ダイセル:ダイセル化学工業への改称とダイセル・セイフティ・システムズの設立
昌谷忠の2割減員から酢酸・特殊樹脂の寡占へ
1966年〜三井銀行から迎えた社長による低収益体質の切開
1966年2月、商号を大日本セルロイドからダイセルへ改めた。1968年6月には、全額出資で切り離していた大日本化成を吸収合併し、その工場を大竹工場(広島県)とした。有機合成事業は、酢酸セルロースの原料である酢酸を自給する目的で生まれ、そこから拡大してきた。酢酸の製法は、1961年に石油化学の勃興を背景として、カーバイドから起こすアセチレン系を離れ、エチレンからアセトアルデヒドを経る石油系へ移り、さらにナフサの直接酸化法へ移った。1970年7月には西ドイツのヒュルス社との合弁でダイセル・ヒュルスを設立している。1974年3月期の部門別売上高は有機合成品が38.1%、セルロースおよびフィルターが27.3%、プラスチックスが21.5%を占め、社名の由来だったセルロイドの系統より酢酸の系統が大きくなっていた。
- ダイセル 有価証券報告書【沿革】
- [1]1966年2月 商号を大日本セルロイドからダイセルへ変更
- [2]1968年6月 大日本化成を吸収合併し、同社工場を大竹工場(広島県)とした
- [5]1970年7月 Huels AGとの合弁でダイセル・ヒュルスを設立
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
- [3]酢酸を中心とする有機合成事業は酢酸セルロースの原料酢酸の自給を目的として生まれ、拡大・成長してきた
- [6]昭和49年3月期の部門別売上高構成は有機合成品38.1%、セルロースおよびフィルター27.3%、プラスチックス21.5%、フィルム10.4%
- 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
- [4]昭和11年から酢酸の自家製造を開始、当初はカーバイドからアセチレン・アセトアルデヒドを経る製法。昭和36年に石油化学の勃興を背景としてエチレン法アセトアルデヒドへ転換し、さらにナフサ直接酸化法へ切り替えた
昌谷忠がダイセルの社長に就いたのは、2月末の株主総会においてである。その直前の1971年1月30日付で、専務を務めていた三井銀行を退いていた。就任を挟む決算は厳しく、合成グリセリン設備の稼働に伴う赤字が見込みを超えて膨らみ、1970年11月期は配当を出せなかった。続く1971年5月期も、売上高404億円に対して経常利益は4.7億円、当期純利益は0.3億円という水準だった。前任の山脇義勇は会長となっている。昌谷は1933年に東京帝国大学経済学部を卒業して三井銀行に入り、ニューヨーク支店長、大阪支店長を経て1969年5月に専務へ進んだ人物である。次期頭取の有力候補と目された専務が無配会社へ移ったことを、関係筋は格落ちも甚だしいと不審がったという。無配の根底にあったのは、その赤字を負担しうる収益力が会社に無かったことである。
- 月刊経済 1971年
- [7]三井銀行の昌谷忠専務が1971年1月30日付で退職し、2月末の株主総会でダイセル社長に就任。前任の山脇義勇社長は会長に就任
- [10]三井銀行の昌谷忠専務が1971年1月30日付で退職し、2月末の株主総会でダイセル社長に就任。前任の山脇義勇社長は会長に就任
- [12]「ポスト小山」の最右翼といわれた実力派が無配会社へ転出したことを、関係筋は「格落ちも甚しい」と不審がった
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
- [8]昭和45年11月期、予想以上に大きくなった合成グリセリンの操業時赤字によって無配となった
- [13]無配の根底には、赤字を負担しうる収益力が会社に無かったことがあると昌谷社長は述べた
- 会社年鑑(1976年版)
- [9]1971年5月期 売上高404億円・経常利益4.7億円・当期純利益0.3億円(単体)
- 新日本経済 1971年
- [11]昌谷忠は昭和8年に東京帝国大学経済学部を卒業して三井銀行に入行、ニューヨーク支店長・大阪支店長を経て昭和44年5月に専務就任
就任から半年のあいだに、昌谷は機構を改め、常務2人を退任させ、役員報酬を引き下げた。昌谷はその狙いを、『この場合額が問題ではなく精神的に我々がまっ先に会社の非常時に対処するという意欲を示すことが大切だと思います』と説明している。低収益の根は労務構成にあった。生産性も賃金も低かった時代の構成から出発したために人を多く使う経営となり、賃金が急に上がる局面で耐える力が乏しく、配当した年でも配当性向が高かった。1971年秋、労働組合と全従業員の理解を得て、800人、約2割に及ぶ人員の縮小を実施した。1973年3月期に8分で復配し、同年9月期には1割へ増配している。同期の経常利益は20億円まで戻った。設備ではなく人員を削減したのは、セルロイドという労働集約の事業で作られた体が、化学工業の賃金水準に合わなくなっていたからである。
