メディパルホールディングス:熊田佐一郎氏の熊田三星堂薬舗創業と株式会社三星堂への改組
1898年〜元町に開いた7坪の熊田三星堂薬舗と、70坪の店への移転
熊田佐一郎氏は1898年10月8日、21歳で神戸市元町6丁目に熊田三星堂薬舗を開業し、医薬品などの小売から出発した。熊田佐一郎氏は1896年5月に薬剤師試験に合格し、同年8月から神戸市多聞通の中田純生薬館に小僧として住み込んでいた。やがて仕入や記帳、競争入札まで任され、数人の店員を差配して店務全体を預かった。神戸の裁判所が朝鮮人参の払下げ入札を催した際には、扱った経験のない中田家に代わって独断で応札し、相当の利益を得た。開業資金は父の熊田佐平氏が用意した500円と、後援者2人から500円を上限に融通を受ける約束。奉公先での入札の成功が、21歳での独立を後押ししたとみられる。
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「若くたくましく」
- [1]1898年10月8日、21歳の熊田佐一郎が神戸市元町6丁目に熊田三星堂薬舗を開業。開業資金は父佐平の500円と後援者2人の融通枠500円
- [6]1898年10月8日、21歳の熊田佐一郎が神戸市元町6丁目に熊田三星堂薬舗を開業。開業資金は父佐平の500円と後援者2人の融通枠500円
- 証券 47巻11号(1995年)(新規上場会社紹介)
- [2]前身の熊田三星堂薬舗は明治31年に薬剤師熊田佐一郎が神戸市元町通に創業、当初は医薬品等の小売が中心
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「三星堂命名まで」
- [3]熊田佐一郎は1896年5月に薬剤師試験合格、同年8月に神戸市多聞通の中田純生薬館へ小僧として入店
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「開店前後」
- [4]中田家で仕入・入札・記帳をこなし店員を指揮。裁判所の朝鮮人参払下げ入札に独断で応札し利益をあげた
- [5]中田家で仕入・入札・記帳をこなし店員を指揮。裁判所の朝鮮人参払下げ入札に独断で応札し利益をあげた
父の熊田佐平氏は開店にあたり、毛利元就の「三矢の訓」を引いて兄弟の和協一致を戒め、屋号「三星堂」を贈り、この名はのちの株式会社三星堂まで受け継がれた。熊田佐平氏の男子は、長男の熊田佐一郎氏、次男の熊田敬次郎氏、三男の熊田庸三氏の3人である。熊田佐平氏自身は1870年に堺で薬種問屋を始めており、長男に家業を継がせるつもりで神戸での独立には反対していた。その後、熊田庸三氏は1903年に京都薬学校を出て薬剤師試験に合格すると店に加わり、1905年には熊田敬次郎氏も堺から合流した。熊田敬次郎氏が会計を、熊田庸三氏が官庁回りを受け持ち、屋号のとおり兄弟3人で店を運営する体制が整った。屋号に込めた訓戒は、兄弟が会計と営業を分担する組織として形になったと思われる。
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「開店前後」
- [7]父熊田佐平が三矢の訓を引いて三兄弟(佐一郎・敬次郎・庸三)の和協を戒め屋号「三星堂」を贈った
- [9]父熊田佐平が三矢の訓を引いて三兄弟(佐一郎・敬次郎・庸三)の和協を戒め屋号「三星堂」を贈った
- 証券 47巻11号(1995年)(新規上場会社紹介)
- [8]熊田三星堂薬舗が株式会社三星堂の前身
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「若くたくましく」
- [10]熊田佐平は明治3年に堺で薬種問屋を開業、佐一郎に家業を継がせるつもりで神戸開店に賛成でなかった
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「卸の開始」
- [11]熊田庸三は1903年京都薬学校卒・薬剤師合格で入店、1905年に熊田敬次郎も加わる。敬次郎が会計、庸三が官庁回り
- [12]熊田庸三は1903年京都薬学校卒・薬剤師合格で入店、1905年に熊田敬次郎も加わる。敬次郎が会計、庸三が官庁回り
熊田三星堂薬舗は1900年、元町6丁目113番屋敷から東寄りの134番屋敷へ移転し、店舗は開店時の10倍にあたる約70坪となった。同業組合の徳盛会の規約では、既設の店から60間以上離れていない店の加入と問屋との取引は認められない。開店場所は相生町1丁目の盛本トンビ薬店に近く、この距離制限に掛かって圧迫を受けた。熊田佐一郎氏は卸売業への進出を構想しており、将来の得意先となる徳盛会との対立を避けて移転を選び、同時に入会も認められた。前年の1899年11月には神戸で国内初のペスト患者が出て、石炭酸などの消毒薬が5倍以上に値上がりした。創業時の店は小売が中心で、この需要の急増を利益に結びつける備えはなかった。
