第1章 年〜年

ヤオハン:熱海の八百半の創業と現金正札販売

熱海の旅館向け掛け売りから市民相手の正札販売へ

1930年〜熱海の旅館を得意先にした和田良平・カツの行商

天秤棒一本で旅館を回る

ヤオハンの起点は、1930年12月に和田良平氏が静岡県熱海市で開いた八百半熱海支店である。屋号は八百半からの暖簾分けで、良平氏と妻のカツ氏は旅館の蔵の軒下を借り、天秤棒をかついで旅館を回る行商から商いを起こした。元手は千円だった。得意先は熱海の旅館の板場であり、青果を納める八百屋として土地に根を下ろした。良平氏とカツ氏はともに篤実な人柄だったという。長男の一夫氏が生まれたのは1929年3月で、一夫氏が大学に通うころの店はそれなりの大店となり、熱海では知られた存在になっていた。もっとも一夫氏自身は、八百屋の長男として育ちながら、商いに割り切れないうしろめたさを覚えていた。旅館という固定客を先に押さえた商いは、店舗も在庫も持たずに始められる点で、元手の小ささと釣り合っていた。

  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1930年12月 静岡県熱海市に八百半熱海支店を創業
    • [2]和田良平が「八百半」から暖簾分けを受けて開業した
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [3]父・良平と母・カツは1930年以来熱海で店を張り、旅館の蔵の軒下を借り天びん棒をかついで旅館回りをする行商から出発した
    • [4]和田良平は「1930年に千円で始めた商いだから、千円残れば元々だ」と述べた
    • [5]八百半は熱海の旅館の板場を主なお得意先にする八百屋だった
    • [7]父・良平と母・カツは篤実な人柄だった
    • [9]和田一夫が大学に通うころには八百半はそれなりの大店になっていて、熱海では知られた存在になっていた
    • [10]和田一夫は八百屋の長男として生まれ育ちながら、商いに割り切れないある種のうしろめたさを感じつつ育ち、商いが嫌いだった
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [6]和田良平・カツは熱海市で青果商を営んでいた
    • [8]和田一夫は1929年3月に和田良平・カツの長男として生まれた
掛け売りと付け届けに縛られる

物価の高さで日本一といわれた当時の熱海で、その最大の原因とされたのが掛売制度である。旅館相手の商いは掛けで回り、板前への付け届けがあって初めて取引がまとまる慣行さえあったが、掛売制度そのものは熱海に限らず全国の温泉町に共通する商習慣であった。長男の一夫氏はこうした商いをまともなものと見ず、八百屋という職業自体を嫌って、両親を守銭奴とののしったこともある。横浜市立商業、東京外事専門学校を経て日本大学経済学部に入ると、社会主義研究会で学園民主化運動に加わり、反ファッショ闘争委員会の副委員長に選ばれた。日本共産党にも入党し、自由法曹団に属する弁護士を目指して司法試験の勉強を進めた。商いとは汚いものだという先入観への反発が、その左傾化の背景にあった。

  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [11]当時の熱海は日本一物価の高い町といわれ、高物価の最大の原因は掛売制度だった
    • [14]掛売制度は全国の温泉町で行なわれていた商習慣である
    • [16]和田一夫は八百屋という職業を激しく嫌い、両親に「守銭奴」という言葉を投げたこともあった
    • [19]和田一夫は日本共産党に入党し、自由法曹団所属の弁護士を志して司法試験の勉強に取り組んだ
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [12]旅館相手の商いは掛け売りだった
    • [13]板前の付け届けの要求に応じることで取引が成立していた
    • [15]和田一夫は旅館相手の商いを正常ではないと考えていた
    • [17]和田一夫は横浜市立商業から東京外事専門学校を経て日本大学経済学部へ進んだ
    • [18]和田一夫は大学時代に社会主義研究会に入り学園民主化運動に乗り出し、反ファッショ闘争委員会副委員長に選ばれた
    • [20]和田一夫の左傾化は、商いとは汚いものという先入観への反発からだった
熱海大火で店と住居を失う

