第1章 年〜年

富士フイルム:富士写真フイルムの設立とX線フィルムの国産化

1934年〜大日本セルロイドから分かれた足柄工場と、量産の失敗で積んだ33万円の赤字

富士写真フイルムは1934年1月20日、大日本セルロイドの写真フイルム部の事業一切を継承して設立された。資本金は300万円、従業員は340名で、本社と工場を神奈川県足柄上郡南足柄村に置いた。設立に先立つ1933年6月、大日本セルロイドは映画用生フィルムの製造奨励金を商工大臣に申請していた。申請書は、映画用生フィルムを全量輸入に依存しており、有事には軍の需要も満たせないと訴えた。政府は同年、4年間で総額120万円の助成金の交付を決めた。同年11月、大日本セルロイドは写真フィルム事業を分離し、新会社で運営すると決めた。写真フィルムは製法も販路もセルロイドと異なり、独立した経営で育てる必要があると判断した。社長には大日本セルロイド専務の浅野修一氏が就任した。

  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「富士写真フイルム」
    • [1]1934年1月、大日本セルロイドの写真フイルム部の施設と事業一切を分離継承し、資本金300万円で設立された
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)1章「写真フィルムの国産化を目指して」
    • [2]創立時の資本金は300万円、本社・工場は神奈川県足柄上郡南足柄村中沼、従業員は340名だった
    • [3]1933年6月5日、大日本セルロイドは「映画用生フィルム製造奨励金下附申請書」を商工大臣に提出した
    • [4]申請書は映画用生フィルムが全量輸入で価格が高く供給が円滑でなく、有事に軍事上の需要も満たせないと訴えた
    • [6]1933年11月、大日本セルロイドは写真フィルム事業を分離し新会社を設立して経営することを決定した
    • [7]写真フィルム事業は製造・販売ともセルロイド事業と全く異なる分野で、別の取り組みが必要との考えから新会社の設立を決めた
    • [8]初代の専務取締役社長は大日本セルロイド専務取締役の淺野修一だった
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [5]政府は昭和8年に120万円の工業助成金の交付を決定した(1933年10月示達、規格合格の映画用ポジフィルムに4年間・総額120万円まで)

足柄工場は1934年4月に映画用ポジフィルムを初出荷したが、映画会社からの注文はほとんど入らなかった。同年2月4日、大手映画会社で構成する大日本活動写真協会が国産フィルムの使用反対を声明していた。耐久力がコダック製品の5割に満たず、画面が暗いという理由だった。その3日前には、コダック社とアグファ社が製品価格の大幅な引き下げを発表していた。初年度(9か月)の売上高は54万7,000円で、17万円の赤字を計上した。創立から2年間の累積損失は33万円となり、1935年10月末の借入金は224万円に達した。同年末、浅野修一社長は従業員に退職の選択を示したうえで、『この写真フィルム工業を生涯の事業として,あくまでやり抜く決意である』と述べた。

  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)1章「写真フィルムの国産化を目指して」
    • [9]1934年4月に映画用ポジフィルムを「富士陽画用フィルム」として初出荷したが、映画会社からの注文は一向になく在庫がたまった
    • [10]1934年2月4日、日活・松竹・新興キネマ・大都映画などを含む大日本活動写真協会が国産フィルム使用反対の声明を出した
    • [12]1934年2月1日、コダック・アグファ両社が製品価格の大幅な値下げを発表した
    • [13]創立初年度(9か月)は売上54万7,000円に対し17万円の赤字を計上した
    • [14]創立当初2年間で売上高累計205万円に対し累積損失は33万円、1935年10月末の借入金は224万円に達した
    • [15]1935年末、淺野社長は他社へ転じる者には退職手当を出すとしたうえで、写真フィルム工業を生涯の事業としてやり抜く決意を表明した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [11]協会の声明は「耐久力はコダック製品の五割に及ばず、画面の暗さは国民の目の衛生上由々しい問題である」とした

