第2章 年〜年

住友電工:電線依存からの多角化と横浜製作所の開設

1950年〜技術提携の復活と、合成樹脂絶縁による製品更新

戦争によって欧米との技術交流は断たれ、住友電気工業の技術水準の立ち遅れは著しかった。1948年に電線の生産が戦前の水準へ戻ったあとに残った課題は、量ではなく質である。1950年9月、戦前から関係のあった米インターナショナル・スタンダード・エレクトリック社との技術提携契約を復活させ、1952年にはウェスタン・エレクトリック社との提携も戻した。1953年にはインターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社とアメリカン・エレクトロ・メタル社、1954年にはイタリアのピレリ社と、新たに技術提携を結んでいる。並行して多数の技術者を海外へ派遣した。戦前に築いた提携網をまず復元し、足りない分野だけを新規に足すという順序だった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]戦争による技術水準の低滞・立ち遅れは著しく、欧米先進技術の導入と独自開発の両面で取り戻しを図った
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「住友電気工業」(1955)
    • [2]1948年 電線の生産が戦前の水準を回復
    • [4]1952年 ウェスタン・エレクトリック社との提携を復活
    • [5]1953年 インターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社およびアメリカン・エレクトロ・メタル・コーポレーション、1954年 イタリアのピレリ社と新たに技術提携
    • [6]多数の技術者を海外へ派遣して技術の回復に努めた
  • 株式会社年鑑 1960年版「住友電氣工業」
    • [3]1950年9月 米インターナショナル・スタンダード・エレクトリック社との技術提携契約が復活

1950年には独創的なホルマール電線を完成させ、1952年には27万5,000ボルト超高圧送電用の鋼心アルミ撚線、1954年には発泡ポリエチレンケーブル、1955年にはポリエチレン同軸ケーブルを相次いで完成した。並行して被覆線・電力ケーブル・通信ケーブル・粉末合金の各工場で機械設備の高能率化と近代化を進めている。ホルマール電線もポリエチレンケーブルも、戦前の紙と油とゴムに代わる合成樹脂を絶縁体に用いた製品だった。製品の水準は輸入代替にとどまらず、インドと英国の各社に対して裸電線・OF式蓄電器・ホルマール電線の製造技術を指導するまでになった。1960年代に入ると技術輸出は定着し、インドの2社へ超硬工具と電力ケーブルを、台湾の太平洋電線へ電線ケーブルを、プラント輸出を含む形で供与している。絶縁材料の世代交代を先に済ませたことが、技術を買う側から売る側へ回る足場になった。

  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「住友電気工業」(1955)
    • [7]1950年 ホルマール電線、1952年 27万5,000V超高圧送電用鋼心アルミ撚線、1954年 発泡ポリエチレンケーブル、1955年 ポリエチレン同軸ケーブルを完成
    • [8]被覆線・電力ケーブル・通信ケーブル・粉末合金の各工場で機械設備の高能率化と近代化を実施
    • [9]ホルマール電線・発泡ポリエチレンケーブル・ポリエチレン同軸ケーブルは、いずれも合成樹脂系の絶縁材料を用いた製品(戦前の主力は紙・油・ゴムを絶縁体とするケーブル)
    • [10]インド・英国の諸会社に対し、裸電線・OF式蓄電器・ホルマール電線の製造技術指導を実施
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「住友電工」
    • [11]技術輸出先はインドの2社(超硬工具/電力ケーブル、いずれもプラント輸出を含む)と台湾の太平洋電線(電線ケーブル)

1949年6月に数度の増資で資本金6,000万円となったのち、1951年8月に8億円、1952年12月に20億円、1957年1月に30億円へと引き上げ、1960年3月時点の資本金は45億円に達した。1951年8月の増資ではインターナショナル・スタンダード・エレクトリック社との資本提携も復活し、同社の持株比率は17%強となっている。売上高は1955年3月期の56億7,000万円から、1958年3月期に88億1,098万9,000円、1960年3月期には162億484万9,000円へ伸びた。主要な取引先は日本電信電話公社・日本国有鉄道と各電力会社であり、送電網と通信網の拡張がそのまま売上を押し上げる構造にあった。

