京王電鉄:京王電気軌道の開業と玉南電気鉄道の合併
1910年〜資本金125万円で笹塚から走り出した京王電気軌道と、井上篤太郎氏の立て直し
京王電気軌道は1910年9月21日、資本金125万円で創立された。源流は1905年に渡辺熊之進氏を発起人代表として出願した日本電気鉄道にある。同社は1906年に武蔵電気軌道と改称して本線の終点を八王子まで延長し、1907年6月25日に新宿〜八王子の特許を得た。着工が遅れたのは、1907年の金融恐慌で鉄道を含む起業計画の多くが見送られたためである。新会社は払込みを資本金の4分の1とし、社名は東京と八王子から1字ずつ取った。創立趣意書は、甲州街道沿いの沿線が『忽チ東京府下ニ於ケル重要ナル副市街ト化シ』と見込み、多摩川べりに花園や運動場を設ける構想も記した。東京が西へ広がれば郊外の足が要るという読みが、恐慌明けの発起を支えたとみられる。
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「京王電気軌道株式会社」
- [1]1910年9月21日に資本金125万円で京王電気軌道を創立
- 『会社銀行八十年史』1955「京王帝都電鉄」
- [2]京王帝都電鉄の源流は1910年9月設立の資本金125万円の京王電気軌道
- ダイヤモンド社『ポケット社史 京王帝都』(1968年)
- [3]1905年12月に日本電気鉄道(発起人代表・渡辺熊之進)が出願、1906年武蔵電気軌道に改称し新宿〜八王子へ延長、1907年6月25日特許。1907年恐慌で着工遅延。払込み4分の1、社名は東京と八王子から。趣意書に副市街化・花園運動場の構想
- [4]1905年12月に日本電気鉄道(発起人代表・渡辺熊之進)が出願、1906年武蔵電気軌道に改称し新宿〜八王子へ延長、1907年6月25日特許。1907年恐慌で着工遅延。払込み4分の1、社名は東京と八王子から。趣意書に副市街化・花園運動場の構想
- [5]1905年12月に日本電気鉄道(発起人代表・渡辺熊之進)が出願、1906年武蔵電気軌道に改称し新宿〜八王子へ延長、1907年6月25日特許。1907年恐慌で着工遅延。払込み4分の1、社名は東京と八王子から。趣意書に副市街化・花園運動場の構想
- [6]1905年12月に日本電気鉄道(発起人代表・渡辺熊之進)が出願、1906年武蔵電気軌道に改称し新宿〜八王子へ延長、1907年6月25日特許。1907年恐慌で着工遅延。払込み4分の1、社名は東京と八王子から。趣意書に副市街化・花園運動場の構想
- [7]1905年12月に日本電気鉄道(発起人代表・渡辺熊之進)が出願、1906年武蔵電気軌道に改称し新宿〜八王子へ延長、1907年6月25日特許。1907年恐慌で着工遅延。払込み4分の1、社名は東京と八王子から。趣意書に副市街化・花園運動場の構想
京王電気軌道は1912年6月に笹塚〜調布の12.1キロを第1期工事として着工し、1913年4月15日に同区間で電車の営業を始めた。車両は40人乗りの四輪電車6両、線路は単線。同じ日に新宿〜笹塚と調布〜国分寺で乗合自動車の運行も始め、電車の通らない両端を補った。1913年上期の乗客は電車の3万7413人に対して自動車が2万7167人に上り、そのうち2万2679人が新宿〜笹塚の利用だった。電車の乗客は1913年下期に13万7200人、1日平均750人にとどまった。電灯の供給の開始は電車より早い1913年1月1日で、対象は調布町付近の4町村である。都心側の起点を欠いた開業だったため、新宿への延伸が経営の急務になったと推察される。
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「京王電気軌道株式会社」
- [8]1912年6月笹塚〜調布12.1キロ着工、1913年4月15日開通。同日新宿〜笹塚・調布〜国分寺でバス連絡を開始
- [10]1912年6月笹塚〜調布12.1キロ着工、1913年4月15日開通。同日新宿〜笹塚・調布〜国分寺でバス連絡を開始
- ダイヤモンド社『ポケット社史 京王帝都』(1968年)
- [9]開業時は単線12.2キロ・40人定員の四輪電車6両。1913年上期の乗客は電車37,413人、自動車27,167人(うち新宿〜笹塚22,679人)。1913年下期乗客13万7200人(1日平均750人)
- [11]開業時は単線12.2キロ・40人定員の四輪電車6両。1913年上期の乗客は電車37,413人、自動車27,167人(うち新宿〜笹塚22,679人)。1913年下期乗客13万7200人(1日平均750人)
- [12]開業時は単線12.2キロ・40人定員の四輪電車6両。1913年上期の乗客は電車37,413人、自動車27,167人(うち新宿〜笹塚22,679人)。1913年下期乗客13万7200人(1日平均750人)
