第2章 年〜年

江崎グリコ:アイスクリーム・カレーへの多角化と事業部制の廃止

1954年〜栄養菓子から食品市場への品目拡大と、多品種による原資の分散

1954年4月に資本金を1億2000万円、1956年4月に1億8000万円へ引き上げたころ、江崎グリコが持つ菓子はグリコとビスコの2つに限られていた。1952年5月には株式会社江崎グリコ栄養実験所を合併し、1953年には佐賀市上多布施町へ九州工場を新設して、生産の拠点を大阪・東京・九州の3か所へ広げた。次の収益源に選んだのはアーモンドで、アーモンドグリコとアーモンドチョコレートを売り出すと、売上高は1955年からの3年間で3倍に伸びた。1957年9月期の売上高は17億2743万円、当期純利益は8669万円、従業員は1623人だった。1958年1月、商号をグリコから江崎グリコへ改めた。

  • 株式会社年鑑 1958年版「江崎グリコ」の項
    • [1]1954年4月 資本金1億2000万円へ増資、1956年4月 1億8000万円へ増資
    • [2]1952年5月 株式会社江崎グリコ栄養実験所を吸収合併
    • [5]1957年9月期 売上高17億2743万円・当期純利益8669万円・従業員1623人
    • [6]1958年1月 商号をグリコから江崎グリコへ変更
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「江崎グリコ」の項
    • [3]1953年 佐賀市上多布施町に九州工場を新設
  • 創意工夫 江崎グリコ70年史(江崎グリコ、1992年)
    • [4]アーモンドグリコ・アーモンドチョコレートの発売により1955年から3年で売上高が3倍

売上を3年で3倍に伸ばしてきた江崎グリコにとって、キャラメル・ビスケット・チョコレートを掘り下げるだけではその勢いを維持できないというのが社内の見立てだった。そこで1958年10月の新製品開発促進会議は、菓子にとどまらず、より規模の大きい食品の分野へ打って出ると決めた。以前から扱っていた果汁に加え、マヨネーズ・カレー・フルーツ缶詰の研究が始まった。成果として1959年にパモナジュースが、1960年にワンタッチカレーが発売された。工場もこれに合わせて増え、1959年に大阪チョコレート工場、1962年には本社中央研究所と東京のカレー工場・チョコレート工場を設けた。ワンタッチカレーの後も缶飲料・粉末飲料・乳製品・即席食品など約30品種を次々に出し、1963年3月期の売上高は75億2026万円に達した。品目を増やす速さが、育てる資源の配分を追い越していた。

  • 創意工夫 江崎グリコ70年史(江崎グリコ、1992年)
    • [7]既存部門の深耕だけでは継続的な高度成長は難しいという判断が進出の背景
    • [8]1958年10月 新製品開発促進会議で食品分野への進出方針を決定
    • [9]果汁・マヨネーズ・カレー・フルーツ缶詰の研究に着手、1959年 パモナジュース、1960年 ワンタッチカレーを発売
    • [11]ワンタッチカレー発売後も缶飲料・粉末飲料・乳製品・即席食品など約30品種を発売
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「江崎グリコ」の項
    • [10]1959年 大阪チョコレート工場、1962年 本社中央研究所・東京カレー工場・東京チョコレート工場を新設
  • 株式会社年鑑 1964年版「江崎グリコ」の項
    • [12]1963年3月期 売上高 75億2026万9千円

1957年9月期の商品別売上はグリコおよびドロップ、ビスコおよびアイスクリーム、その他の3区分で、冷菓はまだビスコと同じ枠に収まる規模だった。冷菓は1953年春に東京工場が夏場の閑散期対策としてつくったアイスミルクに始まり、1957年には九州でも生産と販売を手がけた。本格的な取り組みは1963年2月の冷菓事業部の発足からで、社内の売上に占める比重は3%弱にとどまった。冷菓を売るには低温管理のできる販売ルートが要るが、全国の菓子・食料品店にはすでに大手や地場のメーカーが冷凍ショーケースを置き、系列の専売的な問屋を通じてほぼ独占的に納入していた。高価なショーケースを自ら置く余裕はなく、1963年3月に出したジェットタイプのグリココーンは1個20円と高いうえ、羽がかさばって売れなかった。投資をせずに扱い店を広げる道として、1店で1日4個売れる製品をつくるという条件が置かれた。