映画用フィルムが売れない間、富士写真フイルムの売上の過半は乾板が占めた。1935年9月発売の「A1乾板」は、英国イルフォード社の乾板を上回るとの評価を得た。1936年初めには、新しいフィルムベースによる映画用ポジフィルムが完成した。同年4月には映画用ネガフィルム、ロールフィルム、X線フィルム「富士レントゲンフィルム」を相次いで発売した。X線フィルムの国内市場はアグファ社の製品がほぼ押さえており、富士写真フイルムは大病院へ直接納入した。新製品の発売後、映画用フィルムの需要は足柄工場の生産能力を上回った。1937年4月期には累積赤字を一掃し、初の6%配当を実施した。社史は創業期の教訓の一つに『品質がすべてを決定する』を挙げた。

  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)1章「写真フィルムの国産化を目指して」
    • [16]乾板の売り上げが過半を占める状態で、映画用フィルムの製造を軌道に乗せる必要があった
    • [17]1935年9月発売の「A1(エーワン)乾板」は英国イルフォード社の赤札乾板をしのぐとの評価を得た
    • [18]1936年初頭、新しい写真乳剤と新しいフィルムベースによる映画用ポジフィルムを完成した
    • [19]1936年4月に映画用ネガフィルム「富士陰画用フィルム」、ロールフィルム、X-レイフィルム「富士レントゲンフィルム」を発売した
    • [20]当時のX-レイフィルム市場はアグファ社製品がほとんどを抑えており、大病院には当社から直納した
    • [22]1937年4月期決算で累積赤字を一掃し、初の6%配当を実施した
    • [23]創業期の苦境から得た教訓は「品質がすべてを決定する」「全社員が一つになって事に当たれば困難を克服できる」の二つだった
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [21]新発売の製品はいずれも好評で、映画用フィルムはフル生産しても需要に追いつかなくなった
参考文献[1]-[23]
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「富士写真フイルム」
    • [1]1934年1月、大日本セルロイドの写真フイルム部の施設と事業一切を分離継承し、資本金300万円で設立された
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)1章「写真フィルムの国産化を目指して」
    • [2]創立時の資本金は300万円、本社・工場は神奈川県足柄上郡南足柄村中沼、従業員は340名だった
    • [3]1933年6月5日、大日本セルロイドは「映画用生フィルム製造奨励金下附申請書」を商工大臣に提出した
    • [4]申請書は映画用生フィルムが全量輸入で価格が高く供給が円滑でなく、有事に軍事上の需要も満たせないと訴えた
    • [6]1933年11月、大日本セルロイドは写真フィルム事業を分離し新会社を設立して経営することを決定した
    • [7]写真フィルム事業は製造・販売ともセルロイド事業と全く異なる分野で、別の取り組みが必要との考えから新会社の設立を決めた
    • [8]初代の専務取締役社長は大日本セルロイド専務取締役の淺野修一だった
    • [9]1934年4月に映画用ポジフィルムを「富士陽画用フィルム」として初出荷したが、映画会社からの注文は一向になく在庫がたまった
    • [10]1934年2月4日、日活・松竹・新興キネマ・大都映画などを含む大日本活動写真協会が国産フィルム使用反対の声明を出した
    • [12]1934年2月1日、コダック・アグファ両社が製品価格の大幅な値下げを発表した
    • [13]創立初年度(9か月)は売上54万7,000円に対し17万円の赤字を計上した
    • [14]創立当初2年間で売上高累計205万円に対し累積損失は33万円、1935年10月末の借入金は224万円に達した
    • [15]1935年末、淺野社長は他社へ転じる者には退職手当を出すとしたうえで、写真フィルム工業を生涯の事業としてやり抜く決意を表明した
    • [16]乾板の売り上げが過半を占める状態で、映画用フィルムの製造を軌道に乗せる必要があった
    • [17]1935年9月発売の「A1(エーワン)乾板」は英国イルフォード社の赤札乾板をしのぐとの評価を得た
    • [18]1936年初頭、新しい写真乳剤と新しいフィルムベースによる映画用ポジフィルムを完成した
    • [19]1936年4月に映画用ネガフィルム「富士陰画用フィルム」、ロールフィルム、X-レイフィルム「富士レントゲンフィルム」を発売した
    • [20]当時のX-レイフィルム市場はアグファ社製品がほとんどを抑えており、大病院には当社から直納した
    • [22]1937年4月期決算で累積赤字を一掃し、初の6%配当を実施した
    • [23]創業期の苦境から得た教訓は「品質がすべてを決定する」「全社員が一つになって事に当たれば困難を克服できる」の二つだった
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [5]政府は昭和8年に120万円の工業助成金の交付を決定した(1933年10月示達、規格合格の映画用ポジフィルムに4年間・総額120万円まで)
    • [11]協会の声明は「耐久力はコダック製品の五割に及ばず、画面の暗さは国民の目の衛生上由々しい問題である」とした
    • [21]新発売の製品はいずれも好評で、映画用フィルムはフル生産しても需要に追いつかなくなった

