GSユアサ:島津源蔵の鉛蓄電池国産化と「GS」商標での標準型販売
1895年〜学校用理化学器械の島津製作所と、物理書をもとにした蓄電池の試作
島津製作所の起点は、先代の島津源蔵氏が1875年(明治8年)3月に京都・木屋町二条で始めた学校用品の製造である。先代の島津源蔵氏は京都府の舎密局に出入りし、ドイツ人ワグネル博士の指導で理化学器械の修理を担って腕を磨いた。長男の島津梅次郎氏は1869年(明治2年)6月の生まれで、小学校に通う時分から父の工場で仕事を覚えた人物である。島津梅次郎氏は16歳の1885年に都踊りの電灯工事で英国人技師の助手を務め、19歳で京都府立師範学校の金属手工科教員を命じられた。1894年(明治27年)に先代が病没すると、25歳の島津梅次郎氏が家督を継ぎ、名を島津源蔵と改めた。器械を試作する手と学校という顧客を、二代目の島津源蔵氏は継いだ時点ですでに手にしていたとみられる。
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第一節「我が國蓄電池事業の濫觴」
- [1]先代島津源蔵が1875年(明治8年)3月に木屋町二条で学校用品の製作を始め、舎密局でワグネル博士の指導を受けた。長男梅次郎(現社長源蔵)は小学校在学時から工場で仕事を習得し、1894年(明治27年)の先代死去で事業を継承した
- [2]先代島津源蔵が1875年(明治8年)3月に木屋町二条で学校用品の製作を始め、舎密局でワグネル博士の指導を受けた。長男梅次郎(現社長源蔵)は小学校在学時から工場で仕事を習得し、1894年(明治27年)の先代死去で事業を継承した
- [3]先代島津源蔵が1875年(明治8年)3月に木屋町二条で学校用品の製作を始め、舎密局でワグネル博士の指導を受けた。長男梅次郎(現社長源蔵)は小学校在学時から工場で仕事を習得し、1894年(明治27年)の先代死去で事業を継承した
- 産業フロンティア物語「蓄電池〈日本電池〉」(1967)
- [4]梅次郎は1869年(明治2年)6月生まれ。1885年に都踊りの電灯で英国人技師の助手、19歳で京都府立師範学校金属手工科教員。1894年の父の病没時25歳で家督を継ぎ源蔵と改名した
- [5]梅次郎は1869年(明治2年)6月生まれ。1885年に都踊りの電灯で英国人技師の助手、19歳で京都府立師範学校金属手工科教員。1894年の父の病没時25歳で家督を継ぎ源蔵と改名した
家業を継いだ島津源蔵氏は、学校向けの実験器具の製造にとどまらず、新しい機械の研究で事業の領域を広げた。当時の蓄電池はすべて輸入品で、国内での製造は難しいとされた時代にあたる。島津源蔵氏は同志社のゲーンス教授から譲り受けたデスチャネルの物理書で二次電池の原理を知り、自作を思い立った。1895年(明治28年)にはホプキンスの実験科学書を手引きに、初めて蓄電池の極板を試作した。1897年(明治30年)9月に京都帝国大学理工科大学が開設されると、島津源蔵氏は同大学から感応コイル用電源の製作を依頼された。外国製の極板を見本に借り、1枚10アンペア時ほどの極板を作って納入した。蓄電池は当初、学校と大学に向けた器械の延長として始まったと思われる。
- 産業フロンティア物語「蓄電池〈日本電池〉」(1967)
- [6]二代源蔵は学校用理化学器具にとどまらず新機軸を開拓した。当時蓄電池はすべて輸入に依存し国産は至難とされた
- [7]二代源蔵は学校用理化学器具にとどまらず新機軸を開拓した。当時蓄電池はすべて輸入に依存し国産は至難とされた
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第一節「我が國蓄電池事業の濫觴」
- [8]島津源蔵は同志社のゲーンスから譲られたデスチャネル『Natural Philosophy』で二次電池の原理を知り、1895年(明治28年)にホプキンス『Experimental Science』により初めて極板を試作。1897年(明治30年)9月新設の京都帝大理工科大学から感応コイル用蓄電池を頼まれ、外国製極板を見本に1枚10アンペア時程度の試作品を納入した
- [9]島津源蔵は同志社のゲーンスから譲られたデスチャネル『Natural Philosophy』で二次電池の原理を知り、1895年(明治28年)にホプキンス『Experimental Science』により初めて極板を試作。1897年(明治30年)9月新設の京都帝大理工科大学から感応コイル用蓄電池を頼まれ、外国製極板を見本に1枚10アンペア時程度の試作品を納入した
- [10]島津源蔵は同志社のゲーンスから譲られたデスチャネル『Natural Philosophy』で二次電池の原理を知り、1895年(明治28年)にホプキンス『Experimental Science』により初めて極板を試作。1897年(明治30年)9月新設の京都帝大理工科大学から感応コイル用蓄電池を頼まれ、外国製極板を見本に1枚10アンペア時程度の試作品を納入した
- [11]島津源蔵は同志社のゲーンスから譲られたデスチャネル『Natural Philosophy』で二次電池の原理を知り、1895年(明治28年)にホプキンス『Experimental Science』により初めて極板を試作。1897年(明治30年)9月新設の京都帝大理工科大学から感応コイル用蓄電池を頼まれ、外国製極板を見本に1枚10アンペア時程度の試作品を納入した
