第2章 年〜年

富士通:Amdahl出資によるIBM互換路線への集中

アムダール提携によるIBM互換機と国内首位の獲得

1974年〜資本自由化を前にしたFACOM 230-8シリーズと資金力の弱点

IBM 370に正面から新シリーズをぶつける

1973年8月に発表したFACOM 230-8シリーズの出荷が、1974年10月から始まった。中大型の5機種から成り、「3.5世代」と呼ばれたIBMの370シリーズと真正面から競合する機種であり、370と同じ仮想記憶を採用していた。仮想記憶を採る機種をシリーズとして発表したメーカーは、IBM以外では世界で富士通だけだった。日本の電算機産業は1975年12月に資本と輸入の完全自由化を迎えることが決まっており、資本の50%自由化は1974年8月4日に実施されたばかりだった。前年秋の石油危機のあとも受注は落ちず、1973年度の受注額は危機以前の4月に立てた目標を101%達成している。後発の国産メーカーは、3〜4年ごとに訪れる機種の交替期を狙って先発のIBMの機械を国産へ置き換えるほかに生き残れなかった。

  • 日経ビジネス 1974年8月19日号
    • [1]1973年8月発表のFACOM 230-8シリーズの出荷が1974年10月から開始
    • [2]230-8シリーズは中大型5機種で、IBM 370シリーズと同じ仮想記憶を採用
    • [3]仮想記憶を採用した機種をシリーズとして発表したメーカーはIBM以外では世界で富士通1社のみ
    • [4]日本の電算機産業は1975年12月に資本・輸入の完全自由化。資本の50%自由化は1974年8月4日に実施
    • [5]1973年度の受注額は石油危機以前の4月に立てた目標を101%達成
  • 日経ビジネス 1976年8月30日号
    • [6]小林大祐は、3〜4年ごとの機種交替期を狙って先発のIBMを国産へ置き換えるほかに後発の国産メーカーが生きる道はないと述べた
レンタルの経理が利益を先に食う

電算機事業は販売の多くがレンタル形式を取るため、資金をどれだけ確保できるかが企業の存続を左右した。富士通の電算機売上は、電電公社向けがおよそ半分を占める売り切りで、日本電子計算機を経由するレンタルが約3割、残り2割ほどを自社レンタル・寄託・リースが占めた。日本電子計算機へ納入した分はその期の売上高に計上され代金も回収できるが、利用者が返却すれば残存簿価での買い戻しが必要になり、同社が5年2か月の定額償却を採用しているため償却が追いつかなかった。平均のレンタル期間は約3年にとどまり、1,000万円で売った機械は3年後に平均478万円で引き取ることになった。1974年3月期末の電算機買戻損失準備金は174億1,400万円に達している。同期の売上高は2,093億円だった。

  • 日経ビジネス 1974年8月19日号
    • [7]電算機産業では販売がレンタル形態を取るため資金力が企業の死活を分ける
    • [8]富士通の電算機売上の内訳は売り切り約5割、JECC経由のレンタル約3割、自社レンタル・寄託・リース約2割
    • [9]JECCは5年2か月の定額償却を採用しており、返却された機械をメーカーが残存簿価で買い戻す
    • [10]富士通の平均レンタル期間は約3年で、3年後の残存簿価は47.8%。1,000万円の機械は478万円で引き取る
    • [11]1974年3月期末の電算機買戻損失準備金は174億1,400万円余
  • 会社年鑑 1976年版
    • [12]売上高 1974年3月期2,093億円
事業部ごとに採算を区分する

1974年7月初め、期の途中という異例の時期に組織改正と人事異動が行われた。通信・電子・部品の各事業本部に機種別の事業部を設けて独立採算制を採ったもので、狙いは各事業部ごとに利益を生み出す体制をつくることにあった。背景には翌年12月に控えた資本自由化があった。IBMは既に日本へ進出済みだから実質的な影響は小さいと見る向きもあったが、専務の赤沢璋一氏はこれを楽観しなかった。自由化後にIBMが世界戦略の一環として日本市場で本来の力を発揮すると予想したためである。それまで勢いに任せて拡大してきた会社にとって、この時期は速度を抑えながら進む局面への転換点だった。1975年3月期の経常利益は109億円で、前期の153億円から3割近く落ち込んだ。