  • 株式会社年鑑 1958年版「江崎グリコ」の項
    • [13]1957年9月期の商品別売上は「グリコ及びドロップ」「ビスコ及びアイスクリーム」「その他」の3区分
  • 創意工夫 江崎グリコ70年史(江崎グリコ、1992年)
    • [14]1953年春 東京工場が夏場の閑散期対策としてアイスミルクを発売、1957年 九州でアイスクリームを生産販売
    • [15]1963年2月 冷菓事業部が発足、社内の売上ウェートは3%弱
    • [16]既存メーカーが冷凍ショーケースを設置し系列の専売的問屋を通じて独占的に納入していた
    • [17]1963年3月 ジェットタイプのグリココーン(20円)を発売したが羽がかさばり売れなかった
    • [18]冷凍ショーケースへ投資せず分布を広げるため1店1日4個売れる製品を開発する方針を置いた
参考文献[1]-[18]
  • 株式会社年鑑 1958年版「江崎グリコ」の項
    • [1]1954年4月 資本金1億2000万円へ増資、1956年4月 1億8000万円へ増資
    • [2]1952年5月 株式会社江崎グリコ栄養実験所を吸収合併
    • [5]1957年9月期 売上高17億2743万円・当期純利益8669万円・従業員1623人
    • [6]1958年1月 商号をグリコから江崎グリコへ変更
    • [13]1957年9月期の商品別売上は「グリコ及びドロップ」「ビスコ及びアイスクリーム」「その他」の3区分
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「江崎グリコ」の項
    • [3]1953年 佐賀市上多布施町に九州工場を新設
    • [10]1959年 大阪チョコレート工場、1962年 本社中央研究所・東京カレー工場・東京チョコレート工場を新設
  • 創意工夫 江崎グリコ70年史(江崎グリコ、1992年)
    • [4]アーモンドグリコ・アーモンドチョコレートの発売により1955年から3年で売上高が3倍
    • [7]既存部門の深耕だけでは継続的な高度成長は難しいという判断が進出の背景
    • [8]1958年10月 新製品開発促進会議で食品分野への進出方針を決定
    • [9]果汁・マヨネーズ・カレー・フルーツ缶詰の研究に着手、1959年 パモナジュース、1960年 ワンタッチカレーを発売
    • [11]ワンタッチカレー発売後も缶飲料・粉末飲料・乳製品・即席食品など約30品種を発売
    • [14]1953年春 東京工場が夏場の閑散期対策としてアイスミルクを発売、1957年 九州でアイスクリームを生産販売
    • [15]1963年2月 冷菓事業部が発足、社内の売上ウェートは3%弱
    • [16]既存メーカーが冷凍ショーケースを設置し系列の専売的問屋を通じて独占的に納入していた
    • [17]1963年3月 ジェットタイプのグリココーン(20円)を発売したが羽がかさばり売れなかった
    • [18]冷凍ショーケースへ投資せず分布を広げるため1店1日4個売れる製品を開発する方針を置いた
  • 株式会社年鑑 1964年版「江崎グリコ」の項
    • [12]1963年3月期 売上高 75億2026万9千円

