ヤオハン:中国1000店構想と有利子負債1200億円への膨張
東証一部上場と転換社債から香港本部移転・ネクステージ・中国1000店構想へ
1983年〜八佰伴香港の設立と東証一部上場、ワラント債・転換社債の調達と海外22店
1986年の八百半デパートは、国内の89店を静岡県中心に置き、一部を神奈川県に広げた地域チェーンで、1店あたりの平均売場面積は約1,000平方メートルであった。同じころ海外ではロサンゼルスやフレスノなど米国西海岸、コスタリカ、シンガポールに店を持ち、1987年から翌年にかけて香港の2・3号店、ブルネイ、マレーシアへの出店を控えていた。香港の足場は、1984年に自前で設けた百貨店会社の八佰伴香港である。同じ1984年11月には株式が名古屋証券取引所の第一部へ指定替えとなり、1986年3月には東京証券取引所の第一部にも上場した。店の網は静岡から動かないまま、株式を売買する市場だけが全国区に広がったのである。
- Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
- [1]1986年時点の八百半の国内店舗数は89店で、静岡県下を中心に一部神奈川県に集中し、1店あたり平均売場面積は約1,000平方メートルだった
- [2]海外ではロサンゼルス、トレンス、フレスノの米国西海岸、コスタリカ、シンガポールなどに店舗網を持っていた
- [3]1987年から1988年にかけて香港の2・3号店、ブルネイ、マレーシアへの出店を予定していた
- 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
- [4]百貨店業務の八佰伴香港有限公司はヤオハンが1984年に独自に設立した
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [5]1984年11月 名古屋証券取引所市場第一部に指定替え
- [6]1986年3月 東京証券取引所市場第一部に上場
東証上場の9か月後にあたる1986年12月、八百半デパートはワラント債と転換社債による資金調達を始めた。1988年9月には香港でも株式を上場し、同年11月には杉山商事を吸収合併している。1988年3月の米経済誌フォーブスは、和田家の持つ株式が東証で額面の60倍に評価され、1億4,000万ドルに相当すると書いた。和田一夫氏は1989年の取材で、上場企業であるため資金調達は順調で、借入金はほとんどないと答えた。そのうえで新規の投資に充てる1,000億円をすでに用意したと明かし、資金の出どころについてはこう述べている。『とにかく資金は日本が一番力がありますから、ファイナンスは日本で、と決めています』(Decide 1989年7巻9号)株式市場の評価が、そのまま海外へ出る資金の厚みを決める形であった。
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [7]1986年12月 ワラント債・転換社債による資金調達を開始
- [9]1988年11月 杉山商事を吸収合併
- Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
- [8]和田一夫は1989年のインタビューで、前年9月に香港で上場したと語った
- [11]和田一夫は、八百半デパートは上場企業なので資金調達は順調で、借入金はほとんどないと述べた
- [12]和田一夫は、すでに1,000億円の資金を用意しており、中華料理店の買収やディベロッパー事業に使うと述べた
- 日経ビジネス 1989年2月13日号
- [10]フォーブス1988年3月21日号は、和田家が所有する株式は東証で額面の60倍の価値があり1億4,000万ドルに相当すると書いた
1989年には、海外の店は北米7店、東南アジア14店にコスタリカを加えた22店に達した。国内は静岡を中心に神奈川・愛知へ広がる90店で、主力店の平均売場面積は約3,000平方メートルになっていたが、ダイエーやイトーヨーカ堂、西友といった全国チェーンに並ぶ規模ではなかった。和田氏が海外を選び続けた理由は、出店の条件の差にある。大店法のように大型店の出店を縛る法律を持つ国は少なく、借りた建物に出るなら保証金も建築協力金も要らず、内装の費用ほどで済んだ。1店が評判を取ると、別の都市から出店を頼まれる循環も生まれた。シンガポールでは卸売の売上高が小売の7倍ある点に目を付け、政府と合弁で卸売センターを建て始めた。
- Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
- [13]1989年時点の海外店舗は北米7店、コスタリカ、東南アジア14店で計22店だった
- [14]国内の店舗数は90店で、静岡県下を中心に神奈川県・愛知県を含み、主力店舗の平均売場面積は約3,000平方メートルだった
- [15]八百半はダイエー、イトーヨーカ堂、西友といったナショナル・チェーンの仲間入りができる規模ではなかった
- [16]海外には大店法のような大規模小売業の出店を規制する法律に縛られている国は少ない