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「卸の開始」
- [13]1900年、元町6丁目113番屋敷から134番屋敷へ移転、店舗は約70坪で開店時の10倍
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「ペスト流行」
- [14]徳盛会は既設店から60間以内の店の加入・問屋取引を認めず、盛本薬店に近い三星堂は制限に掛かった。卸売業の構想から対立を避けて移転し入会が許された。1899年のペスト侵入で消毒薬が5倍以上に値上がりしたが佐一郎は備えが不十分
- [15]徳盛会は既設店から60間以内の店の加入・問屋取引を認めず、盛本薬店に近い三星堂は制限に掛かった。卸売業の構想から対立を避けて移転し入会が許された。1899年のペスト侵入で消毒薬が5倍以上に値上がりしたが佐一郎は備えが不十分
- [16]徳盛会は既設店から60間以内の店の加入・問屋取引を認めず、盛本薬店に近い三星堂は制限に掛かった。卸売業の構想から対立を避けて移転し入会が許された。1899年のペスト侵入で消毒薬が5倍以上に値上がりしたが佐一郎は備えが不十分
- [17]徳盛会は既設店から60間以内の店の加入・問屋取引を認めず、盛本薬店に近い三星堂は制限に掛かった。卸売業の構想から対立を避けて移転し入会が許された。1899年のペスト侵入で消毒薬が5倍以上に値上がりしたが佐一郎は備えが不十分
- [18]徳盛会は既設店から60間以内の店の加入・問屋取引を認めず、盛本薬店に近い三星堂は制限に掛かった。卸売業の構想から対立を避けて移転し入会が許された。1899年のペスト侵入で消毒薬が5倍以上に値上がりしたが佐一郎は備えが不十分
- 証券 47巻11号(1995年)(新規上場会社紹介)
- [19]創業当時は医薬品等の小売業が中心
参考文献[1]-[19]
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「若くたくましく」
- [1]1898年10月8日、21歳の熊田佐一郎が神戸市元町6丁目に熊田三星堂薬舗を開業。開業資金は父佐平の500円と後援者2人の融通枠500円
- [6]1898年10月8日、21歳の熊田佐一郎が神戸市元町6丁目に熊田三星堂薬舗を開業。開業資金は父佐平の500円と後援者2人の融通枠500円
- [10]熊田佐平は明治3年に堺で薬種問屋を開業、佐一郎に家業を継がせるつもりで神戸開店に賛成でなかった
- 証券 47巻11号(1995年)(新規上場会社紹介)
- [2]前身の熊田三星堂薬舗は明治31年に薬剤師熊田佐一郎が神戸市元町通に創業、当初は医薬品等の小売が中心
- [8]熊田三星堂薬舗が株式会社三星堂の前身
- [19]創業当時は医薬品等の小売業が中心
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「三星堂命名まで」
- [3]熊田佐一郎は1896年5月に薬剤師試験合格、同年8月に神戸市多聞通の中田純生薬館へ小僧として入店
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「開店前後」
- [4]中田家で仕入・入札・記帳をこなし店員を指揮。裁判所の朝鮮人参払下げ入札に独断で応札し利益をあげた
- [5]中田家で仕入・入札・記帳をこなし店員を指揮。裁判所の朝鮮人参払下げ入札に独断で応札し利益をあげた
- [7]父熊田佐平が三矢の訓を引いて三兄弟(佐一郎・敬次郎・庸三)の和協を戒め屋号「三星堂」を贈った
- [9]父熊田佐平が三矢の訓を引いて三兄弟(佐一郎・敬次郎・庸三)の和協を戒め屋号「三星堂」を贈った
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「卸の開始」
- [11]熊田庸三は1903年京都薬学校卒・薬剤師合格で入店、1905年に熊田敬次郎も加わる。敬次郎が会計、庸三が官庁回り
- [12]熊田庸三は1903年京都薬学校卒・薬剤師合格で入店、1905年に熊田敬次郎も加わる。敬次郎が会計、庸三が官庁回り
- [13]1900年、元町6丁目113番屋敷から134番屋敷へ移転、店舗は約70坪で開店時の10倍
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「ペスト流行」
- [14]徳盛会は既設店から60間以内の店の加入・問屋取引を認めず、盛本薬店に近い三星堂は制限に掛かった。卸売業の構想から対立を避けて移転し入会が許された。1899年のペスト侵入で消毒薬が5倍以上に値上がりしたが佐一郎は備えが不十分