1963年〜売上債権5.2倍が示した量的拡大の限界と、末端出荷主義への転換

売上高は1960年3月期の59億円から1964年3月期の157億円へ、4年間に2.7倍へ増え、税引前利益も3億7000万円が9億3000万円と2.5倍になった。1963年3月期の回収高は売上高134億円より15億円少なく、翌期も9億円足りなかった。同じ4年間を通して見ると売上債権は5.2倍に膨らみ、代金の回収が売上に追いつかない状態が続いた。運転資金は借り入れに頼るしかなかった。1960年3月期に6億3000万円だった借入金は、4年後に6.2倍の38億8000万円まで増えた。1963年10月には資本金を22億5000万円へ引き上げている。末端の売れ行きを無視した生産と販売が通っており、量的な拡大は1960年代の前半に行き詰まった。

  • 日経ビジネス 1976年2月2日号 ケーススタディ
    • [19]1960年3月期 売上高59億円が1964年3月期に157億円へ(4年で2.7倍)、税引前利益は3億7000万円から9億3000万円へ
    • [20]1963年3月期は回収高が売上高134億円を15億円下回り、1964年3月期も9億円少なかった
    • [21]同じ4年間で売上債権が5.2倍に膨張
    • [22]借入金が1960年3月期の6億3000万円から4年後に38億8000万円へ(6.2倍)
    • [24]末端の売れ行きを無視した生産・販売がまかり通っていた
  • 株式会社年鑑 1964年版「江崎グリコ」の項
    • [23]1963年10月 資本金を22億5000万円へ増資

当時社長の江崎利一氏が先頭に立ち、事業部制を廃して全国の府県ごとの支店を7支店に絞った。これは1965年3月期に、新製品を次から次へ得意先に押し込む売り方を180度改めた転換の一環だった。同じ年度の構造改革では品目も減らされ、ワンタッチカレー以外の食品は一つ残らず販売を中止し、そのなかには冷やしても硬くならないマーガリンを卓上に置ける容器に詰めたもの、缶入りのフルーツカット、湯煎で温めるワンタッチライス、顆粒のこしょう、アルコール分の低い缶飲料などがあって、業界で類のないものや時代を先取りしすぎたものもあった。いずれも開発する品種が多すぎて資金が散り、主力に育て切れなかった品目の整理である。後年、村上茂取締役は『とにかく本来の経営に戻すためには体力があるうちにやろうということで、徹底的にやった』と振り返っている。

  • 日経ビジネス 1976年2月2日号 ケーススタディ
    • [25]事業部制を廃止し、全国各府県にあった支店を7支店へ整理
    • [26]1965年3月期 新製品を次々と得意先へ送り込む販売を180度転換
  • 創意工夫 江崎グリコ70年史(江崎グリコ、1992年)
    • [27]1964年度の構造改革でワンタッチカレーを除くすべての食品の販売を中止
    • [28]中止した製品に卓上型容器入りマーガリン・フルーツカット・ワンタッチライス・顆粒状こしょう・低アルコール缶飲料が含まれた
    • [29]多品種開発で原資が分散し主力製品として育成できなかった

売上債権が9億円減り、回収高も148億円から163億円へと10%伸びたのが1965年3月期である。ただし売上高は前年並みにとどまった。横ばいの売上では利益は伸ばせない。前年比13%減の8億1000万円がこの期の利益だった。店頭での実売に合わせて出荷量を決めるやり方が業績に表れるまでには、何年もかかった。1968年3月期からの7年間で売上高は3.4倍、利益は7.4倍になったが、売上債権は1.6倍、借入金は1.1倍とほとんど増えていない。1969年3月期の売上高は109億4434万円、経常利益は5億2776万円で、事業の内訳は菓子89%・食品11%だった。従業員は2162人を数えた。