1937年〜小田原工場の光学機器と、輸入禁止と統制会社による国家管理

富士写真フイルムは1938年6月、原料薬品と精密光学機器を担う小田原工場を建設した。足柄工場の敷地には余地がなく、感光色素の合成で出るガスが製品を損なうおそれもあった。用地は足柄工場から約10kmの小田原駅近くで、豊富な工場用水にも恵まれていた。1938年6月にまず感光色素製造室が完成し、1939年4月には硝酸銀工場を新築した。1940年3月には、同じ工場内に光学ガラスの溶融工場を建設した。レンズの素材からカメラまでの一貫生産を狙い、輸入が難しくなる情勢も踏まえた判断だった。原料と光学の双方を内製したことが、輸入の途絶後も供給を続ける足場になったとみられる。

  • 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第125期(2021年3月期)【沿革】
    • [24]1938年6月、硝酸銀・色素などの高度化成品部門と光学硝子・写真機などの精密光学機器部門を拡充する小田原工場を建設した
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)1章「写真フィルムの国産化を目指して」
    • [25]足柄工場の敷地内には適当なスペースがなく、感光色素の合成過程で発生するガスが製品に悪影響を及ぼす懸念があった
    • [26]用地は小田原駅と酒匂川の中間で足柄工場から約10km、豊富な工場用水にも恵まれていた
    • [27]1937年12月に着工し、1938年6月に感光色素製造室などが完成、1939年4月に硝酸銀工場などを新築した
    • [28]1940年3月、小田原工場内に光学ガラス溶融工場を建設した
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「富士写真フイルム」
    • [29]レンズの素材からカメラ製造までの一貫生産を企図し、輸入事情が厳しくなる情勢も踏まえて光学ガラスに着手した(小田原工場は色素・硝酸銀等の原料部門と光学部門を増設)

1937年9月の輸出入品等臨時措置法により、写真フィルムは軍需用・医療用を除いて輸入が禁止された。同法の制定後、輸入品は国内市場からほぼ姿を消した。映画用フィルムは富士写真フイルム1社が供給する体制になった。1938年7月には、年1,500万円に上る映画用フィルムの輸入を年内に止める方針が示された。1939年10月の価格等統制令で価格が凍結され、1940年6月には公定価格が設定された。1941年12月に日本写真感光材料統制株式会社が設立され、浅野修一社長が取締役に就任した。1944年3月には統制会社が販売会社を吸収し、生産と配給を一社で管理する体制に移った。輸入品が消えて市場は広がった一方、品目と値付けの裁量は国に移ったと推察される。

