芝浦メカトロニクス:東芝からの分社と資本欠損からの再建
1939年〜東芝の兵器・機械部門の分離と芝浦製作所の社名継承
1939年10月12日、東京芝浦電気が兵器と機械の生産・販売部門を継承させる形で、株式会社芝浦京町製作所が資本金500万円で設立された。同年に旧芝浦製作所と旧東京電気が合併して東京芝浦電気が発足したことを機に、かねて課題であった兵器部門の分離独立が一気に動いた。同年8月10日、横浜市鶴見区の東芝芝浦支社内に創立事務所を置いて発起人会が開かれ、発起人8名の大半は東芝の幹部が占め、百田貞次氏が発起人総代に選ばれている。資本金のうち98%にあたる9万8800株は東芝が現物出資で引き受け、残る1200株も東芝の役職員12名が100株ずつ分け持った。独立した会社の体裁をとりながら、実質は東芝の全額出資子会社であった。
- 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1939年10月12日 東京芝浦電気の事業の一部(兵器と機械の生産・販売)を継承し、株式会社芝浦京町製作所を資本金500万円で設立
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- [2]旧芝浦製作所と旧東京電気が合併して東京芝浦電気が発足したのを契機に、課題であった兵器部門の分離独立が実現へ動いた
- [3]1939年8月10日 横浜市鶴見区の東芝芝浦支社内に創立事務所を設けて発起人会を開催。発起人8名の大半は東芝幹部で、百田貞次が発起人総代に選出
- [4]出資は東芝が98%の9万8800株を現物出資で引き受け、残る1200株を東芝の役職員12名が100株ずつ引き受けた
旧芝浦製作所は明治から昭和にかけての三代、およそ半世紀にわたって強電・機械・兵器を作り続けた会社だが、合併でその名は法人としては消えていた。名を残してほしいという声は方々から上がり、東芝初代社長の山口喜三郎氏も百田会長に書を送って、日本で強電と機械工業が始まった頃から歩んできたその社名を新会社が継いではどうか、東芝としては異存がない、と伝えている。東芝から移ってきた600名は、以前から扱ってきた旧芝浦製作所工場の機械を引き続き使うのだから、元の社名のほうがしっくりきた。発足から2ヵ月後の1939年12月21日、新会社は商号を株式会社芝浦製作所に改めたが、その出発は分離独立というより東芝の一部という色の濃いものだった。
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- [5]旧芝浦製作所は明治・大正・昭和の三代にわたり約半世紀のあいだ強電・機械・兵器の生産を続けた企業で、合併により東芝となった
- [6]東芝初代社長の山口喜三郎が「新会社は株式会社芝浦製作所の社名を受け継いではどうか。東芝には異存はない」という趣旨の書を百田会長へ送った
- [7]東芝から引き継いだ600人の従業員にとっては、旧芝浦製作所の工場で使い慣れた機械をそのまま使うため、もとの社名のほうが適していた
- [9]創立の事情からみて、東芝から分離独立したというより東芝の一部という感が深いと社史は記す
- 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
- [8]1939年12月21日 商号を株式会社芝浦製作所へ変更
生産の拠点は、東芝鶴見工場の五号館と十号館を機械設備ごと借り受けて賄った。従業員600名もそのまま東芝から譲り受け、1939年12月1日に作業を開始している。鶴見工場が手がけたのは電磁チャック、卓上研磨盤、歯科機械用電動機、人絹ポットモータ、自動車用電装品、陸海軍用電動機器、航空機用電気機器で、創立当時の生産割合は軍需関係が全生産高の約7割を占めた。操業と並行して川崎市京町の東芝京町工場に隣接する約1万5000坪を取得し、川崎工場の建設に入る。工場は竣工を待たず、1940年3月5日に海軍管理工場指定の内定を受けた。建設と鶴見工場の拡充で資金繰りが逼迫し、同年6月15日には未払込株式代金250万円の払込みを完了させている。
- 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
- [10]東京芝浦電気鶴見工場の一部を借用して操業を開始
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- [11]東芝鶴見工場の五号館・十号館を機械設備とともに借り受け、従業員600名を引き継いで1939年12月1日に作業開始
- [12]鶴見工場の主な製品は電磁チャック・卓上研磨盤・歯科機械用電動機・人絹ポットモータ・自動車用電装品・小型モータ・陸海軍用電動機器・航空機用電気機器で、創立当時の生産割合は軍需関係が全生産高の約70%
- [13]川崎市京町の東芝京町工場の隣接地約1万5000坪を入手し、川崎工場の建設準備を進めた
- [14]川崎工場は建設の途中である1940年3月5日に海軍管理工場指定の内定を受けた
- [15]川崎工場の建設と鶴見工場の拡充のため、1940年6月15日に未払込株式代金250万円の払込みを完了
参考文献[1]-[15]
- 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1939年10月12日 東京芝浦電気の事業の一部(兵器と機械の生産・販売)を継承し、株式会社芝浦京町製作所を資本金500万円で設立