  • 日経ビジネス 1976年2月2日号 ケーススタディ
    • [30]1965年3月期 売上高はほぼ横ばい、売上債権は9億円減、回収高は148億円から163億円へ10%増
    • [31]1965年3月期の利益は8億1000万円で13%の減益
    • [32]1968年3月期から1975年3月期の7年間で売上高3.4倍・売上債権1.6倍・利益7.4倍・借入金1.1倍
  • 日本企業要覧 1969年版「江崎グリコ」
    • [33]1969年3月期 売上高109億4434万円・経常利益5億2776万円、事業内容は菓子89%・食品11%
    • [34]1969年3月期の在籍従業員は2162人
参考文献[19]-[34]
  • 日経ビジネス 1976年2月2日号 ケーススタディ
    • [19]1960年3月期 売上高59億円が1964年3月期に157億円へ(4年で2.7倍)、税引前利益は3億7000万円から9億3000万円へ
    • [20]1963年3月期は回収高が売上高134億円を15億円下回り、1964年3月期も9億円少なかった
    • [21]同じ4年間で売上債権が5.2倍に膨張
    • [22]借入金が1960年3月期の6億3000万円から4年後に38億8000万円へ(6.2倍)
    • [24]末端の売れ行きを無視した生産・販売がまかり通っていた
    • [25]事業部制を廃止し、全国各府県にあった支店を7支店へ整理
    • [26]1965年3月期 新製品を次々と得意先へ送り込む販売を180度転換
    • [30]1965年3月期 売上高はほぼ横ばい、売上債権は9億円減、回収高は148億円から163億円へ10%増
    • [31]1965年3月期の利益は8億1000万円で13%の減益
    • [32]1968年3月期から1975年3月期の7年間で売上高3.4倍・売上債権1.6倍・利益7.4倍・借入金1.1倍
  • 株式会社年鑑 1964年版「江崎グリコ」の項
    • [23]1963年10月 資本金を22億5000万円へ増資
  • 創意工夫 江崎グリコ70年史(江崎グリコ、1992年)
    • [27]1964年度の構造改革でワンタッチカレーを除くすべての食品の販売を中止
    • [28]中止した製品に卓上型容器入りマーガリン・フルーツカット・ワンタッチライス・顆粒状こしょう・低アルコール缶飲料が含まれた
    • [29]多品種開発で原資が分散し主力製品として育成できなかった
  • 日本企業要覧 1969年版「江崎グリコ」
    • [33]1969年3月期 売上高109億4434万円・経常利益5億2776万円、事業内容は菓子89%・食品11%
    • [34]1969年3月期の在籍従業員は2162人

1970年〜独創品の専用工場での集中生産と、タイグリコが取った市場の独占

売上高の9割以上を占める菓子部門の生産品種は約30種で、100種以上を持つ明治製菓・森永製菓の3分の1から4分の1にとどまった。1974年3月期には主力のチョコレートもアーモンドチョコレート・ポッキー・ペロティの3種に絞り、それぞれ子会社の専用工場で集中生産した。独創品を出すには生産設備そのものの開発が要るため、菓子メーカーとしては珍しい製菓機械の開発設計部門を持ち、類似品が出るまでの時間を稼いだ。販売も同じ考え方で、1975年春に本格販売した米菓コメッコはローカル市場で2年テストしたうえ、近畿・北陸・北海道に地域を限って広告宣伝費と販売員を集中投入した。1974年3月期の売上高は249億2000万円で前期比約25%増、経常利益は16億3300万円だった。絞り込みは1970年代に入って生産の形そのものを変えた。

  • 日経ビジネス 1976年2月2日号 ケーススタディ
    • [35]菓子部門は売上高の90%以上を占め生産品種は約30種、明治製菓・森永製菓は100種以上
    • [37]菓子メーカーとしては珍しい製菓機械の開発設計部門を持ち、類似品が出るまでの時間を稼いだ
    • [38]米菓コメッコはローカル市場で2年テストし、近畿・北陸・北海道に限定して本格販売
  • 日本企業要覧 1974年版「江崎グリコ」
    • [36]1974年3月期 チョコレートをアーモンドチョコレート・ポッキー・ペロティの3種に絞り子会社の専用工場で集中生産
    • [39]1974年3月期 売上高249億2000万円(前期比約25%増)・経常利益16億3300万円