  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)1章「写真フィルムの国産化を目指して」
    • [30]1937年9月公布の輸出入品等臨時措置法で、カメラ・フィルム・印画紙・乾板などは軍需用・医療用などを除き輸入禁止となった
    • [32]戦時体制下で映画用フィルムの輸入規制が強化され、当社1社で映画用フィルムを供給することになった
    • [34]1939年10月の価格等統制令で価格が凍結され、1940年6月に写真感光材料の公定価格が設定された
    • [35]1941年12月に日本写真感光材料統制株式会社が創立され、淺野社長が同社の取締役に就任した
    • [36]1944年3月、日本写真感光材料販売を日本写真感光材料統制が吸収合併し、生産から配給までの統制が一元化された
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「富士写真フイルム」
    • [31]昭和12年の輸出入臨時措置法の制定後、輸入品はほとんど影を潜めた
  • 読売新聞(1938年7月24日)
    • [33]戦時下の生産拡充策として、アメリカから年1,500万円輸入していた映画用フィルムを年内に完全にシャット・アウトすると報じた

太平洋戦争の開戦後、富士写真フイルムの生産は軍用、特に航空用を最優先とした。開戦前の1941年春、取締役営業部長の小林節太郎氏は、日米が開戦すれば写真工業は続けられなくなると業界の大会で答えていた。実際には航空機が主力の戦闘で写真フィルムと光学機械が欠かせなくなり、軍は航空用フィルムの増産を求めた。1940年4月には海軍航空技術廠の依頼で射点観測写真機を納め、これが自社製カメラの第1号となった。1941年7月には陸軍航空技術研究所の要請で、撮影から映写まで60秒以内で済む装置を納入した。従業員は1941年3月に2,274名となり、創立時の7倍に増えた。一般向けの生産は停滞し、赤外線フィルムなど軍需用の生産が中心になった。

  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)1章「写真フィルムの国産化を目指して」
    • [37]太平洋戦争のぼっ発とともに、生産は軍用、特に航空用を最優先とし、原材料も重点的に振り向けられた
    • [38]1941年春の全国写真材料商組合連合会大会で、取締役営業部長小林節太郎は日米戦争になれば写真工業は続けられなくなると答弁した
    • [40]1940年4月、海軍航空技術廠から依頼された射点観測写真機を完成・納入し、当社製第1号カメラとなった
    • [41]1941年7月、陸軍航空技術研究所の要請で撮影から現像・スライド映写までを60秒以内で行う自動航空写真撮影現像投影装置を納入した
    • [42]従業員数は1941年3月に2,274名と創立当初の7倍になった
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [39]航空機を主力とする戦闘には光学機械や写真フィルムが欠かせず、航空用フィルムは軍から増産を迫られた
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「富士写真フイルム」
    • [43]太平洋戦争勃発後は軍需生産優先に切り替えられ、赤外線フイルムなど軍需用フイルムの生産が主となり一般向けは停頓した
参考文献[24]-[43]
  • 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第125期(2021年3月期)【沿革】
    • [24]1938年6月、硝酸銀・色素などの高度化成品部門と光学硝子・写真機などの精密光学機器部門を拡充する小田原工場を建設した
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)1章「写真フィルムの国産化を目指して」
    • [25]足柄工場の敷地内には適当なスペースがなく、感光色素の合成過程で発生するガスが製品に悪影響を及ぼす懸念があった
    • [26]用地は小田原駅と酒匂川の中間で足柄工場から約10km、豊富な工場用水にも恵まれていた
    • [27]1937年12月に着工し、1938年6月に感光色素製造室などが完成、1939年4月に硝酸銀工場などを新築した
    • [28]1940年3月、小田原工場内に光学ガラス溶融工場を建設した
    • [30]1937年9月公布の輸出入品等臨時措置法で、カメラ・フィルム・印画紙・乾板などは軍需用・医療用などを除き輸入禁止となった
    • [32]戦時体制下で映画用フィルムの輸入規制が強化され、当社1社で映画用フィルムを供給することになった
    • [34]1939年10月の価格等統制令で価格が凍結され、1940年6月に写真感光材料の公定価格が設定された
    • [35]1941年12月に日本写真感光材料統制株式会社が創立され、淺野社長が同社の取締役に就任した
    • [36]1944年3月、日本写真感光材料販売を日本写真感光材料統制が吸収合併し、生産から配給までの統制が一元化された
    • [37]太平洋戦争のぼっ発とともに、生産は軍用、特に航空用を最優先とし、原材料も重点的に振り向けられた
    • [38]1941年春の全国写真材料商組合連合会大会で、取締役営業部長小林節太郎は日米戦争になれば写真工業は続けられなくなると答弁した
    • [40]1940年4月、海軍航空技術廠から依頼された射点観測写真機を完成・納入し、当社製第1号カメラとなった
    • [41]1941年7月、陸軍航空技術研究所の要請で撮影から現像・スライド映写までを60秒以内で行う自動航空写真撮影現像投影装置を納入した
    • [42]従業員数は1941年3月に2,274名と創立当初の7倍になった
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「富士写真フイルム」
    • [29]レンズの素材からカメラ製造までの一貫生産を企図し、輸入事情が厳しくなる情勢も踏まえて光学ガラスに着手した(小田原工場は色素・硝酸銀等の原料部門と光学部門を増設)
    • [31]昭和12年の輸出入臨時措置法の制定後、輸入品はほとんど影を潜めた
    • [43]太平洋戦争勃発後は軍需生産優先に切り替えられ、赤外線フイルムなど軍需用フイルムの生産が主となり一般向けは停頓した
  • 読売新聞(1938年7月24日)
    • [33]戦時下の生産拡充策として、アメリカから年1,500万円輸入していた映画用フィルムを年内に完全にシャット・アウトすると報じた
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [39]航空機を主力とする戦闘には光学機械や写真フィルムが欠かせず、航空用フィルムは軍から増産を迫られた