1902〜1903年(明治35〜36年)ごろには、多くの学校が物理実験の電源に島津製作所の蓄電池を用いていた。主力は木箱に収めた小型携帯用のペーステッド式である。島津源蔵氏はその供給と並行して、大容量の据置用クロライド式の研究を続けた。理化学器械の需要が増えて木屋町二条の工場が手狭になり、1903年(明治36年)1月には河原町二条へ新築移転した。据置用は材料の入手も専門技術者の確保も難しく、化成では使用を禁じられていた硝酸を試してようやく過酸化鉛の膜を得た。1904年(明治37年)に150アンペア時の据置用を完成させ、80個を河原町工場の自家用予備電源として据え付けた。所内に据えた据置型は、翌年の海軍の急な注文に応じる在庫の役割を果たしたと推察される。
- 日本電池株式会社二十年史(1937)「据置用蓄電池製作の嚆矢」
- [12]明治35〜36年ごろ蓄電池は学校の物理実験用電源として広く使われ、主に木箱入小型携帯用ペーステッド式。並行して据置用クロライド式を研究。1903年1月河原町二条へ工場移転。化成で禁物の硝酸を試して膜を得、クロライド式150アンペア時80個を河原町工場に自家用予備電源として据え付けた
- [13]明治35〜36年ごろ蓄電池は学校の物理実験用電源として広く使われ、主に木箱入小型携帯用ペーステッド式。並行して据置用クロライド式を研究。1903年1月河原町二条へ工場移転。化成で禁物の硝酸を試して膜を得、クロライド式150アンペア時80個を河原町工場に自家用予備電源として据え付けた
- [14]明治35〜36年ごろ蓄電池は学校の物理実験用電源として広く使われ、主に木箱入小型携帯用ペーステッド式。並行して据置用クロライド式を研究。1903年1月河原町二条へ工場移転。化成で禁物の硝酸を試して膜を得、クロライド式150アンペア時80個を河原町工場に自家用予備電源として据え付けた
- [15]明治35〜36年ごろ蓄電池は学校の物理実験用電源として広く使われ、主に木箱入小型携帯用ペーステッド式。並行して据置用クロライド式を研究。1903年1月河原町二条へ工場移転。化成で禁物の硝酸を試して膜を得、クロライド式150アンペア時80個を河原町工場に自家用予備電源として据え付けた
- [16]明治35〜36年ごろ蓄電池は学校の物理実験用電源として広く使われ、主に木箱入小型携帯用ペーステッド式。並行して据置用クロライド式を研究。1903年1月河原町二条へ工場移転。化成で禁物の硝酸を試して膜を得、クロライド式150アンペア時80個を河原町工場に自家用予備電源として据え付けた
- 産業フロンティア物語「蓄電池〈日本電池〉」(1967)
- [17]1904年(明治37年)にクロライド式150アンペア時の据置用蓄電池の製作に成功し、自家用予備電源として工場内に据え付けた
参考文献[1]-[17]
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第一節「我が國蓄電池事業の濫觴」
- [1]先代島津源蔵が1875年(明治8年)3月に木屋町二条で学校用品の製作を始め、舎密局でワグネル博士の指導を受けた。長男梅次郎(現社長源蔵)は小学校在学時から工場で仕事を習得し、1894年(明治27年)の先代死去で事業を継承した
- [2]先代島津源蔵が1875年(明治8年)3月に木屋町二条で学校用品の製作を始め、舎密局でワグネル博士の指導を受けた。長男梅次郎(現社長源蔵)は小学校在学時から工場で仕事を習得し、1894年(明治27年)の先代死去で事業を継承した
- [3]先代島津源蔵が1875年(明治8年)3月に木屋町二条で学校用品の製作を始め、舎密局でワグネル博士の指導を受けた。長男梅次郎(現社長源蔵)は小学校在学時から工場で仕事を習得し、1894年(明治27年)の先代死去で事業を継承した
- [8]島津源蔵は同志社のゲーンスから譲られたデスチャネル『Natural Philosophy』で二次電池の原理を知り、1895年(明治28年)にホプキンス『Experimental Science』により初めて極板を試作。1897年(明治30年)9月新設の京都帝大理工科大学から感応コイル用蓄電池を頼まれ、外国製極板を見本に1枚10アンペア時程度の試作品を納入した
- [9]島津源蔵は同志社のゲーンスから譲られたデスチャネル『Natural Philosophy』で二次電池の原理を知り、1895年(明治28年)にホプキンス『Experimental Science』により初めて極板を試作。1897年(明治30年)9月新設の京都帝大理工科大学から感応コイル用蓄電池を頼まれ、外国製極板を見本に1枚10アンペア時程度の試作品を納入した
- [10]島津源蔵は同志社のゲーンスから譲られたデスチャネル『Natural Philosophy』で二次電池の原理を知り、1895年(明治28年)にホプキンス『Experimental Science』により初めて極板を試作。1897年(明治30年)9月新設の京都帝大理工科大学から感応コイル用蓄電池を頼まれ、外国製極板を見本に1枚10アンペア時程度の試作品を納入した
