]前期(1976年10月期)決算は史上最高の内容で、単独・連結とも1株当たり利益が過去最高だった
    • [69]世界のシェアはコダック75%、富士11%、アグファ8%(湯沢勝利常務)

1950年〜1979年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1950年10月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年10月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年10月期 単体 n/a n/a n/a 16 n/a n/a
1953年10月期 単体 n/a n/a n/a 16 n/a n/a
1954年10月期 単体 n/a n/a n/a 16 n/a n/a
1955年10月期 単体 n/a n/a n/a 16 n/a n/a
1956年10月期 単体 139 n/a n/a 16 11.5% n/a
1957年10月期 単体 135 ▲2.9% n/a 14 10.4% n/a
1958年10月期 単体 143 +5.9% n/a 7 5.4% ブラジルにFuji Photo Film do Brasilを設立(1958/08)
1959年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年10月期 単体 214 n/a n/a 9 4.4% n/a
1962年10月期 単体 247 +15.4% n/a 10 4.4% n/a
1963年10月期 単体 275 +11.3% n/a 11 4.1% n/a
1964年10月期 単体 340 +23.6% n/a 14 4.1% n/a
1965年10月期 単体 405 +19.1% n/a 17 4.2% n/a
1966年10月期 単体 419 +3.5% n/a 18 4.3% Fuji Photo Film (Europe)をドイツに設立(1966/06)
1967年10月期 単体 484 +15.5% n/a 26 5.4% n/a
1968年10月期 単体 620 +28.1% n/a 42 6.8% n/a
1969年10月期 単体 775 +25.0% n/a 58 7.5% n/a
1970年10月期 単体 1,002 +29.3% 121 75 7.6% n/a
1971年10月期 単体 1,157 +15.5% 106 69 6.0% n/a
1972年10月期 単体 1,241 +7.3% 114 55 4.4% n/a
1973年10月期 単体 1,464 +18.0% 147 77 5.3% n/a
1974年10月期 単体 1,757 +20.1% 128 69 4.0% n/a
1975年10月期 単体 1,921 +9.3% 94 60 3.1% n/a
1976年10月期 単体 2,267 +18.0% 202 100 4.4% n/a
1977年10月期 単体 2,658 +17.3% 264 140 5.3% n/a
1978年10月期 単体 2,787 +4.9% 237 124 4.5% n/a
1979年10月期 単体 3,122 +12.0% 243 128 4.1% n/a

出所:証券時報、会社年鑑、会社年鑑 1976年版

出典・参考

16件
出典・参考
  • 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第125期(2021年3月期)【沿革】
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)2章「総合写真感光材料メーカーへの発展」
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)3章「総合映像情報機材メーカーとしての展開」
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)4章「ワールドエンタープライズを目指して」
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)5章「技術革新への挑戦」
  • 『株式会社年鑑』1952年版「富士寫眞フイルム」
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「富士写真フイルム」
  • 『企業の現代史』(1963年)「躍動する多角化への道(富士フイルム)」
  • 富士ゼロックス『ザ・ドキュメント・カンパニーをめざして』(ポケット社史, 1992年)
  • 日経ビジネス 1973年4月2日号
  • 日経ビジネス 1975年1月20日号
  • 日経ビジネス 1977年6月6日号
  • 読売新聞(1968年12月4日)
  • 日経産業新聞(1977年2月1日)
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
  • 『証券調査』1972年「富士写真フイルム」

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