- 新日本経済 1971年
- [14]昌谷社長は就任から半年で機構を改革し、常務2名を退任させ、役員報酬を引き下げた
- [15]昌谷社長は役員報酬の引き下げについて、額の多少ではなく非常時に経営陣がまっ先に対処する意欲を示すことが大切だと説明した
- [16]生産性も賃金も低かった時代の労務構成から出発したため人を多く使う経営となり、賃金上昇に耐える力が乏しく、配当した時代でも配当性向が非常に高い低収益体質にあった
- [17]生産性も賃金も低かった時代の労務構成から出発したため人を多く使う経営となり、賃金上昇に耐える力が乏しく、配当した時代でも配当性向が非常に高い低収益体質にあった
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
- [18]昭和46年秋、労働組合および全従業員の理解を得て800人・約2割に及ぶ人員の縮少を実施
- [19]昭和48年3月期に8分で復配、同年9月期に1割へ増配
- 会社年鑑(1976年版)
- [20]1973年3月期 経常利益20億円(単体・1972年6月〜1973年3月の変則決算)
参考文献[1]-[20]
- ダイセル 有価証券報告書【沿革】
- [1]1966年2月 商号を大日本セルロイドからダイセルへ変更
- [2]1968年6月 大日本化成を吸収合併し、同社工場を大竹工場(広島県)とした
- [5]1970年7月 Huels AGとの合弁でダイセル・ヒュルスを設立
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
- [3]酢酸を中心とする有機合成事業は酢酸セルロースの原料酢酸の自給を目的として生まれ、拡大・成長してきた
- [6]昭和49年3月期の部門別売上高構成は有機合成品38.1%、セルロースおよびフィルター27.3%、プラスチックス21.5%、フィルム10.4%
- [8]昭和45年11月期、予想以上に大きくなった合成グリセリンの操業時赤字によって無配となった
- [13]無配の根底には、赤字を負担しうる収益力が会社に無かったことがあると昌谷社長は述べた
- [18]昭和46年秋、労働組合および全従業員の理解を得て800人・約2割に及ぶ人員の縮少を実施
- [19]昭和48年3月期に8分で復配、同年9月期に1割へ増配
- 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
- [4]昭和11年から酢酸の自家製造を開始、当初はカーバイドからアセチレン・アセトアルデヒドを経る製法。昭和36年に石油化学の勃興を背景としてエチレン法アセトアルデヒドへ転換し、さらにナフサ直接酸化法へ切り替えた
- 月刊経済 1971年
- [7]三井銀行の昌谷忠専務が1971年1月30日付で退職し、2月末の株主総会でダイセル社長に就任。前任の山脇義勇社長は会長に就任
- [10]三井銀行の昌谷忠専務が1971年1月30日付で退職し、2月末の株主総会でダイセル社長に就任。前任の山脇義勇社長は会長に就任
- [12]「ポスト小山」の最右翼といわれた実力派が無配会社へ転出したことを、関係筋は「格落ちも甚しい」と不審がった
- 会社年鑑(1976年版)
- [9]1971年5月期 売上高404億円・経常利益4.7億円・当期純利益0.3億円(単体)
- [20]1973年3月期 経常利益20億円(単体・1972年6月〜1973年3月の変則決算)
- 新日本経済 1971年
- [11]昌谷忠は昭和8年に東京帝国大学経済学部を卒業して三井銀行に入行、ニューヨーク支店長・大阪支店長を経て昭和44年5月に専務就任
- [14]昌谷社長は就任から半年で機構を改革し、常務2名を退任させ、役員報酬を引き下げた
- [15]昌谷社長は役員報酬の引き下げについて、額の多少ではなく非常時に経営陣がまっ先に対処する意欲を示すことが大切だと説明した
- [16]生産性も賃金も低かった時代の労務構成から出発したため人を多く使う経営となり、賃金上昇に耐える力が乏しく、配当した時代でも配当性向が非常に高い低収益体質にあった
- [17]生産性も賃金も低かった時代の労務構成から出発したため人を多く使う経営となり、賃金上昇に耐える力が乏しく、配当した時代でも配当性向が非常に高い低収益体質にあった