- [8]1939年12月21日 商号を株式会社芝浦製作所へ変更
- [10]東京芝浦電気鶴見工場の一部を借用して操業を開始
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- [2]旧芝浦製作所と旧東京電気が合併して東京芝浦電気が発足したのを契機に、課題であった兵器部門の分離独立が実現へ動いた
- [3]1939年8月10日 横浜市鶴見区の東芝芝浦支社内に創立事務所を設けて発起人会を開催。発起人8名の大半は東芝幹部で、百田貞次が発起人総代に選出
- [4]出資は東芝が98%の9万8800株を現物出資で引き受け、残る1200株を東芝の役職員12名が100株ずつ引き受けた
- [5]旧芝浦製作所は明治・大正・昭和の三代にわたり約半世紀のあいだ強電・機械・兵器の生産を続けた企業で、合併により東芝となった
- [6]東芝初代社長の山口喜三郎が「新会社は株式会社芝浦製作所の社名を受け継いではどうか。東芝には異存はない」という趣旨の書を百田会長へ送った
- [7]東芝から引き継いだ600人の従業員にとっては、旧芝浦製作所の工場で使い慣れた機械をそのまま使うため、もとの社名のほうが適していた
- [9]創立の事情からみて、東芝から分離独立したというより東芝の一部という感が深いと社史は記す
- [11]東芝鶴見工場の五号館・十号館を機械設備とともに借り受け、従業員600名を引き継いで1939年12月1日に作業開始
- [12]鶴見工場の主な製品は電磁チャック・卓上研磨盤・歯科機械用電動機・人絹ポットモータ・自動車用電装品・小型モータ・陸海軍用電動機器・航空機用電気機器で、創立当時の生産割合は軍需関係が全生産高の約70%
- [13]川崎市京町の東芝京町工場の隣接地約1万5000坪を入手し、川崎工場の建設準備を進めた
- [14]川崎工場は建設の途中である1940年3月5日に海軍管理工場指定の内定を受けた
- [15]川崎工場の建設と鶴見工場の拡充のため、1940年6月15日に未払込株式代金250万円の払込みを完了
1940年〜川崎・大船・小浜への生産拡張と西野嘉一郎の資金調達
川崎工場は1940年8月1日、工事の一部竣工と同時に生産を始めた。ここで作られたのは慣性起動電動機、エンジン直結発電機、航空機用機上無線電源、艦船用無線電源および電動機、空中聴音機など、ほとんどが軍需品であった。工場は拡張を重ね、建物42棟・延1万4616坪・設備機械764台を擁する戦時下の有力拠点へ育っている。1942年1月には大船工場が操業を開始し、鶴見・川崎・大船の三拠点が揃った。売上高は1939年3月期の0.02億円から1944年3月期の0.63億円まで膨らみ、敗戦の年にあたる1945年3月期には0.39億円へ落ちた。
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- [16]1940年8月1日 川崎工場が工事の一部竣工と同時に生産を開始
- [17]川崎工場の主な製品は慣性起動電動機・エンジン直結発電機・航空機用機上無線電源・艦船用無線電源および電動機・空中聴音機などで、ほとんどが軍需品
- [18]川崎工場は拡張工事を重ね、建物42棟・建物延1万4616坪・設備機械764台の規模となった
- [20]売上高は1939年3月期0.02億円、1944年3月期0.63億円(単体)
- [21]売上高は1945年3月期0.39億円(単体)
- 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
- [19]1942年1月 大船工場(現・横浜事業所)の操業開始
1943年9月、芝浦製作所は福井県小浜市の酒伊繊維工業小浜工場を買収し、海軍機の主発動機用慣性起動電動機を作る拠点へ転用した。軍需の拡大と工場疎開を兼ねて北陸に新工場を探していたところへ、福井県出身の西野嘉一郎経理部長が、企業整備で休止していた紡織工場が産業設備営団の手に移るという話を掴む。設備はすべて新品で、五万錘の紡織設備を整えたばかりの優良工場であり、三菱と松下も着目して三社の争奪戦となった。酒伊繊維側は営団の通帳決済を嫌い、現金1350万円を用意しなければ他へ売ると迫る。西野氏は設立間もない産業設備営団へ乗り込んで理事会で説き、営団第一号の許可を得たうえ、翌日に三井銀行の立替えで小切手を入手し、その日のうちに買収を決めた。
- 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
- [22]1943年9月 小浜工場(酒伊繊維工業小浜工場を買収)の操業開始
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- [23]軍需生産の拡大と工場疎開を兼ねて北陸方面に新工場を求めるなか、福井県出身の西野嘉一郎経理部長が、企業整備で休止中の小浜の紡織工場が産業設備営団へ移るとの情報を得た
- [24]小浜工場は機械設備が全て新品で五万錘の紡織設備を整えたばかりの優秀工場であり、三菱・松下も着目して三社競合の争奪戦となった
- [25]酒伊繊維側は産業設備営団による通帳決済を嫌い「1350万円を現金で用意しなければ他に売る」と求めた
