第1章 年〜年

三井松島ホールディングス:松島炭鉱の設立と大島鉱区への主力移転

松島鉱区の水没から大島鉱区の開坑へ

1913年〜長崎の積出市場を押さえるために三井鉱山が設立した傍系会社

松島炭鉱株式会社は、三井鉱山が長崎という積出市場を手放さないために置いた傍系会社であった。三井は三池炭鉱に築港を完成させて石炭船を三池へ吸収していたが、一大市場である長崎を等閑にはできず、長崎に近く輸送その他で急場に間に合う炭鉱を必要としていた。目を付けたのが、当時開坑に着手していた崎戸鉱と松島鉱である。古賀鉱業合資会社が所有する長崎県採掘権登録第326号鉱区を買収して三井鉱山との共有とし、その経営を担当する新会社として、1913年1月に資本金200万円で松島炭鉱を設立した。発起人は古賀春一、頼尊淵之助、のちに三井鉱山の経営に携わる牧田環ら7名、発行株数は4万株で1株の額面は50円であった。同月25日、東京市日本橋区駿河町の三井鉱山本社で創立総会を開催し、代表取締役に古賀春一と頼尊淵之助を選んだ。本店は長崎市常盤町に置かれた。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [1]松島炭鉱は三井鉱山の傍系会社として発足
    • [2]三池に築港を完成させ石炭船を吸収した後も、長崎市場のため長崎に近く急場に間に合う炭鉱を必要とした
    • [3]当時開坑着手中であった崎戸鉱と松島鉱に着目
    • [6]発起人は古賀春一・頼尊淵之助・牧田環ら7名、発行株数4万株・1株の額面50円
    • [7]1913年1月25日 東京市日本橋区駿河町の三井鉱山本社で創立総会を開き代表取締役に古賀春一・頼尊淵之助を選任
    • [8]本店は長崎市常盤町3番地に設置
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [4]三井鉱山と古賀鉱業合資が共有する松島鉱区の採掘権および付属諸物件を買収して創業
  • 三井松島ホールディングス 有価証券報告書 第169期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]1913年1月 松島炭鉱株式会社を資本金200万円で設立

発足した会社が手にしたのは、前の持ち主が掘り進めた坑道そのものであった。古賀鉱業は1905年に第一坑、1910年に第二坑、1912年に第三坑を開坑しており、松島炭鉱はこれをそのまま引き継いで採炭に着手した。買収前年にあたる1912年の出炭規模は年間約36万トンで、引き継いだ初年度にも27万トン余を出炭した。さらに増産を期して1914年4月に第四坑の開さくへ着手し、1916年8月に完成させた。これにより出炭量は1917年に46万トン余、1925年には51万トン余と当時の最高を記録し、年産50万トンを超える県下有数の炭鉱となった。1928年までは、1923年の37万トンを除いて毎年40数万トンを保った。松島鉱区の稼行はこの十数年が全盛期であった。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [9]古賀鉱業が開坑した第一坑(1905年)・第二坑(1910年)・第三坑(1912年)を引き継いで採炭に着手
    • [11]引継初年度の出炭は27万トン余
    • [12]1914年4月 第四坑の開さくに着手し1916年8月に完成
    • [13]出炭量は1917年に46万トン余、1925年に51万トン余で当時の最高
    • [15]1928年まで、1923年の37万トンを除き毎年40数万トンの出炭を維持
    • [16]この期間が松島鉱区稼行時代の全盛期
  • 日本会社史総覧(1995年刊)
    • [10]古賀鉱業期の1912年 年間約36万トンの出炭規模
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [14]1925年には年産50万トンを超えた