- 『会社銀行八十年史』1955「京王帝都電鉄」
- [13]1913年から調布町・多摩村・府中町に電気供給を開始
京王電気軌道は1913年下期から1915年上期まで、借入金の負担と運賃収入の停滞で赤字決算を続けた。打開策は延伸で、1915年5月1日に新宿〜笹塚、1916年10月30日に飛田給〜府中を開通させて新宿〜府中の21.9キロを直通にした。1915年下期に黒字へ転じ、1916年下期に初めて配当を実施し、乗客は1917年上期に半期で100万人を超えた。資本金は1918年に250万円、1921年に550万円へ増資。経営を担った井上篤太郎氏は神奈川県会議員を経て富士紡績の社長に見出され、同社で支配人を務めた人物である。1925年の役員名簿には、専務取締役として井上篤太郎氏の名が見える。紡績会社で積んだ経営の経験が、延伸と増資を進める力になったとみられる。
- ダイヤモンド社『ポケット社史 京王帝都』(1968年)
- [14]1913年下期〜1915年上期は借入金と運賃収入停滞で赤字、1915年下期黒字、1916年下期初配当。1917年上期に乗客100万人超
- [16]1913年下期〜1915年上期は借入金と運賃収入停滞で赤字、1915年下期黒字、1916年下期初配当。1917年上期に乗客100万人超
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「京王電気軌道株式会社」
- [15]1915年5月1日新宿〜笹塚、1916年10月30日飛田給〜府中開通で新宿〜府中21.9キロ直通。資本金1918年250万円、1921年550万円
- [17]1915年5月1日新宿〜笹塚、1916年10月30日飛田給〜府中開通で新宿〜府中21.9キロ直通。資本金1918年250万円、1921年550万円
- 事業之日本 6(10) 1927「富士絹は誰が發明したか――〔世界的發明家井上篤太郎氏〕」
- [18]井上篤太郎は神奈川県会議員を経て富士紡績の社長に見出され、支配人・商務部長を務めた
- 実業 7(6) 1925年「創業十五週年の京王電車會社――事業評論」
- [19]1925年時点の京王電車の役員に取締役(専務)井上篤太郎
参考文献[1]-[19]
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「京王電気軌道株式会社」
- [1]1910年9月21日に資本金125万円で京王電気軌道を創立
- [8]1912年6月笹塚〜調布12.1キロ着工、1913年4月15日開通。同日新宿〜笹塚・調布〜国分寺でバス連絡を開始
- [10]1912年6月笹塚〜調布12.1キロ着工、1913年4月15日開通。同日新宿〜笹塚・調布〜国分寺でバス連絡を開始
- [15]1915年5月1日新宿〜笹塚、1916年10月30日飛田給〜府中開通で新宿〜府中21.9キロ直通。資本金1918年250万円、1921年550万円
- [17]1915年5月1日新宿〜笹塚、1916年10月30日飛田給〜府中開通で新宿〜府中21.9キロ直通。資本金1918年250万円、1921年550万円
- 『会社銀行八十年史』1955「京王帝都電鉄」
- [2]京王帝都電鉄の源流は1910年9月設立の資本金125万円の京王電気軌道
- [13]1913年から調布町・多摩村・府中町に電気供給を開始
- ダイヤモンド社『ポケット社史 京王帝都』(1968年)
- [3]1905年12月に日本電気鉄道(発起人代表・渡辺熊之進)が出願、1906年武蔵電気軌道に改称し新宿〜八王子へ延長、1907年6月25日特許。1907年恐慌で着工遅延。払込み4分の1、社名は東京と八王子から。趣意書に副市街化・花園運動場の構想
- [4]1905年12月に日本電気鉄道(発起人代表・渡辺熊之進)が出願、1906年武蔵電気軌道に改称し新宿〜八王子へ延長、1907年6月25日特許。1907年恐慌で着工遅延。払込み4分の1、社名は東京と八王子から。趣意書に副市街化・花園運動場の構想
- [5]1905年12月に日本電気鉄道(発起人代表・渡辺熊之進)が出願、1906年武蔵電気軌道に改称し新宿〜八王子へ延長、1907年6月25日特許。1907年恐慌で着工遅延。払込み4分の1、社名は東京と八王子から。趣意書に副市街化・花園運動場の構想
- [6]1905年12月に日本電気鉄道(発起人代表・渡辺熊之進)が出願、1906年武蔵電気軌道に改称し新宿〜八王子へ延長、1907年6月25日特許。1907年恐慌で着工遅延。払込み4分の1、社名は東京と八王子から。趣意書に副市街化・花園運動場の構想
- [7]1905年12月に日本電気鉄道(発起人代表・渡辺熊之進)が出願、1906年武蔵電気軌道に改称し新宿〜八王子へ延長、1907年6月25日特許。1907年恐慌で着工遅延。払込み4分の1、社名は東京と八王子から。趣意書に副市街化・花園運動場の構想
