第1章 年〜年

MS&ADインシュアランスグループホールディングス:大阪保険の設立と扶桑海上保険の創立

1893年〜銅商と綿商・米穀商が組んだ火災・海上兼営の大阪保険

大阪保険の設立は1893年6月に計画され、中心に立ったのは大阪製銅社長の増田信之氏、米穀商の木谷伊助氏、朝日紡績取締役の中村惣兵衛氏であった。発起人には増田信之氏の縁で銅の精錬業者と銅商が、木谷・中村両氏の縁で紡績会社・木綿商・米穀商が加わった。銅業者の多くは電気銅の輸出も手がけ、木綿商や米穀商も貿易に関わっていたため、火災だけでなく海上の保険にも目が向いた。同年10月の創立総会で増田信之氏が社長に選ばれ、資本金120万円を海上部と火災部に割り当て、決算も両部で分けた。火災と海上の兼営は国内にほとんど前例がなかった。自らの輸出品と在庫を守る保険を、荷主の側から用意しようとした会社だったとみられる。

  • 実業往来 500 1994年2月
    • [1]大阪保険の設立は1893年6月に計画され、中心は大阪製銅社長増田信之・米穀商木谷伊助・朝日紡績取締役中村惣兵衛
    • [2]発起人には銅の精錬業者・銅商、紡績会社・木綿商・米穀商が名を連ねた
    • [3]銅業者は電気銅の輸出商を兼ねる者が多く、木綿商・米穀商も貿易に関係し、海上保険にも関心を持った
    • [4]1893年10月に創立総会を開き、増田信之が社長に選出された
    • [5]資本金120万円を海上部と火災部に振り分け、決算も部門別に計算した
    • [6]火災・海上の兼営は日本でほとんど先例がなかった

大阪では東京海上・日本海陸・帝国海上の3社がすでに激しく競い、日本生命を中心とする大阪財界の有力者は日本海陸の設立に加わっていた。後から海上保険に入った大阪保険は、地元でも契約を集めにくかった。開業の翌年に老朽船の鼓洋丸が海難に遭い、日清戦争中には第三正義丸が危険水域で火災を起こして沈み、その翌年には明治丸が秋田県戸賀浦で座礁して沈んだ。創業から1年半で、未払い分を含む保険金は正味収入保険料の3倍に達した。増田信之氏は海上で採算の合わない競争を続けるより火災の拡張と資本の運用に力を注ぐ方針に改め、1895年に火災専業となった。契約高は1896年6月の360万円から、1899年6月には960万円まで増えた。

  • 実業往来 500 1994年2月
    • [7]大阪では東京海上・日本海陸・帝国海上が競争し、日本生命を中心とした大阪財界の有力者が日本海陸の設立に加わっていた
    • [8]大阪保険は後発の海上保険会社として営業面で苦労した
    • [9]開業翌年に鼓洋丸、日清戦争中に第三正義丸、その翌年に明治丸(秋田県戸賀浦で座礁)の海損事故が続いた
    • [10]創業1年半で、未払い分を含む保険金は正味収入保険料の3倍になった
    • [11]増田社長は火災保険の拡張と資本の利殖を図る方針をとり、1895年に火災保険専業となった
    • [12]契約高は1896年6月の360万円が1898年6月に倍増し、1899年6月に960万円となった
参考文献[1]-[12]
  • 実業往来 500 1994年2月
    • [1]大阪保険の設立は1893年6月に計画され、中心は大阪製銅社長増田信之・米穀商木谷伊助・朝日紡績取締役中村惣兵衛
    • [2]発起人には銅の精錬業者・銅商、紡績会社・木綿商・米穀商が名を連ねた
    • [3]銅業者は電気銅の輸出商を兼ねる者が多く、木綿商・米穀商も貿易に関係し、海上保険にも関心を持った
    • [4]1893年10月に創立総会を開き、増田信之が社長に選出された
    • [5]資本金120万円を海上部と火災部に振り分け、決算も部門別に計算した
    • [6]火災・海上の兼営は日本でほとんど先例がなかった
    • [7]大阪では東京海上・日本海陸・帝国海上が競争し、日本生命を中心とした大阪財界の有力者が日本海陸の設立に加わっていた
    • [8]大阪保険は後発の海上保険会社として営業面で苦労した
    • [9]開業翌年に鼓洋丸、日清戦争中に第三正義丸、その翌年に明治丸(秋田県戸賀浦で座礁)の海損事故が続いた
    • [10]創業1年半で、未払い分を含む保険金は正味収入保険料の3倍になった
    • [11]増田社長は火災保険の拡張と資本の利殖を図る方針をとり、1895年に火災保険専業となった
    • [12]契約高は1896年6月の360万円が1898年6月に倍増し、1899年6月に960万円となった

