ヤオハン:和田一夫の社長就任とブラジルヤオハンの破綻
ダイエーとの規模差からブラジル・シンガポール出店へ
1962年〜和田一夫の社長就任と同族会社の改組
組織の改組は知人の提案を受けたもので、根本から手が入った。まず1962年6月に八百半が和田商事を設立し、翌7月には一夫氏が父・良平氏の後を継いで社長となり、年齢は33歳であった。社長就任に合わせて社名を八百半デパートとし、日用の衣料品の品目を広げて、総合スーパーへの転換とチェーン展開に踏み出した。青果中心の食品店から、衣料まで扱う総合的な店へ間口を広げる方向であった。新会社の資本金は1,000万円、1株の額面は50円とした。米国で見たチェーンの仕組みを熱海へ持ち込むには、店の形より先に会社の形を変える必要があった。
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
- [1]知人の提案もあり、和田一夫は根本的に経営組織を改組した
- [7]八百半デパートの資本金は1,000万円、一株50円だった
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [2]1962年6月 和田商事を設立
- [3]1962年7月 和田一夫が社長に就任(33歳での就任)
- Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
- [4]昭和37年(1962年)、和田一夫は父・良平から社長の座を譲り受けた。33歳の時だった
- [5]和田一夫は社長就任と同時に社名を「八百半デパート」と改めた
- [6]日用衣料品を増やして総合スーパー化を図り、チェーン化へ乗り出した
それまでの八百半は何から何まで同族会社で、社員が参加する余地がなかった。一夫氏は従来の八百半を和田保善へ社名変更して資産管理会社の性格を与え、そこから資産を借り受ける形で八百半デパートを設立している。新会社は和田商事から営業権を譲り受けて発足した。あわせて社員持株制度を導入し、社員の経営参加の意識を高めた。持株比率は和田家が約60%、社員など和田家以外が40%となり、社長になった一夫氏は自らの持株を10%限度と定めた。企業を私物化しない意思表示である。正しく働く者が正しく報われる待遇の仕組みを公開することで、若い社員の意欲と知恵を引き出す狙いであった。
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
- [8]それまでの八百半は何から何まで同族会社で社員参加の余地がなかった
- [9]それまでの八百半を「和田保善」と社名変更して資産管理会社の性格とし、そこから様々な資産を借り受けた「八百半デパート」を設立した
- [11]社員持ち株制度を導入し、社員の経営参加意識を高めた
- [12]持ち株比率は和田家が約60%、社員など和田家以外の人々が40%だった
- [13]社長になった和田一夫は自らの持ち株比率を10%限度とした
- [14]持ち株比率を10%限度としたのは企業を私物化しないという意思表示でもあった
- [15]正しく働く者が正しく報われる待遇のシステムを公開することで、若い社員のやる気と知恵とエネルギーをフル回転させようと考えた
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [10]1962年7月 和田商事から営業権を譲受し、八百半デパートに商号変更
参考文献[1]-[15]
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
- [1]知人の提案もあり、和田一夫は根本的に経営組織を改組した
- [7]八百半デパートの資本金は1,000万円、一株50円だった
- [8]それまでの八百半は何から何まで同族会社で社員参加の余地がなかった
- [9]それまでの八百半を「和田保善」と社名変更して資産管理会社の性格とし、そこから様々な資産を借り受けた「八百半デパート」を設立した
- [11]社員持ち株制度を導入し、社員の経営参加意識を高めた
- [12]持ち株比率は和田家が約60%、社員など和田家以外の人々が40%だった
- [13]社長になった和田一夫は自らの持ち株比率を10%限度とした
- [14]持ち株比率を10%限度としたのは企業を私物化しないという意思表示でもあった
- [15]正しく働く者が正しく報われる待遇のシステムを公開することで、若い社員のやる気と知恵とエネルギーをフル回転させようと考えた
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [2]1962年6月 和田商事を設立