- [26]西野経理部長は産業設備営団の理事会に出席して説き、営団第一号の許可を得たうえ、翌日に三井銀行の立替えで小切手を入手し即日買収を成立させた
会計畑から出て後に社長となる西野嘉一郎氏が、この買収を主導した。三井物産から1926年に独立した直後の三機工業に入り、23歳で業績の振るわない東京建鉄へ会計監査として送り込まれたが、1929年の金解禁で再建は行き詰まり、三機工業が貸付金を回収したため同社は倒産した。日本へ損益分岐点の考え方を初めて持ち込んだのは、浪人の間に経営分析に打ち込んで書いた財務分析の本である。旧芝浦製作所に入ったのは昭和の初めで、同社では1000人規模の人員整理が済んだ直後だった。倒産と財務の研究から西野氏が得た教訓は、安全と成長の均衡であり、拡大一辺倒では会社が潰れ、慎重にすぎれば新たな成長はないという判断の型であった。数字を読む人物が資金の工面を担ったことが、この会社の戦時の拡張と戦後の再建を分けた。
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- [27]小浜工場買収を担った西野嘉一郎は当時の経理部長で、1969年の社史刊行時点の社長
- 日経ビジネス 1992年11月23日号「有訓無訓」
- [28]西野嘉一郎は1926年に三井物産から分離したばかりの三機工業へ入社し、23歳で経営不振の東京建鉄へ会計監査として出向した
- [29]1929年の金解禁で不況が本格化して三機工業が貸付金を引き揚げ、東京建鉄は倒産した
- [30]浪人生活のあいだに経営分析を学んで財務分析に関する本を著し、損益分岐点の考え方を初めて日本に紹介した
- [32]倒産の体験と財務の研究から得たのは「安全と成長のバランス」の重要さで、拡大一辺倒では会社をつぶし、慎重すぎては新たな成長はないと述べた
- 日経ビジネス 1995年2月6日号「有訓無訓」
- [31]昭和の初めに旧芝浦製作所(現・東芝)へ入社した時は、1000人前後の大規模な人員整理をした後だった
参考文献[16]-[32]
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- [16]1940年8月1日 川崎工場が工事の一部竣工と同時に生産を開始
- [17]川崎工場の主な製品は慣性起動電動機・エンジン直結発電機・航空機用機上無線電源・艦船用無線電源および電動機・空中聴音機などで、ほとんどが軍需品
- [18]川崎工場は拡張工事を重ね、建物42棟・建物延1万4616坪・設備機械764台の規模となった
- [20]売上高は1939年3月期0.02億円、1944年3月期0.63億円(単体)
- [21]売上高は1945年3月期0.39億円(単体)
- [23]軍需生産の拡大と工場疎開を兼ねて北陸方面に新工場を求めるなか、福井県出身の西野嘉一郎経理部長が、企業整備で休止中の小浜の紡織工場が産業設備営団へ移るとの情報を得た
- [24]小浜工場は機械設備が全て新品で五万錘の紡織設備を整えたばかりの優秀工場であり、三菱・松下も着目して三社競合の争奪戦となった
- [25]酒伊繊維側は産業設備営団による通帳決済を嫌い「1350万円を現金で用意しなければ他に売る」と求めた
- [26]西野経理部長は産業設備営団の理事会に出席して説き、営団第一号の許可を得たうえ、翌日に三井銀行の立替えで小切手を入手し即日買収を成立させた
- [27]小浜工場買収を担った西野嘉一郎は当時の経理部長で、1969年の社史刊行時点の社長
- 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
- [19]1942年1月 大船工場(現・横浜事業所)の操業開始
- [22]1943年9月 小浜工場(酒伊繊維工業小浜工場を買収)の操業開始
- 日経ビジネス 1992年11月23日号「有訓無訓」
- [28]西野嘉一郎は1926年に三井物産から分離したばかりの三機工業へ入社し、23歳で経営不振の東京建鉄へ会計監査として出向した
- [29]1929年の金解禁で不況が本格化して三機工業が貸付金を引き揚げ、東京建鉄は倒産した
- [30]浪人生活のあいだに経営分析を学んで財務分析に関する本を著し、損益分岐点の考え方を初めて日本に紹介した
- [32]倒産の体験と財務の研究から得たのは「安全と成長のバランス」の重要さで、拡大一辺倒では会社をつぶし、慎重すぎては新たな成長はないと述べた
- 日経ビジネス 1995年2月6日号「有訓無訓」
- [31]昭和の初めに旧芝浦製作所(現・東芝)へ入社した時は、1000人前後の大規模な人員整理をした後だった
1948年〜自己資本の欠損と工場売却、家電用モータへの転換
1948年、芝浦製作所は破産寸前にあり、大規模な人員整理なしには会社が保たない状態へ追い込まれていた。ところが労働協約は期限が自動延長される無期限のもので、組合との協議が成立しなければ整理はできない。会社は協約の期限を6ヵ月後とすること、労働時間中に組合活動をしないことの二項目を提議し、組合は無期限ストで応じた。会社は工場閉鎖で組合員の立入りを禁じ、対立は約2ヵ月に及ぶ。組合は神奈川県の労働委員会へ調停を求める一方、軍需会社が退蔵物資を隠して闇に流していると連合国軍総司令部へ投書すると団体交渉で持ち出したが、西野専務はこれを蹴った。貯蔵していた銀や錫を製品へ変えることが、当時の従業員の生活の糧になっていたからである。