  • 株式会社年鑑 1960年版「住友電氣工業」
    • [12]資本異動は1949年6月に数度の増資で6,000万円、1951年8月に8億円、1952年12月に20億円、1957年1月に30億円、1960年3月時点の資本金は45億円
    • [13]1951年8月の増資でISE社との資本提携が復活し、同社の持株比率は17%強となった
    • [16]主要な取引先は日本電信電話公社・日本国有鉄道・各電力会社
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「住友電気工業」(1955)
    • [14]1955年3月期の売上高は56億7,000万円
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「住友電工」
    • [15]売上高は1958年3月期 8,810,989千円、1960年3月期 16,204,849千円
参考文献[1]-[16]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]戦争による技術水準の低滞・立ち遅れは著しく、欧米先進技術の導入と独自開発の両面で取り戻しを図った
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「住友電気工業」(1955)
    • [2]1948年 電線の生産が戦前の水準を回復
    • [4]1952年 ウェスタン・エレクトリック社との提携を復活
    • [5]1953年 インターナショナル・ゼネラル・エレクトリック社およびアメリカン・エレクトロ・メタル・コーポレーション、1954年 イタリアのピレリ社と新たに技術提携
    • [6]多数の技術者を海外へ派遣して技術の回復に努めた
    • [7]1950年 ホルマール電線、1952年 27万5,000V超高圧送電用鋼心アルミ撚線、1954年 発泡ポリエチレンケーブル、1955年 ポリエチレン同軸ケーブルを完成
    • [8]被覆線・電力ケーブル・通信ケーブル・粉末合金の各工場で機械設備の高能率化と近代化を実施
    • [9]ホルマール電線・発泡ポリエチレンケーブル・ポリエチレン同軸ケーブルは、いずれも合成樹脂系の絶縁材料を用いた製品(戦前の主力は紙・油・ゴムを絶縁体とするケーブル)
    • [10]インド・英国の諸会社に対し、裸電線・OF式蓄電器・ホルマール電線の製造技術指導を実施
    • [14]1955年3月期の売上高は56億7,000万円
  • 株式会社年鑑 1960年版「住友電氣工業」
    • [3]1950年9月 米インターナショナル・スタンダード・エレクトリック社との技術提携契約が復活
    • [12]資本異動は1949年6月に数度の増資で6,000万円、1951年8月に8億円、1952年12月に20億円、1957年1月に30億円、1960年3月時点の資本金は45億円
    • [13]1951年8月の増資でISE社との資本提携が復活し、同社の持株比率は17%強となった
    • [16]主要な取引先は日本電信電話公社・日本国有鉄道・各電力会社
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「住友電工」
    • [11]技術輸出先はインドの2社(超硬工具/電力ケーブル、いずれもプラント輸出を含む)と台湾の太平洋電線(電線ケーブル)
    • [15]売上高は1958年3月期 8,810,989千円、1960年3月期 16,204,849千円

1956年〜北川一栄が決めた非電線部門の拡大と、横浜製作所・熊取研究所への投資

非電線部門は規模が小さく、電線のほかに手がけていたのは超硬工具イゲタロイを軸とする粉末合金とピアノ線くらいだった。戦後の1940年代後半から1950年代半ばにかけて、全売上高に占める電線の割合は75%前後で動いていた。1956年に社長に就いた北川一栄氏は、電線の需要は電力需要と歩調を合わせる程度にしか増えないと判断し、電線だけで伸び続けるには限りがあるとみた。北川氏が打ち出したのは、電線の絶対額は保ったまま他部門を伸ばし、両者の比率をいずれ50対50にもっていくという方針であり、何かを削らずに足すだけの形は、既存事業を担う人々の反発を招きにくい組み立てだった。

