第2章 年〜年

三井松島ホールディングス:池島坑の開発着手と東証一部上場

池島海底炭田の開発から東証一部上場へ

1946年〜三井から切り離され、石炭を自ら販売する機能を初めて持った

1945年11月2日、三井・三菱・住友をはじめとする財閥15社が指定を受け、系列会社も含めて株券・社債・証券の売買や移転を禁じられた。松島炭鉱も1946年3月16日に制限会社となり、1949年4月9日に指定が解かれるまで、財産を処分することも資金を借り入れることも、役員をどう遇するかも制限を受けた。それまで役員の大半と幹部職員の一部は、三井鉱山か三井物産からの出向または兼務だった。1946年11月の勅令で役職員の兼任が禁じられると、いずれも専任に移るか会社を辞めた。株式の面でも、三井本社の20,440株が1946年12月に、三井鉱山の27,285株が1947年8月に持株会社整理委員会へ移り、のちに役員と従業員に分けて売られた。こうして終戦は、松島炭鉱と三井のつながりを断った。本店も1947年6月に福岡市雁林町、1948年5月に同市大名町へ移った。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [1]1945年11月2日 三井・三菱・住友ほか財閥15社が指定され系列会社を含め証券の売買・移転が禁止
    • [2]1946年3月16日 制限会社の指定を受け1949年4月9日の解除まで財産処分・資金借入・役員待遇を制限
    • [3]1946年11月の勅令で役職員の兼任が禁止され、三井鉱山・三井物産からの出向者・兼務者は専任となるか辞職
    • [4]1946年12月18日 三井本社の持株20,440株、1947年8月15日 三井鉱山の持株27,285株が持株会社整理委員会へ譲渡
    • [6]1947年6月 本店を福岡市雁林町へ、1948年5月 同市大名町へ移転
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [5]財閥解体措置により三井本社・三井鉱山の持株は持株会社整理委員会の手で役員・従業員へ分譲

独立と引き換えに残されたのは、荒廃した1つの坑であった。1945年度、大島坑の出炭は10万トンを下回った。戦時の強行出炭と資材の欠乏で坑内が荒れ、そこへ終戦直後の混乱が加わったためである。会社は役員以下の体制をまず固め、終戦前に立てたものの資材難で止まっていた5カ年計画を、1947年から1951年までの復興増産計画に組み直して動かした。政府の側でも、石炭を急いで増産させるため傾斜生産方式によって生産資材を重点配分し、1947年1月には復興金融金庫を設けて融資の道を開き、同年秋にはGHQの石炭増産特別調査団が二度にわたって大島坑を視察した。第一坑の単線坑道を複線化し、捲揚機・炭車・選炭機・浮選機・積込機・変電所をまとめて増強した。これにより出炭能力は年48万トン、選炭能力は年54万トンに高まり、1949年度には年産が30万トンを超えた。計画の完了は予定より半年遅い1952年9月期で、費用はおよそ2億円に達した。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [7]戦時中の強行出炭と資材欠乏により大島坑は荒廃し1945年度の出炭は10万トンを割った
    • [8]終戦前に立案され中断していた5カ年計画を1947年から1951年までの復興増産計画(第1次合理化計画)として再編し実施
    • [9]政府は傾斜生産方式により生産資材を重点配給し、1947年1月に復興金融金庫を設置
    • [10]1947年秋 GHQの石炭増産特別調査団が大島坑を2度訪問
    • [11]第一坑の複線化と一連の設備増強により出炭能力は年48万トン・選炭能力は年54万トン
    • [13]第1次合理化計画は1952年9月期までかかり約2億円を要した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [12]1949年度に年産30万トンを突破