1950年、熱海市の大火で八百半の店と住居は全焼した。当時の一夫氏が将来に描いていたのは外交官か弁護士であって、家業を継ぐ姿ではなかった。大学の卒業を目前にしたこの一件は、一夫氏にとって思想の面での転回点になった。両親を中心に家族全員が再建へ力を結集しなければならないときに、イデオロギーを論じてはいられなかったからである。母カツ氏から頼まれていた火災保険の加入手続きを、一夫氏はうっかりして済ませていなかった。過ちへの責任感と父母への償いの気持ちが、家業を手伝う動機になった。母カツ氏が入信していた宗教は父母への孝を説き、逆らい続けてきた自分を見守ってきた父母の苦労を、一夫氏は直視する気になった。もっともそれは孝と償いにとどまり、商いそのものに没頭したわけではなかった。

  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [21]和田一夫が卒業を目前にした昭和25年(1950年)、熱海市の大火で店と住居が全焼した
    • [23]両親を中心に家族全員が一丸となって再建に力を結集しなければならない時、イデオロギーを論じてはいられなかった
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [22]和田一夫は大学時代、将来は外交官か弁護士を夢見ていた
    • [24]全焼寸前に母カツから頼まれていた火災保険加入を、和田一夫はうっかりして手続きしていなかった
    • [25]過ちへの責任感と父母への償いの気持ちが、和田一夫が家業を手伝うようになった節目の一つだった
    • [26]母カツが入信していた宗教は父母への孝を説き、和田一夫はさからい続けてきた自分を見守り続けてきた父母の苦労を直視する気になった
    • [27]それは「孝と償い」にすぎず、和田一夫は心底商いに没頭したわけではなかった
参考文献[1]-[27]
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1930年12月 静岡県熱海市に八百半熱海支店を創業
    • [2]和田良平が「八百半」から暖簾分けを受けて開業した
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [3]父・良平と母・カツは1930年以来熱海で店を張り、旅館の蔵の軒下を借り天びん棒をかついで旅館回りをする行商から出発した
    • [4]和田良平は「1930年に千円で始めた商いだから、千円残れば元々だ」と述べた
    • [5]八百半は熱海の旅館の板場を主なお得意先にする八百屋だった
    • [7]父・良平と母・カツは篤実な人柄だった
    • [9]和田一夫が大学に通うころには八百半はそれなりの大店になっていて、熱海では知られた存在になっていた
    • [10]和田一夫は八百屋の長男として生まれ育ちながら、商いに割り切れないある種のうしろめたさを感じつつ育ち、商いが嫌いだった
    • [12]旅館相手の商いは掛け売りだった
    • [13]板前の付け届けの要求に応じることで取引が成立していた
    • [15]和田一夫は旅館相手の商いを正常ではないと考えていた
    • [17]和田一夫は横浜市立商業から東京外事専門学校を経て日本大学経済学部へ進んだ
    • [18]和田一夫は大学時代に社会主義研究会に入り学園民主化運動に乗り出し、反ファッショ闘争委員会副委員長に選ばれた
    • [20]和田一夫の左傾化は、商いとは汚いものという先入観への反発からだった
    • [22]和田一夫は大学時代、将来は外交官か弁護士を夢見ていた
    • [24]全焼寸前に母カツから頼まれていた火災保険加入を、和田一夫はうっかりして手続きしていなかった
    • [25]過ちへの責任感と父母への償いの気持ちが、和田一夫が家業を手伝うようになった節目の一つだった
    • [26]母カツが入信していた宗教は父母への孝を説き、和田一夫はさからい続けてきた自分を見守り続けてきた父母の苦労を直視する気になった
    • [27]それは「孝と償い」にすぎず、和田一夫は心底商いに没頭したわけではなかった
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [6]和田良平・カツは熱海市で青果商を営んでいた
    • [8]和田一夫は1929年3月に和田良平・カツの長男として生まれた
    • [11]当時の熱海は日本一物価の高い町といわれ、高物価の最大の原因は掛売制度だった
    • [14]掛売制度は全国の温泉町で行なわれていた商習慣である
    • [16]和田一夫は八百屋という職業を激しく嫌い、両親に「守銭奴」という言葉を投げたこともあった
    • [19]和田一夫は日本共産党に入党し、自由法曹団所属の弁護士を志して司法試験の勉強に取り組んだ
    • [21]和田一夫が卒業を目前にした昭和25年(1950年)、熱海市の大火で店と住居が全焼した
    • [23]両親を中心に家族全員が一丸となって再建に力を結集しなければならない時、イデオロギーを論じてはいられなかった