1977年〜メタノール法への原料転換と、同業4社を巻き込んだ共同生産
1980年、酢酸の原料を石油系のエチレンとナフサから天然ガス系のメタノールへ切り替えた。石油を原料にも燃料にも使う日本の化学会社は、第1次・第2次の石油危機でエチレンとナフサの値が跳ね上がると国際的な競争力を失い、そろって赤字を出した。自家製の酢酸は、1936年に製造を始めた当初は石灰石から得るカーバイドを原料とし、1960年代に石油系へ移っていた。メタノール法への転換は以前から検討の対象だった。1974年時点の判断は、これを将来の酢酸製造の本流と見つつも、規模が最低で年10万トン単位になる以上、一気に量を増やせば業界を乱しかねず、設備費も高騰しているとして着手を見送るものだった。一方で米国のモンサント社とは数年前から接触しており、実施に移す用意はいつでもできていた。同社からの基礎技術の導入は、三菱瓦斯化学と組んで行った。
- 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
- [21]第1次・第2次石油ショックによるエチレン・ナフサ高騰のため酢酸の原料をメタノールに切り替え、昭和55年にメタノール法酢酸設備を完成
- 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
- [22]日本の化学会社の大部分は石油を原料とし大量の石油を燃料として使うため、第1次・第2次石油ショックによる原燃料価格の高騰で国際競争力を失い、需要減退・過当競争・採算悪化からほとんどの会社が赤字に陥った
- [23]昭和11年から酢酸の自社生産を開始、当初は石灰石(カーバイド)から製造し、30年代に原料を石油系(エチレン)へ切り替えた
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
- [24]昭和49年時点で昌谷社長は、メタノール法が将来の酢酸製造の主流になると考えられるが最低10万トン/年単位であり急激な増産は業界の混乱を招くおそれがあるとして保留していると述べ、数年前から米国モンサント社とコンタクトを持ち、いつでも実施できる準備をしていると説明した
- [25]昭和49年時点で昌谷社長は、メタノール法が将来の酢酸製造の主流になると考えられるが最低10万トン/年単位であり急激な増産は業界の混乱を招くおそれがあるとして保留していると述べ、数年前から米国モンサント社とコンタクトを持ち、いつでも実施できる準備をしていると説明した
- 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
- [26]メタノール法の基礎技術は米国モンサント社から三菱瓦斯化学と共同で導入し、自社独自の精製装置を付加した
メタノール法へ切り替える際、経済的なプラントの規模が年20万〜30万トンと自社の必要量を大きく超えたため、三菱瓦斯化学・電気化学・協和醗酵・チッソの4社へ呼びかけ、1977年7月に協同酢酸を設立した。出資比率はダイセルが54%で、製品は各社が比率に応じて分割して持ち帰る形とし、協同酢酸には利益が出ない仕組みにした。設備は網干第2工場として1978年6月から1980年1月にかけて総工事費170億円で建設され、一酸化炭素年産10万トン、水素7千トン、酢酸15万トンの規模を備えた。一酸化炭素とメタノールをロジウムなどの触媒で低温低圧のまま反応させる工程で、酢酸の収率は99%に達し、コストは在来法より20〜25%低くなる見込みだった。1981年6月の増強で年産22万5千トンとなり、国内の酢酸生産の約半分を占めた。
- ダイセル 有価証券報告書【沿革】
- [27]1977年7月 協同酢酸を三菱瓦斯化学・電気化学工業・協和醗酵工業・チッソとの合弁で設立
- 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
- [28]メタノール法への転換にあたり経済的・効率的なプラント規模が20万〜30万トンと大きいため、三菱瓦斯化学・電気化学・協和醗酵・チッソの4社を誘って昭和52年に協同酢酸を設立、ダイセルが54%を出資
- [29]メタノール法への転換にあたり経済的・効率的なプラント規模が20万〜30万トンと大きいため、三菱瓦斯化学・電気化学・協和醗酵・チッソの4社を誘って昭和52年に協同酢酸を設立、ダイセルが54%を出資
- 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