掘る力が戻っても、売る力は無かった。創業以来、販売はすべて三井物産への委託で、戦時中は日本石炭、戦後は配炭公団への統制販売に引き継がれ、営業関係の業務は山元での積込作業と炭代・運賃諸掛の計算、配船連絡といった事務に限られていた。売り込みのための販売機構を、会社は一度も持ったことがなかった。松島炭鉱は1949年9月15日の配炭公団廃止を見据え、同年7月4日にまず業務部へ販売課を設け、8月15日には本店営業部と大阪出張所、東京事務所を置いて、自ら売る組織を発足させた。人員は本店営業部が部長以下10名、大阪出張所が所長以下4名、東京は販売担当者2名であった。大島炭は戦時中の規格売炭のため需要家にほとんど名を知られておらず、直接販売の経験も無かった。それでも1949年9月以降、日本製鉄、三菱化成、大阪瓦斯、東邦瓦斯、西部瓦斯を皮切りに荷渡先を積み上げ、これらの需要家は後年まで主要な取引先であり続けた。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [14]創業以来の販売は三井物産への委託、次いで日本石炭・配炭公団の統制販売で、営業業務は積込作業と炭代・運賃計算、配船連絡の事務に限られた
    • [15]自売開始まで売り込みのための販売機構を持たなかった
    • [16]1949年7月4日 業務部に販売課を設置、8月15日に本店営業部・大阪出張所・東京事務所からなる自売体制を完成
    • [17]自売体制の人員は本店営業部が部長以下10名、大阪出張所が所長以下4名、東京は販売担当者2名
    • [18]大島炭は戦時中の規格売炭のため需要家に名を知られず、直接販売の経験もなかった
    • [19]1949年9月以降 日本製鉄(八幡)・三菱化成・大阪瓦斯・東邦瓦斯・西部瓦斯・広島瓦斯を荷渡先として確保
  • 株式会社年鑑 1964年版「松島炭鉱」
    • [20]1963年時点の主な販売先は東京瓦斯・大阪瓦斯・八幡製鉄・富士製鉄・日本鋼管・川崎製鉄
参考文献[1]-[20]
  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [1]1945年11月2日 三井・三菱・住友ほか財閥15社が指定され系列会社を含め証券の売買・移転が禁止
    • [2]1946年3月16日 制限会社の指定を受け1949年4月9日の解除まで財産処分・資金借入・役員待遇を制限
    • [3]1946年11月の勅令で役職員の兼任が禁止され、三井鉱山・三井物産からの出向者・兼務者は専任となるか辞職
    • [4]1946年12月18日 三井本社の持株20,440株、1947年8月15日 三井鉱山の持株27,285株が持株会社整理委員会へ譲渡
    • [6]1947年6月 本店を福岡市雁林町へ、1948年5月 同市大名町へ移転
    • [7]戦時中の強行出炭と資材欠乏により大島坑は荒廃し1945年度の出炭は10万トンを割った
    • [8]終戦前に立案され中断していた5カ年計画を1947年から1951年までの復興増産計画(第1次合理化計画)として再編し実施
    • [9]政府は傾斜生産方式により生産資材を重点配給し、1947年1月に復興金融金庫を設置
    • [10]1947年秋 GHQの石炭増産特別調査団が大島坑を2度訪問
    • [11]第一坑の複線化と一連の設備増強により出炭能力は年48万トン・選炭能力は年54万トン
    • [13]第1次合理化計画は1952年9月期までかかり約2億円を要した
    • [14]創業以来の販売は三井物産への委託、次いで日本石炭・配炭公団の統制販売で、営業業務は積込作業と炭代・運賃計算、配船連絡の事務に限られた
    • [15]自売開始まで売り込みのための販売機構を持たなかった
    • [16]1949年7月4日 業務部に販売課を設置、8月15日に本店営業部・大阪出張所・東京事務所からなる自売体制を完成
    • [17]自売体制の人員は本店営業部が部長以下10名、大阪出張所が所長以下4名、東京は販売担当者2名
    • [18]大島炭は戦時中の規格売炭のため需要家に名を知られず、直接販売の経験もなかった
    • [19]1949年9月以降 日本製鉄(八幡)・三菱化成・大阪瓦斯・東邦瓦斯・西部瓦斯・広島瓦斯を荷渡先として確保
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [5]財閥解体措置により三井本社・三井鉱山の持株は持株会社整理委員会の手で役員・従業員へ分譲
    • [12]1949年度に年産30万トンを突破
  • 株式会社年鑑 1964年版「松島炭鉱」
    • [20]1963年時点の主な販売先は東京瓦斯・大阪瓦斯・八幡製鉄・富士製鉄・日本鋼管・川崎製鉄