  • 私の住友昭和史(1988)
    • [17]電線以外で手がけていたのはイゲタロイを中心とする粉末合金とピアノ線程度で、パワー不足は否めなかった
    • [18]戦後の昭和20年代から30年代初めごろまで、全売上高に占める電線の比率は75%前後だった
    • [19]北川社長が多角化を決意したのは、電線の需要が電力需要の伸びと同じくらいしか伸びず、このままでは将来の発展性がないとの危機感からだった
    • [21]電線の絶対額を減らすことなく他部門を拡大する方針を採り、電線部門と非電線部門の比率を50対50にする目標を立てた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「住友電工」
    • [20]北川一栄は1956年(昭和31年)に社長へ就任し、1966年(昭和41年)まで務めた

1961年5月、横浜市に新鋭工場の横浜製作所を開設し、1962年には品質管理の最高の栄誉とされたデミング賞を受賞、1963年には大阪府泉南郡に熊取研究所を開設した。1962年12月には資本金を90億円から135億円へ増資している。1963年度の設備投資予定額は55億円で、内訳は横浜製作所第2期工事に19億円、超硬工具その他粉末冶金製品の製造設備の合理化と増強に12億5,000万円、研究設備の全般的整備と新研究所の建設に11億円だった。投資額の4割強が粉末合金と研究設備へ向かっており、多角化は予算配分の水準で実行されていた。

  • 住友電気工業 有価証券報告書 第155期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1961年5月 横浜製作所を開設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [23]1962年 品質管理の最高の栄誉であるデミング賞を受賞
    • [24]1963年 大阪府泉南郡に熊取研究所を開設
    • [25]1962年12月 資本金を90億円から135億円へ増資
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「住友電工」
    • [26]1963年度の設備投資予定額は55億円。横浜製作所第2期工事19億円、超硬工具その他粉末冶金製品の製造設備の合理化・増強12億5,000万円、研究設備の全般的整備および新研究所の建設11億円