  • 日経ビジネス 1974年8月19日号
    • [13]1974年7月初め、期の途中に組織改正と人事異動を実施
    • [14]通信・電子・部品の各事業本部に機種別の事業部を設け独立採算制を採用。赤沢璋一専務は各事業部ごとに利益を生み出す体制をつくるためと説明
    • [15]赤沢璋一専務は資本自由化を甘く考えたくないと述べた
    • [16]自由化後にIBMが世界戦略の一環として日本市場で地力を発揮することが予想された
    • [17]牧川禎二常務は今後は調整して走らなければならないと述べた
  • 会社年鑑 1976年版
    • [18]経常利益 1974年3月期153億円/1975年3月期109億円
参考文献[1]-[18]
  • 日経ビジネス 1974年8月19日号
    • [1]1973年8月発表のFACOM 230-8シリーズの出荷が1974年10月から開始
    • [2]230-8シリーズは中大型5機種で、IBM 370シリーズと同じ仮想記憶を採用
    • [3]仮想記憶を採用した機種をシリーズとして発表したメーカーはIBM以外では世界で富士通1社のみ
    • [4]日本の電算機産業は1975年12月に資本・輸入の完全自由化。資本の50%自由化は1974年8月4日に実施
    • [5]1973年度の受注額は石油危機以前の4月に立てた目標を101%達成
    • [7]電算機産業では販売がレンタル形態を取るため資金力が企業の死活を分ける
    • [8]富士通の電算機売上の内訳は売り切り約5割、JECC経由のレンタル約3割、自社レンタル・寄託・リース約2割
    • [9]JECCは5年2か月の定額償却を採用しており、返却された機械をメーカーが残存簿価で買い戻す
    • [10]富士通の平均レンタル期間は約3年で、3年後の残存簿価は47.8%。1,000万円の機械は478万円で引き取る
    • [11]1974年3月期末の電算機買戻損失準備金は174億1,400万円余
    • [13]1974年7月初め、期の途中に組織改正と人事異動を実施
    • [14]通信・電子・部品の各事業本部に機種別の事業部を設け独立採算制を採用。赤沢璋一専務は各事業部ごとに利益を生み出す体制をつくるためと説明
    • [15]赤沢璋一専務は資本自由化を甘く考えたくないと述べた
    • [16]自由化後にIBMが世界戦略の一環として日本市場で地力を発揮することが予想された
    • [17]牧川禎二常務は今後は調整して走らなければならないと述べた
  • 日経ビジネス 1976年8月30日号
    • [6]小林大祐は、3〜4年ごとの機種交替期を狙って先発のIBMを国産へ置き換えるほかに後発の国産メーカーが生きる道はないと述べた
  • 会社年鑑 1976年版
    • [12]売上高 1974年3月期2,093億円
    • [18]経常利益 1974年3月期153億円/1975年3月期109億円

1976年〜アムダール提携とシステムサポートによる販売力

IBM設計者の会社を情報の拠点に据える

1974年11月に池田敏雄常務が死去し、翌年には清宮博社長が病気で退任したため、社長になる気持ちの全くなかった小林大祐氏が1976年にその座へ押し上げられた。就任後のインタビューで小林氏が自社の立ち位置の根拠に挙げたのは、アメリカでの提携先であるアムダール社だった。IBMの設計の中心にいた人物が経営しており、そこが情報収集の拠点になるため、IBMの技術水準が今どのあたりにあるかは常に把握できていた。完全自由化を迎えた市場でハードウェアの面で対等に競えるかという問いに対する答えが、自社の研究所ではなく提携先の出自だったことになる。小林氏は1912年に兵庫県多可郡に生まれ、1935年3月に京都帝国大学工学部電気工学科を出て富士電機製造に入り、3か月後に発足した富士通信機製造へ移った生え抜きだった。