1899年〜大火と株の買い占めで持ち主が替わり続けた大阪火災

1899年8月、富山市と横浜市で大火が続き、支払った保険金は富山で12万5,000円、横浜で5万9,000円に上った。同年に大阪火災へ改めた会社は、ここから数年、経営の主が定まらなかった。放出された株を買い集めたのは第七十九銀行頭取で明教保険社長の古畑寅造氏で、保険業法で生命保険と損害保険の兼営が禁じられる見通しとなるなか、大阪火災を自らの事業の補いに使おうとした。明教保険から持ち込まれた契約は危険の高い地区に偏り、それまでの引受けの選別はほぼ意味を失った。1900年の高岡の大火で再び打撃を受け、同年の金融の混乱で第七十九銀行が取付けに遭うと、同行に置いた預金と保護預けの株券が戻らなくなった。

  • 実業往来 500 1994年2月
    • [13]1899年8月に富山市・横浜市で大火が発生し、支払保険金は富山12万5,000円・横浜5万9,000円
    • [14]1899年に大阪火災に改称し、その後数年は混乱の時代となった
    • [15]放出株を買い占めた第七十九銀行頭取・明教保険社長の古畑寅造が実権を握り、生損保兼営禁止の見通しから大阪火災で補完しようとした
    • [16]明教保険の契約は危険地区が多く、大阪火災の危険選択がほとんど無意味になった
    • [17]1900年の高岡大火で再び打撃を受けた
    • [18]1900年の金融混乱で第七十九銀行が取付けにあい、大阪火災の預金と保護預けの株券が回収できなくなった

古畑寅造氏が翌年に詐欺罪で収監されると、経営権は岡部広氏に移った。岡部広氏は生命保険を広げる資金を得るため、大阪火災の株を敦賀の事業家大和田荘七氏へ売ろうとし、大和田家は一度断ったのち農商務省の説得で引き受けた。再建のため大和田銀行支配人の鈴木重隆氏が送り込まれたが、福井の大火で大和田家からの出資は途絶え、鈴木重隆氏は愛知の銀行家から支援を取り付けた。1906年には北陸有数の海運業者で日本海上の創立者でもある右近権左衛門氏を社長に招き、社名を大阪火災海上運送に改めた。翌1907年、日露戦争後の反動で株価が崩れ、頼みの愛知の銀行も支払いを止めた。

  • 実業往来 500 1994年2月
    • [19]古畑は詐欺罪で翌年収監され、明教生命と大阪火災の経営権は岡部広に移った
    • [20]岡部は大阪火災株を敦賀の大和田荘七に売却しようとし、大和田家は一度断ったが農商務省の説得で承諾した
    • [21]大和田銀行支配人の鈴木重隆が再建のため派遣された
    • [22]福井の大火で大和田家の出資が絶たれ、鈴木は愛知の銀行家から援助を得た
    • [23]1906年に旧北前船主で日本海上の創立者の右近権左衛門を社長に迎え、大阪火災海上運送と改称した
    • [24]1907年に日露戦争の反動で株が暴落し、愛知の銀行も支払い停止状態に陥った

鈴木重隆氏は一律の年末手当をやめ、成績のよい社員に賞与を出す仕組みへ切り替えた。しかし不況で右近家の海運業が傾き、大火と競争の激化も重なった。右近権左衛門氏が急逝すると、1916年に経営は既存の保険会社の買収を進めていた大阪商船の系列へ移り、社名を大阪海上火災保険に改めた。鈴木重隆氏は翌年に退いたが、火災で住まいと商いの元手を一度に失う大衆こそ保険を要するという考えを得て、のちに小口火災保険専門の日本簡易火災を設けた。創業から20年余り、大阪の保険会社は荷主・銀行家・船主と持ち主を替えながら、自前の後ろ盾を得られずにいたといえる。

