吉野家ホールディングス:吉野家の設立とYOSHINOYA WESTによる米国進出
1958年〜築地の牛丼屋を法人にした株式会社吉野家と、新橋の2号店
東京・築地の牛丼屋は、1958年12月に株式会社吉野家として法人になった。社長には、1948年に中央大学を卒業して家業の牛丼屋を継いだ松田瑞穂氏が就任した。牛丼の店は1店だけで、1965年ごろの年商は1億円ほどだった。法人化の翌月にあたる1959年1月には、築地市場の中に第1号店を開店した。1日1万円で始まった売上高は、従業員に茶の出し方と客への応対を教えて3カ月後に10万円となった。その後も軍隊にならった組織づくり、自前の肉屋による牛肉の確保、酒の販売の取りやめを重ね、日商は25万円に増えた。家業を会社組織に移し、売上高を仕組みで積み上げる経営の型は、この一店の時期に固まったとみられる。
- 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1958年12月に株式会社吉野家を設立
- 日経ビジネス 1978年8月28日号 編集長インタビュー 松田瑞穂氏
- [2]松田瑞穂氏は1948年中央大学卒業後に築地の家業の牛丼屋を継ぎ、1958年に株式会社吉野家を設立し社長に就任
- 日経ビジネス 1976年11月8日号
- [3]昭和40年ごろの吉野家は1店・年商1億円ほど
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [4]1959年1月に築地市場内に1号店を開店。日商1万円から接客教育で3カ月後10万円、軍隊式組織・肉屋経営・酒販売中止を経て25万円
- [5]1959年1月に築地市場内に1号店を開店。日商1万円から接客教育で3カ月後10万円、軍隊式組織・肉屋経営・酒販売中止を経て25万円
- [6]1959年1月に築地市場内に1号店を開店。日商1万円から接客教育で3カ月後10万円、軍隊式組織・肉屋経営・酒販売中止を経て25万円
吉野家は1968年12月、チェーン展開による多店舗化を目指して新橋に2号店を開店した。発端は1965年ごろ、年商1億円の一店を2億円、3億円へどう増やすかという課題だった。商業セミナーを機に得たのは、店舗の数を増やせば売上高は倍増するという着想。松田瑞穂社長がたどり着いた結論は、『年商1億の店を三つ作ればいいじゃないか』というものであった。その店の作り方を学ぶため、松田瑞穂社長は米国の業界視察旅行に参加し、何百ものチェーンが毎日大量の売上高を上げる姿を見た。当時の日本で年商1億円を上げる飲食店は、百貨店の食堂くらいだった。一店の家業から多店舗の企業へ移る判断は、米国のチェーンという先行例を目にして下されたのだろう。
- 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [7]1968年12月、チェーン展開による多店舗化を目指し新橋に2号店を開店
- 日経ビジネス 1976年11月8日号
- [8]昭和40年ごろ年商1億円を2億・3億に高めようと悩み、商業セミナーで店舗を増やせば売上が倍増すると気付いた
- [9]昭和40年ごろ年商1億円を2億・3億に高めようと悩み、商業セミナーで店舗を増やせば売上が倍増すると気付いた
- 日経ビジネス 1978年8月28日号 編集長インタビュー 松田瑞穂氏
- [10]年商1億円の店を三つ作ればよいと結論し、米国の業界視察旅行で数百のチェーンを見た。当時日本で年商1億円の店は百貨店の食堂程度
- [11]年商1億円の店を三つ作ればよいと結論し、米国の業界視察旅行で数百のチェーンを見た。当時日本で年商1億円の店は百貨店の食堂程度
- [12]年商1億円の店を三つ作ればよいと結論し、米国の業界視察旅行で数百のチェーンを見た。当時日本で年商1億円の店は百貨店の食堂程度
参考文献[1]-[12]
- 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1958年12月に株式会社吉野家を設立
- [7]1968年12月、チェーン展開による多店舗化を目指し新橋に2号店を開店