- [15]徳盛会は既設店から60間以内の店の加入・問屋取引を認めず、盛本薬店に近い三星堂は制限に掛かった。卸売業の構想から対立を避けて移転し入会が許された。1899年のペスト侵入で消毒薬が5倍以上に値上がりしたが佐一郎は備えが不十分
- [16]徳盛会は既設店から60間以内の店の加入・問屋取引を認めず、盛本薬店に近い三星堂は制限に掛かった。卸売業の構想から対立を避けて移転し入会が許された。1899年のペスト侵入で消毒薬が5倍以上に値上がりしたが佐一郎は備えが不十分
- [17]徳盛会は既設店から60間以内の店の加入・問屋取引を認めず、盛本薬店に近い三星堂は制限に掛かった。卸売業の構想から対立を避けて移転し入会が許された。1899年のペスト侵入で消毒薬が5倍以上に値上がりしたが佐一郎は備えが不十分
- [18]徳盛会は既設店から60間以内の店の加入・問屋取引を認めず、盛本薬店に近い三星堂は制限に掛かった。卸売業の構想から対立を避けて移転し入会が許された。1899年のペスト侵入で消毒薬が5倍以上に値上がりしたが佐一郎は備えが不十分
1901年〜県立神戸病院の入札で始めた卸と、広島支店の山本宥太郎氏への譲渡
熊田三星堂は1901年、県立神戸病院の入札に初めて参加し、これが卸売業への進出の起点となった。入札に加われたのは、病院の薬局に勤める京都薬学校の同窓、山本宥太郎氏の世話による。山本宥太郎氏の縁で薬局長の藤井鑑三氏とも旧知となり、山本宥太郎氏が県衛生課へ移ると県庁から衛生試験材料の注文も入った。官設鉄道からは関係病院の薬品や工場用の硫酸・塩酸を半年分ほどまとめて受注し、鐘紡からも大口の注文があった。1995年の上場時の紹介記事も、神戸病院への入札参加を卸売業へ本格参入した契機に挙げた。薬剤師の資格と学校の人脈が、小売の店を官公庁向けの卸へ導いたといえる。
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「卸の開始」
- [20]1901年、京都薬学校同窓で県立神戸病院薬局の山本宥太郎の世話で同病院の入札に初参加し卸進出の始まりに。薬局長藤井鑑三と旧知、県庁・官設鉄道・鐘紡からも受注
- [22]1901年、京都薬学校同窓で県立神戸病院薬局の山本宥太郎の世話で同病院の入札に初参加し卸進出の始まりに。薬局長藤井鑑三と旧知、県庁・官設鉄道・鐘紡からも受注
- [23]1901年、京都薬学校同窓で県立神戸病院薬局の山本宥太郎の世話で同病院の入札に初参加し卸進出の始まりに。薬局長藤井鑑三と旧知、県庁・官設鉄道・鐘紡からも受注
- [24]1901年、京都薬学校同窓で県立神戸病院薬局の山本宥太郎の世話で同病院の入札に初参加し卸進出の始まりに。薬局長藤井鑑三と旧知、県庁・官設鉄道・鐘紡からも受注
- 証券 47巻11号(1995年)(新規上場会社紹介)
- [21]明治34年の兵庫県立神戸病院への入札参加を契機に卸売業へ本格参入
- [25]明治34年の兵庫県立神戸病院への入札参加を契機に卸売業へ本格参入
熊田佐一郎氏は1904年に日露戦争が始まると、直ちに広島へ出張所を開設した。大本営が広島に置かれ、野戦衛生材料や薬品の需要が増えると見込んだためである。県立神戸病院の薬局長を辞した藤井鑑三氏が出張所の責任者となり、予備病院への納品も活発に続き、熊田佐一郎氏も毎月数回は広島へ出張した。一方で創業7年目の熊田佐一郎氏は資力に乏しく、市況の変動が激しい薬品をまとまった量で納期どおりに届けるには苦心が要った。主な援助を与えたのは大阪の武田長兵衛商店で、4代目の武田長兵衛氏は商品の手当ては十分だとして供給を約束した。武田長兵衛商店は現在の武田薬品工業にあたり、昭和初期には資本参加を含む支援も三星堂に与えている。
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「卸の開始」
- [26]1904年の日露開戦で大本営の置かれた広島に出張所を設置、元神戸病院薬局長の藤井鑑三が責任者
- [27]1904年の日露開戦で大本営の置かれた広島に出張所を設置、元神戸病院薬局長の藤井鑑三が責任者
- [28]1904年の日露開戦で大本営の置かれた広島に出張所を設置、元神戸病院薬局長の藤井鑑三が責任者
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「武田長兵衛商店の厚意」
- [29]予備病院への納品が活発、佐一郎も毎月広島へ出張。資力不足のなか4代目武田長兵衛の武田長兵衛商店が商品供給を援助
- [30]予備病院への納品が活発、佐一郎も毎月広島へ出張。資力不足のなか4代目武田長兵衛の武田長兵衛商店が商品供給を援助