- [30]協同酢酸は網干工場に酢酸プラントを建設し、製品は各社が出資比率に応じて分割して持ち帰るため、協同酢酸には利益が出ない
- 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
- [31]網干第2工場は昭和53年6月から55年1月にかけて総工事費170億円で建設されたわが国初のメタノール法酢酸工場(一酸化炭素年産10万トン・水素7千トン・酢酸15万トン)。一酸化炭素とメタノールをロジウムなど触媒で比較的低温低圧で反応させ、酢酸の収率99%、コストは在来法比20〜25%低減の見込み
- [32]網干第2工場は昭和53年6月から55年1月にかけて総工事費170億円で建設されたわが国初のメタノール法酢酸工場(一酸化炭素年産10万トン・水素7千トン・酢酸15万トン)。一酸化炭素とメタノールをロジウムなど触媒で比較的低温低圧で反応させ、酢酸の収率99%、コストは在来法比20〜25%低減の見込み
- [33]昭和56年6月に年産能力22万5千トンへ増強、増設後はわが国の酢酸生産シェア約50%を占める
網干工場の酢酸セルロースは月産能力6,300トンで、単一工場としては世界最大の規模にあった。生産能力は年産8万8,800トン、国内シェアは85%で、米国のイーストマンとセラニーズに並ぶ世界3大メーカーの一つとなる。たばこフィルター用トウは1954年から日本専売公社と共同研究を進め、1957年初めに完成してショート・ホープ用を国内で初めて生産した。1984年には国産たばこの98%にフィルターが付き、その原料の100%がダイセル製だった。トウそのもののシェアは50%で、もう一社の三菱アセテートが使う酢酸セルロースも全量をダイセルが供給していた。1979年10月には商号をダイセル化学工業へ改めている。同業を1社残したまま、その原料の位置で優位を握る構造が出来上がっていた。
- 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
- [34]網干工場の酢酸セルロースは月産能力6,300トンで、単一工場としては世界最大の規模
- 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
- [35]酢酸セルロースは生産能力年産8万8,800トン、業界シェア85%で、米国のイーストマン・セラニーズと並ぶ世界3大メーカーの一つ
- [38]たばこフィルター用トウは年産2万1,600トンで業界シェア50%、同業の三菱アセテートが使う原料の酢酸セルロースは全量を自社が供給
- 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
- [36]たばこフィルター用トウは昭和29年から専売公社と共同研究し32年初めに完成、ショート・ホープ用をわが国で初めて生産。国産たばこの98%にフィルターが付き、その原料の100%が自社製品
- [37]たばこフィルター用トウは昭和29年から専売公社と共同研究し32年初めに完成、ショート・ホープ用をわが国で初めて生産。国産たばこの98%にフィルターが付き、その原料の100%が自社製品
- ダイセル 有価証券報告書【沿革】
- [39]1979年10月 商号をダイセル化学工業へ変更
参考文献[21]-[39]
- 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
- [21]第1次・第2次石油ショックによるエチレン・ナフサ高騰のため酢酸の原料をメタノールに切り替え、昭和55年にメタノール法酢酸設備を完成
- [28]メタノール法への転換にあたり経済的・効率的なプラント規模が20万〜30万トンと大きいため、三菱瓦斯化学・電気化学・協和醗酵・チッソの4社を誘って昭和52年に協同酢酸を設立、ダイセルが54%を出資
- [29]メタノール法への転換にあたり経済的・効率的なプラント規模が20万〜30万トンと大きいため、三菱瓦斯化学・電気化学・協和醗酵・チッソの4社を誘って昭和52年に協同酢酸を設立、ダイセルが54%を出資
- [35]酢酸セルロースは生産能力年産8万8,800トン、業界シェア85%で、米国のイーストマン・セラニーズと並ぶ世界3大メーカーの一つ
- [38]たばこフィルター用トウは年産2万1,600トンで業界シェア50%、同業の三菱アセテートが使う原料の酢酸セルロースは全量を自社が供給
- 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