- [9]開業時は単線12.2キロ・40人定員の四輪電車6両。1913年上期の乗客は電車37,413人、自動車27,167人(うち新宿〜笹塚22,679人)。1913年下期乗客13万7200人(1日平均750人)
- [11]開業時は単線12.2キロ・40人定員の四輪電車6両。1913年上期の乗客は電車37,413人、自動車27,167人(うち新宿〜笹塚22,679人)。1913年下期乗客13万7200人(1日平均750人)
- [12]開業時は単線12.2キロ・40人定員の四輪電車6両。1913年上期の乗客は電車37,413人、自動車27,167人(うち新宿〜笹塚22,679人)。1913年下期乗客13万7200人(1日平均750人)
- [14]1913年下期〜1915年上期は借入金と運賃収入停滞で赤字、1915年下期黒字、1916年下期初配当。1917年上期に乗客100万人超
- [16]1913年下期〜1915年上期は借入金と運賃収入停滞で赤字、1915年下期黒字、1916年下期初配当。1917年上期に乗客100万人超
- 事業之日本 6(10) 1927「富士絹は誰が發明したか――〔世界的發明家井上篤太郎氏〕」
- [18]井上篤太郎は神奈川県会議員を経て富士紡績の社長に見出され、支配人・商務部長を務めた
- 実業 7(6) 1925年「創業十五週年の京王電車會社――事業評論」
- [19]1925年時点の京王電車の役員に取締役(専務)井上篤太郎
1920年〜玉南電気鉄道で東八王子へ延ばした線路と、軌間1372ミリでつないだ直通運転
京王電気軌道は開業当初の業績不振で府中〜八王子の建設に着手できず、その特許を取り消された。沿線の有志は1920年11月10日に八王子で発起人会を開催し、井上篤太郎氏ら13人を常任委員に選んで敷設免許を申請した。免許は地方鉄道法によって1921年10月に下りた。1921年12月の株主総会で会社側は、別会社で敷設すれば『政府の補助があるから、この間の苦痛が少ない』と説き、乗客が増えてから合併する案を示した。1922年7月27日、資本金150万円で玉南電気鉄道が設立され、社長には井上篤太郎氏が就任。資本の4割は京王電気軌道が出資し、1925年3月24日に府中〜八王子の16キロを開業した。1925年の業界誌は、玉南を京王と将来合同する姉妹会社と位置づけた。
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「京王電気軌道株式会社」
- [20]府中〜八王子は業績不振で特許取消。1922年7月27日に地方鉄道法で玉南電気鉄道を資本金150万円で設立、社長井上篤太郎
- [24]府中〜八王子は業績不振で特許取消。1922年7月27日に地方鉄道法で玉南電気鉄道を資本金150万円で設立、社長井上篤太郎
- ダイヤモンド社『ポケット社史 京王帝都』(1968年)
- [21]1920年11月10日八王子で発起人会、井上篤太郎ら13人が常任委員、1921年10月免許。1921年12月株主総会の会社提案で補助を理由に別会社とし後に合併。資本の4割を京王が出資、1925年3月24日16キロ開業
- [22]1920年11月10日八王子で発起人会、井上篤太郎ら13人が常任委員、1921年10月免許。1921年12月株主総会の会社提案で補助を理由に別会社とし後に合併。資本の4割を京王が出資、1925年3月24日16キロ開業
- [23]1920年11月10日八王子で発起人会、井上篤太郎ら13人が常任委員、1921年10月免許。1921年12月株主総会の会社提案で補助を理由に別会社とし後に合併。資本の4割を京王が出資、1925年3月24日16キロ開業
- [25]1920年11月10日八王子で発起人会、井上篤太郎ら13人が常任委員、1921年10月免許。1921年12月株主総会の会社提案で補助を理由に別会社とし後に合併。資本の4割を京王が出資、1925年3月24日16キロ開業
- 実業 7(6) 1925年「創業十五週年の京王電車會社――事業評論」
- [26]玉南鉄道は京王の姉妹会社で将来合同の立場にあると評された
玉南電気鉄道は、当てにした政府の補助金を最後まで得られなかった。両社は通し乗車券を発売し、合算67銭の運賃を省線の新宿〜八王子と同じ58銭に割り引いた。府中で待ち時間なしに乗り継ぐダイヤを組み、新宿〜八王子を1時間24分で結んだ。それでも直通の客は府中での乗り換えを嫌い、両線の軌間の違いが相互乗り入れを阻んだ。京王電気軌道は1926年12月に玉南電気鉄道を合併し、資本金は1,290万円となった。府中〜八王子の改軌は1927年5月31日に終わり、1928年5月22日に新宿〜八王子の直通運転が始まった。1927年下期の旧玉南線の乗客は前年同期を4割9分5厘上回った。