  • 実業往来 500 1994年2月
    • [25]鈴木は一律の年末手当てを廃し、成績のよい社員にボーナスを支給する制度に切り換えた
    • [26]不況で右近家の海運業にかげりが出て、相次ぐ大火や競争激化が重なった
    • [27]右近社長の急逝もあり、1916年に既設保険会社の買収に動いていた大阪商船系に経営が移った
    • [28]大阪商船系への移行とともに大阪海上火災と改称した
    • [29]鈴木は翌年辞任し、後に小口火災保険専門の日本簡易火災(現富士火災)を設立した
参考文献[13]-[29]
  • 実業往来 500 1994年2月
    • [13]1899年8月に富山市・横浜市で大火が発生し、支払保険金は富山12万5,000円・横浜5万9,000円
    • [14]1899年に大阪火災に改称し、その後数年は混乱の時代となった
    • [15]放出株を買い占めた第七十九銀行頭取・明教保険社長の古畑寅造が実権を握り、生損保兼営禁止の見通しから大阪火災で補完しようとした
    • [16]明教保険の契約は危険地区が多く、大阪火災の危険選択がほとんど無意味になった
    • [17]1900年の高岡大火で再び打撃を受けた
    • [18]1900年の金融混乱で第七十九銀行が取付けにあい、大阪火災の預金と保護預けの株券が回収できなくなった
    • [19]古畑は詐欺罪で翌年収監され、明教生命と大阪火災の経営権は岡部広に移った
    • [20]岡部は大阪火災株を敦賀の大和田荘七に売却しようとし、大和田家は一度断ったが農商務省の説得で承諾した
    • [21]大和田銀行支配人の鈴木重隆が再建のため派遣された
    • [22]福井の大火で大和田家の出資が絶たれ、鈴木は愛知の銀行家から援助を得た
    • [23]1906年に旧北前船主で日本海上の創立者の右近権左衛門を社長に迎え、大阪火災海上運送と改称した
    • [24]1907年に日露戦争の反動で株が暴落し、愛知の銀行も支払い停止状態に陥った
    • [25]鈴木は一律の年末手当てを廃し、成績のよい社員にボーナスを支給する制度に切り換えた
    • [26]不況で右近家の海運業にかげりが出て、相次ぐ大火や競争激化が重なった
    • [27]右近社長の急逝もあり、1916年に既設保険会社の買収に動いていた大阪商船系に経営が移った
    • [28]大阪商船系への移行とともに大阪海上火災と改称した
    • [29]鈴木は翌年辞任し、後に小口火災保険専門の日本簡易火災(現富士火災)を設立した

1916年〜大戦景気の海上保険と山下亀三郎氏の扶桑海上

大阪商船の傘下に入った大阪海上の業務は、海上保険が中心となった。1916年9月にはロンドンのセジック・コリンズ社と正式に代理店契約を結んだ。第一次大戦の好況下では、ロンドンの代理店の力が損害保険会社の引受けの大きさを左右し、大阪海上はこの点で神戸海上や帝国海上に差をつけた。収入保険料の順位は、1915年度の22社中15位から1917年度には2位へ上がった。船会社の荷を背に、ロンドンで有力な代理店を押さえたことが、海上保険を主軸に据える条件をそろえたとみられる。

  • 実業往来 500 1994年2月
    • [30]大阪商船傘下に入り、大阪海上の業務は海上保険が中心となった
    • [31]1916年9月にロンドンのセジック・コリンズ社と正式の代理店契約を締結した
    • [32]第一次大戦の好況下では、契約の拡大がロンドン代理店の能力に左右された
    • [33]大阪海上はロンドン代理店の点で神戸海上・帝国海上などに差をつけた
    • [34]大阪海上の収入保険料は1915年度の全22社中15位から1917年度に2位となった

同じ時期、住友海上のもう一方の源流となる扶桑海上保険が生まれた。創業者は山下合名・山下汽船・山下鉱業を持つ山下亀三郎氏である。1917年11月の創立総会では、元日本郵船副社長の加藤正義氏が会長に、三菱合資から招いた松木鼎三郎氏が専務取締役に就任した。取締役には古河の井上公二氏、住友の小倉正恆氏、森村組の森村開作氏が並んだ。代理店は1918年末に200店に達し、発起人の人脈を営業に生かした。財閥の境を越えて役員を集めた布陣は、特定の財閥の後ろ盾を持たない船主の会社であることの裏返しでもあったとみられる。