1943年〜榎本光学精機の買収と従業員4400名、天然色写真の設立と東証上場

1944年3月、富士写真フイルムは陸軍造兵廠の勧めで榎本光学精機製作所を傘下に収め、富士写真光機と改称した。前年11月には浅野修一社長が健康上の理由で退任し、専務取締役の春木栄氏が社長に就任していた。1942年10月には、軍から光学機器の大増産を求められていた。戦時下で建物や設備の新設はほぼ不可能で、技能者の養成も進まず、既存の光学機械メーカーを系列に入れる方針をとった。1942年1月に玉川光機の事業を継承し、1943年11月には東京時計製造を傘下に収めた。榎本光学精機は蒲田などに工場を持ち、従業員1,900人で双眼鏡などの光学兵器を製造していた。富士写真光機の社長には、専務取締役の小林節太郎氏が兼任で就任した。1944年4月には、富士写真フイルム自身も軍需会社に指定された。

  • 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第125期(2021年3月期)【沿革】
    • [44]1944年3月、陸軍造兵廠のすすめによって榎本光学精機製作所を傘下に収め、富士写真光機株式会社と改称した(有報沿革は「買収」)
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)1章「写真フィルムの国産化を目指して」
    • [45]1943年11月、淺野社長は健康上の理由で辞任し、後任社長に専務取締役春木榮が選任された
    • [47]戦時下で建物・設備の新設はほとんど不可能で技能者の養成もままならず、既存の光学機械メーカーを系列に入れて増産に対処する方針を決めた
    • [48]1942年1月に玉川光機の事業を継承し、1943年11月に東京時計製造を傘下に収めた
    • [50]当社専務取締役小林節太郎が富士写真光機の取締役社長を兼任した
    • [51]軍需会社法(1943年12月施行)により、1944年4月に軍需会社に指定された
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [46]昭和17年10月、軍から光学部門の大増産を要求された
    • [49]榎本光学精機製作所は蒲田・目黒・鵜ノ木・大宮などに工場を持ち、従業員1,900人で双眼鏡など主に光学兵器を作っていた