  • 政経人 1981年「個性派経営者列伝(6) 富士通社長 小林大祐」
    • [19]1974年11月の池田敏雄常務の死去と翌年の清宮博社長の病気により、小林大祐が社長に就いた
    • [22]小林大祐は1912年6月兵庫県多可郡生まれ。1935年3月京都帝国大学工学部電気工学科卒、4月富士電機製造入社、7月に発足した富士通信機製造へ転出
  • 日経ビジネス 1976年8月30日号
    • [20]小林大祐はIBMの技術水準を常に把握しているとし、その根拠に米国の提携先アムダール社を挙げた
    • [21]アムダール社はIBMの設計の中心にいた人物が経営しており、情報収集の拠点があるため技術的に取り残される心配はないと小林大祐は述べた
特注のソフトを開発する人員を先に抱える

富士通の立ち位置は、顧客ごとの要望に合わせてソフトウェアを作り込むスペシャルメードの側にあった。対するIBMは既製服主義を採り、業種ごとに電子計算機で利益を上げる型を教科書として用意し、証券会社向け、病院向けといった型に機械をはめ込んで売った。二つの路線の差は人の抱え方に現れた。機械を顧客が使いこなし成果を出せるよう支援するシステムエンジニアを、声がかかれば即座に出向ける状態で多く抱えるほど売上が伸びる、という考え方が取られていた。人件費を削る低成長期でも学卒を300人、500人と採り続けたのは販売力の強化が目的で、何人採用したかが会社の売る力を示す物差しとされていた。1976年時点では従業員3万2,000人の3分の2がホワイトカラーで、大学卒は7,000人を数えた。売上高は1976年3月期の2,882億9,200万円が、1978年3月期には3,874億2,000万円となった。

  • 日経ビジネス 1976年8月30日号
    • [23]富士通は顧客の要望に合わせてソフトウェアを開発するスペシャルメードの立場を取った
    • [24]IBMは証券会社向け・病院向けなど業種別の教科書を作り、そこへ機械を売る既製服主義だった
    • [25]顧客の要望に応じてシステムエンジニアの集団をすぐ提供できる態勢にしておけば販売は伸びると小林大祐は述べた
    • [26]低成長期に学卒を300人・500人と採用したのは販売力の強化で、採用人員の数が販売力のバロメーターになると小林大祐は述べた
    • [27]1976年の従業員3万2,000人のうち3分の2がホワイトカラー、大学卒は7,000人
  • 会社年鑑 1986年版
    • [28]売上高 1976年3月期2,882億9,200万円/1978年3月期3,874億2,000万円
課長を廃して一人ひとりに権限を与える

古参社員を課長に任じ、システムエンジニアの集団を組織らしく整えようとした試みは、周囲から浮いて失敗に終わった。1966年ごろ課長職をすべてなくし、部長に兼ねさせる形へ切り替えると、社員の側に各自が課長であるという自覚が芽生えた。長くこの形を続けた結果、古くからある通信機部門と電算機部門は、同じ社内にありながら人の構成も空気も大きく隔たった。社員を動かしたのは地位や報酬ではない。やりたい仕事に就いて力を出し、それを正当に評価してもらえることが原動力で、給与は同業他社より低くも突出して高くもしない水準に据えられていた。新婚旅行を途中でやめて仕事へ戻る者まで出る集団を、社員は自ら「気違い集団」と呼び、家族もそれを受け入れていた。終戦直後の不振期から人づくりに一貫して力を入れてきた会社だと、社外からも評された。

