戦時の企業整備統合は、合併するかどうかの自由を会社から奪った。それでも、どこと一つになるかまでが指定されていたわけではない。大阪海上は1942年4月にまず自らの再保険子会社である摂津海上を吸収し、そのうえで資本営業面ですでに密接だった旧住友海上と組んでいる。政府の要請という外圧のもとで実際に働いたのは、平時から積み上げてきた資本と営業の縁だったとみられる。1893年に海運の荷主を後ろ盾として出発した独立の損保は、この時点で財閥系損保という別の系譜へ移った。
もっとも、業界第3位という規模がすぐに意味を持ったわけではない。合併から1年5か月で終戦を迎え、新会社は社会と経済の混乱のなかへ放り出される。統合で得た体格が効き始めるのは1950年の朝鮮戦争の特需以降で、1954年には商号から「大阪」が落ち、住友海上火災保険となった。戦時統合は2つの前身を1つにしただけでなく、どちらの名が残るかまで決めていたことになる。名を残したのは、より古い1893年の系譜ではなく、後から筆頭株主となった財閥のほうであった。