- ダイヤモンド社『ポケット社史 京王帝都』(1968年)
- [27]補助金は得られず。通し乗車券で67銭を省線と同額の58銭に割引。府中接続ダイヤで新宿〜八王子1時間24分。軌間が異なり乗り換えが不満。改軌は1927年5月31日完了
- [28]補助金は得られず。通し乗車券で67銭を省線と同額の58銭に割引。府中接続ダイヤで新宿〜八王子1時間24分。軌間が異なり乗り換えが不満。改軌は1927年5月31日完了
- [29]補助金は得られず。通し乗車券で67銭を省線と同額の58銭に割引。府中接続ダイヤで新宿〜八王子1時間24分。軌間が異なり乗り換えが不満。改軌は1927年5月31日完了
- [30]補助金は得られず。通し乗車券で67銭を省線と同額の58銭に割引。府中接続ダイヤで新宿〜八王子1時間24分。軌間が異なり乗り換えが不満。改軌は1927年5月31日完了
- [32]補助金は得られず。通し乗車券で67銭を省線と同額の58銭に割引。府中接続ダイヤで新宿〜八王子1時間24分。軌間が異なり乗り換えが不満。改軌は1927年5月31日完了
- 『会社銀行八十年史』1955「京王帝都電鉄」
- [31]1926年に玉南鉄道を吸収合併し資本金1,290万円
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「京王電気軌道株式会社」
- [33]1928年5月22日旧玉南線の軌間改良工事竣功で新宿〜八王子直通
- 実業 12(4) 1928年「これから益々よくなる京王電車の業績」
- [34]1927年下期、旧玉南線の乗客数は前年同期比4割9分5厘増
1927年の金融恐慌とタクシーの普及で近距離の客が減り、電鉄各社は多角経営に向かった。京王電気軌道は1927年6月1日、多摩川べりに遊園地の京王閣を開設し、1万6000坪の敷地に用地費を含めて96万円を投じた。同年10月28日には総工費77万円の四谷新宿駅ビルを完成させ、2階から上を松屋に貸した。1927年下期の京王閣の入園客数は11万1千余人である。社長の井上篤太郎氏のもとで、京王電気軌道は1927年に東八王子から多摩御陵への延長線を鉄道省に出願した。御陵線は1930年5月に着工し、1931年3月20日に北野〜御陵前の6.4キロを開通させた。平日の通勤客に休日の行楽と参拝の客を重ねる狙いだったとみられる。
- ダイヤモンド社『ポケット社史 京王帝都』(1968年)
- [35]金融恐慌とタクシーで電鉄は多角経営へ。京王閣1927年6月1日開館、1万6000坪・96万円。四谷新宿駅ビル1927年10月28日完成・77万円、2階以上を松屋が使用。御陵線1930年5月着工、1931年3月20日開通
- [36]金融恐慌とタクシーで電鉄は多角経営へ。京王閣1927年6月1日開館、1万6000坪・96万円。四谷新宿駅ビル1927年10月28日完成・77万円、2階以上を松屋が使用。御陵線1930年5月着工、1931年3月20日開通
- [37]金融恐慌とタクシーで電鉄は多角経営へ。京王閣1927年6月1日開館、1万6000坪・96万円。四谷新宿駅ビル1927年10月28日完成・77万円、2階以上を松屋が使用。御陵線1930年5月着工、1931年3月20日開通
- [40]金融恐慌とタクシーで電鉄は多角経営へ。京王閣1927年6月1日開館、1万6000坪・96万円。四谷新宿駅ビル1927年10月28日完成・77万円、2階以上を松屋が使用。御陵線1930年5月着工、1931年3月20日開通
- 実業 12(4) 1928年「これから益々よくなる京王電車の業績」
- [38]京王閣の1927年下期入園客11万1千余人
- 日本公論 15(4) 1927「京王電車の發展新計畫」
- [39]1927年時点で社長井上篤太郎、東八王子から多摩御陵への延長線を出願中
参考文献[20]-[40]
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「京王電気軌道株式会社」
- [20]府中〜八王子は業績不振で特許取消。1922年7月27日に地方鉄道法で玉南電気鉄道を資本金150万円で設立、社長井上篤太郎
- [24]府中〜八王子は業績不振で特許取消。1922年7月27日に地方鉄道法で玉南電気鉄道を資本金150万円で設立、社長井上篤太郎
- [33]1928年5月22日旧玉南線の軌間改良工事竣功で新宿〜八王子直通
- ダイヤモンド社『ポケット社史 京王帝都』(1968年)
- [21]1920年11月10日八王子で発起人会、井上篤太郎ら13人が常任委員、1921年10月免許。1921年12月株主総会の会社提案で補助を理由に別会社とし後に合併。資本の4割を京王が出資、1925年3月24日16キロ開業