  • 日経ビジネス 1976年8月30日号
    • [29]システムエンジニア集団に古参を課長として据えたがうまくいかなかった
    • [30]1966年ごろ課長を廃し部長兼務に改めた結果、社員一人ひとりが自分は課長だという意識を持つようになった
    • [31]歴史の古い通信機部門と電算機部門では人員構成も雰囲気もまるで違うものになった
    • [32]給与は同業より少なくしないが頭抜けて良くもしない方針で、やりたい仕事ができ正当な評価を受けることが人を動かしていると小林大祐は説明した
    • [33]社員が自らを「気違い集団」と呼んで家族を納得させていた
  • 政経人 1981年「個性派経営者列伝(6) 富士通社長 小林大祐」
    • [34]戦後日浅く業績が不調のころから一貫して人づくりを進めてきた会社だと社外から評されていた
参考文献[19]-[34]
  • 政経人 1981年「個性派経営者列伝(6) 富士通社長 小林大祐」
    • [19]1974年11月の池田敏雄常務の死去と翌年の清宮博社長の病気により、小林大祐が社長に就いた
    • [22]小林大祐は1912年6月兵庫県多可郡生まれ。1935年3月京都帝国大学工学部電気工学科卒、4月富士電機製造入社、7月に発足した富士通信機製造へ転出
    • [34]戦後日浅く業績が不調のころから一貫して人づくりを進めてきた会社だと社外から評されていた
  • 日経ビジネス 1976年8月30日号
    • [20]小林大祐はIBMの技術水準を常に把握しているとし、その根拠に米国の提携先アムダール社を挙げた
    • [21]アムダール社はIBMの設計の中心にいた人物が経営しており、情報収集の拠点があるため技術的に取り残される心配はないと小林大祐は述べた
    • [23]富士通は顧客の要望に合わせてソフトウェアを開発するスペシャルメードの立場を取った
    • [24]IBMは証券会社向け・病院向けなど業種別の教科書を作り、そこへ機械を売る既製服主義だった
    • [25]顧客の要望に応じてシステムエンジニアの集団をすぐ提供できる態勢にしておけば販売は伸びると小林大祐は述べた
    • [26]低成長期に学卒を300人・500人と採用したのは販売力の強化で、採用人員の数が販売力のバロメーターになると小林大祐は述べた
    • [27]1976年の従業員3万2,000人のうち3分の2がホワイトカラー、大学卒は7,000人
    • [29]システムエンジニア集団に古参を課長として据えたがうまくいかなかった
    • [30]1966年ごろ課長を廃し部長兼務に改めた結果、社員一人ひとりが自分は課長だという意識を持つようになった
    • [31]歴史の古い通信機部門と電算機部門では人員構成も雰囲気もまるで違うものになった
    • [32]給与は同業より少なくしないが頭抜けて良くもしない方針で、やりたい仕事ができ正当な評価を受けることが人を動かしていると小林大祐は説明した
    • [33]社員が自らを「気違い集団」と呼んで家族を納得させていた
  • 会社年鑑 1986年版
    • [28]売上高 1976年3月期2,882億9,200万円/1978年3月期3,874億2,000万円

1980年〜日本IBM逆転後の電子デバイスへの投資

国内首位に立ち、技術者へ社長を渡す

1980年5月、国内の売上で日本アイ・ビー・エムを追い抜いたことが報じられた。1981年の時点で、国内の電子計算機メーカーの首位は富士通だった。1925年に熊本県で生まれた山本卓眞氏は、1949年3月に東京大学第二工学部を卒業して富士通信機製造へ入社した。1954年には、日本初のリレー式計算機を開発した研究スタッフに名を連ねている。1981年6月に小林大祐氏が会長へ退き、専務の山本氏が後を継いで社長となった。10年前の時点で役員に名を連ねていなかった人物が、専務を経て一気に頂点に立った形である。社長を引き受けるにあたり、山本氏は技術開発と商品開発を自ら先頭で率いることを条件に挙げた。

  • 読売新聞(1980年5月28日)
    • [35]1980年5月 国内売上で日本アイ・ビー・エムを追い抜いたと報じられた
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号
    • [36]1981年時点で富士通は日本IBMを抜いて国内コンピューターメーカーの首位
    • [37]山本卓眞は1925年9月熊本県生まれ。1949年3月東京大学第二工学部卒、4月富士通信機製造入社。1954年の国産第1号リレー式計算機の研究スタッフの一人
    • [39]1981年6月 山本卓眞が小林大祐の後任として社長に就任
    • [40]山本卓眞は10年前には役員になっておらず、専務から社長へ進んだ
    • [41]山本卓眞は技術開発・商品開発の面では自ら先頭に立って指揮する覚悟だとし、社長が技術の進歩に遅れるのは問題外だと述べた
  • 政経人 1981年「個性派経営者列伝(6) 富士通社長 小林大祐」
    • [38]小林大祐は1981年6月末の株主総会を機に会長へ就任
一つの敷地でハードとソフトを組み立てる