1951年〜合理化で浮いた人と資金を、捨てた鉱区へ戻した

池島は西彼杵郡外海町の沖に浮かぶ海底炭鉱で、坑道は海の下へ伸びていく。会社がこの松島鉱区に戻ったのは、1934年の水没で手放してから17年後である。大島坑の開発が順調に進み、長年の懸案だった松島鉱区の再開発に踏み出せる状況が整ったとして、1951年に池島を足場とする開発に取りかかった。最初の仕事は用地で、同年の5月から8月まで島内の土地を1筆ずつ土地台帳と突き合わせて所有者を確かめ、数回に分けて買い取った。1951年12月に松島と池島の間へ海底送電線を敷き、1952年3月から受電した。同年10月8日の鍬入式を経て、11月に掘さく工事が始まった。休業していた鉱区で池島坑の開鑿が動き出したのは、このときである。1955年9月25日の着炭までにおよそ3年を要したが、上り断層のために炭層が予定より浅い位置に現れた。会社は出炭を急がず、安全な稼行を優先して探炭斜坑をさらに深く掘り進めた。

  • 日本会社史総覧(1995年刊)
    • [21]池島は西彼杵郡外海町(現・長崎市)沖合の海底炭鉱
  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [22]大島坑の開発が順調に伸びたことで松島鉱区再開発の機が熟し、1951年に池島を拠点として開発に着手
    • [23]1951年5月から8月にかけて池島全島の土地を1筆ごとに土地台帳と照合し所有権を確認のうえ買収
    • [24]1951年12月 松島・池島間に海底送電線を布設し1952年3月に受電開始
    • [25]1952年10月8日 鍬入式を挙行し11月から掘さく工事に着手
    • [27]1955年9月25日に着炭したが上り断層により炭層の深度が予定より浅く、安全稼行のため探炭斜坑を深部へ掘進
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [26]休業中の松島鉱区を再開発すべく池島坑の開鑿作業に着手

大島の第2次合理化は1952年から1956年までの計画で、第二坑の坑道を複線にし、採炭・捲揚・排水・選炭の各設備を強化するものだった。ところが途中の1953年9月から1955年にかけ、朝鮮動乱ブームが終わったことによる不況で自主減産に追い込まれた。採用を止め、自然に減るのを待ちつつ配置転換も進めて、在籍鉱員は3,470名から3,170名へ、1955年1月には2,600名にまで絞られた。その一方で、1954年には年産50万トン余りの出炭能力が整った。続く第3次合理化は、深部へ移るにつれ坑道が45キロに延びて運搬費がかさんだことへの対応で、第一坑連卸を広げて国内初のケーブルベルトコンベヤーを据え、一・二坑の出炭を第一坑坑口にまとめる工事を1959年に終えた。池島の開業は、こうした大島の合理化で浮いた人と設備に支えられていた。維持坑道の縮小で生じた余剰人員を池島へ移すため開発工事の進捗を合わせ、池島は新炭鉱でありながら新規採用をほとんど行わず、大島の余剰人員約350名を吸収した。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [28]第2次合理化は1952年から1956年にかけて第二坑の坑道を複線化し採炭・捲揚・排水・通気・選炭・電気・貯炭の設備を増強
    • [29]1953年9月から1955年にかけての不況で自主減産となり、自然減耗と配置転換により在籍鉱員3,470名を3,170名へ、1955年1月には2,600名まで減少
    • [31]第3次合理化で第一坑連卸を拡大し国内初のケーブルベルトコンベヤーを設置、一・二坑の出炭を第一坑坑口へ集約して1959年に完成
    • [32]維持坑道縮小で生じた余剰人員を池島へ転換し、池島は新規採用をほとんど行わず大島の余剰人員約350名を吸収
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [30]1954年に年産50万トン余の出炭能力を保有