資本も販売も、実質は三井が握っていた。創立時の総株数4万株のうち、三井鉱山と三井物産が個人名義株を含めてそれぞれ12,000株、合わせて24,000株を持ち、残る16,000株が古賀系の持株であった。1917年8月には自社の拡張資金と大島炭砿株式会社への出資金を賄うため資本金を500万円へ増やし、持株1株に対して1.5株を割り当てて総株数を10万株とした。1920年には三井鉱山と三井物産が役員名義株以外の個人名義株をすべて両社名義へ書き換え、株主総数は16名に減った。販売の側はさらに徹底しており、創業と同時に三井物産と松島石炭委託販売契約を結んで出炭の一手販売をすべて委託し、売上代金の2分5厘を手数料として支払った。当初10カ年の契約は1923年、1933年、1938年と更改された。掘ることだけが松島炭鉱の仕事であった。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [17]創立時の総株数40,000株の内訳は三井鉱山・三井物産が各12,000株で計24,000株、古賀系16,000株
    • [19]1917年の増資では持株1株に対し1.5株の新株を割り当て総株数10万株
    • [20]1920年 三井鉱山・三井物産が個人名義株を両社名義へ書換え、株主総数は16名に減少
    • [21]創業と同時に三井物産と松島石炭委託販売契約を締結し一手販売を委託、手数料は売上代金の2分5厘
    • [22]当初10カ年の販売委託契約は1923年・1933年・1938年に更改
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [18]1917年8月 資本金を500万円へ増額
参考文献[1]-[22]
  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [1]松島炭鉱は三井鉱山の傍系会社として発足
    • [2]三池に築港を完成させ石炭船を吸収した後も、長崎市場のため長崎に近く急場に間に合う炭鉱を必要とした
    • [3]当時開坑着手中であった崎戸鉱と松島鉱に着目
    • [6]発起人は古賀春一・頼尊淵之助・牧田環ら7名、発行株数4万株・1株の額面50円
    • [7]1913年1月25日 東京市日本橋区駿河町の三井鉱山本社で創立総会を開き代表取締役に古賀春一・頼尊淵之助を選任
    • [8]本店は長崎市常盤町3番地に設置
    • [9]古賀鉱業が開坑した第一坑(1905年)・第二坑(1910年)・第三坑(1912年)を引き継いで採炭に着手
    • [11]引継初年度の出炭は27万トン余
    • [12]1914年4月 第四坑の開さくに着手し1916年8月に完成
    • [13]出炭量は1917年に46万トン余、1925年に51万トン余で当時の最高
    • [15]1928年まで、1923年の37万トンを除き毎年40数万トンの出炭を維持
    • [16]この期間が松島鉱区稼行時代の全盛期
    • [17]創立時の総株数40,000株の内訳は三井鉱山・三井物産が各12,000株で計24,000株、古賀系16,000株
    • [19]1917年の増資では持株1株に対し1.5株の新株を割り当て総株数10万株
    • [20]1920年 三井鉱山・三井物産が個人名義株を両社名義へ書換え、株主総数は16名に減少
    • [21]創業と同時に三井物産と松島石炭委託販売契約を締結し一手販売を委託、手数料は売上代金の2分5厘
    • [22]当初10カ年の販売委託契約は1923年・1933年・1938年に更改
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [4]三井鉱山と古賀鉱業合資が共有する松島鉱区の採掘権および付属諸物件を買収して創業
    • [14]1925年には年産50万トンを超えた
    • [18]1917年8月 資本金を500万円へ増額
  • 三井松島ホールディングス 有価証券報告書 第169期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]1913年1月 松島炭鉱株式会社を資本金200万円で設立
  • 日本会社史総覧(1995年刊)
    • [10]古賀鉱業期の1912年 年間約36万トンの出炭規模