- [11]島津源蔵は同志社のゲーンスから譲られたデスチャネル『Natural Philosophy』で二次電池の原理を知り、1895年(明治28年)にホプキンス『Experimental Science』により初めて極板を試作。1897年(明治30年)9月新設の京都帝大理工科大学から感応コイル用蓄電池を頼まれ、外国製極板を見本に1枚10アンペア時程度の試作品を納入した
- 産業フロンティア物語「蓄電池〈日本電池〉」(1967)
- [4]梅次郎は1869年(明治2年)6月生まれ。1885年に都踊りの電灯で英国人技師の助手、19歳で京都府立師範学校金属手工科教員。1894年の父の病没時25歳で家督を継ぎ源蔵と改名した
- [5]梅次郎は1869年(明治2年)6月生まれ。1885年に都踊りの電灯で英国人技師の助手、19歳で京都府立師範学校金属手工科教員。1894年の父の病没時25歳で家督を継ぎ源蔵と改名した
- [6]二代源蔵は学校用理化学器具にとどまらず新機軸を開拓した。当時蓄電池はすべて輸入に依存し国産は至難とされた
- [7]二代源蔵は学校用理化学器具にとどまらず新機軸を開拓した。当時蓄電池はすべて輸入に依存し国産は至難とされた
- [17]1904年(明治37年)にクロライド式150アンペア時の据置用蓄電池の製作に成功し、自家用予備電源として工場内に据え付けた
- 日本電池株式会社二十年史(1937)「据置用蓄電池製作の嚆矢」
- [12]明治35〜36年ごろ蓄電池は学校の物理実験用電源として広く使われ、主に木箱入小型携帯用ペーステッド式。並行して据置用クロライド式を研究。1903年1月河原町二条へ工場移転。化成で禁物の硝酸を試して膜を得、クロライド式150アンペア時80個を河原町工場に自家用予備電源として据え付けた
- [13]明治35〜36年ごろ蓄電池は学校の物理実験用電源として広く使われ、主に木箱入小型携帯用ペーステッド式。並行して据置用クロライド式を研究。1903年1月河原町二条へ工場移転。化成で禁物の硝酸を試して膜を得、クロライド式150アンペア時80個を河原町工場に自家用予備電源として据え付けた
- [14]明治35〜36年ごろ蓄電池は学校の物理実験用電源として広く使われ、主に木箱入小型携帯用ペーステッド式。並行して据置用クロライド式を研究。1903年1月河原町二条へ工場移転。化成で禁物の硝酸を試して膜を得、クロライド式150アンペア時80個を河原町工場に自家用予備電源として据え付けた
- [15]明治35〜36年ごろ蓄電池は学校の物理実験用電源として広く使われ、主に木箱入小型携帯用ペーステッド式。並行して据置用クロライド式を研究。1903年1月河原町二条へ工場移転。化成で禁物の硝酸を試して膜を得、クロライド式150アンペア時80個を河原町工場に自家用予備電源として据え付けた
- [16]明治35〜36年ごろ蓄電池は学校の物理実験用電源として広く使われ、主に木箱入小型携帯用ペーステッド式。並行して据置用クロライド式を研究。1903年1月河原町二条へ工場移転。化成で禁物の硝酸を試して膜を得、クロライド式150アンペア時80個を河原町工場に自家用予備電源として据え付けた
1905年〜日本海海戦へ納めた11個の蓄電池と、「GS」商標の標準型・特許第22232号
1905年(明治38年)1月、京都帝国大学教授の難波正氏が海軍技師の木村駿吉氏を伴い、河原町二条の島津製作所を訪れた。用件は、海軍の無線電信の電源とする150アンペア時前後の蓄電池の至急の納入。海軍は輸入品を残らず徴発しても数が足りず、島津製作所にも納められる在庫は無かった。島津源蔵氏は工場の予備電源を転用する案を示し、木村駿吉氏が使えると判断した。島津源蔵氏は所内の自家発電予備用の据置蓄電池を取り外し、5個1組の携帯用木箱入りに改造して計11個を納めた。これらは軍艦和泉などに据え付けられ、日本海海戦で無線通信の電源に使われた。その後まもなく、150アンペア時・80個1組の電池を2組、さらに3組受注した。
- 産業フロンティア物語「蓄電池〈日本電池〉」(1967)
- [18]訪問は1905年(明治38年)1月。海軍は輸入品を全部徴発したが不足していた
- [20]訪問は1905年(明治38年)1月。海軍は輸入品を全部徴発したが不足していた
- [21]訪問は1905年(明治38年)1月。海軍は輸入品を全部徴発したが不足していた
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第二節「日露戰爭と島津製蓄電池」
- [19]日露開戦で海軍は無線電信用蓄電池の調達に奔走し、京都帝大の難波正博士が海軍技師木村駿吉を伴って島津製作所を訪れ、容量150アンペア時内外の蓄電池の至急納入を求めた
- 日本電池株式会社二十年史(1937)「蓄電池の工業的製造を企圖せる動機」
- [22]島津製作所は在庫がなく、所内のクロライド型自家発電予備用据置蓄電池を取り外して携帯木箱入りに改造し5個1組・計11個を上納。軍艦和泉等に据え付けられ日本海海戦で使われた。続いて150アンペア時80個1組を2組、さらに3組受注
- [23]島津製作所は在庫がなく、所内のクロライド型自家発電予備用据置蓄電池を取り外して携帯木箱入りに改造し5個1組・計11個を上納。軍艦和泉等に据え付けられ日本海海戦で使われた。続いて150アンペア時80個1組を2組、さらに3組受注
- [24]島津製作所は在庫がなく、所内のクロライド型自家発電予備用据置蓄電池を取り外して携帯木箱入りに改造し5個1組・計11個を上納。軍艦和泉等に据え付けられ日本海海戦で使われた。続いて150アンペア時80個1組を2組、さらに3組受注