- [3]1962年7月 和田一夫が社長に就任(33歳での就任)
- [10]1962年7月 和田商事から営業権を譲受し、八百半デパートに商号変更
- Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
- [4]昭和37年(1962年)、和田一夫は父・良平から社長の座を譲り受けた。33歳の時だった
- [5]和田一夫は社長就任と同時に社名を「八百半デパート」と改めた
- [6]日用衣料品を増やして総合スーパー化を図り、チェーン化へ乗り出した
1965年〜伊豆・静岡へのチェーン化と大手との規模差
スーパー展開を決めた1962年から、本格的な第2号店の開店までには4年を要した。その間に一夫氏が注いだのは、熱海店の体質強化と人材育成である。新規店が軌道に乗る前に既存店が傾けば元も子もなかった。世間から見れば当時の八百半はたかが熱海の八百屋であり、社員を募集しても高卒の採用さえ思うようにいかず、中卒が中心だった。一夫氏は人間は学歴ではないとして、仕事を終えると社員の寮に出向き、米国の現状と日本のスーパーチェーンの未来を語った。損益計算書の見方に加え、1個50円のかしわ餅を5,000個売るにはどうするかといった問いを出す試験制度も設けている。利益目標を達成すれば3分の1を社員の待遇へ還元すると公言し、実行した。チェーン化の第1店である小田原店が神奈川県小田原市に開いたのは、1965年11月であった。
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
- [16]スーパー展開を決意した1962年から本格的な第二号店のオープンまで4年の歳月を要した
- [17]その間、和田一夫はひたすら熱海店の体質強化と人材育成に情熱を傾けた
- [18]新規店が軌道に乗る前に既存店がおかしくなったのでは元も子もなくなるため、熱海店の体質強化に狂奔した
- [19]世間から見れば当時の八百半は「たかが熱海の八百屋」で、社員募集しても高卒者採用さえ思うようにいかず中卒が中心だった
- [20]和田一夫は「人間は学歴ではない」として社員のエネルギーを引き出す手だてを考えた
- [21]和田一夫は仕事を終えると社員寮に出向き、アメリカの現状と日本のスーパーチェーン界の未来を語った
- [22]試験制度を導入し、「損益計算書の見方」に加え「一個五十円のかしわ餅を五千個売りたい。どうすれば良いか」などを出題した
- [23]利益目標を達成すると3分の1は社員待遇に還元すると公言し、実際に実行した
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [24]1965年11月 神奈川県小田原市に小田原店を新設
- Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
- [25]昭和40年(1965年)、小田原市にチェーン化第1店をオープンした
第2号店にあたる伊東店が静岡県伊東市に開いたのは1966年5月である。2年後の1968年には下田店が開き、この空白の2年もまた体質強化と人材育成に充てられた。スーパー業では出店のたびに優秀な人材を投入せざるを得ず、そのためには次の人材が育っていなければならない。マニュアルがあっても、その成否は人の心にかかるというのが一夫氏の考えであった。人の心が商いに燃えるのは、自らの商いが善だと信じられ、それを実証できるときだとも述べている。1970年までに伊豆・富士一帯で8店が置かれて店舗拡大の布石となり、1973年11月には静岡県清水市に清水店が加わった。出店の速度を決めたのは資金ではなく、店を任せられる人の数であった。
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [26]1966年5月 静岡県伊東市に伊東店を新設
- [32]1973年11月 静岡県清水市に清水店を新設
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
- [27]1966年に第二号店が伊東にオープンし、2年後の1968年に下田店を開店。この空白の2年間も「体質強化」と「人材育成」に充てられた
- [28]スーパー業では新規オープンの都度、優秀な人材を投入せざるを得ず、そのあとの優秀な人材が育っていなければならない
- [29]マニュアルがあってもその成否は人の心にかかっている、と和田一夫は述べている
- [30]人の心が商いに熱く燃えるのは、自らの商いが善だと信じられ、それを実証できる時である、と和田一夫は述べている
- Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
- [31]昭和45年(1970年)までに伊豆・富士一帯で8店を出店した
1968年度の年間売上高で、ダイエーが1,000億円を上回っていたとき、八百半は30億円にとどまっていた。日本一のスーパー・チェーンを目指す以上、東京と大阪へ出ることは避けられなかったが、本格的なチェーン化で競えば勝負にならない差である。グループ年商が100億円を上回るのは1972年まで待たねばならず、ダイエーの1,000億円突破から4年遅れた。ソニーのすき間理論を一夫氏が本で知ったのは、このころである。戦後の井深大氏らが国内の販売網を大手電機メーカーに固められていたため、一時的に国内市場を捨てて海外へ出て市場を確立し、その成功を国内へ持ち帰ったという筋書きであった。競争の焦点を国内から外す発想を、一夫氏は流通業へ当てはめた。
- Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
- [33]当時ダイエーの年間売り上げがすでに1千億円を超えていたのに対し、八百半は30億円(昭和43年度)だった
- [34]「日本一のスーパー・チェーン作り」という夢を実現するには東京・大阪への進出が不可欠だった
- [35]本格的なチェーン化競争になれば、とても太刀打ちできない規模差だった
- [37]そのころ和田一夫は書物で「ソニーのすき間理論」を知った
- [38]ソニーは戦後、井深大ら三人で出発し販路を広げようとした時に全国の販売網が大手電機メーカーに固められていたため、一時的に国内市場を捨てて海外に進出しマーケットを確立、海外での成功を国内に持ち帰って成長した
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [36]1972年 グループ年商が100億円を突破
参考文献[16]-[38]
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
- [16]スーパー展開を決意した1962年から本格的な第二号店のオープンまで4年の歳月を要した
- [17]その間、和田一夫はひたすら熱海店の体質強化と人材育成に情熱を傾けた
- [18]新規店が軌道に乗る前に既存店がおかしくなったのでは元も子もなくなるため、熱海店の体質強化に狂奔した
- [19]世間から見れば当時の八百半は「たかが熱海の八百屋」で、社員募集しても高卒者採用さえ思うようにいかず中卒が中心だった
- [20]和田一夫は「人間は学歴ではない」として社員のエネルギーを引き出す手だてを考えた
- [21]和田一夫は仕事を終えると社員寮に出向き、アメリカの現状と日本のスーパーチェーン界の未来を語った
- [22]試験制度を導入し、「損益計算書の見方」に加え「一個五十円のかしわ餅を五千個売りたい。どうすれば良いか」などを出題した
- [23]利益目標を達成すると3分の1は社員待遇に還元すると公言し、実際に実行した
- [27]1966年に第二号店が伊東にオープンし、2年後の1968年に下田店を開店。この空白の2年間も「体質強化」と「人材育成」に充てられた
- [28]スーパー業では新規オープンの都度、優秀な人材を投入せざるを得ず、そのあとの優秀な人材が育っていなければならない
- [29]マニュアルがあってもその成否は人の心にかかっている、と和田一夫は述べている
- [30]人の心が商いに熱く燃えるのは、自らの商いが善だと信じられ、それを実証できる時である、と和田一夫は述べている
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [24]1965年11月 神奈川県小田原市に小田原店を新設
- [26]1966年5月 静岡県伊東市に伊東店を新設
- [32]1973年11月 静岡県清水市に清水店を新設
- [36]1972年 グループ年商が100億円を突破
- Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
- [25]昭和40年(1965年)、小田原市にチェーン化第1店をオープンした
- [31]昭和45年(1970年)までに伊豆・富士一帯で8店を出店した
- [33]当時ダイエーの年間売り上げがすでに1千億円を超えていたのに対し、八百半は30億円(昭和43年度)だった
- [34]「日本一のスーパー・チェーン作り」という夢を実現するには東京・大阪への進出が不可欠だった
- [35]本格的なチェーン化競争になれば、とても太刀打ちできない規模差だった
- [37]そのころ和田一夫は書物で「ソニーのすき間理論」を知った