1962年3月期の売上高235億5,091万8,000円に対して営業利益は14億1,593万8,000円だったが、1963年3月期は売上高211億9,364万5,000円・営業利益3億9,120万4,000円へ落ち込んだ。営業利益は1年で4分の1近くまで縮んでいる。1963年3月末の従業員数は7,021名、平均年齢30.4歳・平均勤続9.9年だった。一方で兼業部門の伸びは電線ケーブル部門を上回り、1963年3月期の売上は電線とケーブルが141億7,209万2,000円、特殊金属線や粉末合金製品を含むその他製品が70億2,155万3,000円で、およそ7対3の構成となった。1968年には従業員約9,500名・年間売上高約1,000億円に達し、国内最大の電線ケーブルメーカーの位置を保っている。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「住友電工」
    • [27]1962年3月期(79期)売上高23,550,918千円・営業利益1,415,938千円、1963年3月期(81期)売上高21,193,645千円・営業利益391,204千円
    • [28]営業利益は1962年3月期の1,415,938千円から1963年3月期の391,204千円へ減少
    • [29]1963年3月末の従業員数7,021名、平均年齢30.4歳、平均勤続9.9年
    • [30]特殊金属線・粉末合金製品などの兼業部門が、電線ケーブル部門を上回る成長を示していた
    • [31]1963年3月期の販売実績は電線10,096,442千円・ケーブル4,075,650千円、その他製品7,021,553千円(電線ケーブル部門と兼業部門の比率はほぼ7対3)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [32]1968年時点で資本金135億円、従業員数約9,500名、年間売上高約1,000億円で、わが国最大の電線ケーブルメーカー
参考文献[17]-[32]
  • 私の住友昭和史(1988)
    • [17]電線以外で手がけていたのはイゲタロイを中心とする粉末合金とピアノ線程度で、パワー不足は否めなかった
    • [18]戦後の昭和20年代から30年代初めごろまで、全売上高に占める電線の比率は75%前後だった
    • [19]北川社長が多角化を決意したのは、電線の需要が電力需要の伸びと同じくらいしか伸びず、このままでは将来の発展性がないとの危機感からだった
    • [21]電線の絶対額を減らすことなく他部門を拡大する方針を採り、電線部門と非電線部門の比率を50対50にする目標を立てた
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「住友電工」
    • [20]北川一栄は1956年(昭和31年)に社長へ就任し、1966年(昭和41年)まで務めた
    • [26]1963年度の設備投資予定額は55億円。横浜製作所第2期工事19億円、超硬工具その他粉末冶金製品の製造設備の合理化・増強12億5,000万円、研究設備の全般的整備および新研究所の建設11億円
    • [27]1962年3月期(79期)売上高23,550,918千円・営業利益1,415,938千円、1963年3月期(81期)売上高21,193,645千円・営業利益391,204千円
    • [28]営業利益は1962年3月期の1,415,938千円から1963年3月期の391,204千円へ減少
    • [29]1963年3月末の従業員数7,021名、平均年齢30.4歳、平均勤続9.9年
    • [30]特殊金属線・粉末合金製品などの兼業部門が、電線ケーブル部門を上回る成長を示していた
    • [31]1963年3月期の販売実績は電線10,096,442千円・ケーブル4,075,650千円、その他製品7,021,553千円(電線ケーブル部門と兼業部門の比率はほぼ7対3)
  • 住友電気工業 有価証券報告書 第155期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]1961年5月 横浜製作所を開設
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [23]1962年 品質管理の最高の栄誉であるデミング賞を受賞
    • [24]1963年 大阪府泉南郡に熊取研究所を開設
    • [25]1962年12月 資本金を90億円から135億円へ増資
    • [32]1968年時点で資本金135億円、従業員数約9,500名、年間売上高約1,000億円で、わが国最大の電線ケーブルメーカー

1964年〜ミリ波通信からの撤退と、光ファイバ・化合物半導体への資源集中

未来の通信方式として住友電気工業が1950年代半ばから取り組んでいたのは、光ではなくミリ波だった。ミリ波通信用の導波管は、絶縁した銅線をガラスのテープで巻き、それを鉄管に通す構造をとっていた。1キロメートル当たりの減衰率を2デシベルまで下げられれば実用化できるとされ、1960年代前半にはその目標にあと一歩まで迫った。だが詰めの段階で困難がいくつも重なった。なかでも鉄管は硬くて曲がらず、この欠点のために本格的な商用化は行き詰まった。曲げやすさではガラス繊維が勝り、こちらの課題は、レーザー光線が通るほど透明なガラスをつくれるかどうかに絞られていった。年単位の探索を要するこうした研究を引き受けたのが、1963年に開設された熊取研究所である。減衰率という性能の軸では実用圏に入りながら、敷設のしやすさという別の軸で退けられた技術だった。

  • 私の住友昭和史(1988)
    • [33]1950年代初めから、未来通信のもう一つの花形であったミリ波通信に取り組んでいた
    • [34]ミリ波通信用導波管の開発では1キロメートル当たり減衰率2デシベルの達成が実用化の条件とされ、昭和30年代後半にもう一歩のところまで開発が進んだ
    • [35]開発は最後の段階になっていろいろ困難な問題に直面した
    • [36]ミリ波通信用導波管は絶縁した銅線をガラステープで被覆して鉄管に挿入する構造で、鉄管が固すぎて曲げられない欠点があり、本格的商用化は行き詰まった
    • [37]グラスファイバーは曲げやすく、焦点はレーザー光線を通す透明度の高いガラスファイバーの開発に絞られた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [38]1963年 大阪府泉南郡に熊取研究所を開設