- [31]予備病院への納品が活発、佐一郎も毎月広島へ出張。資力不足のなか4代目武田長兵衛の武田長兵衛商店が商品供給を援助
- 証券 47巻11号(1995年)(新規上場会社紹介)
- [32]武田長兵衛商店(現武田薬品工業)が昭和初期に資本参加を含む支援
熊田三星堂は1912年、支店に昇格させていた広島店を山本宥太郎氏に譲渡し、経営資源を神戸に集中した。日露戦争後の反動不況は、大正に入って一段と深刻になっていた。広島の拠点は1906年に責任者が山本宥太郎氏へ交代して支店となり、1912年以降は山本宥太郎氏の個人営業。神戸に集中した後の1913年4月には、舞鶴の海軍への納入を始め、翌1914年にはヨーグルトの販売にも着手した。大正期に日本経済を襲った不況は、のちの1923年の株式会社化にもつながる経営の転機となった。遠隔地の支店を譲渡し、乏しい資力を地元の病院・官公庁向けの卸に振り向ける判断だったのだろう。
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「総合問屋の確立」
- [33]日露戦後の反動不況が大正に深刻化し、1912年に支店の広島店を山本宥太郎へ譲渡して神戸に主力。1913年4月舞鶴海軍へ納入開始、1914年ヨーグルト販売
- [34]日露戦後の反動不況が大正に深刻化し、1912年に支店の広島店を山本宥太郎へ譲渡して神戸に主力。1913年4月舞鶴海軍へ納入開始、1914年ヨーグルト販売
- [36]日露戦後の反動不況が大正に深刻化し、1912年に支店の広島店を山本宥太郎へ譲渡して神戸に主力。1913年4月舞鶴海軍へ納入開始、1914年ヨーグルト販売
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「武田長兵衛商店の厚意」
- [35]1906年に広島出張所は責任者が山本宥太郎に替わり支店へ昇格、1912年まで続いた後山本の個人営業へ
- 証券 47巻11号(1995年)(新規上場会社紹介)
- [37]大正に入った大不況への対応として1923年に株式会社化
参考文献[20]-[37]
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「卸の開始」
- [20]1901年、京都薬学校同窓で県立神戸病院薬局の山本宥太郎の世話で同病院の入札に初参加し卸進出の始まりに。薬局長藤井鑑三と旧知、県庁・官設鉄道・鐘紡からも受注
- [22]1901年、京都薬学校同窓で県立神戸病院薬局の山本宥太郎の世話で同病院の入札に初参加し卸進出の始まりに。薬局長藤井鑑三と旧知、県庁・官設鉄道・鐘紡からも受注
- [23]1901年、京都薬学校同窓で県立神戸病院薬局の山本宥太郎の世話で同病院の入札に初参加し卸進出の始まりに。薬局長藤井鑑三と旧知、県庁・官設鉄道・鐘紡からも受注
- [24]1901年、京都薬学校同窓で県立神戸病院薬局の山本宥太郎の世話で同病院の入札に初参加し卸進出の始まりに。薬局長藤井鑑三と旧知、県庁・官設鉄道・鐘紡からも受注
- [26]1904年の日露開戦で大本営の置かれた広島に出張所を設置、元神戸病院薬局長の藤井鑑三が責任者
- [27]1904年の日露開戦で大本営の置かれた広島に出張所を設置、元神戸病院薬局長の藤井鑑三が責任者
- [28]1904年の日露開戦で大本営の置かれた広島に出張所を設置、元神戸病院薬局長の藤井鑑三が責任者
- 証券 47巻11号(1995年)(新規上場会社紹介)
- [21]明治34年の兵庫県立神戸病院への入札参加を契機に卸売業へ本格参入
- [25]明治34年の兵庫県立神戸病院への入札参加を契機に卸売業へ本格参入
- [32]武田長兵衛商店(現武田薬品工業)が昭和初期に資本参加を含む支援
- [37]大正に入った大不況への対応として1923年に株式会社化
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「武田長兵衛商店の厚意」
- [29]予備病院への納品が活発、佐一郎も毎月広島へ出張。資力不足のなか4代目武田長兵衛の武田長兵衛商店が商品供給を援助
- [30]予備病院への納品が活発、佐一郎も毎月広島へ出張。資力不足のなか4代目武田長兵衛の武田長兵衛商店が商品供給を援助
- [31]予備病院への納品が活発、佐一郎も毎月広島へ出張。資力不足のなか4代目武田長兵衛の武田長兵衛商店が商品供給を援助
- [35]1906年に広島出張所は責任者が山本宥太郎に替わり支店へ昇格、1912年まで続いた後山本の個人営業へ
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「総合問屋の確立」