- [17]和田一夫によれば、海外では家賃だけで保証金は不要で、かかるのは内装工事の費用ぐらいである
- [18]最初の店が呼び水となり、シカゴやバンクーバーなどから出店要請が来た
- [19]卸売業の売上高が小売業の7倍というシンガポールの現実に着目し、シンガポール政府との合弁で大規模な卸売センターを建設中だった
参考文献[1]-[19]
- Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
- [1]1986年時点の八百半の国内店舗数は89店で、静岡県下を中心に一部神奈川県に集中し、1店あたり平均売場面積は約1,000平方メートルだった
- [2]海外ではロサンゼルス、トレンス、フレスノの米国西海岸、コスタリカ、シンガポールなどに店舗網を持っていた
- [3]1987年から1988年にかけて香港の2・3号店、ブルネイ、マレーシアへの出店を予定していた
- 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
- [4]百貨店業務の八佰伴香港有限公司はヤオハンが1984年に独自に設立した
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [5]1984年11月 名古屋証券取引所市場第一部に指定替え
- [6]1986年3月 東京証券取引所市場第一部に上場
- [7]1986年12月 ワラント債・転換社債による資金調達を開始
- [9]1988年11月 杉山商事を吸収合併
- Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
- [8]和田一夫は1989年のインタビューで、前年9月に香港で上場したと語った
- [11]和田一夫は、八百半デパートは上場企業なので資金調達は順調で、借入金はほとんどないと述べた
- [12]和田一夫は、すでに1,000億円の資金を用意しており、中華料理店の買収やディベロッパー事業に使うと述べた
- [13]1989年時点の海外店舗は北米7店、コスタリカ、東南アジア14店で計22店だった
- [14]国内の店舗数は90店で、静岡県下を中心に神奈川県・愛知県を含み、主力店舗の平均売場面積は約3,000平方メートルだった
- [15]八百半はダイエー、イトーヨーカ堂、西友といったナショナル・チェーンの仲間入りができる規模ではなかった
- [16]海外には大店法のような大規模小売業の出店を規制する法律に縛られている国は少ない
- [17]和田一夫によれば、海外では家賃だけで保証金は不要で、かかるのは内装工事の費用ぐらいである
- [18]最初の店が呼び水となり、シカゴやバンクーバーなどから出店要請が来た
- [19]卸売業の売上高が小売業の7倍というシンガポールの現実に着目し、シンガポール政府との合弁で大規模な卸売センターを建設中だった
- 日経ビジネス 1989年2月13日号
- [10]フォーブス1988年3月21日号は、和田家が所有する株式は東証で額面の60倍の価値があり1億4,000万ドルに相当すると書いた
1989年〜国際流通グループヤオハンの設立と1990年5月の香港本部移転、12社の買収
1989年8月、和田一夫氏は国際流通グループヤオハンを設立して代表に就き、八百半デパートの経営は弟の和田晃昌氏に託した。社長の交代は役員会の席で突然告げられた。新会社は香港に置く資本金5,000万香港ドル(約9億円)の国際事業統括会社で、日本を含むグループの持株会社として戦略を指揮する役目を負った。和田氏は香港返還の1997年を起点に年間売上高1兆円を掲げ、その6割を海外で稼ぐとした。事業の柱も、6割を小売、4割を新たに始めるディベロッパーと飲食に置く計画であった。自社の店が客を集めてショッピングセンターの価値を上げるなら、その開発利益も自ら取るという考えである。
- 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
- [20]1989年8月 国際流通グループヤオハンを設立し、和田一夫が代表に就任
- 日経ビジネス 1992年11月30日号
- [21]和田一夫は日本の八百半デパートの経営を弟の和田晃昌に託した
- [22]1989年の社長交代は役員会の席で突然発表された
- Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
- [23]香港に資本金5,000万香港ドル(約9億円)の国際事業統括会社「国際流通グループヤオハン」を設立し、グループの持株会社として日本を含むグループ戦略を指揮する
- [24]香港返還の1997年を皮切りに年間売上高1兆円を目標とし、うち60%を海外、40%を国内で達成する計画を立てた
- [25]全体の60%を小売業部門、40%を新しく始めるディベロッパーと飲食事業部門で稼ぐ計画を設定した
- [26]ヤオハンが出るとショッピングセンター全体の価値が上がるので、その開発利益を自らのものにしたいと和田一夫は述べた