- [38]ソニーは戦後、井深大ら三人で出発し販路を広げようとした時に全国の販売網が大手電機メーカーに固められていたため、一時的に国内市場を捨てて海外に進出しマーケットを確立、海外での成功を国内に持ち帰って成長した
1969年〜ブラジルの破綻と中米への出店、名証二部上場
サンパウロには当時、日系人が70万人を数えたが、日本の百貨店は1店も出ていなかった。一夫氏がブラジルの土を初めて踏んだのは1969年6月で、入信していた宗教団体の先輩からの招きによる。国土は日本の23倍、人口は1億に達し、メーカーの成長が一巡したこの国は、大量販売で流通を変える段階に差しかかっていた。サンパウロの有名百貨店で試しに靴下を1足だけ買おうとすると、店員はもっと買わないかと返し、日本の百貨店ならありえない素っ気なさだった。この応対が一夫氏に進出を決心させた。海外1号店のピニエーロス店がサンパウロで開業したのは1971年9月である。
- Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
- [39]当時サンパウロに70万人の日系人がいながら日本のデパートが1店もなかったことも進出の材料になった
- [40]昭和44年(1969年)6月、和田一夫はブラジルで教化活動をしていた入信先の宗教団体の先輩の招きで初めてブラジルを訪れた
- [41]日本の23倍の国土、1億の人口を持つブラジルはメーカーの発展段階が一段落し、大量販売による流通革命の時期を迎えていた
- [42]和田一夫はサンパウロのある有名百貨店で一つの実験を試みた
- [43]靴下を1足だけ買おうとすると店員は「たったそれだけか。もっと買わないか」と応じ、日本のデパートでは考えられないサービス心のない素気ない態度だった
- [44]この応対で和田一夫はブラジル進出の決意を固めた
- 実業往来 1978年11月号
- [45]1971年9月 ブラジル・サンパウロにピニエーロス店を開店(海外1号店)
国内では1974年5月に和田商事を吸収合併し、事業を一社に集約している。だがブラジルでは1975年に政府が金融引き締めへ転じ、これが契機となって1977年にブラジルヤオハンは破綻した。海外1号店は開店から6年で失われたことになる。同じ1977年5月期には、単体の当期純利益も前期の3.9億円から1.1億円へ落ち込んだ。一夫氏はのちに、失敗もしたとしてブラジル店の撤退を挙げている。国内の大手チェーングループに吸収合併されることを考えた時期もあったという。海外で先に市場を取るという筋書きは、進出先の金融政策ひとつで折れる脆さを抱えていた。
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [46]1974年5月 和田商事を吸収合併
- 実業往来 1978年11月号
- [47]1975年のブラジル政府による金融引き締めが契機となり、1977年にブラジルヤオハンが破綻した
- ヤオハン 単体業績(証券 38(4)(445)・1975年5月期〜1982年5月期)
- [48]単体の当期純利益は1976年5月期3.9億円、1977年5月期1.1億円
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
- [49]和田一夫は「失敗もした(ブラジル店撤退)」と述べている
- [50]途中、ナショナル大手チェーングループに吸収合併されることを考えたこともあった
出店の先はブラジルだけではない。1974年にシンガポールのオーチャード・ロードへ1号店を開き、1979年3月にはコスタリカの首府サンホセで中米ヤオハンが開店した。出資比率は八百半デパートが70%、現地資本のコメルシアル・サテリチが30%、売場面積は4,000平方メートル、従業員は230人である。昼休み2時間、土曜は正午まで、日曜は閉店という商習慣の国で、国定の祭日を除く年中無休、朝8時から夜10時までの営業に踏み切った。真空パックや冷凍食品、惣菜コーナー、自家製パン工場など日本の売り方をそのまま持ち込み、レジの通過客は1日平均4,000人に達した。開店3年目には期間利益の黒字転換を見込んでいる。ただし当初描いた中米各地へのチェーン展開は、同国の国際収支悪化と金融の逼迫で断念せざるを得なくなった。
- 実業往来 1978年11月号
- [51]1974年 シンガポールのオーチャード・ロードに1号店を開店
- 日経ビジネス 1980年10月6日号
- [52]中米ヤオハン(ヤオハン・セントロアメリカーナ)は1979年3月にコスタリカの首府サンホセで開店した
- [53]出資比率は八百半デパート70%、現地資本のコメルシアル・サテリチ30%