日露戦争を境に注文が工場の生産能力を超えて押し寄せ、その大半は無線通信用だった。島津源蔵氏はこのころ東京・芝赤羽の海軍造兵廠を見学し、大きなバラックに輸入の米国製クロライド型が大量に保管されているのを目にした。造兵廠長の澤鑑之丞中将も、蓄電池の研究と製造を強く後押ししていた。島津源蔵氏は輸入品の量から蓄電池の工業的な価値の大きさを確信し、以後は研究に経営資源を集中した。試作の失敗が続いて研究費は多額に及び、資金不足による経営難と技術の未熟による製作難が重なった。日露戦争後の需要の拡大も、島津源蔵氏が蓄電池事業に力を注いだ動機にあたる。造兵廠に積まれた輸入品は、国産で置き換えうる市場の大きさを示す材料になったのだろう。
- 日本電池株式会社二十年史(1937)「蓄電池の工業的製造を企圖せる動機」
- [25]日露戦役後、注文が生産能力を超え主に無線通信用。島津源蔵は芝赤羽の海軍造兵廠(廠長澤鑑之丞中将が研究製造を鞭撻)で大量の輸入米国製クロライド型を見て蓄電池の工業的価値を痛感し、研究に精進。研究費は多額で資金欠乏と技術未熟で逆境に遭った
- [26]日露戦役後、注文が生産能力を超え主に無線通信用。島津源蔵は芝赤羽の海軍造兵廠(廠長澤鑑之丞中将が研究製造を鞭撻)で大量の輸入米国製クロライド型を見て蓄電池の工業的価値を痛感し、研究に精進。研究費は多額で資金欠乏と技術未熟で逆境に遭った
- [27]日露戦役後、注文が生産能力を超え主に無線通信用。島津源蔵は芝赤羽の海軍造兵廠(廠長澤鑑之丞中将が研究製造を鞭撻)で大量の輸入米国製クロライド型を見て蓄電池の工業的価値を痛感し、研究に精進。研究費は多額で資金欠乏と技術未熟で逆境に遭った
- [28]日露戦役後、注文が生産能力を超え主に無線通信用。島津源蔵は芝赤羽の海軍造兵廠(廠長澤鑑之丞中将が研究製造を鞭撻)で大量の輸入米国製クロライド型を見て蓄電池の工業的価値を痛感し、研究に精進。研究費は多額で資金欠乏と技術未熟で逆境に遭った
- [29]日露戦役後、注文が生産能力を超え主に無線通信用。島津源蔵は芝赤羽の海軍造兵廠(廠長澤鑑之丞中将が研究製造を鞭撻)で大量の輸入米国製クロライド型を見て蓄電池の工業的価値を痛感し、研究に精進。研究費は多額で資金欠乏と技術未熟で逆境に遭った
- 産業フロンティア物語「蓄電池〈日本電池〉」(1967)
- [30]日露戦争後に蓄電池需要が伸び、源蔵は蓄電池事業に情熱を傾けた。資金難・経営難にも陥った
島津源蔵氏は技術員の養成を進め、1908年(明治41年)に蓄電池の型録を編んで学校などの需要先へ配った。同じころ標準型を定め、注文を受けてから作る方式から在庫を持って売る方式へ移った。製品には「ジーエス」または「GS」の商標を付け、一般の需要に応じた。GSの名の由来は、島津源蔵氏のローマ字表記Genzo Shimadzuの頭文字である。1912年(明治45年)6月には蓄電池陰極板の名で特許第22232号を取得し、これは国内の蓄電池製造で最初の特許にあたる。発明は陰極板に木質の細片を混ぜて多孔度を高め、小孔のある木板を極板の間に挟み、容量と耐久力を高めるものだった。型録・標準型・商標の3つがそろい、蓄電池は受注品から店頭に並ぶ商品に変わったと考えられる。
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第三節「ジーエス蓄電池」
- [31]1908年(明治41年)に型録を編纂して学校等へ配布、標準型を作成し在庫を持つようにし「ジーエス」「GS」(Genzo Shimadzuの頭文字)の商標を使用。1912年(明治45年)6月に蓄電池陰極板で特許第22232号を取得(国内初の蓄電池製造の特許)。陰極板に木質細木を混ぜ、小孔のある木板を挿置して容量と耐久力を高める発明
- [32]1908年(明治41年)に型録を編纂して学校等へ配布、標準型を作成し在庫を持つようにし「ジーエス」「GS」(Genzo Shimadzuの頭文字)の商標を使用。1912年(明治45年)6月に蓄電池陰極板で特許第22232号を取得(国内初の蓄電池製造の特許)。陰極板に木質細木を混ぜ、小孔のある木板を挿置して容量と耐久力を高める発明
- [34]1908年(明治41年)に型録を編纂して学校等へ配布、標準型を作成し在庫を持つようにし「ジーエス」「GS」(Genzo Shimadzuの頭文字)の商標を使用。1912年(明治45年)6月に蓄電池陰極板で特許第22232号を取得(国内初の蓄電池製造の特許)。陰極板に木質細木を混ぜ、小孔のある木板を挿置して容量と耐久力を高める発明
- [35]1908年(明治41年)に型録を編纂して学校等へ配布、標準型を作成し在庫を持つようにし「ジーエス」「GS」(Genzo Shimadzuの頭文字)の商標を使用。1912年(明治45年)6月に蓄電池陰極板で特許第22232号を取得(国内初の蓄電池製造の特許)。陰極板に木質細木を混ぜ、小孔のある木板を挿置して容量と耐久力を高める発明
- [36]1908年(明治41年)に型録を編纂して学校等へ配布、標準型を作成し在庫を持つようにし「ジーエス」「GS」(Genzo Shimadzuの頭文字)の商標を使用。1912年(明治45年)6月に蓄電池陰極板で特許第22232号を取得(国内初の蓄電池製造の特許)。陰極板に木質細木を混ぜ、小孔のある木板を挿置して容量と耐久力を高める発明