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- [33]1948年(昭和23年)は業績が上がらず破産寸前で、従業員の大整理なしには会社が立ち行かない事態にあった
- [34]当時の労働協約は期限が自動延長される無期限のもので、組合との協議が成立しなければ人員整理はできなかった
- [35]会社は「協約の期限を6ヵ月後とする」「労働時間中に組合活動をしてはならない」の二項目を組合へ提議し、組合は無期限ストに突入した
- [36]会社は工場閉鎖で組合員の工場立入りを禁じ、対立は約2ヵ月続いた
- [37]組合は神奈川県の労働委員会へ調停を依頼する一方、団体交渉で「会社は軍需会社で退蔵物資を隠し闇売りしている」とGHQへ投書すると持ち出したが、西野専務は拒んだ
- [38]会社には銀や錫の貯蔵物資があり、これを製品化することが従業員の生活の糧になっていた
人員整理には退職金の原資が要り、会社は工場と用地を次々に売って現金を作った。1948年12月に川崎工場の四棟と土地1万坪を1500万円で、1949年3月に同工場4号館と土地6090坪を810万円で売却する。1950年4月には小浜工場の土地約1万坪と建物2114坪などを510万円で小浜市へ、1951年3月には大船工場2108坪と川崎工場の建物1019坪を神奈川県へ、同年12月には大船工場の土地7300坪と建物408坪を東洋高圧へ手放した。買い手が少ない時期で値は安く、断行した経営者の心痛がしのばれると社史は書いている。自己資本は1948年度から3年続けてマイナスで、1951年度にようやく8060万円のプラスへ戻り、一本立ちと呼べる状態になった。
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- [39]川崎・大森・小浜・大船の各工場と用地を相次いで売却して退職金と運転資金を捻出した
- [40]1948年12月に川崎工場の1号館・2号館・31号館・32号館と土地1万坪を計1500万円で、1949年3月に川崎工場4号館と土地6090坪を計810万円で売却
- [41]1950年4月に小浜工場の土地約1万坪・建物2114坪ほかを510万円で小浜市へ、1951年3月に大船工場2108坪と川崎工場の建物1019坪を神奈川県へ、同年12月に大船工場の土地7300坪・建物408坪を東洋高圧へ売却
- [42]当時は買い手も少なく安値での売却となったが、断行せざるを得なかった経営者の心痛がしのばれると社史は記す
- [43]自己資本は1948〜1950年度(昭和23〜25年度)の3年間がマイナスで、1951年度(昭和26年度)に8060万円のプラスへ転じ一本立ちとなった
戦時に取得した小浜工場は、戦後は北陸で唯一の大規模な小型電動機工場に育った。東芝の石坂泰三会長から『洗濯機用モータと家庭用電動井戸ポンプをつくらせよ』との指示を受けて家電向けの生産に踏み出すと、1952年ごろに月2000台から3000台にすぎなかった量は年を追って伸び、1969年度にはクーラー用も加えて月産30万台へ達している。戦時に手がけた人絹ポットモータも好評を得て国内の人絹工場で全面的に採用され、海外市場へも出た。売上高は1953年3月期の8.04億円から1968年3月期には105.20億円へ伸びる。1969年10月、芝浦製作所は東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。軍需に代わる注文主を東芝の家電部門に得たことで、この会社は上場に足る量産の基盤を手にした。
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- [44]小浜工場は戦後、北陸地方唯一の大規模な小型電動機工場に育った
- [45]東芝の石坂会長の指示で洗濯機用モータと家庭用電動井戸ポンプの生産を始め、1952年ごろ月2000〜3000台だった生産は1969年度に月産30万台(クーラー用モータを含む)へ拡大
- [46]戦後の民需転換で生産した人絹ポットモータが好評を得て国内の人絹工場で全面的に採用され、海外市場へも進出した
- [47]売上高は1953年3月期8.04億円、1968年3月期105.20億円(単体)
- 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
- [48]1969年10月 東京証券取引所市場第二部に株式を上場
参考文献[33]-[48]
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- [33]1948年(昭和23年)は業績が上がらず破産寸前で、従業員の大整理なしには会社が立ち行かない事態にあった
- [34]当時の労働協約は期限が自動延長される無期限のもので、組合との協議が成立しなければ人員整理はできなかった
- [35]会社は「協約の期限を6ヵ月後とする」「労働時間中に組合活動をしてはならない」の二項目を組合へ提議し、組合は無期限ストに突入した
- [36]会社は工場閉鎖で組合員の工場立入りを禁じ、対立は約2ヵ月続いた
- [37]組合は神奈川県の労働委員会へ調停を依頼する一方、団体交渉で「会社は軍需会社で退蔵物資を隠し闇売りしている」とGHQへ投書すると持ち出したが、西野専務は拒んだ