1921年〜相次ぐ水没で採掘の足場そのものを失った松島鉱区

引き継いだ坑は、掘り進むほど水に近づいた。1921年に第二坑、1922年に第一坑が相次いで採炭を終え、以後は第三坑と第四坑の2坑だけで出炭した。その第三坑が1929年6月に水没し、頼れるのは第四坑だけとなった。1932年には第五坑の開さくへ着手したが、1934年11月に第四坑が水没すると第五坑もその余波で浸水し、ついに出炭不能となった。2度の水没事故が松島鉱区の休業を決定づけ、会社は創業以来で最も苦しい局面を迎えた。掘る場所そのものを失った以上、松島鉱区に留まる限り再起の道は無かった。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [23]1921年に第二坑・1922年に第一坑が採炭終了し、以後は第三坑と第四坑の2坑で出炭
    • [24]1929年6月 第三坑が水没し第四坑のみに依存
    • [25]1932年 第五坑の開さくに着手したが1934年11月の第四坑水没で第五坑も浸水し出炭不能
    • [27]出炭不能により創業以来で最悪の苦難時代を迎えた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [26]松島鉱区休業の要因は1929年6月・1934年11月の相次ぐ水没事故

各株主の持株数が従来の8割、総株数が80,000株に減ったのは、1934年10月の減資による。水没で出た損失を補うため、株式の2分の1を償却して資本金を400万円としたのである。1935年8月には、旧株2株と新株4株をいずれも1株にまとめる減資を重ねて資本金を140万円に下げた。すぐ後の9月には債務整理の資金を得るため、同数の株を各株主に割り当てて280万円へ増資した。しかし三井鉱山と三井物産を除く株主は、役員名義の株主まで含めてこの新株を引き受けなかった。残った8,675株を両社が引き取った結果、総株数56,000株のうち両社の持分は合計47,725株となった。会社は1935年2月に松島本鉱の事業中止を決めて22年に及んだ操業を終え、1937年7月には松島鉱区全部の休業に至った。採掘の行き詰まりは、資本の面でも三井への従属を一段と深めた。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [28]1934年10月 株式2分の1償却により資本金を400万円へ減資、総株数は80,000株
    • [29]1935年8月 資本金を140万円へ減資、同年9月に債務整理資金調達のため280万円へ増資
    • [30]1935年9月の倍額増資で三井鉱山・三井物産以外の全株主が新株を引き受けなかった
    • [31]引受のなかった8,675株を両社が引き受け、総株数56,000株のうち三井鉱山27,285株・三井物産20,440株の計47,725株
  • 日本会社史総覧(1995年刊)
    • [32]1935年2月 松島本鉱の事業中止決定(操業22年)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [33]1937年7月 松島鉱区全部を休業