- 産業フロンティア物語「蓄電池〈日本電池〉」(1967)
- [33]1908年に標準型を作り在庫を持ち「ジーエス」「GS」商標で一般需要に応じた。1912年6月に特許第22232号を取得
参考文献[18]-[36]
- 産業フロンティア物語「蓄電池〈日本電池〉」(1967)
- [18]訪問は1905年(明治38年)1月。海軍は輸入品を全部徴発したが不足していた
- [20]訪問は1905年(明治38年)1月。海軍は輸入品を全部徴発したが不足していた
- [21]訪問は1905年(明治38年)1月。海軍は輸入品を全部徴発したが不足していた
- [30]日露戦争後に蓄電池需要が伸び、源蔵は蓄電池事業に情熱を傾けた。資金難・経営難にも陥った
- [33]1908年に標準型を作り在庫を持ち「ジーエス」「GS」商標で一般需要に応じた。1912年6月に特許第22232号を取得
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第二節「日露戰爭と島津製蓄電池」
- [19]日露開戦で海軍は無線電信用蓄電池の調達に奔走し、京都帝大の難波正博士が海軍技師木村駿吉を伴って島津製作所を訪れ、容量150アンペア時内外の蓄電池の至急納入を求めた
- 日本電池株式会社二十年史(1937)「蓄電池の工業的製造を企圖せる動機」
- [22]島津製作所は在庫がなく、所内のクロライド型自家発電予備用据置蓄電池を取り外して携帯木箱入りに改造し5個1組・計11個を上納。軍艦和泉等に据え付けられ日本海海戦で使われた。続いて150アンペア時80個1組を2組、さらに3組受注
- [23]島津製作所は在庫がなく、所内のクロライド型自家発電予備用据置蓄電池を取り外して携帯木箱入りに改造し5個1組・計11個を上納。軍艦和泉等に据え付けられ日本海海戦で使われた。続いて150アンペア時80個1組を2組、さらに3組受注
- [24]島津製作所は在庫がなく、所内のクロライド型自家発電予備用据置蓄電池を取り外して携帯木箱入りに改造し5個1組・計11個を上納。軍艦和泉等に据え付けられ日本海海戦で使われた。続いて150アンペア時80個1組を2組、さらに3組受注
- [25]日露戦役後、注文が生産能力を超え主に無線通信用。島津源蔵は芝赤羽の海軍造兵廠(廠長澤鑑之丞中将が研究製造を鞭撻)で大量の輸入米国製クロライド型を見て蓄電池の工業的価値を痛感し、研究に精進。研究費は多額で資金欠乏と技術未熟で逆境に遭った
- [26]日露戦役後、注文が生産能力を超え主に無線通信用。島津源蔵は芝赤羽の海軍造兵廠(廠長澤鑑之丞中将が研究製造を鞭撻)で大量の輸入米国製クロライド型を見て蓄電池の工業的価値を痛感し、研究に精進。研究費は多額で資金欠乏と技術未熟で逆境に遭った
- [27]日露戦役後、注文が生産能力を超え主に無線通信用。島津源蔵は芝赤羽の海軍造兵廠(廠長澤鑑之丞中将が研究製造を鞭撻)で大量の輸入米国製クロライド型を見て蓄電池の工業的価値を痛感し、研究に精進。研究費は多額で資金欠乏と技術未熟で逆境に遭った
- [28]日露戦役後、注文が生産能力を超え主に無線通信用。島津源蔵は芝赤羽の海軍造兵廠(廠長澤鑑之丞中将が研究製造を鞭撻)で大量の輸入米国製クロライド型を見て蓄電池の工業的価値を痛感し、研究に精進。研究費は多額で資金欠乏と技術未熟で逆境に遭った
- [29]日露戦役後、注文が生産能力を超え主に無線通信用。島津源蔵は芝赤羽の海軍造兵廠(廠長澤鑑之丞中将が研究製造を鞭撻)で大量の輸入米国製クロライド型を見て蓄電池の工業的価値を痛感し、研究に精進。研究費は多額で資金欠乏と技術未熟で逆境に遭った
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第三節「ジーエス蓄電池」
- [31]1908年(明治41年)に型録を編纂して学校等へ配布、標準型を作成し在庫を持つようにし「ジーエス」「GS」(Genzo Shimadzuの頭文字)の商標を使用。1912年(明治45年)6月に蓄電池陰極板で特許第22232号を取得(国内初の蓄電池製造の特許)。陰極板に木質細木を混ぜ、小孔のある木板を挿置して容量と耐久力を高める発明
- [32]1908年(明治41年)に型録を編纂して学校等へ配布、標準型を作成し在庫を持つようにし「ジーエス」「GS」(Genzo Shimadzuの頭文字)の商標を使用。1912年(明治45年)6月に蓄電池陰極板で特許第22232号を取得(国内初の蓄電池製造の特許)。陰極板に木質細木を混ぜ、小孔のある木板を挿置して容量と耐久力を高める発明
- [34]1908年(明治41年)に型録を編纂して学校等へ配布、標準型を作成し在庫を持つようにし「ジーエス」「GS」(Genzo Shimadzuの頭文字)の商標を使用。1912年(明治45年)6月に蓄電池陰極板で特許第22232号を取得(国内初の蓄電池製造の特許)。陰極板に木質細木を混ぜ、小孔のある木板を挿置して容量と耐久力を高める発明
- [35]1908年(明治41年)に型録を編纂して学校等へ配布、標準型を作成し在庫を持つようにし「ジーエス」「GS」(Genzo Shimadzuの頭文字)の商標を使用。1912年(明治45年)6月に蓄電池陰極板で特許第22232号を取得(国内初の蓄電池製造の特許)。陰極板に木質細木を混ぜ、小孔のある木板を挿置して容量と耐久力を高める発明