北川氏の路線は、鍋島綱利氏と阪本勇氏の社長時代に品目の形をとった。1962年に電子線照射イラックスチューブ、1964年に電子線照射電線の製造を始め、1968年には兄弟会社の日本電気が手がけるコンピュータを利用した交通管制システムを事業化し、1969年にフレキシブルプリント回路、1970年に化合物半導体の製造へ進んだ。ガリウム砒素やインジウム燐といった化合物半導体は、光を電気に、電気を光に変える光電変換の装置に欠かせない素材である。電線の製造工程と材料技術の延長線上に品目を足しながら、その先端が光通信の部品へ届いていた。

  • 私の住友昭和史(1988)
    • [39]北川社長の多角化路線は、後任の鍋島綱利・阪本勇の両社長時代、さらに亀井正夫の時代まで一貫して推進された
    • [43]光通信では光を電気に、電気を光に変える光電変換の装置にガリウム砒素やインジウム燐などの化合物半導体が不可欠
  • 住友電気工業 有価証券報告書 第155期(2025年3月期)【沿革】
    • [40]1962年 電子線照射イラックスチューブの製造開始、1964年 電子線照射電線の製造開始
    • [41]1968年 交通管制システムを事業化(コンピュータ本体は兄弟会社の日本電気が手がけ、それを利用したシステムとして展開)
    • [42]1969年 FPC(フレキシブルプリント回路)の製造開始、1970年 化合物半導体の製造開始

当時は列島改造ブームで景気が熱を帯び、電線はつくった分だけ売れていた。金のかかる光ファイバに開発費を注ぐことについても、慎重論は皆無だった。研究に具体化の見通しがついたのは1973年春のことで、住友電気工業の常務会は同じ春、試験設備の建設を認めた。開発を後押ししたのは、日本電信電話公社が光通信に強い関心を寄せていたことと、銅には限りがあり、産出国が力を増せば消費国は不利な立場に追い込まれるという読みだった。これに対し、ガラスの原料である石英は地球上にいくらでもあるといってよい。その1973年の秋にオイルショックが起き、日本経済は深い不況に落ち込む。光ファイバ・ケーブルの製造開始は翌1974年である。

  • 私の住友昭和史(1988)
    • [44]当時は田中内閣による列島改造ブームで景気は過熱気味、電線は作れば売れる時代であったため、光ファイバへの開発資金投入に常務会で慎重論はまったくなかった
    • [45]1973年春、具体化のめどが立ったことで常務会がゴーサインを出し、試験設備を建設することになった
    • [46]開発続行を決めた理由は、当時の電電公社が非常な関心をもっていたことと、銅が有限な資源であり産出国のパワーが強まれば消費国は弱い立場に立たされるとの観測
    • [47]ガラスの原料となる石英は地球上にほぼ無尽蔵に存在する
    • [48]1973年秋にオイルショックが起こり、日本経済は深刻な不況に突入した
  • 住友電気工業 有価証券報告書 第155期(2025年3月期)【沿革】
    • [49]1974年 光ファイバ・ケーブルの製造開始
参考文献[33]-[49]
  • 私の住友昭和史(1988)
    • [33]1950年代初めから、未来通信のもう一つの花形であったミリ波通信に取り組んでいた
    • [34]ミリ波通信用導波管の開発では1キロメートル当たり減衰率2デシベルの達成が実用化の条件とされ、昭和30年代後半にもう一歩のところまで開発が進んだ
    • [35]開発は最後の段階になっていろいろ困難な問題に直面した
    • [36]ミリ波通信用導波管は絶縁した銅線をガラステープで被覆して鉄管に挿入する構造で、鉄管が固すぎて曲げられない欠点があり、本格的商用化は行き詰まった
    • [37]グラスファイバーは曲げやすく、焦点はレーザー光線を通す透明度の高いガラスファイバーの開発に絞られた
    • [39]北川社長の多角化路線は、後任の鍋島綱利・阪本勇の両社長時代、さらに亀井正夫の時代まで一貫して推進された
    • [43]光通信では光を電気に、電気を光に変える光電変換の装置にガリウム砒素やインジウム燐などの化合物半導体が不可欠
    • [44]当時は田中内閣による列島改造ブームで景気は過熱気味、電線は作れば売れる時代であったため、光ファイバへの開発資金投入に常務会で慎重論はまったくなかった
    • [45]1973年春、具体化のめどが立ったことで常務会がゴーサインを出し、試験設備を建設することになった
    • [46]開発続行を決めた理由は、当時の電電公社が非常な関心をもっていたことと、銅が有限な資源であり産出国のパワーが強まれば消費国は弱い立場に立たされるとの観測
    • [47]ガラスの原料となる石英は地球上にほぼ無尽蔵に存在する
    • [48]1973年秋にオイルショックが起こり、日本経済は深刻な不況に突入した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [38]1963年 大阪府泉南郡に熊取研究所を開設
  • 住友電気工業 有価証券報告書 第155期(2025年3月期)【沿革】
    • [40]1962年 電子線照射イラックスチューブの製造開始、1964年 電子線照射電線の製造開始
    • [41]1968年 交通管制システムを事業化(コンピュータ本体は兄弟会社の日本電気が手がけ、それを利用したシステムとして展開)
    • [42]1969年 FPC(フレキシブルプリント回路)の製造開始、1970年 化合物半導体の製造開始
    • [49]1974年 光ファイバ・ケーブルの製造開始