- [22]日本の化学会社の大部分は石油を原料とし大量の石油を燃料として使うため、第1次・第2次石油ショックによる原燃料価格の高騰で国際競争力を失い、需要減退・過当競争・採算悪化からほとんどの会社が赤字に陥った
- [23]昭和11年から酢酸の自社生産を開始、当初は石灰石(カーバイド)から製造し、30年代に原料を石油系(エチレン)へ切り替えた
- [30]協同酢酸は網干工場に酢酸プラントを建設し、製品は各社が出資比率に応じて分割して持ち帰るため、協同酢酸には利益が出ない
- [36]たばこフィルター用トウは昭和29年から専売公社と共同研究し32年初めに完成、ショート・ホープ用をわが国で初めて生産。国産たばこの98%にフィルターが付き、その原料の100%が自社製品
- [37]たばこフィルター用トウは昭和29年から専売公社と共同研究し32年初めに完成、ショート・ホープ用をわが国で初めて生産。国産たばこの98%にフィルターが付き、その原料の100%が自社製品
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
- [24]昭和49年時点で昌谷社長は、メタノール法が将来の酢酸製造の主流になると考えられるが最低10万トン/年単位であり急激な増産は業界の混乱を招くおそれがあるとして保留していると述べ、数年前から米国モンサント社とコンタクトを持ち、いつでも実施できる準備をしていると説明した
- [25]昭和49年時点で昌谷社長は、メタノール法が将来の酢酸製造の主流になると考えられるが最低10万トン/年単位であり急激な増産は業界の混乱を招くおそれがあるとして保留していると述べ、数年前から米国モンサント社とコンタクトを持ち、いつでも実施できる準備をしていると説明した
- 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
- [26]メタノール法の基礎技術は米国モンサント社から三菱瓦斯化学と共同で導入し、自社独自の精製装置を付加した
- [31]網干第2工場は昭和53年6月から55年1月にかけて総工事費170億円で建設されたわが国初のメタノール法酢酸工場(一酸化炭素年産10万トン・水素7千トン・酢酸15万トン)。一酸化炭素とメタノールをロジウムなど触媒で比較的低温低圧で反応させ、酢酸の収率99%、コストは在来法比20〜25%低減の見込み
- [32]網干第2工場は昭和53年6月から55年1月にかけて総工事費170億円で建設されたわが国初のメタノール法酢酸工場(一酸化炭素年産10万トン・水素7千トン・酢酸15万トン)。一酸化炭素とメタノールをロジウムなど触媒で比較的低温低圧で反応させ、酢酸の収率99%、コストは在来法比20〜25%低減の見込み
- [33]昭和56年6月に年産能力22万5千トンへ増強、増設後はわが国の酢酸生産シェア約50%を占める
- [34]網干工場の酢酸セルロースは月産能力6,300トンで、単一工場としては世界最大の規模
- ダイセル 有価証券報告書【沿革】
- [27]1977年7月 協同酢酸を三菱瓦斯化学・電気化学工業・協和醗酵工業・チッソとの合弁で設立
- [39]1979年10月 商号をダイセル化学工業へ変更
1982年〜堺工場の事故と、参入3社以内という商品選別の基準
1982年8月21日、堺工場で大きな事故が起きた。被害を受けたAS樹脂・ABS樹脂部門は同業各社から融通を受けて販売する状態となり、隣接するたばこフィルター部門も約45日間操業が止まった。事故による営業損失は約5億円に達した。従業員6名が殉職し、その弔慰金や近隣の復旧にかかった費用など約10億円の特別償却と合わせて、損害は約15億円に上っている。フィルター部門は10月8日に再開してフル操業へ戻り、ABS樹脂は日本合成ゴムとの合弁形式で生産を続け、AS樹脂は堺以外の場所へ自前の設備を建てる計画とした。1983年3月期の売上高は1,543億円で前年度を17億円下回ったが、経常利益は65億円と8億円増えた。損害はその期のうちにすべて償却し、1割配当を継続している。
- 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
- [40]昭和57年8月21日 堺工場で大きな事故が発生
- [41]事故の被害を受けたAS樹脂・ABS樹脂部門は同業各社から融通を受けて販売、隣接するたばこフィルター部門も約45日間操業停止
- [42]事故による営業損失は約5億円、殉職者6名の弔慰金や近隣の復旧関係費など特別償却約10億円を合わせ損害は約15億円
- [43]事故による営業損失は約5億円、殉職者6名の弔慰金や近隣の復旧関係費など特別償却約10億円を合わせ損害は約15億円