- [36]1908年(明治41年)に型録を編纂して学校等へ配布、標準型を作成し在庫を持つようにし「ジーエス」「GS」(Genzo Shimadzuの頭文字)の商標を使用。1912年(明治45年)6月に蓄電池陰極板で特許第22232号を取得(国内初の蓄電池製造の特許)。陰極板に木質細木を混ぜ、小孔のある木板を挿置して容量と耐久力を高める発明
1912年〜新町今出川の蓄電池工場と、御召列車用T型蓄電池1,000個
島津製作所が予備電源用に初めて納めたL型蓄電池は、京都新京極の活動写真館ミカド館に据え付けられた。電気事業の広がりにつれ、蓄電池の用途は学校の実験用から電信・電話、列車の点灯、自家発電の付設用へ広がった。その後、大阪千日前の敷島倶楽部や下村大丸、東京の帝国劇場へ納め、1912年(明治45年)には奈良女子高等師範学校などにも納入した。需要の増加で工場は手狭になったものの、拡張資金の調達は難航。島津源蔵氏は京都実業界の内貴清兵衛氏に事情を伝え、その斡旋で京都商工銀行から融資を受けた。1912年(大正元年)10月、京都市新町今出川北の日本製布工場跡を買収し、蓄電池の専門工場を建てた。翌1913年(大正2年)、島津源蔵氏は蓄電池製造と電気事業の視察のため欧米を回った。
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第四節「蓄電池製造工場の建設」
- [37]予備電源用L型蓄電池の最初の納入先は京都新京極のミカド館。停電時も点灯し注目された。敷島倶楽部・下村大丸・帝国劇場、1912年に奈良女子高等師範学校等へ納入。資金調達が難しく、内貴清兵衛の斡旋で京都商工銀行から融資を受け、1912年(大正元年)10月に新町今出川北の日本製布工場跡を買収して蓄電池工場を建設、翌年欧米を視察
- [38]電気事業の勃興で需要が増え、学校の理化学実験用の木箱入小型から、電信・電話用、鉄道院の列車点灯用、電車の予備灯用、自家発電付設用へ用途が広がった
- [39]予備電源用L型蓄電池の最初の納入先は京都新京極のミカド館。停電時も点灯し注目された。敷島倶楽部・下村大丸・帝国劇場、1912年に奈良女子高等師範学校等へ納入。資金調達が難しく、内貴清兵衛の斡旋で京都商工銀行から融資を受け、1912年(大正元年)10月に新町今出川北の日本製布工場跡を買収して蓄電池工場を建設、翌年欧米を視察
- [40]予備電源用L型蓄電池の最初の納入先は京都新京極のミカド館。停電時も点灯し注目された。敷島倶楽部・下村大丸・帝国劇場、1912年に奈良女子高等師範学校等へ納入。資金調達が難しく、内貴清兵衛の斡旋で京都商工銀行から融資を受け、1912年(大正元年)10月に新町今出川北の日本製布工場跡を買収して蓄電池工場を建設、翌年欧米を視察
- [41]予備電源用L型蓄電池の最初の納入先は京都新京極のミカド館。停電時も点灯し注目された。敷島倶楽部・下村大丸・帝国劇場、1912年に奈良女子高等師範学校等へ納入。資金調達が難しく、内貴清兵衛の斡旋で京都商工銀行から融資を受け、1912年(大正元年)10月に新町今出川北の日本製布工場跡を買収して蓄電池工場を建設、翌年欧米を視察
- 産業フロンティア物語「蓄電池〈日本電池〉」(1967)
- [42]1912年(大正元年)10月、京都市新町通り今出川北の日本製布工場跡を買収して蓄電池専門工場を新設。1913年に源蔵は蓄電池製造事業と電気事業の視察で欧米へ
- [43]1912年(大正元年)10月、京都市新町通り今出川北の日本製布工場跡を買収して蓄電池専門工場を新設。1913年に源蔵は蓄電池製造事業と電気事業の視察で欧米へ
明治末から大正初めの国内市場では、蓄電池の大部分を欧米からの輸入品が占めていた。1898年(明治31年)3月に東海道線の急行列車で始まった車内の電灯も、電源は英国ストーン社のT型である。ストーン社は東洋進出を強めるため、一手販売代理店の三井物産を通じ、列車用を製造していた島津製作所蓄電池工場に合同を持ちかけた。1914年(大正3年)5月9日の東京での会談で、ストーン社の示した比率は英国6・日本4である。島津源蔵氏は日本側が6なら応じると返し、折半の案まで歩み寄ったものの、英国本社は当初案を譲らなかった。事業の範囲を日本内地に限り、朝鮮・樺太・台湾・北海道まで外す条件も付き、合同は打ち切りとなった。比率と販売地域の両方で主導権を渡さなかったことが、国産メーカーとしての独立を保たせたと読み取れる。
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第五節「英國ストーン會社との合同問題」
- [44]明治末〜大正初めは蓄電池の大部分を欧米から輸入、ストーン社は列車用を盛んに供給し東洋進出を図った
- [46]英国ストーン社が三井物産を介して島津製作所蓄電池工場に合同を提言。1914年(大正3年)5月9日東京で会談、英国6・日本4を提示、島津は日本6を主張し5分5分まで話が進んだが英本社は譲らず。適用範囲を日本内地に限り朝鮮・樺太・台湾・北海道を除く条件もあり打ち切り
- [47]英国ストーン社が三井物産を介して島津製作所蓄電池工場に合同を提言。1914年(大正3年)5月9日東京で会談、英国6・日本4を提示、島津は日本6を主張し5分5分まで話が進んだが英本社は譲らず。適用範囲を日本内地に限り朝鮮・樺太・台湾・北海道を除く条件もあり打ち切り