- [22]1920年11月10日八王子で発起人会、井上篤太郎ら13人が常任委員、1921年10月免許。1921年12月株主総会の会社提案で補助を理由に別会社とし後に合併。資本の4割を京王が出資、1925年3月24日16キロ開業
- [23]1920年11月10日八王子で発起人会、井上篤太郎ら13人が常任委員、1921年10月免許。1921年12月株主総会の会社提案で補助を理由に別会社とし後に合併。資本の4割を京王が出資、1925年3月24日16キロ開業
- [25]1920年11月10日八王子で発起人会、井上篤太郎ら13人が常任委員、1921年10月免許。1921年12月株主総会の会社提案で補助を理由に別会社とし後に合併。資本の4割を京王が出資、1925年3月24日16キロ開業
- [27]補助金は得られず。通し乗車券で67銭を省線と同額の58銭に割引。府中接続ダイヤで新宿〜八王子1時間24分。軌間が異なり乗り換えが不満。改軌は1927年5月31日完了
- [28]補助金は得られず。通し乗車券で67銭を省線と同額の58銭に割引。府中接続ダイヤで新宿〜八王子1時間24分。軌間が異なり乗り換えが不満。改軌は1927年5月31日完了
- [29]補助金は得られず。通し乗車券で67銭を省線と同額の58銭に割引。府中接続ダイヤで新宿〜八王子1時間24分。軌間が異なり乗り換えが不満。改軌は1927年5月31日完了
- [30]補助金は得られず。通し乗車券で67銭を省線と同額の58銭に割引。府中接続ダイヤで新宿〜八王子1時間24分。軌間が異なり乗り換えが不満。改軌は1927年5月31日完了
- [32]補助金は得られず。通し乗車券で67銭を省線と同額の58銭に割引。府中接続ダイヤで新宿〜八王子1時間24分。軌間が異なり乗り換えが不満。改軌は1927年5月31日完了
- [35]金融恐慌とタクシーで電鉄は多角経営へ。京王閣1927年6月1日開館、1万6000坪・96万円。四谷新宿駅ビル1927年10月28日完成・77万円、2階以上を松屋が使用。御陵線1930年5月着工、1931年3月20日開通
- [36]金融恐慌とタクシーで電鉄は多角経営へ。京王閣1927年6月1日開館、1万6000坪・96万円。四谷新宿駅ビル1927年10月28日完成・77万円、2階以上を松屋が使用。御陵線1930年5月着工、1931年3月20日開通
- [37]金融恐慌とタクシーで電鉄は多角経営へ。京王閣1927年6月1日開館、1万6000坪・96万円。四谷新宿駅ビル1927年10月28日完成・77万円、2階以上を松屋が使用。御陵線1930年5月着工、1931年3月20日開通
- [40]金融恐慌とタクシーで電鉄は多角経営へ。京王閣1927年6月1日開館、1万6000坪・96万円。四谷新宿駅ビル1927年10月28日完成・77万円、2階以上を松屋が使用。御陵線1930年5月着工、1931年3月20日開通
- 実業 7(6) 1925年「創業十五週年の京王電車會社――事業評論」
- [26]玉南鉄道は京王の姉妹会社で将来合同の立場にあると評された
- 『会社銀行八十年史』1955「京王帝都電鉄」
- [31]1926年に玉南鉄道を吸収合併し資本金1,290万円
- 実業 12(4) 1928年「これから益々よくなる京王電車の業績」
- [34]1927年下期、旧玉南線の乗客数は前年同期比4割9分5厘増
- [38]京王閣の1927年下期入園客11万1千余人
- 日本公論 15(4) 1927「京王電車の發展新計畫」
- [39]1927年時点で社長井上篤太郎、東八王子から多摩御陵への延長線を出願中
1932年〜帝都電鉄の渋谷〜吉祥寺線と、配電統制と陸上交通事業調整法で消えた京王電気軌道
井の頭線の前身は、1928年9月24日に資本金3,400万円で創立した東京山手急行電鉄である。山手線の外側を環状に結ぶ計画で、小田急の創業者の利光鶴松氏が発起人から事業を承継した。昭和初めの不況で資金を調達できず、1931年2月1日に渋谷〜吉祥寺の免許を持つ渋谷急行電鉄を合併して東京郊外鉄道となった。東京郊外鉄道は環状線を後回しにして渋谷線から着工し、1933年1月19日に帝都電鉄と改称した。1933年8月1日に渋谷〜井の頭公園、1934年4月1日に吉祥寺までの12.8キロを開通させた。資本金は2度の減資で1,280万円まで減らした。業績は振るわず、帝都電鉄は1940年5月1日に小田原急行鉄道に合併された。
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「帝都電鉄株式会社」
- [41]1928年9月24日東京山手急行電鉄を資本金3,400万円で創立、資金難で1931年2月1日渋谷急行電鉄を合併し東京郊外鉄道。1933年8月1日渋谷〜井の頭公園、1934年4月1日全通12.8キロ。1933年9月・1934年2月に減資し1,280万円