- 日経ビジネス 1978年8月28日号 編集長インタビュー 松田瑞穂氏
- [2]松田瑞穂氏は1948年中央大学卒業後に築地の家業の牛丼屋を継ぎ、1958年に株式会社吉野家を設立し社長に就任
- [10]年商1億円の店を三つ作ればよいと結論し、米国の業界視察旅行で数百のチェーンを見た。当時日本で年商1億円の店は百貨店の食堂程度
- [11]年商1億円の店を三つ作ればよいと結論し、米国の業界視察旅行で数百のチェーンを見た。当時日本で年商1億円の店は百貨店の食堂程度
- [12]年商1億円の店を三つ作ればよいと結論し、米国の業界視察旅行で数百のチェーンを見た。当時日本で年商1億円の店は百貨店の食堂程度
- 日経ビジネス 1976年11月8日号
- [3]昭和40年ごろの吉野家は1店・年商1億円ほど
- [8]昭和40年ごろ年商1億円を2億・3億に高めようと悩み、商業セミナーで店舗を増やせば売上が倍増すると気付いた
- [9]昭和40年ごろ年商1億円を2億・3億に高めようと悩み、商業セミナーで店舗を増やせば売上が倍増すると気付いた
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [4]1959年1月に築地市場内に1号店を開店。日商1万円から接客教育で3カ月後10万円、軍隊式組織・肉屋経営・酒販売中止を経て25万円
- [5]1959年1月に築地市場内に1号店を開店。日商1万円から接客教育で3カ月後10万円、軍隊式組織・肉屋経営・酒販売中止を経て25万円
- [6]1959年1月に築地市場内に1号店を開店。日商1万円から接客教育で3カ月後10万円、軍隊式組織・肉屋経営・酒販売中止を経て25万円
1971年〜杉戸の加工配送センターと、フランチャイズで展開した直営22店・加盟43店
吉野家は1971年に電算機を導入し、埼玉県杉戸に加工配送センターを開設した。目的は事務と原料調達の合理化である。1976年には、機械化した東京・世田谷工場で働く3人が、ほぼ全店で使う牛肉を加工した。調味料の調合も全店分を1日2人でこなし、しょう油は8トンのタンクローリーで運んで物流費を抑えた。紅しょうがもコンテナ単位の大量購入と機械による刻みで、費用は3分の1に下がった。管理面では全店の営業実績を留守番電話で報告させ、翌日の午後3時すぎには前日分の損益計算書と貸借対照表を手にした。1杯300円の牛丼を同じ味と原価で出し続けるには、原料と事務を本部に寄せる仕組みが要ったと考えられる。
- 日経ビジネス 1976年11月8日号
- [13]1971年に電算機導入、埼玉県杉戸に加工配送センターを開設し事務・原料調達を合理化。世田谷工場では3人でほぼ全店の牛肉を加工
- [14]1971年に電算機導入、埼玉県杉戸に加工配送センターを開設し事務・原料調達を合理化。世田谷工場では3人でほぼ全店の牛肉を加工
- [15]1971年に電算機導入、埼玉県杉戸に加工配送センターを開設し事務・原料調達を合理化。世田谷工場では3人でほぼ全店の牛肉を加工
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [16]調味料調合は全店分を1日2人、しょう油は8トン車のタンクローリーで運搬。留守番電話で営業実績を報告させ翌日午後3時すぎに損益計算書・貸借対照表を入手。紅しょうがはコンテナで仕入れ機械で刻みコスト3分の1
- [17]調味料調合は全店分を1日2人、しょう油は8トン車のタンクローリーで運搬。留守番電話で営業実績を報告させ翌日午後3時すぎに損益計算書・貸借対照表を入手。紅しょうがはコンテナで仕入れ機械で刻みコスト3分の1
- [18]調味料調合は全店分を1日2人、しょう油は8トン車のタンクローリーで運搬。留守番電話で営業実績を報告させ翌日午後3時すぎに損益計算書・貸借対照表を入手。紅しょうがはコンテナで仕入れ機械で刻みコスト3分の1