- [48]英国ストーン社が三井物産を介して島津製作所蓄電池工場に合同を提言。1914年(大正3年)5月9日東京で会談、英国6・日本4を提示、島津は日本6を主張し5分5分まで話が進んだが英本社は譲らず。適用範囲を日本内地に限り朝鮮・樺太・台湾・北海道を除く条件もあり打ち切り
- [49]英国ストーン社が三井物産を介して島津製作所蓄電池工場に合同を提言。1914年(大正3年)5月9日東京で会談、英国6・日本4を提示、島津は日本6を主張し5分5分まで話が進んだが英本社は譲らず。適用範囲を日本内地に限り朝鮮・樺太・台湾・北海道を除く条件もあり打ち切り
- 産業フロンティア物語「蓄電池〈日本電池〉」(1967)
- [45]1898年(明治31年)3月の東海道線急行列車の電灯の電源は英国ストーン社製T型。輸入品が国産に置き換わるのは1914年の第一次大戦で輸入が途絶えてから
1915年(大正4年)4月、蓄電池工場では製造技術の中心にいた技術者が突然辞めた。島津源蔵氏は同年6月に蓄電池製作研究会を設け、8月には京都帝国大学教授の中澤良夫氏を顧問に迎えた。10月には元鉄道院電気課長の三根正亮氏を技師長に招き、研究を基礎から組み直した。同年秋には、それまで全量を輸入していたドイツのチウドル式で、陽極板の鋳造と化成の方法を確立。同年11月10日の大正天皇即位の大礼に際し、御召列車の点灯用にT型蓄電池1,000個の製造を命じられ、昼夜兼行で期日どおり納めた。第一次世界大戦で輸入が途絶えると国内の需要は国産品へ移り、量産に向けて個人経営では賄えない資本が必要になった。
- 日本電池株式会社二十年史(1937)「チウドル式蓄電池の完成」
- [50]1915年4月に製造技術の主脳者が退所。6月蓄電池製作研究会、8月京都帝大教授中澤良夫を顧問、10月元鉄道院電気課長三根正亮を技師長に。1915年11月10日の即位大礼で御召列車点灯用T型蓄電池1,000個の製造を命じられ、昼夜兼行で期日通り完納。大戦で輸入杜絶、量産のため個人経営から会社経営へ移行
- [51]1915年4月に製造技術の主脳者が退所。6月蓄電池製作研究会、8月京都帝大教授中澤良夫を顧問、10月元鉄道院電気課長三根正亮を技師長に。1915年11月10日の即位大礼で御召列車点灯用T型蓄電池1,000個の製造を命じられ、昼夜兼行で期日通り完納。大戦で輸入杜絶、量産のため個人経営から会社経営へ移行
- [52]1915年4月に製造技術の主脳者が退所。6月蓄電池製作研究会、8月京都帝大教授中澤良夫を顧問、10月元鉄道院電気課長三根正亮を技師長に。1915年11月10日の即位大礼で御召列車点灯用T型蓄電池1,000個の製造を命じられ、昼夜兼行で期日通り完納。大戦で輸入杜絶、量産のため個人経営から会社経営へ移行
- [53]チウドル式は陽極板の鋳造と化成が難しく全量輸入だったが、1915年(大正4年)秋に鋳造方法と化成方法を完成し「日本チウドル」と呼ばれた
- [54]1915年4月に製造技術の主脳者が退所。6月蓄電池製作研究会、8月京都帝大教授中澤良夫を顧問、10月元鉄道院電気課長三根正亮を技師長に。1915年11月10日の即位大礼で御召列車点灯用T型蓄電池1,000個の製造を命じられ、昼夜兼行で期日通り完納。大戦で輸入杜絶、量産のため個人経営から会社経営へ移行
- 産業フロンティア物語「蓄電池〈日本電池〉」(1967)
- [55]第一次大戦で欧米品の輸入が途絶え、1915年11月の即位式の御召列車用T型蓄電池1,000個の注文を受けた
参考文献[37]-[55]
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第四節「蓄電池製造工場の建設」
- [37]予備電源用L型蓄電池の最初の納入先は京都新京極のミカド館。停電時も点灯し注目された。敷島倶楽部・下村大丸・帝国劇場、1912年に奈良女子高等師範学校等へ納入。資金調達が難しく、内貴清兵衛の斡旋で京都商工銀行から融資を受け、1912年(大正元年)10月に新町今出川北の日本製布工場跡を買収して蓄電池工場を建設、翌年欧米を視察
- [38]電気事業の勃興で需要が増え、学校の理化学実験用の木箱入小型から、電信・電話用、鉄道院の列車点灯用、電車の予備灯用、自家発電付設用へ用途が広がった
- [39]予備電源用L型蓄電池の最初の納入先は京都新京極のミカド館。停電時も点灯し注目された。敷島倶楽部・下村大丸・帝国劇場、1912年に奈良女子高等師範学校等へ納入。資金調達が難しく、内貴清兵衛の斡旋で京都商工銀行から融資を受け、1912年(大正元年)10月に新町今出川北の日本製布工場跡を買収して蓄電池工場を建設、翌年欧米を視察
- [40]予備電源用L型蓄電池の最初の納入先は京都新京極のミカド館。停電時も点灯し注目された。敷島倶楽部・下村大丸・帝国劇場、1912年に奈良女子高等師範学校等へ納入。資金調達が難しく、内貴清兵衛の斡旋で京都商工銀行から融資を受け、1912年(大正元年)10月に新町今出川北の日本製布工場跡を買収して蓄電池工場を建設、翌年欧米を視察