- [43]1928年9月24日東京山手急行電鉄を資本金3,400万円で創立、資金難で1931年2月1日渋谷急行電鉄を合併し東京郊外鉄道。1933年8月1日渋谷〜井の頭公園、1934年4月1日全通12.8キロ。1933年9月・1934年2月に減資し1,280万円
- [45]1928年9月24日東京山手急行電鉄を資本金3,400万円で創立、資金難で1931年2月1日渋谷急行電鉄を合併し東京郊外鉄道。1933年8月1日渋谷〜井の頭公園、1934年4月1日全通12.8キロ。1933年9月・1934年2月に減資し1,280万円
- [46]1928年9月24日東京山手急行電鉄を資本金3,400万円で創立、資金難で1931年2月1日渋谷急行電鉄を合併し東京郊外鉄道。1933年8月1日渋谷〜井の頭公園、1934年4月1日全通12.8キロ。1933年9月・1934年2月に減資し1,280万円
- ダイヤモンド社『ポケット社史 京王帝都』(1968年)
- [42]山手線外周の環状計画。発起人は太田一平から小田急創業者の利光鶴松に承継。渋谷線から着工、1933年1月19日帝都電鉄に改称
- [44]山手線外周の環状計画。発起人は太田一平から小田急創業者の利光鶴松に承継。渋谷線から着工、1933年1月19日帝都電鉄に改称
- 『企業の歴史 明治百年』1968「京王帝都電鉄」
- [47]1940年5月に小田急電鉄(当時小田原急行鉄道)と合併、1942年5月東京急行電鉄に合併
京王電気軌道は1942年3月31日、配電統制令により電灯・電力の供給事業のすべてを関東配電に譲渡した。この事業は1913年に調布町など4町村の612戸、1387灯から始まった。1916年には開業前に見込んだ5000灯に達し、同年10月には電力の供給も始めた。1931年以降は電灯・電力の収入が電車部門を上回り、不況期の業績を支えた。1940年上期には供給戸数6万6869戸、灯数46万5677灯となり、料金収入233万円は電車部門の132万円を上回った。私鉄が兼営する電灯・電力の供給を例外なく関東配電へ移させたのが、配電統制令である。最大の収益源を国の統制で失い、京王電気軌道の自立の基盤は弱まったと推察される。
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「京王電気軌道株式会社」
- [48]1942年3月31日配電統制令により電力供給事業全部を関東配電に譲渡
- 『会社銀行八十年史』1955「京王帝都電鉄」
- [49]1942年3月配電統制令によって電力供給事業を関東配電に譲渡
- ダイヤモンド社『ポケット社史 京王帝都』(1968年)
- [50]1913年1月1日に4町村612戸1387灯で開始、1916年に5000灯達成と電力供給開始。1931年以降は電車部門を上回る収入。1940年上期供給戸数66,869戸・465,677灯・料金収入233万円(電車部門132万円)。配電統制令で私鉄兼営の電灯電力は関東配電へ強制譲渡
- [51]1913年1月1日に4町村612戸1387灯で開始、1916年に5000灯達成と電力供給開始。1931年以降は電車部門を上回る収入。1940年上期供給戸数66,869戸・465,677灯・料金収入233万円(電車部門132万円)。配電統制令で私鉄兼営の電灯電力は関東配電へ強制譲渡
- [52]1913年1月1日に4町村612戸1387灯で開始、1916年に5000灯達成と電力供給開始。1931年以降は電車部門を上回る収入。1940年上期供給戸数66,869戸・465,677灯・料金収入233万円(電車部門132万円)。配電統制令で私鉄兼営の電灯電力は関東配電へ強制譲渡
- [53]1913年1月1日に4町村612戸1387灯で開始、1916年に5000灯達成と電力供給開始。1931年以降は電車部門を上回る収入。1940年上期供給戸数66,869戸・465,677灯・料金収入233万円(電車部門132万円)。配電統制令で私鉄兼営の電灯電力は関東配電へ強制譲渡
- [54]1913年1月1日に4町村612戸1387灯で開始、1916年に5000灯達成と電力供給開始。1931年以降は電車部門を上回る収入。1940年上期供給戸数66,869戸・465,677灯・料金収入233万円(電車部門132万円)。配電統制令で私鉄兼営の電灯電力は関東配電へ強制譲渡
陸上交通事業調整法は1938年4月に公布された。太平洋戦争の開戦後に東京の交通機関は6ブロックに分けられた。東京横浜電鉄・小田急電鉄・京浜電鉄・京王電気軌道の4社は西南ブロックを構成した。京王電気軌道を除く3社は1942年5月1日に合併し、東京急行電鉄となった。1944年5月31日には京王電気軌道も東京急行電鉄へ吸収され、同社の一部門である京王営業局に改組された。合併時の資本金は1,935万円である。東京急行電鉄の五島慶太氏は、京王を含む会社の買収の理由に、総経費を分担させて経費を下げる狙いを挙げた。戦後の1947年12月26日、東京急行電鉄の株主総会は京王・小田急・京浜・東横百貨店の分離を可決した。
