第1章 年〜年

ダイセル:大日本セルロイドの創立と網干工場での酢酸セルロース事業

1919年〜セルロイド業界の合同事業として創立

網干工場の源流は三菱が出資した日本セルロイド人造絹糸株式会社、堺工場の源流は三井が出資した堺セルロイドである。両社はともに1908年に生まれた。原料を国内で得やすく、輸出でも見込みがあるという点が、セルロイドに目を向けさせた。網干側を起こしたのは鈴木商店の金子直吉で、人絹に将来性を見ていた。そのためセルロイドをつくる傍ら、硝化綿を使う人絹の研究も進めさせたものの、事業化までは届かなかった。1914年に欧州大戦が始まると輸出向けのセルロイドは好況に沸き、同じ時期に6社が新たに加わった。これら8社がまとまって大日本セルロイド株式会社となったのが1919年9月で、資本金は1,250万円だった。9月8日の創立総会は大阪ホテルが会場となり、本社には大阪府堺市が選ばれた。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
    • [1]堺セルロイドは三井の出資、日本セルロイド人造絹糸は三菱の出資により明治41年に設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]1908年 堺セルロイドと日本セルロイド人造絹糸㈱が設立(前者が堺工場、後者が網干工場の前身)
    • [4]1914年欧州大戦勃発でセルロイドが輸出品として活況を呈し、さらに6社が生まれた(合併前の8社の母体)
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
    • [3]鈴木商店の金子直吉が人絹を有望とみて網干に日本セルロイド人造絹絲を設立、硝化綿式人絹は工業化に至らず
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1919年9月 大日本セルロイド株式会社が創立
    • [6]創立時資本金は1,250万円
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [7]大正8年9月8日 大阪ホテルで創立総会を開催、本社所在地は大阪府堺市七道字松西30番地

合同は業界が自ら選んだ道というより、追い込まれた末の決着だった。第1次大戦の終結で世界的にセルロイド需要が減る一方、大戦前は堺・網干の2社で月産8〜9万ポンドだった国内生産は後発各社を加えて35万〜40万ポンドに膨らんでおり、供給過剰から販売競争が激化して業界は疲弊していた。堺セルロイド専務の森田茂吉が台湾総督府専売局長に相談したところ、専売局は有力各社が一社に統合されるなら原料樟脳を一手に供給すると決め、これが合同を動かす決定打となる。交渉は合同比率と幹部の人選で難航し、比率は堺48%・日本セルロイド人造絹糸21%・大阪繊維工業16%・東京セルロイド7%・残る4社が計8%、社長は三井側が推す森田で決着した。

  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [8]第1次大戦後の反動不況で供給過剰となり販売競争が激化、生産量は大戦前の2社月産8〜9万ポンドから35〜40万ポンドへ膨張していた
    • [9]堺セルロイド専務・森田茂吉の相談を受けた台湾総督府専売局が、有力各社の一社統合を条件に原料樟脳の一手供給を決定
    • [10]合同比率と幹部人選で難航し、比率は堺48%・日本セルロイド人造絹糸21%・大阪繊維工業16%・東京セルロイド7%・他4社計8%、社長は三井側推薦の森田茂吉

新会社は発足するや事業場の整理に迫られた。設備が劣り生産原価の高い工場を切る方針で、三国は一時閉鎖、能登屋と十河は生地製造をしない条件で加工場専業として売り戻し、東洋の工場も売却して、堺・網干・神崎・東京の4工場で操業を開始する。1920年9月と1921年2月の二度にわたって従業員280名を解雇し、常勤取締役は報酬を半分に、他の取締役と監査役は無報酬とした。従業員も2年間は昇給も賞与もなしとされた。こうした措置は、翌1920年の戦後恐慌で神崎・網干・東京の3工場を次々に閉じ、どうにか動き続けたのが堺工場だけという事態を受けたものである。250万円の損失金を抱えた同社は1921年12月の株主総会で資本金を1,000万円に減らし、これを境にその後の社業は順調に伸びた。