- [41]予備電源用L型蓄電池の最初の納入先は京都新京極のミカド館。停電時も点灯し注目された。敷島倶楽部・下村大丸・帝国劇場、1912年に奈良女子高等師範学校等へ納入。資金調達が難しく、内貴清兵衛の斡旋で京都商工銀行から融資を受け、1912年(大正元年)10月に新町今出川北の日本製布工場跡を買収して蓄電池工場を建設、翌年欧米を視察
- 産業フロンティア物語「蓄電池〈日本電池〉」(1967)
- [42]1912年(大正元年)10月、京都市新町通り今出川北の日本製布工場跡を買収して蓄電池専門工場を新設。1913年に源蔵は蓄電池製造事業と電気事業の視察で欧米へ
- [43]1912年(大正元年)10月、京都市新町通り今出川北の日本製布工場跡を買収して蓄電池専門工場を新設。1913年に源蔵は蓄電池製造事業と電気事業の視察で欧米へ
- [45]1898年(明治31年)3月の東海道線急行列車の電灯の電源は英国ストーン社製T型。輸入品が国産に置き換わるのは1914年の第一次大戦で輸入が途絶えてから
- [55]第一次大戦で欧米品の輸入が途絶え、1915年11月の即位式の御召列車用T型蓄電池1,000個の注文を受けた
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第五節「英國ストーン會社との合同問題」
- [44]明治末〜大正初めは蓄電池の大部分を欧米から輸入、ストーン社は列車用を盛んに供給し東洋進出を図った
- [46]英国ストーン社が三井物産を介して島津製作所蓄電池工場に合同を提言。1914年(大正3年)5月9日東京で会談、英国6・日本4を提示、島津は日本6を主張し5分5分まで話が進んだが英本社は譲らず。適用範囲を日本内地に限り朝鮮・樺太・台湾・北海道を除く条件もあり打ち切り
- [47]英国ストーン社が三井物産を介して島津製作所蓄電池工場に合同を提言。1914年(大正3年)5月9日東京で会談、英国6・日本4を提示、島津は日本6を主張し5分5分まで話が進んだが英本社は譲らず。適用範囲を日本内地に限り朝鮮・樺太・台湾・北海道を除く条件もあり打ち切り
- [48]英国ストーン社が三井物産を介して島津製作所蓄電池工場に合同を提言。1914年(大正3年)5月9日東京で会談、英国6・日本4を提示、島津は日本6を主張し5分5分まで話が進んだが英本社は譲らず。適用範囲を日本内地に限り朝鮮・樺太・台湾・北海道を除く条件もあり打ち切り
- [49]英国ストーン社が三井物産を介して島津製作所蓄電池工場に合同を提言。1914年(大正3年)5月9日東京で会談、英国6・日本4を提示、島津は日本6を主張し5分5分まで話が進んだが英本社は譲らず。適用範囲を日本内地に限り朝鮮・樺太・台湾・北海道を除く条件もあり打ち切り
- 日本電池株式会社二十年史(1937)「チウドル式蓄電池の完成」
- [50]1915年4月に製造技術の主脳者が退所。6月蓄電池製作研究会、8月京都帝大教授中澤良夫を顧問、10月元鉄道院電気課長三根正亮を技師長に。1915年11月10日の即位大礼で御召列車点灯用T型蓄電池1,000個の製造を命じられ、昼夜兼行で期日通り完納。大戦で輸入杜絶、量産のため個人経営から会社経営へ移行
- [51]1915年4月に製造技術の主脳者が退所。6月蓄電池製作研究会、8月京都帝大教授中澤良夫を顧問、10月元鉄道院電気課長三根正亮を技師長に。1915年11月10日の即位大礼で御召列車点灯用T型蓄電池1,000個の製造を命じられ、昼夜兼行で期日通り完納。大戦で輸入杜絶、量産のため個人経営から会社経営へ移行
- [52]1915年4月に製造技術の主脳者が退所。6月蓄電池製作研究会、8月京都帝大教授中澤良夫を顧問、10月元鉄道院電気課長三根正亮を技師長に。1915年11月10日の即位大礼で御召列車点灯用T型蓄電池1,000個の製造を命じられ、昼夜兼行で期日通り完納。大戦で輸入杜絶、量産のため個人経営から会社経営へ移行
- [53]チウドル式は陽極板の鋳造と化成が難しく全量輸入だったが、1915年(大正4年)秋に鋳造方法と化成方法を完成し「日本チウドル」と呼ばれた
- [54]1915年4月に製造技術の主脳者が退所。6月蓄電池製作研究会、8月京都帝大教授中澤良夫を顧問、10月元鉄道院電気課長三根正亮を技師長に。1915年11月10日の即位大礼で御召列車点灯用T型蓄電池1,000個の製造を命じられ、昼夜兼行で期日通り完納。大戦で輸入杜絶、量産のため個人経営から会社経営へ移行
出典・参考
9件
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第一節「我が國蓄電池事業の濫觴」
- 日本電池株式会社二十年史(1937)「据置用蓄電池製作の嚆矢」
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第二節「日露戰爭と島津製蓄電池」
- 日本電池株式会社二十年史(1937)「蓄電池の工業的製造を企圖せる動機」
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第三節「ジーエス蓄電池」
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第四節「蓄電池製造工場の建設」
- 日本電池株式会社二十年史(1937) 第一章第五節「英國ストーン會社との合同問題」
- 日本電池株式会社二十年史(1937)「チウドル式蓄電池の完成」
- 産業フロンティア物語「蓄電池〈日本電池〉」(1967)