資本金は1950年4月の1千万円を皮切りに、資産再評価による再評価積立金の資本組入も含めてほぼ毎年増資を重ね、1953年1月に1億5千万円、1961年9月には13億円に達した。1959年10月には池島坑が営業出炭を開始し、業績の好転を受けて1961年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場、翌1962年2月に市場第一部へ指定替えし、同年4月に福岡証券取引所、1963年9月には大阪証券取引所第一部へも上場した。1962年3月末の大株主は三井銀行が1,665千株・6.4%、日本興業銀行が1,273千株・4.9%で、株主数は2,775名、一人当りの平均持株数は9,369株であった。借入は日本開発銀行920百万円、日本興業銀行340百万円などで、設備資金の出し手はかつての親会社ではなく政策金融と長期信用銀行に替わっていた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [33]1953年1月 数次の増資により資本金1億5千万円
  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [34]1950年4月の1千万円を皮切りにほぼ毎年増資し、資産再評価積立金の資本組入も含めて1961年9月に13億円
    • [35]1959年10月 池島坑が営業出炭を開始
  • 三井松島ホールディングス 有価証券報告書 第169期(2025年3月期)【沿革】
    • [36]1961年10月 東京証券取引所市場第二部へ上場、1962年2月 東証一部へ指定替え、同年4月 福岡証券取引所へ上場
  • 三井松島産業 有価証券報告書 第150期(2006年3月期)【沿革】
    • [37]1963年9月 大阪証券取引所第一市場へ上場
  • 株式会社年鑑 1963年版「松島炭鉱」
    • [38]1962年3月末の大株主は三井銀行1,665千株・6.4%、日本興業銀行1,273千株・4.9%、株主数2,775名・平均一人当り持株数9,369株
    • [39]1962年3月末の長期借入は日本開発銀行920百万円・日本興業銀行340百万円ほか
参考文献[21]-[39]
  • 日本会社史総覧(1995年刊)
    • [21]池島は西彼杵郡外海町(現・長崎市)沖合の海底炭鉱
  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [22]大島坑の開発が順調に伸びたことで松島鉱区再開発の機が熟し、1951年に池島を拠点として開発に着手
    • [23]1951年5月から8月にかけて池島全島の土地を1筆ごとに土地台帳と照合し所有権を確認のうえ買収
    • [24]1951年12月 松島・池島間に海底送電線を布設し1952年3月に受電開始
    • [25]1952年10月8日 鍬入式を挙行し11月から掘さく工事に着手
    • [27]1955年9月25日に着炭したが上り断層により炭層の深度が予定より浅く、安全稼行のため探炭斜坑を深部へ掘進
    • [28]第2次合理化は1952年から1956年にかけて第二坑の坑道を複線化し採炭・捲揚・排水・通気・選炭・電気・貯炭の設備を増強
    • [29]1953年9月から1955年にかけての不況で自主減産となり、自然減耗と配置転換により在籍鉱員3,470名を3,170名へ、1955年1月には2,600名まで減少
    • [31]第3次合理化で第一坑連卸を拡大し国内初のケーブルベルトコンベヤーを設置、一・二坑の出炭を第一坑坑口へ集約して1959年に完成
    • [32]維持坑道縮小で生じた余剰人員を池島へ転換し、池島は新規採用をほとんど行わず大島の余剰人員約350名を吸収
    • [34]1950年4月の1千万円を皮切りにほぼ毎年増資し、資産再評価積立金の資本組入も含めて1961年9月に13億円
    • [35]1959年10月 池島坑が営業出炭を開始
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [26]休業中の松島鉱区を再開発すべく池島坑の開鑿作業に着手
    • [30]1954年に年産50万トン余の出炭能力を保有
    • [33]1953年1月 数次の増資により資本金1億5千万円
  • 三井松島ホールディングス 有価証券報告書 第169期(2025年3月期)【沿革】
    • [36]1961年10月 東京証券取引所市場第二部へ上場、1962年2月 東証一部へ指定替え、同年4月 福岡証券取引所へ上場
  • 三井松島産業 有価証券報告書 第150期(2006年3月期)【沿革】
    • [37]1963年9月 大阪証券取引所第一市場へ上場
  • 株式会社年鑑 1963年版「松島炭鉱」
    • [38]1962年3月末の大株主は三井銀行1,665千株・6.4%、日本興業銀行1,273千株・4.9%、株主数2,775名・平均一人当り持株数9,369株
    • [39]1962年3月末の長期借入は日本開発銀行920百万円・日本興業銀行340百万円ほか