  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [11]合同8社の買収完了後ただちに事業場を整理し、三国は一時閉鎖・能登屋と十河は加工場専業として売り戻し・東洋は売却、堺/網干/神崎/東京の4工場で操業開始
    • [12]大正9年9月と10年2月の2回で従業員280名を解雇、常勤取締役の報酬を半減し他の役員は無報酬、従業員は2年間無昇給・無賞与
    • [13]大正9年7月に神崎工場、9月に網干・東京の両工場を閉鎖し、堺工場のみ運転を継続
    • [14]損失金250万円を抱え、大正10年12月の株主総会で資本金1,250万円を1,000万円へ減資
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [15]1922年 発足時の不況により資本金を1,000万円へ減資、以後順調に社業発展
参考文献[1]-[15]
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
    • [1]堺セルロイドは三井の出資、日本セルロイド人造絹糸は三菱の出資により明治41年に設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]1908年 堺セルロイドと日本セルロイド人造絹糸㈱が設立(前者が堺工場、後者が網干工場の前身)
    • [4]1914年欧州大戦勃発でセルロイドが輸出品として活況を呈し、さらに6社が生まれた(合併前の8社の母体)
    • [15]1922年 発足時の不況により資本金を1,000万円へ減資、以後順調に社業発展
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
    • [3]鈴木商店の金子直吉が人絹を有望とみて網干に日本セルロイド人造絹絲を設立、硝化綿式人絹は工業化に至らず
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1919年9月 大日本セルロイド株式会社が創立
    • [6]創立時資本金は1,250万円
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [7]大正8年9月8日 大阪ホテルで創立総会を開催、本社所在地は大阪府堺市七道字松西30番地
    • [8]第1次大戦後の反動不況で供給過剰となり販売競争が激化、生産量は大戦前の2社月産8〜9万ポンドから35〜40万ポンドへ膨張していた
    • [9]堺セルロイド専務・森田茂吉の相談を受けた台湾総督府専売局が、有力各社の一社統合を条件に原料樟脳の一手供給を決定
    • [10]合同比率と幹部人選で難航し、比率は堺48%・日本セルロイド人造絹糸21%・大阪繊維工業16%・東京セルロイド7%・他4社計8%、社長は三井側推薦の森田茂吉
    • [11]合同8社の買収完了後ただちに事業場を整理し、三国は一時閉鎖・能登屋と十河は加工場専業として売り戻し・東洋は売却、堺/網干/神崎/東京の4工場で操業開始
    • [12]大正9年9月と10年2月の2回で従業員280名を解雇、常勤取締役の報酬を半減し他の役員は無報酬、従業員は2年間無昇給・無賞与
    • [13]大正9年7月に神崎工場、9月に網干・東京の両工場を閉鎖し、堺工場のみ運転を継続
    • [14]損失金250万円を抱え、大正10年12月の株主総会で資本金1,250万円を1,000万円へ減資

1929年〜セルロイド生地世界一と繊維素化学への展開

1929年に始めたラクトロイドと石炭酸系樹脂の製造は、国内のプラスチック工業の先駆けとなった。昭和期の同社は、セルロイドの原料となる硝化綿で培った技術を土台にセルロース事業を広げていた。包装材料にも参入し、1932年6月には兵庫県の神崎工場でセロハンの生産に入り、1934年1月には写真フィルム部を切り離して富士写真フイルム株式会社(現富士フイルムホールディングス)を設けている。1935年9月には新井工場(新潟県)で有機合成事業を開始し、セルロース系から有機合成系への事業拡張を始めた。当時の有機合成はアセテート繊維の原料を自給するための原料源確保にとどまり、主力事業と呼べる位置にはなかった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1929年 ラクトロイドと石炭酸系樹脂の製造を開始し、わが国プラスチック工業の草分けとなる
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1932年6月 神崎工場(兵庫県)でセロハンの製造を開始
    • [18]1934年1月 写真フィルム部を分離し富士写真フイルム㈱(現富士フイルムホールディングス)を設立
    • [19]1935年9月 新井工場(新潟県)で有機合成事業を開始
  • 日本経済新報 1962年
    • [20]戦前の有機合成事業はアセテート繊維の原料を自給自足する目的で、原料源を確保する域を出なかった