本拠を香港へ移すと伝えると、大半の人は極めて危険だと反対し、現地の米国人は特に強い言葉で危ぶんだという。1989年6月の天安門事件を境に、香港では住民の海外脱出の動きが強まっていた。それでも和田氏は、規則がなく自由であること、税制が有利で海外の利益をいったん集めて再び外へ出しやすいことを挙げた。日本に近い交通の要衝で、各地の華僑の情報が集まる点も理由に数えた。大店法で縛られた日本とは違い、これまで出た国には規制らしい規制がないとも語っている。後に和田氏は、国内の事情を次のように振り返った。『規制の多い国内でチェーン展開に遅れ、後発の不利はいかんともしがたかった。海外ならばナンバーワンになるチャンスがあると思った』(日本経済新聞 1993年1月10日)国内で負けた条件をそのまま抱えるより、条件ごと土地を替えるほうを選んだのである。
- Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
- [27]和田一夫によれば、本拠地を香港に移すというと大部分の人がきわめて危険なことだと反対し、現地のアメリカ人は特に言葉を強めて危険な選択だと言った
- [28]1989年6月の天安門事件を境に、香港の人たちの海外脱出志向は一層強くなった
- [29]和田一夫は香港を選んだ理由に、規則がなく自由なこと、税制面で有利で海外の利益を集結させてまた外に出すのに最も有利なことを挙げた
- [30]香港は交通の要衝で日本とも近く、アメリカやカナダ、アジア各地から華僑の情報が集まる
- [31]和田一夫は、大店法でがんじがらめの日本と違い、これまで出店した国では規制らしい規制はほとんどないと述べた
グループ本部の香港移転は1990年5月に実行された。返還を前に資本と人材の流出が続くなか、ヤオハンは200億円を投じ、銀行などの協調融資枠500億円を確保した。和田氏は全財産と家族を連れて移り住み、湾仔のオフィスタワー49・50階を買い取って事務所と迎賓館に60億円を充てた。売りに出た香港企業を安値で買い、2年で12社を傘下に入れた。買収の総額は600億〜700億円で、日本から持ち込んだ230億円の一部と現地で借りた約3億米ドルを充てた。移住時に大型店3店・従業員1,300人だった香港の陣容は、香港と中国で114店・5,800人に膨らんだ。1991年11月、八百半デパートは商号をヤオハンジャパンへ改めた。
- 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
- [32]1990年5月 香港にグループ本部を設置
- [36]天安門事件以降、企業の買収話が次々持ちかけられ、香港株式相場の低迷で安く買収でき、買収した会社は12社を数えた
- [37]買収総額は600億〜700億円で、日本からの手持ち資金230億円の一部と現地で借り入れた約3億米ドルを充てた
- [38]和田一夫の移住時に大型店3店舗・従業員1,300人だった香港のヤオハングループは、香港と中国地域で114店舗・5,800人に拡大した
- 日経ビジネス 1992年11月30日号
- [33]天安門事件の直後で資本や人材の流出が続くなか、和田はヤオハンとして200億円を投資したのに加え、銀行などの協調融資枠500億円を確保した
- [34]和田一夫は自分の全財産と家族を抱えて香港に本拠を移した
- LA international 1991年「カネがカネを呼ぶ仕掛け――ヤオハン国際戦略の香港・総本山」
- [35]湾仔のコンベンションプラザ・オフィスタワー49階と50階を買い取り、オフィスと迎賓館に60億円を投入した
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [39]1991年11月 ヤオハンジャパンに商号変更
参考文献[20]-[39]
- 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
- [20]1989年8月 国際流通グループヤオハンを設立し、和田一夫が代表に就任
- [32]1990年5月 香港にグループ本部を設置
- [36]天安門事件以降、企業の買収話が次々持ちかけられ、香港株式相場の低迷で安く買収でき、買収した会社は12社を数えた
- [37]買収総額は600億〜700億円で、日本からの手持ち資金230億円の一部と現地で借り入れた約3億米ドルを充てた
- [38]和田一夫の移住時に大型店3店舗・従業員1,300人だった香港のヤオハングループは、香港と中国地域で114店舗・5,800人に拡大した
- 日経ビジネス 1992年11月30日号
- [21]和田一夫は日本の八百半デパートの経営を弟の和田晃昌に託した
- [22]1989年の社長交代は役員会の席で突然発表された
- [33]天安門事件の直後で資本や人材の流出が続くなか、和田はヤオハンとして200億円を投資したのに加え、銀行などの協調融資枠500億円を確保した
- [34]和田一夫は自分の全財産と家族を抱えて香港に本拠を移した
- Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
- [23]香港に資本金5,000万香港ドル(約9億円)の国際事業統括会社「国際流通グループヤオハン」を設立し、グループの持株会社として日本を含むグループ戦略を指揮する
- [24]香港返還の1997年を皮切りに年間売上高1兆円を目標とし、うち60%を海外、40%を国内で達成する計画を立てた
- [25]全体の60%を小売業部門、40%を新しく始めるディベロッパーと飲食事業部門で稼ぐ計画を設定した
- [26]ヤオハンが出るとショッピングセンター全体の価値が上がるので、その開発利益を自らのものにしたいと和田一夫は述べた
- [27]和田一夫によれば、本拠地を香港に移すというと大部分の人がきわめて危険なことだと反対し、現地のアメリカ人は特に言葉を強めて危険な選択だと言った
- [28]1989年6月の天安門事件を境に、香港の人たちの海外脱出志向は一層強くなった
- [29]和田一夫は香港を選んだ理由に、規則がなく自由なこと、税制面で有利で海外の利益を集結させてまた外に出すのに最も有利なことを挙げた
- [30]香港は交通の要衝で日本とも近く、アメリカやカナダ、アジア各地から華僑の情報が集まる
- [31]和田一夫は、大店法でがんじがらめの日本と違い、これまで出店した国では規制らしい規制はほとんどないと述べた
- LA international 1991年「カネがカネを呼ぶ仕掛け――ヤオハン国際戦略の香港・総本山」
- [35]湾仔のコンベンションプラザ・オフィスタワー49階と50階を買い取り、オフィスと迎賓館に60億円を投入した
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [39]1991年11月 ヤオハンジャパンに商号変更
1991年〜深圳出店と中国1000店構想、ネクステージ半田・知立と有利子負債1,200億円
中国本土での最初の店は、1991年9月に深圳の経済特区内の中英街に開いた。出稼ぎから帰郷する客が3万〜4万円の背広を買っていく店であった。和田氏は、1人あたりの年間国民所得が1,000ドルを超えた時が流通業の進出の好機で、1,500ドルから1万ドルへ上がる間は店を作れば売れると見ていた。1992年9月29日には、上海の浦東地区で上海第一百貨店と合弁で建てる百貨店の起工式に臨んだ。社内では中国に5年で1,000店を作ると宣言し、1993年1月には中国でスーパーを1,000店展開する構想が報じられた。日本の大手でも300店ほどという流通業界の常識からは、夢のような数字と受け止められた。
- 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
- [40]1991年9月に深圳市の経済特区内の中英街に出店した
- [41]深圳の店では日本円にして3万〜4万円クラスの背広が売れている
- [42]和田一夫は年間国民所得が1,000ドルを超えた時が流通業の進出の好機で、1,500ドルから1万ドルに上昇していく間は店をつくれば売れる時代だと述べた
- 日経ビジネス 1992年11月30日号
- [43]1992年9月29日、和田一夫は上海第一百貨店と合弁で建設する浦東地区の百貨店の起工式に臨んだ
- [44]和田一夫は中国に5年間で1,000店舗つくると社内に宣言した
- 日本経済新聞 1993年1月10日
- [45]ヤオハンは中国でスーパーを1,000店展開する構想を打ち出した
- [46]流通業界は、チェーンストアで40年の歴史のある日本の大手でさえせいぜい300店で、まるで夢のような話と受け止めた
和田氏は1992年の取材で、国内での知名度は気にしていないと語った。『日本は投資効率が悪いですから。とにかく地価が高すぎます。』(日経ビジネス 1992年3月16日号)国内のスーパーや百貨店は開店から3〜5年たたないと利益が出ないという見立てである。ただし従来にない業態の店を開くなら、日本市場にも魅力を感じるとも述べていた。弟の和田晃昌氏は1994年、3年半前に開いたネクステージ半田のノウハウを重ね、同年11月にグループ国内最大のネクステージ知立を開くと明かした。敷地5万7,000平方メートル、営業面積4万平方メートル、駐車場2,170台の規模で、百貨店とディスカウントストアを核に据えた。1990年からの5年間で市場から調達した623億円のうち、240億円がネクステージの2店に投じられた。
- 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
- [47]和田一夫は日本での知名度についてはさほど気にしていないと述べた
- [48]日本のスーパーや百貨店は開店してから3〜5年たたないと利益が上がってこない
- [49]和田一夫は新しい業態の店舗を開発するなら日本市場にも魅力を感じると述べた
- ショッピングセンター 1994年3月号「流通展望――ヤオハンの経営理念と国際戦略」(和田晃昌)