吉野家は1972年にフランチャイジーの募集を始めた。1976年時点の資本金は4200万円で、直営だけで出店を重ねる資金は限られた。加盟店の仕組みでは、本部が経営のノウハウに加えて人材まで派遣し、加盟者は資金と店舗の場所を用意すれば開店できた。牛丼を1杯300円で売る価格政策の根には、『コストを積み上げて価格を設定するのではなく、売れる価格に見合う商品をつくる』という松田瑞穂社長の考えがあった。店数が増えれば、原材料の大量仕入れで原価も下がる。チェーンの売上高は1974年の25億8800万円から1976年の58億2900万円に拡大し、このうち加盟店分は3億4800万円から20億1500万円へ増えた。1977年12月末には155店のうち106店を加盟店が占めた。
- 日経ビジネス 1976年11月8日号
- [19]1972年フランチャイジー募集開始。資本金4200万円。本部がノウハウと人材を派遣。牛丼300円。チェーン売上高は1974年2588百万円(FC348)から1976年5829百万円(FC2015)、日経流通新聞調べ・暦年
- [20]1972年フランチャイジー募集開始。資本金4200万円。本部がノウハウと人材を派遣。牛丼300円。チェーン売上高は1974年2588百万円(FC348)から1976年5829百万円(FC2015)、日経流通新聞調べ・暦年
- [21]1972年フランチャイジー募集開始。資本金4200万円。本部がノウハウと人材を派遣。牛丼300円。チェーン売上高は1974年2588百万円(FC348)から1976年5829百万円(FC2015)、日経流通新聞調べ・暦年
- [22]1972年フランチャイジー募集開始。資本金4200万円。本部がノウハウと人材を派遣。牛丼300円。チェーン売上高は1974年2588百万円(FC348)から1976年5829百万円(FC2015)、日経流通新聞調べ・暦年
- [23]1972年フランチャイジー募集開始。資本金4200万円。本部がノウハウと人材を派遣。牛丼300円。チェーン売上高は1974年2588百万円(FC348)から1976年5829百万円(FC2015)、日経流通新聞調べ・暦年
- [24]1972年フランチャイジー募集開始。資本金4200万円。本部がノウハウと人材を派遣。牛丼300円。チェーン売上高は1974年2588百万円(FC348)から1976年5829百万円(FC2015)、日経流通新聞調べ・暦年
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [25]1977年12月末の店舗数155(直営49、フランチャイズ106)
1976年11月の吉野家は直営22店、加盟店43店の規模で、従業員は110人、パートは約250人だった。フランチャイズ経営を発生・拡大・安定の3段階に分けると、吉野家は拡大期、先行するケンタッキー・フライド・チキン(KFC)は安定期にあたる。加盟店への人材の派遣も300円の価格の優位も、店数と販売量が増え続けることを前提にしていた。KFCは2度の買収で外部の人材と経営力を得て、拡大から安定の段階へ移った。これに対し、松田瑞穂社長は商社と提携して外部の経営力を取り入れる案を否定した。翌1977年12月末の店舗数は155店で、前年同期の73店から2倍以上に増えた。店数の増加が止まったときの備えを欠いたまま、出店の速度だけが上がったと推察される。
- 日経ビジネス 1976年11月8日号
- [26]1976年11月時点で直営22店・FC43店、従業員110人・パート約250人。吉野家は拡大期・KFCは安定期。人材派遣と価格優位は店数増加が前提。KFCは買収で外部の経営力を得た。松田社長は商社との提携を否定
- [27]1976年11月時点で直営22店・FC43店、従業員110人・パート約250人。吉野家は拡大期・KFCは安定期。人材派遣と価格優位は店数増加が前提。KFCは買収で外部の経営力を得た。松田社長は商社との提携を否定
- [28]1976年11月時点で直営22店・FC43店、従業員110人・パート約250人。吉野家は拡大期・KFCは安定期。人材派遣と価格優位は店数増加が前提。KFCは買収で外部の経営力を得た。松田社長は商社との提携を否定