1930年代半ば、同社のセルロイド生地は品質でも製造量でも世界一となり、40数カ国へ輸出されるに至った。1921年、同社は粗製乱売を防ぐ狙いで全国の主要業者20社と共同販売所を設けており、のちに政府が定めた「工業組合法」はこの自主的な統制を手本に骨格が組まれたと自社史は記す。販売の基盤はその流れを受け継いで育ち、代理店や加工業者との結びつきは親子に近い関係にまで深まった。東京の寺島界わいと大阪の今里界わいは「ダイセル村」と呼ばれ、約800軒の代理店・加工業者が「ダイセルファミリー」として根づいた。1937〜38年ごろには同社が国内セルロイド生産量の8割を握り、日本の生産量は世界の43%に及んでいた。

  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [21]品質・製造量ともに世界一となり世界40数カ国へ輸出、技術重視の経営方針が社風として定着
    • [22]大正10年12月に全国の主な業者20社で共同販売所を設立、この自治統制の方式が後年の工業組合法の骨子のモデルとなった
    • [23]東京の寺島界わい・大阪の今里界わいが「ダイセル村」と呼ばれ、約800軒の代理店・加工業者が「ダイセルファミリー」として定着
  • 日本経済新報 1962年
    • [24]昭和12〜13年ごろ国内セルロイド生産量の8割を占め、当時の日本の生産量は世界の43%を占有

創立の翌年から続けてきた国産ロールフィルムの研究は1934年に工業化へ至り、写真フィルム部はその年に富士写真フイルムとして独立した。ただ、分離が決まるまでには社内に異論があった。10数年かけてきた成果を社内で結実させたいとの声は根強かったが、すでに完成の域にあるセルロイドに比べ、写真フィルムは最先端の精緻な化学工業に属し、造り方も売り方も別の手法を要すると判断されて、1933年11月に別会社の設立が決まった。同じ1933年に着手が決まった酢酸綿では、原料の酢酸をカーバイドから一貫して造って自前でまかない、関連する薬品の開発も併せて進める方針を定めた。自社史はこれを有機合成事業の起源と位置づける。

  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [25]昌谷忠社長は、創立の翌年から国産ロールフィルムの研究を開始し昭和9年に工業化、写真フィルム部を独立させたのが富士写真フイルムだと述べた
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [26]昭和8年11月 写真フィルム事業の分離を決定。自社内運営論も強かったが、セルロイドとは異なる取り組みが必要との判断で別会社設立
    • [27]昭和8年に酢酸綿事業への着手を決定、原料の酢酸をカーバイドからの一貫製造で自給する大方針が有機合成事業の起源
参考文献[16]-[27]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [16]1929年 ラクトロイドと石炭酸系樹脂の製造を開始し、わが国プラスチック工業の草分けとなる
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1932年6月 神崎工場(兵庫県)でセロハンの製造を開始
    • [18]1934年1月 写真フィルム部を分離し富士写真フイルム㈱(現富士フイルムホールディングス)を設立
    • [19]1935年9月 新井工場(新潟県)で有機合成事業を開始
  • 日本経済新報 1962年
    • [20]戦前の有機合成事業はアセテート繊維の原料を自給自足する目的で、原料源を確保する域を出なかった
    • [24]昭和12〜13年ごろ国内セルロイド生産量の8割を占め、当時の日本の生産量は世界の43%を占有
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
    • [21]品質・製造量ともに世界一となり世界40数カ国へ輸出、技術重視の経営方針が社風として定着
    • [22]大正10年12月に全国の主な業者20社で共同販売所を設立、この自治統制の方式が後年の工業組合法の骨子のモデルとなった
    • [23]東京の寺島界わい・大阪の今里界わいが「ダイセル村」と呼ばれ、約800軒の代理店・加工業者が「ダイセルファミリー」として定着
    • [26]昭和8年11月 写真フィルム事業の分離を決定。自社内運営論も強かったが、セルロイドとは異なる取り組みが必要との判断で別会社設立
    • [27]昭和8年に酢酸綿事業への着手を決定、原料の酢酸をカーバイドからの一貫製造で自給する大方針が有機合成事業の起源
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
    • [25]昌谷忠社長は、創立の翌年から国産ロールフィルムの研究を開始し昭和9年に工業化、写真フィルム部を独立させたのが富士写真フイルムだと述べた