失ったのは坑道だけではなかった。松島炭は創業以来、原料用炭としての得意先を着実に積み上げており、1932年度の荷渡比率はガス用36%、コークス原料用13%、船舶焚料17%であった。販路は長崎の外航船向け船舶焚料炭を軸に、九州・中国・四国のガス会社と大阪のビーハイブコークス業者へ広がり、1914年に確保したシンガポール・香港の輸出市場は上海・マニラ・青島・漢口へ伸びていた。2度の水没による鉱区放棄は、この得意先地盤を自ら狭めることになった。石炭業界では1932年11月に昭和石炭が設立され、内地炭送炭高の約70%が統制下に入っていた。掘る場所を失った会社に残されたのは、かつて出資した大島鉱区の権利だけで、1935年5月、共有となっていたその三井鉱山持分一切を譲り受けた。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [34]1932年度の荷渡比率はガス用36%・コークス原料用13%・船舶焚料17%・その他34%
    • [35]販売先は長崎の外航船向け船舶焚料炭を主に、九州・中国・四国のガス会社と大阪のビーハイブコークス業者へ拡大
    • [36]1914年にシンガポール・香港向けの輸出市場を確保し上海・マニラ・青島・漢口へ販路を拡張
    • [37]2度の水没事故による松島鉱区の放棄は原料用炭としての得意先地盤を狭めた
    • [38]1932年11月 昭和石炭の設立により内地炭送炭高の約70%が統制下に入った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [39]1935年5月 大島鉱区における三井鉱山の持分一切を譲り受け
参考文献[23]-[39]
  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [23]1921年に第二坑・1922年に第一坑が採炭終了し、以後は第三坑と第四坑の2坑で出炭
    • [24]1929年6月 第三坑が水没し第四坑のみに依存
    • [25]1932年 第五坑の開さくに着手したが1934年11月の第四坑水没で第五坑も浸水し出炭不能
    • [27]出炭不能により創業以来で最悪の苦難時代を迎えた
    • [28]1934年10月 株式2分の1償却により資本金を400万円へ減資、総株数は80,000株
    • [29]1935年8月 資本金を140万円へ減資、同年9月に債務整理資金調達のため280万円へ増資
    • [30]1935年9月の倍額増資で三井鉱山・三井物産以外の全株主が新株を引き受けなかった
    • [31]引受のなかった8,675株を両社が引き受け、総株数56,000株のうち三井鉱山27,285株・三井物産20,440株の計47,725株
    • [34]1932年度の荷渡比率はガス用36%・コークス原料用13%・船舶焚料17%・その他34%
    • [35]販売先は長崎の外航船向け船舶焚料炭を主に、九州・中国・四国のガス会社と大阪のビーハイブコークス業者へ拡大
    • [36]1914年にシンガポール・香港向けの輸出市場を確保し上海・マニラ・青島・漢口へ販路を拡張
    • [37]2度の水没事故による松島鉱区の放棄は原料用炭としての得意先地盤を狭めた
    • [38]1932年11月 昭和石炭の設立により内地炭送炭高の約70%が統制下に入った
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [26]松島鉱区休業の要因は1929年6月・1934年11月の相次ぐ水没事故
    • [33]1937年7月 松島鉱区全部を休業
    • [39]1935年5月 大島鉱区における三井鉱山の持分一切を譲り受け
  • 日本会社史総覧(1995年刊)
    • [32]1935年2月 松島本鉱の事業中止決定(操業22年)

1935年〜出資先の鉱区を取得し、会社そのものを大島へ移転した

主力を移した先の大島鉱区は、松島炭鉱が20年近く資金を入れ続けた末に手元へ残った資産であった。大島炭砿株式会社は1917年5月、三井鉱山と古賀鉱業とともに松島炭鉱が株主となって設立され、大島鉱区の開発に着手した。資本金400万円・総株数8万株のうち松島炭鉱は筆頭大株主として出資し、経営陣にも人を送り、開発に要する資金や資材もほとんどを支援した。ところが開坑した坑は断層が多く作業が難航し、1919年12月の出水で坑内総水量が毎分1.27立方メートルに達すると排水設備が追いつかず、欧州大戦後の不況もあって1920年6月に開発を休止した。1922年8月には3者で同社を解散し、鉱区その他の財産一切を3者の共有とする協定が成立して、1932年11月に大島炭砿は解散した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [40]1917年5月 三井鉱山・古賀鉱業・松島炭鉱の3社が株主となり大島炭砿を設立して大島鉱区の開発に着手
    • [44]1932年11月 大島炭砿が解散
  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [41]大島炭砿は資本金400万円・総株数8万株で発足し松島炭鉱が筆頭大株主として出資、開発資金・資材もほぼ松島炭鉱が支援
    • [42]1919年12月の出水で坑内総水量が毎分1.27立方メートルに達し、1920年6月に作業を中止
    • [43]1922年8月 松島炭鉱・三井鉱山・古賀の3者が大島炭砿を解散し鉱区その他の財産を3者共有とする協定を締結