- [33]日露戦後の反動不況が大正に深刻化し、1912年に支店の広島店を山本宥太郎へ譲渡して神戸に主力。1913年4月舞鶴海軍へ納入開始、1914年ヨーグルト販売
- [34]日露戦後の反動不況が大正に深刻化し、1912年に支店の広島店を山本宥太郎へ譲渡して神戸に主力。1913年4月舞鶴海軍へ納入開始、1914年ヨーグルト販売
- [36]日露戦後の反動不況が大正に深刻化し、1912年に支店の広島店を山本宥太郎へ譲渡して神戸に主力。1913年4月舞鶴海軍へ納入開始、1914年ヨーグルト販売
1913年〜総合問屋への店則と、資本金20万円の株式会社三星堂
熊田三星堂は1912年、9章32条からなる店則を施行した。店の規模が大きくなり、店内の秩序を保つための新しい仕組みが求められたためである。店則は従業者を店主・支配人・主任・店員・雇人・臨時雇人の6つに分け、それぞれの職分と資格の年齢を定めた。月給は雇人が50銭から5円、店員が5円から30円、主任が15円から50円で、上下に大きな幅がある。1914年に第一次世界大戦が始まると医薬品の輸入が途絶して価格が高騰し、熊田三星堂は品薄の薬品の調達に動いて京城の業者とも取引した。1995年の上場時の紹介記事は、神戸病院の入札に始まる卸売業を医薬品卸売専業の基礎と位置づけた。
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「店則の設定」
- [38]1912年に9章32条の店則を実施。店の拡大で店内秩序維持の工夫が必要となったため
- [39]1912年に9章32条の店則を実施。店の拡大で店内秩序維持の工夫が必要となったため
- [40]1912年に9章32条の店則を実施。店の拡大で店内秩序維持の工夫が必要となったため
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「総合問屋の確立」
- [41]店則で店主・支配人・主任・店員・雇人・臨時雇人を区分し資格年齢と給料幅を規定。第一次大戦の輸入途絶で薬品調達に対応し京城の業者とも取引
- [42]店則で店主・支配人・主任・店員・雇人・臨時雇人を区分し資格年齢と給料幅を規定。第一次大戦の輸入途絶で薬品調達に対応し京城の業者とも取引
- [43]店則で店主・支配人・主任・店員・雇人・臨時雇人を区分し資格年齢と給料幅を規定。第一次大戦の輸入途絶で薬品調達に対応し京城の業者とも取引
- 証券 47巻11号(1995年)(新規上場会社紹介)
- [44]神戸病院の入札参加を契機とする卸売業参入が医薬品卸売専業の基礎
熊田佐一郎氏が出資して経営に加わった同族のガラス会社が1922年6月に倒産し、熊田三星堂も行き詰まって整理に入った。熊田佐一郎氏は1911年に尼崎の同族ガラス工場へ1,500円を出資し、のちに同族の窯業会社にも関与していた。整理を経て1922年7月に熊田庸三氏を代表社員とする合資会社三星堂を設け、1923年5月に資本金20万円の株式会社三星堂へ改組した。熊田佐一郎氏は経営の一線を離れ、代表取締役専務に就任したのは熊田庸三氏である。資本金20万円のうち現金の払込みは8,500円にとどまり、残る19万1,500円は熊田佐一郎氏の店舗と営業権の一切の評価額による充当。1924年2月には生田区栄町5丁目に独立した卸部の社屋を構えた。
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「金融恐慌の到来」
- [45]1922年6月に同族ガラス会社の倒産に続き三星堂は整理入り。1922年7月熊田庸三を代表社員に合資会社、1923年5月資本金20万円の株式会社三星堂。佐一郎は一線を退き庸三が代表取締役専務
- [47]1922年6月に同族ガラス会社の倒産に続き三星堂は整理入り。1922年7月熊田庸三を代表社員に合資会社、1923年5月資本金20万円の株式会社三星堂。佐一郎は一線を退き庸三が代表取締役専務
- [49]1922年6月に同族ガラス会社の倒産に続き三星堂は整理入り。1922年7月熊田庸三を代表社員に合資会社、1923年5月資本金20万円の株式会社三星堂。佐一郎は一線を退き庸三が代表取締役専務
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「店則の設定」
- [46]1911年に佐一郎が尼崎の同族ガラス工場へ1,500円を出資、のち同族窯業会社にも関与
- 証券 47巻11号(1995年)(新規上場会社紹介)
- [48]設立年月日1923年5月6日、大正12年に株式会社化
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「苦しい金繰り」