筆者考察

北川一栄氏が1956年に立てた多角化の方針は、新しい市場を探す話ではなかった。電線の需要は電力需要の伸びまでしか伸びない ── その見切りが先にあり、電線を作る過程で身についた技術を別の製品へ配り直すことが方針の中身だった。伸線用ダイスから生まれた超硬工具、絶縁材料から生まれたゴムとプラスチック、そして電子線照射電線・フレキシブルプリント回路・化合物半導体。どれも電線の工程か材料の延長にある。電線比率75%を50対50へ引き下げるという目標は、電線を減らす目標ではなく、電線の外側にどれだけ積めるかを測る物差しだった。1963年3月期に電線ケーブルと兼業部門の比率が7対3まで動いたのは、その物差しが働いた結果である。

1973年春に光ファイバの試験設備を建てると決めたとき、住友電気工業は電線が作れば売れる好況の只中にいた。常務会に慎重論が出なかったのはそのためだが、この決定を難しくしたのは決めた瞬間ではなく、半年後にオイルショックが来たことだった。銅は有限な資源で、産出国が結束すれば買い手は弱い立場に立たされる。一方でガラスの原料となる石英は地球上にほぼ無尽蔵にある。銅の電線で生きてきた会社が、銅を要らなくする技術へ資源を集中する ── その判断を支えたのは、1950年代半ばから続けたミリ波通信の行き詰まりだった。減衰率という性能では実用圏に届いていたのに、鉄管が曲がらないという施工の壁で商用化できなかった経験が、技術がどの軸で死ぬかを教えていた。

売上高の推移 1958年3月期から1963年3月期まで(単体)(百万円)

8,811 58年3月期 10,451 59年3月期 16,205 60年3月期 23,551 62年3月期 21,194 63年3月期

1950年〜1973年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a タイに海外製造会社を設立(1969)
1970年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年03月期 単体 1,670 n/a 54 39 2.3% n/a
1972年03月期 単体 1,529 ▲8.4% 41 27 1.8% n/a
1973年03月期 単体 1,739 +13.7% 82 51 2.9% n/a

出所:会社年鑑 1976年版

出典・参考

6件
出典・参考
  • 住友電気工業 有価証券報告書 第155期(2025年3月期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史「住友電気工業」(1955)
  • 株式会社年鑑 1960年版「住友電氣工業」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「住友電工」
  • 私の住友昭和史(1988)

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