松島鉱区の稼行を断念した会社は、共有となっていた大島鉱区の三井鉱山持分を買収して再起を図った。1935年2月に開坑を決議し、同年5月から長崎県西彼杵郡黒瀬村間瀬先で第一坑の開さくを始め、1936年2月に着炭、同年5月から採炭を開始した。ただし当初は予期しない断層の出現で出炭計画に齟齬を来し、炭層条件は好転せず、暗中模索の状態が続いた。炭層がようやく安定したのは1938年で、翌1939年には133,000トンの出炭を見るに至り、深部へ移行するにつれて条件はさらに良くなった。1940年3月には第二坑の開さくへも着手した。本店も1936年7月に東京市日本橋区室町へ移っており、採炭の中心は松島から大島へ、本店機能は三井の膝元へと移っていった。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [45]松島鉱区稼行を断念し、共有となっていた大島鉱区における三井の持分を買収して再起を図った
    • [49]開坑当初は予期しない断層の出現で出炭計画が齟齬し炭層条件は好転しなかった
    • [50]1938年に炭層が安定し1939年には133,000トンを出炭、深部移行につれ炭層条件は良好となった
    • [51]1940年3月 第二坑の開さくに着手
    • [52]1936年7月 本店を東京市日本橋区室町2丁目1番地へ移転
  • 三井松島ホールディングス 有価証券報告書 第169期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1935年5月 大島鉱区の本格開発に着手
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [47]1936年2月 大島で着炭
  • 日本会社史総覧(1995年刊)
    • [48]1936年5月 大島で採炭開始

1941年に太平洋戦争が始まると資材と労力の不足は次第に顕著となったが、出炭量は逐年増加した。1944年1月には第二坑からの出炭も始まり、同年4月25日に軍需会社の指定を受けて、1944年度は287,996トンを出炭した。販売の側は1940年10月に設立された日本石炭による全国石炭の一手買入・販売の統制下へ入り、松島炭鉱・日本石炭・三井鉱山の3者契約によって、産出した石炭は自家用などを除き、全部を日本石炭へ売り渡した。1942年1月からは売渡先が地区別配給会社の西九州石炭へ替わり、1943年10月に売戻制が廃止されると日本石炭の自売となった。戦時中の主な売先は八幡製鉄、三菱化成、住友化学や大阪瓦斯、西部瓦斯などであった。資本金は数次の増資を経ても、終戦時点で280万円にとどまっていた。

  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [53]1941年の太平洋戦争開戦後、資材・労力の不足が顕著となるも出炭量は逐年増加
    • [54]1944年1月 大島第二坑から出炭を開始
    • [55]1944年4月25日 軍需会社の指定を受け1944年度の出炭は287,996トン
    • [56]1940年10月設立の日本石炭による一手買入・販売の統制下に入り、松島炭鉱・日本石炭・三井鉱山の3者契約で産出炭の全部を日本石炭へ売り渡す
    • [57]1942年1月 地区別配給会社の西九州石炭が設立され売渡先が同社へ変更
    • [58]1943年10月 売戻制が廃止され日本石炭の自売が開始
    • [59]戦時中の主な売先は八幡製鉄・三菱化成・住友化学・大阪瓦斯・西部瓦斯など
  • 株式会社年鑑 1963年版「松島炭鉱」
    • [60]1945年8月時点の資本金は数次の増資を経て280万円
参考文献[40]-[60]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
    • [40]1917年5月 三井鉱山・古賀鉱業・松島炭鉱の3社が株主となり大島炭砿を設立して大島鉱区の開発に着手
    • [44]1932年11月 大島炭砿が解散
    • [47]1936年2月 大島で着炭
  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
    • [41]大島炭砿は資本金400万円・総株数8万株で発足し松島炭鉱が筆頭大株主として出資、開発資金・資材もほぼ松島炭鉱が支援
    • [42]1919年12月の出水で坑内総水量が毎分1.27立方メートルに達し、1920年6月に作業を中止
    • [43]1922年8月 松島炭鉱・三井鉱山・古賀の3者が大島炭砿を解散し鉱区その他の財産を3者共有とする協定を締結
    • [45]松島鉱区稼行を断念し、共有となっていた大島鉱区における三井の持分を買収して再起を図った
    • [49]開坑当初は予期しない断層の出現で出炭計画が齟齬し炭層条件は好転しなかった
    • [50]1938年に炭層が安定し1939年には133,000トンを出炭、深部移行につれ炭層条件は良好となった
    • [51]1940年3月 第二坑の開さくに着手
    • [52]1936年7月 本店を東京市日本橋区室町2丁目1番地へ移転
    • [53]1941年の太平洋戦争開戦後、資材・労力の不足が顕著となるも出炭量は逐年増加
    • [54]1944年1月 大島第二坑から出炭を開始
    • [55]1944年4月25日 軍需会社の指定を受け1944年度の出炭は287,996トン
    • [56]1940年10月設立の日本石炭による一手買入・販売の統制下に入り、松島炭鉱・日本石炭・三井鉱山の3者契約で産出炭の全部を日本石炭へ売り渡す
    • [57]1942年1月 地区別配給会社の西九州石炭が設立され売渡先が同社へ変更
    • [58]1943年10月 売戻制が廃止され日本石炭の自売が開始
    • [59]戦時中の主な売先は八幡製鉄・三菱化成・住友化学・大阪瓦斯・西部瓦斯など
  • 三井松島ホールディングス 有価証券報告書 第169期(2025年3月期)【沿革】
    • [46]1935年5月 大島鉱区の本格開発に着手
  • 日本会社史総覧(1995年刊)
    • [48]1936年5月 大島で採炭開始
  • 株式会社年鑑 1963年版「松島炭鉱」
    • [60]1945年8月時点の資本金は数次の増資を経て280万円