1948年〜戦後復興期の上場と有機合成系への本格進出

空襲と敗戦で多大の被害をこうむった同社は、1948年にアセテート繊維事業の企業化を中心に復興を進めた。アセテートは原料の醋酸やアセトンの生産が遅れて戦前は工業化に至らず、戦後になって帝国人造絹絲・大日本セルロイド・新日本窒素肥料・三菱レイヨンが相次いで乗り出した分野である。1949年5月、東京証券取引所(現株式会社東京証券取引所)に上場した。1951年6月に網干工場(兵庫県、現姫路製造所網干工場)で酢酸セルロース事業を開始、1954年1月に播磨工場(兵庫県)設置で発射薬の製造を開始した。発射薬づくりは後にエアバッグインフレータ事業を支える火薬技術につながり、戦後民需転換の中で蓄積された技術資産が数十年後に自動車安全部品の中核事業へとつながった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [28]1948年 空襲と敗戦の被害から、アセテート繊維事業の企業化を中心に復興を進めた
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
    • [29]アセテート・レーヨンは原料の醋酸・アセトン等の生産が遅れ戦前は工業化に至らず、戦後に帝国人造絹絲・大日本セルロイド・新日本窒素肥料・三菱レイヨンが参入
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [31]1951年6月 網干工場(現姫路製造所網干工場)で酢酸セルロース事業を開始
    • [32]1954年1月 播磨工場(兵庫県)設置で発射薬の製造を開始

1956年には大日本プラスチック株式会社を設立して樹脂事業を拡張した。1958年8月には堺工場(大阪府、2008年3月廃止)でアセテート・トウの製造を開始。その製造技術は1961年9月に米イーストマン・コダック社と結んだ技術契約によるもので、たばこフィルター用トウは当時から独占生産品だった。もっとも酢酸繊維素の大口需要家だった帝人が自給体制を構築し、1961年5月に販売が打ち切られてもいる。1961年1月に大日本化成株式会社を設立して石油系有機合成事業へ進出し、1964年5月には米国 Celanese Corporation との合弁会社ポリプラスチックス株式会社を設立して、工業用プラスチック"ジュラコン"を製造した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [33]1956年 大日本プラスチック株式会社を設立し樹脂事業を拡張
    • [39]ポリプラスチックスは米国セラニーズ社との合弁で工業用プラスチック「ジュラコン」を製造
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1958年8月 堺工場(大阪府、2008年3月廃止)でアセテート・トウの製造を開始
    • [37]1961年1月 大日本化成株式会社を設立し石油系有機合成事業へ進出
    • [38]1964年5月 米国Celanese Corporationとの合弁会社ポリプラスチックス株式会社を設立
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
    • [35]昭和36年9月 米イーストマン・コダック社と煙草フィルター用トウの製造に関し技術契約、フィルター用トウは独占生産品
  • 日本経済新報 1962年
    • [36]酢酸繊維素の大きな得意先であった帝人が自給体制をつくり、昭和36年5月から販売が打ち切られた

石油化学への進出は、既存の原料系統が行き詰まった末の判断だった。酢酸原料を自給するため石灰石とカーバイドを手がけアセチレン系有機合成へ伸びてきたが、カーバイドの品不足と電力コストの上昇で増産に限界が見え始めていた。1961年1月16日に創立総会を開いた大日本化成は全額出資の別会社とされ、西独ヘキスト社から技術導入したエチレン法アセトアルデヒドを三井石油化学から年2万4,000トン受給し、岩国に隣接する広島県大竹市に第一期22億円で建設された。別会社形式をとったのは原料源をカーバイド系から石油化学系へ転換する際のリスクを切り離すためで、増資を重ねて将来は本体が吸収合併する見込みだと当時から報じられている。1968年6月の合併はこの筋書き通りの帰結である。