海外では1970年4月、バンコクにタイグリコを設立した。資本金は100万バーツ、出資比率は現地側52%・江崎グリコ48%である。工場を建てるかどうかの検討に入った1970年当時のタイには市場動向を判断できる資料がなく、社員が日本から出向いて自ら調べ抜いた。砂糖などの原材料が日本の4分の1以下、人件費も3分の1以下、市場は未成熟だが急成長が見込め、既存の有力メーカーがいないという結果だった。1971年2月に第1工場で営業を始め、翌1972年2月に第2工場、1976年9月に第3工場を建てた。菓子には60%の輸入関税がかかるため、1箱3バーツのプリッツに対して同種の輸入品は2倍以上の値段になった。売上高は1971年の378万1000バーツから1975年には2400万バーツへ伸びた。

  • 日経ビジネス 1976年12月20日号
    • [40]1970年4月 バンコクにタイグリコを設立
    • [41]タイグリコの資本金100万バーツ、出資比率は現地側52%・江崎グリコ48%
    • [42]1970年当時のタイには市場動向を判断できる資料がなく、社員が日本から出向いて調査した
    • [43]調査結果は原材料が日本の4分の1以下・人件費3分の1以下・市場は未成熟だが急成長・既存の有力メーカーなし
    • [44]1971年2月 営業開始と第1工場、1972年2月 第2工場、1976年9月 第3工場
    • [45]菓子類の輸入関税は60%、プリッツ標準品1箱3バーツに対し輸入品は2倍以上
    • [46]タイグリコの売上高は1971年2〜12月の378万1000バーツから1975年に2400万バーツへ

従業員は1975年3月期で1667人にすぎず、森永の5268人、明治の7117人と比べると数分の1の規模だった。それでも1975年3月期の申告所得は82億円に上った。38億円の森永製菓はもちろん、76億円の明治製菓も上回っている。10年前の1965年3月期には8億円しかなかった。25億円を計上した明治と比べると3分の1、15億円の森永に対しても約半分にとどまっていた。株価は1975年1月9日の287円が12月27日には1560円となり、5.4倍に上がった。1976年3月には450万株を公募で増資している。経営の側も1973年11月に交代し、江崎利一氏が会長へ移って大久保武夫氏が社長、創業家の江崎勝久氏が副社長に就任した。品目を絞ったことが、規模で劣る会社に利益率の優位をもたらした。

  • 日経ビジネス 1976年2月2日号 ケーススタディ
    • [47]1975年3月期の従業員1667人に対し森永製菓5268人・明治製菓7117人
    • [48]1975年3月期の申告所得82億円で森永製菓38億円・明治製菓76億円を上回った
    • [49]1965年3月期の申告所得は8億円で明治製菓25億円の3分の1、森永製菓15億円の約半分
    • [50]株価は1975年1月9日の287円から12月27日の1560円へ、1976年3月に450万株の公募増資
  • 日本企業要覧 1974年版「江崎グリコ」
    • [51]1973年11月 江崎利一が取締役会長、大久保武夫が取締役社長、江崎勝久が取締役副社長
参考文献[35]-[51]
  • 日経ビジネス 1976年2月2日号 ケーススタディ
    • [35]菓子部門は売上高の90%以上を占め生産品種は約30種、明治製菓・森永製菓は100種以上
    • [37]菓子メーカーとしては珍しい製菓機械の開発設計部門を持ち、類似品が出るまでの時間を稼いだ
    • [38]米菓コメッコはローカル市場で2年テストし、近畿・北陸・北海道に限定して本格販売
    • [47]1975年3月期の従業員1667人に対し森永製菓5268人・明治製菓7117人
    • [48]1975年3月期の申告所得82億円で森永製菓38億円・明治製菓76億円を上回った
    • [49]1965年3月期の申告所得は8億円で明治製菓25億円の3分の1、森永製菓15億円の約半分
    • [50]株価は1975年1月9日の287円から12月27日の1560円へ、1976年3月に450万株の公募増資
  • 日本企業要覧 1974年版「江崎グリコ」
    • [36]1974年3月期 チョコレートをアーモンドチョコレート・ポッキー・ペロティの3種に絞り子会社の専用工場で集中生産
    • [39]1974年3月期 売上高249億2000万円(前期比約25%増)・経常利益16億3300万円
    • [51]1973年11月 江崎利一が取締役会長、大久保武夫が取締役社長、江崎勝久が取締役副社長
  • 日経ビジネス 1976年12月20日号
    • [40]1970年4月 バンコクにタイグリコを設立
    • [41]タイグリコの資本金100万バーツ、出資比率は現地側52%・江崎グリコ48%
    • [42]1970年当時のタイには市場動向を判断できる資料がなく、社員が日本から出向いて調査した
    • [43]調査結果は原材料が日本の4分の1以下・人件費3分の1以下・市場は未成熟だが急成長・既存の有力メーカーなし
    • [44]1971年2月 営業開始と第1工場、1972年2月 第2工場、1976年9月 第3工場
    • [45]菓子類の輸入関税は60%、プリッツ標準品1箱3バーツに対し輸入品は2倍以上
    • [46]タイグリコの売上高は1971年2〜12月の378万1000バーツから1975年に2400万バーツへ