- [29]1976年11月時点で直営22店・FC43店、従業員110人・パート約250人。吉野家は拡大期・KFCは安定期。人材派遣と価格優位は店数増加が前提。KFCは買収で外部の経営力を得た。松田社長は商社との提携を否定
- [30]1976年11月時点で直営22店・FC43店、従業員110人・パート約250人。吉野家は拡大期・KFCは安定期。人材派遣と価格優位は店数増加が前提。KFCは買収で外部の経営力を得た。松田社長は商社との提携を否定
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [31]店舗数は1976年12月末73店から1977年12月末155店へ
参考文献[13]-[31]
- 日経ビジネス 1976年11月8日号
- [13]1971年に電算機導入、埼玉県杉戸に加工配送センターを開設し事務・原料調達を合理化。世田谷工場では3人でほぼ全店の牛肉を加工
- [14]1971年に電算機導入、埼玉県杉戸に加工配送センターを開設し事務・原料調達を合理化。世田谷工場では3人でほぼ全店の牛肉を加工
- [15]1971年に電算機導入、埼玉県杉戸に加工配送センターを開設し事務・原料調達を合理化。世田谷工場では3人でほぼ全店の牛肉を加工
- [19]1972年フランチャイジー募集開始。資本金4200万円。本部がノウハウと人材を派遣。牛丼300円。チェーン売上高は1974年2588百万円(FC348)から1976年5829百万円(FC2015)、日経流通新聞調べ・暦年
- [20]1972年フランチャイジー募集開始。資本金4200万円。本部がノウハウと人材を派遣。牛丼300円。チェーン売上高は1974年2588百万円(FC348)から1976年5829百万円(FC2015)、日経流通新聞調べ・暦年
- [21]1972年フランチャイジー募集開始。資本金4200万円。本部がノウハウと人材を派遣。牛丼300円。チェーン売上高は1974年2588百万円(FC348)から1976年5829百万円(FC2015)、日経流通新聞調べ・暦年
- [22]1972年フランチャイジー募集開始。資本金4200万円。本部がノウハウと人材を派遣。牛丼300円。チェーン売上高は1974年2588百万円(FC348)から1976年5829百万円(FC2015)、日経流通新聞調べ・暦年
- [23]1972年フランチャイジー募集開始。資本金4200万円。本部がノウハウと人材を派遣。牛丼300円。チェーン売上高は1974年2588百万円(FC348)から1976年5829百万円(FC2015)、日経流通新聞調べ・暦年
- [24]1972年フランチャイジー募集開始。資本金4200万円。本部がノウハウと人材を派遣。牛丼300円。チェーン売上高は1974年2588百万円(FC348)から1976年5829百万円(FC2015)、日経流通新聞調べ・暦年
- [26]1976年11月時点で直営22店・FC43店、従業員110人・パート約250人。吉野家は拡大期・KFCは安定期。人材派遣と価格優位は店数増加が前提。KFCは買収で外部の経営力を得た。松田社長は商社との提携を否定
- [27]1976年11月時点で直営22店・FC43店、従業員110人・パート約250人。吉野家は拡大期・KFCは安定期。人材派遣と価格優位は店数増加が前提。KFCは買収で外部の経営力を得た。松田社長は商社との提携を否定
- [28]1976年11月時点で直営22店・FC43店、従業員110人・パート約250人。吉野家は拡大期・KFCは安定期。人材派遣と価格優位は店数増加が前提。KFCは買収で外部の経営力を得た。松田社長は商社との提携を否定
- [29]1976年11月時点で直営22店・FC43店、従業員110人・パート約250人。吉野家は拡大期・KFCは安定期。人材派遣と価格優位は店数増加が前提。KFCは買収で外部の経営力を得た。松田社長は商社との提携を否定
- [30]1976年11月時点で直営22店・FC43店、従業員110人・パート約250人。吉野家は拡大期・KFCは安定期。人材派遣と価格優位は店数増加が前提。KFCは買収で外部の経営力を得た。松田社長は商社との提携を否定