- [54]売り場面積は4,000平方メートル、従業員数は230人(うち派遣7人)
- [55]コスタリカは昼休み2時間、土曜は正午まで、日曜は閉店が商習慣で、中米ヤオハンは国定の祭日を除き年中無休、朝8時から夜10時まで営業した
- [56]真空パックや冷凍食品、コロッケやトンカツの惣菜コーナー、自家製パン工場の併設など日本のノウハウをそのまま導入した
- [57]レジ通過客は1日平均4,000人
- [58]創業3年の来年度に期間利益の黒字転換をねらっていた
- [59]計画当初描いた中米各地へのチェーン展開は、同国経済の国際収支悪化による金融ひっ迫などで断念せざるを得ない情勢になった
国内では1981年11月に愛知県蒲郡市へ蒲郡店を開き、1982年12月に名古屋証券取引所市場第二部へ株式を上場した。1930年12月の創業から52年、現金正札販売への切替から26年を経ての上場である。単体の売上高は1975年5月期の295億円から1982年5月期には720億円となり、7期で2.4倍に伸びた。1980年5月期の531億円、1981年5月期の632億円と、上場前の数年は二桁の伸びが続いた。当期純利益は同じ期間に2.1億円から7.5億円となっている。上場先が東京でも大阪でもなく名古屋だったことに、静岡と神奈川に店を置く地域チェーンとしての立ち位置が表れている。
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [60]1981年11月 愛知県蒲郡市に蒲郡店を新設
- [61]1982年12月 名古屋証券取引所市場第二部に上場
- [62]1930年12月 静岡県熱海市に八百半熱海支店を創業
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
- [63]1956年11月1日、八百半は「現金・掛け売りなし」「正札販売」に商法を切り換えた
- ヤオハン 単体業績(証券 38(4)(445)・1975年5月期〜1982年5月期)
- [64]単体売上高は1975年5月期295億円、1982年5月期720億円
- [65]単体売上高は1980年5月期531億円、1981年5月期632億円
- [66]当期純利益は1975年5月期2.1億円、1982年5月期7.5億円
参考文献[39]-[66]
- Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
- [39]当時サンパウロに70万人の日系人がいながら日本のデパートが1店もなかったことも進出の材料になった
- [40]昭和44年(1969年)6月、和田一夫はブラジルで教化活動をしていた入信先の宗教団体の先輩の招きで初めてブラジルを訪れた
- [41]日本の23倍の国土、1億の人口を持つブラジルはメーカーの発展段階が一段落し、大量販売による流通革命の時期を迎えていた
- [42]和田一夫はサンパウロのある有名百貨店で一つの実験を試みた
- [43]靴下を1足だけ買おうとすると店員は「たったそれだけか。もっと買わないか」と応じ、日本のデパートでは考えられないサービス心のない素気ない態度だった
- [44]この応対で和田一夫はブラジル進出の決意を固めた
- 実業往来 1978年11月号
- [45]1971年9月 ブラジル・サンパウロにピニエーロス店を開店(海外1号店)
- [47]1975年のブラジル政府による金融引き締めが契機となり、1977年にブラジルヤオハンが破綻した
- [51]1974年 シンガポールのオーチャード・ロードに1号店を開店
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- [46]1974年5月 和田商事を吸収合併
- [60]1981年11月 愛知県蒲郡市に蒲郡店を新設
- [61]1982年12月 名古屋証券取引所市場第二部に上場
- [62]1930年12月 静岡県熱海市に八百半熱海支店を創業
- ヤオハン 単体業績(証券 38(4)(445)・1975年5月期〜1982年5月期)
- [48]単体の当期純利益は1976年5月期3.9億円、1977年5月期1.1億円
- [64]単体売上高は1975年5月期295億円、1982年5月期720億円
- [65]単体売上高は1980年5月期531億円、1981年5月期632億円
- [66]当期純利益は1975年5月期2.1億円、1982年5月期7.5億円
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
- [49]和田一夫は「失敗もした(ブラジル店撤退)」と述べている