1956年〜白浜のゼミナールと年商3,000万円を捨てた商法の切替

商業界ゼミナールで商いを継ぐと決める

転機は1956年、一夫氏が27歳のときに訪れた。母カツ氏のすすめで和歌山県白浜の商業界ゼミナールに出席した一夫氏は、当時商業界の副社長でJ・C・ペニーの伝記翻訳でも知られた新保民八氏の言葉に衝撃を受けた。『正しきにより滅ぶ店あらば滅びてもよし。断じて滅びず』という一節である。十字屋の創業者・山藤捷七氏の講演がこれを補い、大衆のために奉仕に明けて奉仕に暮れることこそ商いだと説いた。奉仕の中身は、良い商品をより安く売ること、現金取引として掛け売りをしないこと、正札販売を徹底することであった。一夫氏はここで商いが善であることを初めて確信した。それまでうっ積していたものが爆発するように、商いへ取り組む気になったという。両親の仕事を継ぐと決め、日本一の八百屋づくりを目標に掲げたのはこのときである。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [28]1956年、27歳の和田一夫は母カツのすすめで商業界主催の和歌山県白浜ゼミナールに参加した
    • [29]新保民八は当時商業界副社長で、J・C・ペニーの伝記翻訳でも知られていた
    • [30]十字屋の創業者・山藤捷七は講演で「大衆のために奉仕に明けて奉仕に暮れることこそ商い」と述べた
    • [31]奉仕の内容は「良い商品をより安く売る」「現金・掛け売りなし」「正札販売の徹底」だった
    • [32]和田一夫は「商いが善」であることを初めて確信させられた
    • [33]和田一夫はそれまでうっ積していたものが爆発するように商いに取り組む気になった
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [34]和田一夫は両親の仕事を継ぐことを決意し「どうせやるからには日本一の八百屋づくりを」を目標にした
掛け売りを捨てて現金正札販売へ切り替える

一夫氏が父・良平氏に迫ったのは、掛け売りと付け届けに依存する旅館取引の廃止であり、正札販売で市民を相手にする方針への転換であった。当時あった年商約3,000万円をふいにしかねない要求である。現金販売に踏み切って売掛金を回収できるのか、大口消費者である旅館がこれまで通り買ってくれるのかという不安もあった。日本一高い物価は商人の恥であり、八百半がここまで伸びたのは客のおかげである。客が一円でも安く買えるなら危険は覚悟すべきだ、というのが一夫氏の立てた理屈だった。それでも良平氏がその正しさに同意したのは、『1930年に千円で始めた商いだから、千円残れば元々だ』という理由からである。1956年11月1日、八百半は現金・掛け売りなし・正札販売へ商法を切り換えた。長年の商習慣だっただけに一部の旅館からは注文を断られたが、ヤオハンはこの月日を創業の時としている。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [35]和田一夫は父に「掛け売り・賄賂商法の旅館取引の廃止」を迫り「正札販売で市民相手」への経営方針の変更を説いた
    • [36]旅館取引の廃止は当時あった年商約3,000万円をフイにするかも知れないことを意味した
    • [40]父・良平は「1930年に千円で始めた商いだから、千円残れば元々だ」と述べて同意した
    • [41]1956年11月1日、八百半は「現金・掛け売りなし」「正札販売」に商法を切り換えた
    • [43]八百半は1956年11月1日を創業の時としている
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [37]現金販売を断行して売掛金が回収できるか、大口消費者である旅館からこれまで通り買ってもらえるかという不安があった
    • [38]和田一夫は「日本一高い物価は商人の恥だ。ここまで八百半が伸びたのはお客様のお蔭」と述べた
    • [39]和田一夫は「お客が一円でも安く買えるなら、危険を覚悟しなくてはいけない」として現金正札販売システムの断行に踏み切った
    • [42]長年続いた商習慣だっただけに、当初は一部の旅館から注文を断られた
家族の経営会議で薄利多売を回す