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [16]調味料調合は全店分を1日2人、しょう油は8トン車のタンクローリーで運搬。留守番電話で営業実績を報告させ翌日午後3時すぎに損益計算書・貸借対照表を入手。紅しょうがはコンテナで仕入れ機械で刻みコスト3分の1
- [17]調味料調合は全店分を1日2人、しょう油は8トン車のタンクローリーで運搬。留守番電話で営業実績を報告させ翌日午後3時すぎに損益計算書・貸借対照表を入手。紅しょうがはコンテナで仕入れ機械で刻みコスト3分の1
- [18]調味料調合は全店分を1日2人、しょう油は8トン車のタンクローリーで運搬。留守番電話で営業実績を報告させ翌日午後3時すぎに損益計算書・貸借対照表を入手。紅しょうがはコンテナで仕入れ機械で刻みコスト3分の1
- [25]1977年12月末の店舗数155(直営49、フランチャイズ106)
- [31]店舗数は1976年12月末73店から1977年12月末155店へ
1977年〜デンバーのウエルトン店に始まる米国チェーンと、年商180億円を見込んだ急膨張
吉野家は1977年11月、米国西海岸での店舗展開を目的にYOSHINOYA WEST,INC.を設立した。出発点は、1973年3月に牛肉の買い付けを目的としてデンバーに置いた現地法人の米国吉野家だった。牛肉の輸入規制で本来の仕事を失い、米国吉野家は人材を遊ばせないために牛丼店を始めた。1号店は1975年2月にデンバーのダウンタウンで開いたウエルトン店である。米国の客の6割は女性で、米飯が美容食として受け、加盟の希望は1978年1月までに360人を超えた。国内は人口10万人に1店の出店基準に照らすと、1978年末の215店で飽和に近づく見通しだった。国内の頭打ちと米国での手応えが重なり、全米へのチェーン展開に経営資源を振り向けたと思われる。
- 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [32]1977年11月、米国西海岸での店舗展開を目的にYOSHINOYA WEST,INC.を設立
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- [33]米国吉野家は1973年3月15日に牛肉買い付け目的でデンバーに設立。1975年2月にダウンタウンでウエルトン店を開店
- [35]米国吉野家は1973年3月15日に牛肉買い付け目的でデンバーに設立。1975年2月にダウンタウンでウエルトン店を開店
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [34]牛肉輸入規制で仕事を失い人材活用のため牛丼店を開業。客の60%が女性、ライスが美容食として人気。FC加盟希望者360人超。人口10万人に1店の戦略で1978年末215店となり国内はほぼ飽和
- [36]牛肉輸入規制で仕事を失い人材活用のため牛丼店を開業。客の60%が女性、ライスが美容食として人気。FC加盟希望者360人超。人口10万人に1店の戦略で1978年末215店となり国内はほぼ飽和
- [37]牛肉輸入規制で仕事を失い人材活用のため牛丼店を開業。客の60%が女性、ライスが美容食として人気。FC加盟希望者360人超。人口10万人に1店の戦略で1978年末215店となり国内はほぼ飽和
吉野家は1978年夏に「吉野家総合情報システム」を導入する計画を固めた。全国の店舗、工場、配送センターに約250台の端末を置き、販売、在庫、原価の管理をオンラインで結ぶ。表示用のディスプレーは各地区本部と本部の社長室に加え、松田瑞穂社長の自宅にも置く計画とした。ねらいは、店舗ごとの経営指導や原料ロスにまで社長の目を届かせることにあった。1978年8月時点では全店の計数を30分後に把握でき、電算機の費用は月1000万円、1店あたり5万円だった。松田瑞穂社長が見たのは異常値で、普段50万円を売る店が40万円に下がれば原因をすぐ追及できた。店数が1年で倍に増え、社長が各地を回って確かめるだけでは全店の動きを追えなくなったのだろう。