- [50]和田晃昌は、3年半前に造ったネクステージ半田のノウハウに上積みし、本年11月にグループ国内最大の店舗ネクステージ知立をオープンすると述べた
- [51]ネクステージ知立は敷地面積5万7,000平方メートル、営業面積4万平方メートル、駐車場2,170台で、百貨店とディスカウントストアを核店舗とする
- 三浦後美『経営破綻企業と社債金融』(ヤオハンジャパン単体業績)
- [52]1990年からの5年間で市場からの資金調達は623億円に達し、うち240億円をネクステージ2店へ投じた
資金の多くは社債で賄われた。1990年2月に第1回と第2回の無担保転換社債を各100億円発行し、1992年12月には米ドル建てのワラント債を出した。1993年4月には円建て転換社債100億円を、1994年8月には第3回無担保転換社債200億円を重ねている。1993年3月期の連結で見た有利子負債は約1,200億円と、売上高約1,940億円の6割を超えた。一方で減価償却費と利益留保を合わせたキャッシュフローは約18億円にすぎなかった。単体の当期純利益も1991年3月期の41億円から、1994年3月期には15億円まで細った。金融機関からは、経営の不透明さと強気一辺倒の計画に厳しい注文が付いた。返済の期日が決まった社債が、細っていく利益の上に積み上がっていった。
- 日経ビジネス 1997年1月6日号
- [53]1990年2月8日に第1回・第2回無担保転換社債を各100億円発行し、1992年12月10日に米ドル建てワラント債を発行した
- [54]1993年4月8日に98年満期円建て転換社債100億円を発行した
- [55]1994年8月31日に第3回無担保転換社債200億円を発行した
- 日経ビジネス 1994年4月11日号
- [56]1993年3月期、連結決算でみたヤオハンジャパンの有利子負債は約1,200億円で、売上高約1,940億円の60%を超す
- [57]キャッシュフロー(減価償却費や利益留保など)は約18億円に過ぎなかった
- [60]金融機関からは経営の不透明さ、強気一辺倒の経営計画に対する厳しい注文もついている
- ヤオハン烈烈 国境のない企業 世界制覇の野望(1991年・単体業績)
- [58]1991年3月期の単体当期純利益は41億円
- 三浦後美『経営破綻企業と社債金融』(ヤオハンジャパン単体業績)
- [59]1994年3月期の単体当期純利益は15億円
参考文献[40]-[60]
- 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
- [40]1991年9月に深圳市の経済特区内の中英街に出店した
- [41]深圳の店では日本円にして3万〜4万円クラスの背広が売れている
- [42]和田一夫は年間国民所得が1,000ドルを超えた時が流通業の進出の好機で、1,500ドルから1万ドルに上昇していく間は店をつくれば売れる時代だと述べた
- [47]和田一夫は日本での知名度についてはさほど気にしていないと述べた
- [48]日本のスーパーや百貨店は開店してから3〜5年たたないと利益が上がってこない
- [49]和田一夫は新しい業態の店舗を開発するなら日本市場にも魅力を感じると述べた
- 日経ビジネス 1992年11月30日号
- [43]1992年9月29日、和田一夫は上海第一百貨店と合弁で建設する浦東地区の百貨店の起工式に臨んだ
- [44]和田一夫は中国に5年間で1,000店舗つくると社内に宣言した
- 日本経済新聞 1993年1月10日
- [45]ヤオハンは中国でスーパーを1,000店展開する構想を打ち出した
- [46]流通業界は、チェーンストアで40年の歴史のある日本の大手でさえせいぜい300店で、まるで夢のような話と受け止めた
- ショッピングセンター 1994年3月号「流通展望――ヤオハンの経営理念と国際戦略」(和田晃昌)
- [50]和田晃昌は、3年半前に造ったネクステージ半田のノウハウに上積みし、本年11月にグループ国内最大の店舗ネクステージ知立をオープンすると述べた
- [51]ネクステージ知立は敷地面積5万7,000平方メートル、営業面積4万平方メートル、駐車場2,170台で、百貨店とディスカウントストアを核店舗とする
- 三浦後美『経営破綻企業と社債金融』(ヤオハンジャパン単体業績)
- [52]1990年からの5年間で市場からの資金調達は623億円に達し、うち240億円をネクステージ2店へ投じた
- [59]1994年3月期の単体当期純利益は15億円
- 日経ビジネス 1997年1月6日号
- [53]1990年2月8日に第1回・第2回無担保転換社債を各100億円発行し、1992年12月10日に米ドル建てワラント債を発行した
- [54]1993年4月8日に98年満期円建て転換社債100億円を発行した
- [55]1994年8月31日に第3回無担保転換社債200億円を発行した
- 日経ビジネス 1994年4月11日号
- [56]1993年3月期、連結決算でみたヤオハンジャパンの有利子負債は約1,200億円で、売上高約1,940億円の60%を超す