筆者考察

江崎グリコが1960年代の半ばに手放したのは、売上そのものだった。1960年3月期からの4年で売上高を2.7倍にした会社が、同じ期間に売上債権を5.2倍、借入金を6.2倍まで膨らませていた。得意先へ新製品を送り込めば帳簿の売上は立つが、末端で売れなければ代金は戻らない。1963年3月期には回収高が売上高を15億円下回り、伸びているように見える数字の裏で運転資金が枯れた。江崎利一氏が1965年3月期に決めたのは、この見かけの売上を切り捨てることである。事業部制をやめ、全国各府県の支店を7つへ統合し、ワンタッチカレーを除く食品はすべて棚から下ろした。その期の利益は13%減り、方向転換の代償は先に来た。

絞り込みが数字に表れるまでには、3年から4年を要している。1968年3月期からの7年間で売上高は3.4倍になったが、売上債権は1.6倍、借入金は1.1倍にとどまった。同じ7年で利益は7.4倍に伸び、1975年3月期の申告所得82億円は明治製菓の76億円、森永製菓の38億円を上回る。売上高では明治の半分しかない会社が利益で業界の首位に立ったのは、菓子の品種を約30種に抑え、森永の5268人・明治の7117人に対して1667人という数分の1の人数で回したからである。同じ考え方はタイでも働いた。1970年に進出したバンコクでは原材料も人件費も日本を大きく下回り、あとから来る同業がいないまま、プリッツを軸に市場を押さえた。

江崎グリコの在籍従業員数 1969年3月期〜1975年3月期(単体)(人)

2,162 69年 1,730 74年 1,667 75年
  • 出所は日本企業要覧 1969年版・1974年版、日経ビジネス 1976年2月2日号。

1954年〜1979年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1954年03月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a グリコ千葉アイスクリームを設立(1967/10)
1969年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a グリコ兵庫アイスクリームを設立(1968/10)
1970年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1972年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1973年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1974年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1975年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1976年03月期 単体 793 n/a 94 11.9% 44 n/a
1977年03月期 単体 952 +20.1% 98 10.3% 47 n/a
1978年03月期 単体 1,009 +6.0% 91 9.0% 36 n/a
1979年03月期 単体 1,014 +0.5% 92 9.1% 41 n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

8件
出典・参考
  • 創意工夫 江崎グリコ70年史(江崎グリコ、1992年)
  • 株式会社年鑑 1958年版「江崎グリコ」の項
  • 株式会社年鑑 1964年版「江崎グリコ」の項
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「江崎グリコ」の項
  • 日経ビジネス 1976年2月2日号 ケーススタディ
  • 日経ビジネス 1976年12月20日号
  • 日本企業要覧 1969年版「江崎グリコ」
  • 日本企業要覧 1974年版「江崎グリコ」

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