切替からの3年間が八百半の生死の境目であった。店仕舞いのあと、良平氏とカツ氏、一夫氏とのちにヤオハンジャパンの社長となる弟の晃昌氏、1953年に結婚した一夫氏の妻きみ子氏が額を寄せ合う経営会議が常だった。薄利多売と正札販売という初心に取り組む戦場であり、商いは善であることの実証に家族の全員が燃えていた。家族の心が一つになっていなければこの時期の八百半は潰れていたはずだと、一夫氏はのちに振り返っている。旅館の側にしても、長期的に見れば安く買えるほうが得であった。断られた取引が戻る余地はそこにあり、商法の切替は大口客を切り捨てる策ではなく、価格の決まり方を店の側へ引き取る策であった。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [44]商法の切替からの3年間が八百半の生死の境目だった
    • [45]弟の和田晃昌は後年ヤオハンジャパンの社長を務めた
    • [46]夜の店仕舞いのあとは父母・和田一夫・弟の晃昌・1953年に結婚した妻きみ子が額を寄せ合う「経営会議」が常だった
    • [47]「薄利多売・正札販売」の初心に取り組む戦場だった
    • [48]「商いは善」の実証に家族のみんなが燃えていた
    • [49]燃え続けなければあの時期に八百半は潰れていたに違いない、と和田一夫は述べている
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [50]旅館側にしても長期的に見れば安く買えるにこしたことはなかった
参考文献[28]-[50]
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [28]1956年、27歳の和田一夫は母カツのすすめで商業界主催の和歌山県白浜ゼミナールに参加した
    • [29]新保民八は当時商業界副社長で、J・C・ペニーの伝記翻訳でも知られていた
    • [30]十字屋の創業者・山藤捷七は講演で「大衆のために奉仕に明けて奉仕に暮れることこそ商い」と述べた
    • [31]奉仕の内容は「良い商品をより安く売る」「現金・掛け売りなし」「正札販売の徹底」だった
    • [32]和田一夫は「商いが善」であることを初めて確信させられた
    • [33]和田一夫はそれまでうっ積していたものが爆発するように商いに取り組む気になった
    • [35]和田一夫は父に「掛け売り・賄賂商法の旅館取引の廃止」を迫り「正札販売で市民相手」への経営方針の変更を説いた
    • [36]旅館取引の廃止は当時あった年商約3,000万円をフイにするかも知れないことを意味した
    • [40]父・良平は「1930年に千円で始めた商いだから、千円残れば元々だ」と述べて同意した
    • [41]1956年11月1日、八百半は「現金・掛け売りなし」「正札販売」に商法を切り換えた
    • [43]八百半は1956年11月1日を創業の時としている
    • [44]商法の切替からの3年間が八百半の生死の境目だった
    • [45]弟の和田晃昌は後年ヤオハンジャパンの社長を務めた
    • [46]夜の店仕舞いのあとは父母・和田一夫・弟の晃昌・1953年に結婚した妻きみ子が額を寄せ合う「経営会議」が常だった
    • [47]「薄利多売・正札販売」の初心に取り組む戦場だった
    • [48]「商いは善」の実証に家族のみんなが燃えていた
    • [49]燃え続けなければあの時期に八百半は潰れていたに違いない、と和田一夫は述べている
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [34]和田一夫は両親の仕事を継ぐことを決意し「どうせやるからには日本一の八百屋づくりを」を目標にした
    • [37]現金販売を断行して売掛金が回収できるか、大口消費者である旅館からこれまで通り買ってもらえるかという不安があった
    • [38]和田一夫は「日本一高い物価は商人の恥だ。ここまで八百半が伸びたのはお客様のお蔭」と述べた
    • [39]和田一夫は「お客が一円でも安く買えるなら、危険を覚悟しなくてはいけない」として現金正札販売システムの断行に踏み切った
    • [42]長年続いた商習慣だっただけに、当初は一部の旅館から注文を断られた
    • [50]旅館側にしても長期的に見れば安く買えるにこしたことはなかった