1945年9月半ば、富士写真フイルムは全従業員をいったん解雇した。終戦時の人員は、勤労動員の臨時要員を含めて4,400人に膨らんでいた。軍需会社の指定を受けていたため、生産の再開が認められるかどうかも見通せなかった。10月1日には、選考のうえ約4割に当たる1,492名を再採用した。同じ10月、占領軍当局は民心の安定のため映画用フィルムの生産再開を指示した。再開の日、春木栄社長は『原料から写真フィルムを製造して,国内の需要をまかない,外国品を駆逐することは,当社創業の精神であり,使命である』と述べ、従業員に協力を求めた。足柄工場は映画用フィルムから生産を再開し、次いでX線フィルムの製造を再開した。戦災の被害が軽微だったことも、早い生産回復を支えた。

  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)2章「総合写真感光材料メーカーへの発展」
    • [52]終戦の翌月、9月半ばに全従業員を一斉に解雇した
    • [54]戦時中軍需会社に指定されていた当社に生産再開が認められるかどうか全くわからない状態だった
    • [55]全員解雇した従業員の中から選考のうえ、約4割に当たる1,492名を10月1日付で再採用した
    • [56]1945年10月、占領軍当局は民心安定のため映画の振興を奨励し、映画用フィルムの生産再開を指示した
    • [57]1945年10月1日の事業再開の日、春木社長は再出発にかける決意を述べ全従業員の協力を求めた
    • [58]足柄工場の生産は映画用フィルムの製造でスタートし、次いでX-レイフィルムの製造を再開した
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [53]戦時生産でふくれ上がった人員は勤労動員の臨時のものも含めて4,400人だった
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「富士写真フイルム」
    • [59]戦災被害は軽微であったので、いち早く生産を回復した

1946年4月、富士写真フイルムは光村原色版印刷所・日本ビクターと共同出資で天然色写真を設立した。設立の目的は、カラー写真の利用と用途の開発だった。カラーフィルムの研究は1941年に始まり、1948年には量産できるようになった。同じ1946年8月には特別経理会社に指定され、戦時補償の打ち切りで約3,000万円の損失を受けた。損失は当時の資本金2,500万円を上回った。1948年2月には過度経済力集中排除法の指定も受けたが、1949年1月に解除された。同年3月に再建整備計画が認可され、特別経理会社の指定も解かれた。東京・大阪・名古屋の各証券取引所は1949年5月に再開した。1950年時点で、富士写真フイルムの上場市場は東京・大阪だった。カラーフィルムで輸入品との差を詰めることが、次の課題になったと思われる。