  • 実業往来 500 1994年2月
    • [35]扶桑海上保険は現在の住友海上のもう一方の源流である
    • [36]扶桑海上を創業したのは山下合名・山下汽船・山下鉱業のオーナー山下亀三郎
    • [37]1917年11月の創立総会で元日本郵船副社長加藤正義が会長、三菱合資から招いた松木鼎三郎が専務取締役に選出された
    • [38]古河財閥の井上公二、住友財閥の小倉正恆、森村組の森村開作が取締役に選任された
    • [39]代理店は1918年末に200店となり、発起人の人脈を生かした営業を展開した

大戦期に損害保険会社を手元に置こうとしたのは船主だけではなかった。三井物産では1902年頃から、取引をほぼ独占する東京海上の料率の高さに不満が出て、他社並みへの引下げや複数社との取引が議題に上っていた。付保額が巨額なため自家保険の方が得だとする意見も根強く、大戦で保険料の支払いが膨らむと、外へ払うより傘下に会社を設けるべきだとの声が強まった。1915年7月の支店長会議に「三井家海上火災保険経営ノ件」が掛けられ、1916年、1917年と準備が進んだ。東京海上専務の平生釟三郎氏が三井の新会社の動きを日記に記し始めたのは1916年7月15日である。

  • 専修大学経営研究所報 106 1993年「平生釟三郎と大正海上火災保険」麻島昭一
    • [40]第一次大戦期の損保会社新設の波の中で、三井物産でも傘下に損害保険会社を設立すべしとの意見が強まった
    • [41]三井物産の支店長会議では1902年頃から東京海上への不満が出され、高率保険料の引下げや複数取引への移行が問題とされた
    • [42]付保が巨額なことから自家保険が有利とする意見も根強く、大戦で保険料支払いが増えると傘下に損保会社を設けるべしとの意見が強まった
    • [43]1915年7月の物産支店長会議で「三井家海上火災保険経営ノ件」が議題となり、1916年・1917年と検討が進んだ
    • [44]平生釟三郎が三井の損保会社設立の動きを日記に書き始めたのは1916年7月15日
参考文献[30]-[44]
  • 実業往来 500 1994年2月
    • [30]大阪商船傘下に入り、大阪海上の業務は海上保険が中心となった
    • [31]1916年9月にロンドンのセジック・コリンズ社と正式の代理店契約を締結した
    • [32]第一次大戦の好況下では、契約の拡大がロンドン代理店の能力に左右された
    • [33]大阪海上はロンドン代理店の点で神戸海上・帝国海上などに差をつけた
    • [34]大阪海上の収入保険料は1915年度の全22社中15位から1917年度に2位となった
    • [35]扶桑海上保険は現在の住友海上のもう一方の源流である
    • [36]扶桑海上を創業したのは山下合名・山下汽船・山下鉱業のオーナー山下亀三郎
    • [37]1917年11月の創立総会で元日本郵船副社長加藤正義が会長、三菱合資から招いた松木鼎三郎が専務取締役に選出された
    • [38]古河財閥の井上公二、住友財閥の小倉正恆、森村組の森村開作が取締役に選任された
    • [39]代理店は1918年末に200店となり、発起人の人脈を生かした営業を展開した
  • 専修大学経営研究所報 106 1993年「平生釟三郎と大正海上火災保険」麻島昭一
    • [40]第一次大戦期の損保会社新設の波の中で、三井物産でも傘下に損害保険会社を設立すべしとの意見が強まった
    • [41]三井物産の支店長会議では1902年頃から東京海上への不満が出され、高率保険料の引下げや複数取引への移行が問題とされた
    • [42]付保が巨額なことから自家保険が有利とする意見も根強く、大戦で保険料支払いが増えると傘下に損保会社を設けるべしとの意見が強まった
    • [43]1915年7月の物産支店長会議で「三井家海上火災保険経営ノ件」が議題となり、1916年・1917年と検討が進んだ
    • [44]平生釟三郎が三井の損保会社設立の動きを日記に書き始めたのは1916年7月15日

出典・参考

2件
出典・参考
  • 専修大学経営研究所報 106 1993年「平生釟三郎と大正海上火災保険」麻島昭一
  • 実業往来 500 1994年2月

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