1957年〜池島が主力になった時、需要は石炭から離れていた

掘り当てた頃には、石炭の値段を決めるのは石炭ではなくなっていた。1952年の石炭不足時に増え始めた重油の進出は低運賃と低コストによる価格安で伸び続け、1957年から1958年のなべ底不況期には重油の優位が決定的となった。1958年10月、石炭協会は1963年度の炭価を1958年度比で800円引き下げる新合理化計画を作ったが、需要家は強い不満を示した。翌1959年12月、石炭鉱業審議会基本問題部会は1963年度の販売価格を1958年度比で1,200円程度引き下げるべきとの答申を出した。1959年4月からは合理化法に基づき、原料炭・無煙炭・煽石を除く一般炭について約20%の出炭制限が行われた。ところが1,200円引下げを決めた当時に想定していた1963年度の重油価格8,500円は、貿易自由化を控えた石油精製能力の増大で下落し、1961年度には7,000円を下回るものが現れた。引き下げの目標そのものが、競合燃料の値下がりに追い越されていった。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [40]1952年の石炭不足時に増加し始めた重油の進出は低運賃・低コストによる価格安で拡大し、1957年から1958年のなべ底不況期に重油の優位が決定的となった
    • [41]1958年10月 石炭協会が1963年度炭価を1958年度比800円引き下げる新合理化計画を作成したが消費者は強い不満を示した
    • [42]1959年12月 石炭鉱業審議会基本問題部会が1963年度販売価格を1958年度比1,200円程度引き下げるべきとの答申
    • [43]1959年4月 合理化法に基づき原料炭・無煙炭・煽石を除く一般炭について約20%の出炭制限
    • [44]1,200円引下げ決定当時の1963年度重油想定価格8,500円は下落し、1961年度には7,000円を下回るものが出現

松島炭鉱の原料炭選出率は1950年度の58.2%から1961年度には89.0%へ上がり、同じ期間に17.8%から22.0%で推移した全国平均を大きく引き離した。全出炭の平均カロリーも1961年度で7,460、全国平均は6,230であった。販売は1961年度で鉄鋼40.0%、ガス33.4%、セメント13.7%と、原料用炭の鉄鋼・ガス・コークス向けと一般用炭のセメント向けとで総量の約90%を占め、市場別では京浜・阪神・九州の3地区が約85%であった。高級原料炭と上級一般炭を産出していたため、公団貯炭の払下げによる市況の圧迫も、動乱の反動も、神武景気後の後退も、受ける影響は他社より小さかった。1962年3月期の売上高は32億7357万円、当期純利益は2億4584万円、従業員は3,371名であった。値下げ競争から距離を取る手立ては、炭を安くすることではなく炭を選り分けることであった。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [45]原料炭選出率は1950年度58.2%から1961年度89.0%へ上昇、同期間の全国平均は17.8%から22.0%
    • [46]1961年度の全出炭平均カロリーは7,460、全国平均は6,230
    • [47]1961年度の産業別販売比率は鉄鋼40.0%・ガス33.4%・セメント13.7%で、原料用炭と一般用炭のセメント向けで総量の約90%
    • [48]市場別販売は京浜・阪神・九州の3地区で約85%
    • [49]高級原料炭と上級一般炭を産出していたため石炭界の不況期においても影響は他社より小さかった
  • 株式会社年鑑 1963年版「松島炭鉱」
    • [50]1962年3月期の売上高32億7357万円・当期純利益2億4584万円・従業員3,371名