筆者考察

松島炭鉱が長崎県の離島に置かれたのは、そこで石炭が採れたからではなく、長崎という積出港を三井鉱山が手放せなかったからである。三池に築港を完成させて石炭船を集めてもなお、長崎向けの急場に間に合う炭鉱が要る。その必要から、古賀鉱業が掘っていた鉱区を買い、その経営を担うために1913年に会社が作られた。だから創立時の4万株のうち2万4千株は三井鉱山と三井物産が持ち、出炭の一手販売も三井物産へ委ねられている。掘る仕事だけが会社に残され、売る仕事は初めから外にあった。三井が長崎で必要としたのは会社ではなく炭であり、会社はその炭を届けるための手段だったのだろう。

炭を届ける手段であれば、掘る場所は入れ替えられる。1929年と1934年の水没で第三坑と第四坑を続けて失い、松島鉱区は22年で操業を終えた。掘る場所を失えば炭鉱会社は消える。消えなかったのは、17年前から資金を注ぎ続けた大島炭砿の鉱区が、同社の解散を経て共有財産として手元に残っていたからである。1935年5月に三井鉱山の持分を取得すると、会社は長崎の島から別の島へ事業の一切を移した。社名は松島のままで、掘る場所だけが替わる。相次ぐ水没で資本は削られ、引き受け手のない新株を三井鉱山と三井物産が肩代わりした結果、両社の持株は総株数56,000株のうち47,725株に達した。会社を残したのは鉱区の買収であり、それを可能にしたのは三井の資本であった。

松島炭鉱の資本金の推移 1913年〜1945年(万円)

200 1913 500 1917 400 1934 280 1935 280 1945
  • 1935年8月に旧株2株・新株4株を1株とする減資で140万円としたのち、同年9月に債務整理資金の調達のため280万円へ増資した。
  • 出所は松島炭鉱五十年史(1962年)、1945年時点の資本金は株式会社年鑑 1963年版。

出典・参考

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出典・参考
  • 三井松島ホールディングス 有価証券報告書 第169期(2025年3月期)【沿革】
  • 松島炭鉱五十年史(1962年刊)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「松島炭鉱」の項
  • 株式会社年鑑 1963年版「松島炭鉱」
  • 日本会社史総覧(1995年刊)

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