沼津への電算機生産基地の建設は1973年の時点で進んでおり、1976年8月に沼津工場が操業した。1982年2月には最新のソフトウェア開発設備を備えたソフト棟が完成し、52万7,000平方メートルの敷地に工場ゾーンのほか住居ゾーン・運動ゾーンが配された。従業員は約2,600名で、建物は機能別にハード棟とソフト棟の2棟に分かれる。ハード棟は1階から3階がシステム試験、4階と5階が装置組立、6階が部品倉庫、ソフト棟は1階から3階が計算機センター、4階から6階がソフトウェア開発という配置だった。両棟は緊密に連携し、一貫した設計思想にもとづく製品を作っている。顧客ごとに特注のソフトを書く売り方を選んだ以上、ハードとソフトを同じ敷地で同時に仕上げる体制は、その帰結だった。

  • 日経ビジネス 1973年5月28日号
    • [42]1973年の時点で沼津市に一大電算機生産基地を建設中だった
  • 証券アナリストジャーナル 1984年10月号 渡辺和郎
    • [43]沼津工場は1976年8月の設立で、超大形・大形電子計算機とソフトウェアを担当
    • [44]1982年2月 最新のソフトウェア開発設備を導入したソフト棟が完成。敷地52万7,000平方メートルに工場・住居・運動の各ゾーンを配置
    • [45]沼津工場の従業員は約2,600名。建物は機能別にハード棟とソフト棟の2棟に区別される
    • [46]ハード棟は1〜3階がシステム試験フロア、4〜5階が装置組立フロア、6階が部品倉庫。ソフト棟は1〜3階がコンピューター・センター、4〜6階がソフトウェア開発フロア
    • [47]ハード棟とソフト棟は緊密に連携し、一貫した設計思想にもとづいた製品を生産している
利益を半導体の設備へ振り向ける

1983年度、電電公社向けの受注は投資抑制のあおりで伸びず、1兆707億円の総受注に占める額は899億円にとどまったが、輸出は2,404億円と堅調だった。全体では受注高が1兆707億円で前期比23.2%増、売上高が9,916億円で同22.9%増となり、経常利益792億円、税引後利益448億円を含めて期初の目標をことごとく超えた。売上を部門で分けると、通信機器1,576億円、情報処理機器6,613億円、電子デバイス1,725億円である。受注で際立ったのは電子デバイスで、前期比62%増だった。1983年度に1,175億円だった設備投資は1984年度に2,000億円へ増え、その約6割が電子デバイス部門へ向けられた。資金は減価償却1,000億円に加え、1984年3月のユーロ・ドル債とスイス・フラン債で円換算570億円、8月末の時価発行増資4,800万株で約600億円を調達して賄っている。株式は1981年10月にロンドン、1983年9月にチューリッヒ・バーゼル・ジュネーブの各証券取引所へ上場していた。