  • 野田経済 1961年2月27日号
    • [40]カーバイドの品不足と電力コスト上昇で有機合成品の増産に限界が見え、石油化学・天然ガスへの原料源転換が表面化した
    • [41]昭和36年1月16日創立総会、資本金5億円の大日本化成として発足。西独ヘキスト社から技術導入したエチレン法アセトアルデヒドを三井石油化学から年2万4,000トン受給し、広島県大竹市に第一期22億円で建設
    • [42]全額出資の別会社としたのはカーバイド系から石油化学系へ原料源を転換するリスクを考えたためで、増資を重ね将来は大セルが吸収合併する見込みと報じられた
参考文献[28]-[42]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [28]1948年 空襲と敗戦の被害から、アセテート繊維事業の企業化を中心に復興を進めた
    • [33]1956年 大日本プラスチック株式会社を設立し樹脂事業を拡張
    • [39]ポリプラスチックスは米国セラニーズ社との合弁で工業用プラスチック「ジュラコン」を製造
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
    • [29]アセテート・レーヨンは原料の醋酸・アセトン等の生産が遅れ戦前は工業化に至らず、戦後に帝国人造絹絲・大日本セルロイド・新日本窒素肥料・三菱レイヨンが参入
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [31]1951年6月 網干工場(現姫路製造所網干工場)で酢酸セルロース事業を開始
    • [32]1954年1月 播磨工場(兵庫県)設置で発射薬の製造を開始
    • [34]1958年8月 堺工場(大阪府、2008年3月廃止)でアセテート・トウの製造を開始
    • [37]1961年1月 大日本化成株式会社を設立し石油系有機合成事業へ進出
    • [38]1964年5月 米国Celanese Corporationとの合弁会社ポリプラスチックス株式会社を設立
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
    • [35]昭和36年9月 米イーストマン・コダック社と煙草フィルター用トウの製造に関し技術契約、フィルター用トウは独占生産品
  • 日本経済新報 1962年
    • [36]酢酸繊維素の大きな得意先であった帝人が自給体制をつくり、昭和36年5月から販売が打ち切られた
  • 野田経済 1961年2月27日号
    • [40]カーバイドの品不足と電力コスト上昇で有機合成品の増産に限界が見え、石油化学・天然ガスへの原料源転換が表面化した
    • [41]昭和36年1月16日創立総会、資本金5億円の大日本化成として発足。西独ヘキスト社から技術導入したエチレン法アセトアルデヒドを三井石油化学から年2万4,000トン受給し、広島県大竹市に第一期22億円で建設
    • [42]全額出資の別会社としたのはカーバイド系から石油化学系へ原料源を転換するリスクを考えたためで、増資を重ね将来は大セルが吸収合併する見込みと報じられた

筆者考察

大日本セルロイドの創立は、業界が自ら選んだ統合ではなかった。第1次大戦後の反動不況で、大戦前は堺・網干の2社で月産8〜9万ポンドだった国内生産が後発を加えて35万〜40万ポンドまで膨らみ、売り競争で各社が疲弊したところへ、台湾総督府専売局が原料樟脳の一手供給を統合の条件として示した。原料の蛇口を握る側が合同の形を決めたのであり、堺48%という比率も三井が推した森田茂吉という社長の人選も、その枠の中で決まっている。発足の翌年には4工場のうち3工場を閉じ、280名を解雇し、資本金を1,250万円から1,000万円へ落とした。合同で得たはずの規模は、発足から2年のうちにいったん失われている。

この会社が積み上げたのは工場ではなく、セルロースを化学的に扱う技術だった。硝酸で処理すればセルロイドと写真フィルムになり、酢酸で処理すれば燃えないフィルムとアセテート繊維になり、苛性ソーダで溶かせばセロハンになる。1934年に切り離した写真フィルム部が富士写真フイルムとして育ったのも、1951年に網干で始めた酢酸セルロースが後の主力になったのも、同じ幹から出た枝である。そして原料の酢酸を自給しようという1933年の判断が有機合成へ広がり、カーバイドの品不足に行き当たった末、1961年の大日本化成設立で石油化学へ届いた。処理に使う薬品を替えるたびに、扱える市場が一つずつ増えていったのである。

出典・参考

8件
出典・参考
  • ダイセル 有価証券報告書【沿革】
  • ダイセル化学工業『ダイセル化学工業60年史』(1981年)
  • 東洋経済新報社編『会社銀行八十年史』(1955年)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「大日本セルロイド」
  • 証券アナリストジャーナル 1974年12巻9号
  • 野田経済 1961年2月27日号
  • 日本経済新報 1962年

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