  • 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第125期(2021年3月期)【沿革】
    • [60]1946年4月、天然色写真㈱を設立した(現富士フイルムイメージングシステムズ)
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)2章「総合写真感光材料メーカーへの発展」
    • [61]天然色写真は1946年4月、カラー写真の利用とその用途開発を図る目的で、当社・光村原色版印刷所・日本ビクターの3社出資で設立された
    • [63]1946年8月に特別経理会社に指定され、戦時補償の打ち切りで約3,000万円の損失を受けた
    • [64]戦時補償打ち切りの損失約3,000万円は当時の資本金2,500万円を上回った
    • [65]1948年2月8日に過度経済力集中排除法の指定を受け、1949年1月21日に指定が解除された
    • [66]1949年3月1日に再建整備計画が認可され、特別経理会社の指定も解除された
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「富士写真フイルム」
    • [62]カラーフイルムは昭和16年から研究を開始し、戦争で一時中絶したが23年には量産化できるようになった
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)年表
    • [67]1949年5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所が再開した
  • 『株式会社年鑑』1950年版「富士写眞フイルム」
    • [68]1950年版の年鑑は上場市場を東京・大阪と記載した
参考文献[44]-[68]
  • 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第125期(2021年3月期)【沿革】
    • [44]1944年3月、陸軍造兵廠のすすめによって榎本光学精機製作所を傘下に収め、富士写真光機株式会社と改称した(有報沿革は「買収」)
    • [60]1946年4月、天然色写真㈱を設立した(現富士フイルムイメージングシステムズ)
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)1章「写真フィルムの国産化を目指して」
    • [45]1943年11月、淺野社長は健康上の理由で辞任し、後任社長に専務取締役春木榮が選任された
    • [47]戦時下で建物・設備の新設はほとんど不可能で技能者の養成もままならず、既存の光学機械メーカーを系列に入れて増産に対処する方針を決めた
    • [48]1942年1月に玉川光機の事業を継承し、1943年11月に東京時計製造を傘下に収めた
    • [50]当社専務取締役小林節太郎が富士写真光機の取締役社長を兼任した
    • [51]軍需会社法(1943年12月施行)により、1944年4月に軍需会社に指定された
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎
    • [46]昭和17年10月、軍から光学部門の大増産を要求された
    • [49]榎本光学精機製作所は蒲田・目黒・鵜ノ木・大宮などに工場を持ち、従業員1,900人で双眼鏡など主に光学兵器を作っていた
    • [53]戦時生産でふくれ上がった人員は勤労動員の臨時のものも含めて4,400人だった
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)2章「総合写真感光材料メーカーへの発展」
    • [52]終戦の翌月、9月半ばに全従業員を一斉に解雇した
    • [54]戦時中軍需会社に指定されていた当社に生産再開が認められるかどうか全くわからない状態だった
    • [55]全員解雇した従業員の中から選考のうえ、約4割に当たる1,492名を10月1日付で再採用した
    • [56]1945年10月、占領軍当局は民心安定のため映画の振興を奨励し、映画用フィルムの生産再開を指示した
    • [57]1945年10月1日の事業再開の日、春木社長は再出発にかける決意を述べ全従業員の協力を求めた
    • [58]足柄工場の生産は映画用フィルムの製造でスタートし、次いでX-レイフィルムの製造を再開した
    • [61]天然色写真は1946年4月、カラー写真の利用とその用途開発を図る目的で、当社・光村原色版印刷所・日本ビクターの3社出資で設立された
    • [63]1946年8月に特別経理会社に指定され、戦時補償の打ち切りで約3,000万円の損失を受けた
    • [64]戦時補償打ち切りの損失約3,000万円は当時の資本金2,500万円を上回った
    • [65]1948年2月8日に過度経済力集中排除法の指定を受け、1949年1月21日に指定が解除された
    • [66]1949年3月1日に再建整備計画が認可され、特別経理会社の指定も解除された
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「富士写真フイルム」
    • [59]戦災被害は軽微であったので、いち早く生産を回復した
    • [62]カラーフイルムは昭和16年から研究を開始し、戦争で一時中絶したが23年には量産化できるようになった
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)年表
    • [67]1949年5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所が再開した
  • 『株式会社年鑑』1950年版「富士写眞フイルム」
    • [68]1950年版の年鑑は上場市場を東京・大阪と記載した

出典・参考

8件
出典・参考
  • 富士フイルムホールディングス 有価証券報告書 第125期(2021年3月期)【沿革】
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)1章「写真フィルムの国産化を目指して」
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)2章「総合写真感光材料メーカーへの発展」
  • 富士写真フイルム『富士フイルム50年のあゆみ』(1984年)年表
  • 『株式会社年鑑』1950年版「富士写眞フイルム」
  • 『会社銀行八十年史』(1955年)「富士写真フイルム」
  • 読売新聞(1938年7月24日)
  • 日本経済新聞社『私の履歴書 経済人16』(1981年)小林節太郎

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