- [38]会社には銀や錫の貯蔵物資があり、これを製品化することが従業員の生活の糧になっていた
- [39]川崎・大森・小浜・大船の各工場と用地を相次いで売却して退職金と運転資金を捻出した
- [40]1948年12月に川崎工場の1号館・2号館・31号館・32号館と土地1万坪を計1500万円で、1949年3月に川崎工場4号館と土地6090坪を計810万円で売却
- [41]1950年4月に小浜工場の土地約1万坪・建物2114坪ほかを510万円で小浜市へ、1951年3月に大船工場2108坪と川崎工場の建物1019坪を神奈川県へ、同年12月に大船工場の土地7300坪・建物408坪を東洋高圧へ売却
- [42]当時は買い手も少なく安値での売却となったが、断行せざるを得なかった経営者の心痛がしのばれると社史は記す
- [43]自己資本は1948〜1950年度(昭和23〜25年度)の3年間がマイナスで、1951年度(昭和26年度)に8060万円のプラスへ転じ一本立ちとなった
- [44]小浜工場は戦後、北陸地方唯一の大規模な小型電動機工場に育った
- [45]東芝の石坂会長の指示で洗濯機用モータと家庭用電動井戸ポンプの生産を始め、1952年ごろ月2000〜3000台だった生産は1969年度に月産30万台(クーラー用モータを含む)へ拡大
- [46]戦後の民需転換で生産した人絹ポットモータが好評を得て国内の人絹工場で全面的に採用され、海外市場へも進出した
- [47]売上高は1953年3月期8.04億円、1968年3月期105.20億円(単体)
- 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
- [48]1969年10月 東京証券取引所市場第二部に株式を上場
1939年〜1969年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | 2 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | 2 | ▲17.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | 3 | +65.8% | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 4 | +22.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 8 | +74.4% | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 9 | +16.4% | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 9 | +1.4% | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 13 | +45.5% | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 18 | +36.4% | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 19 | +5.6% | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 29 | +48.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 37 | +28.3% | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 50 | +33.1% | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 49 | ▲1.6% | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 47 | ▲4.8% | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 50 | +7.4% | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 55 | +8.8% | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 62 | +13.1% | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 81 | +30.8% | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 105 | +28.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:芝浦製作所三十年のあゆみ
出典・参考
4件
- 芝浦メカトロニクス 有価証券報告書【沿革】
- 芝浦製作所 三十年のあゆみ(ダイヤモンド社・1969年)
- 日経ビジネス 1992年11月23日号「有訓無訓」
- 日経ビジネス 1995年2月6日号「有訓無訓」