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「東京急行電鉄株式会社」
- [55]1938年4月陸上交通事業調整法公布。東京を6ブロックに統合、西南ブロックは東横・小田急・京浜・京王。1942年5月1日3社合併で東京急行電鉄。1944年5月31日京王電気軌道が合併され京王営業局。1947年12月26日株主総会で分離を可決
- [56]1938年4月陸上交通事業調整法公布。東京を6ブロックに統合、西南ブロックは東横・小田急・京浜・京王。1942年5月1日3社合併で東京急行電鉄。1944年5月31日京王電気軌道が合併され京王営業局。1947年12月26日株主総会で分離を可決
- [57]1938年4月陸上交通事業調整法公布。東京を6ブロックに統合、西南ブロックは東横・小田急・京浜・京王。1942年5月1日3社合併で東京急行電鉄。1944年5月31日京王電気軌道が合併され京王営業局。1947年12月26日株主総会で分離を可決
- [58]1938年4月陸上交通事業調整法公布。東京を6ブロックに統合、西南ブロックは東横・小田急・京浜・京王。1942年5月1日3社合併で東京急行電鉄。1944年5月31日京王電気軌道が合併され京王営業局。1947年12月26日株主総会で分離を可決
- [59]1938年4月陸上交通事業調整法公布。東京を6ブロックに統合、西南ブロックは東横・小田急・京浜・京王。1942年5月1日3社合併で東京急行電鉄。1944年5月31日京王電気軌道が合併され京王営業局。1947年12月26日株主総会で分離を可決
- [62]1938年4月陸上交通事業調整法公布。東京を6ブロックに統合、西南ブロックは東横・小田急・京浜・京王。1942年5月1日3社合併で東京急行電鉄。1944年5月31日京王電気軌道が合併され京王営業局。1947年12月26日株主総会で分離を可決
- 『会社銀行八十年史』1955「京王帝都電鉄」
- [60]1944年5月交通調整令により東京急行電鉄と合併、合併時資本金1,935万円
- 日本経済新聞「私の履歴書」五島慶太(経済人1)
- [61]五島慶太は京王電鉄などを買収し、総経費を分割して経費を下げる目的もあったと述べた
参考文献[41]-[62]
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「帝都電鉄株式会社」
- [41]1928年9月24日東京山手急行電鉄を資本金3,400万円で創立、資金難で1931年2月1日渋谷急行電鉄を合併し東京郊外鉄道。1933年8月1日渋谷〜井の頭公園、1934年4月1日全通12.8キロ。1933年9月・1934年2月に減資し1,280万円
- [43]1928年9月24日東京山手急行電鉄を資本金3,400万円で創立、資金難で1931年2月1日渋谷急行電鉄を合併し東京郊外鉄道。1933年8月1日渋谷〜井の頭公園、1934年4月1日全通12.8キロ。1933年9月・1934年2月に減資し1,280万円
- [45]1928年9月24日東京山手急行電鉄を資本金3,400万円で創立、資金難で1931年2月1日渋谷急行電鉄を合併し東京郊外鉄道。1933年8月1日渋谷〜井の頭公園、1934年4月1日全通12.8キロ。1933年9月・1934年2月に減資し1,280万円
- [46]1928年9月24日東京山手急行電鉄を資本金3,400万円で創立、資金難で1931年2月1日渋谷急行電鉄を合併し東京郊外鉄道。1933年8月1日渋谷〜井の頭公園、1934年4月1日全通12.8キロ。1933年9月・1934年2月に減資し1,280万円
- ダイヤモンド社『ポケット社史 京王帝都』(1968年)
- [42]山手線外周の環状計画。発起人は太田一平から小田急創業者の利光鶴松に承継。渋谷線から着工、1933年1月19日帝都電鉄に改称
- [44]山手線外周の環状計画。発起人は太田一平から小田急創業者の利光鶴松に承継。渋谷線から着工、1933年1月19日帝都電鉄に改称
- [50]1913年1月1日に4町村612戸1387灯で開始、1916年に5000灯達成と電力供給開始。1931年以降は電車部門を上回る収入。1940年上期供給戸数66,869戸・465,677灯・料金収入233万円(電車部門132万円)。配電統制令で私鉄兼営の電灯電力は関東配電へ強制譲渡
- [51]1913年1月1日に4町村612戸1387灯で開始、1916年に5000灯達成と電力供給開始。1931年以降は電車部門を上回る収入。1940年上期供給戸数66,869戸・465,677灯・料金収入233万円(電車部門132万円)。配電統制令で私鉄兼営の電灯電力は関東配電へ強制譲渡