それでも、掘る場所は先に尽きた。1960年代後半に石油への一次エネルギー転換が進むと、国内炭は価格と公害の両面で輸入炭や石油に対して競争劣位へ置かれた。大島鉱業所は採掘条件の悪化もあって1970年6月に閉山し、1935年の開坑から35年で終わった。池島の出炭は1969年に大島鉱を上回り、両事業所を合算した年間出炭量も同年に181万トンの過去最高へ達していた。掘る場所を池島1つに絞る一方、1968年3月には土木建築総合請負工事業の松島建設工業を設立し、炭鉱周辺の土木需要を取り込む枠組みを敷いた。第三次から第四次にかけての石炭政策は、石炭部門と兼業部門の区分経理と企業体制の整備を求めており、採掘部門を別会社へ切り出して本体は兼業で利益を確保する形が、業界に共通する課題となっていた。会社が次に選ぶ道は、この枠組みの内側にあった。

  • 日本会社史総覧(1995年刊)
    • [51]1960年代後半のエネルギー革命で国内炭は価格・公害の両面で輸入炭・石油に対し劣勢
    • [52]1970年6月 大島鉱業所閉山(大島事業35年)
    • [53]1969年 両事業所合算の年間出炭量181万トン(過去最高)、池島の出炭が大島鉱を上回る
    • [55]第四次石炭答申は石炭部門と兼業部門の区分経理・企業体制整備を要請
    • [56]石炭政策は採掘部門の分離と兼業部門による収益確保を業界共通の課題とした
  • 三井松島産業 有価証券報告書 第150期(2006年3月期)【沿革】
    • [54]1968年3月 土木建築総合請負工事業の松島建設工業株式会社を設立
参考文献[40]-[56]
  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [40]1952年の石炭不足時に増加し始めた重油の進出は低運賃・低コストによる価格安で拡大し、1957年から1958年のなべ底不況期に重油の優位が決定的となった
    • [41]1958年10月 石炭協会が1963年度炭価を1958年度比800円引き下げる新合理化計画を作成したが消費者は強い不満を示した
    • [42]1959年12月 石炭鉱業審議会基本問題部会が1963年度販売価格を1958年度比1,200円程度引き下げるべきとの答申
    • [43]1959年4月 合理化法に基づき原料炭・無煙炭・煽石を除く一般炭について約20%の出炭制限
    • [44]1,200円引下げ決定当時の1963年度重油想定価格8,500円は下落し、1961年度には7,000円を下回るものが出現
    • [45]原料炭選出率は1950年度58.2%から1961年度89.0%へ上昇、同期間の全国平均は17.8%から22.0%
    • [46]1961年度の全出炭平均カロリーは7,460、全国平均は6,230
    • [47]1961年度の産業別販売比率は鉄鋼40.0%・ガス33.4%・セメント13.7%で、原料用炭と一般用炭のセメント向けで総量の約90%
    • [48]市場別販売は京浜・阪神・九州の3地区で約85%
    • [49]高級原料炭と上級一般炭を産出していたため石炭界の不況期においても影響は他社より小さかった
  • 株式会社年鑑 1963年版「松島炭鉱」
    • [50]1962年3月期の売上高32億7357万円・当期純利益2億4584万円・従業員3,371名
  • 日本会社史総覧(1995年刊)
    • [51]1960年代後半のエネルギー革命で国内炭は価格・公害の両面で輸入炭・石油に対し劣勢
    • [52]1970年6月 大島鉱業所閉山(大島事業35年)
    • [53]1969年 両事業所合算の年間出炭量181万トン(過去最高)、池島の出炭が大島鉱を上回る
    • [55]第四次石炭答申は石炭部門と兼業部門の区分経理・企業体制整備を要請
    • [56]石炭政策は採掘部門の分離と兼業部門による収益確保を業界共通の課題とした
  • 三井松島産業 有価証券報告書 第150期(2006年3月期)【沿革】
    • [54]1968年3月 土木建築総合請負工事業の松島建設工業株式会社を設立