1961年〜米国視察が決めたローカル・チェーンの進路

一店舗の商いに限界を見る

商法の切替は数字に表れた。1957年に日商10万円だった売上は、1961年には日商100万円まで伸びている。1960年から1961年にかけて、売場面積約170坪の熱海店は軌道に乗っていた。だが時代は高度成長期へ向かい、流通業界では大資本による連鎖店展開の兆しが出ていた。連鎖店とは当時の呼び方で、スーパーチェーンを指す。八百半は1948年10月に八百半商店として法人へ改組され、1955年7月には八百半食品デパートへ商号を改めていたが、熱海一店舗の八百屋としてこれからどうするかという問いは残った。一夫氏は1961年7月、米国スーパー業界の視察ツアーに参加した。商いの作法を入れ替えて伸びた一店舗は、伸びたがゆえに次の形を決めなければならなくなっていた。

  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [51]昭和32年(1957年)に日商10万円だったものが、昭和36年(1961年)には日商100万円となり売上が急増した
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [52]1960年から1961年になると売り場面積約170坪の店も軌道に乗っていた
    • [53]時代は高度成長期に向かい、業界では大資本による「連鎖店展開」の兆候が出ていた
    • [54]「連鎖店」とはスーパーチェーン店のことで、当時はそう呼んでいた
    • [57]熱海一店舗だけの八百屋としてこれからどうするか、が和田一夫の問いだった
    • [58]1961年7月、和田一夫は「米国スーパー業界視察ツアー」に参加した
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1948年10月 個人経営から改組して八百半商店を設立
    • [56]1955年7月 八百半食品デパートに商号変更
客の側から米国のスーパーを見る

ハワイと米国西海岸を回る2週間のツアーが終わったあとも、一夫氏は独り現地に残った。業界に手づるがあるわけではなく、入信していた宗教の信者の家庭に世話になり、人々の買い物に同行して客の立場から店を見て回っている。約3カ月をかけてサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ワシントン、ソルトレークシティーを歩き、国民所得の構造、車社会というライフスタイル、大量廉価販売のチェーン・システム、科学的経営法を確かめた。日本一の八百屋を目指していた目標は、スーパー・チェーンで日本一になることへ移っていた。生鮮食品の商いは、仕入れから配送、販売まで時間との勝負になる。チェーンにはナショナル・チェーンとローカル・チェーンの別があり、そうした商いには後者が向くと一夫氏は判断した。引退を決めたのは良平氏で、帰国して報告を受けたうえでのことだった。事業は一夫氏へ任された。