- [50]資本金20万円のうち現金払込は8,500円、残り19万1,500円は佐一郎所有の店舗と営業権で充当
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「卸の開始」
- [51]1924年2月、生田区栄町5丁目に独立した卸部社屋
熊田佐一郎氏は1926年5月24日の臨時総会で経営の第一線に戻り、三星堂の初代社長に就任した。改組の後は債権者の意向で一取締役にとどまり、芦屋に移り住んでいた。新会社は優先株の配当を続けた後に第6期から無配となり、整理で仕入先に買掛金の半減を求めた影響から信用も低下していた。1927年の金融恐慌では三井・三菱に次ぐ神戸の財閥だった鈴木商店も倒産し、熊田佐一郎氏は業績を立て直せないまま1928年3月に社長を辞任した。後任の社長は置かず、経営を率いたのは再び代表取締役専務となった熊田庸三氏である。昭和初期の金融恐慌で業績が悪化した三星堂は、武田長兵衛商店から資本参加を伴う支援を得た。
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「新体制発足」
- [52]佐一郎は債権者の意向で取締役にとどまり、1926年5月24日の臨時総会で復帰し初代社長に。第6期以降無配。1927年の金融恐慌で鈴木商店倒産、1928年3月に社長辞任し庸三が再び代表取締役専務
- [53]佐一郎は債権者の意向で取締役にとどまり、1926年5月24日の臨時総会で復帰し初代社長に。第6期以降無配。1927年の金融恐慌で鈴木商店倒産、1928年3月に社長辞任し庸三が再び代表取締役専務
- [55]佐一郎は債権者の意向で取締役にとどまり、1926年5月24日の臨時総会で復帰し初代社長に。第6期以降無配。1927年の金融恐慌で鈴木商店倒産、1928年3月に社長辞任し庸三が再び代表取締役専務
- [57]佐一郎は債権者の意向で取締役にとどまり、1926年5月24日の臨時総会で復帰し初代社長に。第6期以降無配。1927年の金融恐慌で鈴木商店倒産、1928年3月に社長辞任し庸三が再び代表取締役専務
- [58]佐一郎は債権者の意向で取締役にとどまり、1926年5月24日の臨時総会で復帰し初代社長に。第6期以降無配。1927年の金融恐慌で鈴木商店倒産、1928年3月に社長辞任し庸三が再び代表取締役専務
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)
- [54]1923年の株式会社発足後、佐一郎は一線を退き芦屋に転居、3年後に社長として復帰
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「苦しい金繰り」
- [56]前期三星堂の整理で仕入先から買掛金半減の援助を受け、信用が低下
- 証券 47巻11号(1995年)(新規上場会社紹介)
- [59]昭和初期の金融恐慌で業績が悪化し武田長兵衛商店から資本参加を含む支援を受けた
参考文献[38]-[59]
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「店則の設定」
- [38]1912年に9章32条の店則を実施。店の拡大で店内秩序維持の工夫が必要となったため
- [39]1912年に9章32条の店則を実施。店の拡大で店内秩序維持の工夫が必要となったため
- [40]1912年に9章32条の店則を実施。店の拡大で店内秩序維持の工夫が必要となったため
- [46]1911年に佐一郎が尼崎の同族ガラス工場へ1,500円を出資、のち同族窯業会社にも関与
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「総合問屋の確立」
- [41]店則で店主・支配人・主任・店員・雇人・臨時雇人を区分し資格年齢と給料幅を規定。第一次大戦の輸入途絶で薬品調達に対応し京城の業者とも取引
- [42]店則で店主・支配人・主任・店員・雇人・臨時雇人を区分し資格年齢と給料幅を規定。第一次大戦の輸入途絶で薬品調達に対応し京城の業者とも取引
- [43]店則で店主・支配人・主任・店員・雇人・臨時雇人を区分し資格年齢と給料幅を規定。第一次大戦の輸入途絶で薬品調達に対応し京城の業者とも取引
- 証券 47巻11号(1995年)(新規上場会社紹介)
- [44]神戸病院の入札参加を契機とする卸売業参入が医薬品卸売専業の基礎
- [48]設立年月日1923年5月6日、大正12年に株式会社化
- [59]昭和初期の金融恐慌で業績が悪化し武田長兵衛商店から資本参加を含む支援を受けた