  • 証券アナリストジャーナル 1984年10月号 渡辺和郎
    • [48]1983年度の受注1兆707億円のうち電電公社向けは899億円、輸出は2,404億円
    • [49]1983年度(1984年3月期)受注高1兆707億円(前期比23.2%増)、売上高9,916億円(同22.9%増)、経常利益792億円、税引後利益448億円
    • [50]1983年度の部門別売上は通信機器1,576億円、情報処理機器6,613億円、電子デバイス1,725億円。電子デバイスの受注は前期比62%増
    • [51]設備投資は1983年度実績1,175億円、1984年度は2,000億円ほどで約6割が電子デバイス部門へ
    • [52]1984年3月にユーロ・ドル債とスイス・フラン債で円換算570億円、8月末に時価発行増資4,800万株で約600億円を調達
  • 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [53]1981年10月 ロンドン証券取引所に上場/1983年9月 チューリッヒ、バーゼル、ジュネーブの各証券取引所に上場
参考文献[35]-[53]
  • 読売新聞(1980年5月28日)
    • [35]1980年5月 国内売上で日本アイ・ビー・エムを追い抜いたと報じられた
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号
    • [36]1981年時点で富士通は日本IBMを抜いて国内コンピューターメーカーの首位
    • [37]山本卓眞は1925年9月熊本県生まれ。1949年3月東京大学第二工学部卒、4月富士通信機製造入社。1954年の国産第1号リレー式計算機の研究スタッフの一人
    • [39]1981年6月 山本卓眞が小林大祐の後任として社長に就任
    • [40]山本卓眞は10年前には役員になっておらず、専務から社長へ進んだ
    • [41]山本卓眞は技術開発・商品開発の面では自ら先頭に立って指揮する覚悟だとし、社長が技術の進歩に遅れるのは問題外だと述べた
  • 政経人 1981年「個性派経営者列伝(6) 富士通社長 小林大祐」
    • [38]小林大祐は1981年6月末の株主総会を機に会長へ就任
  • 日経ビジネス 1973年5月28日号
    • [42]1973年の時点で沼津市に一大電算機生産基地を建設中だった
  • 証券アナリストジャーナル 1984年10月号 渡辺和郎
    • [43]沼津工場は1976年8月の設立で、超大形・大形電子計算機とソフトウェアを担当
    • [44]1982年2月 最新のソフトウェア開発設備を導入したソフト棟が完成。敷地52万7,000平方メートルに工場・住居・運動の各ゾーンを配置
    • [45]沼津工場の従業員は約2,600名。建物は機能別にハード棟とソフト棟の2棟に区別される
    • [46]ハード棟は1〜3階がシステム試験フロア、4〜5階が装置組立フロア、6階が部品倉庫。ソフト棟は1〜3階がコンピューター・センター、4〜6階がソフトウェア開発フロア
    • [47]ハード棟とソフト棟は緊密に連携し、一貫した設計思想にもとづいた製品を生産している
    • [48]1983年度の受注1兆707億円のうち電電公社向けは899億円、輸出は2,404億円
    • [49]1983年度(1984年3月期)受注高1兆707億円(前期比23.2%増)、売上高9,916億円(同22.9%増)、経常利益792億円、税引後利益448億円
    • [50]1983年度の部門別売上は通信機器1,576億円、情報処理機器6,613億円、電子デバイス1,725億円。電子デバイスの受注は前期比62%増
    • [51]設備投資は1983年度実績1,175億円、1984年度は2,000億円ほどで約6割が電子デバイス部門へ
    • [52]1984年3月にユーロ・ドル債とスイス・フラン債で円換算570億円、8月末に時価発行増資4,800万株で約600億円を調達
  • 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
    • [53]1981年10月 ロンドン証券取引所に上場/1983年9月 チューリッヒ、バーゼル、ジュネーブの各証券取引所に上場

1974年〜1984年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1974年03月期 単体 2,093 n/a n/a 153 93 4.4% n/a
1975年03月期 単体 2,503 +19.6% n/a 109 61 2.4% n/a
1976年03月期 単体 2,882 +15.2% 219 108 66 2.3% n/a
1977年03月期 単体 3,279 +13.8% n/a 110 92 2.8% 沼津工場を設立し超大形・大形電子計算機を担当(1976/08)
1978年03月期 単体 3,874 +18.1% 239 135 81 2.1% n/a
1979年03月期 単体 4,409 +13.8% 224 164 107 2.4% n/a
1980年03月期 単体 5,010 +13.6% n/a 334 156 3.1% n/a
1981年03月期 単体 5,816 +16.1% n/a 324 184 3.2% n/a
1982年03月期 単体 6,710 +15.4% n/a 500 228 3.4% n/a
1983年03月期 単体 8,067 +20.2% n/a 630 375 4.7% n/a
1984年03月期 単体 9,916 +22.9% n/a 792 448 4.5% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

10件
出典・参考
  • 富士通 有価証券報告書 第125期(2025年3月期)【沿革】
  • 会社年鑑 1976年版
  • 会社年鑑 1986年版
  • 日経ビジネス 1973年5月28日号
  • 日経ビジネス 1974年8月19日号
  • 日経ビジネス 1976年8月30日号
  • 日経ビジネス 1981年10月5日号
  • 証券アナリストジャーナル 1984年10月号 渡辺和郎
  • 読売新聞(1980年5月28日)
  • 政経人 1981年「個性派経営者列伝(6) 富士通社長 小林大祐」

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