  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [59]ハワイ・アメリカ西海岸の2週間のツアーが終わったあとも和田一夫は独り残った
    • [60]業界に手づるはなく、入信していた宗教の入信者の家庭に世話になり、人々の買い物にお供をするなど客の立場から徹底的に見て回った
    • [61]約3カ月かけてサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ワシントン、ソルトレークシティーなどを歩き回った
    • [62]背景としての国民所得構造、車社会などのライフスタイル、「大量廉価販売」のチェーン・システム、科学的経営法などを見た
    • [64]チェーンシステムにはナショナル・チェーンとローカル・チェーンがあり、仕入れから配送・販売まで時間が勝負の生鮮食品屋の立場から和田一夫はローカル・チェーンに将来像を見た
    • [65]和田一夫がローカル・チェーンのスーパー展開をやりたいと報告すると、父・良平は引退を決意し、お前がやれと言った
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [63]和田一夫の夢は「日本一の八百半づくり」から「日本一のスーパー・チェーン作り」へと広がった
参考文献[51]-[65]
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
    • [51]昭和32年(1957年)に日商10万円だったものが、昭和36年(1961年)には日商100万円となり売上が急増した
    • [63]和田一夫の夢は「日本一の八百半づくり」から「日本一のスーパー・チェーン作り」へと広がった
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)
    • [52]1960年から1961年になると売り場面積約170坪の店も軌道に乗っていた
    • [53]時代は高度成長期に向かい、業界では大資本による「連鎖店展開」の兆候が出ていた
    • [54]「連鎖店」とはスーパーチェーン店のことで、当時はそう呼んでいた
    • [57]熱海一店舗だけの八百屋としてこれからどうするか、が和田一夫の問いだった
    • [58]1961年7月、和田一夫は「米国スーパー業界視察ツアー」に参加した
    • [59]ハワイ・アメリカ西海岸の2週間のツアーが終わったあとも和田一夫は独り残った
    • [60]業界に手づるはなく、入信していた宗教の入信者の家庭に世話になり、人々の買い物にお供をするなど客の立場から徹底的に見て回った
    • [61]約3カ月かけてサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ワシントン、ソルトレークシティーなどを歩き回った
    • [62]背景としての国民所得構造、車社会などのライフスタイル、「大量廉価販売」のチェーン・システム、科学的経営法などを見た
    • [64]チェーンシステムにはナショナル・チェーンとローカル・チェーンがあり、仕入れから配送・販売まで時間が勝負の生鮮食品屋の立場から和田一夫はローカル・チェーンに将来像を見た
    • [65]和田一夫がローカル・チェーンのスーパー展開をやりたいと報告すると、父・良平は引退を決意し、お前がやれと言った
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
    • [55]1948年10月 個人経営から改組して八百半商店を設立
    • [56]1955年7月 八百半食品デパートに商号変更

筆者考察

八百半が1956年11月に手放したのは、年商3,000万円の売上ではなく、価格を自分で決められない立場である。熱海の旅館の板場を得意先にする商いでは、代金がいつ入るかも、取引が成立するかどうかも、買う側の都合で決まった。掛け売りは信用の供与に見えて、実際には売り手が資金繰りを肩代わりする仕組みであり、板前への付け届けはその上に乗る費用であった。熱海が日本一物価の高い町といわれたのは、その費用が末端の値段へ乗った結果である。現金と正札に替えれば、回収の不確実さも値決めの交渉も無くなる。和田一夫氏が父・良平氏に迫ったのは商道徳の話ではなく、誰が値段を決めるのかという話であった。

切替の成果は、そのまま次の制約になった。1957年に日商10万円だった熱海店は、1961年には日商100万円へ伸びる。ただし伸びたのは売場170坪の一店舗であって、店の数ではない。安く売る仕組みで客を集めた店は、客が増えるほど一店舗の売場に収まらなくなる。和田一夫氏が1961年の視察でツアーのあとも3カ月残り、米国の家庭の買い物に同行したのは、売り方ではなく買い方の構造を確かめるためであった。そこで選んだローカル・チェーンは、生鮮食品が仕入れから販売まで時間に縛られるという制約から逆算した答えである。全国へ広げる力が足りなかったのではなく、広げてはいけない商材を扱っていた。

熱海店の日商 現金正札販売への切替をはさむ2時点(万円)

10 1957 100 1961
  • 昭和32年(1957年)と昭和36年(1961年)の日商として示された値。1956年11月1日に現金・掛け売りなし・正札販売へ商法を切り換えた前後の対比にあたる。
  • 出所は Decide 1986年4巻10号「グローバル・スーパー八百半が軌道に乗るまで」。

出典・参考

3件
出典・参考
  • ヤオハン 有価証券報告書【沿革】
  • Decide 1986年4巻10号(和田一夫)
  • 創業者精神 : 独力で優良企業を築いた経営者列伝(日経ベンチャー別冊)1993年「母の勧め、講演聞き 商いは善に開眼」(和田一夫)

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