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「金融恐慌の到来」
- [45]1922年6月に同族ガラス会社の倒産に続き三星堂は整理入り。1922年7月熊田庸三を代表社員に合資会社、1923年5月資本金20万円の株式会社三星堂。佐一郎は一線を退き庸三が代表取締役専務
- [47]1922年6月に同族ガラス会社の倒産に続き三星堂は整理入り。1922年7月熊田庸三を代表社員に合資会社、1923年5月資本金20万円の株式会社三星堂。佐一郎は一線を退き庸三が代表取締役専務
- [49]1922年6月に同族ガラス会社の倒産に続き三星堂は整理入り。1922年7月熊田庸三を代表社員に合資会社、1923年5月資本金20万円の株式会社三星堂。佐一郎は一線を退き庸三が代表取締役専務
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「苦しい金繰り」
- [50]資本金20万円のうち現金払込は8,500円、残り19万1,500円は佐一郎所有の店舗と営業権で充当
- [56]前期三星堂の整理で仕入先から買掛金半減の援助を受け、信用が低下
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「卸の開始」
- [51]1924年2月、生田区栄町5丁目に独立した卸部社屋
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「新体制発足」
- [52]佐一郎は債権者の意向で取締役にとどまり、1926年5月24日の臨時総会で復帰し初代社長に。第6期以降無配。1927年の金融恐慌で鈴木商店倒産、1928年3月に社長辞任し庸三が再び代表取締役専務
- [53]佐一郎は債権者の意向で取締役にとどまり、1926年5月24日の臨時総会で復帰し初代社長に。第6期以降無配。1927年の金融恐慌で鈴木商店倒産、1928年3月に社長辞任し庸三が再び代表取締役専務
- [55]佐一郎は債権者の意向で取締役にとどまり、1926年5月24日の臨時総会で復帰し初代社長に。第6期以降無配。1927年の金融恐慌で鈴木商店倒産、1928年3月に社長辞任し庸三が再び代表取締役専務
- [57]佐一郎は債権者の意向で取締役にとどまり、1926年5月24日の臨時総会で復帰し初代社長に。第6期以降無配。1927年の金融恐慌で鈴木商店倒産、1928年3月に社長辞任し庸三が再び代表取締役専務
- [58]佐一郎は債権者の意向で取締役にとどまり、1926年5月24日の臨時総会で復帰し初代社長に。第6期以降無配。1927年の金融恐慌で鈴木商店倒産、1928年3月に社長辞任し庸三が再び代表取締役専務
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)
- [54]1923年の株式会社発足後、佐一郎は一線を退き芦屋に転居、3年後に社長として復帰
出典・参考
13件
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「若くたくましく」
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「三星堂命名まで」
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「開店前後」
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「卸の開始」
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「ペスト流行」
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「武田長兵衛商店の厚意」
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「総合問屋の確立」
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「店則の設定」
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「金融恐慌の到来」
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「苦しい金繰り」
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)「新体制発足」
- 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)
- 証券 47巻11号(1995年)(新規上場会社紹介)