- 日経ビジネス 1978年5月8日号
- [38]1978年夏に吉野家総合情報システムを導入予定。店舗・工場・配送センターに約250台の端末で販売・在庫・原価をオンライン化。ディスプレーを地区本部・社長室・社長宅に設置予定
- [39]1978年夏に吉野家総合情報システムを導入予定。店舗・工場・配送センターに約250台の端末で販売・在庫・原価をオンライン化。ディスプレーを地区本部・社長室・社長宅に設置予定
- [40]1978年夏に吉野家総合情報システムを導入予定。店舗・工場・配送センターに約250台の端末で販売・在庫・原価をオンライン化。ディスプレーを地区本部・社長室・社長宅に設置予定
- [41]1978年夏に吉野家総合情報システムを導入予定。店舗・工場・配送センターに約250台の端末で販売・在庫・原価をオンライン化。ディスプレーを地区本部・社長室・社長宅に設置予定
- 日経ビジネス 1978年8月28日号 編集長インタビュー 松田瑞穂氏
- [42]全店の計数を30分後に把握。電算機費用は月1000万円・200店で1店5万円。社長は異常値をチェック
- [43]全店の計数を30分後に把握。電算機費用は月1000万円・200店で1店5万円。社長は異常値をチェック
1978年8月時点で、吉野家は年商が1977年の81億円から1978年に180億円へ増えると見込んだ。経常利益の見込みは5億円から13億5000万円への拡大。従業員は1977年の250人から400人に増え、このうち49人を2週間の米国視察に送り出した。国内では241店分の出店用地を用意し、米国ではロサンゼルスに60店を1年で開設する計画を立てた。店長候補は毎月5人ずつ米国で研修を受けさせ、1年で60人をそろえる段取りだった。この拡大の2年後、吉野家は1980年7月に会社更生手続開始を申し立てた。売上高が1年で倍を超える見込みのもとで人と店を同時に増やしたことが、更生手続の申立ての遠因になったとみてよい。
- 日経ビジネス 1978年8月28日号 編集長インタビュー 松田瑞穂氏
- [44]年商は1977年81億円(経常利益5億円)、1978年180億円(同13億5000万円)見込み。従業員250人から400人、うち49人を米国視察。出店用地241店分。ロサンゼルス60店を1年で。店長候補を毎月5人米国研修
- [45]年商は1977年81億円(経常利益5億円)、1978年180億円(同13億5000万円)見込み。従業員250人から400人、うち49人を米国視察。出店用地241店分。ロサンゼルス60店を1年で。店長候補を毎月5人米国研修
- [46]年商は1977年81億円(経常利益5億円)、1978年180億円(同13億5000万円)見込み。従業員250人から400人、うち49人を米国視察。出店用地241店分。ロサンゼルス60店を1年で。店長候補を毎月5人米国研修
- [47]年商は1977年81億円(経常利益5億円)、1978年180億円(同13億5000万円)見込み。従業員250人から400人、うち49人を米国視察。出店用地241店分。ロサンゼルス60店を1年で。店長候補を毎月5人米国研修
- [48]年商は1977年81億円(経常利益5億円)、1978年180億円(同13億5000万円)見込み。従業員250人から400人、うち49人を米国視察。出店用地241店分。ロサンゼルス60店を1年で。店長候補を毎月5人米国研修
- 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [49]1980年7月に会社更生手続開始を申立て
参考文献[32]-[49]
- 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [32]1977年11月、米国西海岸での店舗展開を目的にYOSHINOYA WEST,INC.を設立
- [49]1980年7月に会社更生手続開始を申立て
- 日経ビジネス 1979年5月21日号