筆者考察

財閥解体で株主を失った松島炭鉱は、代わりに欠けていた機能を持つことになった。三井物産への一手委託、日本石炭、配炭公団と、創業から36年にわたって石炭は誰かが売ってくれるものだった。山元で積み込み、炭代と運賃を計算し、配船を連絡する。それが営業のすべてで、売り込む部署は存在しない。1949年9月に配炭公団が廃止されると、会社は同年7月に販売課を、8月に本店営業部と大阪出張所を置いた。合わせて16名の販売組織である。規格売炭に隠れて需要家に名を知られていなかった大島炭を、八幡や大阪瓦斯へ自分で運ぶところから、この会社の営業は始まった。

自前で売る会社になった松島炭鉱が次に選んだのは、価格ではなく品位で競うことだった。第2次・第3次の合理化で坑口を集約し、浮いた350名を池島へ送り、1934年に捨てた鉱区を17年越しで掘り直す。1959年に池島が出炭を始め、1961年には東京証券取引所市場第二部へ上場した。ところが同じ1961年、1963年度に想定していた重油価格8,500円は7,000円を割り込み、1,200円の炭価引下げという業界の目標は、達成する前に置き去られていた。原料炭の選出率を89.0%まで高め、全国平均の4倍で炭を選り分けたのは、安さで並ぶことが既にできなくなっていたからである。池島が主力になった年に大島は閉じ、次に切り離す対象は炭鉱そのものになった。

松島炭鉱の原料炭選出率 1950年度〜1961年度(%)

58.2 1950 68.7 1953 75.8 1956 87.2 1959 89 1961
  • 全出炭量に占める原料用炭の比率。同じ年度の全国平均は17.8%から22.0%の範囲で推移した。
  • 出所は松島炭鉱五十年史(1962年)。

1946年〜1972年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 31 n/a 1 4.8% n/a n/a
1958年03月期 単体 44 +40.4% 2 6.4% n/a n/a
1959年03月期 単体 39 ▲11.3% 1 4.1% n/a n/a
1960年03月期 単体 41 +4.6% 1 3.2% n/a n/a
1961年03月期 単体 51 +25.3% 1 3.3% n/a n/a
1962年03月期 単体 58 +12.5% 1 3.3% n/a n/a
1963年03月期 単体 56 ▲3.0% 1 2.8% n/a n/a
1964年03月期 単体 64 +13.2% 1 2.9% n/a n/a
1965年03月期 単体 65 +1.9% 2 3.9% n/a n/a
1966年03月期 単体 71 +8.9% 3 4.2% n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 68 n/a ▲3 ▲4.5% ▲1 n/a
1969年03月期 単体 80 +16.7% ▲1 ▲2.5% ▲2 n/a
1970年03月期 単体 80 +0.9% ▲7 ▲9.3% ▲7 n/a
1971年03月期 単体 57 ▲29.2% ▲2 ▲3.9% ▲7 n/a
1972年03月期 単体 53 ▲6.4% 0 ▲0.4% 0 n/a

出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑

出典・参考

7件
出典・参考
  • 三井松島産業 有価証券報告書 第150期(2006年3月期)【沿革】
  • 三井松島ホールディングス 有価証券報告書 第169期(2025年3月期)【沿革】
  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
  • 株式会社年鑑 1963年版「松島炭鉱」
  • 株式会社年鑑 1964年版「松島炭鉱」
  • 日本会社史総覧(1995年刊)

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