- [44]フィルター部門は10月8日に再開しフル操業、ABS樹脂は日本合成ゴムと合弁形式で生産、AS樹脂は堺以外の場所に自前の設備を建設する計画
- [46]事故による経済的損害は昭和57年度ですべて償却し、当期利益30億5,100万円で1割配当を継続
- 会社年鑑(1976年版)
- [45]1983年3月期 売上高1,543億円(前年度比17億円減)・経常利益65億円(前年度比8億円増)
久保田美文社長は、投資する商品を3つの条件で選り分けた。参入して作り手が3社以上になる商品はやらないこと、年間売上高が100〜200億円の商品より30億円以下の商品群を選ぶこと、粗利益率が30%以上でなければ投資しないことの3つである。久保田はこの基準を『ホームランよりもヒットを狙え。小さな事業でヒットを打てないような者にホームランを打てるわけがない』と言い換えて従業員へ伝えた。化学業界が構造改善期に入って方向転換を迫られるなか、素材型から機能型へを掲げ、成長産業向けの新規素材へ資源を寄せた。1982年度の有機ファイン製品は96品目のうち独占商品が38品目で売上高56億円、シェア第1位が36品目で72億円を上げた。1971年度比で品目数は3倍、売上高は49億円から182億円へ増えている。スペシャリティ製品が売上高に占める比率は63.7%となり、1986年には独占・寡占製品群が全売上高の65%を占めた。
- 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
- [47]久保田美文社長は新規商品の基本として、自社が参画することで3社以上になる商品はやらない/年間売上高100〜200億円の商品より30億円以下の商品群が好ましい/粗利益率30%以上の商品でないと投資しない、の3点を挙げた
- [48]久保田美文社長は新規商品の基本として、自社が参画することで3社以上になる商品はやらない/年間売上高100〜200億円の商品より30億円以下の商品群が好ましい/粗利益率30%以上の商品でないと投資しない、の3点を挙げた
- [49]久保田社長は従業員に対し「ホームランよりもヒットを狙え」と説いていた
- [50]化学業界が大きな構造改善期に直面するなか、「素材型から機能型へ」をスローガンに技術立社・ハイテクノロジーを掲げ、先端技術・成長産業分野に焦点を合わせた新規高機能素材・商品の開発強化に徹する方針を採った
- [51]昭和57年度の有機ファイン製品96品目のうち独占商品38品目・売上高56億円、シェア第1位商品36品目・72億円。46年度比で品目数は32から96へ、売上高は49億円から182億円へ増加
- [52]昭和57年度の有機ファイン製品96品目のうち独占商品38品目・売上高56億円、シェア第1位商品36品目・72億円。46年度比で品目数は32から96へ、売上高は49億円から182億円へ増加
- [53]スペシャリティ製品の売上高に占める比率は全体で63.7%
- 投資月報 1986年「企業研究 ダイセル化学工業」
- [54]付加価値の高い独占・寡占製品群のウェイトが全売上高の65%を占める
高度成長期に化学各社の多くが汎用樹脂を選んだのに対し、ダイセルは特殊樹脂の路線をとった。その中核をなすポリプラスチックスは、国内のポリアセタール樹脂市場の75%を押さえていた。原料がメタノールなので、石油の値上がりに振り回されにくかった。同社はダイセルと米国のセラニーズ社の合弁として1964年に生まれ、出資はダイセル55%、セラニーズ45%で、工場を静岡県富士市に構えた。売り込みに立つ人員はおおむね技術者だった。需要家と組んで作業を進めたのは、企画や設計に取りかかる時点からである。1984年9月期の同社の数字は売上高400億円、経常利益90億円で、同年度の親会社の見込み(売上高1,800億円、経常利益97億円)と利益ではほぼ肩を並べた。ダイセル・セイフティ・システムズの設立は1988年10月である。作り手の少ない製品を選ぶという基準は、樹脂の外側にも当てられていた。
- 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
- [55]高度成長時代に化学会社の多くが汎用樹脂路線を選んだのに対し、当社は特殊樹脂路線をとった
- [56]ポリアセタール樹脂はメタノールを原料とする合成樹脂のため石油価格高騰の影響を受けず、国内市場の75%を占める
- [57]ポリプラスチックスは昭和39年に米国セラニーズ社との合弁で設立、出資比率は当社55%・セラニーズ45%、工場は静岡県富士市
- [58]ポリプラスチックスのセールスマンはほとんどが技術者で、企画・設計の段階から需要家と一緒に作業する