- [52]1913年1月1日に4町村612戸1387灯で開始、1916年に5000灯達成と電力供給開始。1931年以降は電車部門を上回る収入。1940年上期供給戸数66,869戸・465,677灯・料金収入233万円(電車部門132万円)。配電統制令で私鉄兼営の電灯電力は関東配電へ強制譲渡
- [53]1913年1月1日に4町村612戸1387灯で開始、1916年に5000灯達成と電力供給開始。1931年以降は電車部門を上回る収入。1940年上期供給戸数66,869戸・465,677灯・料金収入233万円(電車部門132万円)。配電統制令で私鉄兼営の電灯電力は関東配電へ強制譲渡
- [54]1913年1月1日に4町村612戸1387灯で開始、1916年に5000灯達成と電力供給開始。1931年以降は電車部門を上回る収入。1940年上期供給戸数66,869戸・465,677灯・料金収入233万円(電車部門132万円)。配電統制令で私鉄兼営の電灯電力は関東配電へ強制譲渡
- 『企業の歴史 明治百年』1968「京王帝都電鉄」
- [47]1940年5月に小田急電鉄(当時小田原急行鉄道)と合併、1942年5月東京急行電鉄に合併
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「京王電気軌道株式会社」
- [48]1942年3月31日配電統制令により電力供給事業全部を関東配電に譲渡
- 『会社銀行八十年史』1955「京王帝都電鉄」
- [49]1942年3月配電統制令によって電力供給事業を関東配電に譲渡
- [60]1944年5月交通調整令により東京急行電鉄と合併、合併時資本金1,935万円
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「東京急行電鉄株式会社」
- [55]1938年4月陸上交通事業調整法公布。東京を6ブロックに統合、西南ブロックは東横・小田急・京浜・京王。1942年5月1日3社合併で東京急行電鉄。1944年5月31日京王電気軌道が合併され京王営業局。1947年12月26日株主総会で分離を可決
- [56]1938年4月陸上交通事業調整法公布。東京を6ブロックに統合、西南ブロックは東横・小田急・京浜・京王。1942年5月1日3社合併で東京急行電鉄。1944年5月31日京王電気軌道が合併され京王営業局。1947年12月26日株主総会で分離を可決
- [57]1938年4月陸上交通事業調整法公布。東京を6ブロックに統合、西南ブロックは東横・小田急・京浜・京王。1942年5月1日3社合併で東京急行電鉄。1944年5月31日京王電気軌道が合併され京王営業局。1947年12月26日株主総会で分離を可決
- [58]1938年4月陸上交通事業調整法公布。東京を6ブロックに統合、西南ブロックは東横・小田急・京浜・京王。1942年5月1日3社合併で東京急行電鉄。1944年5月31日京王電気軌道が合併され京王営業局。1947年12月26日株主総会で分離を可決
- [59]1938年4月陸上交通事業調整法公布。東京を6ブロックに統合、西南ブロックは東横・小田急・京浜・京王。1942年5月1日3社合併で東京急行電鉄。1944年5月31日京王電気軌道が合併され京王営業局。1947年12月26日株主総会で分離を可決
- [62]1938年4月陸上交通事業調整法公布。東京を6ブロックに統合、西南ブロックは東横・小田急・京浜・京王。1942年5月1日3社合併で東京急行電鉄。1944年5月31日京王電気軌道が合併され京王営業局。1947年12月26日株主総会で分離を可決
- 日本経済新聞「私の履歴書」五島慶太(経済人1)
- [61]五島慶太は京王電鉄などを買収し、総経費を分割して経費を下げる目的もあったと述べた
出典・参考
11件
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「京王電気軌道株式会社」
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「帝都電鉄株式会社」
- 京王帝都電鉄『10年のあゆみ』1958「東京急行電鉄株式会社」
- 『会社銀行八十年史』1955「京王帝都電鉄」
- ダイヤモンド社『ポケット社史 京王帝都』(1968年)
- 『企業の歴史 明治百年』1968「京王帝都電鉄」
- 日本経済新聞「私の履歴書」五島慶太(経済人1)
- 実業 7(6) 1925年「創業十五週年の京王電車會社――事業評論」
- 事業之日本 6(10) 1927「富士絹は誰が發明したか――〔世界的發明家井上篤太郎氏〕」
- 日本公論 15(4) 1927「京王電車の發展新計畫」
- 実業 12(4) 1928年「これから益々よくなる京王電車の業績」