- [33]米国吉野家は1973年3月15日に牛肉買い付け目的でデンバーに設立。1975年2月にダウンタウンでウエルトン店を開店
- [35]米国吉野家は1973年3月15日に牛肉買い付け目的でデンバーに設立。1975年2月にダウンタウンでウエルトン店を開店
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- [34]牛肉輸入規制で仕事を失い人材活用のため牛丼店を開業。客の60%が女性、ライスが美容食として人気。FC加盟希望者360人超。人口10万人に1店の戦略で1978年末215店となり国内はほぼ飽和
- [36]牛肉輸入規制で仕事を失い人材活用のため牛丼店を開業。客の60%が女性、ライスが美容食として人気。FC加盟希望者360人超。人口10万人に1店の戦略で1978年末215店となり国内はほぼ飽和
- [37]牛肉輸入規制で仕事を失い人材活用のため牛丼店を開業。客の60%が女性、ライスが美容食として人気。FC加盟希望者360人超。人口10万人に1店の戦略で1978年末215店となり国内はほぼ飽和
- 日経ビジネス 1978年5月8日号
- [38]1978年夏に吉野家総合情報システムを導入予定。店舗・工場・配送センターに約250台の端末で販売・在庫・原価をオンライン化。ディスプレーを地区本部・社長室・社長宅に設置予定
- [39]1978年夏に吉野家総合情報システムを導入予定。店舗・工場・配送センターに約250台の端末で販売・在庫・原価をオンライン化。ディスプレーを地区本部・社長室・社長宅に設置予定
- [40]1978年夏に吉野家総合情報システムを導入予定。店舗・工場・配送センターに約250台の端末で販売・在庫・原価をオンライン化。ディスプレーを地区本部・社長室・社長宅に設置予定
- [41]1978年夏に吉野家総合情報システムを導入予定。店舗・工場・配送センターに約250台の端末で販売・在庫・原価をオンライン化。ディスプレーを地区本部・社長室・社長宅に設置予定
- 日経ビジネス 1978年8月28日号 編集長インタビュー 松田瑞穂氏
- [42]全店の計数を30分後に把握。電算機費用は月1000万円・200店で1店5万円。社長は異常値をチェック
- [43]全店の計数を30分後に把握。電算機費用は月1000万円・200店で1店5万円。社長は異常値をチェック
- [44]年商は1977年81億円(経常利益5億円)、1978年180億円(同13億5000万円)見込み。従業員250人から400人、うち49人を米国視察。出店用地241店分。ロサンゼルス60店を1年で。店長候補を毎月5人米国研修
- [45]年商は1977年81億円(経常利益5億円)、1978年180億円(同13億5000万円)見込み。従業員250人から400人、うち49人を米国視察。出店用地241店分。ロサンゼルス60店を1年で。店長候補を毎月5人米国研修
- [46]年商は1977年81億円(経常利益5億円)、1978年180億円(同13億5000万円)見込み。従業員250人から400人、うち49人を米国視察。出店用地241店分。ロサンゼルス60店を1年で。店長候補を毎月5人米国研修
- [47]年商は1977年81億円(経常利益5億円)、1978年180億円(同13億5000万円)見込み。従業員250人から400人、うち49人を米国視察。出店用地241店分。ロサンゼルス60店を1年で。店長候補を毎月5人米国研修
- [48]年商は1977年81億円(経常利益5億円)、1978年180億円(同13億5000万円)見込み。従業員250人から400人、うち49人を米国視察。出店用地241店分。ロサンゼルス60店を1年で。店長候補を毎月5人米国研修
出典・参考
6件
- 吉野家ホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1976年11月8日号
- 日経ビジネス 1978年8月28日号 編集長インタビュー 松田瑞穂氏
- 日経ビジネス 1978年1月16日号
- 日経ビジネス 1978年5月8日号
- 日経ビジネス 1979年5月21日号