- [59]ポリプラスチックスの昭和59年9月期は売上高400億円・経常利益90億円。親会社は昭和59年度に売上高1,800億円・経常利益97億円を見込む
- ダイセル 有価証券報告書【沿革】
- [60]1988年10月 ダイセル・セイフティ・システムズを設立
参考文献[40]-[60]
- 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
- [40]昭和57年8月21日 堺工場で大きな事故が発生
- [41]事故の被害を受けたAS樹脂・ABS樹脂部門は同業各社から融通を受けて販売、隣接するたばこフィルター部門も約45日間操業停止
- [42]事故による営業損失は約5億円、殉職者6名の弔慰金や近隣の復旧関係費など特別償却約10億円を合わせ損害は約15億円
- [43]事故による営業損失は約5億円、殉職者6名の弔慰金や近隣の復旧関係費など特別償却約10億円を合わせ損害は約15億円
- [44]フィルター部門は10月8日に再開しフル操業、ABS樹脂は日本合成ゴムと合弁形式で生産、AS樹脂は堺以外の場所に自前の設備を建設する計画
- [46]事故による経済的損害は昭和57年度ですべて償却し、当期利益30億5,100万円で1割配当を継続
- [47]久保田美文社長は新規商品の基本として、自社が参画することで3社以上になる商品はやらない/年間売上高100〜200億円の商品より30億円以下の商品群が好ましい/粗利益率30%以上の商品でないと投資しない、の3点を挙げた
- [48]久保田美文社長は新規商品の基本として、自社が参画することで3社以上になる商品はやらない/年間売上高100〜200億円の商品より30億円以下の商品群が好ましい/粗利益率30%以上の商品でないと投資しない、の3点を挙げた
- [49]久保田社長は従業員に対し「ホームランよりもヒットを狙え」と説いていた
- [50]化学業界が大きな構造改善期に直面するなか、「素材型から機能型へ」をスローガンに技術立社・ハイテクノロジーを掲げ、先端技術・成長産業分野に焦点を合わせた新規高機能素材・商品の開発強化に徹する方針を採った
- [51]昭和57年度の有機ファイン製品96品目のうち独占商品38品目・売上高56億円、シェア第1位商品36品目・72億円。46年度比で品目数は32から96へ、売上高は49億円から182億円へ増加
- [52]昭和57年度の有機ファイン製品96品目のうち独占商品38品目・売上高56億円、シェア第1位商品36品目・72億円。46年度比で品目数は32から96へ、売上高は49億円から182億円へ増加
- [53]スペシャリティ製品の売上高に占める比率は全体で63.7%
- 会社年鑑(1976年版)
- [45]1983年3月期 売上高1,543億円(前年度比17億円減)・経常利益65億円(前年度比8億円増)
- 投資月報 1986年「企業研究 ダイセル化学工業」
- [54]付加価値の高い独占・寡占製品群のウェイトが全売上高の65%を占める
- 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
- [55]高度成長時代に化学会社の多くが汎用樹脂路線を選んだのに対し、当社は特殊樹脂路線をとった
- [56]ポリアセタール樹脂はメタノールを原料とする合成樹脂のため石油価格高騰の影響を受けず、国内市場の75%を占める
- [57]ポリプラスチックスは昭和39年に米国セラニーズ社との合弁で設立、出資比率は当社55%・セラニーズ45%、工場は静岡県富士市
- [58]ポリプラスチックスのセールスマンはほとんどが技術者で、企画・設計の段階から需要家と一緒に作業する
- [59]ポリプラスチックスの昭和59年9月期は売上高400億円・経常利益90億円。親会社は昭和59年度に売上高1,800億円・経常利益97億円を見込む
- ダイセル 有価証券報告書【沿革】
- [60]1988年10月 ダイセル・セイフティ・システムズを設立
筆者考察
ダイセルの1970年代は、作るものを増やした時期ではなく、誰と作るかを決め直した時期だった。無配に落ちた1970年11月期の直後に三井銀行から来た昌谷忠がまず削ったのは設備ではなく人で、800人という約2割の縮小が1973年3月期の復配を用意した。次に手を付けたのが酢酸の原料である。石油危機でエチレンとナフサが高騰したとき、メタノール法への転換に要るプラントは年20万〜30万トンと自社の必要量を超えていた。そこで三菱瓦斯化学など4社を誘って協同酢酸を作り、利益の出ない生産会社に量だけを担わせ、製品は出資比率で分けて持ち帰らせた。規模の要る工程は共同で持ち、売る場面では競うという分け方である。