- [50]途中、ナショナル大手チェーングループに吸収合併されることを考えたこともあった
- [63]1956年11月1日、八百半は「現金・掛け売りなし」「正札販売」に商法を切り換えた
- 日経ビジネス 1980年10月6日号
- [52]中米ヤオハン(ヤオハン・セントロアメリカーナ)は1979年3月にコスタリカの首府サンホセで開店した
- [53]出資比率は八百半デパート70%、現地資本のコメルシアル・サテリチ30%
- [54]売り場面積は4,000平方メートル、従業員数は230人(うち派遣7人)
- [55]コスタリカは昼休み2時間、土曜は正午まで、日曜は閉店が商習慣で、中米ヤオハンは国定の祭日を除き年中無休、朝8時から夜10時まで営業した
- [56]真空パックや冷凍食品、コロッケやトンカツの惣菜コーナー、自家製パン工場の併設など日本のノウハウをそのまま導入した
- [57]レジ通過客は1日平均4,000人
- [58]創業3年の来年度に期間利益の黒字転換をねらっていた
- [59]計画当初描いた中米各地へのチェーン展開は、同国経済の国際収支悪化による金融ひっ迫などで断念せざるを得ない情勢になった
筆者考察
ヤオハンの海外進出は、世界を目指した結果ではなく、国内で競争の焦点から外れた結果である。1968年度のダイエーの年商1,000億円に対し、八百半は30億円であった。日本一のスーパー・チェーンを掲げる以上は東京と大阪へ出るしかないが、その市場には資本の桁が二つ違う先行者がいる。和田一夫氏が書物で知ったソニーのすき間理論は、国内をいったん諦めて海外で市場を取り、その成功を国内へ持ち帰るという順序であった。1969年のサンパウロで一夫氏が測ったのは、市場の大きさよりも競争相手の水準である。靴下1足の客に素気ない店しかない場所であれば、30億円の会社でも優位に立てる。
ただし競争相手の弱い市場は、ほかの条件も弱い。ブラジルヤオハンは1971年9月のピニエーロス店から6年で破綻したが、要因は店の売り方ではなく、1975年にブラジル政府が金融を引き締めたことにあった。コスタリカでも似たことが起きている。1979年に開いた中米ヤオハンは1日4,000人の客を集めながら、国際収支の悪化と金融の逼迫で中米各地への展開を諦めた。国内であれば資金の調達条件は全店に共通するが、海外では店ごとに別の国の金融政策がつく。1982年12月の名証二部上場は、静岡と神奈川の店が生む720億円の売上を足場に、条件の揃わない海外を抱え続けるための資金の口であった。
- すべて単体。ブラジルヤオハンが破綻した1977年5月期の当期純利益は1.1億円で、前期の3.9億円から落ち込んだ。
- 出所はヤオハン 単体業績(証券 38(4)(445))。
1962年〜1982年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1962年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1974年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1975年05月期 | 単体 | 295 | n/a | 2 | 0.7% | n/a |
| 1976年05月期 | 単体 | 350 | +18.6% | 3 | 1.1% | n/a |
| 1977年05月期 | 単体 | 396 | +13.1% | 1 | 0.3% | n/a |
| 1978年05月期 | 単体 | 431 | +8.8% | 4 | 1.1% | n/a |
| 1979年05月期 | 単体 | 471 | +9.3% | 3 | 0.7% | n/a |
| 1980年05月期 | 単体 | 531 | +12.7% | 4 | 0.9% | n/a |
| 1981年05月期 | 単体 | 632 | +19.0% | 7 | 1.1% | n/a |
| 1982年05月期 | 単体 | 720 | +13.9% | 7 | 1.0% | n/a |
出所:証券38(4)
出典・参考
6件
- ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
- 実業往来 1978年11月号
- 日経ビジネス 1980年10月6日号
- Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
- ヤオハン 単体業績(証券 38(4)(445)・1975年5月期〜1982年5月期)
- 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)