- [57]キャッシュフロー(減価償却費や利益留保など)は約18億円に過ぎなかった
- [60]金融機関からは経営の不透明さ、強気一辺倒の経営計画に対する厳しい注文もついている
- ヤオハン烈烈 国境のない企業 世界制覇の野望(1991年・単体業績)
- [58]1991年3月期の単体当期純利益は41億円
筆者考察
1980年代後半のヤオハンは、国内で得た信用を国外で使う仕組みを組み上げた。静岡の地域チェーンのままでは全国チェーンとの規模の差は埋まらないが、東証一部の上場企業という看板があれば、全国の大手と同じ市場から資金を集められる。1986年12月に始めたワラント債・転換社債の調達がそれにあたり、和田一夫氏は資金は日本で調えると明言した。1990年5月のグループ本部の香港移転は、その資金を大店法も保証金もない土地へ持ち出す判断であった。天安門事件の後で売りに出た香港企業を安く買えた時期とも重なり、2年で12社を傘下に入れている。
1990年代に入ると、同じ仕組みが二つの方向へ同時に資金を送り出した。一方は中国の1,000店構想と上海の百貨店で、もう一方は和田氏自身が投資効率が悪いと語った国内での百貨店ネクステージである。国内を見切る論理と国内に大型店を建てる投資が並び、その双方を転換社債が支えた。1993年3月期の連結の有利子負債は約1,200億円に達したが、キャッシュフローは約18億円にとどまり、単体の純利益は1991年3月期の41億円から1994年3月期の15億円へ細った。利益が減っても社債の償還期日は動かないという条件を、1994年のヤオハンはすでに抱えていた。
- すべて単体。当期純利益は1991年3月期の41億円が頂点で、1994年3月期は15億円。
- 出所は1983-84年がヤオハン 単体業績(証券 38(4)(445))、1985-1991年3月期がヤオハン烈烈 国境のない企業 世界制覇の野望(1991年)、1992-1994年3月期が三浦後美『経営破綻企業と社債金融』。
1983年〜1994年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1983年06月期 | 単体 | 836 | n/a | 9 | 1.2% | n/a |
| 1984年07月期 | 単体 | 923 | +10.4% | 15 | 1.6% | n/a |
| 1985年07月期 | 単体 | 944 | +2.3% | 15 | 1.7% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | 1,035 | +9.6% | 14 | 1.4% | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | 1,051 | +1.5% | 15 | 1.5% | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | 1,113 | +5.9% | 18 | 1.7% | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | 1,191 | +7.0% | 21 | 1.8% | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | 1,252 | +5.1% | 25 | 2.0% | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | 1,431 | +14.3% | 41 | 2.9% | n/a |
| 1992年03月期 | 単体 | 1,311 | ▲8.4% | 21 | 1.6% | n/a |
| 1993年03月期 | 単体 | 1,542 | +17.6% | 25 | 1.6% | n/a |
| 1994年03月期 | 単体 | 1,526 | ▲1.0% | 15 | 1.0% | n/a |
出所:証券38(4)、ヤオハン烈烈:国境のない企業 世界制覇の野望、経営破綻企業と社債金融
出典・参考
13件
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
- Decide 1989年7巻9号(和田一夫・国際流通グループヤオハン代表)
- 日経ビジネス 1989年2月13日号
- 日経ビジネス 1992年3月16日号 編集長インタビュー 和田一夫
- 日経ビジネス 1992年11月30日号
- ショッピングセンター 1994年3月号「流通展望――ヤオハンの経営理念と国際戦略」(和田晃昌)
- 日経ビジネス 1994年4月11日号
- 日経ビジネス 1997年1月6日号
- 日本経済新聞 1993年1月10日
- LA international 1991年「カネがカネを呼ぶ仕掛け――ヤオハン国際戦略の香港・総本山」
- ヤオハン烈烈 国境のない企業 世界制覇の野望(1991年・単体業績)
- 三浦後美『経営破綻企業と社債金融』(ヤオハンジャパン単体業績)