1980年代の久保田美文は、その分け方を商品の選別にまで広げた。参入して3社以上になるものはやらない、年商は30億円以下でよい、粗利益率30%を下回るなら投資しない。大きい市場を避けるこの基準は、数量で譲る代わりに値決めで譲らない場所を選ぶという宣言でもあった。酢酸セルロースで国内シェア85%、たばこフィルター用トウで50%を持ちながら、残る三菱アセテートの原料までを供給する形もその延長にある。汎用樹脂を採らずに残した特殊樹脂は、1984年9月期に売上高400億円・経常利益90億円を上げるポリプラスチックスとなり、売上高1,800億円の親会社の利益に並んだ。
1966年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年05月期 | 単体 | 404 | n/a | n/a | 4 | 1.2% | 0 | n/a |
| 1972年05月期 | 単体 | 452 | +11.9% | n/a | 14 | 3.3% | 0 | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 414 | ▲8.4% | n/a | 20 | 4.8% | 7 | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 638 | +54.1% | n/a | 46 | 7.2% | 17 | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 768 | +20.4% | n/a | 43 | 5.6% | 18 | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 843 | +9.8% | n/a | 15 | 1.8% | 14 | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 1,001 | +18.7% | n/a | 28 | 2.8% | 15 | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 1,010 | +0.9% | n/a | 26 | 2.6% | 15 | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 977 | ▲3.3% | 63 | 38 | 3.9% | 18 | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 1,252 | +28.1% | 109 | 78 | 6.2% | 39 | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 1,441 | +15.1% | n/a | 38 | 2.6% | 27 | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 1,561 | +8.3% | n/a | 57 | 3.7% | 28 | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 1,543 | ▲1.2% | n/a | 65 | 4.2% | 31 | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 1,650 | +6.9% | n/a | 75 | 4.5% | 41 | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 1,721 | +4.3% | n/a | 101 | 5.9% | 49 | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑、会社年鑑(1976年版)変則10ヶ月合算
出典・参考
9件
- ダイセル 有価証券報告書【沿革】
- 会社年鑑(1976年版)
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
- 証券アナリストジャーナル 1983年21巻8号
- 証券アナリストジャーナル 1984年22巻10号
- 月刊経済 1971年
- 新日本経済 1971年
- 証券調査 1981年「工場見学記 ダイセル化学工業網干工場」
- 投資月報 1986年「企業研究 ダイセル化学工業」